20日シリア政府の特使がダラアに来て、市民の代表と直接会談したことを前回書いた。シリア政府は大きな譲歩をしたにもかかわらず、市民の多くを説得するに至らなかった。落書き少年たちの釈放は政府側の譲歩の象徴であったが、21日家に帰ってきた少年たちの身体に拷問の跡が残っていたので、親たちは怒りを新たにした。
政府の譲歩が実を結ばなかったのはこれだけが原因ではない。従来のシリア政府の基準からすれば、今回の譲歩は前例のない大きな譲歩であったが、市民の要求とは隔たりがあり、溝は埋まらなかった。また譲歩は一時的な、その場しのぎに終わるかもしれない、と怒れる市民は思っていた。
政府の使節がダラアに来た20日の時点で、政府とダラア市民の溝は深く、埋めようのないものだった。
20日のダラアについては前回書いたが、今回再び20日について、ニューヨーク・タイムズを訳す。内容は前回と一致する部分が多いが、抗議する市民の要求が詳しく書かれており、政府の譲歩とは隔たりがあることがよくわかる。また暴動の後に大統領特使が到着したのではなく、到着後に暴動が起こっていることがわかる。
同じ出来事についての報告なので、前回との重複部分があるが、観点が違うので、全文を訳す。
=======《警官隊が民衆に向けて実弾を発射>======
Officers Fire on Crowd as Syrian Protests Grow
3月20日、シリア南部の都市ダラアで、抗議する市民はバース党本部と他の建物に火をつけた。ダラアでは、18日以来3日連続抗議集会と警官隊との衝突が続いている。
目撃者の話によると、警官隊が実弾を発射し、少なくとも1名が死亡し、数十人が負傷した。
しかしながらアサド大統領は譲歩する姿勢を見せた。アラブ世界では大衆の怒りが反爆発し、反乱がおきている。シリア政府は自国が二の舞になることを未然に防ごうととしているようである。
シリアは大衆の抗議を残酷に弾圧する警察国家であり、アラブ世界を席けんする大衆蜂起の波とは無縁なように見えた。しかし先週になり、いくつかの都市でデモが起きた。その中でダラアのデモが最大である。10数人の少年の少年が逮捕され、住民が怒った。
20日、数千人が街頭に集まった。数日前からこれが日常化していた。
アサド大統領はデモで死亡した人々の家族に哀悼の意を伝えるため、使節をダラアに送った。使節団には外務副大臣のファイサル・マクダドと地方行政大臣タメール・アルハジが含まれていた。
数千の市民がオマリ・モスクの中とその周囲に集まり、要求を叫んだ。
①政治犯全員の釈放
②デモをする市民を射殺した者の裁判
③48年間続いている戒厳令の廃止
④より多くの自由
⑤邪悪な腐敗の根絶
民衆は声を合わせて叫んだ。「恐怖の支配下で生きるのはもういやだ」。
ダラア市の長老がアサドの使節団と交渉している間、街頭では騒乱が起きていた。抗議が激しくなると、警官隊が催涙ガス弾を発射した。これが市民を怒らせた。怒った市民は、中央広場に掲げられているアサド大統領の肖像画をひきはがした。すると警官隊が群衆に向けて発砲した。
抗議する市民はオマリ・モスクを野戦病院として使用した。負傷者の家族は負傷者を病院に連れて行くのを嫌がったからである。
デモ隊は警官隊の防衛線を突き破って進み、バース党本部と政府を象徴する建物に向かった。そして裁判所に火をつけた。大統領のいとこであるラミ・マクルーフが経営するシリア・テレ(電話会社)の支社にも火をつけた。
前日、一昨日と同様に、政府は警官が発砲したことを否定した。デモ隊と彼らに発砲した両者が外国の挑発者であるとした。
シリア国営放送SANAはインターネットで次のように述べた。
「扇動者が公立病院を襲撃し、公共の建物に放火し、市民を恐怖を与えた。またこれらの扇動者は警官隊に向けて発砲した。これに対し警官隊は撃ちかえさなかった。・・・・
政府は市民の安全と不動産を守る措置をとるだろう。・・・・
アサド大統領はダラアの市長を解任したと発表した。これは抗議する民衆が2日前要求したことである。罪があると判明した治安部隊職員は処分する」。
シリア国営放送はダラアの写真を掲載した。自動車が燃えており、黒煙が立ち上っている。
またシリア国営放送はスパイに対し警告し、次のように述べた。
「スパイが多くの治安部門で工作している。彼らは治安部門の高位の職員や将校であると偽っている。実弾を使用するよう、厳命されたと彼らは主張している。反乱の疑いがある集会を武力を用いて解散させよと命令された、と彼らは主張している」。
20日、ダラアに入るすべての道路は閉鎖されたままである。電話とインターネットはほとんど一日中切断されている。
==================(ニューヨーク・タイムズ終了)
20日の政府の対話姿勢は実を結ばなかった。18日に6人が死亡したことは決定的だった。もはやダラアの事態は後戻りできなくなった。
民衆の20日の要求内容はシリアの現体制を全面的に否定するものであり、革命の要求に等しかった。従来の基準からすれば、中央政府は大きな譲歩をしたが、抗議する民衆は、はるかに根本的な変革を要求していた。
ニューヨークタイムズは「20日、扇動者は警官隊に向けて発砲した」としか書いていないが、新華社電子版によれば、ダマスカス・プレス電子版は「20日、7名の警察官が死亡した」と伝えた。(Hindustantimes, NYT)
前回紹介したイスラエル・ナシヨナル・ニュースは「警察官7名死亡」としただけで、ニュース源を示していなかったが、シリアのメディアに基づいているのだろう。
20日デモをする市民の中に銃を持った者がいて、警官を7名射殺したという事実は重大である。「治安部隊が平和なデモに発砲した」という反対派の説明と矛盾し、アサド大統領の言葉の正しさを証明するからである。「デモの最初から治安部隊が死んでおり、平和なデモではない」。しかし詳しい状況は語られず、一般市民の証言もない。警備隊員7人が殺され状況、どのように反撃したかについて、何もわからない。
以上4月20日のダラアについて書いてきたが、4月18日について一言述べたい。
《ダラア 4月18日》
20日のデモが激烈になった原因の一つは、2日前(18日)のデモの際、市民6名が射殺されたことである。
これについて中央政府が「治安部門にスパイがいる」と発表したことは驚きである。スパイとは「外国と通じる裏切り者」ということだろう。18日に6人の市民を射殺したのはこれらのスパイだとしている。投石をするデモ隊を6人も射殺すのは、ゆきすぎである。投石は通常のやり方であり、部隊員の生命に危険が及ぶものではなかったようである。アラブの春で中東に世界の関心が集まっている時に、このように冷酷なやり方をするのは思慮がない。
これについてシリア政府は不可解な説明をしている。市民を射殺したのは治安部隊の中のスパイであるというのである。
4月18日は武器を持たない市民6人が射殺された日であり、シリア革命の発端となった日である。
治安部隊に裏切り者がいるという主張の検証は難しいので、とりあえず、複雑なシリアの治安部隊に関する基礎知識を調べた。治安部隊は数種類ある。
======= 《ISW :2011 struggle for syria》=======
シリアの治安部隊は複数あり、大統領がそれらすべてを統制することは難しいのではないか。このことが内戦の原因となったかもしれない。反政府デモを容赦なく鎮圧せよという方針があったとされるが、そもそも命令系統が一本ではないので、その方針は一部の部隊だけのものかもしれない。
まして外国メディアには、デモを鎮圧しているのがどの部隊であるかは、わからない。
まず中央の情報機関に付属する部隊がある。
①中央情報総局②空軍情報総局③政治保安総局④陸軍情報局。
4つの中央情報機関のなかで、空軍の情報機関が最も重要である。ハフェズ・アサド大統領が空軍将校だったこともあり、空軍の情報機関は他国に例がない権限と能力を有している。国内の治安維持も重要な任務のひとつである。
これらの中央部隊のほかに、各県は独自の警察と情報機関付属の治安部隊を有している。
《軍隊》
軍隊については、30万人の召集兵のほとんどがスンニ派である。
20万人の職業軍人は、ほとんどがアラウイ派である。将校の80%がアラウイ派である。
1960年以前は将校の60%がアラウイ派であったが、1963年のバース党革命後に将校になった者の90%がアラウイ派だった。
この時将校になった若者が、現在軍の上層部を占めている。アラウイ派の他に軍の要職を占めているのはドルーズ派やキリスト教徒のような少数民族である。
2011年8月、バシャール・アサド大統領はギリシャ正教徒のダウド・ラジハ将軍を国防大臣に任命した。政権に忠実なアラウイ派と少数民族だけに頼り、やむを得ずスンニ派の部隊を出動させるときは、アラウイ派で構成される情報組織を同伴させた。
シリア軍は5千両の戦車と5千両の装甲車を保有している。
=================(ISW 終了)