甲子園きっぷ  yama’s stadium☆彡

~球児たちの あしあと~

兵庫球児100年のあしあと 37

2018-06-15 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 37では、育英が33年の時を超え悲願の優勝。

33年・・・この長すぎる時間に、どれだけの育英球児が汗と涙を流してきたのだろう。

そう思うと、とても感慨深い優勝だ。


第72回大会(1990年)

~育英、33年ぶりの奪還~


第72回大会決勝で力投する育英の戎信行投手


1990(平成2)年の第72回大会は豊岡こうのとり球場が会場に加わり、

但馬で初めて夏の高校野球の球音が響いた。


16強はノーシード組8校を占めた。

8つよいは公立が参加6年目の神戸高塚のほか、御影工、加古川西、この年の選抜大会に出た川西緑台、

私立は育英、報徳、東洋大姫路、滝川第二の各4校。


決勝は戎信行(元オリックスなど)をエースに擁した育英が打撃戦の末、

9-8で東洋大姫路を下した。

実に33年ぶりの栄冠。


監督の日下篤は

「苦しい試合だった。最後まであきらめなかったのが勝因」

と選手をたたえた。


1点差の明暗。

その後の両校の歩みは対照的だった。

勝った育英は復活の自信をステップに、3年後の第75回大会で全国制覇を果たす。

敗れた東洋大姫路は第74回、75回大会とも初戦で姿を消した。


神戸新聞 吉岡猛逸氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)


兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)


兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)


兵庫球児100年のあしあと 33
第64回大会(1982年)
第65回大会(1983年)



兵庫球児100年のあしあと 34
第66回大会(1984年)
第67回大会(1985年)


兵庫球児100年のあしあと 35
第68回大会(1986年)
第69回大会(1987年)


兵庫球児100年のあしあと 36
第70回大会(1988年)
第71回大会(1989年)


兵庫球児100年のあしあと 36

2018-06-15 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 36


第70、71回大会には創部間もない2チームが兵庫高校野球の歴史に新たなあしあとを刻んだ。

第70回記念大会は、滝川から伝統を受け継いだ滝川第二が何と5年で初の兵庫頂点へ。

節目の大会であるが、現在のように東西に分けて行われた大会は第80回が初めてのこと。

この年から健闘光るチームへ敢闘賞が贈られるようになった。

惜しくも優勝は逃したものの、選手たちの良き思い出のひとつになりますね。

しかし・・・敢闘賞自体があることを初めて知った。

現在は素晴らしい応援を魅せてくれたスタンドの応援プレイヤーたちを讃え

応援優秀賞が贈られるが、何年に始まったのだろう・・・。

前年の69回大会から勝利校の校歌斉唱が聞かれるようになったが、

70回大会に、スコアーボードに校旗が誇らしげに掲げられるようになった。

今は当たり前に見る光景だけど、熱い戦いの後の静寂のあの瞬間は、

勝った選手、敗れた選手、両者に想いを馳せながら健闘を讃える

私にとって心落ち着ける貴重な時間だ。

この頃の兵庫大会開会式、開幕戦を甲子園で行っていたということにも驚きだ。

甲子園県兵庫球児の特権と言えば・・・だけど、他府県と同様に

優勝して目指してきた場所へ初めて・・・再び立つ。

それがやっぱりいいな。

しかし辿り着けなかった選手にとっては、深く大切な思い出となったことは、ただ良かったと思う。

今夏の開会式、開幕戦は明石トーカロ球場で行われる。

決勝はほっともっと神戸で・・・

全く個人的には、決勝は明石トーカロ球場で観たかった。

あの場所は硬式軟式球児とも想い入れのある兵庫球児たちにとっての聖地だと思うんだ・・・なぁ。


第71回大会は神戸弘陵が初優勝。

甲子園では、2回戦 佐賀商業に6ー2で初勝利、3回戦は尽誠学園に3-1で惜しくも夏を終えたが、

時代は昭和から平成へ。

史上8人目となる先頭打者ホームランも飛び、さらに思い出深い夏となったことだろう。

この後、神戸弘陵は兵庫の頂点から遠ざかっている。

今チームにはご縁ある室井投手が最後の夏を迎える。

チームとしては29年ぶりの夏二度目の頂点を目指し頑張ってほしい。

記事に紹介されている写真がカラーになり、身近に感じる時代へ進んできた。


第70回大会(1988年)

~滝川第二創部5年でV~


第70回大会で初優勝を果たし、歓喜に沸く滝川第二ナイン


1988(昭和63)年の第70回記念大会は加古川東が西宮東、滝川、高砂のシード校を連破して

29年ぶりにベスト8へ進み、新設された敢闘賞を受けた。


決勝は滝川第二が7-4で東洋大姫路を下し、2年前の決勝の雪辱を果たした。

創部から5年目の初優勝。

佐野貴英(元大洋)が主将を務めた滝川第二は全国選手県1回戦で、

戦前の第18回大会以来という降雨コールドゲームで高田(岩手)を破り、

夏の甲子園大会兵庫勢通算100勝をマーク。

県高野連理事長の釜内和夫は

「兵庫の輝かしい伝統に新たな一ページを記した」と祝福した。


第70回大会から勝利校の校歌とともに校旗も掲揚されるようになった。

甲子園球場まで兵庫大会開会式後の開幕試合を制した姫路東の遊撃手、的場慎は

「あこがれの甲子園で校歌を聞けて最高の感激」と取材に答えている。


第71回大会(1989年)

~神戸弘陵、初の頂点~


第71回兵庫大会で初優勝し、甲子園に出場した神戸弘陵ナイン


1989(平成元)年の第71回大会は、プロ注目の本庄雅章をエースに擁した

関学の18年ぶり8強進出が話題となった。

当時の高校球界では珍しい長髪のナインは伸び伸びプレーした。

北播勢の頑張りも目を引いた。

社が8強、小野は13年ぶりの16強。

三木東も出場12年目で初勝利を挙げ、3回戦は延長十八回の死闘を制した。


神港学園、東洋大姫路、津名、神戸弘陵が準決勝へ進み、決勝は25年ぶりの神戸対決に。

参加163校監督の最年長、57歳の高木太三朗が率いる創部7年目の神戸弘陵が

11-1で神港学園を破り、初優勝を果たした。

高木は「選手が元気いっぱいだったので必ずやってくれると思った」と会心の試合を振り返った。


エース前田勝宏は西武に、全国選手権で大会史上8人目の先頭打者本塁打を放った

主将の出口幸夫は巨人に入団した。


神戸新聞 吉岡猛逸氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)


兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)


兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)


兵庫球児100年のあしあと 33
第64回大会(1982年)
第65回大会(1983年)



兵庫球児100年のあしあと 34
第66回大会(1984年)
第67回大会(1985年)


兵庫球児100年のあしあと 35
第68回大会(1986年)
第69回大会(1987年)


100回記念イベント♪゜・*:.。. .。.:*・♪

2018-06-14 | 2018 夏☆甲子園

今夏は高校野球100回の節目の夏を記念して色々なイベントが行われるようですね。

私が行きたいイベントをピックアップ

高校野球!と言えば、やっぱり西浦達雄さん。

毎夏甲子園の風物詩・・・というか、私は楽しみにしていた甲子園駅前でのミニコンサート。

今はもう見れなくて本当残念です。

そのミニコンサートには夏を終えた高校球児をステージへ招いて素敵な思い出作りをされたり・・・

本当、高校球児を愛してやまない方だなと、そんなお姿に感動をもらったことも。

最近では地元のショッピングモールでのミニコンサートへ行かせていただきました。

高校球児への思い出作りに西浦さんの詩をお借りすることも多く、

以前、西浦さんのブログでご紹介して下さったことがあり、

コンサート後のサイン会で、そんなお話しをさせていただいた際、

ぜひ甲子園でのミニコンサートの再開を・・・と。

いつか再びを楽しみにいているのですが現在は実現していません。

たくさんの方も西浦さんの歌声をあの場所で聴くことを楽しみにしておられるだろうと思います。

そんな西浦さんが!8月20日(月)JR西宮駅前の西宮フレンテホールで

~オレたちの夏~と題したコンサートを開催されます。

これは行きたい!

でも・・・1番仕事が忙しい月曜日

日程的に難しくて本当ほんと!残念

お時間ご予定許される方は、西浦さんの生の詩をぜひ

チケット購入が必要のようです。

詳しくは~

西浦達雄コンサート2018 ~オレたちの夏~


また7月21日(土) 大阪市中央公会堂(大阪市北区中之島)で、

「感謝祭~ありがとう 夏100回 これからも~」と題し、

牛島和彦さん(大阪・浪商=現大体大浪商)、金村義明さん(兵庫・報徳学園)、

佐々木主浩さん(宮城・東北)による高校野球の魅力と未来を語り合う感謝祭が開催されます。

第2部では市立尼崎高校の吹奏楽部がブラスバンド曲を演奏されるそうです

これも行きたいなぁ~!

午後1時半開演@@!兵庫大会真っ最中だし~これも難しいよねぇ~><

ご予定合われる方はぜひ

事前申込制(参加無料)で聴講券はWebで申し込みだそうです。

感謝祭の模様はバーチャル高校野球でライブ配信されるそうです。

まだ兵庫の対戦組み合わせは決まってないから分からないけど

その日、市立尼崎の試合だったらブラバンは試合に来ないのかなぁ~?!

「感謝祭~ありがとう 夏100回 これからも~」


東京ドーム内にある野球殿堂博物館 企画展示室で2018年5月29日から開催されている

特別展「高校野球 100回目の夏」も見てみたい!

第100回大会記念特別展 東京ドーム野球殿堂博物館

「高校野球 100回目の夏」


期間は9月30日(日)まで。


兵庫球児100年のあしあと 35

2018-06-13 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 35


第68回大会には明石城西、北摂三田、伊川谷北が甲子園への道を歩み始めた。

この年には出場校は現在とほぼ同数の164校となり、甲子園県の兵庫が「近くて遠い甲子園」・・・

と言われるようになった全国でも指折り数える激戦区となった。

67回大会から2連覇 東洋大姫路が史上4度目の決勝延長戦(十回)で滝川第二を下して8度目の甲子園へ。

1963年創部の東洋大姫路。

1969年 第51回大会の初優勝から僅か18年の間に8度の優勝は本当に凄い。


第69回大会は、東洋大姫路が強さを魅せる中、前年準決勝で涙した明石が

1984年 第66回大会から3年ぶり6度目の優勝。

この後30年もの長い時間が流れ、明石は決勝の舞台に上がっていない。

100度目の夏、古豪明石3年ぶり7度目の優勝!を多くのOBの方々は心待ちにしているだろう。


この大会から今では必ず観る光景、応援者もその姿を楽しみにされている勝利を讃える校歌斉唱が聞こえるようになった。

この頃の各校の部員数がどのくらい居たのかは不明だけど、スタンドで戦う選手にとっても

勝利の校歌斉唱は懸命に応援プレイに徹したことへ何より胸を張れる瞬間だったはずだ。

驚くは、69年目にして・・・

またひとつ兵庫の高校野球の大きな改革だ。


決勝で敗れた高砂ナインへ監督さんの言葉が胸に染みる。

そう・・・球児たちはみんな

そこまでの長い時間それを目指して、経験したことがない者には絶対に分からない、

考えられないくらいの汗と涙を流してきたんだから。

素晴らしい指導者との出逢いだな。


第68回大会(1986年)

~東洋V2、長谷川 躍動~


第68回大会決勝で力投する東洋大姫路の長谷川滋利投手


1986(昭和61)年の第68回大会は明石城西、北摂三田、伊川谷北が初出場し、参加校は164校を数えた。

ベスト8は加古川西、明石、星陵、須磨(須磨翔風)、西宮南の公立5校、

滝川第二、神戸弘陵、東洋大姫路の私立3校。

明石を7-0で下した滝川第二と、旋風を巻き起こした西宮南を延長戦で退けた東洋大姫路が決勝に進んだ。


総力戦となった決勝。

東洋大姫路は7-7の延長十回、長谷川滋利(元マリナーズなど)が

左前打で出塁してサヨナラのホームを踏んで連覇を達成した。


長谷川は83年、宝殿中(高砂市)が全国制覇した時の優勝投手。

監督の梅谷馨は「日本一になるような子はどこか違うものを持っている」と言っていたが、

その勝負強さは大したものだった。


滝川、滝川第二を率いた吉本宗泰と梅谷が対決した最後の試合でもあった。



第69回大会(1987年)

~高砂破り、明石が栄冠~


第69回大会決勝で高砂を破り、6度目の優勝を果たした明石ナイン


1987(昭和62)年の第69回大会から春夏の甲子園大会同様、

勝利校の校歌が試合後の球場に流れるようになった。


ベスト8は宝塚西、舞子、武庫荘、高砂、明石、社の公立6校、

東洋大姫路と村野工の私立2校。

決勝も明石ー高砂の公立対決となり、藤本一郎、井上高行が゛投の2本柱゛を

形成する明石が4-1で春夏連続の甲子園出場を決めた。

3年ぶり6度目の栄冠。


高砂の左腕エース橋本智裕は、全7試合59イニングを1人で投げ抜いた。

決勝翌日の8月1日付神戸新聞には肩を落とす高砂ナインの写真とともに、

監督の藤井智司の「泣くな。みんなよくやったんだ。みんなに100点、いや150点やりたい」

と選手をたたえる言葉が載っている。


東洋大姫路監督の梅谷馨が今大会を最後に勇退した。

甲子園出場は夏が5度、春は3度だった。


神戸新聞 吉岡猛逸氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)


兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)


兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)


兵庫球児100年のあしあと 33
第64回大会(1982年)
第65回大会(1983年)



兵庫球児100年のあしあと 34
第66回大会(1984年)
第67回大会(1985年)


兵庫球児100年のあしあと 34

2018-06-13 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 34


第66回大会は、1960年 第42回大会で強豪育英を1-0で制し、

前身の明石中を含め4度目の優勝を手にしてから24年の時を超えて明石が優勝。

前年、須磨友が丘、川西西陵、三木北、神戸弘陵が初出場し、

翌年の、この66回大会では西宮甲山、播磨南、加古川南の3校が新たに兵庫高校野球の歴史に加わった。

66回の歴史の中で3度目の決勝延長戦となった。

初の決勝延長戦となった1934年第20回大会、優勝した神戸一中と対戦したのが前身の明石中だった。


第67回大会は、東洋大姫路が3年ぶりに優勝。

次に紹介する68回大会で連覇を果たすことになる。

その東洋大姫路と4回戦で一旦、部の歴史にピリオドを打った滝川の最後の夏。

姫路球場にその勇姿を観ようと7千人もの人が集まった光景を思い浮かべる。

その翌年、伝統を受け継いだ滝川第二が決勝に進出し、史上4度目の決勝延長戦を戦うことになる。


第66回大会(1984年)

~明石復活 24年ぶりV~


第66回大会で24年ぶりに優勝旗を手にした明石ナイン


1984(昭和59)年の第66回大会終盤は、ロサンゼルス五輪の会期と重なった。

西宮甲山、播磨南、加古川南の初陣3校を含め、155校が参加した。

同年開校の播磨南は1年生だけのチーム編成で臨み初戦でコールドゲーム負けしたが、

翌々年に大会初勝利を含む2勝をマークする。


名門復活を告げる明石の24年ぶり優勝が、全国的な話題となった。

村野工との決勝は延長十一回の熱戦を3-2で制した。

5回戦の香寺戦、準々決勝の舞子戦、準決勝の神港学園戦とも

1失点で切り抜けた小柄なエース高橋俊夫の外角低めを突く粘投がさえた。


主将だった岸本剛は県高校野球史に

「目標はベスト16突破だった。甲子園へ行きたい気持ちはあったが、現実とあまりにもかけ離れていた。

だから甲子園でPL学園に負けるまで本当に夢見心地だった」

と思い出を寄せている。


第67回大会(1985年)

~名門「滝川」最後の夏


第67回大会4回戦の東洋大姫路ー滝川戦を報じる1985年7月25日付の神戸新聞紙面


1985(昭和60)年の第67回大会を最後に廃部となる滝川が、全国的な注目を集めた。

東洋大姫路との4回戦。

姫路球場は約7千人の観客で膨れ上がった。

東洋大姫路・豊田次郎(元オリックス)、滝川・池上誠一(元近鉄)の両エースの投げ合いが続く。

東洋大姫路は七回、代打長谷川滋利(元マリナーズなど)の適時打で決勝の1点を奪った。

同年の選抜大会に出たチーム同士の対戦となった決勝は東洋大姫路が2-1で報徳に逆転勝ちした。

3年ぶり7度目の栄冠。


滝川の伝統は滝川第二が継承。

野球部の灯が消えた滝川で「新しく部をつくろう」という機運が高まり翌春、県高野連に再加盟する。

昭和40~50年代に部長を務めた平田家興(78)は

「滝川第二は伝統を受け継いだが、滝川の甲子園出場回数という歴史を引き継げない寂しさがあった」

と打ち明ける。


神戸新聞 吉岡猛逸氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)


兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)


兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)


兵庫球児100年のあしあと 33
第64回大会(1982年)
第65回大会(1983年)


兵庫球児100年のあしあと 33

2018-06-12 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 33


兵庫県は南北にも広い。

東西には鉄道での移動も便利な兵庫だけど、南北の移動はなかなか大変だ。

兵庫県北部にある豊岡こうのとり球場や春日球場へ試合を観に行くには

兵庫県民でも小旅行のような距離となる。

現在でも阪神間のチームが、こうのとりで~?!大変!と思う試合も時々ある。

1982年 第64回大会から試合会場の配慮がなされたそうで、

朝イチの試合チームにとっては大きな改革だったと思う。

第64回大会の覇者は、第59回大会で全国制覇を達成した東洋大姫路。

甲子園ではベスト4まで勝ち上がった。

あのミスタージャイアンツ長嶋茂雄氏が絶賛した選手が兵庫県の最北端

そこは日本海が広がる新温泉町に居た。

高校球児が目指す『甲子園』は、青春のすべて、宝、より大きくしてくれた師と語る。

一人も多くの兵庫球児が、このように思える高校野球であってほしいと思う。

記事には6度目の優勝を飾った東洋大姫路球児の歓喜の光景が紹介されているが、

その喜びの横で悔しさにじませ下を向く市川の選手に胸熱くなる。

この光景に感じる切なさは、いつの時代も変わりない。


第1回大会には、たった7校だった出場校が第65回大会には152校となった。

現在は更に増え、今夏は162校

(2017年は市立神港と神港橘の連合チームがあり163校162チーム)が甲子園を目指す。

第65回大会には、一昨年第の98回大会 33年ぶりに悲願の優勝を果たした市立尼崎が優勝。

第59回大会(優勝 東洋大姫路)、第61回大会(優勝 明石南)二度の決勝進出も甲子園へあと一歩。

三度目の決勝進出でようやく掴んだ甲子園きっぷだった。

98回大会優勝時の前田主将(現日体大野球部)のお父さんとはちょっとしたご縁があり

親しみを込めて読ませていただいた。

64回大会の市尼球児は観ていないが、前田主将率いる市尼球児を甲子園で観た時のように

はつらつと甲子園で輝いた姿が浮かぶ。


三度目の正直・・・

市立尼崎は連続決勝進出ではない3度目の決勝だったが、

第1回大会から3年連続決勝へ進出した明石中(20~22回大会)、育英(33~35回大会)がある。

一際悔しさ感じる記録。

近々では97回~99回の3年、明石商業が涙した。

今夏4度目の挑戦で初の優勝を飾り歓喜の輪が見られるか・・・

楽しみな夏だ。


第64回(1982年)

~中播磨決戦、東洋に軍配~


第64回大会で市川を破って優勝を決め、喜ぶ東洋大姫路ナイン


1982(昭和57)年の第64回大会から、シード校の4回戦までの試合が近くの球場で固定された。

例えば北播の有力校・社。

前回の組み合わせでは初戦の2回戦が神戸市民、3回戦姫路、

4回戦尼崎記念だったが、今回はすべて明石となった。


準決勝は東洋大姫路2-1報徳、市川3-2育英と、いずれも1点差ゲーム。

大会史上初の゛中播磨決戦゛は10-0で東洋大姫路が勝ちどきを上げた。

5年ぶり6度目の栄冠。

甲子園では準決勝で優勝した池田(徳島)に3-4で敗れた。


元巨人監督の長嶋茂雄が「三拍子そろった素晴らしい選手」とほれ込んだ

浜坂中(兵庫県新温泉町)出身の三塁手、田中泰がチームを引っ張った。

田中は県高校野球史に

「甲子園は私の青春のすべてであり、宝であり、私をより大きくしてくれた師である」と寄稿している。


第65回大会(1983年)

~市尼崎、三度目正直~


第65回大会で洲本を破り初優勝し、場内を行進する市尼崎ナイン


須磨友が丘、川西西陵、三木北、神戸弘陵が初出場した1983(昭和58)年の

第65回大会参加校は152校を数えた。

全国49の地方大会では神奈川、大阪、愛知に次ぐ4番目の多さ。


ベスト8は同年の選抜大会に出た高砂南をはじめ市尼崎、洲本、尼崎小田、

県尼崎、東播工と公立校が6校を占めた。

残る2校は滝川と三田学園。

4年ぶりの公立決戦は池上隆寛(元ヤクルト)が3番を打つ市尼崎が8-0で洲本を下して初優勝した。

これまで2度、決勝で涙をのんだ悔しさを「三度目の正直」で晴らした。

洲本は2年生投手川畑泰博(元中日など)が進撃を支えた。


市尼崎もエースは同じ2年生の宮長貞行。

母校は2016年夏の甲子園に2度目の出場を果たした。

アルプス席で応援した宮長は「33年前の光景がだぶった」と取材に答えている。


神戸新聞 吉岡猛逸氏

兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)


兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)


兵庫球児100年のあしあと 32
第63回大会(1981年)


兵庫球児100年のあしあと 32

2018-06-11 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 32

第63回大会は報徳学園が60回大会から3年ぶりの優勝。

大好きな金村(投手)さんの登場です♪

金村さんの野球解説、あの的を得ているボヤキ方が何ともおもしろいですよね~

記事に紹介されている写真は満面の笑みで優勝旗を掲げる金村さん。

若い!(当然か~)細い~

明るい性格がにじみ出ている金村さんの素敵な青春の笑顔です。


春夏連続の甲子園出場、初の全国制覇と最強報徳時代の到来。

兵庫勢としては6度目の優勝となった。

全国制覇へと導いたチャンスメイカーは・・・何と!

兵庫大会準々決勝の土壇場で「代打」で打席に立った永田裕治選手。

後に報徳学園の大きな歴史を刻まれ、2017年ご勇退された報徳学園 永田監督さんだ。

縁とは本当凄いものだなぁ~。

永田監督さんは9月に行われるU18アジア選手権に出場する高校日本代表の監督として采配を振るわれる。

恩師と共に目指すアジアの頂点。

とても素敵な光景だなぁ。

一人でも多く報徳球児がメンバーに選ばれることを願う。


第63回大会(1981年)

~報徳、金村擁し悲願~


第63回大会を制し、優勝旗を差し上げ喜ぶ報徳の金村義明投手


1981(昭和56)年の第63回大会決勝は、報徳が5-1で東洋大姫路を下して

春夏連続の甲子園出場を決め、さらに悲願の全国制覇を達成した。


村田真一(元巨人)が4番を打つ滝川との準々決勝で命拾いをしている。

1点リードされて後のない九回、代打永田裕治の中前打を足場に追い付いて延長十二回、サヨナラ勝ちした。

兵庫大会ベスト8止まりと紙一重の「日本一」だった。


ドラフト1位で近鉄に入る金村義明が、エースで4番の大黒柱。

全国に頂点への道のりも険しかった。

主将の大谷晴重は2002年の神戸新聞連載で、

工藤公康(現ソフトバンク監督)を擁する名古屋電気(現愛工大名電)との対戦を

「勝つことより三振を10個以上しないことが目標だった」と振り返っている。


永田は02年の選抜大会で、今度は監督として母校を優勝に導いた。


神戸新聞 吉岡猛逸氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)


兵庫球児100年のあしあと 31
第62回大会(1980年)


兵庫球児100年のあしあと 31

2018-06-11 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 31

1984年 滝川第二に夢託すこととなった(旧)滝川の最後の栄冠となった第62回大会。

100回目の夏、決勝で兄弟校対決が見られること、

復活後初の甲子園出場を多くの大先輩たちが楽しみにしておられるだろう。


第62回大会(1980年)

~「滝川」最後の優勝~


甲子園で力投する滝川の石本貴昭投手


県高校野球界をリードしてきた滝川と報徳が夏の決勝で顔を合わせるのは、

1980(昭和55)年の第62回大会が初めて。

同年の選抜大会ベスト16の滝川が4-2で逆転勝ちし、春夏連続の甲子園出場を決めた。

10年ぶり7度目の栄冠。

「滝川」としての優勝は、これが最後となる。


左腕エース石本貴昭が進撃の立役者となった。

東洋大姫路と対戦した正念場の準決勝は11奪三振、1失点の快投。

ドラフト1位で近鉄に入り、5年目の85年、19勝(3敗)7セーブをマークして堂々の勝率1位に輝いた。


石川と滝川で同級生だった将棋の谷川浩司九段は同校野球部史に

「昭和55年センバツの鳴門戦で石本君が突然制球を乱し、

三塁側アルプス席の私達は立ち上がって肩を組み

『石本頑張れ』と精いっぱい応援した」と寄稿している。


神戸新聞 吉岡猛逸氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21~30
第41回~第61回大会(1959~1979)


梅雨の晴れ間に見える夏

2018-06-10 | 高校野球



昨日、7月8日に開幕する南北神奈川大会の組み合わせ抽選会が行われました。

いよいよ高校球児の夏始動!という気持ちになりますね。

対戦相手も決まり神奈川球児たちはより一層夏への気持ちを高めたことでしょう。

開幕までの日々を大切に頑張って欲しいですね。

開幕戦は、昨夏の初戦でも対戦した金井と逗子(南神奈川大会)に決まりました。

思いのこもった対戦になりそうですね。

先輩たちの想いも込めて素晴らしい開幕戦になりますように。


神奈川高校野球ステーションより

第100回全国高校野球選手権記念 南神奈川大会 組み合わせ

第100回全国高校野球選手権記念 北神奈川大会 組み合わせ

開幕を間近に控えて、あちらこちらで引退試合と呼ばれるメモリアルゲームが行われています。

この夏を目指してきた自分との戦いを讃え、チームの戦いへ。

気持ちを乗り越えて、それぞれが夏輝けるように・・・

心ひとつに夏へ挑むための大事な一戦。

二週間後、6月23日には沖縄、南北北海道大会が開幕します。


兵庫球児たちの夏。

東西兵庫大会の詳細が発表になり7月7日の開幕まであと4週間となりました。

東西兵庫大会の対戦組み合わせ抽選は6月26日。

楽しみにしています。


昨日は梅雨を忘れる晴天が広がる中、挑戦を続ける球児たちに再び会いに行ってきました。

自分はどう夏を迎えるのか・・・

自分への挑戦はあと二週間。

梅雨の晴れ間に熱い球児たちの気持ちを感じる一日だった。

チャンスは最後の一分一秒まであることを忘れず頑張って欲しい。

昨日会えた村野工業選手たちの夏へのあしあとです。



楠田選手



ナイス守備のあとのナイスバッティング!



宮脇選手



思いやり。

2アウト3塁 2ストライクからの挑戦!



事情あり・・・幻の2ベースヒットになってしまったけどねぇ~~;
記憶に残るナイスフルスイング!



ナイス猛チャージ!

宮ゾンを横から撮ってみた。
宮ゾン・・・親しみを込めて密かにつけた愛称^^笑

高校野球ができる喜びを楽しみながら最後まで挑戦を!

西川投手

この笑顔を夏のマウンドで観れることを私は楽しみにしている。

田畑選手



気持ちもバットもフルスイングでガンバレ!また観にいくよ。



大江捕手

ナイススロー!2つめは特に完璧送球やったね~!

ナイスファイト!!

学び中・・・。

2アウトからの挑戦!



ナイスバッティング!



捕手同士の思いやり・・・。

河原選手

いつもその声に自然とカメラが向く選手だ。



ベンチワーク中の木場選手
席を外していて走塁を見逃した>< 次回はぜひ観たい。





前田選手 願いかなって・・・。









前田選手のベンチワークには感動する。
素晴らしいベンチワークプレイだ!







想いやり・・・。

ガンバレ!3年生!





城間選手

網に負けた><! 
そのフルスイングを次はバッターボックスで!また観に行くよ。

林選手 夏へのあしあと また見に行くよ。

夏へのプレゼント♪ ありがとうございます。

夏はやっぱりスッキリレモンがいいね!


兵庫球児100年のあしあと 21~30 第41回~第61回大会

2018-06-08 | 高校野球

兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)


兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)


兵庫球児100年のあしあと 26
第52回大会(1970年)
第53回大会(1971年)


兵庫球児100年のあしあと 27
第54~56回大会(1972~74年)


兵庫球児100年のあしあと 28
第57回大会(1975年)
第58回大会(1976年)

兵庫球児100年のあしあと 29
第59回大会(1977年)


兵庫球児100年のあしあと 30
第60回大会(1978年)
第61回大会(1979年)


兵庫球児100年のあしあと 30

2018-06-06 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 30

第60回は1971年 第53回大会優勝から7年ぶりに報徳学園が頂点に立ったが、

1975年 第57回の淡路同士の決勝対決から3年。

淡路勢の躍進が光った大会となった。


公立校、私立校という隔たりを感じない現在の兵庫の高校野球。

秋春、そして夏と毎大会のように公立校が決勝で顔を見せる。

第61回大会決勝も公立校同士の対決。

明石南は市立尼崎に1-0の大接戦で勝利し初の優勝を決めた。

その決勝点となった1得点の取り方が凄い!

上手くいけば永遠のヒーロー!アウトとなれば・・・

紙一重、勇気の走塁に大きな拍手を贈りたい。

しかし・・・

エースの勇気の決行に三塁コーチは一瞬、時が止まったようなスローな記憶を

今も思い出すとドキドキされるのだろうな。

良い思い出だな。


ベンチ前に整列する球児と、優勝旗を掲げ満面笑みの球児。

60、61回大会を紹介する写真も紙一重・・・


第60回大会(1978年)

~淡路勢躍進、4強に3校~


第60回大会決勝で報徳いに敗れベンチ前に整列する洲本ナイン

甲子園球場でゲームができるのは地元兵庫球児のいわば特権。

1978(昭和53)年の第60回大会も、神戸北と初出場の三木東が対戦する

開幕カードをはじめ5試合が組まれた。


ベスト4に洲本、洲本実、津名の淡路3校が残った。

洲本は5回戦でこの年の選抜大会に出た村野工業を延長十三回、

8-7で退けた粘り強い試合運びが光った。

当時の淡路勢は鳴門海峡を船で四国へ渡る"武者修行"でチーム力を強めた。

決勝は報徳がその洲本を3-2で下し、7年ぶりの優勝を飾った。


ここに一つのデータがある。

大会参加校の主将の守備位置を調べると、63年の第45回大会(参加93校)は

投手が2割を占めたが、第60回大会(同135校)では1割と半減。

識者は「エースで主将という一人のスターをつくるより、組織力を重視する時代になった」

とコメントする。


第61回大会(1979年)

~波乱の大会、明石南初V~


第61回大会で初優勝を飾った明石南ナイン

1979(昭和54)年の第61回大会は波乱が相次いだ。

この年の選抜大会8強の尼崎北は5回戦で敗れ、ベスト8は

豊岡、舞子、兵庫、明石南、尼崎小田、武庫荘、市尼崎の公立が7校を占めた。

4回戦で2点差を追う九回に一挙5点を挙げ、御影工に逆転勝ちして勢いづいた

明石南が初の頂点に上り詰めた。


決勝で対戦した市尼崎のエース林泰宏は、ドラフト1位で巨人に入団する逸材。

準々決勝では選抜大会4強の東洋大姫路を2安打完封した。

明石南は両校無得点の六回2死二塁から細田士郎の中前打で決勝の1点を挙げた。

市尼崎は2年前に次ぎ決勝で涙をのんだ。


明石南の三塁ランナーコーチだった川崎透(56)は

「二塁走者がエース浜名敬一だったこともあり、三塁で止まる指示をしたが、

制止を振り切って本塁に突入した」と決勝点の場面を鮮明に覚えている。


神戸新聞 吉岡猛逸氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)


兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)


兵庫球児100年のあしあと 26
第52回大会(1970年)
第53回大会(1971年)


兵庫球児100年のあしあと 27
第54~56回大会(1972~74年)


兵庫球児100年のあしあと 28
第57回大会(1975年)
第58回大会(1976年)

兵庫球児100年のあしあと 29
第59回大会(1977年)


兵庫球児100年のあしあと 29

2018-06-05 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 29


東洋大姫路によって兵庫へ5度目の大優勝旗が届いた59回大会。

1952年の第34回大会 芦屋が全国制覇を成し遂げてから25年、

決勝の舞台に兵庫勢が上がったことも25年ぶり。

愛知 東邦との決勝打は史上初のサヨナラ3ラン!劇的すぎる決勝戦だ。

準優勝投手となった東邦 坂本圭一投手は「バンビ」の愛称で親しまれ、

2016年夏の甲子園を沸かせた藤嶋投手が(中日ドラゴンズ)「バンビ二世」と呼ばれる由縁となった。

この後、1981年 第63回大会で金村義明投手を擁する報徳学園、

1993年 第75回大会には育英が全国制覇を果たした。

今夏、100回大会は育英の優勝から25年。

記念すべき大会で記念すべき記録と記憶を残す兵庫球児の姿が見たい。


第59回大会(1977年)

~東洋大姫路、深紅の大旗~


第59回大会決勝の市尼崎戦で1安打完封した東洋大姫路の松本正志投手


1977(昭和52)年の第59回大会は、王者・東洋大姫路が盤石の勝ち上がりを見せた。

5度目の出場となった夏の甲子園では決勝で安井浩二主将がサヨナラ3ラン。

大会史上初の快挙で初優勝を飾り、52年の県芦屋以来、

25年ぶりに兵庫に深紅のの大旗を持ち帰った。


左腕エース松本正志(元阪急)を軸に隙がなかった。

夏の大会前の春季近畿大会決勝では、強豪のPL学園(大阪)を相手に11-1で大勝。

兵庫大会も危なげなく、初優勝を狙った市尼崎との決勝は、松本が八回まで無安打。

九回に初安打を許したが、1安打完封の快投を演じた。


創部当初から部長を務めた大久保強(80)が

「練習試合も含めてほぼ負けたことのないチームだった」と評する絶対的なチーム。

70~80年代の黄金期でひときわ輝いた1年だった。


神戸新聞 宮崎真彦氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)


兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)


兵庫球児100年のあしあと 26
第52回大会(1970年)
第53回大会(1971年)


兵庫球児100年のあしあと 27
第54~56回大会(1972~74年)


兵庫球児100年のあしあと 28
第57回大会(1975年)
第58回大会(1976年)


兵庫球児100年のあしあと 28

2018-06-05 | 高校野球

白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 28


第57回大会は淡路対決!洲本が夏初優勝を飾った。

淡路島の方々の野球愛、球児愛は熱い。

淡路から甲子園へ!と、未来の高校球児を育てる少年野球も活発だ。

よく淡路のチームの試合を観戦するが、淡路勢が出場する対戦のスタンドは

OBの方々や多くの地元の方々の声援で沸く。

現在では明石海峡大橋を使い行き来できるようになったが、橋ができる前は、

「たこフェリー」の名で親しまれているフェリーに揺られ明石海峡を渡る手段しかなかった。

私も若かりし頃、たこフェリーオンリー手段の時代よく船に揺られて淡路へ渡った。

橋ができて以来フェリーで淡路に渡ったことはないが、ノンビリ旅気分の船旅が懐かしい。

現在はジェノバラインが運航されていて、島から船を使って毎日通学する学生さんが居たり、

明石の船着場から徒歩で来ることができる明石球場へ船で来られる方も居て、

淡路の方々にとって無くてはならない親しみのフェリーだ。

この時、明石港から島へフェリーで揺られてくる洲本ナインを多くの方が手を振り笑顔で迎えた姿が目に浮かぶ。


第58回大会は、市神港が甲子園へ帰った最後の夏となった。

もう市神港を甲子園で観ることはできないが、後身の神港橘が今夏初めて単独出場し新たな歴史を刻み始る。

200回大会を迎える頃、神港橘ナインが多くの輝くあしあとを残していたらいいなと思う。


第57回大会(1975年)

~史上初めての淡路島対決~


淡路島同士の第57回大会決勝を制し、表彰される洲本ナイン


洲本と津名が激突した1975(昭和50)年の第57回大会の決勝。

史上初となる淡路島決戦は洲本に軍配が上がった。


洲本は腰を痛めて登板を回避していたエースの左腕山家泰臣が準決勝の東洋大姫路戦でマウンドへ。

4連覇を狙う強豪相手の大一番で1失点完投。

準々決勝で報徳を破って勝ち上がってきた津名との決勝は、

同点の六回に二宮徹の適時三塁打などで2点を勝ち越し。

山家が準決勝に続いて1失点で完投し、3-1で制した。


53年の選抜大会で初出場初優勝の快挙を果たした洲本だが、夏の甲子園切符は初めて。

船で帰淡したナインを待つ洲本港は、老若男女で埋め尽くされた。

当時の遊撃手、野水直哉(60)は、

「あの光景を見て自分らが優勝したんだと実感した」と懐かしむ。

淡路島を二分した戦いは、今も多くの人の心に焼き付く。



第58回大会(1976年)

~古豪・市神港 最後の栄冠~


第58回大会で頂点に立ち、優勝旗を手に行進する市神港ナイン


1976(昭和51)年の第58回大会は市神港が8年ぶり7度目の優勝を飾った。

2018年3月に学校統合により閉校した同校にとって、これが最後の栄冠となった。


傑出した選手が不在のチームは粘りを武器に進撃した。

3回戦の篠山鳳鳴戦、4回戦の津名戦は逆転勝ち。

準決勝の三田学園戦も九回に追い付き、延長十回に勝ち越すなど、終盤の底力が光った。

東洋大姫路との決勝は四回に一挙6得点し、6-0で完勝した。


大正期の1917年に創部した古豪は、第一神港商時代の選抜大会2連覇を含み、全国大会出場は春夏15度。

山口高志(元阪急)、吉田孝司(元巨人)、宮本幸信(元阪急、広島など)ら数々の名選手も巣立った。

輝かしい歴史を刻み、創部100年を迎えた2017年夏、栄光に幕を下ろした。


神戸新聞 宮崎真彦氏

兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)


兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)


兵庫球児100年のあしあと 26
第52回大会(1970年)
第53回大会(1971年)


兵庫球児100年のあしあと 27
第54~56回大会(1972~74年)


兵庫球児100年のあしあと 27

2018-06-04 | 高校野球

春が進む中、合間をみてボチボチ紹介してきた白球回想も、

現在手元には74回大会(1992年)まで届いている。

週末は県大会や近畿大会の記事が入るので白球回想はお休みとなるが、

取材して記事にして紙面で読者に届ける・・・

時間のある私なのになかなか追いつけなくて、新聞記者さんの凄さを感じる。

夏の兵庫大会、近畿大会も昨日終了し、もうすぐ始まる夏へ気持ちがはやりますが、

もう少し時間があるのでそれまでの間、白球回想を急いで追いかけ追い付きたいなと思います。


白球回想 夏の兵庫大会史

兵庫球児100年のあしあと 27


東洋大姫路の3連覇を導いた故 田中治監督さんの運命にも触れ、

早すぎる旅立ちが悔やまれますが、ふと・・・我が父の旅立ちが頭によぎった。

私の父は何より大好きな釣りをしながら逝ってしまったのですが、

よく・・・こよなく愛する事(愛する場所で)をしながら死ねるなら本望という言葉を聞くが、

生きがいとしていた釣りをしながら旅立てたことは、今となっては父にとっては本望だったのかなと。

田中監督さんは大好きな野球をしながら、大好きな東洋大姫路の選手たちに囲まれグラウンドで旅立たれたそうで・・・

特攻隊員として散る命を想うと、大好きなグラウンドで旅立った田中監督さんは幸せだったのかも。

今、空の上から東洋大姫路の選手たち、そして藤田監督さんを甲子園へ導くため見守られておられるのかなぁと。

感慨深い記事だった。

今夏は西兵庫で甲子園を目指す東洋大姫路。

現選手たちは田中監督の事を知らないけれど、藤田監督んと田中監督さんは現在に繋がっている素敵なご縁があり

ぜひぜひ、藤田監督さんの背に田中監督さんのことを少しでも感じてもらえたらと思うし、

東洋大姫路野球部の偉大な歴史を築いた 故 田中監督さんをそっと心に置いて、

藤田監督さんと共に再び「夏の東洋」呼ばれる時代を築いてもらいたいなと思います。

そして、55回大会を迎える前、志半ば同じくグラウンドから旅立った池尻一平選手を偲んで・・・

東洋大姫路球児が果たした輝く3連覇時代を紹介したいと思います。


第54~56回大会(1972~74年)

~「夏の東洋」、魂のV3~


東洋大姫路の黄金期を築いた田中治監督
(東洋大姫路野球部創部40年史より)


第56回大会で戦後3校目の3連覇を果たし、優勝旗を受け取る東洋大姫路ナイン


高校野球界にとどろく「夏の東洋」の異名を確かにした。

1972(昭和47)年の第54回大会から3年連続優勝。

63年の創部から10年で東洋大姫路が牙城を築き上げた。


初優勝以来、3年ぶりの栄冠に輝いた第54回大会は決勝で市神港と顔を合わせた。

伝統校との決勝は2-2の六回から膠着(こうちゃく)。

延長十五回表、2番打者の井上光一が決勝の適時三塁打を放ち、死闘にけりをつけた。


翌73年の第55回大会はチーム内の危機を乗り越えた。

5月に4番打者の池尻一平が練習中に心臓麻痺で急死。

中心打者を亡くす悲しみに包まれる中、エース福井幸次は

右手のけんしょう炎の痛みに耐えながら力投を続けた。


名門・滝川との決勝は1点を追う六回に試合をひっくり返した。

1死一、三塁からの内野ゴロが相手守備の乱れを誘って命拾いすると、

満塁からの内野ゴロが相手のグラブをはじき、2者が生還。

しぶとい攻めで2連覇をたぐり寄せた。


74年の第56回大会は、後に阪急で活躍する弓岡敬二郎が1年生で1番・遊撃を担う。

走攻守の三拍子が備わった黄金ルーキーは準決勝の滝川戦、

3-3で迎えた九回裏2死からヒットでつないでサヨナラ勝ちを呼び込む。

加古川西との決勝では3安打の固め打ちで11-2の圧勝を導いた。


夏の甲子園に出場した3年間、東洋大姫路は春の選抜大会には一度も出場していない。

だが、夏の兵庫大会で、選抜に出場した学校をことごとく直接対決で沈めた。

72年の市神港、73年の報徳、74年の報徳、滝川。

「夏の東洋」と称されるゆえんだ。


当時の4番打者で、現在母校を率いる藤田明彦(61)は振り返る。

「田中治監督、梅谷馨コーチの指導で5の力を6、7にしてもらった。

2人から『甲子園は夏しかないもんや』と常々言われていた」。

鬼気迫る練習を重ねて地力と執念を培い、毎年のように夏にチームを昇華させた。


3連覇時の監督、田中治は身長180センチ、体重120キロの大男。

「(戦時中の)予科練の死に損ない」が口癖だったという。

45年8月20日に鹿児島・知覧から特攻隊員として出撃する計画だったが、直前に終戦。

数奇な運命をたどった。


田中から薫陶を受けた藤田は言う。

「20歳の時に(特攻隊員として)定まった死の日に備えて生きてこられた方。

普段から覚悟が違った」


3連覇を果たした74年限りで田中は梅谷と監督を交代。

副部長の立場で指導を続けたが、12年後の86年1月、グラウンドで倒れ、59歳で帰らぬ人となった。

「本当に早すぎた」。

部長として田中を支えた大久保強(80)は今もそう悔やむ。


神戸新聞 宮崎真彦氏


兵庫球児100年のあしあと 1~20
第1回~第40回大会(1915~1958年)


兵庫球児100年のあしあと 21
第41回大会(1959年)
第42回大会(1960年)


兵庫球児100年のあしあと 22
第43回大会(1961年)
第44回大会(1962年)


兵庫球児100年のあしあと 23
第45回大会(1963年)
第46回大会(1964年)


兵庫球児100年のあしあと 24
第47~49回大会(1965~67年)


兵庫球児100年のあしあと 25
第50回大会(1968年)
第51回大会(1969年)


兵庫球児100年のあしあと 26
第52回大会(1970年)
第53回大会(1971年)


2018年 春季高校野球 近畿大会 大阪桐蔭優勝おめでとう☆彡

2018-06-03 | 2018 春季高校野球


今日も球場へ応援に行けなかったので明石商業戦より

大阪桐蔭 春近畿大会2連覇おめでとう

近畿大会では2017年春、秋と3季連続の優勝。

2017年秋季大阪大会に2018年選抜、春季大阪大会と負けなし。

もう本当強すぎますね。

今日の決勝でも、期待の主力選手がチャンスを逃さず素晴らしく活躍光ってました。

先発完投した根尾投手は今日は打順5番。

どこを守っても打っても凄い根尾選手ですが、昨日の準決勝2番打者での経験が

今日の決勝でもさらに力発揮する要因になったのではと思う活躍でしたね。


今日はプロ野球交流戦 阪神タイガースvs西武で阪神先発は藤浪投手でしたが、

高校時代春夏連覇の名バッテリー森捕手との初対決が実現。

また、東京六大学伝統の一戦 早慶戦では、

2017年選抜優勝投手 徳山投手(早大)が9回の1イニングに登板。

2奪三振にライトフライの好投で試合を締め勝利しました。

1年生ながら堂々としたマウンドでの姿で、高校時代よりさらに力強いピッチングを魅せてくれました。


そうそう!早慶戦と言えば、この対戦の早大先発は浦和学院で活躍した小島投手。

久しぶりに小島投手の姿を観ることができて、高校野球時代を懐かしく思い出しました。

もう4回生なんですね~早っ! 

今日は7回を9被安打無失点の大好投で勝利に導きました。

大学野球には、あの選手この選手と高校野球での活躍を観ていた選手たちの

その後の更なる活躍を観ることができることは、また高校野球とは違うワクワク感をもらえます。


今日は大阪桐蔭の優勝に、あちらこちらで大阪桐蔭出身選手の活躍を

見ることができた大阪桐蔭dayでした。


そして、智辯和歌山の選手のみなさん 

準優勝おめでとう

選抜決勝から打倒大阪桐蔭を胸に頑張ってきたという智辯和歌山の選手たち。

またしても悔負の結果となってしまいましたが、再び今夏甲子園での大阪桐蔭との再戦や

夏の頂点をを目指して明日から選手たちは走り続けることだと思います。

智辯和歌山の夏を楽しみにしたいと思います。

今春近畿大会ではタイミング合わず大好きな高嶋監督さんと

再び明石球場でお会いすることができなかったことがとても残念でした。


近畿球児の春は大阪桐蔭の2連覇で幕を閉じ、いよいよ夏モードです。

今夏も近畿球児たちの活躍を心から楽しみにしています。

近畿球児のみなさん 春お疲れさまでした。


2018年 春季近畿大会 決勝対戦結果

 
大阪桐蔭
智辯和歌山

大阪桐蔭 根尾ー小泉
智辯和歌山 平田ー東妻

兵庫県高校野球連盟試合速報より

1回裏智辯先頭1番細川が内野安打で出塁。
2番神先が右前安打で続く。
その後内野ゴロを桐蔭内野陣の好守でダブルプレイ。
2死3塁となるが、4番文元がセンターへしぶとく適時打を放ち智辯1点先制。
2回表桐蔭先頭5番根尾が右前安打で出塁したが後続を断たれ無得点。
4回表桐蔭先頭3番中川が中越二塁打で出塁。
4番藤原が左前二塁打で1点を返し同点。
なおも5番根尾が右前適時打を放ちこの回2点目。
一気に逆転に成功。
5回裏終了で桐蔭1点リード。
試合は後半戦へ突入。
8回表桐蔭1死後3番中川が内野安打で出塁。
続く4番藤原が右前安打で1死1・3塁とする。
ここで5番根尾が一塁線を鋭く破る2塁打を放ち3塁走者生還で1点追加。
1塁走者は智辯和歌山の見事なバックホームで本塁タッチアウト。
この回桐蔭1点。
9回裏智辯最後の攻撃。
8番東妻が2死から左前安打で出塁し粘りを見せるが後続を断たれた。
今春の選抜高校野球大会決勝と同じカードになった春季近畿大会決勝戦は
またも大阪桐蔭に軍配が上がった。
大阪桐蔭高校2年連続5回目の優勝。