白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 35
第68回大会には明石城西、北摂三田、伊川谷北が甲子園への道を歩み始めた。
この年には出場校は現在とほぼ同数の164校となり、甲子園県の兵庫が「近くて遠い甲子園」・・・
と言われるようになった全国でも指折り数える激戦区となった。
67回大会から2連覇 東洋大姫路が史上4度目の決勝延長戦(十回)で滝川第二を下して8度目の甲子園へ。
1963年創部の東洋大姫路。
1969年 第51回大会の初優勝から僅か18年の間に8度の優勝は本当に凄い。
第69回大会は、東洋大姫路が強さを魅せる中、前年準決勝で涙した明石が
1984年 第66回大会から3年ぶり6度目の優勝。
この後30年もの長い時間が流れ、明石は決勝の舞台に上がっていない。
100度目の夏、古豪明石3年ぶり7度目の優勝!を多くのOBの方々は心待ちにしているだろう。
この大会から今では必ず観る光景、応援者もその姿を楽しみにされている勝利を讃える校歌斉唱が聞こえるようになった。
この頃の各校の部員数がどのくらい居たのかは不明だけど、スタンドで戦う選手にとっても
勝利の校歌斉唱は懸命に応援プレイに徹したことへ何より胸を張れる瞬間だったはずだ。
驚くは、69年目にして・・・
またひとつ兵庫の高校野球の大きな改革だ。
決勝で敗れた高砂ナインへ監督さんの言葉が胸に染みる。
そう・・・球児たちはみんな
そこまでの長い時間それを目指して、経験したことがない者には絶対に分からない、
考えられないくらいの汗と涙を流してきたんだから。
素晴らしい指導者との出逢いだな。
第68回大会(1986年)
~東洋V2、長谷川 滋 躍動~
第68回大会決勝で力投する東洋大姫路の長谷川滋利投手
1986(昭和61)年の第68回大会は明石城西、北摂三田、伊川谷北が初出場し、参加校は164校を数えた。
ベスト8は加古川西、明石、星陵、須磨(須磨翔風)、西宮南の公立5校、
滝川第二、神戸弘陵、東洋大姫路の私立3校。
明石を7-0で下した滝川第二と、旋風を巻き起こした西宮南を延長戦で退けた東洋大姫路が決勝に進んだ。
総力戦となった決勝。
東洋大姫路は7-7の延長十回、長谷川滋利(元マリナーズなど)が
左前打で出塁してサヨナラのホームを踏んで連覇を達成した。
長谷川は83年、宝殿中(高砂市)が全国制覇した時の優勝投手。
監督の梅谷馨は「日本一になるような子はどこか違うものを持っている」と言っていたが、
その勝負強さは大したものだった。
滝川、滝川第二を率いた吉本宗泰と梅谷が対決した最後の試合でもあった。
第69回大会(1987年)
~高砂破り、明石が栄冠~
第69回大会決勝で高砂を破り、6度目の優勝を果たした明石ナイン
1987(昭和62)年の第69回大会から春夏の甲子園大会同様、
勝利校の校歌が試合後の球場に流れるようになった。
ベスト8は宝塚西、舞子、武庫荘、高砂、明石、社の公立6校、
東洋大姫路と村野工の私立2校。
決勝も明石ー高砂の公立対決となり、藤本一郎、井上高行が゛投の2本柱゛を
形成する明石が4-1で春夏連続の甲子園出場を決めた。
3年ぶり6度目の栄冠。
高砂の左腕エース橋本智裕は、全7試合59イニングを1人で投げ抜いた。
決勝翌日の8月1日付神戸新聞には肩を落とす高砂ナインの写真とともに、
監督の藤井智司の「泣くな。みんなよくやったんだ。みんなに100点、いや150点やりたい」
と選手をたたえる言葉が載っている。
東洋大姫路監督の梅谷馨が今大会を最後に勇退した。
甲子園出場は夏が5度、春は3度だった。
神戸新聞 吉岡猛逸氏
兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)
兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)
兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)
兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)
兵庫球児100年のあしあと 33
第64回大会(1982年)
第65回大会(1983年)
兵庫球児100年のあしあと 34
第66回大会(1984年)
第67回大会(1985年)
白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 34
第66回大会は、1960年 第42回大会で強豪育英を1-0で制し、
前身の明石中を含め4度目の優勝を手にしてから24年の時を超えて明石が優勝。
前年、須磨友が丘、川西西陵、三木北、神戸弘陵が初出場し、
翌年の、この66回大会では西宮甲山、播磨南、加古川南の3校が新たに兵庫高校野球の歴史に加わった。
66回の歴史の中で3度目の決勝延長戦となった。
初の決勝延長戦となった1934年第20回大会、優勝した神戸一中と対戦したのが前身の明石中だった。
第67回大会は、東洋大姫路が3年ぶりに優勝。
次に紹介する68回大会で連覇を果たすことになる。
その東洋大姫路と4回戦で一旦、部の歴史にピリオドを打った滝川の最後の夏。
姫路球場にその勇姿を観ようと7千人もの人が集まった光景を思い浮かべる。
その翌年、伝統を受け継いだ滝川第二が決勝に進出し、史上4度目の決勝延長戦を戦うことになる。
第66回大会(1984年)
~明石復活 24年ぶりV~
第66回大会で24年ぶりに優勝旗を手にした明石ナイン
1984(昭和59)年の第66回大会終盤は、ロサンゼルス五輪の会期と重なった。
西宮甲山、播磨南、加古川南の初陣3校を含め、155校が参加した。
同年開校の播磨南は1年生だけのチーム編成で臨み初戦でコールドゲーム負けしたが、
翌々年に大会初勝利を含む2勝をマークする。
名門復活を告げる明石の24年ぶり優勝が、全国的な話題となった。
村野工との決勝は延長十一回の熱戦を3-2で制した。
5回戦の香寺戦、準々決勝の舞子戦、準決勝の神港学園戦とも
1失点で切り抜けた小柄なエース高橋俊夫の外角低めを突く粘投がさえた。
主将だった岸本剛は県高校野球史に
「目標はベスト16突破だった。甲子園へ行きたい気持ちはあったが、現実とあまりにもかけ離れていた。
だから甲子園でPL学園に負けるまで本当に夢見心地だった」
と思い出を寄せている。
第67回大会(1985年)
~名門「滝川」最後の夏
第67回大会4回戦の東洋大姫路ー滝川戦を報じる1985年7月25日付の神戸新聞紙面
1985(昭和60)年の第67回大会を最後に廃部となる滝川が、全国的な注目を集めた。
東洋大姫路との4回戦。
姫路球場は約7千人の観客で膨れ上がった。
東洋大姫路・豊田次郎(元オリックス)、滝川・池上誠一(元近鉄)の両エースの投げ合いが続く。
東洋大姫路は七回、代打長谷川滋利(元マリナーズなど)の適時打で決勝の1点を奪った。
同年の選抜大会に出たチーム同士の対戦となった決勝は東洋大姫路が2-1で報徳に逆転勝ちした。
3年ぶり7度目の栄冠。
滝川の伝統は滝川第二が継承。
野球部の灯が消えた滝川で「新しく部をつくろう」という機運が高まり翌春、県高野連に再加盟する。
昭和40~50年代に部長を務めた平田家興(78)は
「滝川第二は伝統を受け継いだが、滝川の甲子園出場回数という歴史を引き継げない寂しさがあった」
と打ち明ける。
神戸新聞 吉岡猛逸氏
兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)
兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)
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第62回大会(1980年)
兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)
兵庫球児100年のあしあと 33
第64回大会(1982年)
第65回大会(1983年)