食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

中国の酒の歴史-10~17世紀の中国の食(8)

2021-02-27 17:03:00 | 第三章 中世の食の革命
中国の酒の歴史-10~17世紀の中国の食(8)
中国の酒は大きく「黄酒(ホアンチュウ)」と「白酒(パイチュウ)」の二種類に分けられます。その名の通り、黄酒は黄色や褐色のものが多く、白酒は無色透明のものがほとんどです。

黄酒はコメやキビなどを原料とする醸造酒のことです。黄酒を長期間熟成させたものは「老酒(ラオチュウ)」と呼ばれています。黄酒の代表なものとしては米から造られる紹興酒が知られています。

一方の白酒は黄酒などを蒸留したもので、蒸留操作で色素が除かれるため白色透明となります。また、一般的にアルコール度数は高くなり、40%以上のものが多く出回っています。なお、現代の中国の宴席では白酒で乾杯を行うことが多いようです。

中国で白酒が登場するのは宋代の頃と考えられています。今回は黄酒や白酒を中心に、中国の酒の歴史について見て行きます。


白酒(LIN LONGによるPixabayの画像)

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中国では紀元前から冷涼な華北ではキビとアワから酒を造り、温暖な江南ではコメを酒造りの原料にしていたと考えられている。これらの先史時代や古代の酒は「黄酒」に分類される。

黄酒の醸造では日本酒造りと同じように、穀物のデンプンを麹菌(こうじきん)によってブドウ糖に分解する「糖化」と、酵母によってブドウ糖をアルコールに変換する「アルコール発酵」を同時に行う。これは「並列複発酵」と呼ばれる醸造方法だ。

このように中国と日本の酒はともに並列複発酵で造られるが、二つの間には麹菌や原料に違いが見られる。

まず麹菌についてだが、中国の麹は主に「クモノスカビ」や「ケカビ」などの様々な菌が混合したものだ。粉末にした生の穀物を少量の水で団子状に練り固めたのちに放置すると、クモノスカビやケカビなどが自然に生えてくる。これを乾燥したもの(餅麹と呼ぶ)を黄酒の醸造に使用するのだ。

一方、日本酒造りには「ニホンコウジカビ」などの単一の菌種だけを使用する。蒸したコメに保存していたコウジカビを植え付けて生育させたもの(バラ麹と呼ぶ)を使うのだ。中世までには単一の菌種になるように選択的に培養したニホンコウジカビなどを日本酒の醸造に使うようになった。また、このような麹菌の種を販売する「種麹屋」が、室町時代から現代にいたるまで日本酒造りを支えてきた。

なお、現代では酵母についても中国と日本で麹のような違いが見られる。つまり、中国では天然の酵母を使用するのが一般的であるが、日本では「きょうかい酵母」と呼ばれる日本醸造協会が純粋培養している単一の菌種が主に使われている。

さらに使用するコメについても中国では一般的に糯米(モチゴメ)が使われるのに対して、日本では粳米(ウルチマイ:ご飯として食べている粘り気の少ないコメ)が酒造りに使用される。日本酒造りでは黄酒造りでは行わない蒸したコメを手でこねる作業があるため、手に引っ付きやすいモチゴメが敬遠されたからと言われている。また、モチゴメを使うと酒が甘くなるが、日本人は辛い酒を好んだことから粳米を使って来たとも言われる。

以上のように黄酒と日本酒では造り方にかなりの違いが見られるため、二つの酒造りはそれぞれの国で独自に発展してきたものだと考えられている。

さて、中国では唐代(618~907年)になると農業の発展にともなって酒造りも盛んになった。その結果、それまでは金持ちしか飲めなかった酒が庶民にも広まった。そして、酒は中国の文化に無くてはならない存在になって行ったのである。

「詩聖」と呼ばれた唐代の詩人の杜甫(712~770年)は生涯に1400 余りの詩を創作したが、そのうちの300が酒に関するものである。杜甫の友人の「詩仙」李白(701~762年)も酒をこよなく愛し、たくさんの酒にまつわる詩を作った。また彼は、酒に酔って水面に映る月を捕まえようとして溺死したという伝説も残している。杜甫は李白のことを詠んだ詩で「李白は一斗升の酒を飲めば百篇の詩を生み出し、長安では酒を飲んでそのまま酒屋で寝てしまう。皇帝に呼ばれても出て行かず、自ら酒中の仙人と称する」と言っている。


     李白

ここで、李白が詠んだ酒の詩の中で最も有名な「将進酒(まさに酒を進めんとす)」の前半部分を紹介しよう。

将進酒(さあ、酒を楽しもう) 
君不見黄河之水天上來(君よ見たまえ、天上から黄河の水が注ぎこむのを)
奔流到海不復回(すさまじい流れで海に至ると、二度と戻ってこないのだ)
君不見高堂明鏡悲白髮(君よ見たまえ、立派な屋敷に住んでいる老人が、鏡 に映った白髪を見てなげき悲しんでいるのを)
朝如青絲暮成雪(朝には青く輝いていた細い髪の毛が、夕暮れには雪のように白くとけてしまう)
人生得意須盡歡(だから楽しめるうちに人生をとことん楽しみ尽くそう)
莫使金尊空對月(金色に輝く酒樽を、月の光にさらしておくだけじゃあつまらない)
天生我材必有用(天がさずけた僕たちの才能は、いつか必ず花開くはずさ)
千金散盡還復來(だからこの場で金を使い果たしても、またいつか戻ってくるよ)
烹羊宰牛且爲樂(羊を煮て牛をさばいて、まずは楽しもうじゃあないか)
會須一飮三百杯(酒を飲むなら一気に300杯、グイと飲みほそう)

酒を何よりも愛した李白の楽天的な人柄がよく分かる詩だと思う。

さて、唐代の中期になると、王朝は塩や茶と同じように酒についても専売を行うようになった。つまり、政府が許可した者だけに酒の製造と売買を許可して、政府が指定した高い価格で売買を行わせたのだ。この時に原価の数十倍の税を得ることができ、こうして集めた金で国家体制を維持しようとしたのである。

しかし、唐代の末期になって庶民が困窮すると、塩・茶・酒の密売業者が中心となって暴動が頻発し、最終的に唐は終わりを迎えることになった。

五代十国の時代が過ぎて宋代(960~1279年)になると、さらに酒造りが盛んになった。北宋の首都開封や南宋の首都杭州には、拍戸(泊戸)と呼ばれた酒の小売店や酒楼と呼ばれた公営の飲食店、酒庫と呼ばれた酒の卸売場などの酒関係の店が多数営業していたという。

宋代でも塩や茶とともに酒も専売制で厳格に管理されており、酒税は政府の重要な財源となっていた。醸造所は政府が所有し、人を雇って造られた酒は政府が決めた高い価格で販売されていた。中国の歴史において宋代の酒税が最も重かったと言われている。

宋王朝は経済政策を優先したことから海外との貿易が盛んになり、海外の物品も中国内に流通するようになった。東坡肉(トンポーロウ)を考案した蘇軾が遺した記録から、彼の時代には中国でもワイン(ブドウ酒)が作られるようになっていたことがうかがえるという。

さらに宋代には白酒を造るのに必須の「蒸留器」がイスラム商人を通して中国に持ち込まれた。「イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)」でお話しした「アランビック」が中国に伝えられたのである。アランビックを用いた蒸留法はイスラム世界から世界各地に伝えられ、白酒だけでなくブランデーやウオッカ、ウイスキー、泡盛、焼酎などの蒸留酒が作られるようになった。
イスラムの科学-イスラムの隆盛と食(2)はこちら


                    アランビック

白酒は元の時代(1271~1368年)には「阿剌吉酒(あらきしゅ)」と呼ばれたと記録されているが、この呼び方はアランビックから来たと考えられている。

元代には白酒のほかに従来の黄酒やワイン、そして遊牧民に愛された「馬乳酒」が飲まれていた。馬乳酒はその名の通り馬乳を発酵させたものでアルコール度数は低く、酒というよりもヨーグルトのような食品として食べられていたらしい。

次の明王朝(1368~1644年)は当初禁酒令を出したりしたが、大きな取り締まりを行わず、すぐに酒の醸造や販売が自由に行われるようになった。その結果、酒の醸造業が飛躍的に発展し、酒の種類や生産量が著しく増えたという。

さらに14世紀の終わり頃には一般の庶民が酒屋を開くことを認め、15世紀には酒税を軽くしたことから、酒の醸造・売買はさらに加速したと言われている。