退院前訪問で、ある患者さんが言いました。
「あんたたちは、いつも退院したら、こうしたほうがいいですよとか、布団から立てそうですか?なんて聞くけど、俺はそれがイライラするんだよ。そんなの、出来るかどうか、不便かどうか、帰ってみなきゃわからないだろ?最初から人のレールに乗りたくないんだよ!。」
なるほど、本当にそうですよね。
看護師にしても、ケアマネにしても、MSWにしても、経験的に「ベットにマットとに、食事のヘルパーに・・」とかってに思いめぐらせて、自然とそういう方向になるよう話を持っていこうとします。
「布団から、立ち上がるの大変ですよね?病院と同じように、介護ベットがあったほうが楽じゃないですか?」
「楽か楽じゃないかは、家でやってみなくちゃわかんなよ。」
私たちが、プロとして知っている情報や、予測できるからこそお勧めするサービス。
その情報や知識を、いつも受け入れてもらっています。
「どうすればいいかわからないから、教えてください。」と言われることの方が、各段多いのです。
事前の環境整備で、病院からもベットはあったほうがいいでしょう。と連絡を頂いたりします。
でも、彼にはそれがどうにも腹立たしい様子です。
「医者と看護師が、病気を見に来たり薬を持ってきてくれるのは、ありがたいと思いけど、それ以上いろんな人がさ、入れ代わり立ち代わり来て、時間で何とかなんて、そんな縛られるの嫌なんだよ。それくらいなら、病院にいたっておんなじだよ。」
サービスがなければ、一人での暮らしは困難を極めるだろうと、そう思っているのは病院側と受け入れ側だけです。
そんな話をずっと聞いていました。
「おれは、おれが納得したことしかしない。それが必要だと思ったら、俺が納得いくような話をしてくれよ。」
OKです。もちろんそうします。
それが苦しいことでも、辛いことでも、一度やってみなければ納得されないのであれば、私たちは待ってみます。
10メートルがやっとの歩行しかできなくても、1時間かけて50メートル先のコンビニに、自分の食糧を買いに行くことが希望なら、それは黙って見守るしかないと思います。
それが、自律の援助です、
そのかわり、途中で動けなくなったら、かならず連絡を貰えるようなお願いはしなければいけませんね。
「医者も看護師も、病気のことはずっと濁されてきたんだよ。でも、今度の先生がはっきり言ってくれた。もうこれから先は治療がないんだって。いづれ動けなくなるって。ありがたかったな。うれしかった。本当のことがわかって。だから、俺は家に帰るんだ。だから、もう縛られないんだよ。それで、あとは家で死ぬ。」
ときどき、こんな風に一人で死ぬことを決断される方がいます。
独居で、身寄りもほとんどなくて、「夜には誰もいなくていいから、家で一人で死ぬんだ。」
という方で、実際本当に見事に、たった一人で逝かれた方は、まだお二人です。
そう思っていても、実際はご家族が遠くから来て泊まり込んだり、誰かしらの見守りがある場合が多く、
衰弱する過程で、毎日後ろ髪をひかれながら、患者さんを一人残しドアを閉めるたことは、今でも忘れられません。
自律と言う事でいえば、究極の自律ですし選択ですね。
「人のレールに乗りたくない。」
これを、我がままと取るか、自律と取るか。
家で一人きりで死ぬことを支援するか、どこかで入院に誘導するか。
今、都会では孤独の中で餓死する人が増えているといいます。
連日、其のニュースが流れていますね。
中には、30代40代の若い人まで入っています。
病死をのぞけば、何故自分からSOSを出さなかったのか。
近隣には、たくさんの人がいるし、日本には生活保護法という法律もあります。
謎は謎ですが、その道を選んだ理由がきっとあるはずです。
何が、彼らをそうさせたのでしょうね。
今となっては、神のみぞ知る、ということです。
「あんたたちは、いつも退院したら、こうしたほうがいいですよとか、布団から立てそうですか?なんて聞くけど、俺はそれがイライラするんだよ。そんなの、出来るかどうか、不便かどうか、帰ってみなきゃわからないだろ?最初から人のレールに乗りたくないんだよ!。」
なるほど、本当にそうですよね。
看護師にしても、ケアマネにしても、MSWにしても、経験的に「ベットにマットとに、食事のヘルパーに・・」とかってに思いめぐらせて、自然とそういう方向になるよう話を持っていこうとします。
「布団から、立ち上がるの大変ですよね?病院と同じように、介護ベットがあったほうが楽じゃないですか?」
「楽か楽じゃないかは、家でやってみなくちゃわかんなよ。」
私たちが、プロとして知っている情報や、予測できるからこそお勧めするサービス。
その情報や知識を、いつも受け入れてもらっています。
「どうすればいいかわからないから、教えてください。」と言われることの方が、各段多いのです。
事前の環境整備で、病院からもベットはあったほうがいいでしょう。と連絡を頂いたりします。
でも、彼にはそれがどうにも腹立たしい様子です。
「医者と看護師が、病気を見に来たり薬を持ってきてくれるのは、ありがたいと思いけど、それ以上いろんな人がさ、入れ代わり立ち代わり来て、時間で何とかなんて、そんな縛られるの嫌なんだよ。それくらいなら、病院にいたっておんなじだよ。」
サービスがなければ、一人での暮らしは困難を極めるだろうと、そう思っているのは病院側と受け入れ側だけです。
そんな話をずっと聞いていました。
「おれは、おれが納得したことしかしない。それが必要だと思ったら、俺が納得いくような話をしてくれよ。」
OKです。もちろんそうします。
それが苦しいことでも、辛いことでも、一度やってみなければ納得されないのであれば、私たちは待ってみます。
10メートルがやっとの歩行しかできなくても、1時間かけて50メートル先のコンビニに、自分の食糧を買いに行くことが希望なら、それは黙って見守るしかないと思います。
それが、自律の援助です、
そのかわり、途中で動けなくなったら、かならず連絡を貰えるようなお願いはしなければいけませんね。
「医者も看護師も、病気のことはずっと濁されてきたんだよ。でも、今度の先生がはっきり言ってくれた。もうこれから先は治療がないんだって。いづれ動けなくなるって。ありがたかったな。うれしかった。本当のことがわかって。だから、俺は家に帰るんだ。だから、もう縛られないんだよ。それで、あとは家で死ぬ。」
ときどき、こんな風に一人で死ぬことを決断される方がいます。
独居で、身寄りもほとんどなくて、「夜には誰もいなくていいから、家で一人で死ぬんだ。」
という方で、実際本当に見事に、たった一人で逝かれた方は、まだお二人です。
そう思っていても、実際はご家族が遠くから来て泊まり込んだり、誰かしらの見守りがある場合が多く、
衰弱する過程で、毎日後ろ髪をひかれながら、患者さんを一人残しドアを閉めるたことは、今でも忘れられません。
自律と言う事でいえば、究極の自律ですし選択ですね。
「人のレールに乗りたくない。」
これを、我がままと取るか、自律と取るか。
家で一人きりで死ぬことを支援するか、どこかで入院に誘導するか。
今、都会では孤独の中で餓死する人が増えているといいます。
連日、其のニュースが流れていますね。
中には、30代40代の若い人まで入っています。
病死をのぞけば、何故自分からSOSを出さなかったのか。
近隣には、たくさんの人がいるし、日本には生活保護法という法律もあります。
謎は謎ですが、その道を選んだ理由がきっとあるはずです。
何が、彼らをそうさせたのでしょうね。
今となっては、神のみぞ知る、ということです。