安い豚肉で作った東坡肉(トンポーロウ)-10~17世紀の中国の食(4)
「東坡肉(トンポーロウ)」という有名な中華料理があります。これは日本食の豚の角煮や沖縄料理のラフテーの元になった料理で、揚げたり蒸したりした皮付きの豚のばら肉を醤油と紹興酒、砂糖などでじっくり煮含めて作ります。
この料理は北宋時代の政治家蘇軾(そしょく)(1037~1101年)が考案したと言われています。彼は蘇東坡(そとうば)という号の文筆家としても有名で、北宋一の詩人と言われています。なお、東坡肉の名前はこの蘇東坡から来ています。
今回は東坡肉を通して、宋の時代の食について見て行きます。
東坡肉
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蘇軾(そしょく)は数名しか合格しなかった科挙に受かった秀才で、その後地方の役人・政治家を歴任した。しかし、宰相の王安石が進めた改革に異議を唱えたため、44歳の時に黄州(現在の湖北省)に左遷される。
左遷と言っても流罪に近く、貧しくわびしい生活を送ったと言われている。しかし、元来楽天的でユーモアのある蘇軾は晴耕雨読の生活を楽しんでもいたようだ。
貧しい蘇軾にとって安い豚肉はとっておきの御馳走だったようで、次のような詩を作っている。
黄州好猪肉(黄州の豚肉はすばらしい)
價賤等糞土(糞土のように値段は安いけど)
富者不肯喫(金持ちは食べたがらないし)
貧者不解煮(貧乏人も料理の仕方が分からない)
慢著火(とろ火でゆっくり)
少著水(水は少なめ)
火候足時他自美(火が通ったら美味しくなってる)
毎日起来打一碗(毎日起きて茶碗一杯食べれば)
飽得自家君莫管(僕はブタみたいに腹いっぱいになってるが、君は気にすることはないよ)
この頃、豚肉は卑しい人や動物が食べるものとされていたようだ。北宋の頃の最高の肉と言えば羊肉で、それ以外にニワトリ、ガチョウ、アヒル、ウサギの肉が一般的に食べられていた。首都開封の回顧録である『東京夢華録』にはお店で出されていた料理が詳しく紹介されているが、その中に豚肉料理は一品も無い。
安かった豚肉の美味しい調理法を見つけることができて、詩を残すほど蘇軾はうれしかったのではないかと思われる。なお、黄州に左遷された時に作った料理は紹興酒抜きの醤油煮の豚肉だった。
皇帝が変わって新しい宰相になると、50歳の蘇軾は中央に呼び戻され要職につく。ところが、前の宰相王安石の政策をことごとく否定したことから、敵が増えて身の危険を感じるようになった。そこで、再び中央を去り、杭州(現在の浙江省杭州市)に太守(知事)として赴任する。この杭州で作ったのが東坡肉である。
そのいきさつは次の通りだ。
太守として赴任した蘇軾は西湖のしゅんせつ工事を行い、水道網を築いた。その結果大豊作になったことから、喜んだ住民が感謝のしるしにブタ1頭と紹興酒をプレゼントしてきたのだ。
蘇軾は調理人に、皮付き肉を大きな塊に切って、少しの水と醤油、砂糖、そして紹興酒を加え、とろ火でじっくり煮込むように指示した。ちなみに紹興酒は浙江省紹興市の鑑湖の湧水を使って醸造した酒である。
出来上がった料理はてらてらと赤く輝き、皮はサクサク、脂身はとろとろで、赤身はふっくらしてとても美味しかった。蘇軾が切り分けた豚肉を住民一軒一軒に配って回ったところ、その美味しさに皆感激して、この料理を「東坡肉」と呼んで杭州中に広めたという。
蘇軾は杭州でフグも楽しんだと言われている。当時は「命がけでフグを食べる」という言い方があったそうだが、ある人にフグ料理を出された蘇軾は何も言わずに黙々と食べ続けたらしい。周りの者がお気に召さなかったのかなと気をもんでいると、食べ終わった蘇軾は「死んでも良いくらい美味しかった!」と叫んだそうである。
美味しいものが大好きだった蘇軾だったが、羽目を外して食べたり飲んだりせず、一度に一皿の肉と一杯の酒以上には口にすることはなかったと言われている。これは身体を健康にして気力を充実させるためであり、宋代では食と健康は密接に関係しているという考え方が広まっていたそうだ。
なお、蘇軾はその後も政争に巻き込まれた結果、59歳の時に恵州(現在の広東省)に左遷され、さらに62歳の時に海南島に移された。66歳の時にやっと許されて都に戻ろうとするが、その途中で病気になって亡くなってしまった。しかし、彼が作った詩や書、そして東坡肉は現在でも大切に受け継がれているのである。
蘇軾