白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 30
第60回は1971年 第53回大会優勝から7年ぶりに報徳学園が頂点に立ったが、
1975年 第57回の淡路同士の決勝対決から3年。
淡路勢の躍進が光った大会となった。
公立校、私立校という隔たりを感じない現在の兵庫の高校野球。
秋春、そして夏と毎大会のように公立校が決勝で顔を見せる。
第61回大会決勝も公立校同士の対決。
明石南は市立尼崎に1-0の大接戦で勝利し初の優勝を決めた。
その決勝点となった1得点の取り方が凄い!
上手くいけば永遠のヒーロー!アウトとなれば・・・
紙一重、勇気の走塁に大きな拍手を贈りたい。
しかし・・・
エースの勇気の決行に三塁コーチは一瞬、時が止まったようなスローな記憶を
今も思い出すとドキドキされるのだろうな。
良い思い出だな。
ベンチ前に整列する球児と、優勝旗を掲げ満面笑みの球児。
60、61回大会を紹介する写真も紙一重・・・
第60回大会(1978年)
~淡路勢躍進、4強に3校~
第60回大会決勝で報徳いに敗れベンチ前に整列する洲本ナイン
甲子園球場でゲームができるのは地元兵庫球児のいわば特権。
1978(昭和53)年の第60回大会も、神戸北と初出場の三木東が対戦する
開幕カードをはじめ5試合が組まれた。
ベスト4に洲本、洲本実、津名の淡路3校が残った。
洲本は5回戦でこの年の選抜大会に出た村野工業を延長十三回、
8-7で退けた粘り強い試合運びが光った。
当時の淡路勢は鳴門海峡を船で四国へ渡る"武者修行"でチーム力を強めた。
決勝は報徳がその洲本を3-2で下し、7年ぶりの優勝を飾った。
ここに一つのデータがある。
大会参加校の主将の守備位置を調べると、63年の第45回大会(参加93校)は
投手が2割を占めたが、第60回大会(同135校)では1割と半減。
識者は「エースで主将という一人のスターをつくるより、組織力を重視する時代になった」
とコメントする。
第61回大会(1979年)
~波乱の大会、明石南初V~
第61回大会で初優勝を飾った明石南ナイン
1979(昭和54)年の第61回大会は波乱が相次いだ。
この年の選抜大会8強の尼崎北は5回戦で敗れ、ベスト8は
豊岡、舞子、兵庫、明石南、尼崎小田、武庫荘、市尼崎の公立が7校を占めた。
4回戦で2点差を追う九回に一挙5点を挙げ、御影工に逆転勝ちして勢いづいた
明石南が初の頂点に上り詰めた。
決勝で対戦した市尼崎のエース林泰宏は、ドラフト1位で巨人に入団する逸材。
準々決勝では選抜大会4強の東洋大姫路を2安打完封した。
明石南は両校無得点の六回2死二塁から細田士郎の中前打で決勝の1点を挙げた。
市尼崎は2年前に次ぎ決勝で涙をのんだ。
明石南の三塁ランナーコーチだった川崎透(56)は
「二塁走者がエース浜名敬一だったこともあり、三塁で止まる指示をしたが、
制止を振り切って本塁に突入した」と決勝点の場面を鮮明に覚えている。
神戸新聞 吉岡猛逸氏
兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)
兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)
兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)
兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)
兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)
兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)
兵庫球児100年のあしあと 26
第52回大会(1970年)
第53回大会(1971年)
兵庫球児100年のあしあと 27
第54~56回大会(1972~74年)
兵庫球児100年のあしあと 28
第57回大会(1975年)
第58回大会(1976年)