ネットで三島由紀夫の動画を見た。戦争について語っていた。彼は終戦の時10代半ばの少年だったので、招集されることはなかった。沖縄では、彼と同年齢の少年が徴集され、悲惨な死に方をしたが。
三島は戦地に赴くことはなく、彼の戦争体験は内地の一般人が経験したことにすぎない。しかも、空襲の悲惨さも経験せずにすんだようである。
それにもかかわらず、戦争は公威(きみたけ=本名)少年に深い影響を与えた。自分より少し年上の青年が戦地に赴いて、戦死したことは、彼に強い印象を与えたのである。また当時の新聞・ラジオが報じること、そして周囲の大人が語ることが、彼の記憶に刻みつけられた。
今回ビデオで彼を見て感じたことは、彼の感受性が常人のものではない、ということだった。山奥に人知れず咲く花のように、孤独で、人間の世界からかけ離れたものであることだった。彼は生まれつきの芸術家だと感じた。芸術家は、努力してなるものではなく、そのような性格をもって生まれるのである。
三島由紀夫は出征した若者の心情を後世に伝える作家となった。「風と共に去りぬ」の著者が南北戦争を後世に伝えたように。
三島由紀夫は、沖縄の少年とは違って、地獄の体験をしたわけではないが、戦時の印象は彼の生き方を決定付けた。彼は戦後の平和な時代に生き、国家の要請があるわけでないのに、終戦から25年目に、自ら戦死するような死に方をした。
平和な時代に、時代錯誤の死に方をした三島を、観念的だとみなす人もいる。
しかし「軍隊を持たない平和主義の国」という考えの方が、よほど観念的である。大戦後、世界でどれほど多くの戦争があったかを理解しない人が、観念的に平和主義を唱えるのである。
<軍隊の本質を問いただした三島>
三島の創設した盾の会は、少人数ままで終わり、消滅した。この民兵組織についても、観念的と言う人が多い。ただし、三島は重要なことを言っている。「徴兵された兵隊は駄目だ。自らの信念に基づいて志願した兵の集団でなければならない。」したがって「傭兵も駄目だ」ということだろう。この考えは永遠に正しい。自らの意思で戦う者の集団でなければ、いかに多数の軍団であっても、すぐに瓦解する。春になって溶ける雪のように、一瞬のうちに消えてしまう。
また戦争の目的を理解せずに戦場に送られた兵士は、退役後、反国家主義者になる。日本の徴集兵の多くが、戦後、平和憲法を受け入れた。現在の米国でも、退役兵が反戦運動の中心になっており、強力な反戦主義の世論を形成している。
戦争の目的を理解し,信念を持って戦った場合でも、戦争の悲惨さを体験すると、戦争自体の意味を疑うようになるのであるから、まして国家の命令で戦場に送られた若者が、戦後、反国家・反戦主義者になるのは当然である。
したがって戦争に対して慎重であるのは大切であるが、「戦わず」という決定は現実に即してなされるべきで、現実から遊離し、最初から「不戦」を大前提にするのは、無知な観念論である。
「軍隊なしに国家は存在しない」ということと、「その軍隊には精神的な支えがなければなら ない」という簡明で重要な三島の主張は、先見の明があった。
1970年に観念的と受け取られれていた彼の主張は、現在、現実的なものと理解され始めている。
人間は過去を忘れて、前に進むものであるが、過去を簡単には忘れられない人間がいるものである。
< 沖縄の少年兵(=鉄血勤皇隊)>
沖縄の軍は県民に対し、「軍の指導を理くつなしに素直に受入れ、幼女と老婆を除き、全員が兵隊になること」を要求した。15歳以下の少年や65歳以上の高齢者まで根こそぎ戦場へ動員された。書類手続はなく、口頭で徴用され、病弱の者でも容赦されなかった。
法的根拠がなかったため、形式上は「志願」とされた。
少年兵は、陣地構築をしたり、伝令として働いた。
伝令は砲弾をかいくぐって走りまらなければならず、危険な任務だった。同じ内容の文書を複数人が持ち、そのうち1人がたどり着けばよいというありさまだった。
さらには、斬り込み隊として、本格的な戦闘に参加した少年もいた。ある少年は箱に火薬を詰めた爆弾を背負い、米軍への自爆攻撃をした。
「皇軍の兵は、捕虜になるよりは、死を選ぶ」という教えを守り、自決した少年もいる。
15歳にもならない少年兵に、「自決しろ」と命令した例は、世界史にもない。さすがに日本は、世界に例がない「よい国」である。
例外的にナチスドイツが、やはり敗戦直前に少年兵を集め、「死ぬまで戦え」と命令しているが。
本土決戦の前に終戦になったが、沖縄は「決戦」をしたのである。
日露戦争の時、与謝野晶子が「親は、人を殺す人間にするために、わが子を育てただろうか」と歌ったが、世界史を学んだ私は「14歳の少年を戦場に駆り出し、自爆攻撃をさせ、または自決させた国が他にあるだろうか」と問いたい。
<硫黄島の少年兵>
沖縄戦の少し前、硫黄島の戦いでも、沖縄の少年は駆り出されていた。硫黄島の戦いは、米国でも有名な戦いである。「硫黄島からの手紙」は米国では、3本目の映画である。日本で映画がつくられれたことはあるのだろうか。
比較にならない戦力差があったにもかかわらず、日本軍は頑強に戦った。日本軍の巧妙で粘り強い戦いによって、上陸した米軍は多くの損傷者を出した。
すり鉢山は戦史に残る激戦地となった。米兵の戦死者が多かった「硫黄島の戦い」は、「すり鉢山の死闘」として米国民の記憶に残っている。
<硫黄島>
ウィキペディアより
米軍にとって困難な戦いとなった原因は、日本軍が岩山の内部に陣地を構築したからである。もともとあった洞窟に加え、新たに穴を掘りぬき、それらを内部通路で結んだ。いくつもの穴を深く掘り進むのは、大変な作業であった。それで沖縄の少年の手伝いが必要になったのである。ほとんどの兵が掘ることに従事したので、他のことに手が回らなくなり、人手が足りなり、少年兵が必要になったのかもしれない。くなったのかもしれない。硫黄島の少年兵は、法的には、戦闘以外の運搬・土木工事などに従事する「軍属」であった。
岩山内部の陣地はマジノ線に匹敵する陣地となった。
硫黄島の数少ない生存者が語ったことだが、ある時、少年たちの歌声がするので、そちらの方に歩いて行くと、栗林司令官が立っている。中将は歌声を聴いていたようである。栗林中将は、声は出さず手振りで、「少年たちの方に行くな。彼らの邪魔をするな、そっとしておいてやれ。」と合図した。
栗林司令官は、少年たちを「地獄の戦場」に駆り出したことに、心を痛めていたのだろう。
少年たちは、米軍上陸の前に、沖縄に戻ったかもしれないが、その可能性は低い。
<硫黄島の頂上を奪取し、勝利の旗をたてる米海兵隊>
ウィキペディアより
<大韓航空機撃墜の真相>
三島と同じように、戦時の記憶を簡単に捨てられない人間のもう一人が、石原慎太郎である。彼は負けん気が強く、三島とは違うが、過去にこだわる点では同じである。
石原慎太郎は、国家の自立と国防の問題について、重要な指摘をしてくれる。
最近、大韓国航空機撃墜事件の真相をを語ってくれた。
大韓航空機撃墜事件(だいかんこうくうきげきついじけん)は、1983年9月1日に、大韓航空機がオホーツク海上空でソ連の領空を侵犯し、ソ連の戦闘機により撃墜された事件である。乗員乗客269人全員が死亡した。
石原が語るところによれば、ソ連の戦闘機は、民間機であることを確認し、撃墜してもよいのか、と司令官に質問した。現地の司令官はうろたえ、モスクワの本部に問い合わせた。それを聞いて、本部は「撃墜せよ」と命令した。モスクワは民間機と知りながら、非情な決断をしたのである。
戦闘機のパイロットと現地の司令官は極度に動揺しており、暗号を使って交信する余裕がなく、通常の言葉でやりとりした。傍受した日本側はすぐに状況を理解できた。
大韓航空機がソ連の領空を侵犯したのは、これが二度目であり、一回目はヨーロッパ側で、ムルマンスクの付近で領空を侵犯した。ムルマンスクには重要な軍事基地があり、最高度の機密が保たれている。この時、大韓航空機は撃墜されず、雪原に強制着陸されられただけだった。
しかしソ連軍上層部は、領空侵犯を許した現地の防空軍に対して厳しく対処した。現地の司令官は処刑され、「二度と領空侵犯を許してはならない」という厳重な通達が出された。
ソ連は、たとえ民間機であっても、スパイ行為を働く以上、スパイ機とみなし、二度目は撃墜したのである。