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~球児たちの あしあと~

兵庫球児100年のあしあと 46

2018-06-30 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 46


報徳学園が2年ぶりに甲子園へ帰った第86回大会は、準決勝にスポットライトが当たる。

勝者にとっては劇的、敗者にとっては悲劇的。

記事からその瞬間を球場で見ていたような感覚になった。

初優勝を目前に悲劇的に敗れた社を指揮されておられた当時の森脇監督さんは、

今でも悔いが残ると語られるが、その一戦から14年、これからの時の流れの中で、

指揮官も選手たちにも本当良い思い出だと笑い合える瞬間がきっとくる。

それが高校野球の何より素敵なところであると思う。

多くの先輩たちの夢も乗せて悲願の初優勝を目指す社の夏がもうすぐ始まる。


努力が報われた2005年夏

第87回大会は、1994年第76回大会から11年ぶりの姫路工業が優勝。

翌年第77回大会の覇者は尼崎北と2年連続公立校の優勝からの10大会覇者は

全て強豪私学の名が連なる中、10年ぶりに公立校が優勝を飾った。

優勝に導いたチームの柱、畑井投手は「夏の決勝をイメージして練習をしてきた」と。

試合のための練習をとよく言われるが、分かっていてもなかなか心強く継続的に行うことは難しい部分もあると感じる。

優勝を掴む瞬間を想定した「決勝のための練習」をコツコツと積んできた畑井投手の継続強心、寡黙な努力が目に浮かぶ。

優勝することを当然目指しているのだから、畑井投手にとっては試合のための練習は特別なことではなく当たり前のことだったのだろう。


第86回大会(2004年)

~北播の雄・社・無念の4強~


第86回大会準決勝で延長15回サヨナラ負けを喫し、肩を落とす社の大前佑輔投手(左)


2004(平成16)年の第86回大会は北播の雄・社が初優勝の期待を集めた。

大前佑輔、坪井俊樹(元ロッテ)の左腕2人を柱に、同年の選抜大会は初出場で4強。

夏も本命視されたが、待っていたのは悲劇的な結末だった。


準決勝で同じ公立の市尼崎と激突した。

社が終盤に追い付き、延長戦へ。

2-2の十五回裏、1死満塁のピンチで社は勝負に出る。

空振り三振を奪った直後、捕手が離塁が大きい三塁走者をけん制。

併殺を狙った送球は三塁手のグラブに収まらず三走が生還。

引き分け再試合目前、無情のサヨナラ負けだった。


「(けん制は)ベンチのサインでした」。

現在、同校校長を務める当時の監督、森脇忠之(60)はそう明かす。

2年前の02年も準決勝敗退。

「決勝への意識が焦りになったのか。

私が腰を落ち着けていれば・・・。今でも悔いが残る」


市尼崎は決勝で敗れ、左腕片山博視(元楽天)を擁した報徳学園が優勝した。


第87回大会(2005年)

~私学連破、姫路工が奪取~


第87回大会で11年ぶりの優勝を決め、マウンドに駆け寄って喜ぶ姫路工ナイン


公立勢の覇権奪取は1995年の尼崎北以来、10年ぶり。

2005(平成17)年の第87回大会は姫路工がノーシードから頂点に駆け上がった。


2回戦で神港学園、5回戦で滝川第二と私学を連破し、決勝の相手も同年の選抜大会4強の神戸国際大付。

大西正樹(元ソフトバンク)、有元一真の二枚看板に対し、姫路工は右横手の畑井宏之が1回戦からほぼ一人で投げてきた。

8連投となった決勝も生命線の制球は乱れず、精密な投球で三回以降を無失点。

3-2で振り切り、私学の牙城を切り崩した。


畑井は休養日を挟み、5日間で4試合を戦う5回戦以降の日程を想定し、

練習から2日間連続の投げ込みを繰り返したという。

卒業後、軟式野球の強豪グローリー(姫路市)に進み、30歳の今も現役を続ける畑井は振り返る。


「誰に言ってもなかったが、日頃から夏の決勝をイメージして練習していました」


神戸新聞 松本大輔氏


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