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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

南イタリアのギリシャ都市 3

2019-09-29 19:08:53 | イラク

ギリシャ文字は紀元前9世紀に考案されたが、以後300年間、使用頻度は低かった。原初的な共同体も紀元前9世紀に成立していたが、防衛に適した小高い丘(アクロポリス)を中心とする都市国家が成立するのは紀元前8世紀である。ギリシャ人は海洋民族であり、都市国家成立とほぼ同時に海外に進出し、紀元前8世紀末にはエーゲ海周辺に貿易網を作り上げた。

ネットのサイト「Ancient History encyclopedia」はギリシャ陣の植民活動を的確に表現している。

 ========《ギリシャの植民地》=======            

      Greek Colonization         

             by Mark Cartwright

ギリシャ人は船乗りであり、熱心に未知の土地へ向かって航海した。紀元前8世紀ギリシャの都市国家は、土地と自源を求めて、海を渡った。彼らは地中海のいたるところに、植民市を建設した。最初は未知の土地の人々を相手に交易し、次に彼らを征服した。こうして生まれた植民市は多かれ少なかれ、母市との関係を維持したが、母市に従属したわけでなく、独立した都市となった。これらの新しい都市は、ギリシャ的な性格をそのまま保つ場合もあれば、近隣の土着の文化に影響されることもあった。

地中海の各地にギリシャ植民市が建設されたことにより、ギリシャ本土との間で、物・人・文化・思想の交流が生まれ、ギリシャ的な生活様式が遠くフランス、イタリア、アドリア海、北アフリカ、黒海に広まった。ギリシャ植民市の合計は約500市であり、そこに住む人口は約6万人であった。紀元前500年には、植民市はギリシャ世界の4割を占めた。

==========(Greek Colonization引用修了)

紀元前500年ギリシャ全体の人口の人口は12万に過ぎなかった。しかも本土とそれに隣接するエウボイア島の人口は8万人に過ぎず、残りの6万人は地中海と黒海の各地に散らばっていた。紀元前500年頃は、現在に比べはるかに人間の数が少なかったといえ、当時中東でもっとも繁栄していたバビロンの人口はもっと多かった。紀元前612ー320年、首都バビロンの人口は20万人だった。これは首都だけの人口であり、これにその支配領域、チグリス・ユーフラテスの上流から下流流域までの人口が加わった。

 ギリシャ人の植民地の中でも、最も人口が多かったのはアナトリア西部のイオニア地方と南イタリアである。両地方はエジプト、シリア、フェニキアなどの文明に本土より早く接し、先進的であり、ギリシャ文明の発展に貢献した。イオニアと南イタリアは文芸の2大中心地となった。例えば、ソクラテス以前の哲学の2大学派はイオニア派とイタリア派だった。ターレスはイオニア派であり、ピタゴラスはイタリア派だった。

     《南イタリアの植民地》

南イタリアに最初に渡ったのはエウボイア島の市民である。ギリシャ本土の東に隣接するエウボイア島は、東方の先進明への窓となっていた。

8世紀後半、イタリア南部にいくつかのギリシャ植民市が成立しており、南イタリアの植都市の経済と文化はギリシャ本土と歩みを同じくして発展した.南イタリアの植民地は東の先進地帯との新たな交易拠点となり、繁栄した。また南イタリアは土地が肥沃で本土より住むに適していたこともあり、南イタリアの植民地は「大ギリシャ(メガレー・へラース;Μεγάλη Ἑλλάς)」と呼ばれた。ローマ人たちはこの呼び名を受け継ぎ、この地方をマグナ・グラエキア(Magna Grecia)と呼んだ。「マグナ・グラエキア」は最初南イタリアを意味したが、後にシチリアを含むようになった。

 上に引用した「ギリシャ人の植民地(Greek Colonization)」の中から、「マグナ・グラエキア」についての部分を訳す。

======《Greek Colonization》=======

           by Mark Cartwright

南イタリアとシチリアの土地の肥沃であり、天然資源に恵まれ、良い港を持っていた。ギリシャの植民者はこれを知り、植民を開始した。彼らは原住民を征服し、そこをギリシャ人の土地にしただけでなく、「大ギリシャ(メガレー・ヘラース:Megalē Hellas)と呼ぶようになった。やがてメガレー・ヘラースはすべての植民地の中で、最もギリシャ的な地域となった。都市の景観はドーリア式の神殿が建つ、典型的なギリシャ都市のものであり、そこでギリシャ文化が花開いた。

南イタリアとシチリアのギリシャ都市は東地中海と西地中海の中央に位置しており、海上交易に適していた。南イタリアとシチリアは、当時繁栄していた3つの文明(ギリシャ、フェニキア、エトルリア)との交易により繁栄した。古代の作家はこの地のギリシャ都市の莫大な富とぜいたくで浪費的な生活に言及している。紀元前5世紀前半の哲学者エンペドクレスは、シチリアのアクラガス(Akragas)の市民の浪費ぶりと壮麗な神殿について書いている。

「アクラガスの人々は死を目前にした人が、この世の名残に楽しむかのようであり、永遠に生きるかのように立派な神殿を建てる」。

南イタリアとシチリアのギリシャ都市は新しい都市を建設し、彼らの領域は拡大した。

マグナ・グラエキアは植民地であったが、デルフィとオリュンポスの神殿に奉納し、オリンピアの競技に参加しており、本土の都市国家と同列だった。オリンピアの競技ではマグナ・グラエキアの多くの選手が優勝している。

マグナ・グラエキアは東地中海と西地中海の中央に位置に位置し、交易に有利であったが、それゆえライバルであるフェニキアとの抗争が避けられなかった。ギリシャ諸都市は、外敵に対し協力して戦ったが、各都市はそれぞれ独立しており、互いに競争相手であり、外国に対する戦いでの団結は常に保障されていたわけではない。

 

 ==========(Greek Colonization引用修了)

 

シチリア島南西部の都市アクラガス(Akragas)には7つの神殿があり、アクラガスはマグナ・グラエキアを代表する都市となっている。

======《Valle dei Templi》=======

              wikipedia

アクラガスの遺跡はママグナ・グラエキアの傑出した芸術と建築の例となっている。ここには7つの神殿がある。

①コンコルディア神殿 

 

このドーリア式の神殿は紀元前440-430年に建設され、シチリア島で最大の神殿であり、ギリシャ世界の中で現存する、最も保存の良い神殿となっている。

②ユーノー神殿 


コンコルディア神殿同じくドーリア式神殿であり、紀元前450年頃建設された。紀元前406年カルタゴ軍によって町が包囲された時、焼かれたが、ローマ人に寄って修復された。神殿はギリシャの女神ヘラにささげられた。ローマ人はヘラをユーノーと呼んだ。

③ヘラクレス神殿

 

これもドーリア式神殿であり、アクラガスの7つの神殿の中でもっと古く、紀元前6世紀末に建てられた。

神殿の中にヘラクレスの像が収められている。ヘラクレスはアクラガスのギリシャ人が最も尊崇した神である。神殿の名はこの像とキケロの記述からの推定であるが、異論はない。ヘラクレス神殿は地震で破壊され、数本の柱しか残っていない。

④オリンピア・ゼウス神殿

紀元前480年アクラガスがカルタゴに勝利し、その記念に建てられた。全壊した。

⑤カストールとポリュデウケースの神殿

カストールとポリュデウケースはギリシャとローマ共通の神。柱4本しか残っていない。

(以下省略)

==========( wikipedia引用修了)

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イスラム国に対する空爆開始 8月8日 2014年

2015-07-23 22:37:10 | イラク

6月11日、ISISがモスルを占領し、大量の武器を持ち去った。その中には戦車40台も含まれる。にもかかわらず、オバマ大統領はすぐに軍事行動を起こそうとしなかった。ぐずぐずしている国防総省は批判の的となった。しかし2か月後、オバマはISISに対する空爆を決定した。8月8日、アメリカ軍はISISに対する空爆を開始した。空爆を決断した理由は2つあった。

 

国連はヤズィディー教徒・キリスト教徒・アッシリア人の保護と援助を呼び掛けていた。

           故郷を追われたヤズィディー

             

      チグリス川上流のシリア・イラク国境 Fishkhabour (写真)BBC 

 

しかし米国にとって、はるかに深刻な別の問題があった。クルド地域に危険が迫っていたことである。

 クルドの中心都市アルビルに危険が迫っていた。 8月7日、アルビルの近くで、ISISとクルド軍が初めて戦闘し、短時間でクルド軍が敗退した。

アルビルは2003年~2007年、イラク各地で爆弾テロが吹き荒れていた間、別世界のように平穏だった。米国とトルコの投資が流入し、経済が発展した。バグダードほど暑くなく、冬には雪が降り、アルビルはもともと観光地だった。現在はベイルートやアブダビのように繁栄した魅力ある都市に成長している。アルビルには米国の石油会社の事務所があり、多くの米国人が居住している。ここにある米国領事館はバグダードの大使館に劣らず重要である。 石油産業界や軍産複合体は、オバマ政権に「ISISを空爆しろ」と圧力をかけた。

              

              

クルド地域の重要性について、ガーディアン紙が書いている。2014年8月7日。

  ===============

ISISはクルド地域の周辺の町々を攻略し、アービルの近くまで進出した。クルド軍(ペシュメルガ)はやっとのことで防戦していた。

                ペシュメルガ兵士

                 

                      ( 写真 ) Waar Media Shingal and Zummer      

「ISISがクルド地域に侵入するなら、米国の戦略を根本からくつがえしてしまう」と米空軍の退役将軍が言った。退役将軍デイブ・デプトラは空軍の情報部長であり、1991年の湾岸戦争の時の空爆を計画した。

イラク軍と米軍の合同作戦本部はバグダードとアルビルにある。米国の大統領にとって、米国の軍・民の職員を守ることは最重要の課題である。

「バグダードのマリキ政権を支えるために軍事援助すべきか否かについては、迷うところだ。しかしクルド軍を航空支援すべきことは、考えるまでもない」とデブトラ将軍は言った。

(原文)Isis incursion into Iraqi Kurdistan pushing Obama to consider air strikes

貼り付け元  <http://www.theguardian.com/world/2014/aug/07/obama-options-iraq-isis-incursion-yazidi>

            ==================

米軍にとってクルド人は信頼できる同盟者であるが、マリキ政権は信用できない。クルドとの同盟は、米国のイラク戦略の中核である。トルコのインジルリクにあるNATOの空軍基地を拠点に、クルド人を援助するつもりである。

インジルリクはシリアの海岸部に近く、イラクのアルビルまではやや遠い。インジルリク空軍基地はアダナの郊外にある。地図の西端にアダナがある。地図の南端にアレッポがある。

            トルコとシリアの国境地帯(西部)

 

インジルリク空軍基地はシリア北西部に近く、シリア北部への出撃に適しており、米軍がシリア北部の制空権を獲得するのは容易である。

2015年3月15日のタス通信が「インジルリク空軍基地にドローンが配備される予定だ」と伝えた。

                  大型ドローン           

               

                          (写真) Alan Ladecki

アダナには自由シリア軍の本部があり、シリアとの国境付近のレイハンルには自由シリア軍の軍事基地がある。地図の南端にアレッポとレイハンルが東西に並んでいる。レイハンルはトルコ領である。

レイハンルの西にアンタキヤがある。アンタキヤは旧アンティオキアであリ、古代シリアの中心都市であった。ヘレニズム・ローマ時代の遺跡が多く残っている。シリアの古都が、現在はトルコ領になっている。トルコの国境線は海岸部を取り込むように曲がっている。レイハンルとアンタキヤはトルコに取り込まれたのである。レイハンルはアレッポに近く、アレッポの自由シリア軍にとって絶好の補給基地・避難所になった。

アンタキアの南にシリアの海港ラタキアがある。

            シリア領ラタキアとトルコ領アンタキヤ

           

アレッポの北方のキリスにも、自由シリア軍の軍事基地があるようだ。後藤健二さんが「トルコからシリアに入るのは難しくなっており、キリスからなんとか入った」と報告していた。

 

                米空軍が空爆を開始

            

8月8日、アメリカ軍はISISに対する空爆を開始した。クルド地域を守ることが主な目的であったが、もう一つ緊急事態が発生した。ISISがモスル・ダムを占領したことである。8月の空爆は、モスル・ダムのISISに対する空爆回数が最も多い。

        

         

                                           (地図)BBC

モスル・ダムの重要性と破壊的な被害をもたらす危険について、BBCが書いている。8月18日。

         ====================

             [モスル・ダムの重要性]  

モスル・ダムはイラク人にとって最も重要な水源である。30年前サダム・フセインがこのダムを建設した時、それは彼の指導力と国力を示す象徴となった。

       

 ダムはモスルからチグリス川の上流50kmにあり、イラク北部の広大な地域に水と電力を供給している。1010メガワットの電力を生み出し、120億立方メートルの水を蓄えている。ダムの水はニネベ州の農地にとって不可欠の農業用水である。

                 ニネベ州        

         

                    [ダムの重大な欠陥]

ダムは完成直後から水漏れが発生した。定期的にコンクリートを注入し、補修しなければならない。米国はイラクのチームと協力して、点検と補修にあたってきた。3千万ドルの出費となった。

2007年、駐留米軍のペトレアス司令官とクロッカー米大使が、ダムの構造的な弱さについて、マリキ首相に注意した。ダムが不安定な地面の上に建っていたからである。

「ダムの破局的な決壊が生じる危険がある。チグリス川の大氾濫となり、バグダードに至るまでの流域が水に沈むだろう。ダムの水が多い時に決壊すれば、モスルには20mの高さの水が押し寄せるだろう。」と2人は手紙に書いた。

                         ISISがモスル・ダムを占領 

                    

8月7日、ISISがモスル・ダムを制圧した。ダムの上に黒旗が翻った。この重要なダムがISISの手中にあることは危険であり、クルド人の部隊が出動した。オバマ大統領は米空軍がクルド軍を支援することについて、議会の同意を求めた。「非常に多くの市民が危険にさらされており、バグダードの米大使館にも被害が及ぶ。モスル・ダムの潜在的な脅威を考えるなら、米空軍の展開は必要である」と議会に宛てて書いた。

ISISは水源を戦争の手段として使用する考えであり、以前にも水源を確保しようとした。米政府が恐れるのは、過去に事例があるからだ。

 

2014年2月、ISISはアンバール州のファルージャ・ダムを占拠した。小さなダムとはいえ、ISISが水門を操作し、洪水となった。、多くの住民が避難した。ファルージャ・ダム(Fallujyah dam)は地図の南端に示されている。

            チグリス川の2つのダムとユーフラテス川の2つのダム    

        

2番目に大きいハーディサ・ダムは、イラク軍が守り抜いている。全長8kmのハーディサ・ダムはファルージャ・ダムの上流にあり、その発電所はイラクの電力の30%を供給している。2003年のイラク戦争の時は、このダムを確保することが特殊部隊にとって最優先の任務だった。

 

             [過去の事例]

「モスル・ダムをISISが支配することの危険は、農地を水没させ、飲料水の供給が失われることだ。今年(2014年)の春、ファルージャで実際に起きたことだ」とケイス・ジョンソンがフォーリン・ポリシイに書いている。

5月、ファルージャからアブ・グレイブにかけて住民4万人(推定)が難民となった。

 

8月初め、ISISは再びを操作し、10の水門のうち8の水門を閉じた。流れがせき止められたので、水があふれ、ユーフラテス川の上流では水があふれ、下流では水位が下がった。治安部隊の関係者の話では、多くの家族が避難し、軍隊は任務地に行けないという。

ISISは、その後5つの水門を開いた。自分たちの拠点であるファルージャが洪水になるのはまずいと考えたのである。

 

モスル・ダムを占領したISISは、ダムの職員にダムの管理を続けろと命令した。ISISは電力と水の供給源を人質にとり、アバディ首相を脅迫し、大きな譲歩を迫るつもりだ。途方もない脅迫の材料を手に入れたISISは、ダムと周辺の地域を死守するつもりだ。

(原文)Mosul Dam: Why the battle for water matters in Iraq  By Alex Milner BBC News

貼り付け元  <http://www.bbc.com/news/world-middle-east-28772478>

            =================

 

ISISによるモスル・ダム占領は10日間で終わった。8月17日クルド軍とイラク軍がモスル・ダムを奪回した。

             モスル・ダムを奪回したクルド軍とイラク軍

              

                                        (写真)BBC

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2人のバーキルと政治的イスラム

2015-07-13 22:36:10 | イラク

サドル家とハキーム家はナジャフのシーア派の名門である。サドル家のバーキルとハキーム家のバーキルは1960年代の政治的イスラム運動の中心的な人物として、互いに協力し合った。政治的イスラムが世界的な注目を集めるのは、1979年のイラン革命以後であり、1960年代は無名だった。

2人のバーキルはイラク最初のイスラム政党ダアワ党の拡大に貢献した。

サドル家のバーキルは、政治的イスラムの思想家である。彼の著作はイスラム原理主義運動の理論書となっており、バーキルは教祖的存在である。

1980年のバーキル・サドルの死後、もう一人のバーキル、ハキーム家のバーキルはイランに亡命し、テヘランでイスラム革命最高評議会を創設した。現在ダアワ党と並ぶ、シーア派の大政党になっている。さらにハキームは党の軍事部門としてバドル旅団を組織した。バドル旅団はバドル軍に成長し、現在イラク内務省軍と並ぶ軍事集団になっている。

まずサドル家の3人について書く。

 

          <ムクタダ・サドル>

バーキル・サドルは1980年に死んだので、あまり知られていない。よく知られているのはムクタダ・サドルである。2003年のイラク戦争後、米軍を攻撃し、有名になった。イラク・アルカイダのザルカウィとマフディ軍を指揮したムクタダ・サドルの活躍は、フセインの逮捕以上に話題となった。 

彼とイラク・アルカイダのザルカウィは戦後の混乱を深めた。2人は悪の権化のように米軍から憎まれた。

マフディ軍は「イラクの主権を守る」という立場から、米軍を攻撃した。「占領軍である米軍は主権をイラクに返し、できるだけ早く撤退すべきである」というのが、シーア派すべての一致した考えである。ムクタダ・サドルが例外的なのは、武力攻撃によって意思表示したことである。

マフディ軍はバース党残党の暴力からシーア派住民を守った。警察は消滅していた。占領当局があわてて警察官を復帰させたが、それらの警官は、しばしば殺害された。

シーア派住民の多数から尊敬されるシスターニ師と比較すると、ムクタダ・サドル師は小さな存在だったが、民衆に密着した活動によって、徐々に支持者を増やしていった。

             

                                        (写真)  iraqi news

2015年になってサドル師は、シーア派民兵に対し、スンニ派住民を殺害することを禁じている。彼はシーアとスンニの分裂が深まるのを、食い止めようとしている。

2015年4月6日、サドル師はイエメンの内戦がイラクに波及する危険を感じ、サウジアラビアとイランが和解することを求めた。「権力者どうしの争いによって、民衆が犠牲になってはならない」。

 

           <サーディク・サドル>

ムクタダが属するサドル家は、シーア派法学の名門である。父のサーディク・サドルはシスターニと並ぶ大アヤトラであり、1990年代後半、ナジャフのシーア派最高学府の頂点に立っていた。

           シーア派の聖地ナジャフ        

        

                                  (地図)wikipedia

サーディクは1999年、モスクから家に帰る途中、銃撃され、暗殺された。彼はフセイン政権に不服従の姿勢を示していたので、政権による暗殺と考えられた。

これに怒ったシーア派住民がナジャフとバグダッドで大暴動を起こした。政府は最精鋭の共和国特別防衛隊を送ってこれを鎮圧した。住民27人が死亡した。軍を指揮したのは、フセインの二男クサイである。

 

              <天才思想家バーキル・サドル>

サーディクが暗殺される20年以上前に、サドル家の法学者が処刑されている。サーディクのいとこにあたるムハンマド・バーキル・サドルである。バーキルはイスラム世界有数の思想家であり、1950年代にイラク最初のイスラム政党の創設に関わった。ダアワ党の創設がいかに画期的な出来事であったか、山尾大が述べている。

   ==========

2003年のイラク戦争後、シーア派のイスラム政党が躍進した。それら諸政党の起源は1950年代に出現した一つの政党にたどることができる。それがダアワ党である。ダアワとは「呼びかけ」を意味する。

豊富なイスラム法の知識を有するバーキルは、ダアワ党の精神的指導者になった。バーキルの独創的なイスラム国家論はイスラム思想史に新たな時代を開き、彼の著「イスラム国家の力の源泉」は、以後の政治的イスラムの教科書となった。ホメイニ師の「法学者の統治」もバーキルの国家論から発展した。当時ホメイニ師はナジャフに亡命しており、ナジャフの法学者バーキルの影響下で自分の理論を発展させた。

(引用)山尾大 現代シーア派のイスラム国家論

  ===============

イスラム・ダアワ党は、現在に至るまでイラク最大のイスラム組織である。サダム政権崩壊後の4人の首相のうち、3人がダアワ党から出ている。

 

            ナジャフのイマーム・アリ神殿内部    豪華な墓

      

                             (写真)wikipedia              

                <バーキル・ハキーム>

2003年、ハキームの死の直後、ガーディアン紙が彼の死について書いている。

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ハキームは一貫してサダム・フセインに反対する立場をとった。

2003年8月29日、ハキームは自動車爆弾によって死亡した。イラクの統一の必要を訴える説教を終えてイマーム・アリ・モスクを出た時、自動車爆弾が破裂した。大きな爆発で75人が巻き添えになった。

 

ハキームは最大の反政府勢力である革命最高会議の指導者であった。ハキーム家はイラクのシーア派の間で最も高名で、尊敬されれる家系であり、シーア派に対する影響力は絶大である。イラク国民の60%がシーア派である。

 

20003年5月12日ハキームは亡命地テヘランからイラクに戻った。1980年にイランに亡命したので、23年間の亡命生活だった。亡命から帰国した革命の指導者という点で、イラン革命の指導者であるホメイニ師と共通している。ホメイニ師はイラクのナジャフで12年間亡命生活を送り、1979年パリ経由でイランに帰った。

帰国したハキームは、14年前のホメイニ師がそうであったように、ナジャフの民衆から熱烈な歓迎を受けた。 新政権の中心的人物となることを期待されたのである。

 

           [亡命以前]

ハキームは1939年、ナジャフに生まれた。父は高位の法学者だった。ハキームはシーア派イマームとして伝統的な教育を受けた。

1960年代、ハキームはダアワ党に参加し、バーキル・サドルと共に政治的イスラム運動の中心的存在になった。1980年のバーキル・サドルの死まで、2人は緊密に協力しあった。

ハキームは過激な原理主義者ではなかったが、シーア派の立場を熱心に擁護したので、バース党政権からは危険人物とみなされた。

1970年代、バース党政権はシーア派法学者の政治グループの弾圧を開始した。1972年、ハキームは思想的理由で逮捕され、拷問を受けた。彼の5人の兄弟と10数名の親戚がフセイン政権によって殺害された。

1977年、ナジャフの反乱の責任を問われ、ハキームは再び逮捕され、終身刑の判決を受けた。2年後の1979年7月、ハキームは減刑され、釈放された。減刑の理由は、彼が民衆の間で非常に人気があったからである。

1980年、ダアワ党の思想家バーキル・サドルが政権によって殺害された。ハキームは前科があるので、自分も危ないと判断し、イランに亡命した。

イランでは前年革命が起き、シーア派のホメイニ師が最高権力者となっていた。ハキームがイランに亡命した1980年、イラン・イラク戦争が既に始まっていた。ハキームは敵国に亡命したのである。残酷な戦争は1988年まで続き、8年戦争と呼ばれる。

            [テヘラン時代]

亡命前ハキームが所属していたダアワ党は、テロ集団となっており、政府の人間に対して襲撃をくりかえしていた。指導層は、保守的な法学者たちである。

亡命地のテヘランで、ハキームはイラン・イスラム共和国によって安全を保障され、イラクのバース党政権に対し、公然の敵となった。

ハキームはダアワ党を含むシーア派をまとめて、イスラム革命最高評議会を創設した。党の名前が示すように、フセイン政権を倒し、イスラム法学者による統治を実現することを目的としている。

イランとの戦争が始まると、フセイン政権はシーア派に対する不信感を強めた。シーア派政党は敵国イランと通じている、と疑ったのである。シーア派の政治団体に対する弾圧はさらに厳しくなった。

逮捕を逃れて、多くのシーア派がイランに亡命した。ハキームは彼らを組織化した。

 

ハキームがイラクのバース党政権打倒を目的とする政党を組織したことを、フセインが黙って見過ごすはずがなかった。1983年、フセイン政権は亡命せずイラクに残っていたハキーム一族125人を逮捕し、この中の18人を処刑した。

このことはフセイン政権に対するハキームの敵対心をさらに強めた。革命最高評議会はイランの援助を得て、武装集団を組織した。これがバドル旅団である。武装グループは、イラク国内の地下組織と密かに連絡を取り、イラクの施設を定期的に襲撃した。イラクにとって、これは、戦争相手国イランのゲリラ部隊に襲撃されるに等しかった。バドル軍はイラン軍の別動隊となり、イラク軍と戦った。

 

1991年、湾岸戦争の直後、ハキームはブッシュ米大統領の裏切りに怒った。父ブッシュは、フセイン政権に対するシーア派の反乱を支援するそぶりを見せながら、いざという時に知らんふりをした。反乱したシーア派は、共和国防衛隊のなすがままになり、戦闘というより、一方的な虐殺になった。犠牲者は数万人と言われている。

 

1990年代の後半、ダアワ党は革命最高評議会から距離を置くようになった。革命最高評議会はイランの影響を受けすぎており、イランの原理主義的な指導者ハメネイ師の支配下にあると考えたからである。

            [帰国後の4か月]

5月12日にナジャフに帰ってから、たった4か月後の8月29日、ハキームは殺害された。今になってみれば、ハキームの生命が脅かされていたことは明白だ。というのは、ハキームを支持する群衆の中に、ムクタダ・サドル師の支持者が紛れ込んでいたからである。29歳のムクタダ・サドル師は、バグダードの貧しい地区の過激派に支持されている。彼らサドル派の考えによれば、「外国帰りの亡命者がシーア派を代表する資格はない」。

ハキームのような亡命帰りの指導者たちは若い世代をひきつけ、古くからの国内派にとって脅威となっている。少し前、ハキームの叔父に対する暗殺が未遂に終わったが、実行犯はサドル派の人間と噂されている。

シーア派内部に亀裂が生まれている。4か月前に、別の法学者が殺害されていた。ハキームと同じく、ホーイ師も亡命帰りの法学者である。サダム政権崩壊直後の2003年4月12日、ナジャフのモスクで、ホーイ師はライバルの党派によって、めった切りにされて死亡した。モスクで法学者を殺害することなど、過去には想像もできないことだった。

 

ハキームは米国がイラクを支配することに反対した。6月彼は不吉な発言をした。  

「米国は、解放者としてイラクに来たと自らの正当性を主張する。しかし今や、彼らは占領軍である。イラク国民の忍耐が限界に達したら、地方的な反乱が起きるだろう」。

しかし威嚇的ともとれる発言とは裏腹に、ハキームは米軍に対して武器を取らないよう、支持者を戒めた。ハキームは巧妙な現実主義の政治家だった。弟のアブドゥルアジーズ・ハキームを統治評議会に参加させた。米軍が選任した統治評議会は国民を代表していないと批判された。しかし終戦直後は占領軍に全権があるのが当然である。米国はとりあえず、臨時のイラク側代表を選定した。

ハキームのイスラム革命最高評議会が統治評議会に参加することは、驚くべきことである。統治評議会のメンバーとなったアブドゥルアジーズは、バドル旅団の最高責任者である。バドル旅団の本部はイランにある。

イラク戦争中、ラムズフェルド国防長官はバドル旅団に対し、イラクに侵入しないよう警告した。バドル旅団がイラクに入ることは、イラン軍がイラクに入ることに他ならない。

ハキームとは対照的に、ムクタダ・サドルは言行一致であり、占領軍による統治を否定し、米国の操り人形にすぎない「統治評議会」を拒否した。

           バーキル・ハキーム

          

                      (写真)global security org

ハキームはまれにみる人間的な魅力の持ち主である。由緒あるサイード家の黒ターバンで頭を包みながら、しばしば、いたずらっぽい子供のような笑顔を見せる。つらい経験をした人間の笑顔とは思えない。彼の兄弟は殺害され、彼自身は拷問を受け、牢獄に入れられた。ハキームが属するサイード家はムハンマドの子孫であり、格式が高い。

(原文)Lawrence Joffe:Ayatollah Mohammad Baqir al-Hakim

貼り付け元  <http://www.theguardian.com/news/2003/aug/30/guardianobituaries.iraq>

 [亡命以前]と [テヘラン時代]はウイキペディア英語版によって補足した。

貼り付け元  <https://en.wikipedia.org/wiki/Mohammad_Baqir_al-Hakim>

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ティクリート戦=最後の6日間

2015-06-29 22:46:27 | イラク

                ティクリートの大統領宮殿

          

                                    (写真)CNN

イラクはイランに乗っ取られたと考えて、サウジアラビアはうろたえている。1991年の湾岸戦争の直前、クェートを占領したイラク軍が、隣接するサウジアラビアの油田地帯に侵攻するのではないか、と恐れられた。実際に、イラクの戦車群がサウジとの国境付近に集結した。米軍の戦車に対する防衛体制だと、後でわかった。

現在サウジアラビアはイランを恐れている。

イギリスの女性外交官エマ・スカイも、イラク政府はイランの支配下にある、と憂慮している。彼女は、2003年のイラク戦争後、バグダードで占領行政に携わった。占領軍の司令官だったオディエルノ将軍の補佐官を務めた。開戦前、エマ・スカイは戦争に反対していた。イラク攻撃は、正当性がない侵略戦争だと批判した。しかし、彼女は2011年の米軍の撤退に、反対した。その理由は、「米軍の役割が変わった。内戦が開始されてしまったので、止め役としての米軍が消えてしまえば、取り返しがつかない事態になる」と予感したからだ。2008年にフセイン残党のテロが鎮静化したのは、一時的なものだ、と彼女は見ていた。彼女の予感は的中した。2014年以後、イラクは再び内戦に突入した。

 

イラク政府に対するイランの影響力が圧倒的になるのは、2014年のISISの大攻勢がきっかけである。ISISはシーア派の地域を制覇する勢いだった。そうなれば、由緒あるシーア派のモスクが破壊されるかもしれない。シーア派の信徒の多数が虐殺されるかもしれない。こうした恐怖を前に、冷静なシスターニ師といえども動揺した。この危機を救ったのがイランである。

この時以前は、イラクのシーア派はイランから自立していた。イランの援助を受けながらも独立性を保っていた。

 

イラン脅威論を念頭に置きながら、ティクリート戦の最終段階を振り返ってみたい。

               チグリス川の対岸が戦場

         

                              (写真) i2.cdn.turner.com

             <米国に空爆を要請>

アバディ首相は、シーア各派に相談せずに、米国に空爆を依頼した。空爆の依頼は軍事的必要性によるものではなく、親米派の巻き返しの策謀のように見えた。バドル軍の指導者ハディ・アメリは、空爆要請に反対していた。バドル軍は最大のシーア派民兵軍である。「米国を信頼するのは、蜃気楼を現実と思い込むようなものだ」。

しかし発表された犠牲者の数だけでも1000名を超えており、犠牲を少なくして勝利するという判断は、妥当だった。

 

3月15日、サイディ将軍が、米国に空爆と情報収集を要請するよう、イラク国防相に求めた。アブドゥルワッハーブ・サイディ将軍はティクリート戦の司令官である。

3月22日、アバディ首相はオバマ大統領に航空支援と情報収集を要請した。

イラクの要求に対し、米国防総省は条件を出した。その条件について、米中央軍のオーステイン司令官が、上院軍事員会で証言している。

 

         (オーステイン司令官の証言)  3月26日             

 「シーア派民兵軍はティクリートを奪回することに失敗した。その結果、イラク政府は、米国に空爆を要請してきた。米国は、シーア派民兵が撤退するという条件で、空爆を引受けた。私は、情報収集のための飛行を開始する前に、シーア派民兵を撤退させるように要求した。我々は、イランが指導するシーア派民兵と共同作戦をするつもりはない。

戦闘終了後、シーア派民兵をテイクリート市内に入れない、という条件も、イラク政府は了承した」。

  ===========

オーステインは明言していないが、米国はイランのスレイマーニ将軍の退去を求めた。

 

        <空爆開始>

空爆は3月25日の深夜に始まった。8時間30分続き、翌26日の明け方に終了した。出撃回数は17回である。朝になると、米軍にかわってイラク空軍が爆撃を続けた。

この後30日までに、米空軍と連合軍はさらに28回の空爆を行った。

空爆は多数のシェルターを破壊した、とマガーグ米大統領副特使が語った。

大統領宮殿は徹底的に破壊された。2003年のイラク戦争の時をしのぐ破壊だった。サラフディン県の庁舎ビルの壁は跡形もなく吹き飛ばされ、骨組みしか残っていなかった。2階建ての民家は、土台しか残っていない。民家を吹き飛ばすことは容易でも、数が多い。どの家に潜んでいるかわからない。都市ゲリラ戦を困難なものにする。

この間、幹部を含むISISが多数殺害された。

                        大統領宮殿

      

                                  (写真)iraqinews

(写真の説明) 遠距離なので破壊の跡がよく見えない。構造の大部分は残っているが、CNNの動画では、構造が破壊された部分が写っていた。ティクリートの大統領宮殿は宮殿群であり、冒頭の写真のように、方角によって異なって見える。

          <シーア派軍は撤退要求を無視>

シーア派軍は米国の要求にもかかわらず、撤退しなかった。オベイディ国防相は米国の要求を完全に無視した。「シーア派民兵を撤退させるつもりはない。これまでどおり戦いを続ける」と語った。

 

           <米空軍の参戦は不要>

しかしシーア派民兵3グループが撤退した。米国の条件を受け入れたのではなく、米国の参戦に反対し、抗議行動として、戦線から離脱した。「米軍の空爆は不要だ。自分達だけでやれる。米軍の参戦は勝利を横取りするものだ」と米国を批判した。2グループは、最近までイランの将校が指導していた。

撤退したアサイブ・ハクの広報官は「米国は信用できない。以前、米国は我々の部隊を爆撃し、ISISには補給物資を投下した」と言った。バドル軍の指揮官も米国の立場を批判した。「我々も撤退するかもしれない」。

 

            <28日、バドル軍が撤退>

シーア派の大部分は、26日と27日は戦ったが、28日、ほとんどのシーア派民兵が戦線を離脱した。シーア派が宿泊していた大学の敷地は、静けさにおおわれた。特殊部隊と肩を並べ最前線で戦っていたキターブ・アリ・イマーム軍の兵舎も、空っぽだった。イマーム軍を指揮しているズバイディ少佐は「上からの命令だ」とワシントンポストのモーリス特派員に語った。

イランのスレイマーニ将軍もイランに帰った。

 

ほとんどの民兵が去ってしまうと、イラク軍の司令官たちは落ち込んだ。前日、たまたま南部からシーア派の宗教指導者が訪問してきたので、司令官のひとりが「民兵たちに、とどまるよう説得してくれ」と頼んだが、無駄だった。

                     戦線に復帰するよう交渉

             

                                        (写真)AP 

ティクリート作戦の司令官であり、特殊部隊を率いているアブドルワッハーブ・サイディ中将は語った。「今、彼らが最も必要な時だ。兵力が足りない。彼らはこれまで多くの勝利をもたらしてきた」。

 

     <連邦警察と特殊部隊による勝利>

3月30日、アバディ首相はテクリートのISISは壊滅した、と報告した。

戦車・重砲・連射砲を持つ、シーア派軍の中心部隊は、最終局面で姿を消していた。

最後の3日間は連邦警察と特殊部隊が中心になって戦った。特殊部隊は黄金師団と呼ばれ、ティクリート戦の当初から最前線で戦った。最後の3日間、イラク軍は適切な作戦計画と戦術に従い、規律ある戦いをした。イラク軍の戦闘力が向上したことを示した。

 

最後の3日間戦ったシーア派軍は次のとおりである。2名以上の民兵軍の司令官と1名の連邦警察高官がアルジャジーラに語った。

①カタイブ・ヒズボラ

②ヌジャバー(アサイブ・ハクから分裂した軍)

③ジュンド・イマーム

④バッタール旅団

⑤アクバール旅団

スンニ派の志願兵旅団も参加した。

 

           <イラク空軍の出撃> 

米軍の空爆が始まったのは25日の夜である。

その日、米空軍に先立って、イラク空軍のスホーイ25型が、バグダードのラシード基地を飛び立った。ラシード基地には中古のスホーイ25型が5機、配備されている。国防相は自信を持って見送った。しかしその中の一機が誤爆した。 

            

                                                                          (写真)Reuters

イラク空軍の空爆は不正確で、目標に命中しないことが多い。25日には味方の陣地を誤爆し、イラク兵が逃げ回ることになった。15人が負傷し、4人は重傷だった。

誤爆してしまったからといって、イラク空軍は役立たずではない。ISISが陣地としている建物を破壊し、米空軍の出撃と交代する形で出撃するので、ISISは休むことができない。

 精密な爆撃をする米軍も、誤爆をしている。シーア派民兵9人が死亡した。シーア派は、これは誤爆ではなく故意だと考えている。

 

       <個々のシーア軍は他からの命令を受けず>

ティクリート戦の最終段階は、バドル軍をはじめシーア軍主力無しで勝利した。にもかかわらず、米国防省のスタッフは、シーア派の「ごろつき」が果たした役割の大きさを認めている。「彼らがいなければ、ティクリートの勝利はなかった。

シーア軍について、国防総省の複数のタッフが鋭い分析をしている。デイリー・ビーストから抜粋する。

 ============

シーア派民兵が、地上戦の主力として勝利に貢献した事実は重く、今後の作戦について、彼らに主導権がある。しかし彼らは一枚岩でなく、いくつものグループに分れており、それぞれの方針を持っている。シーア派民兵の各グループは独立した存在であり、イラク政府・米国・イランのいづれからも距離を置いている。3国の政府との対立が予想され、グループ同士が互いに争う可能性も高い。

彼らはイラク政府にとって信頼できる相手でない。目前に迫っているモスル戦に彼らは参加しない。

ティクリートはシーア派にとって戦闘領域の北限だった。

Fault Lines 貼り付け元  <http://www.thedailybeast.com/articles/2015/04/04/shiite-militias-are-the-real-winners-of-the-battle-of-tikrit.html>

  ==========

 

ティクリート自体はスンニ派の土地であり、自分達の土地ではないので、戦う理由はない。少し南方にはシーア派地域があり、それは守らなければならない。

ティクリート作戦開始にあたって、バドル軍の司令官が、ことさら「スパイカー基地の新兵虐殺の復讐」を誓ったのも、ティクリート戦の理由が、志願兵にとって分りにくかったからかもしれない。

バグダード以南の若者は、北方のスンニ派の都市モスルを攻撃する理由が分らない。

今回のティクリート戦には、シスターニ師の呼びかけに応じて参加した者が少なくない。彼らはかならずしも戦争の意味を理解していなかった。志願兵は「スンニ派を絶滅して領土を拡大」しようと考えていたわけではない。

各グループ相互の違いに加えて、各グループ内に中核部分と一般志願兵の相違がある。一般志願兵はティクリート戦で戦死者が多かったことに、心を痛めており、戦争理由に納得できない場合、今後は参加しないかもしれない。

         

                                   (写真)Daily Beast

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4千年の栄光と千年の衰退を経た国

2015-06-19 17:53:13 | イラク

             

    <1000年間の衰退期>

750年に成立したアッバス朝は、第5代カリフのハールーン・アッ=ラシードの時代に最盛期を迎えた。在位期間は786年~806年である。バグダードは「全世界に比肩するもののない都市」に成長した。しかし繁栄の期間は短く、800年代になると各地に地方政権が成立し、バグダードは中央政府としての機能を失った。アッバス朝のカリフは名目的存在にすぎなくなった。それに伴い、首都バグダードは徐々に衰退した。以後千年間、バグダードは再び首都となることがなく、繁栄を取り戻すことはなかった。アッバス朝の衰退後、現在イラクと呼ばれる地域は荒廃し、文明とほど遠い地方になった。

 

1970年代のバグダードは千年の眠りから覚めたようだった。やっとイラクは豊かな国になった。1000年間の貧しさに別れを告げ、文明国として復活へと向かった。メソポタミアは紀元前3000年から、紀元後900年まで、文明の中心だった。この間実に4千年である。フセインが自らをネブカドネザル2世に比したのも、見当違いではない。

イラク各地の遺跡や出土品に匹敵するものは、世界のどこを掘っても出てこない。紀元前2千年より前の高度な文明は、エジプトとメソポタミアでしか発見されていない。

 

    <イラク考古学>

聖書関連の考古学は19世紀に始まっており、聖書に登場するバビロニアの遺跡を求めて、イラクに向かうことがブームになった。西洋人は聖書を通して、古代都市バビロンの名を子供の頃から知っていた。考古学のブームに一般の人も乗った。彼らは学問的関心からではなく、宝探しが目的だった。しかしそのため、地元の人が、古いものがお金になることを知り、発見を促進した。

 

   <イスラエル王国の分裂>

ソロモンの死後、10部族がイスラエル王国(北王国)として独立し、南のユダ王国(南王国)から分離した。

 

        紀元前830年のシリア

      

 (地図の説明)

①地図の中央を、北から南にヨルダン川が流れ、死海に流れ注いでいる。死海は地図の下方の薄青色の部分である。死海の南端にエドム王国がある。黄色で示されている。首都は有名なペトラである。

②死海の西側が南王国ユダである。明るい黄緑色で示されている。

③死海の東側がモアブ王国である。本文には関係ないが、古代イスラル史にしばしば登場する。

④ヨルダン川の西側が北王国イスラエルである。濃い緑色で示されている。

⑤ヨルダン川の東側に2つの国家がある。北がアラム王国である。首都はダマスカス。濃い緑色で示されており、北王国と区別がつかない。南がアンモン王国である。

⑤紀元前830年には、アッシリアはまだシリアに進出していない。地図の上端に青色で、わずかに示されている。アラム王国の北側。

 

紀元前721年、アッシリアの攻撃により首都サマリアが陥落し、北王国は滅亡した。

南部のユダ王国はアッシリアの貢献国として存続した。

 

     <ユダ王国の滅亡>

南のユダ王国は、新バビロニアのネブカドネザル2世から2度の攻撃を受け、2度敗北した。一度目は紀元前597年で、エルサレムは降伏し、朝貢の義務を受け入れた。しかし紀元前586年に反乱をおこし、再び敗北し、最終的に滅んだ。

 

          [ 紀元前597年、1回目の敗北 ]

ユダ王国は、エジプトとシリアの境界に位置し、辺境の地であり、これまでかろうじて独立を維持してきた。またエルサレムは山上にあり、防備を施しているので、難攻不落である。かつて大国アッシリアの攻撃を退け、条件交渉に持ち込んだ。アッシリアに貢納することになったが、首都を守り抜いた事実は残った。

 

しかし新バビロニアの軍事力は格段に進歩していた。

ネブカドネザル2世の作戦計画は周到であり、投石器で石を放ち、数千人の弓兵が一斉に矢を放つた。45の攻城塔を城壁に立てかけ、金属の防具を身に着けたバビロニア兵が城内になだれこんだ。

王は戦死し、王子エホヤキンと約1万人のイスラエル人が捕虜となり、バビロニアに連れ去られた。これが第一回の捕囚と呼ばれる。

 

     [ 二回目の敗北=滅亡  ]

10年後、従順を見込まれて王位につけられていたゼデキア王が、反乱する。ネブカドネザルはエルサレムの城壁をとり崩し、ソロモンの神殿を破壊した。前586年、ユダ王国は滅亡した。捕虜となった市民は再び、バビロンに連れて行かれた。

 

     <バビロンの捕囚>

バビロンに連れてこられたイスラエル人は「故郷を追われ、異国の地でわが神を讃える歌を歌っても、むなしいだけだ」と嘆いた。

「バビロンの捕虜」は悲劇として語られるが、それはエルサレムが滅んだこと、故郷を追われたことについてであり、バビロンでの生活はしごく普通であった。ネブカドネザルにとって市民を土地から切り離すことで、目的は達成された。

 

    バビロンのイシュタル門 

     

                                         (写真 )   wikipedeia  

バビロンに来たイスラエル人たちは、古代都市の壮大な建造物に圧倒された。当時バビロンは繁栄しており、古い伝統を有する大都市だった。

イスラエル人たちは、建物の壁に彫られた生き物の像から強い印象を受けた。建造物の最大のものだったバベルの塔を、聖書に書き残した。この話は、近代の聖書の読者の間でも有名であり、バベルの塔の遺跡を現地で探すことが考古学の課題となった。しかし、現在に至るも発見されていない。バベルの塔は、ユダヤ人が現地で見たものではなく、伝説に聞いたものかもしれない。

民族の神を信仰し、自分達は特別の民族だとユダヤ人たちは信じていたが、バビロニアの文明の偉大さを認めざるを得なかった。そしてこのことは、旧約聖書の編さんに影響を与えた。バビロニアの文学や歴史が旧約聖書に取り入れられた。「アダムとイブ」「ノアの方舟」はこの時期に書かれた。したがって創世記は、バビロンに伝わる話として、旧約聖書の最後の方に置かれるべきである。エルサレム滅亡とバビロン捕囚の次が「創世記」となる。しかし、聖書の編さん者は、歴史よりも民族の神話を優先した。本来聖書の冒頭である「出エジプト記」の前に、「創世記」を持っていった。

 

   <紀元前1000年より前のことは、わからなかった。>

アッシリア・バビロニアはイスラエルにとって脅威だったので、旧約聖書にしばしば登場する。聖書の読者である西洋人の間では関心が高かった。考古学は聖書に関するものが中心だった。

 

1901年にハムラビ法典が発見され、1940年にシュメール語が解読され、アッシリア以前の歴史があるらしいとわかったが、紀元前1000年以前の歴史については、ほとんど知られていなかった。紀元前2500~紀元前1000年について、歴史の全貌が明らかになるのはずっと後である。粘土板がぞくぞくと発見され、シュメールについて理解されるようになり、シュメールに対する関心が深まった。聖書考古学とは別に、シュメール考古学が誕生した。メソポタミアには紀元前2500年以来、書かれた歴史があり、その長い歴史の最後にネブカドネザル2世が登場した。在位期間は紀元前605年 ~紀元前562年である。

 

アッシリア・新バビロニアは文明国であり、大国だった。その時代、イスラエルは数ある小国のひとつにすぎなかった。しかしイスラエルは民族の歴史が書かれた文書を保存し続けた。

 

     <アッシュールバニパルの図書館>

アッシリアの偉大な征服王アッシュールバニパルは教養があり、文書の収集に情熱を持っていた。シリア・メソポタミア全域の文書史料を収集し、膨大な図書館をつくった。この図書館は、オリエント世界の知識の集大成だった。有名なアレクサンドリア図書館の先例となった。

アッシュールバニパルの在位期間は紀元前668年 - 紀元前627年頃である。

 

         ライオン狩り(前645 ~ 前635年)

     

 

しかし、アッシュールバニパルの図書館は首都ニネヴェが滅んだ後、地に埋もれてしまった。

近代の西洋人にとって、アッシリアについての独自資料は存在しなかった。聖書によってわずかに知るのみとなった。バビロニアについても同様で、聖書とギリシャ人が伝えること以外知らなかった。現地の豊富な記録は地下に眠っていた。

1849年にアッシュールバニパルの図書館の一部が発見され、以後発掘が進み、かなりの部分が発見された。古代オリエントの研究はこの図書館の史料の解読に大きく依存しており、古代史を語る上で欠く事のできないものとなっている。

 

       

     <命取りとなったイランとの戦争>

フセインが「バビロニア王国再興」を夢見た期間は短かった。たった10年で、彼の夢はしぼんでしまった。

1980~88年のイランとの戦争によって25万人以上のイラク兵が戦死した。戦費によて国家財政は破綻し、クェートその他の湾岸諸国からの借金はふくらんだ。この借金問題が、1990年のクェート侵攻の原因になった。

フセインは軍人としての経験がなく、戦争指導に関する意見の違いから、軍将校との間の溝が深まった。サダム・フセインは軍将校によるクーデターを恐れるようになった。この頃から、サダムの恐怖政治と残酷な処刑が始まった。

 

イランとの戦争が1988年にやっと終わると、1991年に湾岸戦争になった。湾岸戦争の原因は、イランとの戦争によって膨大となった戦費がフセインを押しつぶしたからである。

第一次大戦後のフランスもドイツのルール地方を占領した。ルール地方は石炭と鉄鋼の産地であり、ドイツ最大の工業地帯である。このことでフランスはあまり非難されないが、ルール地方占領は、見境のない破廉恥行為と言ってよい。戦争は国の経済を破壊する。フセインがクェートを占領したことは、フランスがルールを占領したのと同じ動機による。

 

1991年の湾岸戦争後、8年間イラクは経済制裁を受け、石油が売れず、国民は貧窮した。

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失敗国家イラク

2015-06-13 00:40:30 | イラク

           <イラク戦争の再開 >

昨年以来、オバマ政権にとって、イスラム国を消滅させることが緊急課題となっており、オバマ大統領は2月初旬、地上軍の派遣の承認を議会の求めた。これまでの空爆に加え地上軍を派遣することは、戦争開始に等しい。地上軍はいったん出動させると、簡単には戻せない。オバマが独断で出兵せず議会に同意を求めたのは、納得できる。アメリカ国民の多数が反対し、議会でも反対と賛成が拮抗(きっこう)している。

 

211日、オバマは下院に宛てて書簡を出し、自分の意図を説明した。彼の考えていることがよくわかる。

   

======<オバマの議会への書簡>===========

イスラム国はイラクとシリアを不安定にしており、この地域の米国人と米国の施設に脅威を与えている。

私が要求した武力行使権限には、大規模な地上軍による長期間作戦は含まれていない。私は、アフガニスタンとイラクで行ったような戦争をやるつもりはない。そのような戦闘は、米軍ではなく、地元の軍隊が行なうべきである。

私が求めているのは、特定の場合に限っての地上戦である。例えば、有志連合と米国の人員を救出しなければならない場合である。迅速なに対応が対応が求められる。また、ISISの中核である指導部を壊滅させることが、最も効果的である。この重要な軍事作戦は、特殊部隊が行わなければならない。

 

私は原則として、地上軍による軍事作戦を意図しておらず、想定していない。予定しているのは、情報を収集し、地元の軍隊に提供することである。また作戦計画について彼らに助言し、その他側面から援助するつもりである。

 

議会に提出した原案には書かれていないが、私は議会と国民と協力しながら、2001年の武力行使権限授与法を改め、最終的には廃止する決意でいる。

=======================

 

オバマ大統領は、少人数の特殊部隊にとどめたいと願っているようだが、既に3千人の米兵がいるのに足りないというのだから、わずかなな増兵で足りるだろうか。事実上今回の決定は地上軍を出すという決定であり、明確な方針転換である。ブッシュが始めた戦争はいったん終結し、イラク政府は米軍の撤退を求めた。オバマ大統領は、戦争再開を決定し、議会に同意を求めた、ということである。

ISISの大進撃以後、3100名の米兵が軍事顧問としてイラクに派遣された。これだけでは足りず、師団規模の兵数にする計画である。オバマは小規模の作戦というが、現地の米軍が考えていることは、とりあえず一万人に増やし、必要に応じてさらに増強することである。

作戦計画の助言だけなら、すでにイラクにいる3100名で足りる。米軍は最前線で戦っている。だから、人数が足りないのである。彼らが危険に陥っても、イラク兵は頼りにならない。米兵ならば危険を冒しても助けに来る。しかし3100人の米軍事顧問は各地に散らばっている。イラク全土を3100人では、カバーできない。彼ら軍事顧問が援軍を望んでいる。書簡で述べられている「人員を救出」とは、第一に彼ら軍事顧問の救出のことだ。そのための増派であり、戦争のエスカレーションである。

米地上軍がイラクとシリアに派遣されることになる。オバマは、シリアに対しては長い間、空爆さえためらっていた。しかし今年9月、シリアに対する空爆を開始した。今回はイラクとシリアに対して地上軍の派遣を決心した。情勢が大きく変化している。イラクもシリアも分裂が固定化し、誰にも収拾できない。オバマは小規模な地上軍を投入することで、何とか切り抜けようとしている。

    <モスル作戦どころではなくなった米国>

イラクではISISからモスルを奪回することが重要課題となっている。イラクで炎熱の夏に作戦をすることは困難であり、春の間に勝利しなければならず、時間が迫っている。

ところが、前哨戦ともいえるティクリート戦で、政府軍は人数が少なく、主力は、シーア派民兵軍であることがわかった。シーア派民兵軍を指揮しているのは、スレイマニ将軍以下のイラン人将校である。正規軍にもイランに忠実な人間が配置されており、スレイマニ将軍の影響下にある。

 

     <イランの支配下にある内務省軍>

2010年5月、内務省の作戦室長はバドル旅団の司令官モハメド・シャラシュだった。バドル旅団はシーア派民兵の中心的な部隊である。内務省と内務省軍・緊急展開部隊はバドル旅団の人間で固められている。

 

     イラン国外軍の総帥、スレイマニ将軍

      

                                                 (写真) newkhaliji.com        

軍を掌握できないアバディ首相に実権はなく、イラクの真の権力者はスレイマニ将軍だ、と言われる。

ISISと戦うことも必要だが、イランの影響力を排除することが先決にも思え、米国にとってイラクは手に余る難題になった。

ISISとスンニの同盟、イランとシーアの同盟、それにクルドの3者が、支配地獲得戦争をやっている。イラクという国は消滅に向かっている。

 

     <失敗国家となったイラク>

イラクでは、勢力分布に従い、新たな国境線が生まれようとしている。

    

                                                         (地図)abagond

     

事の始まりは、2003年のイラク戦争で米国がフセイン政権を倒したことにある。イラクはモザイク国家であり、いったん国家の枠組みを破壊すると、とりかえしがつかない。2003年米軍が侵攻してきた時、国民の心は政権から離れており、部隊の士気は低かった。徹底抗戦した部隊は少なく、米軍の勝利は早かった。

 

しかし、「フセイン政権を倒すことができても、そのあとが難しい」という分析は正しかった。イラクは、クルド・スンニ・シーアの3民族からなる。さらにいくつかの小さな少数民族がいる。これまで政権を担当してきたスンニ派が、無力な少数民族に転落してしまった。彼らは、今まで最も恩恵を受けてきたので、その落差は大きい。しかも彼らは絶滅の危機に追い込まれてる。

今年3月、政府軍がティクリートのISISを攻撃した時,スンニ派の家々が破壊された。戦闘によるものでやむを得ないとはいえ、住民は家を失う。しかし破壊はそれにとどまらなかった。戦闘終了後に、スンニ派の住居の4分の1が破壊された。シーア派の復讐の念が、スンニ派を民族浄化の対象にしつつある。こうなると、追い詰められたスンニ派は最後の一人まで戦うしか道はない。ルワンダの虐殺と同じ構図である。多数派のフツ族が新たに権力の座につき、それまで支配民族だったツチ族が虐殺された 

     <平和で安定していた1970年代>

現在は、血で血を洗う内戦へ突入しているイラクだが、1970年代のイラクは、今では考えられないほど、安定していた。中東では、傑出した理想社会だった。イランとの戦争がなければ、良い時代が続いていたかもしれない。

 

      <バクル大統領>

1968年、バース党は無血革命に成功し、軍人でありバース党員であるアブー・バクルが大統領に就任した。バクル新大統領の時代に、イラクの経済は急速に成長した。革命前は歳出の約90%を軍事費に投入していたが、バース党政権は農業と産業の育成を優先した。1972年に石油を国有化し、政府の歳入が急増した。バース党は社会主義政権であり、増収の多くを、国民の生活向上に向けた。湾岸の産油国は豊かであるが、恩恵を受けているのは、王家の一族のみである。これらの国々と異なり、イラクでは、層の厚い中産階級が出現した。

 

   <国民が尊敬した副大統領サダム・フセイン>

     

バクル大統領のもとで、サダム・フセインは副大統領だった。彼はバース党の最大の実力者となり、民政部門では、実質的に大統領だった。この時期、フセインは「副大統領殿」と呼ばれて、国民から敬愛された。後にスターリン・ポルポトと並ぶ残酷な圧制者となり、国民の80%から憎悪されるようなったが、別人のようである。

フセイン政権崩壊後、イラクでは反乱容疑で逮捕された者の拷問ビデオが出回った。このような拷問にあったり、処刑された者の人数は数えきれない。

 

     <フセインの恐怖政治>

国連人権委員会が、イラクの人権状況について、1996年に次のように報告している。

「家族の誰かの裏切り行為を知ったら、バース党の地元事務所に通報しなければならない。そうしなければ、家族は家を追い出され、政府の食糧配給を無効にされる」。

裏切り行為とは、反政府地下組織に加盟することにかぎらない。大統領や政府を批判するだけで、反逆罪である。大統領が夫を密告した妻を称賛したとか、学校の教師が生徒に家庭での親たちの会話を質問するとか、密告制度があらゆるところに張り巡らされている」。

イラク国民にとって、政治を語ることはタブーとなった。

2003年バグダッドが米軍によって占領され、フセイン政権が倒れた時、国民は心から喜んだ。

 

イラクが国民にとっての牢獄になったのは、イランとの戦争後である。1970年代、フセインは国民から尊敬され、バビロニア帝国の再興を夢見ていた。

 

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ティクリート戦 仕掛け爆弾に進路を阻まれたイラク軍

2015-05-13 23:31:11 | イラク

         イラク軍もシーア派民兵も、多連装ロケット砲を装備

        

                                  (写真)  PressTV

3月2日、イラク政府軍は、ティクリートの攻撃を開始した。ティクリートはモスルに次ぐイスラム国の重要拠点である。作戦は順調に進み、3月11日、イラク国防相は勝利が近いことを語った。ところが、その2日後、突然作戦が行き詰まり、攻撃が中断した。アバディ首相は、米軍に空爆を依頼した。これは大きな方針転換だった。

当初、イラク政府は米国の航空支援を望まなかった。ティクリートはイラク人の手で奪回するという決意のもとに、作戦を開始した。イラク政府は米地上軍の再来を警戒しており、航空支援の拒否もその一環である。

反米的な政府内で、親米的なアバディ首相は孤立しており、彼の主張は埋もれていた。その彼が米国に空爆を依頼したのは、親イラン的な多数派に対し、一矢報いたのだという見方があった。

 

                <イランに従属するイラク政府 >

首相がマリキからアバディに代わっても、イラク政府はイランの傀儡政権だといわれる。アバディ首相は就任の時の約束をすべて破った、とも言われる。約束の基本理念は、シーア・スンニ・クルド・他の少数民族の連合政府をつくるということである。

5人の駐イラク米大使の補佐官を務めたアリ・キデリ(Ali Khederi)も同じ見方をしている。「イラクの真の支配者は、シーア派民兵軍であり、政府は無力である。首相・蔵相・石油相は愛国者だが、残りはすべてイランの代理人にすぎない。実際にイラクを支配しているのはイランだ。次は、サウジアラビアとバーレーンが同じ運命をたどるだろう」。

 アラウィ副大統領も数少ない愛国者のひとりである。キデリが名前をあげていないのは、副大統領は名誉職にすぎず、実権がないからだろう。アラウィ副大統領はイランに対する反感をあらわにする。「地域の大国がイラクの問題に口を出してはならない。イランの関与は限度を超えている。バグダッドが新ペルシャ帝国の首都になるなど、あるまじきことだ。」これは、大げさな恐怖ではない。先走ってしまうが、4月にこれを裏付ける話が報告された。

 3月25日米国は空爆を開始し、3月31日イラク軍はティクリート戦に勝利する。4月6日のロイター日本版が、その勝利の戦場にイラン人兵士がいた、と報告している。

 === イラン兵は、イラン最高指導者ハメネイ師の写真を胸に付け、カラシニコフ銃を持っていた。彼は「ティクリートを解放する戦いに参加したことを誇りに思う。今やイランとイラクは1つの国家だ」と述べ、同作戦でのイランの役割を誇示した。

 アングル:ティクリート奪還作戦の「誤算」、報復と略奪が横行

貼り付け元  <http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPKBN0MX0D620150406?pageNumber=3&virtualBrandChannel=0>

================

 

           <ペルシャは千年間メソポタミアを支配した>

        ササン朝ペルシャの都クテシフォン

           

                                                                     (地図) vivo net

ササン朝ペルシャの首都クテシフォンはバグダッドの南東32㎞にあった。クテシフォンはパルティア王国の時代、紀元前58年頃、王国の首都となり、次のササン朝の時代も引き続き首都であった。合計すると700年間、ペルシャ王国の首都であった。パルチアはペルシャ人の国家であり、紀元前238年頃~紀元後226年に存在した。パルチアを滅ぼしたササン朝の存続期間は、紀元後226年~651年である。

                     クテシフォンの城門 遺跡    ウィキペディア

                 

紀元前550年のアケメンス朝の成立から、紀元後651年ササン朝が滅ぶまで、メソポタミアはペルシャによって支配された。アレクサンダーは紀元前330年アケメンス朝を滅ぼしたが、100年後、再びペルシャ人の国家パルチアが成立する。アレクサンダーとその後継者の支配期間はたった100年であり、ペルシャ人の支配期間は千年である。

 。ササン朝が滅んでから150年後、クテシフォンの北西32㎞に位置するバグダッドが、アッバス朝イスラム帝国の首都になった。

 

        <親イラン派と親米派の対立>

イラク政府内で、 親イラン派と反イラン派が激突している。ISISとの戦闘に劣らないほどの内紛である。反イランの米国は、空爆を引き受ける条件として、シーア派民兵の撤退を要求した。米国はシーア派民兵をイランの別働隊とみなしている。米国はイランの手先を援護するは考えない、という立場である。

空爆の依頼が作戦の必要からなされれたものか、政治的理由によるものか、分らなくなるほど、イランをめぐる対立が前面に出ている。

ともあれ、攻撃が中断した経過を追ってみたい。

             <イスラム国が油井を燃やす>

         

(地図の説明) 地図中央の赤い小さな正方形が、市の中心部である。その南東にアルブ・アジル(Albu Ajil)がある。緑の小さな正方形で示されている。アルブは省略する事もあるようなので、本文でははアジルとだけ書いた。この地図は3月11日の戦況である。

イラク軍はチグリス川の東岸から作戦を開始した。3月4日、アジル(Ajil)に近づくと、イスラム国は油井を燃やし、黒煙がたちのぼった。戦闘ヘリの攻撃から身を守るため、煙幕として利用するためだった。

          

                                    ( 写真) Reuters                  

テイクリートの防備が完了しておらず、武器・弾薬・戦闘員を運びいれている最中だったので、イスラム国はできるだけアジルに敵を引き留めておきたかった。       

ティクリート南東のアジル(Ajil)油田は日々2万5千バレルの原油を産出し、キルクークの製油所に送られていた。1億5千万立方フィートの天然ガスが、日々キルクークの発電所にパイプラインで送られていた。イスラム国は6月にこの油田を奪取したが、自分たちの粗末な採掘方法では、天然ガスに点火する危険があると考えて、石油の採掘量をおさえていた。

       地図の下方に、北からアラム(Alam、ティクリート(Tikrit),ダウア(Dour)           

               

                               ( 地図) Reuters

7日、ティクリートの北方の町アラム(Aam)と南方の町ダウア(Dour)の町では、イスラム国の猛攻に隊し、なす術なく、イラク軍と人民動員軍は町を攻略できずにいた。

「無理押しをあきらめ、彼らを包囲して供給路を絶つ作戦に変えた」とアラムの町長ジャブリ氏が言った。

           <シーア派の危機を救ったイラン>

人民動員軍は、バドル軍その他のシーア派民兵軍の総称である。

6月、イスラム国の突然の進撃を前に、首都バグダッドは危機に陥った。シーア派の最高指導者シスターニ師は、シーア派住民に武装抵抗を呼びかけた。シスターニ師は温厚な人柄で知られ、これまで政治的な煽動を行ったことがない。2004年以後、イラク戦後の混乱期には、米軍に協調的な立場をとった。その彼が武装抵抗を呼びかけたのは予想外であり、シーア派がどれほど危機感を抱いたかが分る。

シスターニ師の呼びかけもあって、志願兵部隊が各地で結成されたが、彼らは武器もなく、兵士としての訓練も受けてていなかった。この時、即座に武器を与え訓練したのが、イランである。対応が早く、武器が無償であったことに、シーア派は感謝している。

 シーア派民兵の最大の組織がバドル軍である。バドル軍のハディ・アメリ司令官は、イラク人であるが、イランの革命防衛隊の一員で、イラン・イラク戦争ではイラン側で戦った。米国は彼をイラン人とみなしている。

                            

                                                  (写真) hadi ameri eu iraq org

「民兵組織は国の分裂要因であるから、解散させよ」と、米国がイラク政府に圧力をかけた。イラク政府は、人民動員軍という新軍を創設し、これにシーア派民兵を取り込んだ。要は、民兵軍に政府軍としての名前を与えたのである。

                   <イラク軍の構成>

約千人のイスラム国戦闘員に対し、3万の大軍が四方から攻め込んだ。

政府軍の構成は、2万人の人民動員軍・イラク正規軍3千人・スンニ派部族軍2千~4千人である。

この他に、人数は少ないが、米軍によって訓練された精鋭の特殊部隊がいる。この特殊部隊は危険を冒して突破口を切り開いた。3月9日に投稿されたビデオでは、特殊部隊の1人が死亡し、もう1人は足に負傷し、仲間に支えられて、やっと歩いていた。彼は西洋人のように見えた。特殊部隊を率いているのは米兵かもしれない。

 政府軍は前日6日に、ダウアの町の東と南に侵入したが、それ以上進めなかった。

               <フセイン残党の総帥 ドゥーリ将軍>

ダウア(Dour)はサダムフセインの右腕といわれたイザット・ドゥーリ(Douri)将軍の故郷である。彼はイラク革命防衛軍の軍事会議副議長であり、バース党のナンバー2である。したがって米軍はイラク戦争後、血眼になって彼を探した。米軍はサダムその他重要人物を指名手配にした。指名手配された人物は、つかまれば処刑だった。ドゥーリ将軍はイランとの戦争中に、化学兵器を使用し、ハラブジャのクルド人住民5000人を殺害した。フセイン政権で地位が高かったことに加え、戦争犯罪の責任を問われている。ただし、毒ガス使用について、クルド人は裁判を望んでいるが、米国は乗り気でない。毒ガスを誰から入手したか、裁判で追及されるのが不都合だからだ。

               

                                                            (写真)   20minuis francais

ドゥーリ将軍は米軍の追跡を逃げ切り、後にフセイン残党の総帥となった。彼は、スンニ派民兵を集め、ナクシバンディ軍を結成した。

2004年~2007年、ナクシバンディ軍は米軍を攻撃し、戦後成立した新政権と戦った。

 今回のティクリート防衛戦でも、ナクシバンディ軍はイスラム国と肩を並べて戦っている。ティクリートの真の支配者はナクシバンディ軍であるという。イスラム国とナクシバンディ軍の関係は複雑である。両者は同盟軍でありながら、一転して敵同士になりかねない緊張関係にある。

米国の指名手配から逃げ切ったイザット・ドゥーリ将軍だが、今回のティクリート防衛戦で戦死した。逃げるよりも故郷を守ることを優先したのかもしれない。

               <ドゥーリ将軍のメッーセジ>

イスラム国の電撃的な勝利の直後、7月14日、ドゥーリ将軍はイラク国民に「祖国の解放」を呼びかけた。その音声メッセージは旧バース党員が運営するウエッブサイトで公表された。

 「国の半分を開放した反乱に参加せよ。バグダッドの解放は目前である。すべての国民が各人の力に応じて、祖国の解放に努めなければならない。自由な祖国無しに、いかなる名誉も尊厳もない。」

 バース党残党がバグダッドをめざしていたことがよくわかる。また「国の半分を開放した」のはイスラム国であるにかかわらず、イスラム国の名前は語られない。その集団に対する言及もない。ただ「反乱」とだけ言われ、「国の半分を開放した」のは誰かはわからない。イスラム国の存在は消えている。バース党の残党はイスラム国と共闘していけるだろうか。両者が分裂してしまえば、イラク政府が有利になる。

             <9日ー11日の戦闘>

イザット・ドゥーリ将軍の故郷であるダウアの町の攻防は激烈なものとなった。イラク軍は兵を増強し、8日、やっと町の中心部を制圧した戦闘終了後、500個の仕掛け爆弾が発見された。「信じられない数の爆弾」、と指揮官のひとりがCNNに語った。町の西側の一角に、まだイスラム国が潜んでいる。

10日、アラムの町で、イスラム国の反撃がやんだ。彼らは町から姿を消した。アラムはイラク軍の手に戻った。住民が姿を現し、喜びの声をあげた。家の屋根で勝利の旗を振る住民もいた。

                        

                                                                 (写真) ABC News

イラク軍は11日、陸軍病院の制圧に成功し、建物の上部に国旗を掲げた。 陸軍病院はティクリート市内にあり、中心部に近い。イラク軍は市の中心部を四方から包囲し、イスラム国戦闘員を閉じ込めた。

          陸軍病院の制圧を祝う民兵     (写真)AFP

                           

陸軍病院の数ブロック南にある大統領宮殿では、まだ戦闘が続いていたが、イスラム国の抵抗が終わるのも、時間の問題となった。この戦況は、市の中心部での勝利が近いことを思わせた。イラク軍司令部がそう感じただけでなく、米軍上層部もティクリート解放作戦が順調に進んでいることを認めた。

 8日の段階で、アバディ首相は「イラク軍の進撃は予定以上に順調だ」と述べていた。

11日、オベイディ国防相は、作戦は3日で終了するだろうといった。

            <イラク軍、攻撃を停止>

その2日後、13日と14日、イラク軍は攻撃を停止した。勝利する予定の日に、突然行き詰った。市の中心に踏みこめば、犠牲が大きいことがわかったからである。新たな作戦と援軍が必要になった。

作戦がゆきづまったことについて、バドル軍の最高指揮官カリム・ヌーリは、まず爆弾を除去しなればならない、と語った。「道路わきと建物に数千個の爆弾が仕掛けられている。これを除去して進路を安全にしなければならない。爆弾処理の専門家と、よく訓練された兵士が必要だ。人数は千5百人程で十分だ。必要なのは、人数ではない」。

 軍事専門家も、イラク軍は爆弾処理の技術班が欠如していると指摘している。しかもスナイパーやミサイルに狙われる状況下での作業となるので、攻撃部隊との緊密な連携が必要になる。

実際、空爆開始後のことであるが、ブルドーザーで道路の地雷を処理していた運転手が、ミサイル攻撃によって、死亡した。

             道の両側の建物潜むスナイパーを警戒しながら進む兵士

             

ヌーリ指揮官は、ISISの人数は、60ー70名と推定している。メディアの多くは数百人と推定している。メディアの多くは数百と報じている。

 イスラム国は市の中心部を最終防衛陣地としており、敷設した爆弾の数はアラムやダウアの時より多い。ダウアの場合は500個だった。ヌーリ指揮官は数千個と言っている。(メディアの多くは数百と報じているが、千個を超えているようだ)

爆弾には、通常の火薬より爆発力の強い化学物質を使用している。

   ISISが保存していた大量の窒化アンモニウム ( 爆発力の強い化学物質)

        

周辺の町村や市の周辺部で敗北後、イスラム国の戦闘員は市の中心部に逃げ込んだ。そういう作戦だったようである。

 無理に踏み込めば、多くの戦死者が出ることが予想された。国防相は「犠牲を避けるために停止した」と語った。「我々は、自軍の犠牲を最低限にすること、そして市内の住民を守ることを考慮しながら、戦っている」。この言葉の裏の意味は、戦死者が増えている事実を無視できなったということである。

          <アメリ司令官は勝算があると判断>

バドル軍のアメリ司令官は勝利を確信していた。「テロリストは完全に包囲され、市内に閉じ込められている。あわてる必要はない。敵は日々死んでおり、敵の士気は落ちている。そのうち突破口ができるだろう。その時、総攻撃すればよい」。

「敵の士気は落ちている」という判断には根拠がある。ISIS戦闘員が多数戦死したが、捨てられた死体の中に、ISISの内部の抗争による死体があったからだ。ISISの幹部が逃亡したという情報もあった。

 イラン日本語ラジオも、ISISの士気が低下していると伝えた。

===========

  <ISISの指導者、ティクリートでの大敗を認める >    3月13日

サラーフッディーン州の中心都市ティクリートは、バグダッド北部のISISの司令部の拠点で、ここから自爆テロ要員がイラク各地に派遣されています。

イラクの政府軍と義勇兵は、ISISとの数日に及ぶ衝突の末、11日水曜にこの都市の中心部に入りました。

ISISの指導者バグダディは、12日木曜、ISIS運営のラジオからのメッセージで、ティクリートでの大敗を認めると共に、ISISのメンバーに対し、士気を失わないために、衛星チャンネルを見ないよう求めました。

ISISの報道官もメッセージの中で、イラクとシリアでのISISの敗北を認めると共に、ISISのメンバーに対し、イラクとシリアで目的を果たせない場合には、西アフリカに渡るよう求めました。   ==============

          <アメリ司令官が見過ごす兵士の心>

バドル軍のアメリ司令官は、十分に勝算があると考えているが、ISISと戦ってきた兵士たちの心は暗い。勝利を信じて戦い続ける気力は残っていない。

兵士の心情を伝えるワシントン・ポストの記事を抜粋する。

====戦士者の数が多いので、攻撃は中止された。志願兵たちは、最後の大攻勢に向けて心の準備ができているか、危ぶまれている。ナジャフの墓地に向かって絶え間なく運ばれてくる棺の数が、攻撃中止の理由を物語っている。墓地の労働者によれば、毎日60人の戦死者が運ばれて来るという(15日の時点)。

          

                               (写真)Jaber alHelo  AP       

1日の戦闘で100人死ぬこと珍しくなかった、と語る兵士もいる。ISISは待ち伏せが得意であり、政府軍側は死傷者が増える。ISISの捕虜になって、生きたまま焼かれた者もいる。

イラク軍は、ティクリト周辺と市内にあるイスラム国の根拠地をほとんど奪取したが、代償は大きかった。兵士たちは、戦闘は想像以上に過酷だった、と言っている。攻撃が中断し、兵士の士気が落ちている現実を前に、数人の政府の人間が、米国に空爆を要請すべきだ、と言い始めている。

政府は相変わらず強気だが、ティクリート攻撃がつまづいたことは、兵士たちの犠牲の大きさが原因であり、今後の見透しは暗い。兵士なしで戦うのなら別だが。ティクリート戦に決着をつけるのがやっとで、次なるモスルでの勝利は遠のいた。   =========

Iraqi offensive for Tikrit stalls as casualties

貼り付け元  <http://www.washingtonpost.com/world/middle_east/iraqi-offensive-for-tikrit-stalls-as-islamic-state-inflicts-casualties/2015/03/16/258a6dec-cb58-11e4-8730-4f473416e759_story.html>

 シーア派の最高指導者シスターニ師は、戦死者が多いことに留意するよう、軍・政の指導者に注意を促した。

         <当初の作戦が甘かった>

イラク政府は、外国に頼らず、イラク人自らの手でティクリートを取り返す意気込みであった。それが、途中から米国に空爆を要請したのは、親米派の巻き返しというような政治的な理由ではなく、戦場の現実からの必要かもしれない。戦場の過酷さと、戦死者の多さについての記事を紹介したが、そもそも作戦に問題がなかったのか。

 作戦計画の段階で、ある参謀は、米国の空爆が必要であると主張していた。イラク軍のサーディ参謀中将である。彼は14日、自分は最初から米空軍の支援を望んでいた、と語った。「残念なことに、この2週間、米国の航空支援なしに戦わなければならなかった。イラク空軍の爆撃は不正確で、限界がある。米国空軍は世界のトップである。とくに偵察機(AWACS)の情報収集は精密であり、攻撃目標を正確に特定し、破壊する」。

専門家の中にも、米空軍の支援なしの作戦は、そもそも無理があったという見解がある。「イラクの指導部は、戦況についての判断が甘い」。

           

                              (写真) Khalid Mohammed AP

(参考)Al jazeera のいくつかの記事のほか、次のサイトからまとめた。

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スパイカー基地の新兵虐殺  証言2

2015-05-06 00:04:36 | イラク

前回スパイカー基地の新兵が虐殺された事件について書いた。BBCが別の生還者の証言を収録している。この生還者の話を聞くと、生還者は10人以上いるようである。

証言者の名前はサーヘル・アブドル・カリームさんである。

事件の日、スパイカー基地には3千人いたというが、航空兵の数としては、多すぎる。カリームさんの証言で、周辺の地上兵が、事件の前日スパイカー基地に集められたことがわかった。スパイカー基地には一晩泊まっただけで、今度はバグダッドへ移動することになった。バグダッドに向けて出発して間もなく、突然15日間の休暇が与えられた。軍の輸送車を降り、民間人の服に着替え、別の大型トラックの荷台に乗つた。帰省する人間として、サマラに向かう。サマラはティクリートとバグダッドの中間に位置する。出発して間もなく、ISISの車が現れ、トラックごと捕虜となった。

     バグダッドの北方にあるサマラとティクリート      Press TV

    

 (地図の説明) 南端にバグダッドがあり、その北にサマラがある。サマラの北にティクリートがある。

相次ぐ軍の命令には、不自然なものがある。

米国が再建したイラク軍には、不可解な点が多々あり、そのことを理解することが、ISIS問題解決の近道かもしれない。

BBCのドキュメンタリーの中で、カリームさんはアラビア語を話しているが、英文字幕があり、以下に訳した。

ーーーーーーーーーーーー

Bbc Documentary 2015 - ISIS - ON THE FRONTLINE - HD

貼り付け元  <https://www.youtube.com/watch?v=P_CLPBzu-Hs>

 

我々の仲間が殺されたのは、上官たちの裏切りによるものだ。上官と部族はなぜ、このような裏切り行為をしたのだろう。なぜ我々をISISの手に引き渡したのだ。私にはわからない。

私が裏切られたと考える理由は、将軍が我々を基地から追い出したからだ。将軍は我々に移動を命じた。

基地には重砲とその他の武器があった。攻撃されても、我々は反撃できた。どのような攻撃を受けても、反撃できるだけの武器がそろっていたからだ。百人、2百人、あるいは3百人が死んだとしても、戦ったほうがよかった。

それなのに、将軍は我々をISISに引き渡してしまった。「家族のもとに帰れ」と言った。この命令のために、数千人が殺されてしまった。

           <カリームさんの部隊はスパイカー基地に移動>

前日の午後1時、全員の携帯電話がとりあげられた。一人残らず。理由はわからない。そして、スパイカー基地に移動することになった。携帯電話は間もなく戻ってきた。我々はスパイカー基地に着いて、その夜を過ごした。

夜が明け、朝の6時に、「荷物をまとめて、バグダッドに行け」と言われた。我々は、武器と荷物をまとめ、バグダッドへ行く準備をした。荷物は自動車に積んだ。自動車の数台はハマーだった。(ハマーは悪路対応車。タイヤが大きくて車高が高い)

                        ハマー           ウイキペディア

       

 我々は車に乗った。バグダッドへ行くつもりだった。出発すると、車列はあっちへ行ったりこっちへ行ったりしたあげく、停止した。将軍は車列を停止させた後、我々を車から降ろした。車から降りて集合すると、将軍は我々に命じた。「バグダッドへ行く計画は中止になった。軍服を脱いで、民間人の服に着替えよ。武器は置いていくように。諸君に15日間の帰宅休暇を与える。家族のもとに帰りなさい。15日後、バグダッドのタージュ基地に集合しなさい。そこで新しい部隊に配属される予定だが、まだ決定していない。もとの部隊に戻ることになるかもしれない」

我々は、道路は安全か、と将軍に質問した。「部隊と地元の部族が警備しているので、道路は安全だ」という返事だった。部隊には送迎用の民間車があるが、全員同時に使用できる台数はない。将軍は「君たちをサマラまで送って行くように、政府の大型トラックを手配した」と言った。

我々は民間の服に着替え、武器を渡し,幹線道路に向かって歩き出した。幹線道路は、車と人の往来が多かった。その道路を歩いて大学に向かった。私たちをサマラまで送ってくれるトラックは大学の車庫にあるからである。我々は大人数で幹線道路を30~40分歩いた。目的地の大学に着くと、トラックが並んでいた。大部分が政府のトラックだ。そばに立っていた数人の将校が我々に告げた。「ここにならんでいる車が、君たちをサマラやバグダッドに送って行く」。それらのトラックに我々は分乗した。私は順調に事が運んでいると感じた。

           <ISISの登場>

しかしいつの間にか、黒旗を掲げたISISの車が私たちの後ろを走っているではないか。我々はがくぜんとした。彼らは全員武装している。

4人のISISがれわれのトラックに飛び乗ってきた。その中の一人が「メデイアの人間を連れてこい」と言った。カメラを持った人間が来て、我々を撮影した。

撮影が終わると、「車から降りて、一列に並べ」と言われた。車から降りると、ISIS取り囲まれ、なぐられた。なぐられた後、我々は監禁された。

         

                                  (写真)NewYorkTimes

ドアが開く音がして、誰か入ってきた。ティクリート出身の男だった。彼は下級看守に言つた。「全員シーア派かどうか確認したか」。下級看守は「自信がありません」と答えた。すると上級看守の男は我々に向かって、「いいか、よく聞け。誰がスンニで、誰がシーアか調べる。スンニ派は手を上げろ。シーア派なのにスンニ派だと偽った者は死刑だ」と言った。何人かが手を挙げた。しかし最後通牒を聞いて、我々は挙げた手を下した。スンニ派は3~4人しかいなかった。

 私たちは監禁されていたが、ある時私の友人の一人が連れ出された。続いて私の番だ。私を含めた4人が、監禁されている広間から連れ出された。同時に別の広間からも数人が連れ出された。我々は、頭を下げたまま歩けと言われた。

            

                                                                     (写真)NewYorkTimes

大きな広間に着くと、そこにいたISISが「どうしてここに連れて来たんだ。連れ戻せ。ここは死体でいっぱいだ」と言った。我々の上級看守は「今さらそう言われても無理だ」と反論した。「じゃあ、とりあえず塹壕の横へ連れて行け。ここの死体を急いでかたづけるから」。大きな広間の床には、至る所に死体が転がっていた。死体の多くには拷問のあとがあった。多く兵士が頭を強く打たれて死んだ。

私と一緒だった者も、拷問中に突然死んだ。彼は頭を何度も打たれ、私の足元に崩れるようにして死んだ。

 

塹壕に着くと、私たちが乗せられたのと同じような大型トラックがやって来た。荷台は若い兵士でいっぱいだった。トラックが止まると、兵士たちは周辺の様子を見て、恐ろしくなった。あちこちに死体が転がっており、また生きている私たちが血だらけなのを見て、彼らはパニック状態になり、あらゆる方角に逃げ出した。ISISはあわててつかまえようとした。逃げるイラク軍の若者を追って、ISISもあらゆる方角に走り出した。我々の看守はその混乱を見て、気を取られた。私はその時ふと、トラクターが墓をっ掘っていたことを思い出した。生き埋めにしていたのか、死体を埋めていたのか私にはわからない。頭を上げることを許されず、横眼で見ていただけなので、はっきりとはわからない。

我々の看守が逃げた兵士を捕まえるために去って行ったので、我々は死体を埋める溝を飛び越えて、逃げ出した。両手が縛られていなかったので、全力で溝を飛び越え、走ることができた。看守は我々が逃げたのに気づき、発砲し始めた。仲間2人が撃たれて倒れた。ヒッラ市出身のアミールと私は、必死で逃げた。

私は地元のスンニ派の住民に助けを求めた。彼は言つた「スンニ派のふりをしろ。なんとか助けてやる」。そのスンニ派住民のおかげで、無事ティクリートを抜け出すことができた。

=========================================

前回と今回の2人の証言者が、どちらもスンニ派の住民に助けられて、脱出している。スンニ派の中にも、シーア派との殺し合いを望まない人間が、かなりいる。今のうちに内戦をやめれば、解決に向かう。スンニ派の死者数が増え、シーア派を憎むスンニ派が圧倒的多数になれば、解決の道はない。

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スパイカ―基地の訓練兵虐殺 ISISの悪行 6月

2015-04-10 21:55:40 | イラク

 スパイカー基地の新兵虐殺事件は20146月に起きたが、半年以上過ぎた現在でも、記憶が生々しい。イスラム国の残虐性を示すものとして、多くの動画でとりあげられてきた。

2015年3月初め、テイクリート奪回作戦を開始する時、バドル軍の司令官ハディ・アメリは「虐殺されたスパイカーの若い兵士の復讐をする、よい機会だ」と語った。バドル軍はシーア派民兵の最大組織である。

  

                                                                                 AFP HO WELAYAT

イスラム国は、いたるところで虐殺を行ったが、イスラム国は広い地域に分散しており、各地域では小集団なので、殺す人数も限られていた。しかしティクリートのスパイカー基地の新兵殺害は、犠牲者の人数が多かった。

イスラム国は、入隊したばかりの訓練兵1700名を銃殺し、ビデオを公開した。うつ伏せになっている数十人の後頭部や背に、次々と発砲する映像や、座っているグループの一人の頭を打ち抜く映像である。

新兵は武器を持っておらず、イスラム国と戦闘をしていない。丸腰だったので、イスラム国のなすがままになった。

  

                                                                                         DEBRA HEINE

    

     <新兵が丸腰だった事情>

610日にモスルを制圧したイスラム国はさらに南下し、ティクリートに向かった。

ティクリートにあるスパイカー基地の将校たちは、恐怖で動揺し、基地の秩序は失われた。そのあげく、米国が訓練した将校たちは逃げ出した。

置き去りにされた新兵は、軍服を脱ぎ、普段着に着替えて、基地を出た。

3千人の新兵が基地の門を出た。彼らはティクリート大学の方に向かって歩きだした。

 

    スパイカー(Speicher)基地   地図の北端西側

    

数マイル行ったところで、数台の装甲車に出会った。50名ほどのイスラム国の兵士が分乗していた。彼らは話しかけてきた。「バグダッドに連れて行ってやるよ」。これは、新兵たちを油断させるための嘘だった。新兵たちは武装していないとはいえ、3千人もいる。全員を捕縛することは難しい。仮に、3千人の半数が経験を積んだ特殊部隊だったら、武器がなくても、おめおめと全員が捕虜になることはなかっただろう。

数台のトラックの荷台に分乗した新兵たちは、銃を突きつけられ、「動くと、撃つぞ」と脅された。ティクリートの大統領宮殿の敷地に連れて行かれた。

その後の3日間、大統領宮殿とその他の場所で、イスラム国は虐殺を繰り返した。大統領宮殿は地図に示されていないが、すぐ近くの陸軍病院(Miritary hospital)が示されている

 

人権監視団は、衛星写真と公開された写真を分析した結果、3日間で650人以上が殺害されたと語っている。これは確認できた数字ということであり、イスラム国は、処刑された人間は1700人である、としている。イラク軍の報道官はこの数字を認め、奇跡的に脱出したカディムさんも、これに同意する。

 

イスラム国は捕縛した新兵を宗派別に分け、シーア派だけを殺した。

スンニ派はイラク軍に入隊したことを反省することで、許された。

  

                      AFP HO WELAYAT

カディムさんは、銃弾が頭をかすめたので、死んだふりをし、その後死体の山から抜け出して、ティグリス川に向かって逃げた。後ろ手に縛られたまま走るのは、大変だった。何とかチグリス川にたどりつくと、川岸のあしの茂みの中に息絶え絶えの若者が倒れていた。その若者が貝殻でカディムさんの縄を切ってくれた。カディムさんは虫を捕まえて食べ、縄を切ってくれた恩人にも渡したが、食べたくないという。内臓をやられて食欲がなく、歩く力もなかった。カディムさんに名前を教え、「家族に伝えてくれ」と言った。

 

    <スンニ派に救われたカディムさん>

カディムさんはティグリス川を泳いで渡り、対岸にある家を訪ねた。家の住人はパンとトマトをくれ、「イスラム国からは、逃げられない。我が家にとどまっても、外へ出て逃げても、助からない」と言った。実際、翌日イスラム国が捜索に来た。一軒一軒調べている間に、カディムさんは逃げ出した。パンとトマトをくれた人はスンニ派であるが、イスラム国に密告していない。

カディムさんはアラムにたどり着いたが、この町はイスラム国の支配下にあり、危険である。潜伏中、3度居場所を変えたが、これはスンニ派の族長が手配してくれたものである。アラムに3週間潜伏し、やっと故郷に帰った。(アラムは地図の北端)

カディムさんはスンニ派に感謝しており、「スンニ派には極端に違う2種類の人間がいる」と言っている。

 

帰ってこない新兵の家族は政府に説明と調査を要求している。

宗派闘争が激化した2006年と2007年にも、一度にこれだけの人数が殺害されたことはない。これはサダム時代の虐殺を思わせる。

 

      <スンニ派には2種類ある>

 カディムさんの証言によれば、新兵の殺害にサダムの部族の人間が、加わっていたという。スンニ派部族の中には2種類いる、と彼が言ったのは、このことである。イスラム国との結びつきが強い部族と、距離を置いている部族である。前者はイスラム国と一緒になって、シーア派を殺害し、後者はシーア派の人間を、こっそり助けている。

シンジャルでも、同様だった。イスラム国がヤジディー教徒を殺すのを手伝ったスンニ派がいる一方で、山中に隠れているヤジディー教徒に、こっそり水と食料を持って行ったスンニ派もいる。

 

政府軍側で戦うスンニ派は少数であると言われるが、イスラム国と緊密な関係にあるスンニ派もそれほど多くない。スンニ派の大部分は中間派であり、両派の殺し合いをやめて欲しいと考えているのではないだろうか。

 

また政府軍に入隊したシーア派の青年も、無職であることが、志願の理由である場合が多い。カディムさんも、土地もなく、職業もないので、入隊したと言っている。彼には2歳の娘がおり、奥さんと息子・娘のために働きたいと思っていた。イスラム国が殺した新兵の多くは宗派対立を望まない貧しい青年だったに違いない。

    

                                                                             AP NewYorkTimes

以上、ニューヨークタイムズの記事を中心に、まとめました。

 

Escaping Death in Northern Iraq 

<http://www.nytimes.com/2014/09/04/world/middleeast/surviving-isis-massacre-iraq-video.html?_r=0>

 

 

 

     <サダムの空軍とサハラ空軍基地>

スパイカー基地は、2本の滑走路を有する広大な空軍基地で、もとはサハラ空軍基地と呼ばれた。イラク侵攻後、米軍が使用する際、米海軍少佐の名前にちなんで、新たに命名したものである。スパイカー少佐は戦闘機パイロットであり、1991年の湾岸戦争の時、イラクの戦闘機に撃墜され、戦死した。(生前は大尉、死後少佐)

1967年と1973年のアラブ・イスラエル戦争の経験から、空軍の重要性を痛感したフセイン政権は、空軍整備の一環としてサハラ空軍基地を建設した。

広大な敷地の数か所に、核攻撃に耐える堅固な地下格納庫があった。そのうち最大のものが、1993年に米軍の攻撃によって破壊された。米軍は、恐るべき貫通力を持つミサイルを使用した。

破壊されていない格納庫を陣地にすれば、イスラム国を撃退できたかもしれないが、空軍パイロットたちを歩兵として使うのは、馬鹿げている。空軍基地を守るためには、別に守備隊が必要である。

訓練したからと言って、全員が一人前のパイロットになれるわけではない。生まれつきの素質が左右する任務である。精神と肉体の両方に、特別の素質が要求される。空軍基地が地上軍によって攻撃されそうな場合、戦闘機と搭乗員は真っ先に逃げるのが普通である。

スパイカー基地から多くの将兵が逃げ出したにもかかわらず、同基地はイスラム国によって占領されなかった。殺された1700人の親族には、「基地に留まれば、死なずにすんだ」という思いがあり、政府に状況の説明を求めたが、返事はない。

 

       <帰ってきた米軍>

2011年末にスパイカー基地の米軍は撤退したが、新兵虐殺事件の後、20149月上旬に数十名の米兵がパイカー基地に帰ってきた。

2014910日の段階で、イラク全土の米兵は1600名である。

9月末に、サラフディン州副知事が自らのブログに書いた。「サラフディン州をイスラム国から解放する戦いを監督し、参戦するため、新たに13千名の米兵がスパイカー基地に到着する。数日後の予定だ」。これが実現したか、について公式の発表はない。 

    

                                                                                       Iraqi News com

     <米軍の再駐留に反対するサドル師>

シーア派の宗教指導者ムクタダ・サドル師は米軍の再駐留に反対している。915日、サドル師は「米軍が戻ってくるなら、現在イスラム国と戦っている聖戦士は攻撃目標を米軍に変えるだろう」と警告していた。

サドル師はバグダッド東部の貧しいシーア派地区の指導者であり、イラク・シーア派の最高指導者であるシスターニ師に敬意を払うべき立場にある。しかしイラク戦争後の混乱期、サドル師は、米軍と協力するシスターニ師に反対した。サドル師が率いるマフディー軍は米軍を攻撃し、米軍にとって、マフディー軍はアルカイダと並ぶ危険なテロ集団となった。

マフディー軍は米軍から忌み嫌われたが、スンニ派武装集団の暴力からシーア派住民を守り、信頼された。警察官も殺される状況であり、警察は無力だった。

サドル師はシーア派住民の保護を実践するとともに、イラク国家の独立という主張を鮮明にしている。

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イラクの今後を左右するティクリート戦

2015-03-20 15:39:18 | イラク

           ティクリートに入るイラク軍           AFP

           

防戦から反撃へ、イスラム国に対する戦いの転換点、とイラク国防相はティクリート作戦を位置づけた。

31日、アバディ首相が、サラフディーン州とその州都ティクリートの奪回を軍に命じた。翌日、イラク軍は奪回作戦を開始した。

兵力は3000の国防軍兵士と警察官、それに加え2万のシーア派民兵である。少数のスンニ派民兵も加わった。

           

まず周辺の町や村からイスラム国の兵士を排除することにとりかかった。最初に制圧した2つの町が地図に示されている。北端のアラム(Alam)と南端のダウア(Dour)である。

ダウア付近では、イスラム国が自爆テロをしかけてきた。 

            

                                                                             Reuters

アラムとダウアを含め、10日までに制圧された地点は緑色の小さな正方形で地図に示されている。

アラムから西岸に渡るチグリス川の橋は、イスラム国によって爆破されていた。

 

          アラムからイスラム国を追い出す政府軍

    

                        Thaier AlSudani  Reuters  

政府軍は10日に、市の中心部に入り、重要な施設に迫った。州議会・州知事庁舎・警察署である。これらは地図に示されていないが、市の中心部が赤い正方形で示されている。

また政府軍は市のはずれにある大統領宮殿を包囲した。大統領宮殿は地図に示されていないが、すぐ近くの陸軍病院(Miritary hospital)が示されている。北から3つ目の緑色の地点。

 

地図には、10日以後も戦いが続いている地点が、白地に赤丸で示されている。カディシーヤ(Qadisiya)と工業地区(Industrial zone)2か所である。

カディシーヤでは15日になっても戦闘が続いており、シーア派のイマーム・アリ旅団の兵士たちが、イスラム国の兵士へ向けて迫撃砲を放っている。

彼らはティクリート大学の屋上からカディシーヤに向けて撃っている。ティクリート大学は地図に示されている。北から2つ目の地点。

ティクリート大学の屋上のアリ旅団の民兵たちは「10日から15日までにに200発以上撃った」と語っている。

 

         <ティクリートの戦略的な位置>

     

                                                                                 BBC

ティクリートはその位置から、東部のクルド地域に対しても、バグダード以南のシーア派に対しても、スンニ派の牙城となっている。北部のスンニ派にとっては南端の守りであり、西部のスンニ派にとっては東端の守りとなっている。ティクリートはフセイン大統領の故郷であり、2003年のイラク戦争の時、この地の住民は米軍を相手に勇敢に戦い、大きな犠牲を出した。

バグダードの北西はスンニ派地帯であり、西のファルージャとラマディ、北のティクリートがスンニ派の三大拠点となっている。

バグダードのシーア派独裁政権に不満を持つティクリートの住民は、昨年6月、イスラム国を受け入れた。

 

    <イスラム国を退けたクルド軍>

スンニ派はイスラム国と同盟したが、東部のクルド人はイスラム国をはねつけ、クルドの土地を守った。その上、クルドとスン二派両地域のの境界にある都市キルクークを獲得した。キルクークは油田地帯の中心にあり、キルクーク獲得はクルドの悲願だった。キルクーク油田の産出量は、イラク全体の10分の1であるが、キルクークを中心とする北部油田地帯の埋蔵量は南部油田地帯に匹敵する。今後、投資と開発が進めば、世界でもトップクラスの産油地帯となる。北半分に国家が建設されれば、サウジに次ぐ裕福な国家になる可能性を秘めている。

 

    濃い灰色が巨大油田、薄い灰色が普通規模の油田

 

                       wikipedia

キルクークの政府軍は逃亡し,その後すぐにクルド軍(ペシュメルガ)が入り、守りを固めた。キルクークはクルドの領土となった。イスラム国は兵力が足りず、キルクークのクルド軍(ペシュメルガ)に立ち向かえなかった。ペシュメルガは武器が不足していたが、気力でキルクークを守った。イラクのクルド軍はペシュメルガと名乗っているが、「死を恐れぬ者」と言う意味である。

 

             <イスラム国との同盟を後悔するスンニ派>

シーア派はクルド地域以南を全て獲得しようとしている。スンニ派に残されるのは、縮小された北西部だけになるかもしれない。しかもその北西部で、イスラム国の支配下に生きなければならない。

スンニ派の本心からすれば、、スンニ派地域を独力で守りたい。しかし、スンニ派にはその力がなく、不本意にもイスラム国に頼らざるを得ない。本当はイスラム国を追い出したい。しかし今それを行えば、スンニ派の土地がクルドとシーア派に奪われてしまう。

サダム政権崩壊後、スンニ派はモスルとキルクークを獲得したいと思ってきた。北部と西部のスンニ派地域はもちろんである。モスルは昨年6月イスラム国が獲得してくれたが、イスラム国が新しい支配者になってみると、2か月も経たないうちに、スンニ派の住民は、マリキ政権の方がましだったと思い始めた。

 

イスラム国が支配するモスルで、スンニ派は気が滅入る思いで暮らし、キルクークはクルドに奪われた。

スンニ派にとって、周りが全て敵のように思われた時、イラク政府軍がティクリート作戦を開始した。

  

     <ティクリート戦におけるスンニ派>

3月2日、イラク政府軍がスンニ派の牙城ティクリートに本格的な攻撃を開始した。政府軍には、シーア派民兵も加わった。

シーア派民兵はイランの革命防衛隊によって指導され、戦闘力がある。彼らはスンニ派の住民を虐殺しているので、スンニ派はシーア派民兵を恐れ、憎んでいる。

これと戦うには、スンニ派はイスラム国との同盟を維持するしかない。しかしティクリートのスンニ派住民は、イスラム国との同盟に迷いがあり、心は揺れている。イスラム国に家族を殺され、政府軍の側で戦った住民もいる。ティクリートのスンニ派は結局分裂した。

 

総攻撃の直前、政府軍の兵士がイスラム国側に無線で呼びかけた。「今から攻撃に行くからな。覚悟して待ってろ」。それに対し、イスラム国の兵士が無線で答えた。「俺たちは死ぬことを恐れていない。殉教者は天国に行くんだ。お前たちは地獄に落ちろ」。

ベトナムの米兵は、無線で基地に連絡し、援軍を要請した。ベトコンと無線で話をしたことなどない。敵に攻撃を知らせるなど、ずいぶん変わった戦争だ。しかし、どちらもティクリトの住民かもしれず、敵味方に分かれてしまった、複雑な事情の表れかもしれない。だとすると、哀れな話だ。

あるいは、政府軍が、はやばやと、ティクリート市の明け渡しを要求したのかもしれない。

 

ティクリートの住民が作戦の組み立てに関して助言したことが、作戦の成功につながった。住民は市内と市周辺の地理を熟知しており、イスラム国の兵士の動静についての情報もある。

またシーア派民兵を指導するイランの革命防衛隊は、ゲリラ戦に習熟しており、彼らは作戦の組み立てにおいても、戦闘においても大きく貢献した。兵数から言っても、政府軍の3千に対し、シーア派軍は3万である。 

 

   <イラクの今後を左右するティクリート戦>

       オベイディ国防相

   

バグダードからモスルへ向かう幹線道路はティクリートを通っており、北のモスルを奪回するには、ティクリートが政府軍の支配地でなければならない。イラク政府軍がティクリトを確保できるか否かは、モスル奪回の試金石と考えられた。

今回の作戦は、イスラム国に対する反撃として最大規模であり、これに失敗すれば、前途は暗い。イラクもシリアのように、終結のない内戦状態が続くことになる。幸い作戦はほぼ成功したようではあるが、ティクリート市内の3割ほどを、まだイスラム国が支配しているので、予断はできない。

 

米国は政府軍の再建に努めてきた。その甲斐あって、スンニ派民兵が政府軍と共に戦った。

ティクリート攻撃では、政府軍の戦闘機・戦車・重砲・戦闘ヘリによる攻撃が威力を発揮し、優勢に戦いを進めた。シーア派民兵も、重砲とロケット砲を装備していたといわれる。

     

                     CNN

しかし、接近戦となってから力を発揮したのは、シーア派民兵だった。戦闘が一段落した時、シーア派民兵の司令官がインタビューに応じた。これが勝利のインタビューと受けとめられ、大問題となった。そして作戦の成功より大きな波紋をよんだ。

   

                      AFP

       <ティクリート戦の勝利者はイラン>

「イランが勝利宣言をした」ということで、大騒ぎになった。シーア派民兵を指導しているのはイランの革命防衛隊である。騒いだのは、サウジアラビアとスンニ派諸国、そしてイランを敵視する米国の議員である。現地の米軍将校は最初から、ティクリート攻撃にシーア派民兵が参加することを、快く思っていなかった。

彼らは、一様に、イラクの南半分がイラン領となることを恐れている。イラクの南部はクェートとサウジの油田地帯に接している。カタール・アラブ首長国・バーレーンはイランの対岸にあり、イランと歴史的に縁が深い。イランはバーレーンの領有権を主張したことがある。

バーレーンで大規模な反政府デモがあった時、サウジが軍隊を送り、鎮圧した。リビアやシリアで、軍隊が民衆に発砲したことは、世界中で批判された。しかし、サウジ軍による民衆虐殺は黙殺された。イランは欧米メディアの偏向を常に糾弾しており、サウジがバーレーンを保護国としていることに怒っている。

 

サウジはイランの革命防衛隊に対抗するため、地上軍の派遣をイラクに申し出たが、アバディ首相は断った。

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