《The Role of Drought and Climate Change in the Syrian Uprising:Untangling the Triggers of the Revolution》
著者 Francesca de Châtel 2014年1月27日
国連の推定によれば、2009年ハサカ県とデリゾール県の40%ー70%の村が無人となった。村を去った農民の多くはシリア国内の都市に移住したが、レバノンに向かった者もいる。
国内移住者は大都市に向かい、アレッポやダマスカスの郊外のあちこちに無許可の仮設テントのキャンプが生まれた。数は少ないが南部のダラア県などに移住した農民もいる。彼らは、農業、建設業、小企業で働き、1日4ドルから9ドル得た。
仮設テントのキャンプには水も電気もなく、不衛生だった。キャンプ内のテント数は一つか2つだけの場合もあり、80ぐらいの場合もある。テントは麻袋とプラスチックを継ぎ合わせたものだった。
最初政府は危機的な状況を無視していたが、食糧の値段が上がり、主要食品の供給が困難になった時点で、干ばつの深刻さに気付いた。1990年代以後15年間シリアは小麦の輸出国だったが、2009年輸入国に転じた。
遅ればせながらシリア北東部の危機的な状況に気づき、2008年9月と2009年の8月シリア政府は国連と共同で国際的な支援を訴えた。シリアは被災農民を中期・長期に援助すする資金もなく、灌漑事業の資金もなかったからである。
2008年シリアは2000万ドル要求したが、得たのは20%にすぎなかった。2009年には4300万ドル要求したが、33%しか得られなかった。
最初援助対象はデリゾール、ハサカ、ラッカ、ホムスの各県だった。南部の県に移住した農民は政府からも、国連からも援助を得られなかった。またシリア人が移住民を援助するボランティア活動を、シリアの秘密警察は禁じた。
2009年7月ユニセフとシリア人NGOがダマスカス郊外にある25のテント村を調査した。しかし調査結果は発表されなかった。その後政府も国連も移住農民の援助を実行しなかった。
政府は移住農民に現金を与え、元の村へ帰ることを勧めた。政府は輸送手段を用意し、元の村に帰ったら食糧を援助する、と約束した。
言うまでもないが、この提案を受け入れた移住農民はほとんどいなかった。そしてテント村に対する援助はなかった。
シリア政府の二度の援助要請に対し、資金が22%-33%しか集まらなかったのは、シリア政府が被害の程度を小さく見せようしたことに原因がある。支援国はシリア北東部の干ばつによる被害の規模を知らず、またシリア政府の干ばつ対策の長期計画が不透明であることに不満を持った。
シリア政府は2000年に干ばつ対策の準備を始め、2006年に「干ばつ戦略」が承認された。これが実施されなれなかった理由を誰かが質問したが、政府は答えなかった。
また政府内に不可解な意見があった。2009年11月灌漑大臣は干ばつが深刻であることを認めなかった。全体としてシリア政府は小麦と他の主要作物の自給が維持できているという印象を大切にした。北東部と南部で起きている環境の異変と農民の生存の危機について、真の原因を調査することを、政府は拒否した。
シリア政府メディアの取材を厳しく制限し、世界的な気候変動と食糧危機という一般論でごまかそうとした。シリアは人間の力をこえた自然災害の犠牲者である、と政府は説明した。
干ばつが人道的・経済的な大問題を引き起こしている時に、シリアの国営メディアは「少雨にもかかわらず、小麦の生産を達成した」と伝えた。シリアの干ばつについての唯一の記事は世界的な気候変動を語る中で、少雨の例として語られた。
シリアの私有メディアは干ばつの被害について多くの紙面を割り当てたが、長年の資源管理の失敗に触れることはなかった。2009年の6月以後、海外メディアは取材を厳しく制限された。ビザを取得できたジャーナリストも、大きな難民キャンプが生まれていたダマスカス県の田園地帯、ダラア県、スワイダ県を訪問することを禁じられた。その代りに、外国人ジャーナリストはガイドや通訳に同伴され、ハサカ県やラッカ県につれて行かれ、監視されながら農民にインタビューした。シリアの行政官にインタビューできた者はほとんどいなかった。
干ばつの被害を過小評価し、悲惨な事態を否定し、あるいは気候変動に責任転嫁する姿勢はシリアの灌漑部門の政策決定と実行のすべてに共通している。
水の少ない中東・北アフリカのすべての国では、水は国家の安全を左右する戦略資源とみなされている。したがって水の量についての正確な最新の情報は非公開である。
しかしシリアの場合機密指定の程度が極端で、水資源管理の一切が秘密となっている。水資源について話すことはタブーとなり、国民にとってだけでなく、政府内でも議論を避けるようになった。その結果官僚、水の専門家、評論家は水資源の現状について、本格的な調査を避けるようになった。また水管理の部門の改革もうわべだけのものに終わった。
干ばつんによる被害が2011の内乱に及ぼした影響について、2012年政治学者のマルワン・カバランが次のように書いた。
「シリアの権力は2重構造である。公式の権力機構は無力であり、真の実力者は別にいる。近代国家を構成する内閣と官僚、国会、政党は根本な点について決定権がなく、少人数のグループが密室で主要な決定している。
その結果地方の実力者は公式の官僚の命令に従わない。水資源部門の役人たちは、シリアが水の少ない国であることを認め、水資源の管理方法の近代化に取り組んでいる。しかし現地の人間は腐敗しており、非効率的な旧来の水管理を変えようとしない。その結果過剰な土地利用と水の使用が行われている。その行き過ぎの結果が貧困と農村解体である。
《2006-2010年の悲劇の真の原因》
2006年の干ばつは最初の一撃ではなく、それ以前にわたって続いた打撃の最後の一発だった。突然の破局ではなく、すでに破滅的な状況が悪化したのだった。農村は長い間貧困に打ちのめされており、彼らの悲劇は放置されてきた。2006年になって世間はようやくそれに気付いたのである。
2006年ー2010年の悲劇は50年間続いた用水管理の失敗の結果であり、政府の農地政策の行きづまりの表れである。かならずしも気候変動の影響はたしかにあるが、それだけが原因ではない。かなりの部分、政府に責任がある。
シリアの雨量は場所によって非常に異なり、乾燥帯のところもあれば、乾燥の程度がわずかな地域もある。地中海沿岸の降水量は年間1400mmであり、東の砂漠地帯の降水量は年間200mm以下である。
国土の50%が砂漠とステップである。国土の90%は年間雨量が350mm以下である。これらの地域では、昔から雨の降る年と降らない年が交互する。1961年ー2009年の48年間に、干ばつの年が25年あった。つまり、10年のうち4年は干ばつの年なのである。この4年はバラバラではなく、いったん干ばつが始まると、平均で4年半続く。例外的に1970年代の干ばつは10年連続だった。
干ばつが2年続くだけでも、北東部の農業生産と牧畜に甚大な影響をもたらした。1961年の干ばつの際には、ラクダ(駱駝)の80%と羊の50%が死滅した。1998–2001年の干ばつでは4万7000の家畜を営む農家が家畜を処分し、全財産をうしなった。彼ら32万9000人は食べるものがなくなり、緊急援助を求めた。このようなことは、まれな出来事ではなかった。
気候変動により、シリアを含む地中海東部の干ばつの可能性が高まっている、という研究がなされている。しかしシリアのデータを見るなら、最近20年間のシリアの干ばつは、一部の地域を除き、それ以前の干ばつと違わないことがわかる。
農民やベドゥインは最近干ばつがひどくなったと実感している。しかしそれは雨の降る量が少なくなったからではない。最も大きな原因は人口が増加したことである。その人口を支えるためには、より多くの生産を迫られ、 農地を増やし、家畜を増やしたのである。そのため限度を超えて水を使用し、地下水が枯渇してしまった。雨が降らない時期の代替用水を失った。
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