前回まで、シリアの貧しい農民、さらには破産した農民について書いた。農村の過剰な弱年人口が極貧階級を形成した。彼らの多くが反対運動に流れ込み、運動の規模を大きくした。一方で、経済的には恵まれていながら、思想的に反体制派となった者もいる。フランス革命、ロシア革命の場合と同じで、体制を支えるべき階層から体制批判者が生まれ、革命の機運を盛り上げるのに貢献する。革命が表層的な改革だけで終了すれば、彼らは現在の指導者を追い落として、新しい指導者となる。しかし革命が中途半端で終わらず、どこまでも突き進んだ場合、 秩序が完全に崩壊する。その時社会を支配するのは、暴力である。すべての暴力を抑え込むことのできる強力な武装集団が現れるまで、この状態は永遠に続く。こうなると、革命の理想や理念は関係なくなる。武装闘争に勝つことだけが目的となり、その他のことは構っていられない。こうした状態では、一般に下層階級出身者が優秀な戦闘員となり、彼らを束ねるのに成功した集団が最終的な勝者となる。
最強の集団が勝ち残るまでの長い戦乱の中で、以前の上層階級は一掃され、上層階級に属しながら革命を支持した者も容赦なく粛清される。
経済的に恵まれながら、知的な関心から革命思想を抱くようになった若者に対し、私は共感するものであるが、革命の現実は残酷であり、出発点の理想を否定してしまう結果に終わるのが常である。
「アレッポに帰りたい」。シリアの活動家アヘド・ザズールはシリアの革命と5年間の内戦を振り返った。
===≒=====《裏切られたシリア革命》==========
My Arab Spring: Syria's revolution betrayed
アルジャジーラ 2016年3月16日
2011年の3月に革命が始まった時、私はダマスカス大学で英語の講師をしていた。当時何かが起ころうとしていると感じていたが、それが何かはわからなかった。20011年にシリアで起こることの予兆は以前からあった。例えば2000年代にダマスカスで起きていたことである。
2000年にバシャール・アサドが大統領になった時、私は12歳だった。バシャールの就任後間もなく、ダマスカスの春と呼ばれた民主化運動が起きた。いくつもの公開討論が行われ、あらゆる問題が議題になった。
新大統領は国民に自由を与えたが、その期間は短く、強権的で残酷な弾圧が後に続いた。開いたドアはすぐに閉じられ、国民は不満を持った。40年ぶりにシリア国民は自由に議論する機会を得たが、政治と文化についての討論はすぐに禁止された。希望と期待に満ちていた国民は、突然恐怖におびえるようになった。
2005年から2011年までのシリアは最悪だった。
両親は子供たちに対し抑圧的だった。彼ら自身弾圧を経験し、体制の残虐性を知っていたからである。
私の家族は政治に関心があり、私は政治について話すことに慣れていた。私の父は野党である社会連合に所属しており、母はダマスカス宣言に署名していた。
(注)ダマスカス宣言:2005年野党連合が複数政党制を要求し、声明を出した。さまざまな団体と個人が宣言の起草に参加した。彼らは段階的で平和的な民主主義への移行を目標とし、すべての市民の平等を求めた。この時点ではイスラム教に基づく制度を要求した団体はほとんどなかった。イスラム主義が台頭するのは2011年以後である。
この野党連合は2007年ー2009年に主導権争いが起き、まとまりを失った。主要メンバーは2011年夏に「シリア国民評議会」を結成し、主要な国外反対派となった。彼らは外国からの援助の受け皿となった。「シリア国民国民評議会」は翌年「シリア国民連合」に合流した。。(注;終了)
体制の抑圧が厳しかった2005年、私は大学に入学した。両親の政治的見解の影響を受けることはなく、私は自分から著名な反対派が書いた本を読み始めた。読めば読むほど、私の疑問に対する答が得られず、さらに疑問が生まれた。「どうして若者たちが獄にいるのだろう? タル・マルヒのような若いブログ作家がなぜ投獄されたのだろう?」
2009年私はブログを書き始め、サイト名を「風」と名付けた。ブログを書くきっかけは、マルヒの公開裁判だった。彼女は5年の刑を言い渡された。これを不服とする反対運動が持ち上がった。マルヒは逮捕時17歳であり、このことが原因で私は政治活動家になった。
家庭内では私は政治討論をしていたが、大学では政治的な話を避けた。私だけでなく、ほとんどの大学生が政治の話をするのを恐れていた。子供が政治について考えを述べることを、両親は許さず、政治的な本を読むのを許さなかった。両親は政権の残酷さを知っていったので、子供に対して抑圧的だった。子供は体制の残酷さを知らず、親の理不尽な厳しさに苦しんだ。政治的な話や読書は隠れてしなければならない、と私の親は私に警告した。それにもかかわらず、私は2011年、ダマスカスの「3月15日抗議」に参加した。
ネットのフェイスブックで、抗議への呼びかけを知り、私は参加した。ネットの交流サイトに、治安部隊に逮捕された少女の写真が掲載されていた。翌日(16日)は内務省の前でデモが行われたが、私は恐ろしくて、参加しなかった。
この2日間は、私が夢見ていた革命が現実となった日だった。これまでシリアで、このようなことが起きたことがなかった。
3月18日、ダラアの出来事が起きた。数人の市民が死亡し、さらなるデモの原因となった。起きるはずがないと思われていたことが、起きていた。ダラア以外の都市でも抗議が起きた。ダマスカス、ホムス、バニアスなどである。人々は恐れずに要求を主張した。3月18日はこれまでにない美しい日だった。
私の夢が実現しようとしていた時に、親の意向により私はダマスカスを去らねばならなかった。ダマスカスに別れを告げて、空港でダマスカスの風景を写真に撮った。
3月18日以後、シリア国民は再び沈黙させられた。ダラアの人々だけがその後も一週間抗議を続けた。19日と20日、死者のための葬列に多くの住民が参加した。治安部隊がダラアを包囲した。その週軍隊が住民を虐殺した。しかし人々は沈黙しており、私は絶望した。
私の絶望に反し、一週間後(25日)ダラアで大きなデモが起きた。私は喜んだ。ダラアで起きたことは大きな影響力を持った。多くの都市でデモが起きた。その中でハマのデモは異色であり、「ハマの春」と呼ばれた。ハマの知事公認で、カーニバルが開催された。ハマの知事は他の知事と異なっており、抗議する人々に発砲することを禁じた。この時期のデモでは、ハマのデモの写真が最も美しい。
しかし事態は悪化した。2011年の5月、両親の強い勧めに従い、私はシリアを去った。私が3月15日のデモに参加したことを、父は知っていた。逮捕された者が、特に女性が情報機関によって拷問され、虐待されることを、父は知っていた。サウジアラビアに行け、と父は私に強制した。私はサウジでの居住許可を得ていた。私はシリアを去るのがつらかった。ダマスカスの空を見るのは最後だと考え、空港で写真を撮った。夢が実現しようとしている時にシリアを去るのは悲しかった。私の友人が数名殺された。2012年9月、パレスチナ人のアナス・ムシムシはハマで逮捕され、拷問されて死んだ。生前彼は、ビデオ・ブログを投稿していた。彼は自分の仕事をして善良な生活をしたかっただけなのに。
将来シリアの子供たちが幸福でより良い生活を送れるようになるだろうと考えることが、唯一のなぐさめだ。
シリアを去ってから、私は実名で話す機会を得た。私の怒りを知って、父は外国での反政府活動を許可してくれた。
友達とブログを始めた。私の仲間はこれまで文章を書き、仲間だけに公開して、一般には公開しなかった。私は偽名でブログを立ち上げることを提案した。そしてキブリトいう名前のこのブログは、革命を支持する最初のブログの一つとなった。多くの人が偽名で投稿してきた。私は3年半、編集長を務めた。私は「7月24日運動」という革命グループに参加し、シリア内外の人々と一緒にイベントを企画した。革命のために死んでゆく人々を見て、私はもっと活動をしなければない、といつも感じていた。
そして国外にいる人々をまとめる連絡チームを組織し、寄付を集めて国内の反政府グループに送った。
私は主にメディアの仕事をすることに決めた。政府系のメディアも、革命を支持するメディアも出来事を公正に伝えていないからだ。革命派の報道員はエリート的でありすぎたり、ポピュリスト(=大衆迎合主義者)だったりする。一方若者はネットの交流サイトに頼りすぎ、分裂し、多くの分派に分かれている。宗派争いが生まれ、またイスラム主義者と世俗主義者の対立が生まれている。それによって革命を台無しにしている。
自由シリア軍が成立すると、ネットの反政府グループはいくつもに分裂した。世俗主義者とイスラム主義者の対立に加え、武力闘争を支持する者と反対する者が対立した。同時に宗派派争いも生まれた。
革命の当初はこのような分裂がなかった。スローガンは「革命万歳!スンニとドゥルーズとアラウィの革命・・・」だった。
これら対立するどのグループにも属さない人々もいる。私もその一人だ。私はどのグループに所属すべきか判断できなかった。そもそもこうした分裂は間違っている、と感じた。
彼らは共通の対場に立って討論できない。そして革命を破壊している。
革命の3年目の2013年、私はイドリブに行った。3日だけの滞在だった。イドリブに行って何をするつもりか、と質問された時、私は空から落ちてくる「たる爆弾」の下に立つつもりだ、と答えた。国内のシリア人が体験していることを自分も体験してみたかった。2015年イドリブは反政府軍によって解放された。
アレッポにも行ってみたいが、危険だからやめろと言われている。私はイドリブとアレッポに近いトルコのガズィアンテプに時々行く。
私の家はダマスカス市内のジョバルにあるが、ジョバル地区は破壊されてしまった。写真に写っている私の家は部分的に破壊されていた。家は新築されたばかりだった。イドリブにあるもう一つの家は、壊されていない。他の地域から逃げて来た親戚が住んでいる。
私がジョバルに住んでいた時、週末になると政権は電話を切断した。毎週金曜日には家の正面にあるモスクが、死者の名前を告げた。武装した秘密警察が若者たちを追いかけて路上を走るのを、私はいつも目にした。スカイプで友人と話しながら、私は次のような歌詞の歌を歌った。
「恥を知れ! 非武装の市民に発砲する…小さな子供を逮捕するなんて! 同じ国の若者が私の子供を殺す! 恥を知れ!
これは悲しい歌だ。このようなことが起きることを、私は予想していなかった。本当に失望した。私を苦しめるのは、自分がシリアのために命を犠牲にした人々の一人ではないことだ。私を慰めるのは、将来シリアの子供たちは、幸福でより良い人生を送ることだ。
子供たちは今苦しみ、すべてを奪われている。このように悲惨な境遇を経験した子供たちは、平和な生活を大切にするだろう。彼らは知恵を得るだろう。
かつて私たちは希望と期待を持っていたが、突然恐怖におびえるようになった。
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