たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

裏切られたシリア革命 - 活動家が5年前を振り返る

2017-01-29 01:19:12 | シリア内戦

 

前回まで、シリアの貧しい農民、さらには破産した農民について書いた。農村の過剰な弱年人口が極貧階級を形成した。彼らの多くが反対運動に流れ込み、運動の規模を大きくした。一方で、経済的には恵まれていながら、思想的に反体制派となった者もいる。フランス革命、ロシア革命の場合と同じで、体制を支えるべき階層から体制批判者が生まれ、革命の機運を盛り上げるのに貢献する。革命が表層的な改革だけで終了すれば、彼らは現在の指導者を追い落として、新しい指導者となる。しかし革命が中途半端で終わらず、どこまでも突き進んだ場合、 秩序が完全に崩壊する。その時社会を支配するのは、暴力である。すべての暴力を抑え込むことのできる強力な武装集団が現れるまで、この状態は永遠に続く。こうなると、革命の理想や理念は関係なくなる。武装闘争に勝つことだけが目的となり、その他のことは構っていられない。こうした状態では、一般に下層階級出身者が優秀な戦闘員となり、彼らを束ねるのに成功した集団が最終的な勝者となる。

最強の集団が勝ち残るまでの長い戦乱の中で、以前の上層階級は一掃され、上層階級に属しながら革命を支持した者も容赦なく粛清される。

経済的に恵まれながら、知的な関心から革命思想を抱くようになった若者に対し、私は共感するものであるが、革命の現実は残酷であり、出発点の理想を否定してしまう結果に終わるのが常である。

 

「アレッポに帰りたい」。シリアの活動家アヘド・ザズールはシリアの革命と5年間の内戦を振り返った。

===≒=====《裏切られたシリア革命》==========

         My Arab Spring: Syria's revolution betrayed

                    アルジャジーラ  2016316

 

2011年の3月に革命が始まった時、私はダマスカス大学で英語の講師をしていた。当時何かが起ころうとしていると感じていたが、それが何かはわからなかった。20011年にシリアで起こることの予兆は以前からあった。例えば2000年代にダマスカスで起きていたことである。

2000年にバシャール・アサドが大統領になった時、私は12歳だった。バシャールの就任後間もなく、ダマスカスの春と呼ばれた民主化運動が起きた。いくつもの公開討論が行われ、あらゆる問題が議題になった。

新大統領は国民に自由を与えたが、その期間は短く、強権的で残酷な弾圧が後に続いた。開いたドアはすぐに閉じられ、国民は不満を持った。40年ぶりにシリア国民は自由に議論する機会を得たが、政治と文化についての討論はすぐに禁止された。希望と期待に満ちていた国民は、突然恐怖におびえるようになった。

2005年から2011年までのシリアは最悪だった。

両親は子供たちに対し抑圧的だった。彼ら自身弾圧を経験し、体制の残虐性を知っていたからである。

私の家族は政治に関心があり、私は政治について話すことに慣れていた。私の父は野党である社会連合に所属しており、母はダマスカス宣言に署名していた。

 

 (注)ダマスカス宣言:2005年野党連合が複数政党制を要求し、声明を出した。さまざまな団体と個人が宣言の起草に参加した。彼らは段階的で平和的な民主主義への移行を目標とし、すべての市民の平等を求めた。この時点ではイスラム教に基づく制度を要求した団体はほとんどなかった。イスラム主義が台頭するのは2011年以後である。

この野党連合は2007年ー2009年に主導権争いが起き、まとまりを失った。主要メンバーは2011年夏に「シリア国民評議会」を結成し、主要な国外反対派となった。彼らは外国からの援助の受け皿となった。「シリア国民国民評議会」は翌年「シリア国民連合」に合流した。。(注;終了)

 

体制の抑圧が厳しかった2005年、私は大学に入学した。両親の政治的見解の影響を受けることはなく、私は自分から著名な反対派が書いた本を読み始めた。読めば読むほど、私の疑問に対する答が得られず、さらに疑問が生まれた。「どうして若者たちが獄にいるのだろう? タル・マルヒのような若いブログ作家がなぜ投獄されたのだろう?」

2009年私はブログを書き始め、サイト名を「風」と名付けた。ブログを書くきっかけは、マルヒの公開裁判だった。彼女は5年の刑を言い渡された。これを不服とする反対運動が持ち上がった。マルヒは逮捕時17歳であり、このことが原因で私は政治活動家になった。

家庭内では私は政治討論をしていたが、大学では政治的な話を避けた。私だけでなく、ほとんどの大学生が政治の話をするのを恐れていた。子供が政治について考えを述べることを、両親は許さず、政治的な本を読むのを許さなかった。両親は政権の残酷さを知っていったので、子供に対して抑圧的だった。子供は体制の残酷さを知らず、親の理不尽な厳しさに苦しんだ。政治的な話や読書は隠れてしなければならない、と私の親は私に警告した。それにもかかわらず、私は2011年、ダマスカスの「315日抗議」に参加した。

ネットのフェイスブックで、抗議への呼びかけを知り、私は参加した。ネットの交流サイトに、治安部隊に逮捕された少女の写真が掲載されていた。翌日(16日)は内務省の前でデモが行われたが、私は恐ろしくて、参加しなかった。

 

 

この2日間は、私が夢見ていた革命が現実となった日だった。これまでシリアで、このようなことが起きたことがなかった。

318日、ダラアの出来事が起きた。数人の市民が死亡し、さらなるデモの原因となった。起きるはずがないと思われていたことが、起きていた。ダラア以外の都市でも抗議が起きた。ダマスカス、ホムス、バニアスなどである。人々は恐れずに要求を主張した。318日はこれまでにない美しい日だった。

 

私の夢が実現しようとしていた時に、親の意向により私はダマスカスを去らねばならなかった。ダマスカスに別れを告げて、空港でダマスカスの風景を写真に撮った。

318日以後、シリア国民は再び沈黙させられた。ダラアの人々だけがその後も一週間抗議を続けた。19日と20日、死者のための葬列に多くの住民が参加した。治安部隊がダラアを包囲した。その週軍隊が住民を虐殺した。しかし人々は沈黙しており、私は絶望した。

私の絶望に反し、一週間後(25日)ダラアで大きなデモが起きた。私は喜んだ。ダラアで起きたことは大きな影響力を持った。多くの都市でデモが起きた。その中でハマのデモは異色であり、「ハマの春」と呼ばれた。ハマの知事公認で、カーニバルが開催された。ハマの知事は他の知事と異なっており、抗議する人々に発砲することを禁じた。この時期のデモでは、ハマのデモの写真が最も美しい。

しかし事態は悪化した。2011年の5月、両親の強い勧めに従い、私はシリアを去った。私が315日のデモに参加したことを、父は知っていた。逮捕された者が、特に女性が情報機関によって拷問され、虐待されることを、父は知っていた。サウジアラビアに行け、と父は私に強制した。私はサウジでの居住許可を得ていた。私はシリアを去るのがつらかった。ダマスカスの空を見るのは最後だと考え、空港で写真を撮った。夢が実現しようとしている時にシリアを去るのは悲しかった。私の友人が数名殺された。20129月、パレスチナ人のアナス・ムシムシはハマで逮捕され、拷問されて死んだ。生前彼は、ビデオ・ブログを投稿していた。彼は自分の仕事をして善良な生活をしたかっただけなのに。

将来シリアの子供たちが幸福でより良い生活を送れるようになるだろうと考えることが、唯一のなぐさめだ。

シリアを去ってから、私は実名で話す機会を得た。私の怒りを知って、父は外国での反政府活動を許可してくれた。

友達とブログを始めた。私の仲間はこれまで文章を書き、仲間だけに公開して、一般には公開しなかった。私は偽名でブログを立ち上げることを提案した。そしてキブリトいう名前のこのブログは、革命を支持する最初のブログの一つとなった。多くの人が偽名で投稿してきた。私は3年半、編集長を務めた。私は「724日運動」という革命グループに参加し、シリア内外の人々と一緒にイベントを企画した。革命のために死んでゆく人々を見て、私はもっと活動をしなければない、といつも感じていた。

そして国外にいる人々をまとめる連絡チームを組織し、寄付を集めて国内の反政府グループに送った。

私は主にメディアの仕事をすることに決めた。政府系のメディアも、革命を支持するメディアも出来事を公正に伝えていないからだ。革命派の報道員はエリート的でありすぎたり、ポピュリスト(=大衆迎合主義者)だったりする。一方若者はネットの交流サイトに頼りすぎ、分裂し、多くの分派に分かれている。宗派争いが生まれ、またイスラム主義者と世俗主義者の対立が生まれている。それによって革命を台無しにしている。

自由シリア軍が成立すると、ネットの反政府グループはいくつもに分裂した。世俗主義者とイスラム主義者の対立に加え、武力闘争を支持する者と反対する者が対立した。同時に宗派派争いも生まれた。

革命の当初はこのような分裂がなかった。スローガンは「革命万歳!スンニとドゥルーズとアラウィの革命・・・」だった。

これら対立するどのグループにも属さない人々もいる。私もその一人だ。私はどのグループに所属すべきか判断できなかった。そもそもこうした分裂は間違っている、と感じた。

彼らは共通の対場に立って討論できない。そして革命を破壊している。

 

革命の3年目の2013年、私はイドリブに行った。3日だけの滞在だった。イドリブに行って何をするつもりか、と質問された時、私は空から落ちてくる「たる爆弾」の下に立つつもりだ、と答えた。国内のシリア人が体験していることを自分も体験してみたかった。2015年イドリブは反政府軍によって解放された。

アレッポにも行ってみたいが、危険だからやめろと言われている。私はイドリブとアレッポに近いトルコのガズィアンテプに時々行く。

私の家はダマスカス市内のジョバルにあるが、ジョバル地区は破壊されてしまった。写真に写っている私の家は部分的に破壊されていた。家は新築されたばかりだった。イドリブにあるもう一つの家は、壊されていない。他の地域から逃げて来た親戚が住んでいる。

私がジョバルに住んでいた時、週末になると政権は電話を切断した。毎週金曜日には家の正面にあるモスクが、死者の名前を告げた。武装した秘密警察が若者たちを追いかけて路上を走るのを、私はいつも目にした。スカイプで友人と話しながら、私は次のような歌詞の歌を歌った。

「恥を知れ! 非武装の市民に発砲する…小さな子供を逮捕するなんて! 同じ国の若者が私の子供を殺す! 恥を知れ!

これは悲しい歌だ。このようなことが起きることを、私は予想していなかった。本当に失望した。私を苦しめるのは、自分がシリアのために命を犠牲にした人々の一人ではないことだ。私を慰めるのは、将来シリアの子供たちは、幸福でより良い人生を送ることだ。

子供たちは今苦しみ、すべてを奪われている。このように悲惨な境遇を経験した子供たちは、平和な生活を大切にするだろう。彼らは知恵を得るだろう。

 

かつて私たちは希望と期待を持っていたが、突然恐怖におびえるようになった。

=================(アルジャジーラ終了)

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シリア内線の原因: 貧しい若者の増加

2017-01-26 22:35:51 | シリア内戦

 

シリア内戦はアラウィ派政権に対するスンニ派の反乱であると言われるが、他の点に注目する識者もいる。貧困層と極貧層の存在である。前回までの3回、極貧層の多くは農民と元農民である。農地が砂漠となり、農民は一切を失い流民となったこと、またその原因について、ド・シャテルが詳しく書いており、前3回訳した。シリアの気候は周期的に雨が少ない年があり、2007年・2008年はそういう年であり、しかも従来よりもさらに雨が少なかった。しかし、大河ユーフラテスが枯れ川になったわけではなく、ユーフラテスの水を利用する地域はなんとか農業を続けることができた。砂漠となったのはユーフラテスから遠く離れ地域である。

50年前にシリア政府は、砂漠地帯での農業に挑戦し、成功した。井戸を深く掘り、地下水をくみ上げたのである。この地下水農業によって農行生産が向上し、シリアの経済成長に貢献した。

しかしシリアの砂漠地帯での農業には自然条件の限界があり、乾燥地帯の地下水の層は薄く、長年水をくみ上げた結果枯渇してしまい、農地は砂漠に戻ってしまった。地下水に頼っていた農業は全滅し、農民は破産した。シリア砂漠での地下水農業は失敗に終わった。

以上がド・シャテルの結論である。

 

201112月のフォーリン・ポリシーによれば、3月以来9か月間のデモで、市民4000人が死亡し、人々はアサド大統領の処刑を求めている。この記事は3月以来のデモを、少数のに対する極貧階級としている。極貧階級は農民・元農民であり、富裕階級は政権に取り込まれた人々である。当然富裕階級にはスンニ派も含まれる。

 

======《反乱を大きくした原因:人口過剰》========

An extraordinary population boom fuels the revolt against Bashar al-Assad's regime.

     By David Kenner   2011128

3月半ば以来シリアではデモが続いている。デモのたびに人々は殺され、これまでの9か月間に4000人の住民が死亡した。当初民主化を求めていた住民は、今ではアサド大統領の処刑を求めている。

先月(11月)カイロで反対派の代表が政府と話し合いをしたが、反対派の代表は卵を投げつけられた。多くの反対派民衆はアサド政権との妥協を望んでいない。

政権と妥協を拒む真の反対派は、どういう人たちだろうか。急激な人口増加の結果、シリアでは広い地域の住民が無産者となった。貧困に苦しむ彼らは怒っている。

1960年代から1990年代の初頭まで、シリアの人口は急速に増大した。1963年に530万だった人口が1986年には1006万になった。その後の25年間に再び倍増し、現在2300万となっている。1980年代の半ばまで、シリアの急激な人口増加率を超える国は、ルワンダとイエメンだけだった。

シリアの人口増加は農村に集中しており、層の厚い極貧階級を生み出した。最近増加率は鈍ってきているが、人口増加率の高いエジプトと同程度であり、チュニジアを超えている。

シリアの人口増加の高い地域は、反対運動の大きい地域と重なっている。最初に大きな反乱が起きた南部のダラアから東部のデリゾールまで、見捨てられた農村地帯で反乱が起きている。農村を捨てた農民はダマスカスやホムスの周辺部や郊外に移住したが、そこでも反乱が起きている。他には反抗と弾圧の長い歴史を持つハマである。

シリアの人口増加はもちろん自然増加によるものではあるが、政府が後押ししている。1956年計画局の経済分析主任のヘルバウニが「人口抑制政策は我が国には適さない」と主張した。「我が国には、マルサスの人口論を信ずる者はいない」。

人口増加が著しかった1980年代に大統領だったハフェズ・アサドは前任者の政策を続け、避妊を奨励しなかった。「人口増加は社会と経済の発展を刺激した」とアサドは語った。彼の政府は1987年まで出産を奨励し、10人以上の子供を持つ家庭に賞賛のメダルと物品を与えた。

その結果シリアはアラブ世界で若年人口が最も最も多い国となった。1960代から1990年代まで人口の半数が15歳以下だった。70歳以上の人口は3%だった。最近になって出生率は低下しているものの、現在人口の60%が20歳以下である。

高い出生率が続いた60年間に、社会は一変した。大戦が終わった1945年、ハフェズ・アサドは子供だったが、ダマスカスは人口30万の活気のない都市だった。彼が政権を取った1970年ダマスカスは人口は80万を超えた。1980年代の終わりには、300万にまで増えた。(この数字はPatrick Seales Asad: The Struggle for the Middle East.より)

 

人口増加によって商・軍複合体が形成された。1963年バース党が政権を取ったとき、シリアには100万長者が55人しかいなかった。(シリア・リラでの100万)1973100万長者の数は1000人になり、1976年には3500人になった。その中の10%だけで1億リラ(2500万ドル)所有していた。

シリアは中央統制経済だたので、金持ちになる道はハフェズ・アサドに信頼されるか、バース党内で出世することだった。このことはバシャールの時代になって加速した。バシャールの従兄弟ラミ・マクルーフは億万長者であり、シリア経済の60%を支配している。

バシャールはダマスカスとアレッポの振興富裕層と同盟する一方で、田舎の子供たちは寒さの中で震えていた。

出生率が高かった時期、シリアの農村では都会の3倍の新生児が生まれていた。田舎の若者たちは成功することを夢見て

拡大する都会に移った。こうして都市は人口過剰になっていった。

田舎の若者たちは都会に出ようが、田舎にとどまろうが貧困から抜け出すことができないことに気付いた。2004年の政府と国連共同の報告は貧富の差が拡大していることを指摘し、「シリアの経済成長は貧しい者とは無関係である」と述べた。

シリアの教育制度は貧しい家庭の子供にとって有利な就職への橋渡しとならなかった。

2009年の政府調査によれば、半数以上の生徒が中等教育を終えずに退学した。これらの生徒は、学校教育は最初の仕事に役に立たなかった、と述べた。むしろ血縁関係や友達が就職に役立った、と述べた。同報告はこうした傾向は好ましくない、としている。

農村部の過剰な若年層が貧困階級を形成している時にアラブの春が起きた。

数世代にわたりアラウィ派は山から下りて、都市に移住し最後には権力者となった。それと同じように最近数十年農村から都市に移住した貧しい農民が、新しい権力者となるかもしれない。アラウィ派の時代が終わり、新しい時代が始まろうとしている。

=============(フォーリン・ポリシー終了)

 

   〈人口増加を望んだシリア〉

シリアはヨーロパより先に文明化した地域であり、ギリシャ・ローマ時代より古いに文明が栄えた。中世にはイスラム帝国の首都となり、第一次大戦末期トルコからの独立を目指したアラブ軍の指導者ファイサルは、新生アラブの首都をダマスカスにするつもりであった。こうした過去の幻影に惑わされて、私はシリアは中規模国家だと、なんとなく思っていた。

しかし1935年シリアの人口はわずか203万だった。経済規模も小さく、シリアは小国だった。面積だけが中規模国家だった。

シリアだけでなく、大一次大戦後アラブ諸国はオスマン帝国から独立したものの、経済発展が遅れた貧しい地域だった。

このことが、シリア政府が破滅的な農地造成を続けた理由である。独立以来、経済発展と人口増加は国家の重要政策となった。第二次大戦後ソ連に接近したこともあり、生産技術の革新が遅れた。技術革新による経済成長という選択肢はなく、伝統的な農業分野での増産が近道だった。砂漠地帯の緑地化は最初成功した。

毛沢東の「大躍進」政策に比べれば、はるかにまともな政策だった。毛沢東は手工業による鉄鋼増産を推進したのである。農家が大釜で鉄鋼生産に取り組み、農業に専念できず、大規模な飢饉が発生した。

シリアでは最初成功だった。砂漠地帯で農業が行われ、農業生産が増え、人口増加を支えた。

毛沢東の「大躍進」に比べればはるかに、はるかに小さな失敗であるが、シリア内戦の大きな要因になった点では、致命的な失敗であった。

シリア政府が破滅的な政策を推進した理由を付け加えたい。

 

オスマン末期のシリアは極めて衰退した人口希薄地域になっていた。私が驚いた以上に、シリアの指導者は過去の栄光と現在の貧しい現実のギャップに苦しんだ。にもかかわらず、将来に対する野望は大きかった。エジプトとともに、アラブの指導国になろうと思った。少し前まで砂漠暮らしサウジアラビアの支配者を見下し、イラクを弟分ぐらいに思っていた。

シリアの指導者には、自国がアラブ諸国の中で中心的な国であるという自負があり、それにふさわしい国力を持ちたいと願った。国力の中身は経済力と武力であるが、人口規模も構成要素である。

シリア政府は、経済発展のためにも、政治的な野心のためにも、必要な人口が不足していると、考えていた。1970年半ば人口増加によって社会問題が生まれているという意見があったにもかかわらず、1987年になっても、大統領は出産を奨励した。シリアはエジプトのように真剣に人口削減に取り組むことはなかった。国内の安定より、アラブ諸国内での自国の地位が優先された。

その結果大量の貧しい若者を抱えてしまった。彼らは革命の地雷原となった。革命の先陣を切るのは、イデオロギーの熱心な信奉者であるが、将来に失望した大勢の若者が後に続いた。

バシャール・アサド大統領は破産した農民の救済に取り組んだようであるが、餓死者を救ったとしても、極貧者を放置した。それがシリア内戦を引き起こした。

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農業政策の失敗 - シリア内線の背景

2017-01-20 03:27:54 | シリア内戦

 

=====《国家戦略としての食糧増産》========

The Role of Drought and Climate Change in the Syrian Uprising:Untangling the Triggers of the Revolution

    著者 Francesca de Châtel   2014127

 

第二次大戦後、シリアでは農産物の増産が国家戦略となり、降水量の少ない地域では、農業用水の確保が必須となった。ユーフラテス流域の農地に供給する水の量を調節するため、1950年代以後ダムが建設された。

農地を増やすことに心を奪われ、農業政策者は自然資源が有限であることを忘れた。

無謀な増産計画と長期的な観点の欠如により、国民に食糧を供給する農業地帯を荒廃させてしまった。また農産物はシリアの重要な輸出品であり、外貨獲得の面でも損失になった。

これまで60年間シリアの農業生産量は増え続けた。シリアの農地面積は20年間で2倍になった。1985年には65.1万ヘクたータールだったが、2010年には135万ヘクたータールに増えた。これらの農地の60%は地下水を利用しているが、将来枯渇することを予測せずに汲み上げられてきた。

シリアの水資源の90%が農業用水として使われており、きわだって農業国の特徴を示している。しかし灌漑方式が旧式であり、貴重な水を無駄使いしている。川の氾濫にまかせるだけである。またコンクリートの水路は覆いがなく、10%-60%が蒸発してしまう。

農地を増やしたた当然の結果として、水が不足するようになった。2007年シリアの水資源は156億立方メートルと推定されるが、同年の水の使用量は推定で192億億立方メートルだった。使用超過分の36億立方メートルはダムの貯蔵水と地下水で補った。2007年シリアの一人当たりの水使用量は年間882立方メートルであり、シリアは水の少ない国となった。

(注)シリアは肥沃な三日月地帯の一部をなし、ダマスカスはオアシス都市として繁栄してきたのであり、乾燥地帯の中東諸国の中では比較的水に恵まれていた。

 

干ばつの原因は人口増加と気候変動による少雨であると政府は説明するが、長期的な水管理政策の欠如と無謀な農地拡大こそが真の原因である。

第二次大戦後シリアの人口は急速に増加した。1950年代は330万人だったが、現在は約2140万人である。この爆発的な人口増加は、1950年代以後政府が人口増加を推進したことにもよる。1970代政府は避妊を禁止した。1970代シリアの年間人口増加率は3.75%だった。現在2.94%に下がったが、中東諸国の中で最高である。このまま推移すれば、2050年シリアの人口は3700万になる。

人口が増加したので食糧の増産が必要になり、また戦略的な見地から食糧の自給を維持しなければならず、農地を拡大せざるを得なかった、と政府は説明する。しかし小麦の生産目標を年に400万-500万トンとしたのは、国内の需要を超えている。また食料ではない綿花栽培のために使用される水の量は、小麦に次いで2位である。農産物は外貨獲得の輸出品として重視されたのである。東北部で無制限に水を使用するなら、いずれ地下水が枯渇することは明らかだったにもかかわらず、新たに土地を埋め立て農地を増やす政策は変更されなかった。2011年デリゾール県とハサカ県において40万ヘクタールの埋め立てが計画された。

水は国家の戦略資源であり、重要な機密事項である。これはシリアに限ったことではなく、乾燥気候に属する中東では特にそうである。そのためシリアの水源管理の実態を知るのは政府だけであり、在野の専門家が口を出す余地がなく、緊急事態が起きてもそれを認識しなかった。機能不全に陥っている政府の農業部門は、地下水が枯渇しかかっていることに気づかなかった。

政府内内でも水資源に関する情報は共有されなかった。各省・研究機関が得た情報は他の省・研究機関に対して秘密にされた。一般的な情報でさえ、他の省・研究機関に情報を漏らすには、面倒な手続きが必要だった。また県政府の間でも情報の交換がなかった。

水資源についての調査方法が省によって異なり、調査結果が互いに矛盾した。こうした混乱によって、政府は一貫した政策を決定できなかった。政府の省を含め、22の会議・委員会・理事会が水管理に直接、間接に関わっていたが、形骸化しており、有効な対策をできなかった。

ハフェズ・アサドの時代(1963年-2000年)に、農地を増やすことと水源開発が始まったが、関係各省はそれぞれ独立しており、互いに争った。

これは2000年にバシャールが大統領になってからも変化がなかった。農業行政に関わる各省の間には協力関係がなく、農業用水に関する統計は省によって異なり、最新のものではなかった。農業・灌漑省の官僚のほとんどは中等教育しか受けておらず、大卒者は非常に少なく、先見の明に富む者はいなかった。下級官僚の人数は多かったが、40%ー60%は小学校卒だった。

上級官僚であっても、給料は低く、省内に部族の主従関係と縁故関係が持ち込まれ、汚職があたりまえになった。

以上のことから、政府の野心的な計画は決して実行されなかった。特別委員会が設置され、水源管理の近代化ついて様々な角度から研究されたが、最終報告はされなかった。法律ができても、きちんと実行されなかった。

地下水の枯渇が明らかになっても、水源管理の見直しはされなかった。大河から遠い地域の農民は昔から雨水によって作物を育ててきた。飲み水については、人力で浅い井戸を掘った。乾季の終わりには井戸水は底をつくが、雨期に再び満たされた。地下水の水位は保たれた。

しかし1970年代に大型のディーゼル動力ポンプが導入され手から、地下水のレベルが急速に低下した。1970年代以後、シリア中の農民が数百の新しい井戸を掘り、地下水に頼る農地を拡大した。2000年代になっても新しい井戸が掘られ続けた。1999年に井戸の数は135000だったが2010年には23万に増えた。2010年井戸の57%は無許可だった。

1980年代と1990年代地下水のくみ上げ量は1970年以前の5倍だった。最悪の例はハマ県のMhardeh とイドリブ県の Khan Shaykhunであり、1950年代と比べ、2000年には地下水が100メートル低下した。他の地域も同様で、特に1993年ー2000年地下水の使用量が急増した。ダマスカス郊外のグータ地区とその周辺では、地下水が一年で6メートル低下した場所もある。

1980年代と1990年代、政府は地下水の急速な低下を認識せず、地下水に頼る農地の拡大を奨励した。また綿花栽培のために新たな井戸を掘るのを支援した。農民は井戸を掘る動力ポンプを買う際、有利なローンをりようできた。また補助金によって燃料を非常に安く買うことができた。農民は低コストで深い井戸をほることができた。井戸を掘る許可と井戸の検査がずさんだったので、1980年代と1990年代数千の井戸が認可なく掘られた。

無許可で掘った井戸は2001年までに認可を申請するように、と政府が1990年代命令を出したが、効果がなかった。2005年政府は水資源保護法を制定し、違法な井戸掘削者に対罰金や禁固刑を科した。また井戸使用の許可を1年ごとの更新制にし、地下水の水位を調査した。しかし結果は汚職がひどくなっただけで、目的は達せられなかった。許可の更新を求める農民に対し、秘密警察と地元の役人がわいろを要求したのである。農民はこれを非常に憎んだ。井戸の数を減らすための法を実行する者がわいろを要求したため、井戸の数は増え続けた。

 

ハサカ県は1970年代以後人口が急増し、農地が拡大したが、地下水が枯渇し、1990年代多くの農民が土地を捨てた。地下水を大量にくみあげたため、たくさんの泉が枯れた。井戸が枯れ、もともと水量が少ない地下水も枯れた。1990年以後カブール川は夏になると水が消えた。トルコとの国境にあり、世界最大のカルスト泉であるラス・アルアイン泉は2001年以後水がなくなった。

ダマスカスの北ノネブク地区のぶどう畑と小麦畑は有名だったが、砂漠になった。2009年ここの元農民は不動産開発業者に変身している。

==============(The Role of Drought and Climate Change ・・終了)

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破産した農民 ー シリア内線の背景

2017-01-16 17:00:47 | シリア内戦

 

=====《革命の引き金となったもの》========

The Role of Drought and Climate Change in the Syrian Uprising:Untangling the Triggers of the Revolution              

     著者 Francesca de Châtel   2014年1月27日

革命開始から2年経た現在(2013年7月)、命命は血なまぐさい争いに堕落した。死者10万人、数百万人が隣国に避難し、さらに425万人が国内で難民となっている。

シリア国民の蜂起は世界にとってだけでなく、シリア国民にとっても予想外だった。

2011年初頭チュニジア、エジプト、リビアの国民が自由を求と正義を求め街頭に繰り出し、ついには政権を転覆させた。これを見たシリアの人々は、驚嘆していた。しかし自分の国ではそうしたことは起きないとあきらめていた。

体制に対する彼らの不満は大きかったが、これまでの経験から、政権の弾圧に対する恐怖は他のアラブ諸国と同列ではなかった。シリアでは圧制に対する不満のほかに、経済的な不満も大きかった。急激な経済の自由化により、都市と農村の貧富の差が拡大し、失業者が増えた。貧困層が増加したにもかかわらず、2005年政府補助金が打ち切られた。2006年―2010年の干ばつにより、農村は砂漠と化した。

このような時に政府の役人は汚職で肥えていた。

さらに2011年以後様々な出来事が起き、抗議運動が内戦に転化した。世界有数の古い歴史を持つ都市を廃墟に変え、3割の国民の生活を破壊した。

 

経済的な要因がシリア内戦の背景にあることは確実だが、唯一の原因を特定するのは難しい。全体的な背景を無視して、特定の要因だけを強調するのは誤りだが、3つの経済的な要因が全体を構成する重要な部分であることは疑いない。

①それまで計画経済だったシリアが、2000年に市場経済を導入した結果、富裕層と貧困層の2極化がすすんだ。

②50年間の農地開発と大規模な水管理の失敗により、少雨が農村に破滅的な被害をもたらした。

③シリア政府は干ばつの被害を過小評価し、その結果起きた大惨事に向き合おうとしなかった。

 

③については、一般に気候変動による少雨の結果とされるが、現地視察の結果、私は少雨だけが原因ではなく、その対応に失敗したことが決定的な要因であるという結論に至った。農民は砂漠となった農地を捨て、都市の郊外にスラムを形成した。このことが、革命の引き金になった。長年にわたって農民の不満はくすぶっていたのであり、ついに爆発した。

干ばつはこれまで周期的に起きていたのであり、乾燥帯気候に属するシリアでは珍しいことではない。2007年と2008年シリアと同様に少雨であったイラク、イスラエル、ヨルダンでは、多数の農民の破産と栄養失調は起きていない。シリアでは以前から不作が続いており、2006年ー2009年の干ばつはさらなる追い討ちとなったのである。

同じレベルの干ばつ過去にも起きていたが、2007年と2008年のように甚大な結果を引き起こしたことはなかった。

 この結論は2006年―2009年の広汎な調査に基づいている。また2008年と2009年私はジャジーラ地方で現地調査をした。

(注)ジャジーラはユーフラテス上流地域を意味し、ハサカ県、ラッカ県、デリゾール県にまたがる地域である。

私は政府の官僚と話し、荒廃した農村から都市に移住した農民に聞き取りをした。聞き取りの場所は、ダマスカス、ダマスカス郊外、ダラア県、レバノンのベイルート郊外とレバノン山地である。

現地取材により得られた情報のほかに、手記や文章を読み、国連やメディアの報告を参考にした。

私が2009年に聞き取りをしたジャジーラ地方の農民は、熱い砂嵐がしょっちゅう起きて、作物が枯れてしまう、と嘆いた。シリア東部の草原(ステップ)が砂漠化してしまった、と農民は語った。、

急速な砂漠化の原因は少雨だけではなく、家畜が増え、草原の草を食べつくしたからである。1958年部族が解体され、草原が国有化された。乾燥地帯の植物は雨季と乾季の交代に適応して生きている。生態系が健全ならば、植物は長期の乾季にも耐えることができる。

シリアで最初の自然保護区(タリア保護区)での10年間の実験の結果、過度の土地利用と管理の失敗が砂漠化の原因であるとわかった。

2000年ー2010年研究チームが羊の放牧を禁止し、アンテロープだけに草を食べさせた。この地域では、植物は乾季を耐え抜き、雨期になると再び緑の草原となった。一方羊が放牧されている他の地域は砂漠となった。

砂漠と違い、ステップでは草が生え、放牧が可能であり、人々が生活している。これらの地域が砂漠化すれば、そこに住む人は飢え死にすることになる。したがって放牧地の砂漠化は大きな社会問題となる。これはシリアに限らず、国家を揺るがす不安定要因となる。

乾燥地帯では水の管理は不可欠であり、無制限な土地利用は自滅に至る。シリア東部の砂漠化は当然の結果であり、そこに住む農民の貧困は長年の問題だった。2011年3月、これがシリアで最初の反乱を引き起こした。

2007年と2008年シリアの雨量は長期の平均雨量の66%だった。雨が全く降らな地域もあった。シリア東北部は平均雨量の半分以下だった。ハサカ県は36%、デリゾール県は40%であるラッカ県はややましで66%である。

川の水を利用出来る農地では主要作物の収穫量は32%減にとどまったが、雨水だけに頼る農地では79%減だった。小麦と大麦の生産量については、前者は前年に比べ47%減、後者は67%減だった。

シリアの農業生産は壊滅的な打撃を受けた。シリアの小麦生産の長期平均は380万トンであるが、2008年と2009年は210万トンだった。シリアは15年ぶりに小麦の輸入国となった。

2008年と2009年シリアの他の地域では雨量が回復したにもかかわらず、東北3県(デリゾール、ハサカ、ラッカ)では雨量が回復しなかった。

2011年シリアで最初の反乱が起きたダラアでは、4年間干ばつが続いたと一般に報道されているが、これは誤りである。2008年と2009年ダラア県の雨量は回復していた。事実、2008年以後、東北部の農民ガダラア県に移住している。

ダラアの住民の抗議の最初の理由は、15人の子供が逮捕されたことだった。しかし間もなく政府の腐敗を批判するようになった。特に井戸を掘ることと水利用の認可が問題とされた。

 2009年と2010年、シリアの雨量は回復した。しかし東北部は雨の降り方が不規則だった。雨季の初めには雨が降ったものの、作物にとって水が必要な2月と3月、55日間雨が降らなかった。川の水を利用できる地域では、前年までの少雨が原因で菌による病気が広がり、軟質小麦が枯れてしまった。その結果2009年と2010年の小麦の生産量は平均の380万トンを下回り、320万トンであった。雨量が多かったので、政府は平均を上回る400万トンー500万トンを予測していた。

雨の少ない年が続いたので、シリアの農村は大きな打撃を受けた。特に東北部の被害は深刻だった。ジャジーラと呼ばれるこの地方は、国内で最も後進的な地域である。2006年以前のこの地方を描いたドキュメンタリー映画では、前近代的な農村共同体と極端に貧しい農民の生活が描かれている。1970年代にユーフラテス川に巨大なダムが建設されたことも、農業に悪影響を与えた。

ジャジーラには油田があり、国家の石油需要を満たしているにもかかわらず、ジャジーラ自体は貧しい。小麦や大麦などの主要作物を国家に供給し、国家はそれらを輸出しているにもかかわらず、ジャジーラは貧困率が高く、健康保険もなく、識字率が低く、農業に代わる職業もない。

2004年以後の統計によれば、アレッポ、ハサカ、デリゾールラッカ、イドリブの5県だけで、シリアの貧者の58%を占める。これらの県では、都市にも貧者が多い。かれらは1日2ドル以下の生活をしている。

1996年ー2004年にシリアの他の地域では貧困率が低下したが、東北部の農村地帯では上昇した。2006年ー2010年の干ばつによって、この傾向が加速した。

国連の調査によると、2008 年ー2011年に130万人が干ばつの被害を受け、その中の80万人は生活の手段を失った。干ばつが2年目や3年目になると、農民は方策がなかった。2年連続で収穫がないと、農民は種を得られなかった。牧畜をする人は、家畜が草を食べられないし、飼料もなかったので、家畜を売ったり殺したりするしかなかった。

農村では、もともと栄養失調の人が多かったが、さらに増えた。被害が大きかった地域では、8割の人がパンと砂糖入りのお茶だけで生きていた。被害大きかった3県の統計によれば、 2006 年ー 2010年栄養不足が原因の病気になる人が増えた。ラッカ県では、半年ー1年の乳児の42%が貧血だった。

2010年国連の推定によれば、シリアの人口の17%に相当する370万人がまともな食事をしていなかった。

これは2006年以後に始まったことではなく、すでに2002年・2003年の時点で、200万人が極貧だった。

シリアでは社会主義的な方針に基づき、生活必需品に対し国家が資金を出し、物価を下げていた。しかし2008年と2009年政府は多くの補助金を打ち切った。その結果ディーゼル油と肥料の値段が数倍上がり、ジャジーラ地方の農民にとって干ばつに劣らぬ苦難だった。彼らが土地を捨てる決断をする最後の要因になった。もちろんこれは他地方の農民とっても大きな負担だった。

アサド政権は統制経済から自由主義経済への移行を試みた。世界市場への参入なくして経済の発展はないからである。1990年代初頭、ソ連崩壊後の新生ロシアが同様のことを行った。短期間に実現しようとして大きく失敗した。アサド政権はロシアの失敗に学び、急激にではなく徐々に市場経済に移行することにsた。また移行目標を自由主義市場経済ではなく、「社会主義的な市場経済」とした。にもかかわらず失敗した。その結果2011年反乱が起きた。

1986以後の規制緩和は、農民にとって補助金を初めとする各種の援助の打ち切りを意味した。規制緩和は「第10次5年計画」(2006年–2010年)で加速した。5年計画の目的は、シリアをグローバル市場に開き、WTO(世界貿易機構)に加盟するための準備することだった。補助金に依存する経済は自由貿易と相いれなかった。のみならず国家予算の赤字が増大しており、補助金の打ち切りは経済的観点から必要な措置だった。

しかし貧困者の救済制度(セーフティ・ネット)が存在しないシリアでは、行き詰まった農民は見捨てられた。

 政府発表では、2005年と2006年シリアの就業人口の19.5%が農民とされていた。しかし実際には、40–50%が農民だと言われている。なぜなら非正規労働に流れた農民が増えているからである。2000年に農業が自由化されて以後、農業の仕事が激減した。労働人口の統計によれば、2001年ー 2007年46万人の農民が農業を捨てた。農業人口が33%減少したのである。これは全就労人口の10%にあたる。農業生産高は9%増加しており、生産効率が向上した。

2003年と 2004年は十分雨が降ったが、この2年間に最も多くの農民が農業を捨てた。

2008年5月ディーゼル燃料への補助金が廃止され、値段は急に5倍になった。シリアの農民は農地に水を引く際、ディーゼル動力で井戸や川の水をくみ上げる。収穫物を市場に運ぶ自動車の燃料もディーゼル油である。1960年代に動力を用いて地下水をくみあげる方法が導入され、増産につながったが、地下水の枯渇という問題を引き起こした。ディーゼルの値段が高騰すれば、地下水をくみ上げることが困難になり、地下水の回復の可能性が見えてくる。

農民がディーゼルを買えなくなるのは、長期的な観点からすればよいことなのだが、補助金の廃止が収穫後ではなく、実入りの最後の段階で行われたため、東北地方の農民は作物に水をやることができなくなった。収穫まで水を与えることができた農民は、収穫物を市場に運べなかった。

2008年ラッカのある農民は高い値段のディーゼルを買えず、収穫した赤トウガラシをアレッポの市場に運べなかったので、羊に食べさせた。

2008年と2008年土地を捨て、ジャジーラを去った農民の多くが同様の経験をした。

2009年5月、化学肥料に対する補助金が打ち切られ、値段が2倍になった。

2009年シリアの平均所得は月額242ドルであったが、農民の収入ははるかに少なく、農民の30%は月額109ドル以下である。

2009年の補助金廃止後、東北部の多数の農耕民と牧畜民が土地を捨て、職を求めて都市や南部の県に移住した。季節労働者としてアレッポやベイルートで建設業に従事することは、以前から一般的だったが、家族全員が移住することは少なかった。1999年ユーフラテス川にダムが建設された時、土地を失った農民がダマスカスに移住した。彼らは今もダマスカス郊外のハムリエムリエ地区に住んでいる。

2008年以後数十の家族がアラアの近くのMzeiriebキャンプに住んでいる。彼らの一部は10年前からこのキャンプで生活している。

 

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