たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

正体不明のスナイパーの映像 ダラア 2011年4月8日

2018-04-27 19:57:29 | シリア内戦

4月8日シリア南部の都市ダラアのデモで市民27人が死亡した。ダラアでは3月23日以来の多数の犠牲者数となった。3月23日のモスクの攻防戦では、15人が死亡している。

========《ダラアで27人死亡》=======

  Protesters killed in southern Syria

           Al Jazeera      2011年4月9日

4月8日シリア南部の都市ダラアでデモがあり、27人以上の市民が死亡した。

金曜礼拝の終了後、モスクを出た人々はデモ行進を開始した。最初のデモから20日経過しているが、デモ参加者の人数は減る様子もない。

デモの目撃者がアル・ジャジーラに次のように語った。「治安部隊はデモを解散させるため、ゴム弾を発射したが、途中から実弾に変えた」。

ネットに投稿されているビデオにより、負傷者がダラアのオマリ・モスクで治療を受けたことがわかる。

シリア国営テレビはダラアの市民の報告と異なる内容を伝えた。「武装グループの銃撃により、警官と治安部隊員19名が死亡し、75人が負傷した」。

===============(アル・ジャジーラ終了)

ダラアの市民がアル・ジャジーラに報告した内容と、シリア国営放送内容は隔たりが大きい。市民の死者が多いだけでなく、警官・治安部隊の死者が多いことに驚かされる。

4月8日のダラアについて、CNNもアル・ジャジーラとほぼ同一の内容を伝えているが、シリア国営テレビの報道について次のように紹介している。

「ダラアの治安部隊は実弾の使用を禁じられている。デモをしていた民衆が警官隊に石を投げつけたり、タイヤ・施設・車に火をつけた。これに対し、警官隊は催涙弾を使用した」。

中央政府はデモの取り締まりにおいて死者を出さない方針であるようだが、結果的に市民と治安部隊の双方から多数の死者が出た。そして市民を銃撃したのは誰かについて意見は分かれており、警官・治安部隊を銃撃したのは誰か、は謎である。

正体不明の武装グループはこれまでたびたび言及されてきたが、今回初めて彼らの姿が公開された。アルジャジーラTVの特集番組が4月8日のダラアを取り上げており、乗用車に乗ったスナイパーが撮影されている。

 ========《YouTube  4月11日投稿 Al Jazeera》=====================

      Inside Story: Conspiracy over Syria protests

  <https://www.youtube.com/watch?v=sv9D70XO6Uo&t=501s>

 (注)モスクの近くに多数の市民が集まっている映像はなく、少し離れた場所で少数の市民がタイヤを燃やしている場面から、ビデオが始まってる。

 

 

 

 

 

 

間もなく、治安部隊が催涙弾をうち込んだ。

 その後、機関銃の連射音が聞こえ、白い乗用車に乗った人物が自動小銃を撃っている。

乗用車の中から自動小銃を撃っている映像はシリア国営テレビからの借用であり、国営テレビによれば、このスナイパーは政権転覆を計画するテロリストである。

==============(アルジャジーラ終了)

アルジャジーラTVは2日後の4月13日に再び、4月8日のダラアについて報道している。

===========================

YouTube  Violence continues across Syria Al Jazeera   2011/04/13

       <https://www.youtube.com/watch?v=Gwle0-pP7r4>

 

倒れて身動きしない市民のところに、警官たちがやってきた。警官は倒れている市民を警棒で殴ってから運んで行った。負傷者の生死を心配する様子はなく、いきなり一発殴ったのである。反応がないのを確かめてから、運び去った。冷酷な対応である。市民が倒れていた場所は、最初に市民が集まったモスクから離れた場所のようだ。

===============(4月13日投稿アル・ジャジーラ終了)

4月8日のダラアのデモについては、AP通信の映像もある。これもモスクの近くに集まった多数の民衆の民衆の映像ではなく、町の郊外で少数の若者がタイヤを燃やす場面である。そしてこの映像には、別のスナイパーが登場する。茂みに隠れ、数人の若者がピストルを撃っている。

=====《正体不明の銃撃者たちの映像》==========

      YouTube   Unknown Gunmen Filmed at Syria Demo    2011/04/08

        <https://www.youtube.com/watch?v=zJYKLb72Y1k>

 

 次の場面で、ダラアのモスクに集まっていたいた民衆が郊外に向かい始めたことがわかる。

 次の場面で、銃撃グループが登場する。

=================(AP終了)

 アル・ジャジーラの映像の場所とAPの映像の場所の位置関係が分かる写真がある。 

 

アル・ジャジーラの映像の場所は橋の近くであり、町と郊外の境界地点である。APの映像の場所は郊外であり、周囲には木立がある。

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ドゥーマ:正体不明のスナイパー 2011年4月1日

2018-04-19 22:06:30 | シリア内戦

2011年以来シリアで起きたことを客観的に叙述することは難しい。しばしば同一の出来事について2種類の相反する説明があり、どちらを信じればよいのかわからない。シリア内戦について政権側と反対派はそれぞれ自分たちの説明を続ける。彼らは真実を語るより、宣伝を重視している。 両者の話を聞く者にとって、どちらが真実を語っているか、見極めるのは難しい。

政権と反対派はシリアで戦っていながら、互いに別世界に住んでいるかのようであり、彼らの話は互いに別世界で起きたことを語っているかのようである。

できれば真実に突き当たればよいと思うが、ともかく2種類の違いを浮き彫りにするという姿勢で、2011年4月のシリアについて書いてみたい。2011年3月のシリアについては、2016年7月ー2017年4月に連続シリーズで書いた。

 

======《シリア:少なくとも10名死亡》=======

      At least 10 killed in Syria

<http://www.ynetnews.com/articles/0,7340,L-4050879,00.html

             Ynet news          2011年4月1日

4月1日シリア各地でデモがあり、治安部隊の発砲により10名死亡した。

ダマスカスの北東に位置するドゥーマだけで8名死んだ。南部の都市ダラアの近くで1名死んだ。

これ以外にもいくつかの都市で、アサド政権に反対する抗議集会があった。どの都市でもデモの参加者は数千人に達した。治安部隊の規制により数十人が負傷したが、秩序はおおむね保たれた。

政府関係者の話によると、ドゥーマとホムスにおいて武装グループが市民と治安部隊に向けて銃撃した。ホムス市内のバイヤーダ地区では、武装グループが市民に発砲し、少女が死亡した。(シリア国営放送)

活動家の話によると、金曜礼拝の後、国民が街頭に集まり、11年続いているバシャール・アサド大統領の統治に抗議した。デモがあったのは5か所である。

①ドゥーマ(ダマスカス郊外)

②ホムス

③バニアス(海岸部)

④ラタキア港

⑤ダラア(南部)

ドゥーマのデモを目撃した人の話によれば、2000人が市役所前の広場に集まり、「自由!シリア国民は一つ!」と斉唱した。警察は発砲しながら、デモを解散させた。

シリア国営放送は次のように述べた。

「改革を求めるデモがあったが、他方で『国民の団結と国家の安定』を推進する政府を支持する集会もあった。国内は平穏である」。

=========================(Ynet終了)

 

シリアの3大都市の中で、2011年の3月ー4月にデモが起きたのはホムスだけである。2012年にはホムス市の大半が反乱軍の占領地となった。ホムスはシリア革命の聖地と呼ばれたが、2013年7月政府軍がホムス市の奪回に成功し、この地の反乱軍はほぼ消滅した。ホムスの反乱はシリア革命の先駆けとなったが、短命だった。

北のトルコと南のヨルダンからの補給は充実しており、この2国に隣接する地域の反乱軍は強力だった。ホムスはレバノンから補給を得ており、レバノンからの補給は弱かった。レバノンは分裂しており、反乱軍の支援が不十分だった。レバノンの有力な勢力であるヒズボラはアサド政権を支援していた。

 

               《発砲したのは誰か》

4月1日、シリアの5カ所でデモがあったが、最も多くの死者が出たドゥーマについて、アル・ジャジーラは次のように書いている。

「4月1日、ダマスカスの郊外のドゥーマで、金曜礼拝の後、数千人の市民が街頭に集まり、政府に抗議した。2日前(3月30日)アサド大統領が改革を約束したが、ドゥーマの人々はこれを信じなかった。

治安部隊は催涙弾と警棒でデモを解散させようとしたが、効果なく、次に実弾を発射した。目撃者によれば、少なくとも4名の市民が死亡した。

しかしシリア国営テレビによれば、市民の死は治安部隊の発砲が原因ではない。建物の屋上に武装グループがおり、彼らは市民と治安部隊の双方を銃撃した。数人の市民が死亡したが、正確な人数は不明である。数十人が負傷した。負傷者には、数人の警察官が含まれる。

国営テレビは、海外メディア向けの偽の宣伝を批判した。

『デモの中に海外メディアを意識して行動した者がいる。衣服を赤く染めて、負傷したと偽る者がいた』。」

誰が発砲したのかについて、反対派の報告と国営テレビの放送が異なっている。

CNNが負傷したデモ参加者の証言を書いている。

「ドゥーマの中心に位置するモスクに数千人の市民が集まった。治安部隊は電気警棒・催涙弾・実弾で彼らを攻撃した。『私はこのように恐ろしい場面を見たことがない。治安部隊は少しのためらいもなく、群衆に向けて発砲した』と目撃者の一人が語った。彼自身も電気警棒で頭を殴られ、6人の死者と一緒に病院に運ばれた。病院には数十人の負傷者がおり、多くが重症者だった。

『6名が病院の死体安置所に運ばれるのを見た』と住民が語っている。ある市民は、頭をゴム弾で直撃された。数十人が負傷した。

一方シリア国営放送は次のように伝えた。『武装グループが治安部隊と市民の双方を銃撃した。デモ隊と治安部隊との衝突はなかった』。」

治安部隊が警棒と催涙弾・ゴム弾でデモを取り締まったのは確かである。最初から発砲したのではない。その後銃撃があり、死者が出るが、誰が銃撃したかについて、意見が分かれる。

4月1日ドゥーマ出起きたことについて、ガーディアンが興味深い情報を書いている。記事は事件の3日後に書かれており、情報収集に努めたようだ。

 

======《政権側のスナイパーが市民を射殺》=====

Syrian mourners say government snipers carried out massacre

https://www.theguardian.com/world/2011/apr/03/syria-demonstrations-douma-funerals

 

   by Katherine Marsh             Guardian    2011年4月3日

ダマスカスの北東13kmに位置するドゥーマでは、一週間前虐殺された市民を追悼するため、数千人が集まり政府に抗議した。

その後デモ隊は治安部隊と衝突し、銃撃により15人の市民が死亡した。最終的に死者の数は22人に達するかもしれない。100人が負傷し、そのうち20人はひん死の状態にある。スナイパーによって殺害された人々を埋葬しながら、追悼者たちは「アサド政権を倒せ!」と叫んだ。

ダマスカスの人権センターの所長ラドワン・ジアデは次のように言った。「治安部隊は平和なデモをする市民を意図的に殺害した」。

地元の目撃者たちがガーディアン紙に語った。「治安部隊が武装グループをバスに乗せて連れてきた。この武装グループが市民を攻撃した」。

ジャーナリストや外交官は現地に行くことを禁止されており、ダマスカスとの電話は切断されており、多方面から情報を得ることは困難である。

4月1日ドゥーマで市民が死亡したことについて、シリア国営放送はガーディアンに寄せられた情報と異なる見解を示している。

「市民が死傷したのは、治安部隊の責任ではない。建物の屋上にいた武装グループが市民と警官隊を銃撃したのである」。

ダマスカスの南方の町アル・テル(Al Tel)の住民はバース党員に威嚇された。「デモを繰り返すなら、スナイパーを配置するから、覚悟しろ」。

 国民の不満に直面したアサド大統領は3日前(3月29日)首相を解任したばかりである。元農業大臣のアデル・サファルが新首相に任命されたが、悪化する国内情勢は好転する兆しがない。4月1日シリア各地でデモが起き、ホムス、ダラア、ドゥーマでは市民が銃撃された。

シリア人権監視団は市民に対する発砲を非難した。「3月30日アサド大統領は市民が銃殺された事件を調査すると約束したが、その後も治安部隊は市民を殺害し続けている。大統領の約束は無意味だ」。

国連のバン・キムン事務総長は述べた。「シリアでは、これまで100人以上の市民が死亡しており、憂慮すべき事態だ」。

=====================(ガーディアン終了)

シリアのデモの最初期から、正体不明の銃撃グループが暗躍している。彼らが政権側なのか、反対派なのかを突き止めるのは難しい。しかしドゥーマ市民の証言は重要である。「治安部隊が武装グループをバスに乗せて連れてきた」。

またアル・テル住民がバース党員に威嚇されたという話も重要な証言である。「デモを繰り返すなら、スナイパーを配置するから、覚悟しろ」。

ダラアの場合も、「武装グループは治安部隊と連携している」と証言する兵士もいる。ただしシリアの混乱を深める目的で活動している武装グループが存在することも、ほぼ間違いない。4月1日のドゥーマの場合、市民を銃撃したのは政権側のスナイパーという印象が強いが、疑いの余地はある。

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シリア デモの最初期に武装グループが暗躍

2018-04-03 23:59:24 | シリア内戦

 

シリアのバース党政権は1963年以来続いており、ハフェズ・アサドの政権は1970年から2000年まで30年続いた。ハフェズ・アサド政権の末期には、バース党政権の腐敗に対する不満がうっ積していた。2000年にバシャール・アサドが大統領になった時、多くの国民が彼に期待した。彼は政治・軍事の経験がなく、英国で8年間生活しており、民主的な改革をしてくれるように見えたからである。しかし3-4年たっても目立った改革が行われず、国民は失望した。2005年には水面下で国民的な抗議運動が計画された。これ以後著名な反対派が政府批判を強め、それに呼応してデモもおこなわれるようになった。

しかしこれらの反対派はイスラム主義者ではなく、デモをする人々の中にもイスラム主義者はいなかった。2011年に始まったシリア革命の主役は彼らではない。2011年の春、シリアの大都市は平穏であり、革命を起こすのは困難そうに見えた。南部の小さな都市ダラアで比較的大きなデモが起きたが、これが革命の起爆剤になるとは思えなかった。ダラアはシリアの最南端にある田舎町であり、ここで大きなデモが起きたとしても、他の地域に影響を与える可能性は低かった。

政権は大事をとり、大統領特使をダラアに派遣し、事態の鎮静化を試みた。特使はダラア出身の閣僚であり、町の長老たちの要望を理解できる人物であった。事態は沈静化に向かいそうだったが、政府軍がダラアの中心部にあるモスクを攻撃した。これにダラアの反対派が怒り、政府軍と反対派の間で戦闘が始まった。

政府軍によるモスク掃討作戦はダラアの住民をなだめる方針に反し、静まりかけた状況に再び火をつけるものである。政府軍はなぜ敢えてそのようなことをしたか。答えは簡単である。ダラアのオマリ・モスクには武器が隠されており、ダラアの人間ではない革命グループがモスクを拠点としていたからである。モスクの革命グループの正体をよく知って、彼らの協力者となっていたダラア人もいたが、人数は少なかった。多くのダラア人反対派はモスクを単に政治的拠点と考えていた。

第4機甲師団が出動したにもかかわらず、モスクの掃討には10数時間要した。武器の扱いを知っている革命グループを支援したダラア人がいたことが、掃討作戦を困難にした。モスク掃討作戦は双方に死者を出したため、ダラアの反乱は後戻りができなくなり、悪化の道をたどった。流血を伴うダラアの反乱はシリア国内外で知られるようになり、シリアの他地域に影響を与え始めた。

モスクに武器があったことは、掃討作戦終了後政府が発表している。これだけでは証拠が不十分であるが、これ以外にも証言があり、ほぼ確実である。またダラアのモスクが非ダラア人革命家の拠点となっていたことも、しばしば言われている。

 ========《ダラア革命の背後にイスラム原理主義者》=============         

          Daraa 2011: Syrias Islamist Insurrection in Disguise

                       Tim Andeson  Globalresarch        2016年3月16日

    

ダラアでデモが始待ったのは2011年3月18日である。その一週間前の3月11日、シリアの東部国境でシリアに持ち込もうとした武器が発見された。武器・爆弾・暗視鏡を積んだトラックがイラクからシリアに入ろうとし、国境検問所で取り押さえられた。シリア国営放送は「シリアに武器が持ち込まれるなら、争乱と混乱を引き起こすことになる。国内秩序を脅かす危険が事前に摘発された」と伝えた。国営テレビの映像には、数十個の手りゅう弾、ピストル、機関銃、弾薬帯が映っていた。

武器を積んだトラックが発見された場所は東部国境最南部のタンフ検問所である。ここはその後の内戦において、ヨルダンから支援される南部の反対派の支配地となった。発見された武器は南部で用いられる予定であったことは明らかであり、南部の秘密警察は警戒を強めたと思われる。この時点で、政府批判をしたダラアの子供たちは拘置所の中にいる。ダラアの子供たちが落書きを書いたのは3月初めであり、3日後に逮捕された。少年たちが逮捕されて間もなく、タンフ検問所で武器が摘発されたことになる。少年たちが逮捕され、それに抗議するデモが発生したことは、陰謀家たちにとって都合がよい展開だったようだ。

3月11日の武器の密輸は発見されてしまったが、失敗に学び、その後巧妙な手段でシリア国内に武器が運び込まれた可能性がある。

サウジアラビアがダラアのモスクに武器を送った、とサウジの政府関係者(アンワル・エシュキ)が翌年認めた。

またサウジアラビアに亡命しているイスラム原理主義のシリア人聖職者(アドナン・アルール)は、自由主義的なアラウィ派政権に対する聖戦を呼び掛けた。「アラーの名において、我々はアラウィを肉ひき機で切り裂き、犬に与えるだろう。

シリア国内では「キリスト教徒はレバノンに追い払え!アラウィ派は墓場に!」というスローガンが叫ばれた。2011年5月という早い時期に北米のメディアがこれを報道している。その後ファルーク旅団はこのスローガンを実践した。ファルーク旅団は自由シリア軍に所属し、ホムスで活動するイスラム主義グループである。

 ============================(Tim Andeson 終了)

サウジアラビアの元軍人で、現在はジェッダの戦略研究センターの所長であるアンワル・エシュキは、BBCとのインタビューでダラアについて重要なことを語った。これは2012年4月に放送されたものらしいが、コピーがYouTubeに投稿されている。このコピー版では、エシュキは反対派にとって不都合ないくつかのことを不用心にも語っている。例えば次のように。

ダラアの反対派の男がエシュキのセンターに来て、武器援助を求めたという。またエシュキは「ダラアの反対派が「オマリ・モスクに武器を保管していた」と述べた。

エシュキはシリアの反対派によるゲリラ戦が有効であるという理論に夢中になって、反対派の正当性を破壊するようなことを暴露してしまっている。単純な人がポロリと事実を言ってくれるなら、歴史的な事件をありのままに叙述することが、どれほど容易になるだろう。特に内戦の場合、双方が自分の正当性を譲らないため、どちらの話を信ずればよいかわからない。客観的な事実が見えなくなってしまう。

かなりユニークなアンワル・エシュキの話は以下のようなものである。

≒=====《ダラア革命は最初から暴力革命》======

Syria - Daraa Revolution was Armed to the Teeth from the Very Beginning             

     https://youtu.be/FoGmrWWJ77w   YouTube/ Truth Syria

                      

政府軍と互角に戦う力がない場合でも、小さなグループに武器を与え、反乱を起こすことは可能である。リビアの反体制派は戦車重や火器を与えられた。こうした武器を与えることができない場合でも、反対派が政府軍の攻撃から身を守るため、彼らに最低限の武器を与える必要がある。そうすることで政府軍に徐々にダメージを与えることができる。政府軍を農村地帯におびき出し、引きずり回すことで、政府軍を弱らせる。

ところで昨年(2011年)実際にあった話をしよう。

負傷したダラアの人間が私のセンターに来た。彼と仲間はどうしても武器がほしいという。彼らは当時オマリ・モスクに武器を保管していた。盲目の導師は武装闘争に反対したが、彼らは押し切った。彼らは政府軍と武装闘争を開始したいという。

私は反対した。「私のセンターは他国の内政に干渉しない。君たちはシリアを出て、国外の反体制派グループに参加したほうがよい」。

「そのようなグループがあるのか」と彼は私に質問した。

私は答えた。

「トルコが支援し、統括しているグループだ。君たちが彼らに合流すれば、国家の保護を受けられる。トルコで新しい軍隊を組織し、シリアの現在の政府軍に取って代ることができる。米軍はイラク軍を解体したが、その後イラクは混乱した。国家の軍隊が一瞬のうちに消えたからだ。前もって新しい軍隊があれば、軍事的空白を避けることができる」。

その後しばらくして私はリヤド・アサドに電話をした。彼のグループは17000人になっているという。

ダラアの若者は私の助言を受け入れ、トルコへ行き、政府軍との闘争を開始した。彼の現在(2012年4月)の計画は、戦線を大都市から農村に移すことだ。ゲリラ戦は通常の戦争とは違う。戦場での決戦で全てが決まるわけではない。敵を不意打ちし、すぐに逃げるのだ。正規軍が反撃しようとしても、ゲリラ兵はどこかへ逃げてしまっている。現在シリアの反政府軍は正規軍と互角に戦う力はない。戦力の差は歴然としている。にもかかわらず、反政府軍はゲリラ戦術によって正規軍を弱らせることができる。

====================(エンキの話終了)

反対派がモスクに武器を保管していたいた事実を、エシュキがいつ知ったのかはわからない。彼の事務所に武器の援助を求めに来た人物から聞いたのか、それ以前に知っていたのか、エシュキは語っていない。政府軍によるモスク襲撃後、モスクに武器や紙幣が保管されていたことは、国営放送が伝えている。しかし「盲目の導師がそれに反対したこと」は少数の関係者しか知らないはずである。

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