鉄の時代の始まりと諸子百家-古代中国(2)
私たちの身の回りには鉄製品があふれている。その理由は、鉄が丈夫で堅く、それに加工が簡単な上に、世界中のいたるところで原料が手に入るために安価だからだ。もし鉄が無かったら、人類はここまで繁栄することはなかっただろう。
人類史を見てみても、鉄が使用されるようになると社会の状態が大きく変化する。すなわち、鉄製の農具を使用することで農産物の生産量が増大するとともに、鉄製の武器によって殺傷能力が高まり、一つの部族が周辺の部族を征服して大きな国家を作れるようになったのだ。紀元前7世紀にアッシリアがオリエント世界を統一して最初の世界国家を樹立できたのも、鉄製の強力な武器のおかげである。
中国で鉄器が使用されるようになるのは、東周の春秋時代(紀元前770~前403年)のことだ。この「春秋」とは孔子(紀元前552年もしくは紀元前551年~前479年)が制作に関わったとされる歴史書の名前であり、この春秋時代は孔子のような諸子百家が活躍した時代である。実は、諸子百家の登場にも鉄器が関係しており、鉄製の農具が作られるようになって農産物の生産量が増大した結果、食料生産にたずさわらなくても学問や教育をすることで生活できる諸子百家が誕生することになったのだ。また、鉄製の武器によって軍事力を高めた諸侯が互いに争うようになり、戦いのたびに大量の死傷者が出るような混乱の時代に入ったことも諸子百家が活躍する背景にあった。
孔子
ところで、中国の製鉄の歴史は西洋とはかなり異なっている。次に、この違いについて見ていきたいと思う。
鉄製品などの金属製品の作り方には大きく分けて二つあることをご存じだろうか?
それは「鍛造(たんぞう)」と「鋳造(ちゅうぞう)」だ。
鍛造は熱くした金属をたたいて形を作るもので、鋳造は溶かした金属を型に流し込んで形を作るものだ。鉄の鍛造では何度もたたくことで中の気泡や不純物が除かれ、鉄の結晶もそろうため、丈夫な製品ができるが、大量生産が難しいという欠点を持つ。一方、鋳造では大量生産しやすいという長所の代わりに、気泡や不純物が残ってしまうので壊れやすいという短所がある。このため、武器には鍛造で作った鉄(鍛鉄)が使われ、農具や日用品には鋳造で作った鉄(鋳鉄)が使われることが多かった。
世界で最初に製鉄を行ったのは、紀元前15世紀頃にアナトリア(トルコ)で王国を築いたヒッタイトだと言われている。ヒッタイトの鉄は鍛鉄だった。紀元前12世紀にヒッタイトが滅亡すると、秘密にされていた製鉄技術が周囲に次々と広がって行った。こうして、それ以降のヨーロッパや西アジアでは鉄器の使用が中心となる。
ヨーロッパでは14世紀頃まで鉄はもっぱら鍛造で作られ続けた。これは、鋳造に必要な高温状態(1200℃以上)を作ることが難しかったことが最大の理由だ。ちなみに、鍛造は400~800℃で行われる。
実は、製鉄をするためには材料の酸化鉄から酸素を奪う必要がある。このため、酸化鉄と一緒に木炭を酸素不足の状態で燃やすことで一酸化炭素を発生させ、この一酸化炭素で酸化鉄の酸素を奪っている。しかし、酸素不足で木炭を燃やすと発熱量は酸素がある時の三分の一程度しかなく、鋳造ができる温度を維持するのが難しくなるのだ。このため西洋では、鉄の鋳造ができるまで時間がかかってしまった。
一方中国では、春秋時代の紀元前6世紀頃に鉄の鋳造技術が出現する。古代の中国人は、土器製のるつぼの中に酸化鉄と木炭を混合して封入し、それを外から加熱することによって鉄を鋳造する方法を編み出したのだ。なお、同時期の鉄器には鍛造によるものも見つかっているので、中国では鉄の鍛造と鋳造がほぼ同じ時期に始まったと考えられる。
こうして鉄の大量生産技術を身に付けた中国では農耕技術が飛躍的に進歩するとともに、強大な軍事力を有する諸侯同士が戦う戦乱の時代に突入する。そして、このような広い地域で繰り広げられた戦いによって食文化の移動や融合が起こり、四川料理など今日の中国料理の原型が生まれることになるのである。
(これが次回の話題です)