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~球児たちの あしあと~

兵庫球児100年のあしあと 30

2018-06-06 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 30

第60回は1971年 第53回大会優勝から7年ぶりに報徳学園が頂点に立ったが、

1975年 第57回の淡路同士の決勝対決から3年。

淡路勢の躍進が光った大会となった。


公立校、私立校という隔たりを感じない現在の兵庫の高校野球。

秋春、そして夏と毎大会のように公立校が決勝で顔を見せる。

第61回大会決勝も公立校同士の対決。

明石南は市立尼崎に1-0の大接戦で勝利し初の優勝を決めた。

その決勝点となった1得点の取り方が凄い!

上手くいけば永遠のヒーロー!アウトとなれば・・・

紙一重、勇気の走塁に大きな拍手を贈りたい。

しかし・・・

エースの勇気の決行に三塁コーチは一瞬、時が止まったようなスローな記憶を

今も思い出すとドキドキされるのだろうな。

良い思い出だな。


ベンチ前に整列する球児と、優勝旗を掲げ満面笑みの球児。

60、61回大会を紹介する写真も紙一重・・・


第60回大会(1978年)

~淡路勢躍進、4強に3校~


第60回大会決勝で報徳いに敗れベンチ前に整列する洲本ナイン

甲子園球場でゲームができるのは地元兵庫球児のいわば特権。

1978(昭和53)年の第60回大会も、神戸北と初出場の三木東が対戦する

開幕カードをはじめ5試合が組まれた。


ベスト4に洲本、洲本実、津名の淡路3校が残った。

洲本は5回戦でこの年の選抜大会に出た村野工業を延長十三回、

8-7で退けた粘り強い試合運びが光った。

当時の淡路勢は鳴門海峡を船で四国へ渡る"武者修行"でチーム力を強めた。

決勝は報徳がその洲本を3-2で下し、7年ぶりの優勝を飾った。


ここに一つのデータがある。

大会参加校の主将の守備位置を調べると、63年の第45回大会(参加93校)は

投手が2割を占めたが、第60回大会(同135校)では1割と半減。

識者は「エースで主将という一人のスターをつくるより、組織力を重視する時代になった」

とコメントする。


第61回大会(1979年)

~波乱の大会、明石南初V~


第61回大会で初優勝を飾った明石南ナイン

1979(昭和54)年の第61回大会は波乱が相次いだ。

この年の選抜大会8強の尼崎北は5回戦で敗れ、ベスト8は

豊岡、舞子、兵庫、明石南、尼崎小田、武庫荘、市尼崎の公立が7校を占めた。

4回戦で2点差を追う九回に一挙5点を挙げ、御影工に逆転勝ちして勢いづいた

明石南が初の頂点に上り詰めた。


決勝で対戦した市尼崎のエース林泰宏は、ドラフト1位で巨人に入団する逸材。

準々決勝では選抜大会4強の東洋大姫路を2安打完封した。

明石南は両校無得点の六回2死二塁から細田士郎の中前打で決勝の1点を挙げた。

市尼崎は2年前に次ぎ決勝で涙をのんだ。


明石南の三塁ランナーコーチだった川崎透(56)は

「二塁走者がエース浜名敬一だったこともあり、三塁で止まる指示をしたが、

制止を振り切って本塁に突入した」と決勝点の場面を鮮明に覚えている。


神戸新聞 吉岡猛逸氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)


兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)


兵庫球児100年のあしあと 26
第52回大会(1970年)
第53回大会(1971年)


兵庫球児100年のあしあと 27
第54~56回大会(1972~74年)


兵庫球児100年のあしあと 28
第57回大会(1975年)
第58回大会(1976年)

兵庫球児100年のあしあと 29
第59回大会(1977年)