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イラクの今後を左右するティクリート戦

2015-03-20 15:39:18 | イラク

           ティクリートに入るイラク軍           AFP

           

防戦から反撃へ、イスラム国に対する戦いの転換点、とイラク国防相はティクリート作戦を位置づけた。

31日、アバディ首相が、サラフディーン州とその州都ティクリートの奪回を軍に命じた。翌日、イラク軍は奪回作戦を開始した。

兵力は3000の国防軍兵士と警察官、それに加え2万のシーア派民兵である。少数のスンニ派民兵も加わった。

           

まず周辺の町や村からイスラム国の兵士を排除することにとりかかった。最初に制圧した2つの町が地図に示されている。北端のアラム(Alam)と南端のダウア(Dour)である。

ダウア付近では、イスラム国が自爆テロをしかけてきた。 

            

                                                                             Reuters

アラムとダウアを含め、10日までに制圧された地点は緑色の小さな正方形で地図に示されている。

アラムから西岸に渡るチグリス川の橋は、イスラム国によって爆破されていた。

 

          アラムからイスラム国を追い出す政府軍

    

                        Thaier AlSudani  Reuters  

政府軍は10日に、市の中心部に入り、重要な施設に迫った。州議会・州知事庁舎・警察署である。これらは地図に示されていないが、市の中心部が赤い正方形で示されている。

また政府軍は市のはずれにある大統領宮殿を包囲した。大統領宮殿は地図に示されていないが、すぐ近くの陸軍病院(Miritary hospital)が示されている。北から3つ目の緑色の地点。

 

地図には、10日以後も戦いが続いている地点が、白地に赤丸で示されている。カディシーヤ(Qadisiya)と工業地区(Industrial zone)2か所である。

カディシーヤでは15日になっても戦闘が続いており、シーア派のイマーム・アリ旅団の兵士たちが、イスラム国の兵士へ向けて迫撃砲を放っている。

彼らはティクリート大学の屋上からカディシーヤに向けて撃っている。ティクリート大学は地図に示されている。北から2つ目の地点。

ティクリート大学の屋上のアリ旅団の民兵たちは「10日から15日までにに200発以上撃った」と語っている。

 

         <ティクリートの戦略的な位置>

     

                                                                                 BBC

ティクリートはその位置から、東部のクルド地域に対しても、バグダード以南のシーア派に対しても、スンニ派の牙城となっている。北部のスンニ派にとっては南端の守りであり、西部のスンニ派にとっては東端の守りとなっている。ティクリートはフセイン大統領の故郷であり、2003年のイラク戦争の時、この地の住民は米軍を相手に勇敢に戦い、大きな犠牲を出した。

バグダードの北西はスンニ派地帯であり、西のファルージャとラマディ、北のティクリートがスンニ派の三大拠点となっている。

バグダードのシーア派独裁政権に不満を持つティクリートの住民は、昨年6月、イスラム国を受け入れた。

 

    <イスラム国を退けたクルド軍>

スンニ派はイスラム国と同盟したが、東部のクルド人はイスラム国をはねつけ、クルドの土地を守った。その上、クルドとスン二派両地域のの境界にある都市キルクークを獲得した。キルクークは油田地帯の中心にあり、キルクーク獲得はクルドの悲願だった。キルクーク油田の産出量は、イラク全体の10分の1であるが、キルクークを中心とする北部油田地帯の埋蔵量は南部油田地帯に匹敵する。今後、投資と開発が進めば、世界でもトップクラスの産油地帯となる。北半分に国家が建設されれば、サウジに次ぐ裕福な国家になる可能性を秘めている。

 

    濃い灰色が巨大油田、薄い灰色が普通規模の油田

 

                       wikipedia

キルクークの政府軍は逃亡し,その後すぐにクルド軍(ペシュメルガ)が入り、守りを固めた。キルクークはクルドの領土となった。イスラム国は兵力が足りず、キルクークのクルド軍(ペシュメルガ)に立ち向かえなかった。ペシュメルガは武器が不足していたが、気力でキルクークを守った。イラクのクルド軍はペシュメルガと名乗っているが、「死を恐れぬ者」と言う意味である。

 

             <イスラム国との同盟を後悔するスンニ派>

シーア派はクルド地域以南を全て獲得しようとしている。スンニ派に残されるのは、縮小された北西部だけになるかもしれない。しかもその北西部で、イスラム国の支配下に生きなければならない。

スンニ派の本心からすれば、、スンニ派地域を独力で守りたい。しかし、スンニ派にはその力がなく、不本意にもイスラム国に頼らざるを得ない。本当はイスラム国を追い出したい。しかし今それを行えば、スンニ派の土地がクルドとシーア派に奪われてしまう。

サダム政権崩壊後、スンニ派はモスルとキルクークを獲得したいと思ってきた。北部と西部のスンニ派地域はもちろんである。モスルは昨年6月イスラム国が獲得してくれたが、イスラム国が新しい支配者になってみると、2か月も経たないうちに、スンニ派の住民は、マリキ政権の方がましだったと思い始めた。

 

イスラム国が支配するモスルで、スンニ派は気が滅入る思いで暮らし、キルクークはクルドに奪われた。

スンニ派にとって、周りが全て敵のように思われた時、イラク政府軍がティクリート作戦を開始した。

  

     <ティクリート戦におけるスンニ派>

3月2日、イラク政府軍がスンニ派の牙城ティクリートに本格的な攻撃を開始した。政府軍には、シーア派民兵も加わった。

シーア派民兵はイランの革命防衛隊によって指導され、戦闘力がある。彼らはスンニ派の住民を虐殺しているので、スンニ派はシーア派民兵を恐れ、憎んでいる。

これと戦うには、スンニ派はイスラム国との同盟を維持するしかない。しかしティクリートのスンニ派住民は、イスラム国との同盟に迷いがあり、心は揺れている。イスラム国に家族を殺され、政府軍の側で戦った住民もいる。ティクリートのスンニ派は結局分裂した。

 

総攻撃の直前、政府軍の兵士がイスラム国側に無線で呼びかけた。「今から攻撃に行くからな。覚悟して待ってろ」。それに対し、イスラム国の兵士が無線で答えた。「俺たちは死ぬことを恐れていない。殉教者は天国に行くんだ。お前たちは地獄に落ちろ」。

ベトナムの米兵は、無線で基地に連絡し、援軍を要請した。ベトコンと無線で話をしたことなどない。敵に攻撃を知らせるなど、ずいぶん変わった戦争だ。しかし、どちらもティクリトの住民かもしれず、敵味方に分かれてしまった、複雑な事情の表れかもしれない。だとすると、哀れな話だ。

あるいは、政府軍が、はやばやと、ティクリート市の明け渡しを要求したのかもしれない。

 

ティクリートの住民が作戦の組み立てに関して助言したことが、作戦の成功につながった。住民は市内と市周辺の地理を熟知しており、イスラム国の兵士の動静についての情報もある。

またシーア派民兵を指導するイランの革命防衛隊は、ゲリラ戦に習熟しており、彼らは作戦の組み立てにおいても、戦闘においても大きく貢献した。兵数から言っても、政府軍の3千に対し、シーア派軍は3万である。 

 

   <イラクの今後を左右するティクリート戦>

       オベイディ国防相

   

バグダードからモスルへ向かう幹線道路はティクリートを通っており、北のモスルを奪回するには、ティクリートが政府軍の支配地でなければならない。イラク政府軍がティクリトを確保できるか否かは、モスル奪回の試金石と考えられた。

今回の作戦は、イスラム国に対する反撃として最大規模であり、これに失敗すれば、前途は暗い。イラクもシリアのように、終結のない内戦状態が続くことになる。幸い作戦はほぼ成功したようではあるが、ティクリート市内の3割ほどを、まだイスラム国が支配しているので、予断はできない。

 

米国は政府軍の再建に努めてきた。その甲斐あって、スンニ派民兵が政府軍と共に戦った。

ティクリート攻撃では、政府軍の戦闘機・戦車・重砲・戦闘ヘリによる攻撃が威力を発揮し、優勢に戦いを進めた。シーア派民兵も、重砲とロケット砲を装備していたといわれる。

     

                     CNN

しかし、接近戦となってから力を発揮したのは、シーア派民兵だった。戦闘が一段落した時、シーア派民兵の司令官がインタビューに応じた。これが勝利のインタビューと受けとめられ、大問題となった。そして作戦の成功より大きな波紋をよんだ。

   

                      AFP

       <ティクリート戦の勝利者はイラン>

「イランが勝利宣言をした」ということで、大騒ぎになった。シーア派民兵を指導しているのはイランの革命防衛隊である。騒いだのは、サウジアラビアとスンニ派諸国、そしてイランを敵視する米国の議員である。現地の米軍将校は最初から、ティクリート攻撃にシーア派民兵が参加することを、快く思っていなかった。

彼らは、一様に、イラクの南半分がイラン領となることを恐れている。イラクの南部はクェートとサウジの油田地帯に接している。カタール・アラブ首長国・バーレーンはイランの対岸にあり、イランと歴史的に縁が深い。イランはバーレーンの領有権を主張したことがある。

バーレーンで大規模な反政府デモがあった時、サウジが軍隊を送り、鎮圧した。リビアやシリアで、軍隊が民衆に発砲したことは、世界中で批判された。しかし、サウジ軍による民衆虐殺は黙殺された。イランは欧米メディアの偏向を常に糾弾しており、サウジがバーレーンを保護国としていることに怒っている。

 

サウジはイランの革命防衛隊に対抗するため、地上軍の派遣をイラクに申し出たが、アバディ首相は断った。

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