たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

紀元前4世紀のギリシャ ⑤

2025-03-12 17:24:34 | 世界史

テッサリアの再編が完了すると、ピリッポス2世はテッサリアの南の国境を越え、ギリシャの中心部への入り口であるテルモピュラエの隘路に向かって軍を進めた。ピリッポス2世はフォキスに対する勝利を完全なものにするため、フォキスの本土に侵攻するつもりだった。ピリッポス2世の動きに、アテネは脅威を感じた。テルモピュラエを超えたピリッポス2世はアテネに向かうかもしれなかった。それでアテネは軍隊を派遣し、テルモピュラエの隘路を占領した。アテネ軍以外の国の部隊も加わったとも言われている。アテネの弁論家デモステネスは「アテネ軍がテルモピュラエを防衛した」と誇らしげに語っている。ナウシクレスが率いるアテネ軍は5,000の歩兵と300の騎兵からなり、これにフォキス軍の残存部隊およびフェラエの傭兵部隊が加わった。しかしディオドロスはテルモピュラエの戦闘については何も語っておらず、ナウシクレスが率いるアテネ軍は翌年フォキスの防衛を助けたと書いている。デモステネスが事実を語っているとするなら、テルモピュラエを防衛したアテネ軍を率いたのはナウシクレスではなく、フォキスやフェラエの部隊は参加していなかったのかもしれない。

ピリッポス2世はテルモピュラエでアテネ軍に勝利できただろうが、テッサリアでの成功を大切にし、未知数の冒険を避けたのだろう。

 《後半の6年 352ー346年》

オノマルコスが処刑された後、弟のパイロスがフォキスの指導者となり、国民を再結集した。フィロメルスが戦死したネオン戦の後、オノマルコスはフォキス軍を2倍の規模にまで再建したが、フォキス軍はクロッカス平原で敗北した。パイロスは兵士を補充するのに苦労し、2倍の金額を提示して傭兵を集めなければならなかった。2度の敗北にもかかわらず、国民の多くが戦争を支持した。冬の間パイロスは外交に専念し、多くの友好国の支持を集めるのに成功した。次の戦争は多くの同盟国と合同で戦うことができるようになった。フォキスは多くの兵士を失ったにもかかわらず、短期間で補充できた。ギリシャのほとんどの国は大敗北から立ち直れない中で、フォキスの復活は奇跡であった。この魔法を可能にしたのはアポロの神殿の財宝である。同時に、神殿の財宝は神聖戦争を長引かせる原因になった。

  紀元前351年から348年までの3年間については省略

  《第3回フォキス戦 347年》

クロッカス平原で勝利したピリッポス2世は以後の神聖戦争には関係しなかった。3年間戦っても、神聖戦争は決着がつかず、その後も決着がつく兆しはなかった。フォキスはボイオティアの複数の都市を占領していたが、アポロ神殿の財宝が枯渇しかけていた。一方テーベはフォキスに対し有効な攻撃をする能力がなかった。フォキスの将軍パイロスは紀元前347年に罷免され、3人の新しい将軍がフォキス軍を指揮していた。3人の将軍はボイオティアを攻撃し、成功した。

テーベはピリッポス2世に援軍を求めたが、ピリッポスはわずかな部隊しか送らなかった。ピリッポスはテーベとの同盟を維持したかったので形式的に援軍を派遣したが、戦争を終わらすには十分ではなかった。ピリッポスは単独で戦争を折らせようと考えていた。

  《神聖戦争の終結》

アテネとマケドニアは紀元前356年以来戦っていた。ピリッポス2世がアテネの植民地ピドナとポティデアをアテネから奪ったことが、敵対関係の始まりだった。テッサリアの内戦にぴて、ピリッポス2世は多数派を支援したのに対し、アテネは孤立しているフェラエを支援した。アテネは反マケドニアの立場から、フェラエを支援したのである。

フェラエは以前からフォキスと同盟しており、アテネは反テーベの立場からフォキスを支援していた。こうしてテッサリアの多数派とマケドニアに対し、フェラエ・フォキス・アテネの同盟が対立することになった。ハルキディキ半島の諸都市は反アテネであり、アテネの植民地となっていた都市を奪い返したピリッポス2世に感謝し、半島の諸都市はマケドニアと同盟したが、マケドニアが覇権国になりつつあるのを見て、彼らは脅威を感じ、アテネに同盟を申し込んだ(紀元前352年)。これはマケドニアに対する裏切りであり、349年、ピリッポス2世はハルキディキ半島の諸都市を攻撃し、翌年諸都市を完全に破壊し、連盟の中心的な都市オリントスの住居や施設は何一つ残らなかった。ハルキディキ戦争の後半(紀元前348年)、アテネの著名な政治家フィロクラテスはマケドニアに和平を提案したが、神聖戦争から派生したギリシャとマケドニアの戦争は翌年(紀元前347年)も続いた。

紀元前346年の2月初め、ピリッポス2世はテッサリア軍と共に南へ進撃すると宣言したが、戦争の理由と攻撃対象を明確にしなかった。フォキスはテルモピュラエを防衛する準備を始め、スパルタとアテネに応援を求めた(2月14日頃)。スパルタはアルキダムス2世にが率いる1,000の重装歩兵を派遣した。アテネは40歳以下の男子市民を徴兵し、フォキスを支援する決定をした。しかし2月末、フォキスで政変が起こり、パライコスが将軍として復帰し、彼は戦争の計画を撤回した。アテネとスパルタはテルモピュラエの通路を防衛してはならない、とフォキスから告げられた。パライコスが権力に復帰した理由は伝えられていない。また彼がフォキスの方針を逆転させた理由もわからないが、アイスキネス(アテネの政治家)は次のように述べている。「傭兵たちは俸給を減らされたので、以前の司令官の復帰を望んだ。しかしフォキスには傭兵に払う資金がなく、戦争できないとわかり、パライコスはピリッポス2世と和平について話し合うことにした」。

   

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紀元前4世紀のギリシャ ④

2025-03-03 15:49:32 | 世界史

《第2回テッサリア戦:紀元前353年あるいは352年》

翌年の夏、ピリッポス2世は新しい軍隊を編成し、テッサリアに戻ってきた。彼はテッサリアの諸都市・地方に対し、フォキスとの戦いに参加するよう正式に要請した。ピリッポス2世は昨年敗北していたので、テッサリアの人々はマケドニア軍にあまり期待していなかったが、フォキスに征服されるのを避けるためには、マケドニア軍と力を合わせて戦うしかなかった。前回と同じく、この戦争はテッサリアの内紛が原因であり、都市フェラエに対する、残りの都市と地方全部の戦いだった。フェラエがフォキスと同盟し、ラリッサを始めとして残りの都市・地方はマケドニアと同盟した。

ピリッポス2世はマケドニア軍、およびテッサリア軍を率いることになった。シチリアの歴史家ディオドルスによると、マケドニア・テッサリア軍は歩兵2万、騎兵3千だった。

戦争のある段階で、ピリッポス2世はフェラエに近い港町パガサイを攻略した。フェラエはパガサイ湾から遠くないが、沿岸の都市ではないので、近くの港町パガサイを自分の港として利用していた。パガサイはフェラエにとって補給や援軍の到着地として重要だった。パガサイの占領は前回の戦争の時だったという説もあるが、今回の戦闘の直前だったという説が有力である。ピリッポス2世は前回の戦争で、港町パガサイの重要性を学んだのである。それで、彼はフェラエを攻撃する前に、外部からフェラエへの援助を絶つことにした。

  〈クロコス平原の戦い〉

フォキスの躍進を維持するためには、オノマルコスはテッサリアで勝利しなければならなかった。フォキスの戦力は前年と同じ規模だった。加えて、同盟国アテネが援軍として大艦隊を派遣した。カーレスが率いるアテネ軍はパガサイでフォキス軍に合流するつもりだった。この戦争はアテネにとってピリッポス2世に一撃を加える良い機会だった。戦争初期の出来事は伝わっていないが、ピリッポス2世はフォキス軍がフェラエ軍と合流するのを妨げた。さらに重要なのは、ピリッポス2世はアテネ軍が到着する前に戦闘を開始したので、フォキス軍は単独でマケドニア・テッサリア連合軍と戦うことになった。ディオドルスによれば、海辺に近い、広い平野が戦場となった。そこはパガサイ港から遠くないが、パガサイの南方であり、同様にフェラエの南方でもあり、アテネ軍またはフェラエ軍が前もって南下しない限り、フォキス軍と合流できなかった。アテネ軍もフェラエ軍も単独でマケドニア軍を相手にするつもりはなく、フォキス軍に合流してから戦うつもりだった。ピリッポス2世がフェラエを包囲・攻撃する可能性もあったので、フェラエは防衛戦も考慮しなければならなかった。ピリッポス2世はフェラエに向かわないことがががはっきりした時点で、フェラエはフォキス・アテネ軍に合流するつもりだった。

ピリッポス2世は、アポロ神の象徴である月桂冠をかぶり、神聖なアポロの神殿を汚した者を処罰する神として戦場に臨んだ。この戦いは記録が残っている古代ギリシャの歴史において最も凄惨なものとなった。この戦いにおいて、ピリッポス2世の作戦は成功し、彼は決定的な 勝利を収めた。フォキス軍の傭兵の中には犯罪者のために戦っていると考え、戦わずして武器を捨てる兵士たちがいて、フォキス軍は兵数を減らし、軍の士気に悪影響を与えた。これに対し、フィリッポス2世は神がかりの精神状態で全軍を指揮したので、マケドニア・テッサリア軍の士気は高かった。特に人数で勝る騎兵が目覚ましい活躍をした。フォキス兵は海岸に向かって逃げた。アテネの艦隊がようやく到着していて、先に逃げた者は救われたが、多くの者が逃げ遅れ、殺されたり、捕まえられたりした。

6,00のフォキス兵が戦死し、3,000が捕虜となった。オノマルコスは捕虜となり、首つりの刑に処された。彼は十字架の刑で死んだとも言われている。オノマルコス以外の捕虜は溺死させられた。フォキスの将兵は敗軍の将兵として扱われず、アポロ神殿で盗みをした犯罪人として処罰されたのである。彼らを埋葬するこも許されなかった。ピリッポス2世は神の代理人として、神殿を冒とくした者たちを処罰した。捕虜となったフォキス兵はあまりにも残酷なやり方で処刑されたので、戦死した方がましだったと言われた。

 

  《テッサリアの体制変換》

クロッカス戦後、テッサリアの諸都市・地方はピリッポス2世を終生の統治者(アルコーン)に任命した。

  (議会で選ばれるアルコーンは国王よ

り立場が弱い。中央ギリシャでは王政が廃止されており、議会によってで選ばれる統治者はアルコーンと呼ばれた。アルコーンが居座って選挙を無視れば僭主と呼ばれる。)

ピリッポス2世はテッサリア連邦の収入を掌握し、テッサリア軍の司令官となった。

彼は今やテッサリアを自由に統治することができた。彼はまず、パガサイ港の封鎖を終了し、アテネの船舶の寄港を禁止した。パガサイはもともとテッサリアの領土ではなかったので、この港町をマケドニア領とし、守備隊を置いた。パガサイを失ったフェラエは外国との連絡を絶たれた。テッサリアの諸邦はすフェラエを敵とみなしていた。フェラエの指導者リコフロンはフォキスの将軍オノマルコスと同じ結果になるのを避け、ピリッポス2世と取引をした。リコフロンはフェラエの統治権をピリッポス2世に渡し、2,000人の傭兵を連れて、フォキスに亡命した。

ピリッポス2世は分裂していたテッサリアを統一し、西部のいくつかの都市を直接支配し、住民を追い出した。その中の一つの都市の場合、住民を根こそぎ追放し、代わりにマケドニア人を移住させた。また北部のペッラビア地方の支配を強化した。次に彼は沿岸部のマグネシア地方に軍を進め、この地方を直轄地とし、守備隊を置いた。こうしてピリッポス2世はテッサリアの君主になった。

 

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紀元前4世紀のギリシャ②

2025-02-18 14:21:21 | 世界史

  【第3回神聖聖戦争】

第3回神聖聖戦争はフォキスがデルフィの土地(南側のキッラ平野)で耕作したことが原因で始まった。すでに述べたが、デルフィは地理的にフォキスの領土内にあるが、フォキスはこの地方に対して所有権がない。デルフィを聖地と考えている諸国が共同で聖地を所有している。フォキスがキッラ平野で耕作したことは聖地の侵害であり、デルフィを保護する国々はフォキスに耕作をやめ、罰金を払へと命令した。罰金の額はフォキスの支払い能力を超えたが、罰金を払わなければ、フォキスは宗教的な犯罪者としてギリシャの国々から敵とみなされ、攻撃されるだろう。しかし宗教的な建て前とは別に、テーベはフォキスを屈服させたかった。フォキスはテーベの覇権を認めず、紀元前362年のマンティネイア戦争の際、テーベに援軍を送らなかった。テーベはフォキスにテーベ連合への参加を求めたが、フォキスは断った。

    (マンティネイア戦; 紀元前362年、アテネ、スパルタに代わる覇権国となったテーベはペロポネソス半島中央部のアルカディア地方を支配下に置いたが、マンティネイアは他のアルカディア諸都市から距離を置き、独自の道を歩んでおり、テーベの覇権を認めなかった。スパルタとアテネがマンティネイアを支援し、またペロポネソス半島西部のエリスもマンティネイアを支援した。エリスはアルカディア連盟との間で領土問題を抱えていた。マンティネイア同盟に対するテーベの同盟国はテッサリア、エウボイア、アルゴス、ロクリスなどであった。両陣営の戦闘は勝敗がつかなかったが、テーベの将軍エパメノンダスが、スパルタ軍の集中攻撃に会い、戦死した。テーベ軍の強さはエパメノンダス一人にかかっておたので、スパルタ軍はエパメノンダス一人に攻撃を集中させた。エパメノンダスは以前の戦いでスパルタ軍を破り、テーベを強国にしたのだった。エパメノンダスを失ったテーベの覇権は陰り始める。エパメノンダスを倒すことによって、スパルタは往年の軍事力の片鱗を見せた。この戦いを通じて、スパルタ軍は迅速かつ的確に行動した。)

、マンティネイア戦の時、フォキスがテーベに協力しなかったことを、テーベは恨んでいた。フォキスの聖地侵入はテーベにとってフォキスを罰する良い機会だった。アテネは社会闘争(同盟市戦争)の最中で、国外の問題に口を出す余裕がなかった。フォキスのかつての同盟者フェラエ

のアレクサンドロスは死んでいた。(フェラエはテッサリア南東部の都市で、パガサイ湾北西部に近い。)

デルフィを守る国々は隣保同盟を結成しており、同盟は重要事項を投票によって決定した。参加国はそれぞれ2票投じた。紀元前360年まで、テッサリアが隣保同盟を牛耳っていたが、テッサリアが内戦に突入して機能不全に陥り、代わってテーべが同盟の指導国となった。投票の際、テーベは容易に多数派を形成できた。紀元前357年秋の会議で、隣保同盟はフォキスとスパルタに罰金を課した。フォキスはつい最近の聖地侵犯が裁かれたのであるが、スパルタは過去にテーベを25年間占領したことで裁かれた。ペロポネソスでアテネに勝利したスパルタは高圧的な姿勢で諸国に臨み、テーベに軍隊を置いた。

フォキスとスパルタに対する罰金の額が法外に高かったのは、テーベは罰金の支払いで問題を解決するつもりがなく、戦争の口実を欲しがっていたのである。テーベのさもしい復讐のために聖戦が利用され、破壊的な結果を招くと予想されたので、フォキスに同情する国もあった。

フォキスは臨時会議を開き、対応を検討した。パルナッソス山のふもとの町レドンの市民フィロメルスはデルフィの占領を提案した。また彼は「隣保同盟の議長はフォキスである。従って我々は隣保同盟の決議を無効にできる」と言った。隣保同盟の議長はフォキスである、というのはフィロメルスの思い付きではなく、フォキスは昔からそのように主張していた。フォキスの議会はフィロメルスの提案に賛成し、彼を司令官に任命し、軍事に関する全権を与えた。フィロメルスはスパルタへ行き、アルキダモス3世と相談した。フォキスの計画が成功すれば、スパルタの罰金を無効にできるので、アルキダモスはフィロメルスに支援を約束し、兵士を集める費用として15タラント提供した。

フィロメルスはこのお金で傭兵軍を編成し、軽装備の歩兵として国内の若者1、000人を集めた。紀元前356年の7月ごろ、罰金の支払い期限が迫っていたが、フィロメルスはデルフィに向かった。デルフィの町とアポロン神殿の占領は容易だった。フォキスに対するテーベの陰謀に、デルフィの貴族も関わっていたので、フィロメルスはトラキダイ家の人々を捕らえ、殺害した。彼はトラキダイ家の財産を奪い、戦争資金とした。フィロメルスは当初デルフィの市民を奴隷にするつもりだったが、トラキダイ家の人々を殺した後、考えが変わったようで、「他の市民は安全である」と布告した。

デルフィが占領されたという知らせが伝わると、フォキスの西隣りの小国ロクリスが軍隊を派遣した。フォキス軍とロクリス軍はアポロン神殿の境内のはずれで衝突した。ロクリス軍は多くの兵を失い、敗北した。捕虜は境内の高い崖から突き落とされた。アポロン神殿を汚した者はこの崖から突き落とされるのが、慣例だった。捕虜の残酷な殺害によって、フィロメルスは聖地に対するフォキスの特別な権限を主張したのだった。捕虜の虐殺により、フォキス軍の残虐性が印象づけられた。

ロクリスに勝利すると、フィロメルスは聖地に対するフォキスの地位を高めるため、フォキスの聖地侵害にに対する判決が書かれた石板を破壊した。また彼はデルフィを統治していた政府を解体し、代わりに、フォキスに友好的な市民で構成さる政府を樹立した。新政府のメンバーはアテネに亡命していた人たちであり、彼らは祖国に帰ったばかりだった。デルフィは3方面を自然の要害で守られていたが、西側は平地に面していたので、フィロメルスは大きな石灰岩で城壁を築いた。デルフィの新体制が整うと、彼は神殿の巫女たちに予言を求めた。巫女が語ったった内容はフィロメルスのこれまでの行動を容認するものであり、彼は慣習に従い、予言の内容を境内に掲示した。次にフィロメルスはギリシャの諸都市に使節を派遣し、聖地に対するフォキスの権限を主張し、神殿の財宝には手を付けないと約束した。フィロメルスは諸都市が彼の行動を容認するとは思っていなかったが、彼らがテーベを支持しないことを期待していた。フォキスとスパルタに対する巨額の罰金は評判が悪く、撤回されていた。スパルタは罰金が消えたことを喜び、聖地におけるフィロメルスの行動(政府の解体と要人殺害)を容認した。アテネはテーべを敵視していたので、フォキスを支援すると表明した。

一方で、聖地に侵入したフォキスに対し単独で行動を起こしたロクリスが、隣保同盟に訴えた。「隣保同盟が行動を起こし、聖地を奪い返してほしい」。

テーベはロクリスの訴えを聞き入れ、同盟諸国に聖戦を呼びかけた。スパルタとアテネを除き、多くの同盟国が呼びかけに応じた。隣保同盟に参加していない国も、宗教的な観点から、聖戦を支持すると表明した。隣保同盟はフォキスに対する聖戦を宣言した。年の暮れがっ迫っていたので、戦争開始は翌年とされた。ただちに戦争を始めなかったのは、フォキスに反省する時間を与えるためでもあった。

フィロメルスは考え直すつもりはなく、軍隊の規模を大きくする必要を感じた。彼は市民をさらに徴兵すのではなく、傭兵を増やすことにした。これを実現する唯一の方法は、アポロン神殿に蓄積された奉納金や財宝を奪うことだった。戦争の期間を通じ、フォキスは1万タラント使った。開戦までにフィロメルスは10、000人の傭兵を集めることができた。傭兵たちは聖地を守る同盟の敵に雇われるのは気が進まず、フィロメルスは割高の契約金を払わなければならなかった。

 

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紀元前4世紀のギリシャ①

2025-01-31 18:06:19 | 世界史

        〈ピリッポス2世〉

ピリッポス2世の最初の軍功は,奪われた領土を取り返したことである。西の隣国、イリュリア王国は、現在アルバニアとなっている地域を支配していたが、359年マケドニア軍を破り、領土を奪った。敗戦の際、国王ペルディッカス3世が死亡した。翌年ピリッポス2世は領土を回復し、マケドニアの西の国境はオフリド湖となった。現在オフリド湖はアルバニアの南東、マケドニア共和国との国境に位置している。ピリッポス2世の時代の領土の領土の北限は現在のマケドニア共和国の南4分の1の線だった。ピリッポス2世のマケドニアの東端はハルキディキ半島の付け根までだった。エーゲ海の北端の沿岸部はイオニア人が植民しており、内陸部はトラキア人の土地だった。エーゲ海北端から南西に少し下ると、三本の細い脚を海に向かって突き出したような形の半島がある。三本の足にはそれぞれ名前があり、本体の部分がハルキディキ半島である。この半島の沿岸部にもイオニア人が植民しており、半島の西側の付け根から少し離れた海岸がマケドニア領であり。海岸から内陸に入って行くとマケドニアの首都ペッラがある。ずっと後になって、ハルディキ半島の西側の付け根に港湾都市テッサロニキが建設される。ハルキディキ半島から離れた沿岸部はマケドニア領であるが、港町ピュドナは数回アテネに奪われたが、そのたびに奪い返している。紀元前357年ピリッポス2世はハルディキ半島のトラキア側の付け根の港町アンフィロポリスを奪取した。アンフィポリスの近くに良質の金の鉱山があり、経済的に有益だっただっただけでなく、ハルキディキ半島獲得への第一歩になった。アテネもアンフィロポリスを狙っていたが、軍事行動が必要なので迷っているのに漬け込み、ピリッポス2世は「代償としてピュドナを引き渡すから、アンフィポリスはあきらめてくれ」と言ったのて、アテネは了解した。ピリッポス2世はすぐにピドナを奪い返したので、アテネは宣戦布告した。ピリッポス2世はハルキディキ半島の諸都市と同盟し、アテネに勝利した(紀元前356年)。ハルキディキ半島か突き出ている3つの細い半島の一つ、南のパレネ半島の付け根は戦略的な価値があり、かつてコリントとアテネの間で争われ、アテネが勝利し、アテネ領となっっていた。の植民地だった。ポティダイアの住民は独立を望んでおり、アテネに勝利したピリッポス2世は、アテネによるポティダイアの支配を終わらせた。同年ピリッポス2世はアンフィポリスの東方の町クレニデス(Crepis)を占領し、町の名前をピリッポイと変え、鉱山を守るため、強力な守備隊を置いた。ピリッポイの鉱山は金を産出し、以後の戦争の資金源となった。
ピュドナの北の町メトネ(Methone)はアテネ領だったので、355ー354年ピリッポス2世はこの町を包囲した。この時の戦闘で彼は右目を負傷し、失明した。アテネの二つ艦隊が応援に来たが、354年町は陥落した。ハルキディキ半島の南の湾(テルマ湾)に、アテネの港はなくなった。
354-353年、トラキアの沿岸部をさらに東に進み、ピリッポイの東の町アブデラを攻撃した。
これまでピリッポス2世はギリシャの周辺部で領土固めをしてきたが、ギリシャ中心部の内紛に関与し、マケドニアの覇権を拡大した。

      〈神聖聖戦争〉
神聖聖戦争はギリシャ人の聖地デルフィをめぐる戦争である。デルフィはフォキスの領土にあるが、独立している。デルフィを聖地と考える国々全体ががデルフィを所有している。
フォキスがデルフィへの巡礼者を略奪したり、デルフィの土地を勝手に利用したことが原因で神聖聖戦争が3回起きた。アポロの神殿があるデルフィ地方は小国フォキスの領土内にあるが、フォキスの所有地ではない。
最初の神聖聖戦争は紀元前5世紀初頭に起きた。小国フォキスの港町キッラの市民がデルフィへ向かう巡礼者から盗んだり悪事を働いたりした。デルフィはコリント湾に近く、キッラは海からの入り口になっていた。またキッラの市民は巡礼者を略奪しただけでなく、デルフィの土地に侵入した。こうした不法行為に対し、いくつかの国が合同でキッラを討伐した。コリント湾の対岸の都市シキオン(Sicyon、コリントの西)の海軍がキッラの港を封鎖し、上陸作戦に備えた。アテネの陸兵が上陸し、テッサリア軍が町の陸側を包囲した。包囲後、攻撃側がキッラの市民が利用する水道の源泉に毒を入れたと言われている。キッラは陥落し、町は完全に破壊され、市民は山に向かって逃げた。テッサリアはデルフィの南側の斜面と港を欲しがっており、単独で介入しようとしていたので、他の国もキッラ攻撃に参加したとも言われている。
2回目の神聖聖戦争戦争はデルフィ地方又はアポロン神殿の問題ではなく、デルフィの西の小国ドリスの問題であるが、スパルタなど、ドーリア人にとって、ドリス地方はデルフィと一体である。デルフィのアポロン神殿はパルナッソス山にあるが、パルナッソス山の北西の方角にオエタ山がある。パルナッソス山とオエタ山の間の谷間がドーリア人の故郷である。パルナッソス山の周囲のデルフィ地方はすべてのギリシャ人の聖地となったが、ドーリア人にとってオエタ山とその周囲のドリス地方も聖地なのである。特にスパルタはドリス地方を首都としている。スパルタ人は故郷を決して忘れない。
紀元前458年、フォキスが隣国ドリスの3つの町を占領した。するとスパルタ軍がやってきて、フォキス軍を破リ、ドリスは3つの町を取り戻した。スパルタ軍がペロポネソスに帰る途中、アテネ軍に攻撃されたが、スパルタ軍は彼らを撃退した。5年間の休戦後、スパルタは、ギリシャの中央部に対するアテネの帝国主義的な野望を打ち砕くことにした。
フォキスはドリス地方の侵略に失敗したにもかかわらず、さらに大胆な行動に出た。アポロン神殿とデルフィ地方を占領したのである。これはフォキス単独の行動ではなく、背後にアテネがいた。ただちにスパルタ軍がやってきて、フォキス兵を追い払い、デルフィは支配権を取り戻した。スパルタ軍が去ると、ペリクレスとアテネ軍がやってきて、デルフィの支配権をフォキスに与えた。
フォキス兵がデルフィから追い払われたのは449年、アテネ軍がデルフィを占領したのは447年と3世紀のギリシャの歴史家フィロコルスは書いているが、20世紀前半のイギリス人、アーノルド・ウィコムはどちらも448年に起きたと考えている。

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リヴィウスのローマ史はどこまで史実か④

2025-01-24 14:46:42 | 世界史

④グナエウス・ナエヴィウス( 紀元前270ー 201 年) 
 ナエヴィウスは、ローマで最初の劇作家である。彼はピクトルと同じ年に生まれているが、ピクトルが著作に取り掛かるは晩年であるの対し、ナエヴィウスは30歳半ばに劇作を開始した。ナエヴィウスは若くして第一次ポエニ戦争(前264ー241年)に参加した。徴兵に応じただけかもしれないが、彼は熱烈な愛国者であり、戦争の経験は彼に強い印象を与え、晩年に第一次ポエニ戦争をテーマとする叙事詩を書いた。紀元前235年頃、ナエヴィウスは最初の劇を上演した。これはローマで上演された最初の演劇だった。以後30年間彼は喜劇を中心に劇作品を作り続けた。その中にはロムルスとレムスの子供時代を題材にした作品もあった。ファビウス・ピクトルのローマ史はまだ出版されていなかったので、建国神話が劇として上演さるのを見て、ローマ市民は興味を持っただろう。晩年ナエヴィウスは喜劇の中で、メテルス家をからかった。メテルス家に対する痛烈な批判が評判になり、メテルス家は見過ごせなくなった。ナエヴィウスは投獄された。貴族を笑いの材料にしたことが犯罪だったというより、評判になったことが問題だった。18世紀の劇作家ボーマルシェの「フィガロの結婚」と同じことが2000年前に起きたのである。フィガロの結婚は貴族全般を揶揄しただけで、特定の貴族の名誉を傷つけるものではなかったが、危険な作品とみなされ、フランスでの上演が禁止された。ルイ16世は「これの上演を許すくらいなら、バスティーユ監獄(政治犯の監獄)をなくす方がましだ」と言って、怒った。オーストリアではこの作品の危険性が知られていなていなかったようであり、、また音楽作品となって政治性が弱まり、モーツアルトの オペラ、フィガロの結婚は禁止されなかった。
ナエヴィウスは獄中で反省し、護民官によって釈放された。囚人を釈放するという、強い権限を、護民官は持っていたのである。自由になったナエヴィウスは再び貴族を批判し、チュニジアに亡命(カルタゴの本土)に亡命した。彼がカルタゴに亡命した時期は第二次ポエニ戦争の末期であるが、戦闘とは無関係だったようである。紀元前204年スキピオがアフリカに上陸し、202年のザマの会戦でローマが勝利している。ナエヴィウスは亡命により、劇作品の発表が困難になり、また後輩のエンニウスが評判を呼ぶようになったこともあり、ナエヴィウスは劇作品を書くのをやめた。人生の最後の日々、若き日に第一次ポエニ戦争で経験したことを思い出しながら、第一次ポエニ戦争をテーマする叙事詩を完成させた。ナエヴィウスがどの作品でローマ建国の年を紀元前1100年と語ったのか、わからない。彼はギリシャの劇作品を自由にアレンジし、登場人物をローマ人に、場面をローマに置き換えた。彼はギリシャ語を理解したが、劇作家であったため、ティマイオスがローマの建国を紀元前814年としていることを知らなかったようだ。また彼は平民だったため、建国を紀元前748年とする記録を見る機会がなかったと思われる。ピクトルの「年代記」が出版されたのは、紀元前198年であり、ナエヴィウスの死後であり、紀元前748年と書かれているのをの読む機会がなかった。ナエヴィウスは69歳で自殺した。彼は愛国者であり、敵国で亡命生活を続けることを不甲斐ないと感じたのか、せっかく書き上げた叙事詩を発表できないことに絶望したのかわからない。

⑤ クイントゥス・エンニウス ( 紀元前 239ー169年)
  エンニウスはローマの最初の詩人とみなされている。彼はアプリア南部のメッサピア人である。メッサピア人は紀元前11世紀にイリュリア(バルカン半島西部の地方)からアプリア南部に移住した。紀元前8世紀にスパルタ人がやってきて沿岸部に町を建設した。町の名前はタラス、現在のターラントである。昔のメッサピア人は古トラキア語を話していたが、エンニウスの時代にはオスク語を話すようになっていた。エンニウスの母語はオスク語であるが、彼が育った町にはギリシャ人地区があり、若い時にギリシャ語を習得した。エンニウスはホメロスを愛読し、自分をホメロスの生まれ変わりと思うようになった。南イタリアのギリシャ人の間では、死者の魂は新生児の身体に移ると信じられていた。またエンニウスは自分を昔のメッサピア人の王の子孫だと考えていた。エンニウスがラテン語を習得した時期は、わからない。エンニウスがローマ人に知られるようになったのはローマ軍に参加してからである。彼は中年になっていたが、百人隊長として、第二次ポエニ戦争に従軍した。サルディニア島で戦っていた時(紀元前204年)、大カトーが彼に興味を持ち、ローマに連れて行った。彼はギリシャ語の教師をしながら、ギリシャの演劇をラテン語の劇に作り替えて生計した。エンニウスはローマの要人たちの業績を讃える詩を書き、スキピオ・アフリカヌスを始め、有力者たちと親交を得た。ギリシャのアイトリア戦(紀元前189年)で、執政官フルヴィウス・ノビリオルに認められた。エンニウスはアンブラキア(Ambracia:ギリシャ北西部エピルス地方の都市)攻略に参加し、この戦いをテーマとする劇を書いた。主著の叙事詩においてもアンブラキア戦について書いた。アンブラキア攻略はローマとアイトリア同盟との戦争の主要な戦いである。
アイトリア戦のローマの司令官フルヴィウス・ノビリオルの息子のおかげで、エンニウスはローマの市民権を得た。ローマ市民となったエンニウスはアヴェンティーヌの丘に住み、質素な暮らしをしながら詩作をした。彼は劇作品も書いたが、彼の主著はローマ史を題材とする叙事詩である。「年代記」と題する叙事詩は18巻からなり、紀元前1184年のトロイ陥落から始まり、カトーが監察官に就任した紀元前184年で終わっている。彼はギリシャの叙事詩のスタイルを取り入れた最初のローマ人であり、彼の叙事詩はラテン語の叙事詩の標準となった。また彼の叙事詩は学校の教科書にも採用されたが、600行しか残っていない。叙事詩の最後の代18巻はエンニウス自身の人生が、テーマとなっており、例えば、次のよウに書かれている。
「私はオリンピック競技に出場した競争馬と同じだ。優勝した馬は疲れ切って休息を求める。年老いた私も同じように休息が必要だ」。
エンニウスが叙事詩を書いたのは67歳の時であり、3年後に自らの墓碑銘を残して死んだ。
「私が死んでも嘆かないでほしい。人が私について語るとき、私は生きている」。
エンニウスはローマ建国を1100年としたり、884年としたりしている。1100年としたのは、先輩の劇作家ナエヴィウスの説を受け入れ、歴史家ピクトルの説を拒否したようである。エンニウスは叙事詩のタイトルを「年代記」としており、ピクトルの年代記を読んでいる可能性がある。エンニウスは若い時に愛読したホメロスの詩で語られている時代とローマの建国を結び付けたかったのだろう。エンニウスは考え直して紀元前884年としたようである。紀元前884年という説はティマイオスの紀元前814年に近いが、70年ずれている。単に、少しでもローマの建国を古くしたかっただけか、ギリシャ人の歴史書にそう書かれていたのかわからない。彼はギリシャ語が第2の母語である。

 

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リヴィウスのローマ史はどこまで史実か③

2024-12-25 16:02:50 | 世界史

ローマは紀元前753年に建国されたことになっているが、最初から753年とされていたわけではなく、諸説あり、紀元前1世紀に753年とされたと言われている。諸説あったのは確かで、しかもローマではようやく3世紀末に初めて歴史書が生まれ、その中で建国の年が登場する。これ以後、建国の年がいくつか提唱された。ローマ人に先んじて、シチリアのギリシャ人が3世紀前半にローマの建設は紀元前814年と書いている。以下に建国の年のばらつきを示す。最初の3人は歴史家であり、残りの2人は劇作家・詩人である。

⓵ ティマイオス       ( Timaeus of Tauromenium)      紀元前814又は813年
②クイントゥス・ファビウス・ピクトル( Quintus Fabius Pictor) 紀元前748年または747年          紀元前1100年
③ルキウス・キンキウス・アリメントゥス(Lucius Cincius Alimentus)前729又は728
④グナエウス・ナエヴィウス(Gnaeus Naevius)
⑤ クイントゥス・エンニウス ( Quintus Ennius )  紀元前1100年又は884年
次にこれらの著者の略歴と、どのようにしてローマ建設の年を知ったかを説明する。

⓵ ティマイオス(紀元前356又は350ー260年)         814年
  ティマイオスはシチリア生まれのギリシャ人であり、古代の著者たちから最も影響力のある歴史家とみなされていた。彼はシチリアのタオルメニウム(現タオルミナ、メッシナ海峡の南)に生まれた。彼の父アンドロマクスはシラクサのディオニシウスを退け、タオルメニウムの支配者となった(紀元前358年)。
ティマイオスは晩年アテネに15年住み、イソクラテスの弟子ミレトゥスのフィリスクスに学んだ。ティマイオスの主著「歴史」はアテネで書かれた。ティマイオスは265年シチリアの故郷に帰り、間もなく死んだ。
ティマイオスの「歴史」は38巻からなり、4つの部分にに分かれている。
⓵ギリシャ史(都市国家の成立からポエニ戦争まで)
②初期のイタリア・シチリア史 
③シチリア史
④シチリア・ギリシャ史
⑤シチリアの僭主アガトクレスについて

ティマイオスは年表の作成に取り組み、オリンピアの競技の年を基準とし、アテネの支配者の即位年を決定した。同様にスパルタの支配者とアルゴスの巫女の即位年を決定した。ティマイオスの年表はギリシャの歴史家の間で広く使用された。
ティマイオスはローマの勃興に注目した最初のギリシャ人だった。ローマとカルタゴの戦争の結果が西地中海の状況を一変させると、彼は予見していた。ローマに関心を持ったギリシャ人として、彼はポリュビオス(紀元前200ー118年)の先人だった。
ティマイオスはローマの建国を紀元前814年とした。彼はシチリアで生まれ育ったギリシャ人であり、イタリアの歴史に関心があった。彼の考えでは、ローマは古い都市であり、ローマが建設されたのは、ギリシャ人がイタリアに植民する少し前だった。ギリシャ人のイタリア植民は紀元前8世紀に始まった。彼はどのようにしてローマの建国の年を知ったのだろう。彼がローマに関する情報を得たのは紀元前4世紀末から紀元前3世紀前半である。この時期のローマ人またはイタリア南部のギリシャ人から情報を得たのだろう。または彼の先人であるシチリアの歴史家から学んだのかもしれない。シラクサのアンティオコスは南イタリアとシチリアへのギリシャ人の植民について書いた最初の歴史家である。彼の生まれた年も没年もわからないが、彼が執筆活動をしたのは紀元前420年ごろである。彼はヘロドトスより年下で、ツキジデスと同時代人である。アンティオコスは二つの著書「420年以前のシチリアの歴史」と「イタリアへの植民の歴史」は古典となった。ツキジデスは「420年以前のシチリアの歴史」を活用し、ハリカルナッソスのディオニシオス、ストラボン、シケリアのディオドロスは「イタリアへの植民の歴史」をしばしば引用した。
「イタリアへの植民の歴史」がローマの建国や王制の時代について触れていたかはわからないが、ティマイオスはローマの建国について、アンティオコスから学んでいたかもしれない。
ティマイオスは共和制初期の出来事の年代を記録しており、クルシウムとアリチアの戦争を紀元前504年と書いている。
ローマの最後の王タルクイニウスは王位を失い、亡命したが、再起を図り、エトルリアの都市クルシウムの王にローマ攻撃を持ち掛けた。クルシウムの王ポルセンナは話に乗り、ローマに向かった。クルシウム軍はローマを包囲したものの、決着がつかず、結局ローマと和解した。ポルセンナは無駄な出兵となるのを避け、息子に軍の半分を与え、ラテン都市アリチアを攻撃させた。アリチアはラテン連盟とギリシャ都市クマエに助けを求めた。援軍が到着すると、アリチア軍は守りから攻撃に転じたが、クルシウム軍に蹴散らされてしまった。隠れていたクマエ軍がクルシウム軍の背後を襲い、クルシウム軍は破れた。生き残ったクルシウム兵はローマに逃げ、かくまってくれと頼んだ。彼らはローマに住むことを許され、彼らの住む地区は「エトルリア人の地区」と呼ばれた。以上は、リヴィウスが書いていることである。アりチアはアルバ湖の南方のラテン人の都市である。クルシウムは現在のキウジで、トスカナ地方南東部、ウンブリア地方との境界に近い場所にある。アりチア戦に、ギリシャ都市クマエが参加していているので、ティマイオスの情報源ははクマエかもしれない。ティマイオスはこの戦争の年を紀元前504年としているが、ローマ側は紀元前508年としている。 
また、ティマイオスは、ガリア人のローマ占領を紀元前386年と書いている。おそらく、情報はクマエだろう。ギリシャ人の都市クマエはエトルリアと交流があり、エトルリアの出事に通じていたようである。紀元前1世紀のシチリアのギリシャ人ディオドゥルスは次のように書いている。「紀元前386年ガリア人はローマを占領した。次にガリア人は南イタリアへ遠征してから、故郷に帰る途中、エトルリア人の攻撃を受けた」。
ギリシャ人の間では、ガリア人の襲来は紀元前386年となっているが、ローマ側は紀元前390年としている。

②クイントゥス・ファビウス・ピクトル(紀元前270 ー 215から200年の間)
  ピクトルは紀元前230代のリグリア人やガリア人との戦争に下級将校として従軍した。帰国後彼はプラエトルになった。紀元前218年ハンニバルがイタリアに侵入し、第2次ポエニ戦争が始まった時、ピクトルは元老になっていた。ハンニバルに負け続けていたローマは、紀元前216年8月カンネーで大敗北を喫した。困り果てたローマの元老院はギリシャの聖地デルフィの神の予言を聞くことにした。使節の神官たちに随行し、ピクトルはギリシャに向かった。彼の第2次ポエニ戦争への関わりは、これだけである。紀元前215ー200年、ピクトルは「年代記(ローマ史)」を執筆した。
ティマイオスがローマの建国を紀元前814年としていることを、ピクトルは知っていたかもしれないが、採用しなかった。ピクトルはローマ側の記録に従って、建国の年を紀元前748年とした。彼がローマの歴史を書いた動機は、第2次ポエニ戦争におけるローマの正当性を対外的に主張するためだった。それで彼の年代記はギリシャ語で書かれた。ピクトルはギリシャの歴史書のスタイルをローマに導入した最初のローマ人である。当然ピクトルはギリシャの歴史家の著書を読んでいたに違いない。また彼は、シチリアの二人の歴史家、アンティオコスとティマイオスのイタリア史を読んでいた可能性が高い。しかしギリシャの歴史家はイタリアのギリシャ都市について多くのペ-ジを割いたのであり、ローマに関する記述は少なかったに違いない。それに対し、ローマ側には十分な記録があった。その結果彼はローマの歴史を書くにあたり、ローマ側の記録を参考にしたのである。

③ルキウス・キンキウス・アリメントゥス(生まれた年と没年は不明)
  アリメントゥスは紀元前210年にシチリアのプラエトルに任命され、翌年(209年)、前プラエトルとして引き続きシチリアにとどまり、2つの地方を支配した。その後彼は元老になり、裁判官が金品を受け取ることを禁止する法律(キンキウス法)を提案し、可決された。アリメントゥスは第2次ポエニ戦争(紀元前219ー201年)で捕虜になった。ハンニバルは捕虜のアリメントゥスにアルプス越えについて詳しく語った。紀元前202年ローマがザマ(カルタゴ本土)で勝利し、アリメントゥスは釈放された。帰国後彼はローマの歴史を書き、ファビウス・ピクトルに続く歴史家となった。主著「年代記(ローマ史)」はギリシャ語で書かれた。アリメントゥスは大神官の年代記、及びその他のローマ側の記録を、ギリシャ語に翻訳しながら、ローマ史をまとめ上げた。彼の客観的な著述はハリカルナッソスやポリュビオスによって称賛された。紀元後4世紀のローマの歴史家フェストゥス(Festus)は、しばしば彼の年代記を引用した。近代ドイツのローマ史家ニーブール(Barthold Georg Niebuhr)はアリメントゥスの批判的な手法を高く評価し、次のように述べた。「アリメントゥスは古代の記念碑を調査し、過去の歴史を探求することによってローマ史に新しい光を当てた。彼は他の歴史家と違って、初期ローマのラテン都市に対する勝利を抑制的に描いた」。
残存している断片によれば、アリメントゥスはローマが建設された年を第12回オリンピア競技の4年後(紀元前729又は728年)としている。これについてニーブールは注目すべき見解を述べている。「ローマの建設は第5代国王タルクイニウスの132年前という記録が存在し、ローマの歴史家はこの記録を採用した」。
第5代国王タルクイニウスがローマの暦を改革するまで、1年は10か月しかなかった。旧歴の132年前は、12か月から成る新暦では110年前である。アリメントゥスは5代国王の即位年を知っており、その110年前を建国の年とした。しかし、1年が10か月しかなかったというのはアリメントゥスの誤解であり、ロムルス歴においては、10か月の後に2か月分(約61日)の冬月が置かれており、1年は365日であった。2か月分の冬月はじゅうぶん機能を果たしたが、不細工なので、第2代国王のヌマが1年を12か月とした。ヌマ礫歴はカエサルの時代まで続いた。1年が10か月(300日)しかなかったら、2年目に少し変だと気づくし、6年目には夏と冬が逆転する。いかなる原始人もそのような暦を使わない。
既に述べたように、ピクトルは建国の年を紀元前748年をとしていた。アリメントゥスも、旧暦では1年が300日しかなかったという考えに振り回されなければ、ピクトルと同じく、紀元前748年としていたはずである。ローマの最初の2人の歴史家、ピクトルとアリメントゥスが、建国の年を紀元前748年としていたことは重要である。19世紀初頭のドイツの歴史学者の言葉を繰り返したい。「ローマの建設は第5代国王タルクイニウスの132年前という記録が存在した」。
紀元前1世紀になって、建国の年が5年早められ、753年とされた。なぜ5年早められたかを調べる作業は余人に譲りたい。私としては、ローマの建国の年や、7人の国王の即位年や統治期間について、古い記録が存在した可能性が高いことを知って満足している。「国王が部屋の壁に重要な出来事を記録していた」という説があるのを知って、私は半信半疑だったが、古い記録の存在を軽々しく否定はできないと考えるようになった。

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リヴィウスのローマ史はどこまでス史実か②

2024-12-18 06:08:09 | 世界史

最初のローマ人歴史家はクインクティウス・ファビウス・ピクトールであり、彼がローマの歴史を書いたのは紀元前3世紀末である。ピクトールはアエネイスのラティウム上陸から話を始めているが、どのようにして何百年も昔の出来事を知ることができただろう。トロイの王子アエネイスがイタリアに来たという話はギリシャの歴史家からの借用であり、彼はギリシャ人のイタリア植民の祖とされていたのである。ローマの歴史家はアエネイスがラティウムに上陸したことにした。その後アエネイスは土地の娘と再婚し、町を建設した。こうしのように、ローマの歴史家はアエネイスをラティウムと結びつけた。アエネイスの死後、アルバ・ロンガの時代を経て、ローマが建設され、歴代7人の王が統治した。ローマ側の伝説が書物となるのは紀元前3世紀末であり、それまで口伝えだとしたら、忘れたり、記憶違いをしてしまう。国王の時代ぐらいに書き留められていなければ、風化してしまう。ローマ人は王制時代にエトルリア文字を用いて記録していた可能性がある。エトルリア語はイタリック諸語とかなり違う言語だが、エトルリア文字はギリシャのアルファベットを借用したもので、簡明である。昔の日本人が漢字を学ぶより、はるかに容易だった。日本人は平安時代にひらがなを考案したが、中国人がカタカナのようなものを用いていたなら、日本人はもっと容易に文字を習得しただろう。要するに、エトルリア文字を用いるのはローマ人にとって容易だった。なんといってもエトルリアの都市ヴェイイとローマは近かった。
ロムルスがラテン人の古い都市アルバ・ロンガの国王の孫だったという話は神話かもしれないが、ローマには若い女性が少なく、サビーニ人の女性たちをだまして連れてきて妻としたという話は事実かもしれない。現在の学者たちがリヴィウスのローマ史を疑うのは当然であるが、非常に印象的な話が多く、すべてが神話とは思えない。7人の王のそれぞれの話にも、実際にあった話と思える箇所がいくつかある。
歴代の国王が、自分の住まいの壁に出来事を記録していたという話があるが、王宮は中央広場の一角にあり、前390年にパラティンの丘の建物の多くが焼かれたので、国王の宮殿も焼けてしまったかもしれない。ただし、ガリア人の焼き討ちは限定的だったという説もあり、記録が残った可能性もある。7人の国王の名前と彼らの時代の出来事は大部分事実だという意見もある。国王の就任の年と統治期間が疑わしいだけだという。
紀元前1世紀のローマの歴史家の間で、王の時代について意見が分かれていたが、国王の時代が244年続いた点では一致していたと言われている。ロムルスはトロイの王子アエネイスの孫であると考え、ローマの建設を紀元前1100年とする者もいたが、王制の期間244年と矛盾するので、退けられた。アエネイスのラティウム到来とローマ建国の間にアルバ・ロンガの歴史が置かれ、ロムルスはアルバ・ロンガの末期の王の孫とする考えが主流になった。共和制の最初の年が紀元前509年という点でもローマの歴史家の多くが一致し、王制の最後の年509年と王制の期間244年から逆算して、建国の年が紀元前753年と割り出された。考え方はよく理解でき、かなり現実的な結論となっている。ローマ人は数字の年代を使用しなかったので、正確な年代とずれることもあったが、論争の末、妥当な線に落ち着いたようだ。

紀元前509年以後の共和制の時代については、最初の100年は王制時代と同じで、記録が存在したようだとしか言えないが、紀元前400年以後、確かな一次資料が存在した。
     〈大神官の年代記(Annales maximi)〉
大神官の年代記には執政官の名前だけでなく、各年の主要な出来事が記録されていた。キケロによれば、大神官の年代記は紀元前400年以後の記録である。大神官は終身であり,就任後、年代記を書き始め、彼が死ぬと次の大神官が記録を続けた。大神官はカピトルの丘に住んだ。カピトルの丘のユピテル神殿が建設されたのは紀元前509年であり、紀元前400年以前の記録がないのはなぜだろう。カピトルの丘は紀元前390年の大火を免れており、焼き討ち以外の原因で失われたのどうか。そもそも紀元前400年に記録を始めたのだろうか。前400年以前、ローマ人は出来事を記録する習慣がなかったというこではない。正式な記録は突然生まれるのではなく、記録する習慣が先に生まれることが多い。日本書紀と古事記が書かれる以前に、北九州、出雲、岡山(吉備)などに記録が存在したのと同様である。古事記の冒頭に、「語り部の話を文字にした」と書いてあるのは、天皇の一族の伝承を文字にしたということであり、日本に文字による記録がなかったということではない。
大神官の年代記の簡略版がパラティンの丘の中央広場に公表され、ローマ市民は誰でも読むことができた。簡略版は歴代執政官のリストであり、重要な戦いに勝利した凱旋将軍の名前も書かれていた。簡略版は中央広場の旧王宮の前の白い石板に刻まれた。これにより、文字の読める市民にとって、歴代執政官の名前はなじみのあるものとなり、歴代執政官のリストは広く共有された。有力貴族は執政官のリストを年号代わりに用いて、家族の歴史を書いた。ローマ人の最初の歴史書は3世紀末に成立するが、それ以前に大神官の年代記と有力貴族の家族史が存在した。貴族の家族史は家族の構成員を美化する傾向があり、作り話が混じることがあるが、事実を書き残している場合も多い。
大神官の年代記は紀元前130年頃に終了し、全部で80巻になっていた。紀元前130年に大神官に就任したムキウス・スカヴォラ(Publius Mucius Scaevola)が年代記を出版した。これ以後のローマの歴史家にとって、大神官に年代記の閲覧を許可してもらう必要がなくなった。
なお、リヴィウスの建国史に書かれている執政官の名前が、大神官の年代記と異なる箇所があるという。大神官の年代記には、ずっと昔に断絶した家族の名前が書かれており、前1世紀の歴史家には馴染みがなく、古めかしすぎたと言われている。前1世紀に大神官の年代記と一部異なる執政官のリストが生まれた。西ローマ末期以後大神官の年代記は失われたため、リヴィウスの建国史がどの程度大神官の年代記と違っているか、調べることができない。リヴィウスが古い記録を修正したのは、単に古い時代に対する無理解なのか、平民に同情的な執政官が抹殺されていることに対する反発なのか、わからない。 

中世になって大神官の年代記の簡略版が発見された。大きな大理石の石板が地面に埋まっていた。オクタヴィアヌスがアントニウスに勝利した記念に建てた凱旋門が半分崩れており、聖ピエトロ大聖堂の建立に再利用することになったが、近くの地面から、文字が刻まれた大理石が出てきた。注意深く掘り出すと、大きな4つの石板であることがわかった。これは大神官の年代記の簡略版の現物らしかった。石板は教皇館に保管されていたが、現在教皇館は博物館の一部になっている。
石板に刻まれている執政官のリストは前483年から始まっているが、もとは前509年から始まっていて、最初の部分が壊れてしまったようだ。大神官の年代記は紀元前400年から始まっているはずなのに、発見された簡略版は509年から始まっているのは、なぜだろう。また大神官の年代記は前130年で終わっているのに、石板のリストはアウグストゥスの時代まで続いている。発見された大きな石板は、前400年以降に立てられた古い石板ではなく、アウグストゥスが新たに立て直し、一部書き直したようである。発見された石板には、10年ごとに数字の年号が刻まれている。数字の年号は古い石板にはなかったはずだ。数字の年号は建国の年を元年とするローマ歴である。また重要な戦いに勝利し、凱旋将軍の栄誉を与えられた執政官や独裁官の名前も記録されており、最初の凱旋将軍はロムルスとなっている。古い石板に凱旋将軍の名前が書かれていたかどうかはわからないが、書かれていたとしても、紀元前400年以後の旋将軍の名前のはずだ。アウグストゥスは紀元前509ー400年の執政官のリストを刻んでいるが、何を根拠にしたのだろう。

大神官の年代記に匹敵する重要な記録がもう一つ存在した。残念ながら、それが前509年に始まったかは不明であり、共和制の最初の100年の記録が存在したかは、やはりわからない。重要な記録とは、元老院の記録である。筆頭元老が、元老たちの主要な発言と元老院の決定を記録していた。筆頭元老の記録は元老しか見ることができなかったが、過去の出来事に関心のある元老はいつでも記録を参照できた。元老の間では過去の出来事が共有されていた。元老院の記録は元老でなければ見ることができず、出版もされなかったので、広く共有されなかったが、重要な一次資料が存在したことは間違いない。記録がいつ始まったかわからないのが残念である。ファビウス・ピクトルは紀元前218年に元老になっており、ローマ史を書くにあたって元老院の記録を参照したに違いない。また元老となったピクトールは大神官の年代記を閲覧できたに違いない。ピクトールは2種類の一次資料を参照したのである。またファビウス家は名家であり、代々子供たちに誇りある家族の歴史を語り伝えていたにちがいなく、ファビウス家は家族の歴史を記録していたので、ピクトールはローマ史に理解があった。
以上、主に共和制の最初の200年について、文字資料が存在したか否かを調べてみたがが、最初の100年については、正式な記録は存在しないが、文字の使用はそれ以前に始まっていたと思われ、何らかの記録が存在した可能性はある。紀元前400年以後は大神官の年代記が存在し、元老院の記録も始まっていた可能性が高い。また、この時期には有力貴族が家族の歴史を書き始めていたようである。クラウディウス・マルチェリ家、ファビウス家、アエミリウス家などの記録が知られている。リヴィウスとキケロはこれらの記録を批判しており、作り話がいくつかあったようであるが、事実を伝えている場合もあり、記録が全然ない場合より、ましである。ローマ人の間で記録する習慣が始まっていたことは重要である。
私としては、リヴィウスの建国史の3分の2、少なくともも半分が事実であれば十分であり、紀元前400年以前に何らかの記録が存在したか否かが、気になったのである。現在の学者の間では紀元前300年以前のローマ史が疑われている。確かな記録が存在した紀元前300年代が疑われるのは、紀元前1世紀の歴史家が古い記録を改ざんしたと考えられるからである。リヴィウスも改ざんを疑われている。建国史の執政官の名前が、ピクトルの年代記と違っていることッは、既に述べた。またセクスティウスとリキニウスの話は、ピクトルの年代記には、なかったと言われている。しかしリヴィウスはかなりの部分でピクトルの年代記を受け継いでいる。リヴィウスはローマの最初の歴史家ピクトルを信頼しており、手本としていた。またリヴィウスは前2世紀の歴史家も評価していたが、前1世紀の歴史家を信用していなかった。それにもかかわらず、リヴィウスは紀元前1世紀の歴史家の影響を受けたとみなされている。これについて、私は一つの観点を提起したい。
紀元前1世紀はローマの社会が激変し、旧来の秩序が崩れ、大きな内乱が繰り返し起きた時代である。歴史観も分裂したのである。第二次ポエニ戦争(紀元前219ー201年)後、貴族階級が傲慢になったことが、動乱の遠因のように思われる。ハンニバルとの戦争に負け続けたことを、ローマの貴族は反省せず、地中海西部の覇者となり、舞い上がったのである。平民の多くが没落し、貴族に対抗する勢力が消え、貴族の天下となった。しかし紀元前2世紀末に社会の矛盾が顕在化し、反動が起きた。貴族独裁に対す対抗軸が復活し、激烈な内戦となった。このような時代に、貴族中心の歴史観に批判が起こったのかもしれない。リヴィウスも新しい波と無縁ではなかったに違いない。しかしリヴィウスには混乱の原因を知りたいという強い欲求があり、新しい波にのまれただけではない。リヴィウスは昔のローマ人の古風な性格があり、虚飾を嫌い、非現実的な空想を嫌ったのでり、彼の歴史観は独自なもになっている。

 

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リヴィウスのローマ史はどこまで史実か⓵

2024-11-30 18:15:23 | 世界史

紀元前133年の護民官ティベリウス・グラックスが没落農民の救済のためめに奮闘したが、改革を実現できないまま、暗殺されてしまった。紀元前376年の護民官となったセクスティウスとリキニウスは10年間連続して護民官となり、苦闘の末平民の地位向上のための法律を実現した。二人が実現した4つの法案は平民を貴族と同等にするものであり、多くの貴族にとって、とんでもない法案だった。二人の法案は、近代フランスの革命やロシアの革命の匹敵する、過激な法案であり、グラックス兄弟の改革案に匹敵するものだった。しかも一滴の血も流れなかった。セクスティウスは前366年の執政官に就任し、リキニウスは前361年の執政官に就任した。権力者の譲歩は危険である。権力者が弱さを見せれば、大衆は怖い者無しの心境になり、秩序は崩壊し、万人が権力者になろうとするだろう。その結果、万人が万人と戦うことになり、無法者が幅を利かせることになる。この状態は結束力のある集団が残りのすべてを屈服させるまで続く。紀元前367年のローマにおいて、元老院は自分たちの命取りになるような譲歩をしたが、社会の秩序は崩れなかった。この時代社会の歩みは緩やかであり、元老院の権威はまだ失われていなかった。貴族と平民は対立していたが、貴族と平民の両方に、ローマ市民としての一体感がある程度残っていた。平民は奴隷ではなく、ローマ市民であると考える貴族がいて、彼らは一定の影響力を持っていた。政治的に先鋭化した護民官はともかく、平民の多くは貴族支配受け入れていた。共和制の成立から130年経っていたが、社会の分裂は限定的だった。このような時期には、権力側が致命的な譲歩をしても、政変には至らず、むしろ賢明な対処の仕方なのだろう。セクスティウスとリキニウスの挑戦はグラックス兄弟の改革に匹敵大胆なものだったが、まったく異なる結果となった。セクスティウスとリキニウスの挑戦は、ローマ史の中でも特に注目すべき出来事だった。
リヴィウスは建国史の序章で次のように書いている。「ローマの発展をもたらした指導者の言動を記録した。紀元前1世紀頃からの政情不安の原因である道徳的腐敗を描くことを心掛けた。ローマの国民がどのように生き、いかなる風習を持ち、いかに領土を拡大し、いかに風紀が乱れていったかを理解していただきたい」。
リヴィウスは紀元前1世紀頃からカエサルの死を経てオクタヴィアヌスが勝利するまでの動乱に関心があり、その原因を知りたいという強い動機があったのである。リヴィウスは、ローマが地中海帝国への基礎を築いた時期を称賛することより、その時代の国内の惨状に目を向けていたのである。

以下で述べるが、19世紀以後の歴史学者たちはリヴィウスのローマ史には史実と異なる部分があると考えている。昔から伝えられている伝説が史実ではないことが少なくない。ギリシャ人の間で「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスは中東各地に残る伝説を記録したが、ヘロドトスの少し後に執筆したツキジデスは伝えられている話が真実とは限らないことに気づいていた。ツキジデスは伝えられている話を検証し、虚偽と真実をより分ける作業をした。ツキジデスに続く歴史家は「どれほどくわしく語られていても、真実とは限らない」と述べている。19世紀以後の歴史学者たちにとって、客観的な史実を探ることが仕事となっている。話の出どころが一つしかない場合、どれだけ多くの人が語る話でも、真実かどうかはわからない。それとはまったく違う話が埋もれてしまったかもしれない。出所が違う話、特に対立する立場の人の話を掘り起こすことが必要になった。また互いに対立する話のどちらが正しいかを判別するために、第三者の証言やぶ的な証拠が必要になった。真実を探ることは途方もない作業であり、真実は闇の中であることも少なくない。以下で述べるが、リヴィウスの時代には多くの一次資料や歴史書が存在したが、これらはほとんど失われてしまった。比較すべき別の資料や歴史書しかないため、リヴィウスの建国史の検証が難しくなっている。明らかに事実に反する叙述が葬り去られるのは良いことであるが、リヴィウスのローマ史については、単に虚実を見極めようとするだけでなく、一つの時代を深く理解しようという姿勢が求められる。リヴィウスの建国史には「読ませる何か」がある。私は、グラックスの時代やカエサルの時代を理解するには共和制前半のローマについての理解が必要だと痛感した。ウイキペディアに建国史の英訳があったので、読み始めた。建国史の英訳を読むついでに、訳すことにした。建国史には古い訳があるのを知っていたが、新しい訳が出版されているのを知らなかったので、新しい訳も必要だろうと思った。建国史は退屈な面もあったが、時々強く引き付けられ、投げ出さずに、6巻まで読み終えた。共和制前半で知られているのはカミルスぐらいで、この時期のローマ史に対する関心は低いと思うが、カエサルの時代やポエニ戦争に興味のある人にとっては、共和制前半について知ることは意味があるし、けっこう面白い。特に、私はセクスティウスとリキニウスの話を読むことで、グラックス兄弟について一般的な説明とは違う角度から見る視点があるのを知った。リヴィウスはグラックス兄弟と同じように、ローマ社会の崩壊に心を痛めていた。グラックス兄弟は報われない改革者として葬られたが、兄弟の心情を間接的に説明するリヴィウスの著書は残った。

セクスティウスとリキニウスについての話は歴史的事実ではなく、作り話だという説がある。リヴィウスと同時代の歴史家リキニウス・マケルが、自分の祖先を英雄的に描いた作り話であり、リヴィウスはそれを取り入れたという。セクスティウスとリキニウスの物語は250年後のグラックス兄弟の話とよく似ており、リキニウス・マケルは250年後の事件を参考にして、自分の祖先を讃える話を作り上げたのだという。これは見過ごせない批判である。しかしセクスティウスとリキニウスの改革を主導したのはリキニウスではなく、セクスティウスである。収録されている護民官の発言のほとんどが、セクスティウスの言葉である。平民として最初に執政官に就任したのもセクスティウスである。「リキニウス・マケルが自分の祖先を英雄的に描いた作り話である」という説はそのまま受け入れられないとしても、セクスティウスとリキニウスが護民官だった10年について語られていることは異常であり、それ以前の時代のローマの政治体制からかけ離れており、この部分は事実ではなく、創作されたものだ、という批判がある。
紀元前3世紀末のローマ人歴史家ファビウス・ピクトールはセクスティウスやリキニウスの話を書いていない。リヴィウスが詳しく書いていることはファビウス・ピクトルの著書にはなかった。紀元前300年以前のローマ史については不確かなことが多く、紀元前1世紀に付け加えられた話も多い、とされている。ところが、前2世紀半ばに執筆活動をしたポリュビオスは375ー371年の5年間最高官が不在だったとしている。不在の理由はわからないが、5年間不在とする説は前2世紀に生まれていたのである。前300年以前のローマ史に不確かなことが多いとしても、この時期の大部分が作り話ということではなく、疑わしいのは一部と考える学者もいる。
現在、ローマ史が疑われているが、紀元前1世紀後半にローマに移住して修辞学の教師となったギリシャ人ディオニシオスは、紀元前300年以前のローマに関心があった。ハリカルナッソス出身のディオニシオスはローマの起源から話を始め、ポエニ戦争までの歴史を書いている。紀元前2-1世紀のローマでは多くの歴史家が誕生し、祖国の歴史に関心が高まった。ディオニシオスはローマの歴史ブームに影響されたのである。ギリシャより200年遅れ、ローマも歴史を書いて発表することが盛んになった。ただし、ローマ人の歴史書には弱点があった。ローマの歴史家は数字による年号を使わず、執政官の名前を年号代わりに使っていた。そのため、年代について混乱することが多かった。たとえば、ディオニシオスの執政官の順序が、リヴィウスと異なる箇所がある。4-3世紀のローマの出来事をギリシャ人が記録していることがあり、それには数字の年代が記録されていた。ようやく前1世紀半ばになって、ローマ人テレンティウス・ヴァロが国王の時代とと共和制の時代の年代に数字による年代を当てはめようと試みた。これ以後ローマ人はギリシャ側が記録する出来事の年代が、ローマの数字の年代と違うことに気づいた。この違いはローマ歴とギリシャ歴の違いでない。例えば、日本の昭和の年代と西暦の違いは単純である。昭和元年は1925年と覚えれば済むことである。日本の敗戦は昭和20年であり、1945年である。終戦が昭和17年となったら、わけが分からない。それがローマで起きたのである。年号を数字で表し、ギリシャ側の記述と照らし合わせてみると、4年ずれていた。建国の年を4年遅らせるか、執政官の名前を4年分増やすかのどちらかが必要になった。建国の年である前753年を740年にするのは嫌だったので、4年間執政官不在とすることにした。たまたま執政官が不在の年があったので、それを5年に延ばした。前375ー371年に執政官が不在とされたのは、このような事情だった。ローマ軍の捕虜となったポリュビオスはスキピオと親交があり、釈放されて、2世紀半ばにローマとカルタゴの戦争について書いた。ポリュビオスがギリシャ語で書いたとはいえ、ポリュビオスの歴史を読めば、ギリシャ年号の何年にカルタゴとの戦争が起きたかを知ることができたはずである。ローマの年号が数字で表記されていれば、この時点でローマ歴とギリシャ歴の対照ができたはずである。ギリシャ人は近くに、イタリア南部に住んでいたのに、ローマ人が数字の年号を採用するのは、遅れた。
人工的に4年増やしたためか、単に一つの出来事の年代の誤りかどうかわからないが、前4世紀の事件で疑われている年代がもうひとつある。
ローマがガリア人に敗れたアリア川の戦いは前390年とされてきたが、シチリアのギリシャ人歴史家ディオドゥルスは387年としており、21世紀の現在、387年が正しいと考えられている。リヴィウスは390年としている。さらにガリア人によるローマ占領の結末について、ディオドゥルスはリヴィウスと異なる話を書いている。リヴィウスによれば、亡命していたカミルスが、ローマ軍の司令官となり、ガリア人を全滅させたことになっているが、ディオドゥルスによれば、ガリア軍を壊滅させたたのはエトルリア人である。「ガリア人は南イタリアへの遠征から故郷に帰る途中、エトルリア人の攻撃を受けた」。

紀元前1世紀の地理学者のストラボンもディオドゥルスと同じ考えである。
「ガリア人はカエレのエトルリア人によって打ち負かされた。カエレの人々はローマの黄金をガリア人から奪い返し、ローマに渡した」。
プルタークは次のように書いている。
「神殿の巫女たちは同盟国のカエレに避難したとローマの歴史家は書いているが、カエレはもっと大きな役割をはたしたかもしれない」。
ガリア人に勝利したのカエレであるという説はリヴィウスの記述を疑わせるものであるが、カエレ説が正しいという決定的な根拠もない。ガリア人の間に、どこの国に負けた、という記録があればこの問題は決着するが、ガリア側に記録はない。

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6巻42章(6巻終了)

2024-11-13 17:03:09 | 世界史

【42章】
アッピウス・クラウディウスの演説は法案の採決を遅らせるだけの効果しかなかった。セクスティウスとリキニウスは10度目の護民官に選ばれた。二人は「シビルの予言書」を保管する神官を10人に増やし、5人を平民から選ぶことを法律とすることに成功した。この法案は平民の執政官を誕生させる道を切り開く、第一歩とみなされた。平民は勝利に満足し、執政官の問題については貴族に譲歩し、とりあえず要求を取り下げた。その結果翌年の最高官は執政副司令官となった。執政副司令官に選ばれたのは以下の6人である。A・コルネリウス(2回目の就任)、M・コルネリウス(2回目の就任)、M・ゲガニウス、P・マンリウス、L・ヴェトゥリウス、P・ヴァレリウス(6回目の就任)。
ローマ軍はヴェリトラエに対する包囲を続けていた。ローマ軍は勝利をあきらめていなかった。戦争はヴェリトラエ攻略戦だけで、対外関係は安定していた。ところが、突然ガリア人の襲来の噂が伝えられ、市民は驚いた。M・フリウス・カミルスが5回目の独裁官に任命された。彼はT・クインクティウス・ポエウスを騎兵長官に任命した。クラウディウスによれば、ローマ軍はガリア人とアニオ川で戦ったという。
     (日本訳注:アニオ川はアリア川と音が似ているので注意。アニオ川はラテン地域の北部を東西に流れ、ローマの少し北でテベレ川に合流。ガリア人との最初の戦いの場所はアリア川で、アニオ川の北でテベレ川に合流。アリア川非常に小さな川である。)
T・マンリウスはガリア人の挑戦を受け、橋の上で一騎打ちとなり、両軍注視する中でガリア人を倒し、黄金の首輪をはぎ取ったという。しかし私は大部分の著者の考えと同じで、クラウディウスが語る戦闘は10年後のものだと考えたい。実際には、この時の戦いはアルバ湖の近くが戦場となった。ローマ軍は M・フリウス・カミルスの指揮のもと、果敢に戦った。ローマ兵はガリア人に敗北した過去の記憶が残っていて、ガリア人への根深い恐怖があったが、アルバ湖の戦いでは敵に圧倒されることもなく、順調に勝利した。ローマ軍は数千人のガリア人を殺した。その後ローマ軍は敵の陣地を攻撃し、さらに多くのガリア人を殺した。生き残ったガリア人はアプリア地方の方角へ逃げたが、あまり遠くまで逃げて道に迷った。また恐怖のあまり散らばって逃げ、道に迷った。元老院と平民が一致して、カミルスに勝利の栄誉を与えることを決定した。しかし、帰国したカミルスを待っていたのはこれだけではなかった。鎮静化してた国内の対立が再び激しくなり、元老院と独裁官が敗北した。つまり、護民官の法案が市民会議で採決され、承認された。貴族の反対にもかかわらず、執政官の選挙となり、執政官の一人は平民から選ぶことになった。L・セクスティウスは平民として最初の執政官となった。これで紛争は終わらなかった。貴族はセクスティウスを執政官と認めなかった。事態は緊迫し、平民がローマから一斉に退去するかもしれなかった。あるいは、さらに恐ろしい内戦になるかもしれなかった。この時、独裁官が妥協案を提出し、両陣営を落ち着かせた。対立する両者はカミルスの妥協案を受け入れた。貴族は平民の執政官を承認し、一方平民は、プラエトルになれないことを受け入れた。プラエトルは市民の裁判を担当する高官である。こうして長年の相互不信が終わり、二つの身分は和解に至った。貴族と平民の和解は記念するに値する出来事だとと、元老院は考えた。「不滅の神々に感謝するのは今をおいてない」。
神々のために大競技会を開催することになり、これまで3日間だった日程が、4日間に延長された。ところが、平民のアエディリス(護民官の補佐官)が競技会の運営を拒否した。すると貴族の若者たちが一致して宣言した。「不滅の神々のために、我々は喜んでアエディリスに就任する用意がある」。
若い貴族の申し出により、競技会が中止されずに済んだので、ほとんどの市民が感謝した。貴族の中から二人のアエディリスを選ぶよう、独裁官が市民に頼んだ。元老院は新しく選ばれた政務官たちを承認した。「シビルの予言書」を保管する神官に5人の平民が選ばれ、執政官に平民が選ばれ、貴族がアエディリスに選ばれたことが正式に認められた。

ーーーー(日本訳注)ーーーーーー
⓵ 財政と裁判は本来執政官の権限であるが、下僚のクァエストルが代行してきた。42章で新たに裁判の権限も持つプラエトルが登場する。これ以後プラエトルが法務官となり、クァエストルは財務官となっていく。プラエトルはクァエストルより地位が上である。実は、クァエストルは臨時の政務官として以前から存在していたが、表舞台に登場すことがほとんどなかった。リヴィウスの建国史では一度しか登場していない。その時私は市政長官と訳した。プラエトルは臨時の政務官であるが、執政官代行であり、執政官と同格だった。二人の執政官がすでに出征しているいて、どうしても執政官がもう一人必要な時、プラエトルが任命されたのだった。プラエトルは三人目の執政官であり、裁判だけが任務ではなかった。時代が下って、プラエトルは法務官となるが、当初の地位の高さが維持された。クァエストルも最初から財務官だったのではなく、執政官の下僚として法務や財務などを担当した。クァエストルは後に財務官となるが、執政官より地位が低かったたため、プラエトルより地位が低い。ちなみに戦後の日本では、大蔵大臣は法務大臣より偉い。大蔵官僚の一人が「総理大臣は不要だ。日本で一番偉いのは大蔵省事務次官だ」と語っている。実際、日本の歴代総理大臣は大蔵省の事務次官と争うのを避けている。大蔵省が権力を持つのは、各省の予算を決めているからである。しかし外務省だけは大蔵省に頭を下げないので、大蔵省は苦々しく思っている。外務省は天皇の下て国家を代表する仕事をしているので、矜持がある。
② アエディリスは護民官の誕生と同時に新設された政務官であり、護民官を補佐した。アエディリスは造営、祝祭の管理なども担当した。後にアエディリスは造営官と呼ばれるようになる。共和制末期、造営官のアエディリスは財務官のクァエストルより上位だった。なぜ護民官の補佐官が執政官の下僚より上なのか。逆ではないか。実はアエディリスの職務の一つである祝祭の運営は高位な者の任務である。祝祭は神々に捧げる神聖な行事であり、本来神官の任務である。同時に、祝祭は全国民が参加するものなので、護民官の補佐官にすぎないアエディリスが神事を執り行う例外が生まれたのだろう。アエディリスは護民官と同様平民から選ばれていたが、紀元前367年、貴族から選ばれるアエディリスが誕生した。ーーーーーーーー(日本訳注終了)

 

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6巻40ー41章

2024-10-30 16:44:25 | 世界史

【40章】
護民官の決然とした発言に、貴族はぼう然とし、怒りのため言葉を失った。10人委員の孫のアッピウス・クラウデイウスはセクスティウスとリキニウスを抑え込む見込みもなく、怒りと憎しみに駆られ、次のように述べたと言われている。「市民のみなさん、かつて私の家族は革命好きな護民官にさんざん非難されたものです。現在の護民官が話すことは私にとって新しいものではなく、少しも驚きません。そもそも国家にとって、貴族の名誉と権威以上に重要なものはない、と私は考えています。我々貴族はいつも平民から敵と見られています。お互いの利益が対立しているからです。高利貸しの利子が暴利を得ていること、また一部の貴族が国有地を大々的に占有しているという批判を、私は受け入れます。我々貴族が元老院に迎えられて以来、指導的な貴族の権威が増強され、権威が傷つけられないよう努めてきたのは事実です。皆さんは私の家族もそのような家族であると見ているかもしれません。平民の要求というよりは、護民官の要求である、執政官の一人を平民とする法案について、私の考えを述べるなら、私自身も私の家族も、公職に就いていた時、意識的に平民の不利益になることをやったことはありません。国家のためにやったことがすべて平民にとって有害だとと考えるのは、現実を無視した妄想です。ローマのために為されたことが他国の市民にとって有害な場合は珍しくないが、ローマの市民全員にとって有益だったことははありません。貴族の最高官の行為や言葉が平民の要望に反する場合があるかもしれませんが、平民の利益を害する目的で為されたり、言われたりしたことは一度もありません。仮に私がクラウディウス家の人間ではなく、貴族でさえなく、普通の市民だったとしても、自分が自由市民の息子であり、自由な国家に生きていると自覚しているなら、現在の状況に黙っていられません。 L・セクスティウスと C・リキニウスは終生の護民官となり、9年間市民に自由な投票をさせないできた挙句、信じられないほど厚かましく振る舞うようになりました。セクスティウスとリキニウスは市民から自由な投票と法律制定の権利を奪っているのです」。
クラウデイウスは話を続けた。
「二人は次のように言います。『我々を10回めの護民官に任命したいなら、条件がある。条件とは、法案を一括して採決することだ」。
セクスティウスとリキニウスは市民の要望を鼻から軽蔑し、高額の割増金を払わなければ、彼らの要望の実現に骨を折るつもりがない、というのです。セクスティウス様とリキニウス様に護民官になってただくための割増金とは、複数の法案を一括して採決することです。複数の法案の中には市民にとって不要で、市民は賛成するつもりがない法案があるのに、それが実現できないなら、市民に必要な法案を実現するつもりがないというのです」。
ここでクラウデイウスはセクスティウスに問いかけた。「タルクイニウス王さながらの護民官にお願いするが、私がこれから言うことをよく聞いてほしい。私が集会の参加者の一人として、こう叫んだとします。『これらの法案の中から我々に有益なものを選ばせてください。有益でない法案を拒否させていただきます』。するとあなたはこう答えます。
『いや、駄目だ。それはできない。それを認めれば、諸君は高利貸しを禁止する法案と国有地を分配する法案だけに賛成し、 L・セクスティウスと C・リキニウスが執政官になるという偉大な事業を拒否するだろう。諸君はこの偉大な計画を敬遠し、嫌っているからだ。3つの法案をまとめて受け入れないなら、私はどの法案も提出しない』。君たちがやろうとしていることは、飢えで苦しむ人に毒の入った食べ物を与えるようなものだ。身体に必要な栄養が欲しいなら、一緒に毒を飲め、というわけだ。もしローマが自由な国であるなら、何百人もの市民が叫ぶだろう。『くたばれ護民官!護民官のための法案など無用だ!』。
そうだ、貴族だって護民官ほどひどいことを言わない。平民のための改革を妨害したい貴族だって、これほどひどいことは言わない。みんなに嫌われているこの私、クラウディウスだってこんなことは言わない」。
クラウディウスは再び市民に向って言った。「市民のみなさん、いつまで護民官の横暴を許すつもりですか。暴君のような二人に執着せずに、別の方法で自分たちが望む法律を実現すべきです。長年聞き慣れた護民官の言葉に盲従するのをやめ、我々貴族の言うことに耳を傾けてみてはどうですか。セクスティウスの言動は自由な国家の市民にふさわしくありません。皆さんがセクスティウスの野望のための法案を拒絶するので、彼は本当に怒っているのです。彼にとって大切な法案の目的は何でしょう。それは、執政官を自由に選べなくすることです。彼の法案が実現すれば、執政官の一人は必ず平民から選ばなければならなり、執政官が二人とも貴族のほうが良い場合、困るのです。かつてエトルリアの王ポルセンナがヤニクルムの丘に陣を敷いた時、ローマは大変な脅威を感じましたが、再びエトルリアが兵を動かしたら、どうなるでしょう。最近ではガリア人の大軍が押し寄せてきて、カピトルの丘と砦を除き、ローマの大部分が占領されました。再び同じような脅威がローマに迫った時、執政官の一人は F・フリウス・カミルスがなるとして、もう一人の執政官になるのが L・セクスティウスではまずいではありませんか。セクスティウスが確実に執政官になるような制度は実に危険です。またカミルスのように偉大な人物でさえ執政官に選ばれないかもしれません。名誉を平等に分け合うと、このような問題が発生するのです。執政官が二人とも平民がなることはあっても、二人の貴族が執政官になれないのなら、国家が揺らぎます。貴族が執政官になれないないなら、恐ろしい結果になるでしょう。身分の平等は国家を破壊します。ひょっとすると、セクスティウスはこれまで経験していない国家の重責に就任することで満足せず、執政官が二人とも平民になることを求めているかもしれません。彼はこう言っています。『執政官の選挙を自由投票ににするなら、市民は平民を選ばないだろう』。彼が言いたいことは『自由な投票では、市民は執政官にふさわしくない人物に投票しない。だから私は市民の遺志に反する選挙を強制する必要がある』。このように特殊な選挙で執政官に選ばれた平民は、市民に感謝する必要がなく、法律に感謝するだろう」。
【41章】
クラウディウスは話を続けた。
「セクスティウスとリキニウスは名誉を求めているというより、強要しているのである。彼らは最大の恩恵を受けても、少しも感謝しないだろう。ささやかな恩恵であっても、人は普通感謝するものである。彼らは自分たちの資質によって名誉ある地位を得ようとせず、偶然によって得ようとしている。自尊心が強すぎて、自分の能力と要求を検査されたり、調べたりするのを嫌う人は多い。そういう人は競争者たちの中で自分だけが名誉ある地位にふさわしいと考える。そして選ばれて当然と考えるのである。その結果、彼は評価を人々に委ねようとせず、自由な選挙を強制的で奴隷的な選挙に変えてしまうのである。リキニウスとセクスティウスは何年も連続して護民官に選ばれ、まるでカピトルの丘の国王のようになってしまった。強制的な手段のおかげで二人は好条件を与えられ、執政官になるのが容易になるだろう。った。しかし我々貴族にとっては条件が悪くなり、我々と我々の子孫にとって、執政官への道が狭くなるだろう。皆さんが貴族の誰かを執政官に選びたいと思っても、それは許されない。みなさんは、望むと望まないとに関係なく、セクスティウスやリキニウスのような人を選ばなければならない。平民も威厳を持てるようになりたい、とセクスティウスは繰り返し語った。しかし彼は地上の人間にしか関心がなく、神々には興味がない。彼は宗教的な勤めや前兆をなおざりにしている。神々に関することを軽蔑し、冒涜している。神々がローマの建設を望み、前兆が現れたので、我々の祖先はこの場所に町を建設したのだ。だから、戦時においては戦場で、平和な時には首都において、重要な決定は前兆に従わなければならない。建国以来、神々の意向を伺ってきたのは誰か。それは貴族である。平民には前兆は現れないので、神官に任命された平民はいない。神々の意向を知ることができるのは貴族だけである。人々が貴族を最高官に選ぶ時も、前兆に従わななければならない。またを最高官が死亡したり、突然辞任した場合、我々貴族は市民に相談することなく暫定最高官を選んでいるが、良い前兆が現れなければ、選びなおさなければならない。役職についていない貴族に対しても、神々は前兆を与えるが、平民は最高官になったとしも、前兆を得られない。もしセクスティウスとリキニウスの改革が実現し、平民が執政官に就任したら、神々はローマに前兆と庇護を与えないだろう。最近宗教心のない輩を見かけるようになった。神々を畏怖している貴族を見て、平気であざける人がいる。『神聖な若鶏が餌を食べないことが、それほど重大事か。鶏小屋から出てこないことが大問題か。鳴き声がいつもと違うことが、そんなに不吉か』。
確かにそれらは些細のことかもしれない。しかし我々の祖先はそうした小さな変化に注意を払うことにより偉大な国家を作り上げてきたのだ。ところが最近、神々と良好な関係を保つ必要がないかのように、宗教的な儀式をおろそかにしている。大神官、前兆を判断する神官、そして神々に捧げ物をする神官に誰がなってもよいだろうか。主神ユピテルに仕える神官の帽子を誰がかぶってもよいだろうか。神聖な盾や神殿を守り、神事を執り行う聖務を不信心な者に任せてよいだろうか。宗教に関する法律は制定されなうなるだろう。神官や最高官は前兆がないまま任命されるだろう。元老院は百人隊の集会や部族集会の開催を承認する権限を失い、セクスティウスとリキニウスは新しいロムルスやタティウスとしてローマの支配者になるだろう。
   (日本訳注;タティウスはロムルスの共同王。ローマとサビーニ人の戦争の最中に、ローマ人の妻となっていたサビーニの女性たちが割って入り、戦争は中止された。サビーニの指導者ティトゥス・タティウスがロムルスと共同の王となった。)
セクスティウスとリキニウスは貴族のお金と土地を市民に配ることで、人々から絶大な信頼を獲得した。しかし二人は貴族にとっては略奪者なのだ。国有地の占有者を追い出せば、広大な土地が荒廃することを、二人は予見できない。また貸金業を廃止するなら信用取引が消滅し、都市の経済が成り立たないことを二人は考えない。多くの理由でセクスティウスとリキニウスの法案は拒否されなければならない。神々が皆さんを正しい決断に導くよう祈ります」。

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