hiroべの気まま部屋

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仏教思想:中国天台思想概要(その6、完)

2020-08-30 08:20:57 | 仏教思想
 『今朝の天気』


(7:00頃)

 今朝の温度(6:30) 室温 リビング:29.5、 洗面所:29.5、 湿度(リビング):61%
 (昨日の外気温 東京、最高気温:35.0、最低気温:26.9
  本日の予想気温 最高気温:36、最低気温:28)


 今朝は雲が多いですが、一応晴れてもうかなり暑いです。先週の東京は昨日が唯一の猛暑日で、やや気温は下がったものの猛暑日近い気温が続き、相変わらずの厳しい残暑の週となりました。
 今日明日も猛暑日が予想されていますが、もっともどうやらこれがピークのようで、その後は少しは涼しくなるようです。ただ、気温は30度を維持して、今年の9月は「暑い9月」となるようです。

  【8月24日から29日の天気】
 

 さて、日曜日ですから温度統計の報告日ですが、明日で8月分がまとまりますのでご報告は9月に入ってからとさせていただきます。
 それと眼に負担をかけない生活ということで、「音を楽しむ生活」のご報告をさせていただいていますが、それも今週はお休みをいただきます。今日は、2か月ほど中断していました中国天台思想概要の続き(第6回)、最終回のご報告とさせていただきます。
 やたら硬いお話になりますが、よろしければお付き合いください。今日の部分はあまり難しくありません。(中国天台思想概要を最初からという方は、カテゴリー「仏教思想」で遡及いただけます。)

 第3回から本論に入り、第3回では中国天台の空観について、第4回ではその空観に基づく中国天台の世界観について、そして前回第5回では実践論である「止観」についてみてきました。
 最終回の今回は、智顗によって確立された中国天台思想が、智顗以後中国国内で、さらに日本天台へとどのように展開して行ったかをみていきます。

 3.4.智顗以降の展開
 (1)中国天台の展開
 ①天台宗と華厳宗の対立
  既述の中国天台の系譜でも示したように、六祖妙楽湛然(みょうらくたんねん711-82)のころ、華厳宗と思想的に対立します。
 両者は、基本的には否定即肯定の「第三の絶対」に立ち、また両者とも「一即多・多即一」という点で思想的には共通の立場に立っていますが、以下の点では相違しています。(下表6-1)
 
 一方、両者は対立しつつも相互の思想を取り入れて、それぞれの思想を発展させてもいます。(下表6-2)
 

 ②山家派・山外派の論争
  天台宗の系譜でも簡単に説明しましたが、天台宗は、湛然以後百年余、唐末や五代の争乱、廃仏運動などで暗黒時代を迎えました。そして、十世紀の趙宋の代に入り、復興のきざしが見えます。しかし、その復興は天台と華厳の論争を天台内部に持ち込んだ、山家(さんげ)と山外(さんがい)、両派の争いでもあったのです。両者の主張の特徴を以下に示します。(下表6-3)
 


(2)日本における展開
 ①最澄の生涯
  以上のように、中国天台は華厳との対立、内部分裂と展開しますが、その後山家派により明代まで本流としての布教が続いたことは中国天台の系譜で既述したとおりです。
 一方、上記の山家、山外両派の課題の中でも示したように、両者とも総合統一が課題であったために批判・対決の観念は消え失せるという問題を抱えることとなりました。そして、その問題解決は結局日本において果たされることになります。
 それには二つの理由が考えられます。一つは、仏教の諸経論が総決算の形で日本に入ってきたこと、いま一つは、平安末期の古今にまれな社会不安・動乱があげられます。
 日本に来て、真に強い批判精神と対決意識が実り、ひいては現実変革としての強力な生成も、日の目を見たのです。そして、これを実現したのは中国にて天台宗をはじめ仏教思想を学び持ち帰った最澄であり、その後継者達でした。(最澄の経歴を以下に示します。下表6-4)
 

②日本天台の進展と天台本覚思想の確立
 最澄における最大の課題は大乗戒壇の建立でした。当時、叡山で得度し、沙彌になっても、戒を受けて正式の僧になるには奈良におもむき戒壇をふむ必要があったのです。天台法華宗は公認されても、奈良仏教界の支配から脱するには叡山に独立戒壇を設ける必要があったのです。その戒壇の建立は最澄の死7日後に実現します。
この結果、天台法華を中心として、華厳・密教・禅などの諸思想が統合され、叡山天台が最澄以降仏教ないし思想としては絶頂ともいうべき最後的段階まで発展(総合統一的仏教体系の確立)していきます。
さらに、浄土教をも融合して「普遍・具体・生成」の真理の三要素を完全に近い形にまで結晶させていった、仏教思想の珠玉というべきものが成立します。→天台本覚思想の確立。

 ③天台本覚思想の問題点と鎌倉新仏教の成立
  天台本覚思想の形成者たちは、真理の殿堂の奥深くにあって、もっぱら思索にふけった究理の徒であって、そのあまり絶対一元の境地にひたりきりとなり、現実に対して傍観的となるきらいがありました。生成の原理は十分とりいれながら、現実対決ないし改革という強力な生成の働きは出ないでしまったのです。
 時代背景として、平安末期の古今未曾有といわれるほどの社会動乱・不安は、この現実に目をそそぐとき、真理の殿堂奥深くあって絶対一元にふけることを不可能ならしめたのです。
 その結果、法然・親鸞・道元・日蓮など、叡山に学んだ代表的な僧が出現、天台法華を土台にまた批判材料として、現実社会を見据えた新たな思想を展開します。→鎌倉新仏教の成立
 これらの四人の代表者のうちその時代背景の違いもあり、法然と他の三人(親鸞・道元・日蓮)とは、思想的に明確な差がみられますが、それらをまとめてみると、(下表6-5)のようになります。
 
 天台法華あるいは仏教思想が歴史形成の原動力となり、現実改革・理想実現の積極的な生成力動を発揮した好例を、鎌倉新仏教に見い出すことができます。

                                                        以上

 ということで、中国天台思想概要の最終回でした。日本の仏教の修行道場としての比叡山、その元となった『法華経』「中国天台思想」ということで、仏教を勉強する上では、とても難解ですが、その理解が非常に重要な思想かと思います。
 中国ではその後、華厳宗、実践仏教である禅宗、浄土宗などの宗派が唐代・宋代と成立・発展していきます。それには天台の思想、実践行が大きく影響しています。
 眼に負担をかけない生活ということで、仏教思想の勉強も一時中断していましたが、毎日30分程度ですが再開しています。この後も1時間を限度に少しづつですが続けて、残った中国仏教(華厳、浄土、禅)についても何とかまとめたいと思っています。ともかく難しくて、翌日になると前日の内容は忘れているといった塩梅で短時間では遅々として進みませんが、出来る範囲でまとまった部分をご報告していきたいと思います。
 よろしければ、引き続きお付き合いください。次回からは「中国華厳宗」に入っていきます。