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リヴィウスのローマ史はどこまで史実か③

2024-12-25 16:02:50 | 世界史

ローマは紀元前753年に建国されたことになっているが、最初から753年とされていたわけではなく、諸説あり、紀元前1世紀に753年とされたと言われている。諸説あったのは確かで、しかもローマではようやく3世紀末に初めて歴史書が生まれ、その中で建国の年が登場する。これ以後、建国の年がいくつか提唱された。ローマ人に先んじて、シチリアのギリシャ人が3世紀前半にローマの建設は紀元前814年と書いている。以下に建国の年のばらつきを示す。最初の3人は歴史家であり、残りの2人は劇作家・詩人である。

⓵ ティマイオス       ( Timaeus of Tauromenium)      紀元前814又は813年
②クイントゥス・ファビウス・ピクトル( Quintus Fabius Pictor) 紀元前748年または747年          紀元前1100年
③ルキウス・キンキウス・アリメントゥス(Lucius Cincius Alimentus)前729又は728
④グナエウス・ナエヴィウス(Gnaeus Naevius)
⑤ クイントゥス・エンニウス ( Quintus Ennius )  紀元前1100年又は884年
次にこれらの著者の略歴と、どのようにしてローマ建設の年を知ったかを説明する。

⓵ ティマイオス(紀元前356又は350ー260年)         814年
  ティマイオスはシチリア生まれのギリシャ人であり、古代の著者たちから最も影響力のある歴史家とみなされていた。彼はシチリアのタオルメニウム(現タオルミナ、メッシナ海峡の南)に生まれた。彼の父アンドロマクスはシラクサのディオニシウスを退け、タオルメニウムの支配者となった(紀元前358年)。
ティマイオスは晩年アテネに15年住み、イソクラテスの弟子ミレトゥスのフィリスクスに学んだ。ティマイオスの主著「歴史」はアテネで書かれた。ティマイオスは265年シチリアの故郷に帰り、間もなく死んだ。
ティマイオスの「歴史」は38巻からなり、4つの部分にに分かれている。
⓵ギリシャ史(都市国家の成立からポエニ戦争まで)
②初期のイタリア・シチリア史 
③シチリア史
④シチリア・ギリシャ史
⑤シチリアの僭主アガトクレスについて

ティマイオスは年表の作成に取り組み、オリンピアの競技の年を基準とし、アテネの支配者の即位年を決定した。同様にスパルタの支配者とアルゴスの巫女の即位年を決定した。ティマイオスの年表はギリシャの歴史家の間で広く使用された。
ティマイオスはローマの勃興に注目した最初のギリシャ人だった。ローマとカルタゴの戦争の結果が西地中海の状況を一変させると、彼は予見していた。ローマに関心を持ったギリシャ人として、彼はポリュビオス(紀元前200ー118年)の先人だった。
ティマイオスはローマの建国を紀元前814年とした。彼はシチリアで生まれ育ったギリシャ人であり、イタリアの歴史に関心があった。彼の考えでは、ローマは古い都市であり、ローマが建設されたのは、ギリシャ人がイタリアに植民する少し前だった。ギリシャ人のイタリア植民は紀元前8世紀に始まった。彼はどのようにしてローマの建国の年を知ったのだろう。彼がローマに関する情報を得たのは紀元前4世紀末から紀元前3世紀前半である。この時期のローマ人またはイタリア南部のギリシャ人から情報を得たのだろう。または彼の先人であるシチリアの歴史家から学んだのかもしれない。シラクサのアンティオコスは南イタリアとシチリアへのギリシャ人の植民について書いた最初の歴史家である。彼の生まれた年も没年もわからないが、彼が執筆活動をしたのは紀元前420年ごろである。彼はヘロドトスより年下で、ツキジデスと同時代人である。アンティオコスは二つの著書「420年以前のシチリアの歴史」と「イタリアへの植民の歴史」は古典となった。ツキジデスは「420年以前のシチリアの歴史」を活用し、ハリカルナッソスのディオニシオス、ストラボン、シケリアのディオドロスは「イタリアへの植民の歴史」をしばしば引用した。
「イタリアへの植民の歴史」がローマの建国や王制の時代について触れていたかはわからないが、ティマイオスはローマの建国について、アンティオコスから学んでいたかもしれない。
ティマイオスは共和制初期の出来事の年代を記録しており、クルシウムとアリチアの戦争を紀元前504年と書いている。
ローマの最後の王タルクイニウスは王位を失い、亡命したが、再起を図り、エトルリアの都市クルシウムの王にローマ攻撃を持ち掛けた。クルシウムの王ポルセンナは話に乗り、ローマに向かった。クルシウム軍はローマを包囲したものの、決着がつかず、結局ローマと和解した。ポルセンナは無駄な出兵となるのを避け、息子に軍の半分を与え、ラテン都市アリチアを攻撃させた。アリチアはラテン連盟とギリシャ都市クマエに助けを求めた。援軍が到着すると、アリチア軍は守りから攻撃に転じたが、クルシウム軍に蹴散らされてしまった。隠れていたクマエ軍がクルシウム軍の背後を襲い、クルシウム軍は破れた。生き残ったクルシウム兵はローマに逃げ、かくまってくれと頼んだ。彼らはローマに住むことを許され、彼らの住む地区は「エトルリア人の地区」と呼ばれた。以上は、リヴィウスが書いていることである。アりチアはアルバ湖の南方のラテン人の都市である。クルシウムは現在のキウジで、トスカナ地方南東部、ウンブリア地方との境界に近い場所にある。アりチア戦に、ギリシャ都市クマエが参加していているので、ティマイオスの情報源ははクマエかもしれない。ティマイオスはこの戦争の年を紀元前504年としているが、ローマ側は紀元前508年としている。 
また、ティマイオスは、ガリア人のローマ占領を紀元前386年と書いている。おそらく、情報はクマエだろう。ギリシャ人の都市クマエはエトルリアと交流があり、エトルリアの出事に通じていたようである。紀元前1世紀のシチリアのギリシャ人ディオドゥルスは次のように書いている。「紀元前386年ガリア人はローマを占領した。次にガリア人は南イタリアへ遠征してから、故郷に帰る途中、エトルリア人の攻撃を受けた」。
ギリシャ人の間では、ガリア人の襲来は紀元前386年となっているが、ローマ側は紀元前390年としている。

②クイントゥス・ファビウス・ピクトル(紀元前270 ー 215から200年の間)
  ピクトルは紀元前230代のリグリア人やガリア人との戦争に下級将校として従軍した。帰国後彼はプラエトルになった。紀元前218年ハンニバルがイタリアに侵入し、第2次ポエニ戦争が始まった時、ピクトルは元老になっていた。ハンニバルに負け続けていたローマは、紀元前216年8月カンネーで大敗北を喫した。困り果てたローマの元老院はギリシャの聖地デルフィの神の予言を聞くことにした。使節の神官たちに随行し、ピクトルはギリシャに向かった。彼の第2次ポエニ戦争への関わりは、これだけである。紀元前215ー200年、ピクトルは「年代記(ローマ史)」を執筆した。
ティマイオスがローマの建国を紀元前814年としていることを、ピクトルは知っていたかもしれないが、採用しなかった。ピクトルはローマ側の記録に従って、建国の年を紀元前748年とした。彼がローマの歴史を書いた動機は、第2次ポエニ戦争におけるローマの正当性を対外的に主張するためだった。それで彼の年代記はギリシャ語で書かれた。ピクトルはギリシャの歴史書のスタイルをローマに導入した最初のローマ人である。当然ピクトルはギリシャの歴史家の著書を読んでいたに違いない。また彼は、シチリアの二人の歴史家、アンティオコスとティマイオスのイタリア史を読んでいた可能性が高い。しかしギリシャの歴史家はイタリアのギリシャ都市について多くのペ-ジを割いたのであり、ローマに関する記述は少なかったに違いない。それに対し、ローマ側には十分な記録があった。その結果彼はローマの歴史を書くにあたり、ローマ側の記録を参考にしたのである。

③ルキウス・キンキウス・アリメントゥス(生まれた年と没年は不明)
  アリメントゥスは紀元前210年にシチリアのプラエトルに任命され、翌年(209年)、前プラエトルとして引き続きシチリアにとどまり、2つの地方を支配した。その後彼は元老になり、裁判官が金品を受け取ることを禁止する法律(キンキウス法)を提案し、可決された。アリメントゥスは第2次ポエニ戦争(紀元前219ー201年)で捕虜になった。ハンニバルは捕虜のアリメントゥスにアルプス越えについて詳しく語った。紀元前202年ローマがザマ(カルタゴ本土)で勝利し、アリメントゥスは釈放された。帰国後彼はローマの歴史を書き、ファビウス・ピクトルに続く歴史家となった。主著「年代記(ローマ史)」はギリシャ語で書かれた。アリメントゥスは大神官の年代記、及びその他のローマ側の記録を、ギリシャ語に翻訳しながら、ローマ史をまとめ上げた。彼の客観的な著述はハリカルナッソスやポリュビオスによって称賛された。紀元後4世紀のローマの歴史家フェストゥス(Festus)は、しばしば彼の年代記を引用した。近代ドイツのローマ史家ニーブール(Barthold Georg Niebuhr)はアリメントゥスの批判的な手法を高く評価し、次のように述べた。「アリメントゥスは古代の記念碑を調査し、過去の歴史を探求することによってローマ史に新しい光を当てた。彼は他の歴史家と違って、初期ローマのラテン都市に対する勝利を抑制的に描いた」。
残存している断片によれば、アリメントゥスはローマが建設された年を第12回オリンピア競技の4年後(紀元前729又は728年)としている。これについてニーブールは注目すべき見解を述べている。「ローマの建設は第5代国王タルクイニウスの132年前という記録が存在し、ローマの歴史家はこの記録を採用した」。
第5代国王タルクイニウスがローマの暦を改革するまで、1年は10か月しかなかった。旧歴の132年前は、12か月から成る新暦では110年前である。アリメントゥスは5代国王の即位年を知っており、その110年前を建国の年とした。しかし、1年が10か月しかなかったというのはアリメントゥスの誤解であり、ロムルス歴においては、10か月の後に2か月分(約61日)の冬月が置かれており、1年は365日であった。2か月分の冬月はじゅうぶん機能を果たしたが、不細工なので、第2代国王のヌマが1年を12か月とした。ヌマ礫歴はカエサルの時代まで続いた。1年が10か月(300日)しかなかったら、2年目に少し変だと気づくし、6年目には夏と冬が逆転する。いかなる原始人もそのような暦を使わない。
既に述べたように、ピクトルは建国の年を紀元前748年をとしていた。アリメントゥスも、旧暦では1年が300日しかなかったという考えに振り回されなければ、ピクトルと同じく、紀元前748年としていたはずである。ローマの最初の2人の歴史家、ピクトルとアリメントゥスが、建国の年を紀元前748年としていたことは重要である。19世紀初頭のドイツの歴史学者の言葉を繰り返したい。「ローマの建設は第5代国王タルクイニウスの132年前という記録が存在した」。
紀元前1世紀になって、建国の年が5年早められ、753年とされた。なぜ5年早められたかを調べる作業は余人に譲りたい。私としては、ローマの建国の年や、7人の国王の即位年や統治期間について、古い記録が存在した可能性が高いことを知って満足している。「国王が部屋の壁に重要な出来事を記録していた」という説があるのを知って、私は半信半疑だったが、古い記録の存在を軽々しく否定はできないと考えるようになった。

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リヴィウスのローマ史はどこまでス史実か②

2024-12-18 06:08:09 | 世界史

最初のローマ人歴史家はクインクティウス・ファビウス・ピクトールであり、彼がローマの歴史を書いたのは紀元前3世紀末である。ピクトールはアエネイスのラティウム上陸から話を始めているが、どのようにして何百年も昔の出来事を知ることができただろう。トロイの王子アエネイスがイタリアに来たという話はギリシャの歴史家からの借用であり、彼はギリシャ人のイタリア植民の祖とされていたのである。ローマの歴史家はアエネイスがラティウムに上陸したことにした。その後アエネイスは土地の娘と再婚し、町を建設した。こうしのように、ローマの歴史家はアエネイスをラティウムと結びつけた。アエネイスの死後、アルバ・ロンガの時代を経て、ローマが建設され、歴代7人の王が統治した。ローマ側の伝説が書物となるのは紀元前3世紀末であり、それまで口伝えだとしたら、忘れたり、記憶違いをしてしまう。国王の時代ぐらいに書き留められていなければ、風化してしまう。ローマ人は王制時代にエトルリア文字を用いて記録していた可能性がある。エトルリア語はイタリック諸語とかなり違う言語だが、エトルリア文字はギリシャのアルファベットを借用したもので、簡明である。昔の日本人が漢字を学ぶより、はるかに容易だった。日本人は平安時代にひらがなを考案したが、中国人がカタカナのようなものを用いていたなら、日本人はもっと容易に文字を習得しただろう。要するに、エトルリア文字を用いるのはローマ人にとって容易だった。なんといってもエトルリアの都市ヴェイイとローマは近かった。
ロムルスがラテン人の古い都市アルバ・ロンガの国王の孫だったという話は神話かもしれないが、ローマには若い女性が少なく、サビーニ人の女性たちをだまして連れてきて妻としたという話は事実かもしれない。現在の学者たちがリヴィウスのローマ史を疑うのは当然であるが、非常に印象的な話が多く、すべてが神話とは思えない。7人の王のそれぞれの話にも、実際にあった話と思える箇所がいくつかある。
歴代の国王が、自分の住まいの壁に出来事を記録していたという話があるが、王宮は中央広場の一角にあり、前390年にパラティンの丘の建物の多くが焼かれたので、国王の宮殿も焼けてしまったかもしれない。ただし、ガリア人の焼き討ちは限定的だったという説もあり、記録が残った可能性もある。7人の国王の名前と彼らの時代の出来事は大部分事実だという意見もある。国王の就任の年と統治期間が疑わしいだけだという。
紀元前1世紀のローマの歴史家の間で、王の時代について意見が分かれていたが、国王の時代が244年続いた点では一致していたと言われている。ロムルスはトロイの王子アエネイスの孫であると考え、ローマの建設を紀元前1100年とする者もいたが、王制の期間244年と矛盾するので、退けられた。アエネイスのラティウム到来とローマ建国の間にアルバ・ロンガの歴史が置かれ、ロムルスはアルバ・ロンガの末期の王の孫とする考えが主流になった。共和制の最初の年が紀元前509年という点でもローマの歴史家の多くが一致し、王制の最後の年509年と王制の期間244年から逆算して、建国の年が紀元前753年と割り出された。考え方はよく理解でき、かなり現実的な結論となっている。ローマ人は数字の年代を使用しなかったので、正確な年代とずれることもあったが、論争の末、妥当な線に落ち着いたようだ。

紀元前509年以後の共和制の時代については、最初の100年は王制時代と同じで、記録が存在したようだとしか言えないが、紀元前400年以後、確かな一次資料が存在した。
     〈大神官の年代記(Annales maximi)〉
大神官の年代記には執政官の名前だけでなく、各年の主要な出来事が記録されていた。キケロによれば、大神官の年代記は紀元前400年以後の記録である。大神官は終身であり,就任後、年代記を書き始め、彼が死ぬと次の大神官が記録を続けた。大神官はカピトルの丘に住んだ。カピトルの丘のユピテル神殿が建設されたのは紀元前509年であり、紀元前400年以前の記録がないのはなぜだろう。カピトルの丘は紀元前390年の大火を免れており、焼き討ち以外の原因で失われたのどうか。そもそも紀元前400年に記録を始めたのだろうか。前400年以前、ローマ人は出来事を記録する習慣がなかったというこではない。正式な記録は突然生まれるのではなく、記録する習慣が先に生まれることが多い。日本書紀と古事記が書かれる以前に、北九州、出雲、岡山(吉備)などに記録が存在したのと同様である。古事記の冒頭に、「語り部の話を文字にした」と書いてあるのは、天皇の一族の伝承を文字にしたということであり、日本に文字による記録がなかったということではない。
大神官の年代記の簡略版がパラティンの丘の中央広場に公表され、ローマ市民は誰でも読むことができた。簡略版は歴代執政官のリストであり、重要な戦いに勝利した凱旋将軍の名前も書かれていた。簡略版は中央広場の旧王宮の前の白い石板に刻まれた。これにより、文字の読める市民にとって、歴代執政官の名前はなじみのあるものとなり、歴代執政官のリストは広く共有された。有力貴族は執政官のリストを年号代わりに用いて、家族の歴史を書いた。ローマ人の最初の歴史書は3世紀末に成立するが、それ以前に大神官の年代記と有力貴族の家族史が存在した。貴族の家族史は家族の構成員を美化する傾向があり、作り話が混じることがあるが、事実を書き残している場合も多い。
大神官の年代記は紀元前130年頃に終了し、全部で80巻になっていた。紀元前130年に大神官に就任したムキウス・スカヴォラ(Publius Mucius Scaevola)が年代記を出版した。これ以後のローマの歴史家にとって、大神官に年代記の閲覧を許可してもらう必要がなくなった。
なお、リヴィウスの建国史に書かれている執政官の名前が、大神官の年代記と異なる箇所があるという。大神官の年代記には、ずっと昔に断絶した家族の名前が書かれており、前1世紀の歴史家には馴染みがなく、古めかしすぎたと言われている。前1世紀に大神官の年代記と一部異なる執政官のリストが生まれた。西ローマ末期以後大神官の年代記は失われたため、リヴィウスの建国史がどの程度大神官の年代記と違っているか、調べることができない。リヴィウスが古い記録を修正したのは、単に古い時代に対する無理解なのか、平民に同情的な執政官が抹殺されていることに対する反発なのか、わからない。 

中世になって大神官の年代記の簡略版が発見された。大きな大理石の石板が地面に埋まっていた。オクタヴィアヌスがアントニウスに勝利した記念に建てた凱旋門が半分崩れており、聖ピエトロ大聖堂の建立に再利用することになったが、近くの地面から、文字が刻まれた大理石が出てきた。注意深く掘り出すと、大きな4つの石板であることがわかった。これは大神官の年代記の簡略版の現物らしかった。石板は教皇館に保管されていたが、現在教皇館は博物館の一部になっている。
石板に刻まれている執政官のリストは前483年から始まっているが、もとは前509年から始まっていて、最初の部分が壊れてしまったようだ。大神官の年代記は紀元前400年から始まっているはずなのに、発見された簡略版は509年から始まっているのは、なぜだろう。また大神官の年代記は前130年で終わっているのに、石板のリストはアウグストゥスの時代まで続いている。発見された大きな石板は、前400年以降に立てられた古い石板ではなく、アウグストゥスが新たに立て直し、一部書き直したようである。発見された石板には、10年ごとに数字の年号が刻まれている。数字の年号は古い石板にはなかったはずだ。数字の年号は建国の年を元年とするローマ歴である。また重要な戦いに勝利し、凱旋将軍の栄誉を与えられた執政官や独裁官の名前も記録されており、最初の凱旋将軍はロムルスとなっている。古い石板に凱旋将軍の名前が書かれていたかどうかはわからないが、書かれていたとしても、紀元前400年以後の旋将軍の名前のはずだ。アウグストゥスは紀元前509ー400年の執政官のリストを刻んでいるが、何を根拠にしたのだろう。

大神官の年代記に匹敵する重要な記録がもう一つ存在した。残念ながら、それが前509年に始まったかは不明であり、共和制の最初の100年の記録が存在したかは、やはりわからない。重要な記録とは、元老院の記録である。筆頭元老が、元老たちの主要な発言と元老院の決定を記録していた。筆頭元老の記録は元老しか見ることができなかったが、過去の出来事に関心のある元老はいつでも記録を参照できた。元老の間では過去の出来事が共有されていた。元老院の記録は元老でなければ見ることができず、出版もされなかったので、広く共有されなかったが、重要な一次資料が存在したことは間違いない。記録がいつ始まったかわからないのが残念である。ファビウス・ピクトルは紀元前218年に元老になっており、ローマ史を書くにあたって元老院の記録を参照したに違いない。また元老となったピクトールは大神官の年代記を閲覧できたに違いない。ピクトールは2種類の一次資料を参照したのである。またファビウス家は名家であり、代々子供たちに誇りある家族の歴史を語り伝えていたにちがいなく、ファビウス家は家族の歴史を記録していたので、ピクトールはローマ史に理解があった。
以上、主に共和制の最初の200年について、文字資料が存在したか否かを調べてみたがが、最初の100年については、正式な記録は存在しないが、文字の使用はそれ以前に始まっていたと思われ、何らかの記録が存在した可能性はある。紀元前400年以後は大神官の年代記が存在し、元老院の記録も始まっていた可能性が高い。また、この時期には有力貴族が家族の歴史を書き始めていたようである。クラウディウス・マルチェリ家、ファビウス家、アエミリウス家などの記録が知られている。リヴィウスとキケロはこれらの記録を批判しており、作り話がいくつかあったようであるが、事実を伝えている場合もあり、記録が全然ない場合より、ましである。ローマ人の間で記録する習慣が始まっていたことは重要である。
私としては、リヴィウスの建国史の3分の2、少なくともも半分が事実であれば十分であり、紀元前400年以前に何らかの記録が存在したか否かが、気になったのである。現在の学者の間では紀元前300年以前のローマ史が疑われている。確かな記録が存在した紀元前300年代が疑われるのは、紀元前1世紀の歴史家が古い記録を改ざんしたと考えられるからである。リヴィウスも改ざんを疑われている。建国史の執政官の名前が、ピクトルの年代記と違っていることッは、既に述べた。またセクスティウスとリキニウスの話は、ピクトルの年代記には、なかったと言われている。しかしリヴィウスはかなりの部分でピクトルの年代記を受け継いでいる。リヴィウスはローマの最初の歴史家ピクトルを信頼しており、手本としていた。またリヴィウスは前2世紀の歴史家も評価していたが、前1世紀の歴史家を信用していなかった。それにもかかわらず、リヴィウスは紀元前1世紀の歴史家の影響を受けたとみなされている。これについて、私は一つの観点を提起したい。
紀元前1世紀はローマの社会が激変し、旧来の秩序が崩れ、大きな内乱が繰り返し起きた時代である。歴史観も分裂したのである。第二次ポエニ戦争(紀元前219ー201年)後、貴族階級が傲慢になったことが、動乱の遠因のように思われる。ハンニバルとの戦争に負け続けたことを、ローマの貴族は反省せず、地中海西部の覇者となり、舞い上がったのである。平民の多くが没落し、貴族に対抗する勢力が消え、貴族の天下となった。しかし紀元前2世紀末に社会の矛盾が顕在化し、反動が起きた。貴族独裁に対す対抗軸が復活し、激烈な内戦となった。このような時代に、貴族中心の歴史観に批判が起こったのかもしれない。リヴィウスも新しい波と無縁ではなかったに違いない。しかしリヴィウスには混乱の原因を知りたいという強い欲求があり、新しい波にのまれただけではない。リヴィウスは昔のローマ人の古風な性格があり、虚飾を嫌い、非現実的な空想を嫌ったのでり、彼の歴史観は独自なもになっている。

 

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