日田市議会議員 いかわたいき(居川太城)のブログ。

議員活動やプライベートも含めて感じた事、思った事を等身大に記載して参ります。

送り盆と「いわゆる」終戦記念日と長文。

2022年08月15日 22時26分00秒 | 日記
なんだか、長文と本音が噴き出す時があります、いかわたいきです。






お盆最後の日であり、ご先祖様を送り盆する日と共に、明日から仕事再開の日といわゆる終戦記念日と言われる中で報道では様々あります。私もご先祖様をお送りした後、ゆっくり過ごして居ましたが…

本当に終戦した日は「8月15日では無い事」を知った時は愕然としました。

終戦を告げるポツダム宣言を日本国は8月14日に受入、翌8月15日に「終戦の詔(みことのり)」でラジオ放送を通じて昭和天皇陛下の玉音放送から日本国民に伝えられました。

9月2日、東京湾内に停泊する戦艦ミズーリ甲板で日本政府全権の重光葵と大本営(日本軍)全権の梅津美治郎および連合各国代表が、宣言の条項の誠実な履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した。(Wikipedia参照)

ただ、日本国が明確に敗北を受け入れた時、ソ連の侵攻があったのは8月15日直後。当時、日本の領土は千島列島と南樺太まで広がっていたが、日ソ中立条約を破棄したソ連が18日、カムチャツカ半島の先にある、千島列島北東端の占守島に侵攻した。
 島では日本軍の守備隊が自衛で応戦。激しい戦闘となり、多くの死傷者が出た。停戦命令を受けて21日に日本側が降伏。ソ連軍は千島列島を占領し、北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)も、米軍がいないことを知ると9月5日までに全島を占領した。

 占守島での自衛戦を決断したのが県ゆかりの旧陸軍軍人、樋口季一郎(1888~1970年)だった。兵庫県の淡路島に生まれたが、大垣市の樋口家の養子になったことで樋口姓を名乗った。ロシア語が堪能で軍では対ソ連関係の仕事に従事。終戦時は、札幌市に置かれた旧陸軍第5方面軍の司令官だった。ソ連のスターリンは北海道本島も狙っていたとされ、樋口の決断がなければ北方領土どころか、日本が南北に分断されていたとみる人もいる。
 札幌市の、つきさっぷ郷土資料館には樋口の遺稿を活字にした私家版の「遺稿集」がある。その記述によると、ソ連軍が占守島に侵攻した18日は太平洋戦争が終わり、日本軍が自衛を除く戦闘行為を停止し、完全撤退する日だった。
 樋口は、ソ連の侵攻に対し「(18日は)『戦争と平和』の交替(こうたい)の日であるべきであった。(中略)『不法行動』は許さ(れ)るべきでない。若(も)し、それを許せば、到(いた)る所でこの様な不法かつ無智(むち)な敵の行動が発生し、『平和的終戦』はあり得ない」と書いていた。
 樋口の孫で、明治学院大名誉教授の樋口隆一さん(75)=東京都=は祖父が遺した資料を2年前、書籍「陸軍中将 樋口季一郎の遺訓-ユダヤ難民と北海道を救った将軍」(勉誠出版)にまとめた。「8月15日以降の戦いは日本を守るための戦いだった。結果的に北海道を守った。日本は分断されなかった」と語る。ウクライナ侵攻については「あの時(占守島侵攻)と同じやり方だ」と憤った。(ウェブ参照)

我が国は近隣に核保有国と発言がコロコロ変わる国含めシナ、北朝鮮、ロシア、韓国とありますが、そろそろ我々が置かれている状況に直視すべきかなと。

地方議員であり一政治家として、祖父の兄が志願してフィリピンの地にて(21歳で)散華された身内として、守ってくれた我が国の一人として譲れない事はあります。誰がどこを、どんな立場で、どんな内容で参拝しても良いのかなと。逆にそれを良しと思わない方はどういった理由かなと感じます。



では、また。

今日は迎え盆。

2022年08月14日 00時22分00秒 | 日記
久々のブログ更新になっていますが、SNSでは適時活動更新しています、いかわたいきです。
毎年8月13日は忙しくても父と祖母を迎えに菩提寺へ…。






よく聞くのが「親父はうるさい。」「話を聞いてくれない。」「何もわかってない。」「早く引退しろ。」等ですが…
私は早々に父を亡くし、一緒に飲んだ事は1度しか有りませんし、そういった仕事や哲学、思いを通じてのぶつかり合いは無い為…愚痴る事の幸せを聞きながら感じています。むしろ、もっと父と本氣でぶつかって本音を曝け出して喧嘩してでも話し合いたかったと振り返ります。
私が通う林英臣政経塾の学びの一つである吉田松陰公の一節ですが

親思う 心に勝る親心 けふの訪れ何と聞くらむ」(子が親を思う心よりも、子を思いやる親の気持ちのほうがはるかに深く今日の知らせ(処刑される事)をどう両親は受け止めるか?)

親心は、どんなに熟考しても叶わないですし住職は「無理しなくても勝手に(ご先祖様は)来て帰ってくれますから…」と言いつつも私自身が納得しないため、迎え盆と送り盆を続けています。
騒がしい我が家ですが、少しの間だけ寛いでくれたらなと……。


最後に、私が好きな吉田松陰公の言葉に「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

これを私なりの受け止め方にすれば「俺たちの思いはここに置いてきたから後はお前達に任せた。だから頼むぞ!」とお盆の思いも相まって感じます。

自分語りが過ぎましたが、私は市政発展のため常に行動しています。



では、また。