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追放された国王の陰謀

2020-08-29 23:32:02 | 世界史

 

ローマは紀元前753年以建国された。初代の王ロムルス以来244年王政が続いた。紀元前509年、第7代の王タルクィヌス・スペルブスが追放され、王政が終了した。以後ローマは共和制の時代となる。

 

====《リヴィウスのローマ史 第2巻》===

     Litus Livius   History of Rome

                   translated by Canon Roberts

             【1章】

私がこれから書くのは、国王が追放され自由になったローマの物語である。ローマの市政と戦争、毎年選ばれる高官たち、すべての市民を支配する厳格な法律、これらのことについて書くことになる。最後の国王の圧政が耐え難いものだったので、自由な制度は市民に歓迎された。しかしすべての国王が否定されたわけでなかった。何と言っても歴代の国王はローマという都市を建設したのだ。ローマの市域を拡張したことにより、人口増加にもかかわらず、土地不足は起きなかった。

タルクィヌス・スペルブスを追放した功績により、栄光に輝いたブルートゥスは自由を願う国民に押されて国王の権力を奪ったが、国民は自由に慣れておらず、今度はブルートゥスが国家にとって有害な存在になりえた。豚飼いなどの牧人の集団、移民たちや生まれた町から逃げてきた難民がもし自由を獲得したり、安全な場所に逃げ込み免責されるなら、どうなるだろう。もし彼らが王権による制約から自由になったら、よそ者である彼らが民衆の指導者の熱弁に扇動され、ローマの貴族たちと喧嘩するようになったら、どうなるだろう。少し前まで外国人であった人達が、ローマ人と縁組を重ねる前に、ローマに愛着を持つようになる前に、ローマ人と心を知る前に、ローマの貴族たちと争ってよいだろうか。そんなことになれば、歴史の浅いローマは内部の争いによりって分裂してしまうだろう。しかしながら、歴代国王が穏健で事態を鎮静化させるように権力を行使したので、自由な制度への転換は混乱を起こすことなく、公正な社会をもたらした。また顕著になっていたローマの強さも保たれた。この時獲得された自由について、今でもしばしば言及されるが、コンスル(執政官)の任期が1年とされたことについてであり、コンスルは国王が所有していた権威をすべて受け継いだわけではないという事実は忘れられている。最初のコンスル(2名)は国王の決定権と記章を受け継いだが、権標(fasces、棒の束と斧であり、火あぶりの刑と斬首の刑の象徴)は一人のコンスルだけが受け継いだ。死のシンボルを両方のコンスルが持つなら、人々に恐怖を与えるからである。

最初のコンスルとなったブルートゥスは同僚コンスルの同意を得て、権標(棒の束と斧)を最初に保持した。こうして最高権力者となったブルートゥスは国民の自由の擁護に努めた。人々は回復した自由を大切にしたが、追放された国王タルクィヌスは復権を望んでいた。ブルートゥスの最初の仕事は元国王の誘惑や賄賂から国民を守ることだった。そこで彼は人々に決して国王を迎えないと誓わせた。

タルクィヌスが王だった時元老院議員の数人が国王によって殺され、元老の人数が減っていた。ブルートゥスは欠員を補充するため、騎士階級の指導的な人たちを新たに元老とし、元老院の権威を強化した。こうして元老の人数は以前のように300人になった。新しく元老ととなった人々は「登用された人」呼ばれ、元から元老だった人々はこれまでのように「長老」と呼ばれた。騎士階級から元老を登用したことは、貴族と平民の距離を縮め、社会に調和をもたらす効果があった。

                    【2章】

ブルートゥスは次に宗教に注意を向けた。宗教儀式の中で、社会にかかわりがあるものは、これまで国王がになってきた。国王が神々へ生け贄をささげることによって、祖国を守るためである。王に代わってコンスルがこの神事をおこなうなら、コンスルは国王と同じになり、国民の大切な自由に対し脅威となるだろう。そこでブルートゥスはコンスルの地位を大神官(Pontifex Maximus)より低くした。当時の人々は自由を守るために、何事にも注意を払い、小さな点にも念を入れた。同僚コンスルのタルクィヌス・コラチヌスは名前が悪いというのが唯一の欠点だった。

(訳注)初代タルクィヌス5代国王)には弟がいて、コラチヌスはこの弟の孫。(訳注終了)

タルクィヌス家はあまりにも長く王位を独占した。タルクィヌス・プリスクス、その養子のセルヴィウス・トゥリウス、3人目のタルクィヌス・スペルブスと3代続いて王になった。最後の国王タルクィヌスはタルクィヌス・プリスクスの実子であり、暴力を用いて、セルヴィウスから王位を奪い第7代国王となった。彼は追放されたが、国王に帰り咲く機会をうかがっていた。彼は普通の市民として生きるのに困難を感じていた。陰謀と暴力は得意だったので、彼は失った王権の回復を考えるようになった。彼は自由を獲得したローマにとって危険な存在だった。最初こそこそ話されていた噂がすべての人の関心事となった。人々は驚き、不安になった。ブルートゥスは会議(民会)を招集した。彼は最初に自由な制度に対する人民の誓いを改めて確認した。「単独の最高権力者に統治を委ねない、またそれになろうとする野心を持つ者をローマに住まわせない。そのような権力者は国民の自由を奪うからである。自由な制度は細心の注意を持って守らなければならない。そのためにはあらゆる手段を取らなければならない」。

公共の福祉が危険にさらされていなかったなら、ブルートゥスは特定の個人を攻撃するのは気が進まなかっただろう、またそもそも話すことはなかっただろう。ローマの国民は自由な制度のための戦いにまだ完全に勝利していないと考えていた。王家の縁者はまだローマに残っていたし、王家の名前を持つ者は市中にも政府内にもいた。彼らは完全な自由を妨げる障害であり、脅威だった。ブルートゥスは同僚のコンスルに向かって言った。「タルクィヌス・コラチヌス、自由に対する脅威は君だ。自分の意志でローマから去りなさい。君が国王と家族を追放した仲間であることを、我々は忘れていない。その点は信じてくれ。君のローマに対する貢献を台無しにしないでくれ。王家と同じ名前の人間はローマにいられない。ローマの市民は君の財産に手を付けない。私の権限でそれを保障する。ローマは君に対しさらなる寛大さを示し、その他必要なものを持って行ってよろしい。ローマの人々が抱いている恐怖を取り除いてほしい。君が危険な人間であるという考えは誤りかもしれないが、ローマの市民はタルクィヌス家の人間がいなくならない限り、恐怖政治は終わらないと信じている」。

コンスルのコラチヌヌスはとんでもない要求に驚き、黙ってしまった。やっとのことで彼が話し始めようとした時、共和派の主要な人々が彼の周りに集まり、同じ要求を繰り返したが、コラチヌヌスは納得しなかった。そこで、コラチヌヌスより年上で地位が高く、彼の義父であるスプリウス・ルクレチウスが言葉を尽くして説得した。するとコラチヌヌスは全市民の要求に屈した。コラチヌヌスはコンスルの任期終了後に断罪されるなら、財産を没収されると考えて、今のうちにローマを出た方が得策だと考え、コンスルを辞し、財産を移した。そして彼はラヌヴィウム(Lanuvium)に転居した。

(訳注)ラヌヴィウムはルットゥリ人の地域に切歯っている。非常に似た名前の町ラヴィニウムの東)

 

その後ブル-トゥスは元老院から権限を与えられ、タルクィヌス家の者全員を追放することを人民に提案した。その後ブルートゥスは欠員となったコンスル(定員2名)の選挙をした。百人隊会議がプブリウス・ヴァレリウスを選んだ。ヴァレリウスは国王と家族を追放したグループの一員である。

     【3章】

追放されたタルクィヌス家の人々が戦争を計画していたが、ローマでは多くの人が予想していなかった。陰謀と策略により、ローマの新体制は崩れかけた・身分の高い家の青年たちは王政時代にやりたい放題だった。彼らはタルクィヌスの王子たちの友人であり、王家の流儀に慣れ親しんでいた。共和制となって、すべての人が法の前に平等になると、王子の友人たちは以前の生活を懐かしんだ。新しい社会はほとんどの市民に自由をもたらしたが、王子の友人たちは奴隷になったように感じた。王政においては、法律を無視して国王から欲しい物を得られる人々がいる。王個人の影響力が大きく、自由な裁量で恩恵を施すことができる。国王は自由に厳罰を科したり、逆に大目に見たりする。また国王は友人と敵を区別する。これに対し法律は人間でないので感情がなく、石のように不動であり、強者の横暴を許さない。結果的に法律は弱者を守ることになる。人間の本姓を考慮するなら、個人の清廉さを前提にした制度は危険である。

王子の友人たちが不満を抱いていた時、王家の使者がローマに来て、財産の返却をローマに楊求した。王家は帰国については言及しなかった。元老院が使節の話を聞いた。元老院はこの問題について数日間話し合った。財産の返却に応じなければ、戦争の口実になるかもしれなかった。財産を返却すれば戦争の資金になるかもしれなかった。

この間、元国王の使節たちは別の仕事に取り掛かった。彼らは財産の返還を求めているだけというふりをして、国王を復位させるための陰謀を計画していた。若い貴族たちに狙いを定め、本当の目的を打ち明け、彼らがどのような反応を示すか見るることにした。若い貴族たちが喜んで話に乗ってきたので、使節たちは王家の人々が彼らに宛てた手紙を持ってきた。それから使節と若者たちは王家の人々を夜密かにローマに入れる計画について話し合った。

       4章】

最初にこの計画を持ち掛けられたローマの若者はヴィテリ家とアクィリ家の男たちだった。ヴィテリ家の男の姉妹はコンスル(執政官)であるブルートゥスと結婚していた。この夫婦には成人した子供たちがいた。名前はティトぅスとティベリウスだった。2人の叔父が彼らを陰謀に引き入れた。他にも陰謀に加わった者がいるが、名前は伝わっていない。

一方、元老院の多数が王の財産を返還すべきだと考え、それが決議となった。財産を運ぶ車両を用意するのに、コンスルは時間を要した。この間、王の使者はローマに留まることになった。彼らはこの時間を利用し、陰謀の仲間たちと相談した。ローマの若者たちから王家へ宛てた手紙が必要だ、と使者たちは述べた。「このように重要な問題について、我々が持ち帰ったものが空約束ではないと保障する物がなければ、王家に信じてもらえない」。

こうしてローマ側の呼応者は誓いの証明として、手紙を書いた。しかしこの手紙が原因で、陰謀が発覚してしまった。

使者たちがローマを去る前日、彼らはヴィテリ家での食事に招かれた。食事が終わると客たちが帰り、陰謀の参加者だけが残った。彼らは共和制転覆の計画について話し合った。話し声が奴隷の一人の耳に入った。この奴隷は何かが計画されていると感づいており、手紙が渡される瞬間を待っていた。その手紙は陰謀の完璧な証拠になるはずだった。手紙が使節に渡されたことを確認すると、奴隷は急いでコンスル(執政官)に報告した。コンスル(2人)は元国王の使節たちとローマの呼応者たちを逮捕し、騒ぎになる前に陰謀をつぶすことにした。コンスルの最大の関心は、手紙が破棄される前にそれを手に入れることだった。2人のコンスルはまず国内の裏切り者たちを逮捕し、投獄したが、使者たちの逮捕をためらった。彼らが敵対行為をした犯罪者であるのは確かだが、彼らは国際法上の権利を有していた。

   【5章】

元国王の財産を返還することについて、コンスルは元老院に再審議を求めた。コンスルが元国王を憎んでいるのを知り、元老院は財産返還を拒否し。それを国庫に収納するのを禁じた。元国王の財産は戦利品として、平民に分配された。財産の奪取に参加した平民はタルクィヌス家と平和的な関係を持つことができなくなった。タルクィヌスの土地はローマ市とテベレ川の中間にあり、軍神マルスにとって神聖な場所であり、マルスの野原(Campus Martius)と呼ばれていた。

 

 

 

 

そこにはトウモロコシが生育していて、ちょうど収穫期だった。神聖な場所のトウモロコシを食べてしまうのは神を冒涜(ぼうとく)することだったので、人々は廃棄することコにした。大勢の人がトウモロコシを刈りに行った。彼らはトウモロシを茎ごとかごに入れてテベレ川まで運び、川に投げ捨てた。ちょうど真夏だったので、水が浅く、トウモロコシは浅瀬にたまった。トウモロコシの山は泥だらけだった。川のそのあたりは流された土砂がたまり、島のようになっていた。長年上流から運ばれて来た土砂がその重みで固まり、水面より高くなったのだろう。砂州は地盤の固い川中島となり、神殿や柱廊(柱の列)を建てることができた。

こうして王家の所有物を処分すると、裏切り者たちに刑が宣告され、執行された。刑の執行は人々の大きな関心を呼んだ。コンスル(執政官)が刑の執行責任者に指定したのは、受刑者の父親だったからである。息子の処刑など見たくなかった父親が刑の執行を確認しなければならなかった。地位の高い貴族の若者たちが杭につながれた。中でも元コンスルの子どもたちに関心が集まった。人々は処刑される若者たちを哀れまず、彼らの罪を憎んだ。彼らは自由な制度をもたらした父を裏切り、無慈悲な暴君の陰謀に加担し、生まれたばかりの制度を破壊しようとしたのである。コンスル、元老院、平民で構成される、ローマの人間的・宗教的な制度を、彼らは破壊しようとしたのである。2人のコンスルが席に着き、刑の監理官が護衛兵に刑の執行を命じた。コンスルの護衛兵は裏切り者の若者たちの裸の背中を棒で打ち、それから首をはねた。この間、彼らの父親たちは感情を隠せず、表情に見て取れたが、威厳を保ち、公開処刑を監督した。

罪が償われると、犯罪を未然に防いだ者に、特別の恩賞が与えられた。陰謀が計画されていると報告した奴隷は国庫から報奨金が与えられ、自由の身分にされ、市民権を与えられた。彼は最初の解放奴隷だった。現在、解放奴隷をヴィンディクタ(Vindicta)と呼ぶのは、彼の名前がヴィンディクス(Vindics)だったからと言われている。これ以後、国家によって解放された奴隷は、市民権を得るようになった。

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ローマの王政時代について

2020-08-26 05:48:42 | 世界史

 

ローマの王政時代、ローマ人は文字を知らず、この時代の歴史は口伝えに語り継がれた伝説しか存在しない。リヴィウスがそれらの伝説を集め、取捨選択して文書にしたのだが、ロムルスの時代から700年近く経過しており、最後の国王タルクィヌスの時代から500年近く経過している。

言い伝えには誤りや作り話が含まれることことが多く、どこまで事実かわからない、王政時代の歴史は客観的な裏付けがなく、歴史というより神話なのである。しかしながら、リヴィウスの記述を読むなら、作り話とは感じられず、実際にあったことが語られているいるという印象を受ける。

そして何より、最初期のローマとラテン人の歴史の輪郭を知ることができる。例えば、ラテン人のティレニア海沿岸の古い町ラヴィニウムはラウレントゥムによって建設されたこと、同じく古い町アルバロンガはラヴィニウムによって建設されたことがわかる。またアルバロンガが多くの村を建設しことがわかる。アルバが建設した町はアニオ川両岸に至る広い地域に点在した。ローマが誕生した時、これらの村の多くは町へと成長していた。ローマはこれら町のと戦争をし、勝利した。王政期末、ローマはラテン人地域で優越した町となった。

ラテン人の多くの町は母市の植民によって生まれたが、ローマは母市の援助がなかったために、村を建設するのは大変だった。そもそも人数が少なすぎた。これが原因で、有名な「サビーニ人女性の略奪」が起きた。少数の貧しい若者たちが村を建設しようとして、なりふり構わず人を集めた。怪しげな人物も集まって来て、新しい集落ローマの評判は悪かった。周辺の町はローマに嫁をやるのを断った。断る際、ローマを侮辱する言葉を言った。「男を集めたやり方で女を集めればよいではないか」。

こうして誕生したローマは王政末期には、ラテン人地域北部で最大の勢力となり、テベレ川対岸のエトルリア人の都市ウェイイに対抗できる都市になった。

ローマは広大な帝国となっただけでなく、その帝国は500年続いた。東ローマは西ローマ滅亡後1000年続いた。近代ヨーロッパの人々は自分たちの歴史がローマから始まっていること、先祖たちがラテン語を読み書きしていたことを知っていたので、ローマ帝国の成立過程に関心を持った。ローマの躍進の契機となったカルタゴとの戦争とローマ帝国の形成に貢献したカエサルの時代について特に関心が高い、しかしこれらの時期に劣らず、ローマが村から都市へと発展する244年間のローマの歴史は劇的で面白い。この時代のローマ人は荒々しく古風であり、一寸先は闇の世界を切り開いていった。周辺の町はローマを警戒し、敵意を抱いていたからである。近・現代の物語を読場合、話の展開がなんとなく予想できるが、王政時代のローマ史は次にどうなるのか、全く予想できない。

周辺の町がローマに対しもともと敵対的だったのに加え、ローマ自身が近隣の町の征服を繰り返したので、ローマに対する敵意を増幅した。ローマは自ら創出した危険な環境をなんとか生き抜くことにより、急成長した。ローマ危が危険を冒しながら成功した理由はなんといっても彼らのの闘争心にあったが、指導者が状況判断に優れ、機敏に対応したことである。

れき国王の中で、第2代国王ヌマは例外であり、彼の時代に戦争がなかった。ヌマの温厚な性格は周辺地域に知れ渡っており、他国は彼の平和主義に裏はない信じ、ローマを攻撃しなかった。戦争をしなかった王としてヌマは異色であるが、彼の時代についての記述の後半で、宗教儀式の話がかなり長く続く箇所は退屈である。私はこの部分を省略したかったが、リヴィウスの文章の大幅な省略を控えた。古代の宗教に関心のない読者は読み飛ばして、第3代国王アンクスの話に移ることをお勧めする。

 

 

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