食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

茶の力-10~17世紀の中国の食(6)

2021-02-18 16:43:03 | 第三章 中世の食の革命
茶の力-10~17世紀の中国の食(6)
中国の代表的な飲み物と言えば「茶」です。茶の生産は唐の時代から宋の時代にかけて大きく拡大し、また茶を飲む習慣も一般庶民に広く普及して行きました。そして茶は人々の暮らしに必要不可欠な存在となり、経済的な重要性も高まりました。

これに目を付けた宋朝は茶の生産と販売を専売制にすることで、国家の大きな財源にします。専売制の下で一部の商人たちが莫大な利益を上げるようになりましたが、一般庶民の中には茶の密売を始める者が現れ、武装することで大きな反社会勢力へと成長して行きます。

今回は唐の時代までさかのぼり、このような社会情勢に触れながら茶の歴史を見て行きます。



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・唐代の茶
唐(618~907年)は農業を奨励したことから茶の生産も次第に増えて行った。同時に貴族や文人・学者によって茶を飲む風習が広まり、茶は文化の上でも重要な役割を果たすようになった。こうして8世紀にかけて首都の長安などの華北の都市に茶を飲む風習が定着してきた。また、軍事的に同盟関係にあり、婚姻関係も結んでいた西方のウイグル族にもこの時期に茶を飲む風習が伝わったと考えられている。

760年頃に湖北省の陸羽によって著された『茶経』は、それまで断片的に伝えられていた茶に関する情報を系統づけて集大成した書で、現在にいたるまで茶のバイブル的な存在になっている。そのため陸羽は中国では「茶神」とも称されている。

茶経は上中下巻に分かれた計10章から構成されており、上巻の第1章には茶樹の性状など、続く第2章には製茶道具、第3章には製茶法、中巻第4章には茶器、下巻第5章には茶のいれ方、第6章には茶の飲み方、第7章には茶の歴史、第8章には茶の産地、第9章には省略した茶、第10章には茶席の飾り物についてそれぞれ述べられている。

『茶経』が出ると、それに刺激されたのか茶に関する書がいくつも刊行されたそうだ。このことはその当時の茶の広がりを示しているように思える。実際に9世紀の記録によると、茶の産地では新茶の出る頃に茶を求める者が各地から集まり、お互いの肩がぶつかるほど混雑していたそうだ。

770年頃になると、皇帝に新茶を献上する貢茶が始まった。その茶はきわめて品質の高いものが要求されたため、浙江省に専門の製茶工場である貢茶院が建てられた。この工場では1000人以上の人が働いていたという。

しかし、貢茶のための茶葉の栽培や茶摘みの作業はとても大変で、その作業のために膨大な数の農民が投入されたが、報酬は一切もらえなかったという。そのため、厳しさに耐えかねて逃げ出す人も多かったそうだ。

貢茶とともに人民の負担となったのが茶に対する課税である。茶の流通が増えてきたことに目を付けた政府は、七八二年に初めて茶への課税を始めたのだ。しかし、政権内に反対意見が出たり担当官が課税反対派に殺されたりしたため、課税を継続することができなかった。

ところで、唐代の上流階級の茶の飲み方は南北朝時代(439~589年)から行われている「団茶」を用いたものだった。団茶とは、蒸した茶葉をすりつぶしてコメ糊などと混ぜ、型に入れて固めたのちに乾燥させたものだ。唐代には団茶は餅茶(へいちゃ)とも呼ばれていた。

団茶を飲むときには、火であぶったのち香気を失わないように紙に包んで冷やし、さらに臼などで粉末にする。そして、塩を加えた湯で煮だして飲んだ。ショウガなどを加えることもあったという。ちなみに、上等な茶ほど甘かったそうだ。

・宋代の茶
宋代(960~1279年)は米・塩とともに茶が生活の必需品となった時代だ。宋朝も唐以上に農業を重視したので、茶園の面積は拡大した。また手工業も発達したことから、茶の製造技術も発展した。

農業と手工業の発展によって経済が活発化し、各地に商業都市が生まれた。こうした都市では多くの茶館が営業し、普通の庶民も気軽に茶を楽しむことができたという。

宋代の茶は三種類あった。「散茶(さんちゃ)」「片茶(へんちゃ)」「研膏茶(けんこうちゃ)」の三つである。

「散茶」は一般庶民に最も普及した茶であるが、詳細は分かっていない。おそらく、蒸した茶葉をバラのまま乾燥させた現代の茶のようなものであったと考えられている。

「片茶」は蒸した茶葉を固めたもので、唐代の団茶(餅茶)とほぼ同じものだ。

「研膏茶」は片茶の一種だが少し複雑な作り方をする。蒸した茶葉をすぐにすりつぶすのではなく、圧力をかけてしぼったのち乾燥させる。そして、乾いたものを少量の水ですりつぶして型に入れて再び乾燥させる。最後に表面に蒸気をかけ、表面を磨いて出来上がりだ。

研膏茶は非常に高価で、主に皇帝に貢納された。そして皇帝は功のあった者にこれを下賜したのだが、その者は恐れ多くて飲むことができず、家宝として飾っておくことが多かったそうである。

片茶(そして研膏茶)のいれ方は日本の茶道のいれ方に似ている。まず、茶の塊を鉄製の薬研(やげん)(下の写真)や茶臼によって細く砕いて粉末とする。次に沸かした湯を茶碗に注ぎ、そこに砕いた茶粉を入れ、さじや茶筅(ちゃせん)でかき混ぜるのだ。


薬研(やげん)

細く砕いて粉末にした茶は「末茶」と呼び、これが日本の「抹茶」の語源と考えられている。また、末茶が熱湯に溶けることを「発立」と言ったことが日本で「茶をたてる」という言い方の由来になったと言われている。

こうして出来上がった茶の色は白色をしたもの(白茶という)を最高としたことから、白色が映えるように内側が黒色の茶碗が好まれたという。鉄釉(てつゆう)をかけて作った黒色の天目茶碗がよく使用されたのも、この理由からである。

・強すぎた茶の密売人
宋朝は唐朝に引き続き皇帝に献上する貢茶を行ったが、これに加えて新たに茶の専売化を行った。つまり、茶の自由交易を禁じ、生産された茶を一旦全部官に納めさせ、改めて商人に払い下げるという手段をとった。また、生産量に対しても厳しい管理を行った。

宋朝は違反者に対して最高は死刑という重い刑罰を科しており、専売制をかなり重要視していたことがうかがえる。その理由は、対外政策のために茶そのものや茶を売って得た金が必要だったからだ。

つまり、北方の遼の侵攻によって和議を結んだとき、宋は毎年7万両の銀、15万匹分の絹とともに約18トンの茶を渡すことを取り決めたのだ。このように、茶は北方民族でも重要な物品となっており、政治的に利用されたのである。

また、遼や西北の西夏との国境線には常に大規模な軍を駐留させておく必要があり、その数は1000年頃で約60万人と言われている。このための駐留費は莫大なものになっていて、それを賄うための財源として専売制にした茶や塩が使われたのである。

このような国境維持軍に兵糧を納入した商人には代価を茶あるいは塩で支払った。商人はこれを一般人などに売ることで利益を上げていた。しかし、この取引にありつけるのは一部の豪商だけであり、彼らは結託して茶や塩の価格を釣り上げることで莫大な利益を得ていたのである。

このような状況では密売が横行するのは当然のことだった。正規の価格よりも少し安く売るだけで大儲けができたからである。

しかし、密売をして捕まると厳罰に処せられる。そこで密売人たちは徒党を組み、取り締まりの情報を収集し、綿密な計画を練った上で密売を行った。また武装を行い、万が一仲間が捕まった場合には官憲と戦って奪還を試みた。そして最終的には盗賊まがいの強盗なども行ようになったという。こうして密売人は「茶賊」と呼ばれるようになり、人々に恐れられる存在になって行った。

茶賊は一帯の地理に精通していたため神出鬼没で、官憲は容易に捕まえることはできなかったという。また、太守(知事)なども保身に徹し、失敗を恐れて取り締まりをほとんど行わなかった。

そこで政府は苦肉の策として密売人たちと交渉を行い、軍に編入することとした。密売人にとっても政府の後ろ盾があった方が生活しやすかったため喜んで応じたようだ。そうして彼らは「茶商軍」と呼ばれるようになる。

茶商軍は正規軍よりも勇敢で、北宋が金と争いになった時には正規軍が敗走する中で奮闘し、金の南下を阻止することもあったという。

茶商軍は南宋になっても続き、蒙古帝国軍とも戦ったが、強大な敵を打ち負かすことはできずに壊滅した。