白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会は報徳学園が60回大会から3年ぶりの優勝。
大好きな金村(投手)さんの登場です♪
金村さんの野球解説、あの的を得ているボヤキ方が何ともおもしろいですよね~
記事に紹介されている写真は満面の笑みで優勝旗を掲げる金村さん。
若い!(当然か~)細い~笑
明るい性格がにじみ出ている金村さんの素敵な青春の笑顔です。
春夏連続の甲子園出場、初の全国制覇と最強報徳時代の到来。
兵庫勢としては6度目の優勝となった。
全国制覇へと導いたチャンスメイカーは・・・何と!
兵庫大会準々決勝の土壇場で「代打」で打席に立った永田裕治選手。
後に報徳学園の大きな歴史を刻まれ、2017年ご勇退された報徳学園 永田監督さんだ。
縁とは本当凄いものだなぁ~。
永田監督さんは9月に行われるU18アジア選手権に出場する高校日本代表の監督として采配を振るわれる。
恩師と共に目指すアジアの頂点。
とても素敵な光景だなぁ。
一人でも多く報徳球児がメンバーに選ばれることを願う。
第63回大会(1981年)
~報徳、金村擁し悲願~
第63回大会を制し、優勝旗を差し上げ喜ぶ報徳の金村義明投手
1981(昭和56)年の第63回大会決勝は、報徳が5-1で東洋大姫路を下して
春夏連続の甲子園出場を決め、さらに悲願の全国制覇を達成した。
村田真一(元巨人)が4番を打つ滝川との準々決勝で命拾いをしている。
1点リードされて後のない九回、代打永田裕治の中前打を足場に追い付いて延長十二回、サヨナラ勝ちした。
兵庫大会ベスト8止まりと紙一重の「日本一」だった。
ドラフト1位で近鉄に入る金村義明が、エースで4番の大黒柱。
全国に頂点への道のりも険しかった。
主将の大谷晴重は2002年の神戸新聞連載で、
工藤公康(現ソフトバンク監督)を擁する名古屋電気(現愛工大名電)との対戦を
「勝つことより三振を10個以上しないことが目標だった」と振り返っている。
永田は02年の選抜大会で、今度は監督として母校を優勝に導いた。
神戸新聞 吉岡猛逸氏
兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)
兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)
兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)
白球回想 夏の兵庫大会史
兵庫球児100年のあしあと 31
1984年 滝川第二に夢託すこととなった(旧)滝川の最後の栄冠となった第62回大会。
100回目の夏、決勝で兄弟校対決が見られること、
復活後初の甲子園出場を多くの大先輩たちが楽しみにしておられるだろう。
第62回大会(1980年)
~「滝川」最後の優勝~
甲子園で力投する滝川の石本貴昭投手
県高校野球界をリードしてきた滝川と報徳が夏の決勝で顔を合わせるのは、
1980(昭和55)年の第62回大会が初めて。
同年の選抜大会ベスト16の滝川が4-2で逆転勝ちし、春夏連続の甲子園出場を決めた。
10年ぶり7度目の栄冠。
「滝川」としての優勝は、これが最後となる。
左腕エース石本貴昭が進撃の立役者となった。
東洋大姫路と対戦した正念場の準決勝は11奪三振、1失点の快投。
ドラフト1位で近鉄に入り、5年目の85年、19勝(3敗)7セーブをマークして堂々の勝率1位に輝いた。
石川と滝川で同級生だった将棋の谷川浩司九段は同校野球部史に
「昭和55年センバツの鳴門戦で石本君が突然制球を乱し、
三塁側アルプス席の私達は立ち上がって肩を組み
『石本頑張れ』と精いっぱい応援した」と寄稿している。
神戸新聞 吉岡猛逸氏
兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)
兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)