前漢の滅亡と社会の変化-古代中国(5)
ここで、春秋・戦国時代から漢代にかけての食料生産と社会情勢について見て行こう。
春秋・戦国時代に鉄製の農具が普及し、農業生産力が増大したことは既にお話しした(⇒鉄の時代の始まりと諸子百家)。鉄製の刃先を持つ犂(すき)をウシに引かせることによって、土地を深く耕すことができるようになったのだ。漢代にはこのような牛耕の様子がよく絵に描かれた(写真)。また、鉄製の工具の普及によって水路などの灌漑設備の整備が進んだことも、食料の生産量を増大させた。
さらに、漢代には「区田法」と呼ばれる農法が中国最古の農書である「氾勝之書(はんしょうししょ)」を編纂した氾勝之(はんしょうし)によって確立された。これは雨が少ない地域や干ばつの時に作物を育てるために考案された農法で、農地の全部を耕すのではなく、種を植えるところだけを耕してそこに集中的に水や肥料を与えるものだ。こうすることで、水や肥料を効率よく使用することができる。とても理にかなった農法と言える。
しかし、このような農耕技術の進歩によって生産効率が上がり、また余剰な食料が生まれてくると、貧富の格差が生じてくるのはどこでも同じことである。
鉄製農具が普及すると、小人数で広い土地を耕すことができるようになり、それまでは一族総出で行っていた農耕を家族単位で行うようになった。すると、一族(氏族)が一か所に集まって住む必要はなくなり、良い土地を求めて移住することも可能になった(氏族社会の崩壊)。一方、広い農地を持つ者は地主になって、他の農民に賃料を取って農地を貸すようになる。こうして一部の者が富を集めるようになり、貧富の格差が生じたのである。
また、鉄製の農具の普及自身が貧富の差を生み出した。鉄製の農具は必需品で制作に高度な技術を要することから、生産者や販売者は莫大な富を築くようになったのだ。同時期に貨幣が流通するようになったことも、経済を活発にすると同時に貧富の差を拡大する要因になった。技術の進歩が一部の人だけを豊かにするのは、昔も今も同じなのだ。
歴史に目を戻すと、匈奴を西側地域から討ち払った武帝(紀元前156~前87年)は、朝鮮半島や南越国にも軍を送り込み、それらの地を征服して行った。その結果、漢王朝の支配地は広大なものとなった。しかし、このような度々の外征によって出費がかさみ、財政が困窮するようになる。武帝はそれを補うために、塩・鉄・酒の専売制を導入した。これは、塩・鉄・酒の販売を政府が独占するもので、特に塩は生きるのに必要であり、鉄は農耕具に必須だったため、専売化は政府の大きな収入になった。
また武帝は、農民と商人に対して増税を行った。この時脱税を防ぐために、報奨金を出して密告を奨励した。もし脱税が発覚すると財産はすべて没収されたという。
さらに、農産物の余剰分を政府が没収して、それが不足している地域で販売する均輸法や、商品が値下がりした時に政府が買い取り、価格が上がった時に販売する平準法を施行して、物価の安定化とともに政府財政の立て直しを図った。
このような経済政策によって国の財政はまたたく間に改善したが、一方で、それまで塩や鉄の生産や商売にたずさわっていた人たちや農民は困窮することになる。特に、貧しい農民の反発は大きく、社会には不満が充満していった。
このように社会不安が増大する中で、宮廷内では宦官と官吏の対立が激しくなり、また、皇帝の妃の出身一族である外戚(がいせき)の権力が増大した。そして、西暦8年に外戚の王莽(おうもう)が帝位を簒奪し、新王朝(8~23年)を樹立する。こうして前漢の時代が終わりを告げたのだ。