たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

シリア内戦の発端:ダラア 2011年3月20日

2016-07-31 16:13:00 | シリア内戦

   

 20日シリア政府の特使がダラアに来て、市民の代表と直接会談したことを前回書いた。シリア政府は大きな譲歩をしたにもかかわらず、市民の多くを説得するに至らなかった。落書き少年たちの釈放は政府側の譲歩の象徴であったが、21日家に帰ってきた少年たちの身体に拷問の跡が残っていたので、親たちは怒りを新たにした。

政府の譲歩が実を結ばなかったのはこれだけが原因ではない。従来のシリア政府の基準からすれば、今回の譲歩は前例のない大きな譲歩であったが、市民の要求とは隔たりがあり、溝は埋まらなかった。また譲歩は一時的な、その場しのぎに終わるかもしれない、と怒れる市民は思っていた。

政府の使節がダラアに来た20日の時点で、政府とダラア市民の溝は深く、埋めようのないものだった。

20日のダラアについては前回書いたが、今回再び20日について、ニューヨーク・タイムズを訳す。内容は前回と一致する部分が多いが、抗議する市民の要求が詳しく書かれており、政府の譲歩とは隔たりがあることがよくわかる。また暴動の後に大統領特使が到着したのではなく、到着後に暴動が起こっていることがわかる。

 

同じ出来事についての報告なので、前回との重複部分があるが、観点が違うので、全文を訳す。

=======《警官隊が民衆に向けて実弾を発射>======

           Officers Fire on Crowd as Syrian Protests Grow

 

320日、シリア南部の都市ダラアで、抗議する市民はバース党本部と他の建物に火をつけた。ダラアでは、18日以来3日連続抗議集会と警官隊との衝突が続いている。

目撃者の話によると、警官隊が実弾を発射し、少なくとも1名が死亡し、数十人が負傷した。

しかしながらアサド大統領は譲歩する姿勢を見せた。アラブ世界では大衆の怒りが反爆発し、反乱がおきている。シリア政府は自国が二の舞になることを未然に防ごうととしているようである。

シリアは大衆の抗議を残酷に弾圧する警察国家であり、アラブ世界を席けんする大衆蜂起の波とは無縁なように見えた。しかし先週になり、いくつかの都市でデモが起きた。その中でダラアのデモが最大である。10数人の少年の少年が逮捕され、住民が怒った。

 

20日、数千人が街頭に集まった。数日前からこれが日常化していた。

アサド大統領はデモで死亡した人々の家族に哀悼の意を伝えるため、使節をダラアに送った。使節団には外務副大臣のファイサル・マクダドと地方行政大臣タメール・アルハジが含まれていた。

 

数千の市民がオマリ・モスクの中とその周囲に集まり、要求を叫んだ。

①政治犯全員の釈放

②デモをする市民を射殺した者の裁判

48年間続いている戒厳令の廃止

④より多くの自由

⑤邪悪な腐敗の根絶

民衆は声を合わせて叫んだ。「恐怖の支配下で生きるのはもういやだ」。

 

ダラア市の長老がアサドの使節団と交渉している間、街頭では騒乱が起きていた。抗議が激しくなると、警官隊が催涙ガス弾を発射した。これが市民を怒らせた。怒った市民は、中央広場に掲げられているアサド大統領の肖像画をひきはがした。すると警官隊が群衆に向けて発砲した。

抗議する市民はオマリ・モスクを野戦病院として使用した。負傷者の家族は負傷者を病院に連れて行くのを嫌がったからである。

デモ隊は警官隊の防衛線を突き破って進み、バース党本部と政府を象徴する建物に向かった。そして裁判所に火をつけた。大統領のいとこであるラミ・マクルーフが経営するシリア・テレ(電話会社)の支社にも火をつけた。

 

前日、一昨日と同様に、政府は警官が発砲したことを否定した。デモ隊と彼らに発砲した両者が外国の挑発者であるとした。

シリア国営放送SANAはインターネットで次のように述べた。

「扇動者が公立病院を襲撃し、公共の建物に放火し、市民を恐怖を与えた。またこれらの扇動者は警官隊に向けて発砲した。これに対し警官隊は撃ちかえさなかった。・・・・

政府は市民の安全と不動産を守る措置をとるだろう。・・・・

アサド大統領はダラアの市長を解任したと発表した。これは抗議する民衆が2日前要求したことである。罪があると判明した治安部隊職員は処分する」。

シリア国営放送はダラアの写真を掲載した。自動車が燃えており、黒煙が立ち上っている。

またシリア国営放送はスパイに対し警告し、次のように述べた。

「スパイが多くの治安部門で工作している。彼らは治安部門の高位の職員や将校であると偽っている。実弾を使用するよう、厳命されたと彼らは主張している。反乱の疑いがある集会を武力を用いて解散させよと命令された、と彼らは主張している」。

 

20日、ダラアに入るすべての道路は閉鎖されたままである。電話とインターネットはほとんど一日中切断されている。

==================(ニューヨーク・タイムズ終了)

 

20日の政府の対話姿勢は実を結ばなかった。18日に6人が死亡したことは決定的だった。もはやダラアの事態は後戻りできなくなった。

民衆の20日の要求内容はシリアの現体制を全面的に否定するものであり、革命の要求に等しかった。従来の基準からすれば、中央政府は大きな譲歩をしたが、抗議する民衆は、はるかに根本的な変革を要求していた。

  

ニューヨークタイムズは「20日、扇動者は警官隊に向けて発砲した」としか書いていないが、新華社電子版によれば、ダマスカス・プレス電子版は「20日、7名の警察官が死亡した」と伝えた。(Hindustantimes, NYT

前回紹介したイスラエル・ナシヨナル・ニュースは「警察官7名死亡」としただけで、ニュース源を示していなかったが、シリアのメディアに基づいているのだろう。

 

20デモをする市民の中に銃を持った者がいて、警官を7名射殺したという事実は重大である。「治安部隊が平和なデモに発砲した」という反対派の説明と矛盾し、アサド大統領の言葉の正しさを証明するからである。「デモの最初から治安部隊が死んでおり、平和なデモではない」。しかし詳しい状況は語られず、一般市民の証言もない。警備隊員7人が殺され状況、どのように反撃したかについて、何もわからない。

以上4月20日のダラアについて書いてきたが、4月18日について一言述べたい。

 

         《ダラア 4月18日》

20日のデモが激烈になった原因の一つは、2日前(18日)のデモの際、市民6名が射殺されたことである。

これについて中央政府が「治安部門にスパイがいる」と発表したことは驚きである。スパイとは「外国と通じる裏切り者」ということだろう。18日に6人の市民を射殺したのはこれらのスパイだとしている。投石をするデモ隊を6人も射殺すのは、ゆきすぎである。投石は通常のやり方であり、部隊員の生命に危険が及ぶものではなかったようである。アラブの春で中東に世界の関心が集まっている時に、このように冷酷なやり方をするのは思慮がない。

これについてシリア政府は不可解な説明をしている。市民を射殺したのは治安部隊の中のスパイであるというのである。

 

4月18日は武器を持たない市民6人が射殺された日であり、シリア革命の発端となった日である。

 

治安部隊に裏切り者がいるという主張の検証は難しいので、とりあえず、複雑なシリアの治安部隊に関する基礎知識を調べた。治安部隊は数種類ある。

 

 ======= ISW :2011 struggle for syria》=======

 

シリアの治安部隊は複数あり、大統領がそれらすべてを統制することは難しいのではないか。このことが内戦の原因となったかもしれない。反政府デモを容赦なく鎮圧せよという方針があったとされるが、そもそも命令系統が一本ではないので、その方針は一部の部隊だけのものかもしれない。

 

まして外国メディアには、デモを鎮圧しているのがどの部隊であるかは、わからない。

まず中央の情報機関に付属する部隊がある。

  ①中央情報総局②空軍情報総局③政治保安総局④陸軍情報局。

4つの中央情報機関のなかで、空軍の情報機関が最も重要である。ハフェズ・アサド大統領が空軍将校だったこともあり、空軍の情報機関は他国に例がない権限と能力を有している。国内の治安維持も重要な任務のひとつである。

 

これらの中央部隊のほかに、各県は独自の警察と情報機関付属の治安部隊を有している。

          《軍隊》

軍隊については、30万人の召集兵のほとんどがスンニ派である。

20万人の職業軍人は、ほとんどがアラウイ派である。将校の80%がアラウイ派である。

1960年以前は将校の60%がアラウイ派であったが、1963年のバース党革命後に将校になった者の90%がアラウイ派だった。

この時将校になった若者が、現在軍の上層部を占めている。アラウイ派の他に軍の要職を占めているのはドルーズ派やキリスト教徒のような少数民族である。

20118月、バシャール・アサド大統領はギリシャ正教徒のダウド・ラジハ将軍を国防大臣に任命した。政権に忠実なアラウイ派と少数民族だけに頼り、やむを得ずスンニ派の部隊を出動させるときは、アラウイ派で構成される情報組織を同伴させた。

 

シリア軍は5千両の戦車と5千両の装甲車を保有している。

 

=================ISW 終了)

 

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シリア内戦の発端:ダラア 2011年3月19日・20日

2016-07-22 12:51:25 | シリア内戦

    

319日、前日の5人の死者の中でリーダー格だった2人の葬儀に数千人が集まり、革命を要求した。

デモ行進する人々は自分たちの権利を要求し、「もっと自由を」・「戒厳令の廃止」と声を合わせて叫んだ。また「腐敗を終わらせろ」・「我々の仲間の4人の殉教者の死を、決して忘れない」と声をあげた。

彼らは前日(18日)の要求を繰り返した。

市長とダラア政治警察長官の解雇すること。市長は市民に嫌われ、察長官は、落書きをした少年たちを逮捕した責任者であるからだ。

 

警察はダラア市を包囲し、ウイッサム・アイヤシュとマフムード・ジャワブラの葬儀に集まった人々に催涙弾を投げ、解散させようとした。催涙弾は普通のものより毒性が強く、人々は呼吸困難になったり、神体がまひしたりした。

シリアの人権擁護活動家(Mazen Darwish)の話によると、警察がダラア市を封鎖したので、人々は市から出ることはできるが、入ることができなくなった。また他の活動たちは「数十人が逮捕された」と話している。これは昨日(18)のデモに讃歌した者に対する弾圧である。

 

一方で政府はこの日、大幅な譲歩をし、事態収拾を試みた。政府はダラアの宗教指導者と長老たちを送り、市民たちと交渉させた。

 

この日について、イスラエル・ナショナル・ニュースが次のように書いている。

「葬儀の後、反対派のリーダーたちは、いくつかの要求を文書にして、当局に提出した。要求の第一は政治犯の釈放であった。異例なことに、政府は落書き少年たちを釈放すると申し出た。ダラアの緊張を緩和させようというねらいからである」。

 

      <320日>

前日シリア政府が異例の譲歩をしたにもかかわらず、20日大きなデモ再発する。一部の過激分子が再び暴れる。イスラエル・ナショナル・ニュースの続きの部分を引用する。

20日再び暴動が起こり、警察官7名が死亡し、バース党本部と裁判所が放火された。暴動のきっかけは抗議者2人が殺されたという不確かな噂が広まったことである。

目撃者の話によると、さらに多くの抗議者がダラア市内に流入するのを防ぐため、治安部隊は市を包囲した。

反政府デモはシリアでは珍しく、デモが起きた場合残酷に鎮圧されるのが常である」。

 

 

同じく20日について、アルジャジーラがやや詳しく書いている。

 

=======<群衆が建物に火をつける>=======

Syria protesters torch buildings  One person killed as demonstrations in the southern city of Daraa continue for a third straight day.

 

ダラアでは、連続デモの3日目となる20日、群衆が裁判所とその他の建物に放火した。

住民の話によると、治安部隊が実弾を発射し、一人が死亡し、数十人が負傷した。また数十人が催涙ガスを吸い込んだため、オマリ・モスクで治療を受けた。

この日(20日)数千人が道路に集まり、腐敗の防止と48年間続いている戒厳令の廃止を要求した。また2日前のデモで5人が死亡したことに抗議した。

バース党本部と2つの電話会社のダラア支社が放火された。一つはアサド大統領のいとこのラミ・マクルーフが経営するシリア・テレである。マクルーフは汚職を理由に、米国から経済制裁を受けている。マクルーフはシリアで最も裕福なビジネスうマンであり、ダラアの住民にとって彼は汚職の象徴である。

活動家のひとりが言った。「人々は抑圧と腐敗の象徴に火をつけた。近くにある銀行には火をつけなかった」。

AFPの特派員によれば、デモの民衆は知事の家に向って後進しようとしたが、治安部隊が警告の射撃をし、催涙弾を発射して禁止した。

 

政府の特使がダラアに到着し、18日の死者に哀悼の念を表明した。人々は使節団に向かって叫んだ。「反対!戒厳令に反対!我々に最も必要なのは自由だ」。

シリア政府は死者が出た原因を調査する委員会を組織する、と発表した。

 

アルジャジーラの特派員ルラ・アミンがダマスカスから伝えた。「シリア政府はダラアの騒乱が他地域へ波及するのを防ぎたいと考えており、何とかダラアを鎮静化させようようとしている。政府は、市民殺害に責任があるダラアの治安関係者を解任すると明言している。加えて市長の更迭も明言している。

 

政府はこの日(20日)、2週間前から拘束している子供たちを即刻釈放すると発表した。

落書き少年たちを逮捕したことが、ダラアの混乱の、そもそもの原因であった。

 

ダラアの産業は農業である。近年水の量が減り、大きな打撃を受けている。シリア東部でも水不足による経済危機が進行しており、土地を捨てた住民数千人がダラアに流れ込んでいる。

 

ダマスカスでは、今週政治犯の釈放を求め、150人が静かなデモをした。少なくとも1名のダラア出身者がその中にいた。それはダイアナ・ジャワブラであり、彼女は愛国心に悪影響を与えたという理由で逮捕された。彼女のほかに、32人が逮捕された。

ジャワブラはダラアの15人の子供を釈放する運動をしていた。

インターネット上で政治的意見を発信した罪で、ダラア出身有名な外科医のアイシャ・アバ・ザイドが3週間前逮捕されている。

ダラアの住民が言う。「ダラア出身者2人の逮捕は政権が抑圧的であることを感じさせ、ダラアでの抗議に火に油を注いだ。

 

ホムスと地中海岸のバニアスでも小さなデモがあった。

 

シリアでは315日非暴力なデモとして始まった。フェイス・ブックを通じて、自由の拡大を求めて、この日に集まろうと呼びかけられていた。

シリアは1963年以来、戒厳令下にある。

=================(アルジャジーラ終了)

 

20日シリア政府は譲歩し、抗議する人々の怒りを鎮めようとした。そして約束通り、落書き少年たちは釈放された。この時が内戦にならずに済んだかもしれない分岐点だった。

しかし釈放されて家に帰った少年たちは、噂されていたように、大人の政治犯と同等の拷問を受けたことが一目瞭然だった。両親たちは怒り、これをきっかけに、23日再び数千人のデモとなり、翌24日には数万人のデモとなった。

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シリア内戦の発端:ダラア 2011年3月18日

2016-07-14 09:02:33 | シリア内戦

 

シリアはチュニジアやエジプトと異なり、反政府デモの人数が非常に少なかった。2011315日のダマスカスのデモの参加者は数百人である。

325日、ダラアで数万人が参加するデモが起きた。これがシリア内戦の出発点となった。ここに至るまでのダラアの状況を、前回書いた。

ダラアでも最初は200人程度のデモにすぎなかった。それが318日、数百人に増え、3名の死者が出た。この日が最初のエスカレーションとなった。国際メディアはこの日のデモ参加者を数千人と報道し、死者3ー6人としている。前回訳したシリア人ジャーナリストの報告は、18日の参加者は最初は200人にすぎなかったとしている。

エスカレーションの原因は、警察が200人の抗議者に発砲し、負傷者が出たからである。たった200人の平和的な抗議に発砲し、負傷者が出た。それが原因となって大勢の市民が集まり、死者まで出た。

これがシリア内戦の原因《その1》である

         《原因その2》

21日アサド大統領の特使がダラアに来て、譲歩の姿勢を示し、政治的解決を試みた。市民を殺害した治安部隊の処罰と落書き少年たちの釈放を約束した。そして実際に少年たちは釈放された。中央政府は柔軟な対応をし、これで解決するはずであった。そしてここで終われば、シリア内戦はなかった。

しかし皮肉にも、事態は悪い方向に進む。刑務所から帰ってきた少年たちの顔や身体を見て、親たちはショックを受けた。少年たちの話を聞くまでもなく、拷問されたことは明らかだった。親たちは怒った。

323日のデモは数千人の規模となった。モスクに集まった数千人をエリート師団が襲撃した。これにより、エスカレーションはもはや止めることができなくなった。

 

前回まで2回、3月後半のダラアについて書いたが、どちらも住民たちが語ったことであり、報道が皆無な時期から話を始めている。318日以後はダラアについてのニュースが増えるので、前2回の話を、別の角度から補うことができる。シリア内戦の発端について、できる限り、真実に迫りたい。

今回は18日について、ニューヨーク・タイムズとアルジャジーラがどのように報道したか見てみたい。

 

=====In Syria, Crackdown After Protests====== 

        318日 ニューヨーク・タイムズ               

318日シリアのいくつかの都市で、デモがあった。シリアでは最初のデモである。警察の容赦ない取り締まりにより、デモ参加者6名が死亡し、数十人が負傷した。

なかでもダラアのデモが最も大きく、数千人が市の中心部に集まり、「神、シリア、自由!」と声を合わせて叫んだ。彼らは市長と政治警察ダラア支部長の辞任を要求した。

その後、警察が彼らに発砲し、6名死んだと目撃者が語っている。

 

  

 

地中海沿岸のバニアスと中部の都市ホムスでもデモがあった。ここダマスカスでもデモがあった。フェイスブックの「シリア革命2011」の著者が政権の腐敗と抑圧に抗議を呼びかけた。

警察国家のシリアでは、反政府運動は存在しない。昔から政治的反対派は残酷に弾圧されてきた。

15日と16日のダマスカスのデモは暴力的に排除され、数十人が逮捕された。シリア国営放送SANAはこれらのデモは外国の扇動者によるものだと批判した。

SANA18日のダラアのデモについても同じ説明をした。SANAの電子版は次のように述べた。「オマリ・モスクに市民が集まると、外部の人間がこれを利用し、公的な建物と個人の住宅を破壊し、混乱を引き起こした」。

ダラアの市民の抗議の理由の一つは、今月初め、反政府的な落書きをした少年たち20人が逮捕され、今なお拘留されていることである。落書きは物価高に対する不満を述べ、政治的な自由を要求していた。

YouTube の動画では、治安部隊が集まった人々に向けて放水し、解散させようとしている。

「その後事態が悪化した」と目撃者が語る。「次の段階は催涙ガスではなく、実弾による銃撃だった」。

 

ホムスではハリード・ビン・ワリード・モスクに2000人が集まり、政府に対し抗議した。

===============(ニューヨーク・タイムズ終了)

 

警察の放水によってデモが解散しなかっただけでなく、民衆の一部が暴徒化したようである。新たな部隊が緊急に派遣された。その部隊に対しても、暴徒は抗戦した。ニューヨーク・タイムズが報じたのと同じ日のダラアについて、アルジャジーラは緊迫した様子を伝えている。

最初の死者が出たこの日、治安部隊が発砲した相手は平和的な抗議をする市民ではないことがわかる。

 

========シリア:デモが暴徒化========

   Violence erupts at protests in Syria

 

3月18日シリアの3つ以上の都市で抗議のデモがおこなわれた。シリアは50年間厳格な戒厳令下にある。この日のデモは近年にない激しいものだった。

18日南部の都市ダラアで、モスクでの昼の祈りの後、反政府集会が開かれた。数千人と言われる人々が「神、シリア、自由」と合唱し、アサド大統領の家族の腐敗を批判した。

治安部隊の発砲によって3人以上の死者が出た、と目撃者が語った。新たな部隊がヘリコプターでサッカー場に降り立ち、治安部隊は増強された。

「非常に激しい戦闘が続いている」と目撃者がロイター通信に語った。

数百人が負傷したと言われている。

 

        《破壊行為》

シリア国営放送は、デモの際破壊行為がなされ、治安部隊の出動が必要となったと報道した。「18日の午後ダラアで、オマリ ・モスクでの集会を潜入者が利用し、暴動を起こし、騒乱状態となった。公共の建物と私人の家屋が破壊された。さらに潜入者たちは車や商店に放火した。市民と不動産を守るため治安部隊が出動した。すると潜入者たちは治安部隊を攻撃し始めたが、撃退された。

 

同日ダマスカスでは200人を超える抗議集会が開かれたが、私服の警官が警棒を振りかざし、強制的に解散させた。

フェイスブックの「シリア革命2011」の動画には、一人の男性がウマイヤ・モスくから引きずり出せれる場面がある。

抗議集会が解散すると、モスクの広場にアサド政権を支持する群衆が集まり、アサド大統領とハフェズ・アサド前大統領の肖像画を掲げた。

 

別のビデオによれば、地中海沿岸の町バニアスで抗議集会に放水が浴びせられている。

またホムスでは数千人の抗議集会があった。

============-=====(アルジャジーラ終了)

 

デモの一部がかなり暴れた。また治安部隊を攻撃し、激しくやりあった。ただ暴徒の攻撃手段がわからないので、治安部隊が3人以上射殺したことは、やむを得ない状況だったかは、判断できない。「抗議集団は武装していたと」イスラエル・ナショナル・ニュースは書いている。

 

翌日のアルジャジーラは、前日(18日)のダラアの死者は5人と報じ、次のように書いている。

「シリア政府の数人が匿名を条件に語ったとろでは、政府は18日のダラアの騒乱について調査する委員会を立ち上げる予定である。市民の死亡について責任のある者は処罰されることになる」。

またダラアが包囲・封鎖されたことを伝えている。

 

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シリア内戦の発端 ダラア 2011年3月・4月

2016-07-09 05:29:05 | シリア内戦

 

前回2011年の1月と2月のシリアについて書いた。シリアでは、アラブの春は起きそうもなかった。2010年12月チュニジアで始まった大衆蜂起は、その後アラブ世界を席けんしたが、シリアは大衆蜂起と無縁だった。3月になってもダマスカスは平穏だった。ムスリム同胞団の2大拠点、アレッポとハマもおとなしくしていた。1978年ー1982年、アレッポとハマのムスリム同胞団は大規模な反乱を起こした。この時政権は容赦ない方法で反乱を鎮圧した。政府軍の残虐性を、シリア国民は覚えており、このような事件の再発を望まなかった。

3月半ばまでシリアが平穏だったのは、アサド大統領の就任時の人気がまだ残っていたからである。彼は英国在住の経験があり、シリアの強権的な体制内では異質な人間であり、自由主義的な思想の持ち主と受けとめられていた。アラブの指導者は一般的にごう慢であるが、アサドは謙虚であり、市民的であった。

 またアサド大統領はシリアだけでなくアラブ世界全体で人気があった。アラブ諸国がイスラエルと妥協する中で、彼はイスラエルと戦う最後の戦士だった。パレスチナを奪ったイスラエルは、アラブ土地を侵略した者であり、アラブの敵とみられていた。これと戦うことが、アラブの指導者の条件とされていた。またアサドは米帝国に屈しなかった。彼は単にシリアの指導者であるだけでなく、アラブの愛国者として国際政治に対処していた。

就任時に彼が約束した改革はあまり進んでいなかったが、政権内の守旧派が改革を妨害していると考えられていた。長期間政権にあったチュニジアのベン・アリやエジプトのムバラクとアサドは違っていた。

しかしシリアが平穏だったことには、もう一つ別の理由がある。国民は専制政治の重圧の下に生きており、政府批判の声を上げることは極めて危険である。シリアには反体制派は存在しない。バース党による一党独裁のもとで、政治的反対派は厳しく弾圧される。反対派は存在することを許されない。逮捕と拷問、時には死を覚悟しなければ、抗議のデモに参加できない。

1982年の血の弾圧の記憶がまだ残っている。1982年、ハマでムスリム同胞団が反乱を起こした時、ハフェズ・アサド大統領の治安部隊はこれを徹底的に弾圧した。数万人の住民が死亡した。

1963年バース党が政権を奪取した時に出された戒厳令が、現在まで続いている。1990年代以降緩和されたが、国民は相変わらず秘密警察(ムハバラート)の監視下にあり、政府に批判的な人物とみなされれば令状なしに逮捕される。ムハバラートは犯罪に関する法律を超えた権限を有しており、犯罪の事実がなくても、予防拘束ができる。逮捕された市民は弁護士を呼ぶこともできず、無実を訴える手段がない。逮捕後は必ず拷問され、最悪の場合裁判なしに処刑される。

シリアは戒厳令下にあり、たとえ国民に不満があったとしても、要望を述べることにとどめなければならず、政府を批判することは許されなかった。このことに対する不満は人々の心の中でくすぶっていた。ダマスカスの住民の大半はそこそこの生活ができていたので、政治的不自由を我慢することにした。

3月6日にダラアの少年たちが政府を批判する落書きをし、逮捕されたことを前回書いた。

親たちが警察署に行き、少年たち釈放を願い出たが、警察の返事は「息子のことはあきらめろ。また子供をつくればよいではないか」というものだった。

政治犯の逮捕と拷問は以前から国民から恨まれていた。逮捕された子供たちが拷問されているという情報があり、母親たちは即座の釈放を願った。親たちの訴えに共感する住民が増えていき、3月18日のダラアのデモはニュースに値する規模となった。まだアラブの春を予感させる程ではないが、シリアで最初の大きなデモとなった。死者が出たこともあり、世界のメディアも取り上げた。

これについて書く前に、3月半ばのダマスカス状況を簡単に確認しておきたい。

               <3月15日・16日のダマスカス>

3月15日、ダマスカスとアレッポでデモが起きたが、参加者はいずれも数百人だけだった。

翌日(16日)、ダマスカスで再び抗議デモが行なわれた。人々は内務省の近くの広場に集まり、政治犯の釈放を要求した。警官が警棒で彼らをなぐり、数十人を逮捕した。

平和なデモに対し、官憲の取り締まりは乱暴であったが、限度は超えていない。このデモにはダラア出身者も参加しており、彼らは故郷で起きていることを参加者に伝えた。ダラアが爆発すればダマスカスに伝播する可能性はあったが、2011年にはそれが起きない。

15日と16日、ダママスカスでは、「平和なデモをする人々」が射殺されるようなことはなかった。

ダラアでも、途中から介入した中央政府の対応は柔軟であり、ダラアの政治警察の方針を翻し、少年たちを釈放した。しかし拷問はすでに行われており、取り返しがつかなかった。拷問は少年たちの話によって知っただけでなく、帰ってきた少年多たちの身体にまざまざと虐待の跡が残っていた。中央政府と精鋭部隊が乗り出したときはすでに遅れで、ダラアの反乱を抑えることは不可能だった。

責められるべきは最初の対応に失敗し、部族を怒らせてしまったダラアの政治警察である。部族の子供たちを非道に扱い、部族を敵にまわしてしまった。ダラアの政治警察は部族に対して慎重さを欠き、彼らを怒らせてしまった。西欧の先進国では数百年かけて部族は消滅したが、シリアでは現在でも部族が重要な政治単位である。

3月6日以後のダラアについて、前回当事者の少年の回想を訳したが、今回、アルジャジーラの記事を訳す。同じ時期について書かれているが、シリア人ジャーナリストがダラアで取材したものであり、ダラアが反乱に至った過程がよくわかる。彼はダラアが危機的な時期の直後にダラアに入り、住民に聞き取りをした。この時期について、非常に少ない現地報告である。

=============< Inside Deraa >===========

               著者: Hugh Macleodとシリア内の報告者

                                    2011年4月19日

今ダラアに外部の人間は入れない。葬儀に参列する友人と親族しか町に入れない。シリア人ジャーナリストは最初の検問所で、妻の従弟の夫の死を告げ、通過を許可された。市内に入るまで3つの検問所があり、警官が車の中をのぞきこみ、カメラ、録音機、パソコンなどがないか検査した。ダラアの死者と町の破壊について報道することは禁止されていた。ダラアはヨルダン国境に近い古都である。主な産業は農業であるが、干ばつにより衰退が加速している。

シリアの内乱のきっかけとなった事件が、3月6日この町で起きた。

15人の少年がアラブ革命のスローガンを壁に書いた。「人々はシリアの政権が倒れることを願っている」。カイロとチュニスの様子をテレビで見て、真似をしたのである。少年たちは逮捕され、拷問された。

10ー15歳の少年たちは、地元の政治警察の留置所に入れられた。ここの政治警察の長官・アテフ・ナジーブ将軍はアサド大統領のいとこである。

陰気な尋問室で子供たちは殴られて出血し、焼けどさせられ、爪をはがされた。子供に対してこのような暴行を行ったのは政権に忠実なおとなたちである。無制限な暴力により、政権は崩壊の種をまいている。

人権監視団は最近1か月逮捕され、拷問を受けたデモ参加者数百人のリストを作成した。

ダラアの出来事はシリアの蜂起の象徴である。無法な政治系警察が子供を虐待したことに対し、親族と住民が抗議した。治安部隊によって殺害されるデモ参加者の数が増えるにつれ、反乱のうねりは拡大していった。

                《血の結びつき》

複数ある治安部隊の牢獄で政治犯が死ぬことに、シリアの国民は慣れている。彼らは50年近く戒厳令の中で暮らしている。

しかし1か月前逮捕された子供たちはほとんどがダラアの大家族に属していた。それらはバイアジド家(The Baiazids)、ガワブラ家(the Gawabras)、マサルマ家( the Masalmas )ソシテズービ家(the Zoubis)の4家族である。

シリア南部は部族社会の伝統が強く、家族に対する忠誠と、家族の名誉が尊重されている。

少年たちが行方不明になり、家族はあちこち訪ね回り、市役所にも相談したが、見つからなかった。金曜日の礼拝の後、両親と親族とは宗教指導者に伴われ、ダラアの知事であるファイサル・カルスームの家まで行進し、抗議した。

知事の護衛は彼らを追い払おうとしたが、両親たちと押し問答になったので、警察を呼んだ。到着した警察は放水と催涙ガスで抗議者たちを攻撃した。その後武装した政治警察が現れて、抗議する人々に発砲した。

「大勢の治安部隊がやってきて、人々に発砲し、数人が負傷した」と逮捕された少年の親戚であるイブラヒムが言う。

「血が流れるのを見て、人々は逆上した。我々は全員部族の一員であり、大家族に所属している。我々にとって、血の団結は何よりも大切だ」。

政治警察が発砲したというニュースがダラア市内に広まると、最初200人だった集会は、すぐに数百人に増えた。

「我々は平和な方法で、子供たちの釈放を要求していた。しかし彼らの返答は銃撃だった」とイブラヒムは語った。「現在我々は治安部隊といかなる妥協もできない」。

逮捕された少年の親せきである、もう一人が証言する。「政治警察のナジブ将軍が家族の代表者を侮辱するのを見た」。

28歳のムハンマドが言う。「負傷者を病院に運ぼうとすると、治安部隊が妨害した」。ムハンマドはドバイで働いていたが、2年前ダラアに戻った。彼の兄弟はデモで負傷し、義理の兄弟は死亡した。

確認されていない噂だが、ナジブ将軍が少年の家族に次のように言ったという。「子供たちのことはあきらめろ。また子供をつくればよいではないか」。

             《治安部隊がモスクを襲撃》

3月18日、数百人の市民が集まり、政治腐敗の一掃、少年たちの釈放、政治的自由の拡大を要求した。治安部隊が抗議者たちに発砲し、3名が死亡した。

2日後怒った民衆がバース党の事務所がある建物に火をつけた。人々は初めて「自由」と「戒厳令の撤廃」を要求した。

 3月21日、アサド大統領は自らの代理として、ダラアに親族がいる高官たちをダラアに送り、市民たちの怒りをしずめようとした。大統領が派遣した使節は、市民に発砲した警官を裁くことを部族長たちに確約した。

使節団のメンバーの一人は、ファイサル・メクダド外務副大臣だった。彼の以前の上司であり、現在副大統領となっているファルーク・アルシャラアはダラアしゅっしんである。

しかし使節団の最も重要なメンバーは、軍事情報部の高官ラスタム・ハザリだった。レバノンのハリリ首相が暗殺された時、彼はレバノンに駐在する情報員のトップだった。国際捜査により彼は容疑者として訊問された。

アサド政権中枢にいるハザリはダラア出身であり、事態を鎮静化することを部族長たちに保証するのに適任だった。

政府の譲歩の姿勢を示すため、彼は15人の少年を釈放した。

少年たちは2週間の拘留から解放されたが、拷問のあとが著しかった。息子たちの拷問の形跡を目にした部族の指導者たちは怒りを新たにした。政権を批判するデモの参加者は数千人に増えた。

ハザリと部族長たちとの会見の48時間後の3月23日の早朝、治安部隊はオマリ・モスクを襲撃した。オマリ・モスクは拡大する反政府運動の拠点になっていた。

治安部隊は最初に閃光弾を投げ、続いて射撃を開始した。5人が死亡した。犠牲者の一人は、以前に負傷した人々を治療していた医師だった。

モスク襲撃直後のyoutube動画では、私服の銃撃者たちがモスクの中を行進している。あたりには血のあとが残っている。

モスクを襲撃したのは特殊部隊だ、と地元の人は言う。大統領の弟マヘル・アサドが指揮下の陸軍第四師団とも言われている。

「ダラアの人々を殺した者を、大統領が罰してほしい」ムハンマドの母が悲しみと怒りに震えながら言った。彼女はアラビア語の教師である。

 「私たちは現在の大統領の父を支持していた。ハフェズ・アサド大統領は我々に感謝し、ズービを首相に、シャラアを外務大臣に任命した。スレイマン・カッダーはバース党の指導者だった。それなのに息子のバシャールは我々の息子たちである軍隊を差し向け、兄弟や姉妹を殺した。裏切り者とは自分の兄弟を殺す人間だ」。

モスク襲撃の翌日、カルスーム知事が罷免された。彼は市民から恨まれており、彼の家は放火され、消失した。ナジブ将軍も更迭された。2週間後、アサド大統領は2人を裁判にかけ、市民の抗議を引き起こした経緯と抗議する市民への対処が適切だったか、取り調べることにした。

しかし2人の責任者を処分したにもかかわらず、住民の怒りをしずめることはできなかった。

ムハンマドは言う。「どうして大統領自身がダラアに来て、謝罪しなかったのか。我々は100%シリア人だ。彼は真の同情と敬意を我々に示すべきだ」。

          《葬式が抗議集会に転換》

ダラアの抗議は急速に拡大した。1日前に殺された人の葬儀は政府に対する抗議集会に転化した。すると治安部隊が来て発砲した。死者さらに多くの死者が出て、次の葬儀と抗議集会の人数が増えた。こうした悲劇的な悪循環で抗議運動が拡大した。

3月24日、政府は税金を減額し、公務員の月給与を1500シリアポンド(32.6ドル)増額する政令を出した。

翌日のダラアでは数万人が葬儀に参加し、叫んだ。「パンなどいらない。人としての尊厳が欲しい」。治安部隊が発砲し、15人死亡した。

怒った者たちがハフェズ・アサドの像を倒した。前大統領は国民から恐れられ、これまでは小声でさえ悪口を言う者はいなかった。

現大統領の写真は引きちぎられ、燃やされた。

ダラア市内と郊外の1週間のデモで、55人が治安部隊によって殺された。シリア全国で、ダラアへの連帯が合言葉となった。「われわれの血と心をダラアにささげる」。

           《外国の陰謀》

国内の危機についての最初の演説で、アサド大統領は「外国の陰謀による反乱だ」と述べた。「ダラアで死んだ人々は国内安定のための犠牲だ」。

この演説は犠牲者の家族を怒らせた。モハンマドは言う。

「国家のための犠牲だと言いながら、アサドは国会で議員たち共に黙とうをしなかった。ダラで、軍と警察は我々を、まるでイスラエルのスパイのような裏切り者として扱っている。軍隊はイスラエルと戦ってゴラン高原を奪い返すべきなのに、我々市民を殺すために戦車と戦闘ヘリを送っている」。

4月18日は抗議が始まって4回目の金曜日である。この日ダラアの通りでの抗議の声は怒りの頂点に達していた。「おい、マヘル(エリート師団の指揮官)。卑怯者。お前の犬たちをゴランへ連れて行け」。この日抗議する市民25名が死亡した。

1週間後、ダラアの代表がアサド大統領と直接会談した。

しかしシリアの反乱の中心的存在となったダラアの市民は安易に妥協する考えはなかった。以前ダラアの市民は息子たちを政府の高い地位に送っていることを誇りにしていたが、今や彼らは反政府の急先鋒となった。

ダラアの活動家のアイマンは述べた。

「新しい道路や病院を造ってやればダラアの市民は軟化すだろう、と政府は考えている。違う。我々の望みは、戒厳令の撤廃だ。そして政治犯全員を釈放し、ヨルダンやサウジアラビアなどに住んでいる家族がシリアに帰れるようにすることだ。許可を申請しなくても、土地を売り買いできるよになりたい。

私の叔父はムスリム同胞団に所属していると疑われており、サウジアラビアに住んでいる。息子に会えるようにと、祖母は毎日祈っていたが、会えずに死んでしまった。我々がほしいのは自由だ」。

=============================(アルジャジーラ終了)

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シリア内戦の発端 ダラア  2011年3月

2016-07-04 05:25:52 | シリア内戦

 

シリア内戦はユーゴ内戦を超えて悲惨なものとなった。3回の対外戦争をしたイラクと同ようになった。イラクは1980年から88年までのイランとの戦争で疲弊した。痛手から立ち直る間もなく、1991年湾岸戦争となり、10年間の経済制裁を受けた。2003年再び米国との戦争になった。イラクは30年間悲惨な状態にある。

シリアでは、死者数が30万を超え、国民の半数が難民となった。

シリア内戦の原因を考えずにいられない。革命は外国との大戦争と同じく悲惨な結果に終わるというのが私の持論だが、2011年のエジプトとチュニジアの革命は比較的傷が浅くてすんでいる。シリアの場合どうしてこうなったのか、その原因を知りたい。

 

「アサドの治安部隊は平和なデモをする市民を殺害した」。怒った市民が、自由シリア軍に参加した。これがシリア内戦の発端の定説となっている。しかしこれには落とし穴がある。デモ隊の背後にスナイパーが潜んでいれば、平和なデモではありえない。

アサド大統領は「平和なデモ」という定説に反論している。「デモは最初から平和的ではなかった。多くの兵士が死んでいる」。

2011年シリア駐在米大使だったロバート・フォードは後に述べている。「デモ参加者は逮捕を恐れており、彼らに逃げる時間を与えるため、治安部隊に向かって発砲した」。

 

市民の抗議行動の最初の段階で、治安部隊の兵士が射殺されれば、以後デモの取り締まりは容赦のないものとなる。少人数の抗議行動は除き、ダラアで最初の大きなデモとなったのは318日である。3日後の20日のデモで、デモ参加者の死者1名に対し、治安部隊の隊員7名が死亡している。このショッキングな事実は闇に葬られている。

確かにシリア政府はデモ参加者に対して厳しいが、ぎりぎりの節度はあり、一線を超えてはいなかった。それがある時点で変化した。その実際の例がある。デリゾール出身のシリア人が「シリア日記」の著者(日本人)に手紙を送ってきた。彼は、逮捕され、拷問を受けたが、釈放されている。しばらくして逮捕された者は処刑されるようになった。彼は既にサウジに逃れていたので、逮捕と処刑を免れている。この手紙は既に紹介したが、前半を再び引用する。

=======「シリア日記:デリゾール」====   

私はシリアのデリゾール出身です。

年齢は38歳。

アサド政権に迫害され、仕事を失いました。私だけではなく、政府に反抗する人間は皆同じ目に遭っていました。

 

このため、反体制デモを行うことに決めました。私は革命開始当初からデモに参加し、デリゾールで最初に逮捕された人々の一人です。

革命初期に、反体制デモに参加した罪で4回逮捕されました。

その後、反体制派の衛星テレビ数局の特派員として働き、逮捕や拷問、殺害現場の写真の撮影を行っていたため、また逮捕されました。釈放されたとき、私は何箇所も骨折した状態でした。

そして驚いたことに、私が刑務所にいた間、彼らは私の事務所と自宅に侵入し、電気製品や金品、公式書類等を全て略奪していたのです。

サウジアラビアのビザが下りたので、私は治療のため同国へ赴きました。やがて自由シリア軍がデリゾールに進軍しましたが、これを阻もうとする政府軍によって、住居が破壊されて住民が路頭に迷い、民家や公的施設が略奪されました。

そして、政府軍は反体制派デモ参加者リストをもとに、私の住んでいた地区の若者を集めました。集められた若者たちは処刑され、その遺体は家族の面前で焼かれました。

私の名前もデモ参加者リストの中にありましたが、私はその時サウジアラビアにいたので処刑を免れました。

============(「デリゾールからの手紙」終了)

 

「治安部隊が平和なデモに発砲した」とする説にウィキペディアは疑問を投げかけている。

======Civil uprising prior to the Syrian Civil War=========

大衆の抗議運動に加え、武装した外部者が潜んでいたことが記録に残っている。当時の大手メディアはこの事実を無視した。武装グループは治安部隊を挑発し、大衆デモの暴力的な鎮圧に向かわせた。

武装グループはシリア各地で政府軍兵士を巧妙に襲撃した。シリアに武装テロリストが侵入しているという政権の主張には根拠がある。

====================(ウィキ終了)

 

内戦に発展するとは誰も予想していなかった2011年について、正反対の見方がある。どちらが正しいのか、事実を知るため、2011年の出来事を振り返ってみたい。

 

    <20111月ー2月>

チュニジア・リビヤ・エジプトでアラブの春が起きても、シリアの首都ダマスカスは平穏だった。政府は自国でアラブの春は起きないと自信を持っていた。第2の都市アレッポも平穏であった。1月から3月半ばにかけてシリアでもデモが起きたが、集まった人数が少なく、シリア政府の自信を裏付けていた。

23日、フェイス・ブックやツィッターなどインターネットを通じて、デモが呼びかけられた。翌日4日を「怒りの日」と定め、アサド政権に対する抗議に集まろう、というものだった。4日にダマスカスに集まったのは、30人ほどだった。

0日後の2月11日エジプトのムバラク大統領が退陣した。その日の夕方、ダマスカスの橋に落書きが書かれていた。「お医者さん、次はお前だ」。アサド大統領は二男であり、ダマスカス大学の医学部を卒業し、眼科医になるつもりでロンドンで研修していた。しかし長男が交通事故で急死し、二男のバシャールが父ハフェズ・アサドの後を継ぐことになった。

この落書きは後に有名になったが、これは何事もなく過ぎ去った。

 

     <3月:ダラアの落書き>

1か月後、今度はダマスカスではなく、さびれた地方都市ダラアで、落書きが書かれた。ダマスカスでは何事もなく過ぎ去ったのに、ダラアでは思わぬ方向に発展し、恐ろしい内戦の導火線となった。

ダラアはシリア南端に位置し、ヨルダン国境に近い。ダラアは県都ではあるが、人口数ではシリアのベスト10にも入らない小さな都市である。シリアの主要な都市はすべてダマスカスの北にあり、南にあるダラアは孤立している。ダラアで起きたことが周辺に連鎖反応する可能性は低い。

 

 

  

 

アラブの春が起きた諸国と異なり、シリアの主要都市では大衆運動の盛り上がりはなかった。ダマスカスでの大きなデモは政権を支持するものだった。ダラアでの政府の対応がよければ、内戦に拡大しなかったかもしれない。

ダラアが革命の発火点になったのは、予想外の展開だった。

 

36日、ダラアの街角の壁や穀物貯蔵塔(サイロ)に落書きが書かれた。「国民は政権が倒れることを願っている」。テレビでチュニジアとエジプトの革命を見た少年たちが、スローガンを真似たのである。少年たちの多くは名家の子供だった。地方都市の小さな挑戦が思わぬ結果になった。砂漠に近い衰退した町の少年たちの行動が革命に火をつけることになったが、この時は誰もそれを予想しない。

地元の秘密警察が、10歳ー15歳の少年15人を逮捕した。逮捕された少年たちは、ダラアの秘密警察長官の管理下におかれた。秘密警察長官はアテフ・ナジブ将軍であり、彼はアサド大統領の従兄弟と言われている。

政治犯に対する拷問は以前から市民の恨みを買っており、少年たちの親と住民は少年たちの釈放を要求した。

親たちが恐れたように、恐ろしい査問室で、少年たちは殴られて出血し、皮膚を火で焼かれ、爪をはがされた。

少年たちは釈放されたが、拷問の事実を知り、家族と町の住民は怒った。これが内戦の発火点となった。

しかし落書きが書かれた36日以後のダラアについて、当時何も報道されなかった。メディアはこの時期ダマスカスにしか関心がない。ダラアについての最初の報道は、318日のデモである。18日ダラアで4人の市民が死亡したことをいくつかのメディアが報道している。3日後の20日のデモでは7人の治安部隊の員が死んでいる。それを報道したのは、イスラエル・ナショナル・ニュース、RT(ロシア・トゥデイ)、新華社だけである。

 

シリア内戦の原因を考えるなら、最も重要な3月6日ー17日のダラアについての報道はない。20138月になって、ニューヨーク・タイムズが落書き少年の一人にインタビューを報道した。半年前に発表されたものを転載したものである。

少年は落書き事件について語り、落書きの日以後のダラアについても初めて明らかになった。

少年は父親に連れられ自首し、拷問を受けた後、釈放された。現在(20132月)ヨルダンに住んでいる。

このインタビューは、内戦の発端を知るうえで、極めて重要な資料となっている。

 

======《内戦に火をつけた無名の少年》====

A Faceless Teenage Refugee Who Helped Ignite Syria’s War

          20132月8日

 

   

 

数十万人のシリア難民に交じって、少年は国境に近いヨルダンの町に住んでいる。革命に火つけた少年たちのひとりである彼は、現在誰からも注目されずに暮らしている。現在彼は17歳である。

少年たちは落書きにより反乱に火をつけることになったが、彼らに政治的な意図はなかった。反抗期の少年が国家を批判したことは確かだが、退屈をまぎらわせるための単なるいたずらという側面もあった。

 

少年の父は彼を警察に連れて行った。少年は逃亡していたが、警察が彼の家に来て、2番目の息子を代わりに逮捕すると威嚇したからである。取り調べを受けた少年は、拷問を恐れ、仲間の少年3人の名前を告げた。しかし結局彼は拷問された。密告が無駄だっただけでなく、仲間の少年を裏切ったことを、少年は後悔した。

落書きグループのひとりだったことについて、少年は後悔していない。

彼自身と彼の家族、そしてシリア国民が不幸な結果になったにもかかわらず、少年は内戦のきっかけとなった行為について後悔していない。「こうなってよかったんだ。アサドの正体もはっきりしたし」。

 

全ては落書きから始まった。アラブの指導者が政権を追われるのを見て、シリア政府はささいなことに極端に反応した。落書きした少年だけでなく、その場にいた10数人の少年を逮捕し、数週間拷問した。少年の家族、近所の住民ら数百人が抗議の集会を開き、少年たちの釈放を要求した。

治安部隊は彼らに発砲した。容赦ない措置こそが反抗を終わらせると考えたからである。治安当局のこの考えは誤りだった。少年の証言を裏付けるものはないが、その時期のダラアについて語る他の少年たちの話と大筋で一致する。

インタビューに応じた少年が逮捕された少年のひとりであることを、近所の住民2人が保証した。

 

少年は、従兄弟がダラアの学校の壁にスプレーでいたずら書きするのを見た。「お医者さん、次は君の番だ」。その日の夜、少年は眠れなかった。従兄弟(いとこ)の少年は落書きしただけでなく、警察の新しい売店に放火したからである。少年と彼の仲間は政治に興味がなかった。しかしテレビの衛星放送ではいつも、反政府的な言葉が語られていた。ダマスカスでも小さな抗議が始まった。少年たちは「自分たちもやる時だ」と思った。

翌日少年の学校に情報機関の職員が来た。少年はその理由がわかった。「自分たちが大それたことをやったことを、僕たちは知っていた」。

2ー3日間、警察、軍隊、憲兵が昼も夜も市中を歩き回り、容疑者の家を訪問した。

少年は隠れた。彼は「そのうち、捜索も終わるだろう」と思った。しかしそうはならなかった。

ついに警察が彼の家にやってきた。少年が不在であることを知ると、彼らは別の息子を連れて行くと言った。「それがいやなら、犯人の息子を引き渡せ。23日で返す」。父は承諾し、犯人の少年を治安本部に連れて行った。少年は泣き出し、家に帰りたいと言った。父は少年を引き渡して、去った。父が家に帰ると、母が怒って父に言った。「彼に万一のことが起きたら、あなたの責任ですよ」。

 

    

少年がスワイダの刑務所に着くと、すぐに虐待が始まった。少年は尋問の際に殴られた。「落書きをしたのはお前か?」質問というより、「はい」という返事の要求だった。

8歳の時に学校に行かなくなくなったので、僕は字が書けない」と少年は答えたにもかかわらず、、3日間拷問が続いた。拷問に耐えられなくなって、少年は「スプレーで落書きをした」と、事実でない白状をした。また、あの日その場にいた他の3人の少年の名前を明かした。

少年の逮捕から2週間もたたない頃、住民たちが少年たちの釈放を要求する抗議集会をダラアのオマリ・モスクで開き、少年の父親は電話で参加するよう誘われた。行ってみると、既に10人ほど集まっていた。父親は「抗議しなければ、さらに多くの子供たちが逮捕されるだろう」と言った。他の両親たちも同じ意見だった。デモ参加者の人数がどんどん増え、少年の父親の知人は全員集まった。

アサド政権がもっと柔軟な対応をしていれば、事態は悪化しなかったかもしれないが、判断は難しい。

政権に批判的なダラアの活動家の一人は、これまで2年間政府から弾圧されたきたが、2年前は解決が可能だったと考えている。「あの時点なら住民の怒りはしずめることができた。妥協の道はあった」。

死者の数が増えるにつれて、解決の希望は消え去った。

少年の父親は言う。「人々は抑制がきかなくなった」。

ダラアの人々の抗議運動が始まってから数日後、少年たちが釈放されるという話を父親は聞いた。それは事実だった。

少年と他の少年たちは、スワイダの刑務所を出て、ミニバスに乗り、家に帰った。帰ってきた息子の顔を見て父親は驚いた。「息子だとわからないほど、顔が変形していた」。

 

1年前、少年はヨルダンへ逃げた。彼は日雇い仕事を探しながらも、シリアへ帰ってアサド政権と戦うことを考えている。

落書きを書いた彼の従兄弟は逮捕を免れ、反省不軍に参加し、死亡したことを、少年は2か月前知った。

 

アンマンからの報告者:Kareem FahimRanya Kadri

ベイルートからの報告者:Hwaida Saad

=============(ニューヨーク・タイムズ終了)

 

少年たちが釈放されたのは、アサド大統領の指示によるものらしい。またダラア県の知事が解任された。遅まきながら、大統領が介入して事態収拾を試みたようである。残念なことに、ダラアに平穏は戻らなかった。逮捕された少年たちが拷問を受けて帰って着たことと、治安部隊が抗議する人々に発砲し、死者が出たことに対する住民の怒りは収まらなかった。

現在トルコに避難しているダラアのジャーナリストであるオマル・ムクダドが言う。「彼らは来る日も来る日もデモをした。それは革命の炎だった。

ダラアの住民は恐怖に挑戦した。シリアではこのようなことは、これまでになかった。シリア国民の不満は数十年間くすぶっていたが、。

ダラアにはバース党の強い支持層があり、思わぬ都市が起爆点となった。政権に忠実なバース党のダラア支部は自分たちの地域での反乱を許せなかったのかもしれない。

ダラアの反乱には、少年たちの逮捕と拷問という理由以外に経済的な背景があるのかもしれない。干ばつによる農業の不振に加え、給料と補助金の額が減った。

ダラアのようなシリアの小さな都市には、部族的な結びつきが残っており、郊外の村を含め、住民同士の関係は緊密である。いったん反乱となると、まとまりがよく、支配者にとって厄介である。

ダラア市の人口は15万人であり、大部分のスンニ派である。スンニ派であるが、落書き事件までは、ダラアの住民は政権を支持していた。

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