食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

明の時代-10~17世紀の中国の食(3)

2021-02-09 18:00:00 | 第三章 中世の食の革命
明の時代-10~17世紀の中国の食(3)
玉座に座った皇帝を前にすべての家臣がひざまずいているというのが、日本人が持っている中国宮廷のイメージではないでしょうか。

このように絶対的な権力を有する皇帝を中心とした専制政治を始めたのが、明を建国した朱元璋(しゅげんしょう)(洪武帝)(1328~1398年)です。彼は貧農の出身で、食うや食わずの乞食僧まで落ちぶれながらも立身出世をし、帝国の頂点に立ちます。中国の長い歴史の中で貧農から皇帝まで上りつめたのは、漢(前漢)を興した劉邦と朱元璋の2人だけです。

でも皇帝になった彼は、たびたびの弾圧(虐殺)や粛清を行います。例えば、官吏が乞食僧であったことを思い出させる「光」や「禿」を文書に使うと、それだけで死刑になりました。また、建国時に仲間として大きな功績があった者もちょっとした理由で死刑にしました。そのようにして彼が生涯で殺した人の数は5万を超えると言われています。何とも恐ろしい皇帝だったわけです。

ところで、そろそろ始まる春節祭の中国では「福」という字が書かれた赤い紙を上下逆さまにしたものをよく見かけます。これは「倒福」という習わしですが、その起源とされるものが洪武帝と妻の馬皇后の伝承です(興味のある方は「倒福」で検索してください)。



今回はこのような洪武帝によって始まった明の時代について概要を見て行きます。

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・洪武帝の時代
1368年に皇帝に即位した洪武帝は江南の南京を首都として統治を行った。彼が始めた政策は基本的に元(モンゴル帝国)とは真逆のものだった。彼は異民族(モンゴル民族)によってゆがめられた中国を漢民族の手に取り戻そうと考えていたようである。


     洪武帝

洪武帝の政策の一つが商業や交易を重視せず、農業を振興したことだ。

彼は通貨の発行を縮小し、海外との貿易を禁じた。また、大地主から土地を取り上げて人民に分配し、土地の登記簿と戸籍を作った。そして土地と人に税をかけることで農作業などの労働を促した。税は農作物と労働で支払われたので貨幣は利用されなくなって行った。

なお、洪武帝は海外との貿易を完全に禁じていたのではなく、使節団を派遣して皇帝に貢ぎ物を献上した国に返礼品を与えるとともに、その時にだけ貿易を認める「朝貢貿易」は行っていた。この貿易はとても儲かったようで、使節団には有力な商人がこぞって参加したそうだ。なお、明と室町幕府との間で行われた「勘合貿易」も朝貢貿易の形式だった。

また洪武帝は、軍隊を皇帝直属とし、行政と司法も皇帝が直接統括することによって独裁的な中央集権国家を作り上げた。皇帝が絶対的な権力を手に入れた結果、たとえ大臣であっても謁見する時はひざまずく必要があった。

絶対的な権力を誇った洪武帝だったが、贅沢には走らず食事は質素で倹約に努めたそうだ。これは彼の子孫が美食にふけって堕落するのを防ぐためだったと言われている。馬皇后も頻繁に宮殿の調理場を訪れて、質素ながらも健康的な食事になるように気を配っていたという。

・永楽帝の時代
1398年に洪武帝が死去すると後継者争いが起こるが、それに勝利したのが北部を拠点としていた朱棣(しゅてい)で、即位して「永楽帝(在位:1402~1424年)」となった。彼は元の都の大都を「北京」と改名して首都とし、現在の紫禁城(故宮)の元となる宮城を造った。

永楽帝は積極的な対外政策をとったことで知られている。彼はもともと北方のモンゴル民族に対する防衛を洪武帝より任されていたのだが、皇帝になってからも5度もモンゴル討伐に自ら出陣し大きな戦果をあげている。また、ベトナムを征服するとともに、チベットをも従属させた。

永楽帝の対外事業で有名なのが「鄭和(ていわ)の南海遠征」と呼ばれるインド洋方面への遠征だ。これはイスラム教徒で宦官の鄭和(1371~1434年)を指揮官として実施されたもので、1405年から1430年までに計7回の遠征が行われ、南インドのカリカット、イランのホルムズ、アラビア半島のアデンとメッカ、そして東アフリカまで到達している。なお、アフリカからは生きたキリンをお土産として持ち帰って永楽帝を大いに驚かせたと言われている。

ただし、この遠征の目的は探検を行うことではなく、朝貢貿易の相手国を獲得することだった。貢ぎ物を持ってやって来る外国人を増やすことで、皇帝の威信を高めたかったのだ。即位前の後継者争いで薄れた人望を回復したかったと言われている。

永楽帝の時代に首都が南京から北京に移ったことで、北京の料理に南方の食材や料理などが付け加わった。もともと北京(大都)の料理は中国四大料理(四大菜)の一つの山東料理の流れをくむが、元の時代にモンゴルの羊肉料理や乳製品を用いた料理が取り入れられ、明の時代に南方の料理がさらに組み込まれるのである。

・万里の長城と商業の発達と銀の流通
永楽帝の死後はモンゴル民族の侵攻が激しくなった。モンゴルの目的は茶の貿易だった。野菜の少ない北方ではビタミン補給のために大量の茶を飲むようになっていたが、明が茶の貿易を厳しく取り締まるようになったため、実力行使をしたのである。

それに対して皇帝の正統帝(在位:1435~1449年)は自ら大軍を率いて進撃したが、逆に捕虜になってしまう。モンゴルの要求は貿易であったためしばらくして皇帝は明に送還されるが、モンゴルの侵攻を恐れた明朝は防衛に徹することにし、それまでの「万里の長城」をレンガ積みにして高く強固に改修した。これが現在見られる形の万里の長城の始まりである。

その頃になると、江南地方で綿織物業・絹織物業・陶磁器業などの手工業が発達するとともに、湖広と呼ばれる長江中流域が大穀倉地帯として発展していた。こうして手工業製品や農産物の流通が盛んになったのだが、明には交易に使用する貨幣がほとんど流通していなかった。そこで銀が通貨として使用されるようになる。

・農民の困窮と北のモンゴル・南の倭寇
1500年頃になると明政府も銀を通貨として認めるようになる。官僚への給料は銀で支払われるようになり、農民の税も銀で納めさせたのだ。これは、国中の人々が通貨経済に組み込まれたことを意味している。

その結果、物の売買がますます盛んになって商業が発展する一方で、貧富の格差が際立ってきた。特に小作農が窮乏し、小作料の軽減を求めてたびたび運動を起こすようになる。また、土地を去って流民となる小作人も続々と現れ始めた。海外に脱出する者も増え始め、彼らは華僑となった。ちなみに、明の建国時には小作農はほとんどいなかったのだが、明の中期以降にはほとんどの農民が小作農になっていたと言われている。

さらにこの頃には北方のモンゴル民族の侵入が頻繁になるとともに、南の海では倭寇の活動が活発化する。

モンゴル民族の要求は相変わらず茶の貿易で、明朝が再び貿易を厳しく取り締まったため攻めてきたのだ。明朝はこの対応に必要な軍事費のために銀による課税を強化した。また、商業が発展していたため、市場でも銀がたくさん使われるようになっていた。このように銀の需要が増えたことに目を付けた倭寇は、日本で産出した銀を中国に密輸入して大儲けをしていたのだ。

明はどうしてもモンゴルと倭寇の活動をおさえることができず、最終的に両者との貿易を承諾することになった。その結果、辺境地域の取り締まりは不十分なまま残り、この間に後に清を建国する女真族が活動を活発化させるのである。

また、16世紀後半になると大航海時代に突入したヨーロッパ人が中国にも盛んに渡来するようになった。彼らはアメリカ大陸で発見されたサツマイモやトウモロコシ、ピーナッツなどの新しい作物と明が欲しがっていた銀を持ち込んだのである。

・明の滅亡
明代末期の皇帝とその取り巻きの宦官たちのほとんどは私利私欲に走ったため、明は滅亡への道をひた走ることになる。

万暦帝(在位:1572~1620年)は政治に無関心の金の亡者で、自身の蓄財のために民衆から厳しい搾取を行った。また、皇帝の側近に仕える宦官も私利私欲を追求した。その結果、民衆に強い不満が蓄積することになる。

万暦帝と続く天啓帝(在位:1620~1627年)の宦官だった魏忠賢は権勢をほしいままにした。彼は悪口を言った者を皆殺しにして、民衆には「九千歳!」(万歳は皇帝にしか使えないため)と叫ばせたと言われる。彼は女真族が勢力を拡大して明軍を破っても、見て見ぬふりをしてやり過ごしたとされる。

その頃の女真族は自らを文殊菩薩の音からとった「満州人」に改称し、1616年に遼東地域に「後金」を建国した。その後、1636年には国名を「大清国」とした。

明朝最後の第17代皇帝が崇禎帝(すうていてい)(在位:1627~1644年)だ。まじめな性格だったが猜疑心が強く、優秀な大臣や将軍を首にしたり処刑したりした。こうして明朝内部は機能しなくなってしまう。

一方、1628年に中国は北西部を中心に大飢饉にみまわれ、それをきっかけに農民の大反乱が発生する。軍事費を捻出するために明朝は増税を行ったのだが、これでさらに流民が生み出されて、次々と反乱軍に加わって行った。

そうした中で李自成(りじせい)(1606~1645年)は反乱軍のリーダーとして頭角を現し、大群を率いて各地の都市を制圧し、ついに皇帝のいる北京を包囲する。最後を悟った崇禎帝は自殺をはかり、明はついに滅亡することとなった。1644年のことである。

この時明軍の主力部隊は万里の長城の最東端にいて清軍と対峙していたが、国内の安定のために清軍を国内に引き入れた。清軍は北京を制圧し、こうして清代が始まるのである。

モンゴル帝国の時代-10~17世紀の中国の食(2)

2021-02-06 20:05:33 | 第三章 中世の食の革命
モンゴル帝国の時代-10~17世紀の中国の食(2)
「チンギス・カン」は日本ではとても有名です。



モンゴル高原の一部族の長に過ぎなかった者が、遊牧騎馬民族の機動力を利用してまたたく間に広大な領地を獲得して行った話はとてもインパクトがあります。私が「遊牧騎馬民族」という言葉を初めて知ったのも歴史の授業でチンギス・カンを習った時で、同じような人も多いのではないでしょうか。

なお、北海道のソウルフードの「ジンギスカン」も彼の名前からとったものですが、これは日本人が始めた料理で、ヒツジ肉を使うのがモンゴル風に見えたからと言われています。

今回はチンギス・カンが創始したモンゴル帝国について概要を見て行きます。

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中国北方のモンゴル高原で暮らしていたモンゴル民族が中国の史書に初めて登場するのは7世紀のことである。モンゴル民族はいくつかの国に従属しつつ勢力を拡大して行った。8世紀頃から始まる温暖化の影響受けて豊かになった草原の恵みをうけていたと思われる。そして12世紀になると、華北を支配していた金と対立することになる。

1206年にチンギス・カンがモンゴルの諸部族をまとめて即位すると、モンゴル民族は積極的な拡大路線を展開するようになった。そして1227年にチンギス・カンが死亡するまでに中央アジアと西アジアの草原地帯や乾燥地帯のほぼすべてを手中にした。

父の遺志を継いだ三男のオゴデイ(在位:1229~1241年)は江南の南宋と結び、1234年についに金を滅ぼす。しかし、この時にも南宋は過ちを犯した。モンゴル側が南宋との国境線としていた淮河(淮水)を越えて南宋軍が北方に進撃したのだ。こうしてモンゴル帝国と南宋との戦いが始まった。

一方、長男のジョチとその息子バトゥは西方への進出を担当し、地中海東部のヨーロッパのすぐ近くまで領地を拡大した。さらにバトゥはポーランドとハンガリーに進軍して大勝をおさめた。ヨーロッパ軍はバトゥ軍に手も足も出なかったのである。ところが1241年にオゴタイが死去すると、その知らせを受けたバトゥ軍はハンガリーより東に退却し、ヨーロッパ侵略は終了することとなった。

なお、オゴデイは大の酒好きで、亡くなる前日も夜遅くまで酒を飲んでいたと言われている。彼がもう少し長生きしていれば、ヨーロッパ全土がモンゴル帝国によって支配されていた可能性が高い。



モンゴル帝国ではオゴデイの死後すこしして後継者争いが勃発したが、最終的にオゴデイの弟の息子クビライ(フビライ)(在位:1260~1294年)が皇帝となる。クビライは1271年に国名を「大元」とし、首都の「大都」を今日の北京の地に築いた。また、南宋への侵攻を繰り返し、1276年に南宋の首都臨安を陥落させて事実上南宋をほろぼした。

クビライの時代のモンゴル帝国は、モンゴル民族最高位「ハン」のクビライが直接統治する東アジア(大元ウルス)と、クビライの親族が統治する北アジア(ジョチ・ウルス)・中央アジア(カイドゥ・ウルス)・西アジア(フラグ・ウルス)によって構成された連合国家と言える(「ウルス」はモンゴル語で「国家」「人民」という意味)。

モンゴル民族は遊牧民で、交易が生活必需品を手に入れる大きな手段だった。つまり、遊牧民は交易商人としての顔も持っていたのだ。クビライが主導したモンゴル帝国も商業第一主義の国家であり、征服した各地の商人(遊牧民)を使って広大なモンゴル帝国内に「大交易網」を整備した。また、ハンの威光を裏付けにした「紙幣」を発行することで商業を活発化させた。こうして商取引に税をかけ、モンゴル帝国の財源したのである。もちろん、大きな税収が見込まれる塩などの専売制は継続されていた。

日本を侵略しようとした「元寇(1274年・1281年)」も、優秀な刀剣などを生産する日本を帝国の経済圏に組み込むためだったのではないかと言われている。

以上のような巨大な交易網が発達した結果、それまで中国で食べられていた料理にモンゴル民族の料理とモンゴル帝国が征服した各地から取り入れた料理が融合した。

モンゴル民族に特徴的な食として「白い食」の乳製品と「赤い食」の肉がある。

それまでの中国では乳製品があまり食べられていなかったが、ヨーグルトやチーズのような乳製品や馬乳を発酵させて作った馬乳酒が出回るようになった。

一方、肉の中でモンゴル民族は羊肉をよく食べたが、イスラム教徒と接触することで民族の一部がイスラム化し、いっそう羊肉を食べるようになった。そして、支配された漢族がモンゴルの食事をヒントに生み出したのが、日本の「しゃぶしゃぶ」の原型とされる北京料理の「涮羊肉(シュワンヤンロウ)」だ。これは薄切りの羊肉を野菜と一緒に水炊きにしたものを、ごまだれなどで味付けして食べる料理だ。

また、モンゴル民族は穀物をほとんど食べなかったが、征服活動によって他民族と接触することによってコムギやコメなどを食べるようになった。インドで良く栽培されていたコーリャン(モロコシ)が中国でよく食べられるようになったのも元の時代からである。

これ以外には、インド方面から持ち込まれたコショウなどの香辛料がよく使用されるようになったし、砂糖の消費量も増えたと言われている。

さて、隆盛を極めていたモンゴル帝国だったが、14世紀になると未曽有の危機を迎えることになる。それが地球規模の寒冷化現象である。寒冷化によって農業生産力が落ち、それが帝国を支えていた商業にも波及したのである。こうしてユーラシア大陸に広がっていた交易網も分断されることになった。

ヨーロッパでもこの時期に寒冷化が起こり、農業生産量が激減して打ち捨てられる村が続出していた。なお、記録には少ないが、同時期に発生していたペストもモンゴル帝国に大きなダメージを与えたと考えられている。

さらに元の滅亡の大きな原因となったのが14世紀半ばに繰り返し起こった黄河の大氾濫である。黄河の氾濫によって流通網の大動脈であった大運河が使用できなくなったのだが、その改修工事に動員された民衆の不満が爆発し、全国的な反乱に発展して行ったのである。

反乱の中心人物の一人であった朱元璋(1328~1398年)は豊かな江南の地をおさえることで勢力を充実させ、1368年に南京で明を建国した。そして同じ年に元の首都大都を征服し、モンゴル民族を北方に追いやることで元を滅亡させたのである。

五代十国と宋-10~17世紀の中国の食(1)

2021-02-04 22:50:53 | 第三章 中世の食の革命
3・7 10世紀から17世紀の中国の食
五代十国と宋-10~17世紀の中国の食(1)
今回から中国の食のシリーズが始まります。

ところで、これまで西アジアやヨーロッパ、日本などの「中世」における食の話をしてきましたが、この中世の期間は中国の歴史では「近世」と呼ばれたり、あるいは中世や近世といった時代区分をしなかったりするのが一般的になっています。

そこで、このブログでは誤解を避けるために、「10世紀から17世紀の中国の食」とします。

第1回の今回は、この時代の前半の概要について見て行きます。

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唐は907年に滅んで、宋は960年に誕生するが、その間の約50年間には黄河流域の中原では後梁・後唐・後晋・後漢・後周という5つの王朝が順に建国と滅亡を繰り返し、江南(およそ中国の南半分)では呉越・南唐・前蜀・後蜀・呉・閩(びん)・荊南・楚・南漢・北漢という10カ国に分かれて興亡した。そのためこの期間は「五代十国時代」と呼ばれる。


五代十国(玖巧仔, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commonsより)

五代十国の建国者の多くは唐時代の軍の司令官(節度使)であり、他国に打ち勝つために軍備を増強するとともに国土の開発に努めた。その結果、後進地域で開発が進んでいなかった江南が先進地域の中原を凌駕する発展を見せるようになるのだ。

例えば、呉越は長江下流のデルタ地帯を支配していたが、ここは低湿地帯であり耕作をするのが難しかった。そこで呉越は排水設備を整え、耕地の開発を進めたところ、デルタ地帯は一面が水田となり、それ以降は中国で最も豊かな穀倉地方に成長して行ったのだ。なお、後にこの地域には上海が誕生することになる。

また、洞庭湖の南の楚では茶の栽培が盛んになり、茶葉を交易品として輸出することで繁栄した。さらに、桑の栽培とカイコの飼育も盛んになり、高価な絹織物も生産されるようになった。

呉は十国のうち最も栄えた国だったが、それは呉の支配した地域が塩の産地として有名で、塩の売買に高い税金をかけることで国庫が潤っていたからだ。その頃の塩は主に海水から作られており、広い国土の割に海岸線が短い中国で呉の支配した地域は砂浜が続き製塩に適していたのである。

このように、江南では様々な産業が興隆し発展して行った。

一方、中原では国内の政権争いや戦乱が絶えることなく続き、人民は疲弊していた。このような中で、最後に中原を支配した後周(951~960年)の皇帝世宗は五代随一の名君と言われ、農業生産や経済を安定化させるとともに軍事力を強化して領土を急速に拡大させた。このまま中国統一かと思われた矢先、世宗は道半ばで若死にしてしまう。

世宗の子は7歳と幼かったため、人望があつかった将軍の趙匡胤が禅譲を受けて「宋(960~1279年)」を建国した。そして、第2代皇帝太宗(在位:976~997年)の時代に宋が中国のほぼ全土を統一した。

宋の特徴は文官を使って経済主導型の政治を行ったことだ。

宋は登用試験として有名な科挙によって優秀な官僚を民間から集め、彼らを使って国を動かした。それまでの中国では武人によって国を治めた結果荒廃を招いたことから、それに対する反省があったと考えられる。

また、大量の貨幣を鋳造して貨幣経済を成立させ、産業や商業を振興することで経済的な繁栄を勝ち取った。そして、遊牧民の侵略など安全保障上の問題も、武力ではなく敵に金を払って調略することで解決したのである。

宋の首都の開封は政治の中心だけでなく、経済の中心であり、文化の中心でもあった。開封ではどこに店を開いてもよく、盛り場での夜通しの営業も可能で、夜が明けるまで多くの人でにぎわっていたという。

また、開封の数百万軒の家の中では燃料に石炭が使われており、薪を用いる家は無かったという。石炭は薪よりも高温となるため、素早く料理ができて便利だった。このように、高温の炎を使う中華料理が始まったのも宋の時代であり、現代の中華料理の基本形がこの時代にほぼ整ったと言われている。

また、茶を飲用する習慣は唐代に上流階級で一般化したが、宋ではさらに庶民の間にも普及した。農村では茶がよく栽培され、都市には茶館が作られた。また、この頃には遊牧民にも茶を飲む習慣が広がったので、宋の茶と遊牧民の馬を交換する茶馬貿易が盛んになった。

宋政府の歳入で大きな部分を占めていたのが、茶や塩、酒、鉄などの売買を国家が管理する専売制によって得た税金である。特に塩の専売制は莫大な金を生み出したと言われている。

以上のような食に関連する事柄については、このシリーズで詳しく見て行く予定だ。

さて、宋は北に位置する遊牧民国家の遼に銀や絹を差し出すことで国境を維持して来たが、1125年に女真族の金が遼を滅ぼし、さらに宋に攻めて来るという大事件が起こる。実は宋は金と結んで遼を滅ぼそうとしたのだが、金に対して再三の背信行為を行った結果、金が怒って宋を攻めたのだ。こうして金によって首都の開封は制圧され、皇帝は捕虜として連れ去られたのち死亡することとなった。

皇族の中では皇帝の弟の高宗が唯一南に逃げ延びることができた。金の侵攻は激しかったが何とか和議を結び、華北は金の領土とし、宋は江南地方を治めることとなった。これを南宋(1127~1279年)と呼ぶ。また、それ以前を北宋と呼ぶ場合がある。

南宋の国土と人口は以前の半分になったが、長江流域の開発がさらに進み、農業技術の進歩も相まってコメや茶の生産量が大幅に増加した。また、陶磁器や紙、絹織物などの生産業者が各地で誕生し、国内産業が発達するとともに対外貿易も盛んになった。

この発展を受けて、首都の臨安は開封をしのぐ繁栄をおさめることとなった。13世紀末に臨安を訪れたマルコ・ポーロはその発展ぶりに大いに驚いたと言われている。

日本人と肉食-中世日本の食(13)

2021-02-01 18:40:39 | 第三章 中世の食の革命
日本人と肉食-中世日本の食(13)
京都の伏見稲荷大社の参道にはスズメの焼き鳥を売る店があります。昔、その近くを通りかかったところ、私の前を歩いていた若者がスズメの焼き鳥を見て、すごく驚いたように隣の女性に声をかけました。

「見て!神社なのに焼き鳥売ってるよ!肉食べるのはダメなんじゃない」

大きな誤解があるようですが、それも仕方ないのかもしれません。と言うのも、神社など神聖な場所で動物の肉を食べるのはタブーと思っている日本人が少なからずいるように思われるからです。

そこで今回は、日本人の肉食の歴史について見てみようと思います。

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日本人にとって「肉」と言われて最初に思い浮かぶのは牛肉や豚肉などの四つ足の動物の肉のことで、鳥肉のことを最初に思い浮かべる人はあまりいない。また、魚ももちろん肉と呼ばれない。

神社のお供え物もこれに似ている。神前には供物としてシカやブタなどの四つ足の動物が供えられることはほとんどないが、魚が供えられることは多いし、ニワトリ以外の鳥(例えばカモやキジなど)が供えられる神社も多い。

これは、四つ足の動物や神聖なニワトリを食べると身体が穢れる(けがれる)という神道の考えがあるからだ。このため、六畜(ウマ・ウシ・ヒツジ・イヌ・イノシシ(ブタ)・ニワトリ)の肉を食べた場合には、穢れがとれるまでしばらくは飲食や行いをやめて家の中に閉じこもる「物忌み」をすることが取り決められていた。この物忌みの考えと仏教の不殺生戒の考えが組み合わさり、日本独自の肉食のタブーが作られて行ったと考えられる。なお、物忌みによる獣肉の制限は時代とともに厳しくなり、平安末期の貴族社会ではシカなども禁止されるようになった。

こうして貴族などの上流社会では獣の肉を食べることがタブーとされるようになったが、鳥や魚を食べることは禁じられていなかったのでよく食べられた。例えば、平安時代以降の宮廷や貴族の宴席ではキジが最高級とされ、ハクチョウとガンがそれに続き、ほかにカモ、ウズラ、ヒバリ、スズメ、シギなどが食べられていた。

一方、鎌倉時代になって政権を握った武士は狩をするのを常としていたため、獣の肉を食べることがタブーにならなかった。また、戦で力を使うため肉は良い栄養源となっていたし、狩を行うことは戦闘の訓練にもなった。

武士たちは狩場を多人数で包囲して狩をする巻狩りを行い、シカやイノシシ、ウサギ、クマ、タヌキ、サルなどを獲って食べていた。また、ガンやキジなどの野鳥も狩って食べた。なお、こうして狩で得た獲物の肉は箸ではなく直接手に取って食べるのが作法だったらしい。

また、鎌倉時代から捕鯨が盛んになった。

縄文時代の遺跡からクジラの骨が見つかっていることから、日本人は有史以前から鯨肉を食べていたことが分かっている。しかし、鎌倉より前はイルカや小型のクジラを獲ったり、浜に打ち上げられたクジラを食べたりした程度で、それほど多くのクジラは食べられていなかったが、鎌倉時代から大型のクジラを獲るようになったのである。

実際に関東の房総半島では13世紀頃から、クジラの骨を加工した釣り具や生活用品がよく使用されるようになった。また、鎌倉の海岸部の鎌倉時代の史跡からはクジラの骨がたくさん見つかっている。さらに、法華宗の宗祖である日蓮(1222~1282年)の1277年の書状に「房総で体長が30メートルほどのネズミイルカという大魚が獲れて鎌倉に送られ油を絞った」という記述があるが、この大魚はクジラと推測されている。

なお、その頃の漁は湾の入り口を網で塞いで鯨を捕獲する「追い込み漁」だったが、この漁はあまり効率的なものではなかった。

16世紀後半になると鉄製の漁具が普及し、複数の船に乗った漁師が矛(ほこ)や槍、銛(もり)を使ってクジラを突き殺す「突き取り式捕鯨」が行われるようになった。その結果、それまでよりもずっと多くの鯨肉が出回るようになって商業捕鯨が成立するようになる。こうして鯨肉は上流階級の口に入るようになったのだ。

例えば、1578年に織田信長が細川藤孝にあてた書状に、愛知の知多半島で獲れたクジラの肉を朝廷に献上するが、藤孝にもおすそ分けをすることが記されている。また、1591年9月に豊臣秀吉が毛利輝元邸を訪問した際に催された宴席では、白鳥やタラの汁物のほかにクジラの汁物が出たことが記録されている。

江戸時代になると捕鯨はさらに盛んに行われるようになり、庶民の間でもクジラが食べられるようになるが、それに関しては「近世」の項でお話しします。


(PexelsによるPixabayからの画像)

ところで、鎌倉時代になるといわゆる鎌倉新仏教が興った。この新仏教の根底にあったのが「末法思想」だ。末法思想とは、釈迦の入滅(仏滅)後しばらくたつと悟りと正しい行いが無くなるという考えで、日本では1052年から末法の時代が始まるとされていた。その末法の時代に独自の仏教を実践しようとしたのが鎌倉新仏教の開祖たちだったのだ。

鎌倉新仏教の一つの浄土真宗の宗祖である親鸞(1173~1263年)は「肉食妻帯」を始めたと言われている僧である。親鸞には次のような逸話がある。

北条政子の十三回忌の法要の後に催された宴席でタラが出たのだが、親鸞は袈裟を着たままこれを食べたそうだ。すると、その席にいた当時9歳だった後の北条時頼は「他の僧たちは袈裟を脱いで食べているのに、どうしてあなたは袈裟を脱がないのか」と何度も尋ねた。それに対して親鸞は「今は末法の世の無戒の時代です。僧侶の姿はしていても心は世俗の人たちと同じですから、タラを食べているのです。でも、せめてタラを解脱させてやりたいので、霊服である袈裟を着たまま食べているのです」と答えたという。

この逸話から、他の僧は袈裟を脱ぐことで庶民と偽って肉食をしていたが、親鸞は袈裟を着て肉食を行うことで「戒律を守らなくても念仏を唱えれば救われる」という新しい仏教の姿を周りに示そうとしたと言われている。

なお、現在のように僧侶の世界に肉食妻帯が一般化するのは明治になってからである。

*今回で日本の中世の食のシリーズは終了です。次回は中国の中世の食シリーズが始まります。