◎静岡県◎
作家・詩人である中勘助は明治35年に東京帝国大学で夏目漱石の講義を受けます。それが縁となり処女作「銀の匙」が漱石の推薦により東京朝日新聞に連載され、大正3年に作家としてデビューしました。
昭和18年、病気療養のために安倍郡服織村新間(現・静岡市葵区新間)に移り住みます。新間では前田家の小さな離れに暮らし、この離れを「杓子庵」と呼んでいました。杓子庵の名は離れの下にある畑に植えられた杓子菜(おたま菜)に由来します。
戦争が激しくなるとそのまま疎開生活となり、昭和20年に服織村新間羽鳥に居を移し「牛鳴庵」と呼んだ。服織村に永住することを考えたそうですが、昭和23年に東京へ戻りました。服織村でも多くの作品を残しており思い出深い地となったようで、東京へ戻ってからも服織中学校の校歌を作詞するなどしています。新間で暮らした杓子庵のある前田家の母屋は中勘助文学記念館になっています。
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作家・詩人である中勘助は明治35年に東京帝国大学で夏目漱石の講義を受けます。それが縁となり処女作「銀の匙」が漱石の推薦により東京朝日新聞に連載され、大正3年に作家としてデビューしました。
昭和18年、病気療養のために安倍郡服織村新間(現・静岡市葵区新間)に移り住みます。新間では前田家の小さな離れに暮らし、この離れを「杓子庵」と呼んでいました。杓子庵の名は離れの下にある畑に植えられた杓子菜(おたま菜)に由来します。
戦争が激しくなるとそのまま疎開生活となり、昭和20年に服織村新間羽鳥に居を移し「牛鳴庵」と呼んだ。服織村に永住することを考えたそうですが、昭和23年に東京へ戻りました。服織村でも多くの作品を残しており思い出深い地となったようで、東京へ戻ってからも服織中学校の校歌を作詞するなどしています。新間で暮らした杓子庵のある前田家の母屋は中勘助文学記念館になっています。
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