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シリア 2006-2010年の悲劇の真の原因

2016-12-31 17:38:58 | シリア内戦

 

《The Role of Drought and Climate Change in the Syrian Uprising:Untangling the Triggers of the Revolution》

     著者 Francesca de Châtel   2014年127

 

国連の推定によれば、2009年ハサカ県とデリゾール県の40%ー70%の村が無人となった。村を去った農民の多くはシリア国内の都市に移住したが、レバノンに向かった者もいる。

国内移住者は大都市に向かい、アレッポやダマスカスの郊外のあちこちに無許可の仮設テントのキャンプが生まれた。数は少ないが南部のダラア県などに移住した農民もいる。彼らは、農業、建設業、小企業で働き、14ドルから9ドル得た。

仮設テントのキャンプには水も電気もなく、不衛生だった。キャンプ内のテント数は一つか2つだけの場合もあり、80ぐらいの場合もある。テントは麻袋とプラスチックを継ぎ合わせたものだった。

最初政府は危機的な状況を無視していたが、食糧の値段が上がり、主要食品の供給が困難になった時点で、干ばつの深刻さに気付いた。1990年代以後15年間シリアは小麦の輸出国だったが、2009年輸入国に転じた。

遅ればせながらシリア北東部の危機的な状況に気づき、20089月と2009年の8月シリア政府は国連と共同で国際的な支援を訴えた。シリアは被災農民を中期・長期に援助すする資金もなく、灌漑事業の資金もなかったからである。

2008年シリアは2000万ドル要求したが、得たのは20%にすぎなかった。2009年には4300万ドル要求したが、33%しか得られなかった。

最初援助対象はデリゾール、ハサカ、ラッカ、ホムスの各県だった。南部の県に移住した農民は政府からも、国連からも援助を得られなかった。またシリア人が移住民を援助するボランティア活動を、シリアの秘密警察は禁じた。

20097月ユニセフとシリア人NGOがダマスカス郊外にある25のテント村を調査した。しかし調査結果は発表されなかった。その後政府も国連も移住農民の援助を実行しなかった。

政府は移住農民に現金を与え、元の村へ帰ることを勧めた。政府は輸送手段を用意し、元の村に帰ったら食糧を援助する、と約束した。

言うまでもないが、この提案を受け入れた移住農民はほとんどいなかった。そしてテント村に対する援助はなかった。

 

シリア政府の二度の援助要請に対し、資金が22%-33%しか集まらなかったのは、シリア政府が被害の程度を小さく見せようしたことに原因がある。支援国はシリア北東部の干ばつによる被害の規模を知らず、またシリア政府の干ばつ対策の長期計画が不透明であることに不満を持った。

シリア政府は2000年に干ばつ対策の準備を始め、2006年に「干ばつ戦略」が承認された。これが実施されなれなかった理由を誰かが質問したが、政府は答えなかった。

また政府内に不可解な意見があった。200911月灌漑大臣は干ばつが深刻であることを認めなかった。全体としてシリア政府は小麦と他の主要作物の自給が維持できているという印象を大切にした。北東部と南部で起きている環境の異変と農民の生存の危機について、真の原因を調査することを、政府は拒否した。

シリア政府メディアの取材を厳しく制限し、世界的な気候変動と食糧危機という一般論でごまかそうとした。シリアは人間の力をこえた自然災害の犠牲者である、と政府は説明した。

干ばつが人道的・経済的な大問題を引き起こしている時に、シリアの国営メディアは「少雨にもかかわらず、小麦の生産を達成した」と伝えた。シリアの干ばつについての唯一の記事は世界的な気候変動を語る中で、少雨の例として語られた。

シリアの私有メディアは干ばつの被害について多くの紙面を割り当てたが、長年の資源管理の失敗に触れることはなかった。2009年の6月以後、海外メディアは取材を厳しく制限された。ビザを取得できたジャーナリストも、大きな難民キャンプが生まれていたダマスカス県の田園地帯、ダラア県、スワイダ県を訪問することを禁じられた。その代りに、外国人ジャーナリストはガイドや通訳に同伴され、ハサカ県やラッカ県につれて行かれ、監視されながら農民にインタビューした。シリアの行政官にインタビューできた者はほとんどいなかった。

 

干ばつの被害を過小評価し、悲惨な事態を否定し、あるいは気候変動に責任転嫁する姿勢はシリアの灌漑部門の政策決定と実行のすべてに共通している。

水の少ない中東・北アフリカのすべての国では、水は国家の安全を左右する戦略資源とみなされている。したがって水の量についての正確な最新の情報は非公開である。

しかしシリアの場合機密指定の程度が極端で、水資源管理の一切が秘密となっている。水資源について話すことはタブーとなり、国民にとってだけでなく、政府内でも議論を避けるようになった。その結果官僚、水の専門家、評論家は水資源の現状について、本格的な調査を避けるようになった。また水管理の部門の改革もうわべだけのものに終わった。

 

干ばつんによる被害が2011の内乱に及ぼした影響について、2012年政治学者のマルワン・カバランが次のように書いた。

「シリアの権力は2重構造である。公式の権力機構は無力であり、真の実力者は別にいる。近代国家を構成する内閣と官僚、国会、政党は根本な点について決定権がなく、少人数のグループが密室で主要な決定している。

その結果地方の実力者は公式の官僚の命令に従わない。水資源部門の役人たちは、シリアが水の少ない国であることを認め、水資源の管理方法の近代化に取り組んでいる。しかし現地の人間は腐敗しており、非効率的な旧来の水管理を変えようとしない。その結果過剰な土地利用と水の使用が行われている。その行き過ぎの結果が貧困と農村解体である。

 

  《20062010年の悲劇の真の原因》

2006年の干ばつは最初の一撃ではなく、それ以前にわたって続いた打撃の最後の一発だった。突然の破局ではなく、すでに破滅的な状況が悪化したのだった。農村は長い間貧困に打ちのめされており、彼らの悲劇は放置されてきた。2006年になって世間はようやくそれに気付いたのである。

2006年ー2010年の悲劇は50年間続いた用水管理の失敗の結果であり、政府の農地政策の行きづまりの表れである。かならずしも気候変動の影響はたしかにあるが、それだけが原因ではない。かなりの部分、政府に責任がある。

 

シリアの雨量は場所によって非常に異なり、乾燥帯のところもあれば、乾燥の程度がわずかな地域もある。地中海沿岸の降水量は年間1400mmであり、東の砂漠地帯の降水量は年間200mm以下である。

国土の50%が砂漠とステップである。国土の90%は年間雨量が350mm以下である。これらの地域では、昔から雨の降る年と降らない年が交互する。1961年ー2009年の48年間に、干ばつの年が25年あった。つまり、10年のうち4年は干ばつの年なのである。この4年はバラバラではなく、いったん干ばつが始まると、平均で4年半続く。例外的に1970年代の干ばつは10年連続だった。

干ばつが2年続くだけでも、北東部の農業生産と牧畜に甚大な影響をもたらした。1961年の干ばつの際には、ラクダ(駱駝)の80%と羊の50%が死滅した。1998–2001年の干ばつでは47000の家畜を営む農家が家畜を処分し、全財産をうしなった。彼ら329000人は食べるものがなくなり、緊急援助を求めた。このようなことは、まれな出来事ではなかった。

 

気候変動により、シリアを含む地中海東部の干ばつの可能性が高まっている、という研究がなされている。しかしシリアのデータを見るなら、最近20年間のシリアの干ばつは、一部の地域を除き、それ以前の干ばつと違わないことがわかる。

農民やベドゥインは最近干ばつがひどくなったと実感している。しかしそれは雨の降る量が少なくなったからではない。最も大きな原因は人口が増加したことである。その人口を支えるためには、より多くの生産を迫られ、 農地を増やし、家畜を増やしたのである。そのため限度を超えて水を使用し、地下水が枯渇してしまった。雨が降らない時期の代替用水を失った。

=====================(The Role of Drought ・・終了)

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水不足により、農民は無一文に シリア2007年-2010年

2016-12-30 11:48:37 | シリア内戦

2000年代後半のシリアの干ばつ(水不足)はここ900年経験したことがないものだった。地球温暖化により、水没の危機にある島々はよく知られているが、シリアが経験した水不足の深刻さはあまり知られていない。人類の人工的な生活が引き起こした気候変動により、干ばつが起こる可能性は3倍になった。  

水不足は地中海沿岸地域全体の問題であるが、シリア・レバノン・ヨルダンが特に顕著である。

1万2000年前に農耕と遊牧が始まった肥沃な地域が、砂漠になろうとしている。

シリアでは2007年ー2010年の干ばつにより、北東部の農民と遊牧民150万が土地を捨て、食べ物と職を求めて都市に移住した。このことが社会の不安定にし、2011年の民主化運動を破局的なものにした。政府は水の節約を勧めるだけであり、根本的な対策を行わなかった。都市に逃れた農民・遊牧民に対する支援も不十分だった。干ばつ対策がなされず、150万の農民が難民となっている時、民主化運動が起きることは危険だった。崖の淵に立っていた人間が一突きで谷底に落とされたようだった。 

アサド大統領自身は干ばつ問題に真剣に取り組もうとしたようだが、実際にどれを実行すべき政府の対策は不十分だった。大統領の言葉を信じれば、飢えの危機に直面した農民を救済したようだが、移住農民の多くは都市の郊外でスラムを形成した。

=======《ニューヨーク・タイムズ 3010年10月30日》=======

Refugees have left their farmlands and are living in tents in Al Raqqa, Syria, because of a drought :by  Julien Goldstein

昔からの用水路は干上がり、地下水も枯渇して、農地は割れた地面や砂漠となった。放牧している動物が死に、数百の村が打ち捨てられた。砂嵐が日常化した。

都市の周辺には、すべての財産を失った農民とその家族のテント村が出現した。

「この地域は干ばつは珍しいことではない。しかしこれまでと程度が違う。気候変動は実感されるほどであり、気温が非常に高く、雨が降らない」。ニューハンプシャー大学のジャニー・サワーズが語る。「その結果住民の移動が起きているが、政府は準備する時間もなく、対応ができていない」。

シリア政府は問題の大きさを認め、国家的な「干ばつ対策計画」を決定したが、まだ実行されていない。仮に実施されたとしても、成功しないだろう。干ばつは20年前から始まっており、その間政府は対策に取り組んできたが、すべて失敗した。

1988年ー2000年の12年間に、政府は灌漑のために150億ドルを費やしたが、計画に欠陥があり、ほとんど成果がなかった。(シリア生まれの作家エリー・エルハジの話)

シリアでは水不足にもかかわらず、綿と小麦を栽培を続けており、危ない橋を渡っている。小麦栽培はシリアの伝統的な産業であり、穀物生産は自国の自立を保証する、と政府は考えている。

シリアとイラクのいたるところで違法な井戸が掘られ、地下水は急速に減少している。シリア政府は地下水を調査しておらず、劇的な水不足を予防しようと考えていない。

アラブの多くの国と同様、汚職と無能な政府が深刻な水不足を放置しており、状況を悪化させている。

ダマスカスの経済評論家ナビル・スッカーが言う。「特権階級が法を守らず、彼らは何の規制も受けない」。

===============(ニューヨーク・タイムズ終了) 

 

=======《Drought driving farmers to the cities》========

            IRIN News 2009年9月2日

 数年間の不作の後、2年連続で干ばつとなり、収穫がなかった。数千の農家が土地を捨て、職を求めて都市に移住した。

「状況は最悪だ。もはや農地ではない、砂漠だ」。赤十字・赤新月連盟の中東・北アフリカ災害対策連絡員のアブデル・アワドが言った。「このような環境での生活は不可能であり、農民に残された道は移住だ」。(国連干ばつ計画の報告)

干ばつの原因は一つではなく、3つの要因が重なった結果である。

①気候変動

②農耕も含め人間の生活の影響による砂漠化

③農業用水の不足

シリアの農地の60%と130万人が干ばつの影響を受け、80万人は土地を捨てざるを得なかった。(国連と赤十字・赤新月社の報告)

しかし土地を捨て移住した農民の正確な人数はわからなない。シリア農業・農地改革省の調査によれば、4万ー6万家族が村を去った。その中の3万5千家族はハサカ県の農家である。しかし現実には、もっと多くの家族が村を去っている。

国連の干ばつ対策計画によれば、すでに多数の農民が去った後も、再び流出が始まっている。

故郷を捨てた農民たちは、ダマスカス、アレッポ、ホムスなどの大都市に向かった。

「農村からの人口流出は終わりがないので、正確な人数を把握することは困難である」と赤十字・赤新月連盟のアワドが言う。「NGOが村に行ってみると、誰もいない、ということがよくある」。

 

村には何一つなかった。7月ハッサン・ハミはカミシユリの小麦農家だったが、全財産を失い、家族と共にダマスカスの郊外に移ってきた。カミシユリはシリア北東部のトルコ国境に接しており、シリアの南西部にあるダマスカスからは最も遠い。その距離は650㎞である。

       

「農業をやめて、プラスチック売りをしていたが、満足な収入にはならなかった。生きるために借金をしなければならなかった。もうカミシユリでは生きていけなかった。ダマスカスは故郷ではないが、息子と彼の妻が働いているので、なんとか暮らせる。現在彼は家具のない小さなアパートに妻と息子夫婦、4人の孫と一緒に住んでいる。息子夫婦は近くの工場で交替勤務で働き、月に196ドル得ている。一階には別の家族が住んでいる。その家族も彼らのように干ばつのために故郷の村を捨ててきた。隣の建物にも同じように移住農民が住んでいる。

農民が移住してきた地区では社会問題が発生した。貧しさが原因の犯罪が増えたのである。

また学校に行かず働いている子供が急増した。(国連の7月の報告)

ユニセフの現地代表シェラザデ・ブアリアによれば農民が流入した地区では、学校で落ちこぼれる生徒が増えた。

=========================(IRIN News 終了)

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