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~球児たちの あしあと~

兵庫球児100年のあしあと 29

2018-06-05 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 29


東洋大姫路によって兵庫へ5度目の大優勝旗が届いた59回大会。

1952年の第34回大会 芦屋が全国制覇を成し遂げてから25年、

決勝の舞台に兵庫勢が上がったことも25年ぶり。

愛知 東邦との決勝打は史上初のサヨナラ3ラン!劇的すぎる決勝戦だ。

準優勝投手となった東邦 坂本圭一投手は「バンビ」の愛称で親しまれ、

2016年夏の甲子園を沸かせた藤嶋投手が(中日ドラゴンズ)「バンビ二世」と呼ばれる由縁となった。

この後、1981年 第63回大会で金村義明投手を擁する報徳学園、

1993年 第75回大会には育英が全国制覇を果たした。

今夏、100回大会は育英の優勝から25年。

記念すべき大会で記念すべき記録と記憶を残す兵庫球児の姿が見たい。


第59回大会(1977年)

~東洋大姫路、深紅の大旗~


第59回大会決勝の市尼崎戦で1安打完封した東洋大姫路の松本正志投手


1977(昭和52)年の第59回大会は、王者・東洋大姫路が盤石の勝ち上がりを見せた。

5度目の出場となった夏の甲子園では決勝で安井浩二主将がサヨナラ3ラン。

大会史上初の快挙で初優勝を飾り、52年の県芦屋以来、

25年ぶりに兵庫に深紅のの大旗を持ち帰った。


左腕エース松本正志(元阪急)を軸に隙がなかった。

夏の大会前の春季近畿大会決勝では、強豪のPL学園(大阪)を相手に11-1で大勝。

兵庫大会も危なげなく、初優勝を狙った市尼崎との決勝は、松本が八回まで無安打。

九回に初安打を許したが、1安打完封の快投を演じた。


創部当初から部長を務めた大久保強(80)が

「練習試合も含めてほぼ負けたことのないチームだった」と評する絶対的なチーム。

70~80年代の黄金期でひときわ輝いた1年だった。


神戸新聞 宮崎真彦氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)


兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)


兵庫球児100年のあしあと 26
第52回大会(1970年)
第53回大会(1971年)


兵庫球児100年のあしあと 27
第54~56回大会(1972~74年)


兵庫球児100年のあしあと 28
第57回大会(1975年)
第58回大会(1976年)


兵庫球児100年のあしあと 28

2018-06-05 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 28


第57回大会は淡路対決!洲本が夏初優勝を飾った。

淡路島の方々の野球愛、球児愛は熱い。

淡路から甲子園へ!と、未来の高校球児を育てる少年野球も活発だ。

よく淡路のチームの試合を観戦するが、淡路勢が出場する対戦のスタンドは

OBの方々や多くの地元の方々の声援で沸く。

現在では明石海峡大橋を使い行き来できるようになったが、橋ができる前は、

「たこフェリー」の名で親しまれているフェリーに揺られ明石海峡を渡る手段しかなかった。

私も若かりし頃、たこフェリーオンリー手段の時代よく船に揺られて淡路へ渡った。

橋ができて以来フェリーで淡路に渡ったことはないが、ノンビリ旅気分の船旅が懐かしい。

現在はジェノバラインが運航されていて、島から船を使って毎日通学する学生さんが居たり、

明石の船着場から徒歩で来ることができる明石球場へ船で来られる方も居て、

淡路の方々にとって無くてはならない親しみのフェリーだ。

この時、明石港から島へフェリーで揺られてくる洲本ナインを多くの方が手を振り笑顔で迎えた姿が目に浮かぶ。


第58回大会は、市神港が甲子園へ帰った最後の夏となった。

もう市神港を甲子園で観ることはできないが、後身の神港橘が今夏初めて単独出場し新たな歴史を刻み始る。

200回大会を迎える頃、神港橘ナインが多くの輝くあしあとを残していたらいいなと思う。


第57回大会(1975年)

~史上初めての淡路島対決~


淡路島同士の第57回大会決勝を制し、表彰される洲本ナイン


洲本と津名が激突した1975(昭和50)年の第57回大会の決勝。

史上初となる淡路島決戦は洲本に軍配が上がった。


洲本は腰を痛めて登板を回避していたエースの左腕山家泰臣が準決勝の東洋大姫路戦でマウンドへ。

4連覇を狙う強豪相手の大一番で1失点完投。

準々決勝で報徳を破って勝ち上がってきた津名との決勝は、

同点の六回に二宮徹の適時三塁打などで2点を勝ち越し。

山家が準決勝に続いて1失点で完投し、3-1で制した。


53年の選抜大会で初出場初優勝の快挙を果たした洲本だが、夏の甲子園切符は初めて。

船で帰淡したナインを待つ洲本港は、老若男女で埋め尽くされた。

当時の遊撃手、野水直哉(60)は、

「あの光景を見て自分らが優勝したんだと実感した」と懐かしむ。

淡路島を二分した戦いは、今も多くの人の心に焼き付く。



第58回大会(1976年)

~古豪・市神港 最後の栄冠~


第58回大会で頂点に立ち、優勝旗を手に行進する市神港ナイン


1976(昭和51)年の第58回大会は市神港が8年ぶり7度目の優勝を飾った。

2018年3月に学校統合により閉校した同校にとって、これが最後の栄冠となった。


傑出した選手が不在のチームは粘りを武器に進撃した。

3回戦の篠山鳳鳴戦、4回戦の津名戦は逆転勝ち。

準決勝の三田学園戦も九回に追い付き、延長十回に勝ち越すなど、終盤の底力が光った。

東洋大姫路との決勝は四回に一挙6得点し、6-0で完勝した。


大正期の1917年に創部した古豪は、第一神港商時代の選抜大会2連覇を含み、全国大会出場は春夏15度。

山口高志(元阪急)、吉田孝司(元巨人)、宮本幸信(元阪急、広島など)ら数々の名選手も巣立った。

輝かしい歴史を刻み、創部100年を迎えた2017年夏、栄光に幕を下ろした。


神戸新聞 宮崎真彦氏

兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


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第47~49回大会(1965~67年)


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第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)


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第52回大会(1970年)
第53回大会(1971年)


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第54~56回大会(1972~74年)