インカの食と段々畑-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(3)
前回はアステカ帝国のお話でしたが、今回はインカ帝国の食と農業について見て行きます。
インカ帝国はアンデス中央高原やその周辺部に興ったアンデス文明に属しています。アンデス文明はスペイン人によって消滅しますが、その最後の国家となったのがインカ帝国です。有名な世界遺産のマチュピチュはインカ帝国の遺跡です。
アンデス文明が栄えた地域は基本的に雨が少ない乾燥地帯でした。そのため、限られた水を効率的に利用するための灌漑技術がアンデス文明では発達しました。また、山岳地帯では地形の高低差から起こる土砂の流出を防ぐために「段々畑」がたくさん作られました。ちなみに、段々畑はマチュピチュ遺跡でも見ることができます。
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アンデス文明は紀元前1000年頃にペルー北部に興ったチャビン文化から始まったとされている。代表的な遺跡のチャビン・デ・ワンタルは標高3200メートルのアマゾン川の源流に築かれ、擬人化したジャガーなどの石の彫刻や土器などが今でも遺されている。
その後の紀元後100年頃から500年頃まで、ペルー北部の海岸地帯にはモチェ文化が栄えた。モチェでは灌漑のためにたくさんの運河や貯水池が建設された。運河は数キロメートルに及ぶことも珍しくなく、ラ・クンブレ運河は100㎞以上もあったと言われている。
灌漑した農地には「グアノ」と呼ばれる肥料が施された。グアノとは、沿岸の島々に海鳥のフンや死骸、エサの魚、卵の殻などが堆積して化石化したもので、窒素やリンなどを大量に含んでいる。雨が少ない地域のため、フンなどが洗い流されずに積もり続けることでグアノができるのだ。ちなみにグアノは現代にいたるまで効果の高い肥料として使用され続けており、過去にはグアノをめぐって戦争まで起きた。
さて、このように灌漑とグアノで整えられたモチェの耕地では、トウモロコシやジャガイモ、インゲンマメ、キャッサバ、トウガラシ、キュウリなどが栽培された。また、漁で獲った魚や、家畜として育てたモルモットやアヒルを食料としていたという。
モチェ文化と同時期の紀元前後から800年頃まで、モチェ文化より南の海岸地帯では謎の地上絵で有名なナスカ文化が栄えていた。ナスカ文化でも優れた灌漑技術に支えられた農耕が行われており、トウモロコシやジャガイモ、サツマイモ、カボチャ、インゲンマメ、トウガラシ、アボカドなどが栽培された。
また、家畜としてリャマやアルパカ、モルモット、イヌが飼育されていた。リャマは主に荷物の運搬に使用され、時には生贄や食肉としても利用された。また、アルパカからは良質の毛が取られて衣服にされ、モルモットは食用にされた。
モチェ文化やナスカ文化と同じ頃にアンデス山中の高原地帯に生まれたと考えられているのがティアワナコ文化だ。ティアワナコ文化では巨石から造られた石造建築が特徴で、チチカカ湖近くの遺跡には巨大な一枚岩を削って造った「太陽の門」が遺されている。
ティアワナコ文化は1000年頃からアンデス高原だけでなく、海岸部などにも広がって行った。この文化の広がりにともなってアンデス一帯の地域性が薄れ、文明の均質化が進んだとされる。そして、これがこの地域を広く支配する国家形成の基盤となり、インカ帝国の誕生につながるのだ。
11世紀以降のアンデスでは小国が割拠し、お互いが競い合って勢力の拡大に努めた。その中の一つのクスコ王国がやがてインカ帝国となる。クスコ王国は12世紀頃にアンデス山脈にある標高3400mのクスコにおいてケチュア族(インカ族)が建てた小国だが、15世紀の中頃になって急速に勢力を拡大し、南北の全長が4000km、面積が100万㎢に及ぶ大帝国となった(ちなみに日本の国土面積は38万㎢)。
インカ帝国は広大な領域を統治するために、主要な地域の間を結ぶ「インカの道」を建設した。さらにこの道に沿って宿場が設けられ、健脚の「飛脚」を用いて中央と地方との情報伝達を行った。
インカ帝国の農耕については、征服者のスペイン人の記録に詳しく書かれている。
スペイン人が驚いた技術の一つが灌漑技術だ。ヨーロッパが見たことが無い精巧な石造りの水路がインカ帝国内に張り巡らされていたのだ。灌漑技術はモチェやナスカでも発達していたが、インカの時代にはさらなる発展を遂げていたと考えられている。
インカの灌漑技術に対してスペイン人たちは次のように述べている。
「この地域は砂漠地帯で雨量もわずかで草も育たないのに、トウモロコシや果物が豊かに実る。それは、山岳地帯から下る川の水を使って灌漑耕作がおこなわれているからである」
「谷ではトウモロコシが栽培され、2 度の収穫が行われるが、それでも豊作である」
スペイン人たちを驚かせたもう一つの農耕技術が「アンデネス」と呼ばれる段々畑を使った階段耕作である。段々畑は日本を含めて世界各地で見られるが、アンデスの段々畑は他に比べて精巧で大規模なものだった。この段々畑には灌漑が施されており、上の耕地から下の耕地へ緩やかに水が送られるため土壌の浸食が起こらず、長期間にわたって耕作を続けることができるのだ。
灌漑が行われた段々畑では主にトウモロコシが育てられた。そして、あの優秀な肥料のグアノが施された。グアノはとても貴重であったため、インカでは海鳥は厳重に保護されていたという。例えば、繁殖期には鳥がおびえて逃げ出さないように島への人の出入りを禁じており、もしこれを破ってしまうと死刑になった。また、一年を通して海鳥を殺した者も死刑になった。なお、海岸から遠くてグアノが手に入らないところでは魚の頭や人糞が使用された。
スペイン人の記録によると、トウモロコシの耕作地は水と肥料に恵まれていたので、毎年のように豊作が続いたという。
こうして大事に育てられたトウモロコシはもちろん食料に回された分も多かったそうだが、最も重要な用途が「チチャ」と呼ばれる酒の原料となったことだ。チチャは今でもアンデス地方でよく飲まれている酒だが、インカ帝国では神聖な飲み物として儀式には欠かせないものだった。インカの宮殿には若い女性が集められ、口噛み酒の要領でチチャを作っていたと言われている。
トウモロコシが神聖な穀物だったの対して、ジャガイモなどのイモ類がインカ帝国では一般的な主食として食べられていたと考えられている。ジャガイモなどのイモ類は無灌漑の畑で栽培された。イモ類の栽培にはトウモロコシほどの多量の水は必要ないので、灌漑設備は整えられなかったのだ。肥料としてはリャマやアルパカなどの家畜のフンが使用された。
なお、イモのキャッサバやキアヌからもマサトと呼ばれる酒がはるか昔から造られていた。モチェ文化の土器の中には、片手にトウモロコシ、もう一方の片手にキャッサバを持った神様の絵が描かれているものがあるという。もしかしたら酒の神様なのかもしれない。
このように栄華を誇ったインカ帝国はスペインの征服者ピサロによって征服され、1533年に滅亡した。