明の時代-10~17世紀の中国の食(3)
玉座に座った皇帝を前にすべての家臣がひざまずいているというのが、日本人が持っている中国宮廷のイメージではないでしょうか。
このように絶対的な権力を有する皇帝を中心とした専制政治を始めたのが、明を建国した朱元璋(しゅげんしょう)(洪武帝)(1328~1398年)です。彼は貧農の出身で、食うや食わずの乞食僧まで落ちぶれながらも立身出世をし、帝国の頂点に立ちます。中国の長い歴史の中で貧農から皇帝まで上りつめたのは、漢(前漢)を興した劉邦と朱元璋の2人だけです。
でも皇帝になった彼は、たびたびの弾圧(虐殺)や粛清を行います。例えば、官吏が乞食僧であったことを思い出させる「光」や「禿」を文書に使うと、それだけで死刑になりました。また、建国時に仲間として大きな功績があった者もちょっとした理由で死刑にしました。そのようにして彼が生涯で殺した人の数は5万を超えると言われています。何とも恐ろしい皇帝だったわけです。
ところで、そろそろ始まる春節祭の中国では「福」という字が書かれた赤い紙を上下逆さまにしたものをよく見かけます。これは「倒福」という習わしですが、その起源とされるものが洪武帝と妻の馬皇后の伝承です(興味のある方は「倒福」で検索してください)。
今回はこのような洪武帝によって始まった明の時代について概要を見て行きます。
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・洪武帝の時代
1368年に皇帝に即位した洪武帝は江南の南京を首都として統治を行った。彼が始めた政策は基本的に元(モンゴル帝国)とは真逆のものだった。彼は異民族(モンゴル民族)によってゆがめられた中国を漢民族の手に取り戻そうと考えていたようである。
洪武帝
洪武帝の政策の一つが商業や交易を重視せず、農業を振興したことだ。
彼は通貨の発行を縮小し、海外との貿易を禁じた。また、大地主から土地を取り上げて人民に分配し、土地の登記簿と戸籍を作った。そして土地と人に税をかけることで農作業などの労働を促した。税は農作物と労働で支払われたので貨幣は利用されなくなって行った。
なお、洪武帝は海外との貿易を完全に禁じていたのではなく、使節団を派遣して皇帝に貢ぎ物を献上した国に返礼品を与えるとともに、その時にだけ貿易を認める「朝貢貿易」は行っていた。この貿易はとても儲かったようで、使節団には有力な商人がこぞって参加したそうだ。なお、明と室町幕府との間で行われた「勘合貿易」も朝貢貿易の形式だった。
また洪武帝は、軍隊を皇帝直属とし、行政と司法も皇帝が直接統括することによって独裁的な中央集権国家を作り上げた。皇帝が絶対的な権力を手に入れた結果、たとえ大臣であっても謁見する時はひざまずく必要があった。
絶対的な権力を誇った洪武帝だったが、贅沢には走らず食事は質素で倹約に努めたそうだ。これは彼の子孫が美食にふけって堕落するのを防ぐためだったと言われている。馬皇后も頻繁に宮殿の調理場を訪れて、質素ながらも健康的な食事になるように気を配っていたという。
・永楽帝の時代
1398年に洪武帝が死去すると後継者争いが起こるが、それに勝利したのが北部を拠点としていた朱棣(しゅてい)で、即位して「永楽帝(在位:1402~1424年)」となった。彼は元の都の大都を「北京」と改名して首都とし、現在の紫禁城(故宮)の元となる宮城を造った。
永楽帝は積極的な対外政策をとったことで知られている。彼はもともと北方のモンゴル民族に対する防衛を洪武帝より任されていたのだが、皇帝になってからも5度もモンゴル討伐に自ら出陣し大きな戦果をあげている。また、ベトナムを征服するとともに、チベットをも従属させた。
永楽帝の対外事業で有名なのが「鄭和(ていわ)の南海遠征」と呼ばれるインド洋方面への遠征だ。これはイスラム教徒で宦官の鄭和(1371~1434年)を指揮官として実施されたもので、1405年から1430年までに計7回の遠征が行われ、南インドのカリカット、イランのホルムズ、アラビア半島のアデンとメッカ、そして東アフリカまで到達している。なお、アフリカからは生きたキリンをお土産として持ち帰って永楽帝を大いに驚かせたと言われている。
ただし、この遠征の目的は探検を行うことではなく、朝貢貿易の相手国を獲得することだった。貢ぎ物を持ってやって来る外国人を増やすことで、皇帝の威信を高めたかったのだ。即位前の後継者争いで薄れた人望を回復したかったと言われている。
永楽帝の時代に首都が南京から北京に移ったことで、北京の料理に南方の食材や料理などが付け加わった。もともと北京(大都)の料理は中国四大料理(四大菜)の一つの山東料理の流れをくむが、元の時代にモンゴルの羊肉料理や乳製品を用いた料理が取り入れられ、明の時代に南方の料理がさらに組み込まれるのである。
・万里の長城と商業の発達と銀の流通
永楽帝の死後はモンゴル民族の侵攻が激しくなった。モンゴルの目的は茶の貿易だった。野菜の少ない北方ではビタミン補給のために大量の茶を飲むようになっていたが、明が茶の貿易を厳しく取り締まるようになったため、実力行使をしたのである。
それに対して皇帝の正統帝(在位:1435~1449年)は自ら大軍を率いて進撃したが、逆に捕虜になってしまう。モンゴルの要求は貿易であったためしばらくして皇帝は明に送還されるが、モンゴルの侵攻を恐れた明朝は防衛に徹することにし、それまでの「万里の長城」をレンガ積みにして高く強固に改修した。これが現在見られる形の万里の長城の始まりである。
その頃になると、江南地方で綿織物業・絹織物業・陶磁器業などの手工業が発達するとともに、湖広と呼ばれる長江中流域が大穀倉地帯として発展していた。こうして手工業製品や農産物の流通が盛んになったのだが、明には交易に使用する貨幣がほとんど流通していなかった。そこで銀が通貨として使用されるようになる。
・農民の困窮と北のモンゴル・南の倭寇
1500年頃になると明政府も銀を通貨として認めるようになる。官僚への給料は銀で支払われるようになり、農民の税も銀で納めさせたのだ。これは、国中の人々が通貨経済に組み込まれたことを意味している。
その結果、物の売買がますます盛んになって商業が発展する一方で、貧富の格差が際立ってきた。特に小作農が窮乏し、小作料の軽減を求めてたびたび運動を起こすようになる。また、土地を去って流民となる小作人も続々と現れ始めた。海外に脱出する者も増え始め、彼らは華僑となった。ちなみに、明の建国時には小作農はほとんどいなかったのだが、明の中期以降にはほとんどの農民が小作農になっていたと言われている。
さらにこの頃には北方のモンゴル民族の侵入が頻繁になるとともに、南の海では倭寇の活動が活発化する。
モンゴル民族の要求は相変わらず茶の貿易で、明朝が再び貿易を厳しく取り締まったため攻めてきたのだ。明朝はこの対応に必要な軍事費のために銀による課税を強化した。また、商業が発展していたため、市場でも銀がたくさん使われるようになっていた。このように銀の需要が増えたことに目を付けた倭寇は、日本で産出した銀を中国に密輸入して大儲けをしていたのだ。
明はどうしてもモンゴルと倭寇の活動をおさえることができず、最終的に両者との貿易を承諾することになった。その結果、辺境地域の取り締まりは不十分なまま残り、この間に後に清を建国する女真族が活動を活発化させるのである。
また、16世紀後半になると大航海時代に突入したヨーロッパ人が中国にも盛んに渡来するようになった。彼らはアメリカ大陸で発見されたサツマイモやトウモロコシ、ピーナッツなどの新しい作物と明が欲しがっていた銀を持ち込んだのである。
・明の滅亡
明代末期の皇帝とその取り巻きの宦官たちのほとんどは私利私欲に走ったため、明は滅亡への道をひた走ることになる。
万暦帝(在位:1572~1620年)は政治に無関心の金の亡者で、自身の蓄財のために民衆から厳しい搾取を行った。また、皇帝の側近に仕える宦官も私利私欲を追求した。その結果、民衆に強い不満が蓄積することになる。
万暦帝と続く天啓帝(在位:1620~1627年)の宦官だった魏忠賢は権勢をほしいままにした。彼は悪口を言った者を皆殺しにして、民衆には「九千歳!」(万歳は皇帝にしか使えないため)と叫ばせたと言われる。彼は女真族が勢力を拡大して明軍を破っても、見て見ぬふりをしてやり過ごしたとされる。
その頃の女真族は自らを文殊菩薩の音からとった「満州人」に改称し、1616年に遼東地域に「後金」を建国した。その後、1636年には国名を「大清国」とした。
明朝最後の第17代皇帝が崇禎帝(すうていてい)(在位:1627~1644年)だ。まじめな性格だったが猜疑心が強く、優秀な大臣や将軍を首にしたり処刑したりした。こうして明朝内部は機能しなくなってしまう。
一方、1628年に中国は北西部を中心に大飢饉にみまわれ、それをきっかけに農民の大反乱が発生する。軍事費を捻出するために明朝は増税を行ったのだが、これでさらに流民が生み出されて、次々と反乱軍に加わって行った。
そうした中で李自成(りじせい)(1606~1645年)は反乱軍のリーダーとして頭角を現し、大群を率いて各地の都市を制圧し、ついに皇帝のいる北京を包囲する。最後を悟った崇禎帝は自殺をはかり、明はついに滅亡することとなった。1644年のことである。
この時明軍の主力部隊は万里の長城の最東端にいて清軍と対峙していたが、国内の安定のために清軍を国内に引き入れた。清軍は北京を制圧し、こうして清代が始まるのである。