甲子園きっぷ  yama’s stadium☆彡

~球児たちの あしあと~

兵庫球児100年のあしあと 31~40 第62回~第77回大会

2018-06-19 | 高校野球

兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)


兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)


兵庫球児100年のあしあと 33
第64回大会(1982年)
第65回大会(1983年)



兵庫球児100年のあしあと 34
第66回大会(1984年)
第67回大会(1985年)


兵庫球児100年のあしあと 35
第68回大会(1986年)
第69回大会(1987年)


兵庫球児100年のあしあと 36
第70回大会(1988年)
第71回大会(1989年)


兵庫球児100年のあしあと 37
第72回大会(1990年)


兵庫球児100年のあしあと 38
第73回大会(1991年)
第74回大会(1992年)


兵庫球児100年のあしあと 39
第75回大会(1993年)


兵庫球児100年のあしあと 40
第76回大会(1994年)
第77回大会(1995年)


兵庫球児100年のあしあと 40

2018-06-19 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 40

第76回大会は、前年全国制覇を果たした育英との兵庫大会決勝で1得点に涙した姫路工業が

兵庫大会史初となった飾磨との姫路対決を制し初優勝、甲子園への道を開いた。


第77回もチームの歴史を変えた尼崎北が初優勝。

あの阪神淡路大震災のあった夏だった。

自分自身、震災の被災者であったあの時、選抜が開催できるのか・・・

という状況は遠目に耳にしていたけど、生活再建に奮闘していた頃。

選抜も夏の甲子園も全く記憶にはない。

というのも、この頃、私は高校野球に全く興味がなく、

一度もテレビでも甲子園、高校野球というスポーツを観たことがなかった。

興味がなかったというより、野球自体が好きじゃなかったのだ。

だからこの年だけじゃなく、それまでの高校野球、野球自体に目を向けたことはなかった。

今の自分があるのが・・・自分でも不思議。

私が野球嫌いだった?と、今を知る方は目を丸くするだろうなっ@@。。。

もうすぐこの白球回想 夏の兵庫大会史にその真相の時がやってくる。


第76回大会(1994年)

~姫路工台頭、公立の雄に~


第76回大会で初優勝を果たし、福井薫監督を胴上げする姫路工ナイン


公立の雄として台頭した姫路工は「旬」を迎えていた。

前年の兵庫県大会は春優勝、夏準優勝、秋準優勝。

秋の近畿大会では4強入りし、甲子園初出場となった1994(平成6)年の選抜大会でベスト8に進んだ。


同年春の県大会は3位に入り、近畿大会で4強進出。

優勝候補の筆頭格として挑んだ第76回兵庫大会は初戦の2回戦こそ川西北陵に3-2で

九回逆転サヨナラ勝ちと薄水を踏む思いだったが、尻上がりに調子を上げて決勝へ。


大会史上初の姫路決戦となった飾磨との戦いは2-0で制した。

創部47年目での悲願達成。

「選手が最後に甲子園で成長した力を発揮してくれた」

と目を細めた監督の福井薫は溶接科教論で、当時46歳だった。


神戸勢の連続優勝を6でストップさせ、公立としては7年ぶりの栄冠。

16強のうち10校を占めるなど公立勢が躍進した。


第77回大会(1995年)

~震災乗り越え尼崎北制す~


第77回大会決勝を制し、夏の甲子園初出場を決め、大喜びする尼崎北ナイン


1995(平成7)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、被災地の球児たちにも大きな影響をもたらした。

ただ、一時は開催が危ぶまれた選抜大会は神港学園、育英、報徳の3校が

そろって初戦を突破し、地元に明るい話題を提供した。


春の兵庫県大会は選抜出場全3校を直接対決で破った村野工が初優勝。

迎えた第77回兵庫大会では初めて、グリーンスタジアム神戸

(現ほっともっとフィールド神戸)での試合が組まれた。


村野工と選抜出場3校が準決勝までに姿を消す中、

決勝は春の県大会4強の尼崎北とノーシード神戸弘陵の対戦に。

エース越智崇を中心にチーム一丸となった尼崎北が郡雄割拠の大会を制した。


選抜大会は4度の出場歴を誇るが、夏の甲子園は創部45年目で初めて。

母校を率いた31歳の植田茂樹は「ありがとうと言いたい」と後輩たちに感謝した。


神戸新聞 大原篤也氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)


兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)


兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)


兵庫球児100年のあしあと 33
第64回大会(1982年)
第65回大会(1983年)



兵庫球児100年のあしあと 34
第66回大会(1984年)
第67回大会(1985年)


兵庫球児100年のあしあと 35
第68回大会(1986年)
第69回大会(1987年)


兵庫球児100年のあしあと 36
第70回大会(1988年)
第71回大会(1989年)


兵庫球児100年のあしあと 37
第72回大会(1990年)


兵庫球児100年のあしあと 38
第73回大会(1991年)
第74回大会(1992年)


兵庫球児100年のあしあと 39
第75回大会(1993年)


兵庫球児100年のあしあと 39

2018-06-19 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 39

1990年 第72回大会から3年ぶりに育英が優勝。

1935年 第21回大会で育英商が初優勝を飾ってから5度目の甲子園。

甲子園では初出場の21回大会準優勝が最高成績。

22回大会ベスト4、39回大会初戦敗退、72回初戦敗退。

21回大会から58年戦い続け悲願の初全国制覇を成し遂げた。

兵庫勢としては1981年 第63回大会 報徳学園が全国制覇を遂げてから12年ぶり7度目の全国制覇。

育英の制覇から24年、兵庫球児は甲子園決勝の舞台から遠ざかっている。

特別な夏にその姿を観たい!


第75回大会(1993年)

~育英、悲願の全国制覇~


第75回大会決勝、8回、内野ゴロの間に生還する育英の大村直之


前年秋の兵庫県大会は公立勢が4強を独占。

春の兵庫県、近畿大会は姫路工が初優勝した。

迎えた1993(平成5)年の第75回兵庫大会。

初の決勝に進んだ姫路工を相手に、前年の選抜大会8強メンバーが残る育英が私学の意地を見せた。


息詰まる投手戦となった大一番。

後に近鉄などで1865安打を放った育英・大村直之が「足」で攻めた。

両校無得点で迎えた八回、先頭打者で二塁打を放った大村を犠打で三塁に進め、

渡辺順之の二ゴロの間に決勝点を奪った。

直前のスクイズ失敗も素早く帰塁し、強い打球の内野ゴロで迷わず本塁を突いた

大村のセンスが3年ぶり5度目の栄冠を引き寄せた。


甲子園では今も残る30犠打の大会最多記録をマークするなど機動力を駆使し、

兵庫勢としては12年ぶりの頂点に立った育英。

当時の主将、安田聖寛が2012年から母校を率いる。


神戸新聞 大原篤也氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)


兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)


兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)


兵庫球児100年のあしあと 33
第64回大会(1982年)
第65回大会(1983年)



兵庫球児100年のあしあと 34
第66回大会(1984年)
第67回大会(1985年)


兵庫球児100年のあしあと 35
第68回大会(1986年)
第69回大会(1987年)


兵庫球児100年のあしあと 36
第70回大会(1988年)
第71回大会(1989年)


兵庫球児100年のあしあと 37
第72回大会(1990年)


兵庫球児100年のあしあと 38
第73回大会(1991年)
第74回大会(1992年)


兵庫球児100年のあしあと 38

2018-06-19 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 38は、73回大会、74回大会とも初優勝校の誕生。

73回大会は、現在身近に応援させていただいている神戸村野工業。

記事に出てくる安達投手は一昨年亡くなられた。

安達氏は阪神タイガースを退団後多々の経緯を経て、

中学硬式チーム美蹴館ロケッツの監督さんを務められていた。

私の幼馴染のご主人と深い親交があり、あれは2010年だったか・・・

その幼馴染の息子がヤングリーグのチームで野球をしていた時、

対戦した際に一度だけ安達氏にお会いしたことがある。

あの安達氏が・・・まだ41歳というお若さでの訃報に衝撃を受けた。

その安達投手擁する神戸村野工業は春夏連続の甲子園出場を果たした。

幼少期患っていた小児がんを克服し野球道へ。

プロ野球選手まで登りつめた安達氏は、甲子園への道を切り開いた村野工業の球歴に大きな名を残す大投手だ。

この優勝から27年。

100回目の夏、後輩たちが甲子園で輝く姿を空の上から見て欲しい。

ご縁いただいた村野工業の選手たちが27年ぶりの甲子園を目指す夏を気持ちを込めて応援したい。


74回大会は、神港学園の初優勝。

昨年ご勇退された北原光広元監督さんの初甲子園であった。

神港学園チームTシャツの背中にある「この一球」の意味をこの記事で知った。

現チーム主将の佐々木選手のお父さんは村野工業の選手だった。

よくお会いするがとても気さくな方だ。

そこにも繋がりがあり、村野工業とは不思議なご縁を感じる。

神港学園はこの後78、85回大会でも優勝を遂げているが、

今夏、北原直也新監督さんと15年ぶりの甲子園を目指す。

200回を迎える時、北原新監督さんの胴上げのシーンが記事になっていたら素敵だ。


第73回大会(1991年)

~安達擁し村野工初V~


第73回大会で初優勝に導いた村野工の安達智次郎投手


1991(平成3)年の第73回大会は、140㌔超の速球を誇る大型左腕の2年生エース

安達智次郎を擁した村野工が悲願の初優勝を飾った。


ノーシードからの発進だったが、3回戦で神戸弘陵を1-0で退け、勢いに乗った。

安達は後に「誰も甲子園に行くとは思っていなったでしょう」と回想する。


同級生の黒田哲史(元西武など)とともに、翌春の選抜大会にも出場した。

21(大正10)年創部の古豪だが、甲子園出場は78年春の選抜大会が初めて。

計3度の聖地で、まだ白星は挙げられていない。


安達は松井秀喜(元ヤンキースなど)の外れ1位で阪神に入団。

けがなどもあって1軍出場はなく、99年限りで現役を退いた。

打撃投手を経て神戸市内で飲食店を経営していた2016年、内蔵疾患のため亡くなった。

41歳の若さだった。


第74回大会(1992年)

~神港学園、大願成就~


第74回大会で初優勝を飾り、胴上げされる神港学園の北原光広監督


直近4年間で3度目の決勝進出。

1992(平成4)年の第74回大会で神港学園がとうとう大願を成就させた。


準決勝で選抜8強の育英を撃破すると、決勝では春の県大会覇者・滝川第二を退けた。

前年準優勝の悔しさを知るエース井上立暁を中心に、旧私神港時代の82年から

指揮を執る北原光広監督が執念を見せた。


好投手として注目された岡山・倉敷商高時代、暴投でサヨナラ負けした苦い経験から

一つ一つのプレーにこだわってきた北原監督。

「この一球」を座右の銘とし、阪神・淡路大震災の影響で開催が危ぶまれた95年の選抜大会で

8強に進むなど、春夏計8度の甲子園で8勝を挙げた。


指揮官は2017年度限りで退任。

選手時代に父子で甲子園に出場し、コーチ、部長としてチームを支えてきた長男直也にタクトを託した。


神戸新聞 大原篤也氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)


兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)


兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)


兵庫球児100年のあしあと 33
第64回大会(1982年)
第65回大会(1983年)



兵庫球児100年のあしあと 34
第66回大会(1984年)
第67回大会(1985年)


兵庫球児100年のあしあと 35
第68回大会(1986年)
第69回大会(1987年)


兵庫球児100年のあしあと 36
第70回大会(1988年)
第71回大会(1989年)


兵庫球児100年のあしあと 37
第72回大会(1990年)