テッサリアの再編が完了すると、ピリッポス2世はテッサリアの南の国境を越え、ギリシャの中心部への入り口であるテルモピュラエの隘路に向かって軍を進めた。ピリッポス2世はフォキスに対する勝利を完全なものにするため、フォキスの本土に侵攻するつもりだった。ピリッポス2世の動きに、アテネは脅威を感じた。テルモピュラエを超えたピリッポス2世はアテネに向かうかもしれなかった。それでアテネは軍隊を派遣し、テルモピュラエの隘路を占領した。アテネ軍以外の国の部隊も加わったとも言われている。アテネの弁論家デモステネスは「アテネ軍がテルモピュラエを防衛した」と誇らしげに語っている。ナウシクレスが率いるアテネ軍は5,000の歩兵と300の騎兵からなり、これにフォキス軍の残存部隊およびフェラエの傭兵部隊が加わった。しかしディオドロスはテルモピュラエの戦闘については何も語っておらず、ナウシクレスが率いるアテネ軍は翌年フォキスの防衛を助けたと書いている。デモステネスが事実を語っているとするなら、テルモピュラエを防衛したアテネ軍を率いたのはナウシクレスではなく、フォキスやフェラエの部隊は参加していなかったのかもしれない。
ピリッポス2世はテルモピュラエでアテネ軍に勝利できただろうが、テッサリアでの成功を大切にし、未知数の冒険を避けたのだろう。
《後半の6年 352ー346年》
オノマルコスが処刑された後、弟のパイロスがフォキスの指導者となり、国民を再結集した。フィロメルスが戦死したネオン戦の後、オノマルコスはフォキス軍を2倍の規模にまで再建したが、フォキス軍はクロッカス平原で敗北した。パイロスは兵士を補充するのに苦労し、2倍の金額を提示して傭兵を集めなければならなかった。2度の敗北にもかかわらず、国民の多くが戦争を支持した。冬の間パイロスは外交に専念し、多くの友好国の支持を集めるのに成功した。次の戦争は多くの同盟国と合同で戦うことができるようになった。フォキスは多くの兵士を失ったにもかかわらず、短期間で補充できた。ギリシャのほとんどの国は大敗北から立ち直れない中で、フォキスの復活は奇跡であった。この魔法を可能にしたのはアポロの神殿の財宝である。同時に、神殿の財宝は神聖戦争を長引かせる原因になった。
紀元前351年から348年までの3年間については省略
《第3回フォキス戦 347年》
クロッカス平原で勝利したピリッポス2世は以後の神聖戦争には関係しなかった。3年間戦っても、神聖戦争は決着がつかず、その後も決着がつく兆しはなかった。フォキスはボイオティアの複数の都市を占領していたが、アポロ神殿の財宝が枯渇しかけていた。一方テーベはフォキスに対し有効な攻撃をする能力がなかった。フォキスの将軍パイロスは紀元前347年に罷免され、3人の新しい将軍がフォキス軍を指揮していた。3人の将軍はボイオティアを攻撃し、成功した。
テーベはピリッポス2世に援軍を求めたが、ピリッポスはわずかな部隊しか送らなかった。ピリッポスはテーベとの同盟を維持したかったので形式的に援軍を派遣したが、戦争を終わらすには十分ではなかった。ピリッポスは単独で戦争を折らせようと考えていた。
《神聖戦争の終結》
アテネとマケドニアは紀元前356年以来戦っていた。ピリッポス2世がアテネの植民地ピドナとポティデアをアテネから奪ったことが、敵対関係の始まりだった。テッサリアの内戦にぴて、ピリッポス2世は多数派を支援したのに対し、アテネは孤立しているフェラエを支援した。アテネは反マケドニアの立場から、フェラエを支援したのである。
フェラエは以前からフォキスと同盟しており、アテネは反テーベの立場からフォキスを支援していた。こうしてテッサリアの多数派とマケドニアに対し、フェラエ・フォキス・アテネの同盟が対立することになった。ハルキディキ半島の諸都市は反アテネであり、アテネの植民地となっていた都市を奪い返したピリッポス2世に感謝し、半島の諸都市はマケドニアと同盟したが、マケドニアが覇権国になりつつあるのを見て、彼らは脅威を感じ、アテネに同盟を申し込んだ(紀元前352年)。これはマケドニアに対する裏切りであり、349年、ピリッポス2世はハルキディキ半島の諸都市を攻撃し、翌年諸都市を完全に破壊し、連盟の中心的な都市オリントスの住居や施設は何一つ残らなかった。ハルキディキ戦争の後半(紀元前348年)、アテネの著名な政治家フィロクラテスはマケドニアに和平を提案したが、神聖戦争から派生したギリシャとマケドニアの戦争は翌年(紀元前347年)も続いた。
紀元前346年の2月初め、ピリッポス2世はテッサリア軍と共に南へ進撃すると宣言したが、戦争の理由と攻撃対象を明確にしなかった。フォキスはテルモピュラエを防衛する準備を始め、スパルタとアテネに応援を求めた(2月14日頃)。スパルタはアルキダムス2世にが率いる1,000の重装歩兵を派遣した。アテネは40歳以下の男子市民を徴兵し、フォキスを支援する決定をした。しかし2月末、フォキスで政変が起こり、パライコスが将軍として復帰し、彼は戦争の計画を撤回した。アテネとスパルタはテルモピュラエの通路を防衛してはならない、とフォキスから告げられた。パライコスが権力に復帰した理由は伝えられていない。また彼がフォキスの方針を逆転させた理由もわからないが、アイスキネス(アテネの政治家)は次のように述べている。「傭兵たちは俸給を減らされたので、以前の司令官の復帰を望んだ。しかしフォキスには傭兵に払う資金がなく、戦争できないとわかり、パライコスはピリッポス2世と和平について話し合うことにした」。