④グナエウス・ナエヴィウス( 紀元前270ー 201 年)
ナエヴィウスは、ローマで最初の劇作家である。彼はピクトルと同じ年に生まれているが、ピクトルが著作に取り掛かるは晩年であるの対し、ナエヴィウスは30歳半ばに劇作を開始した。ナエヴィウスは若くして第一次ポエニ戦争(前264ー241年)に参加した。徴兵に応じただけかもしれないが、彼は熱烈な愛国者であり、戦争の経験は彼に強い印象を与え、晩年に第一次ポエニ戦争をテーマとする叙事詩を書いた。紀元前235年頃、ナエヴィウスは最初の劇を上演した。これはローマで上演された最初の演劇だった。以後30年間彼は喜劇を中心に劇作品を作り続けた。その中にはロムルスとレムスの子供時代を題材にした作品もあった。ファビウス・ピクトルのローマ史はまだ出版されていなかったので、建国神話が劇として上演さるのを見て、ローマ市民は興味を持っただろう。晩年ナエヴィウスは喜劇の中で、メテルス家をからかった。メテルス家に対する痛烈な批判が評判になり、メテルス家は見過ごせなくなった。ナエヴィウスは投獄された。貴族を笑いの材料にしたことが犯罪だったというより、評判になったことが問題だった。18世紀の劇作家ボーマルシェの「フィガロの結婚」と同じことが2000年前に起きたのである。フィガロの結婚は貴族全般を揶揄しただけで、特定の貴族の名誉を傷つけるものではなかったが、危険な作品とみなされ、フランスでの上演が禁止された。ルイ16世は「これの上演を許すくらいなら、バスティーユ監獄(政治犯の監獄)をなくす方がましだ」と言って、怒った。オーストリアではこの作品の危険性が知られていなていなかったようであり、、また音楽作品となって政治性が弱まり、モーツアルトの オペラ、フィガロの結婚は禁止されなかった。
ナエヴィウスは獄中で反省し、護民官によって釈放された。囚人を釈放するという、強い権限を、護民官は持っていたのである。自由になったナエヴィウスは再び貴族を批判し、チュニジアに亡命(カルタゴの本土)に亡命した。彼がカルタゴに亡命した時期は第二次ポエニ戦争の末期であるが、戦闘とは無関係だったようである。紀元前204年スキピオがアフリカに上陸し、202年のザマの会戦でローマが勝利している。ナエヴィウスは亡命により、劇作品の発表が困難になり、また後輩のエンニウスが評判を呼ぶようになったこともあり、ナエヴィウスは劇作品を書くのをやめた。人生の最後の日々、若き日に第一次ポエニ戦争で経験したことを思い出しながら、第一次ポエニ戦争をテーマする叙事詩を完成させた。ナエヴィウスがどの作品でローマ建国の年を紀元前1100年と語ったのか、わからない。彼はギリシャの劇作品を自由にアレンジし、登場人物をローマ人に、場面をローマに置き換えた。彼はギリシャ語を理解したが、劇作家であったため、ティマイオスがローマの建国を紀元前814年としていることを知らなかったようだ。また彼は平民だったため、建国を紀元前748年とする記録を見る機会がなかったと思われる。ピクトルの「年代記」が出版されたのは、紀元前198年であり、ナエヴィウスの死後であり、紀元前748年と書かれているのをの読む機会がなかった。ナエヴィウスは69歳で自殺した。彼は愛国者であり、敵国で亡命生活を続けることを不甲斐ないと感じたのか、せっかく書き上げた叙事詩を発表できないことに絶望したのかわからない。
⑤ クイントゥス・エンニウス ( 紀元前 239ー169年)
エンニウスはローマの最初の詩人とみなされている。彼はアプリア南部のメッサピア人である。メッサピア人は紀元前11世紀にイリュリア(バルカン半島西部の地方)からアプリア南部に移住した。紀元前8世紀にスパルタ人がやってきて沿岸部に町を建設した。町の名前はタラス、現在のターラントである。昔のメッサピア人は古トラキア語を話していたが、エンニウスの時代にはオスク語を話すようになっていた。エンニウスの母語はオスク語であるが、彼が育った町にはギリシャ人地区があり、若い時にギリシャ語を習得した。エンニウスはホメロスを愛読し、自分をホメロスの生まれ変わりと思うようになった。南イタリアのギリシャ人の間では、死者の魂は新生児の身体に移ると信じられていた。またエンニウスは自分を昔のメッサピア人の王の子孫だと考えていた。エンニウスがラテン語を習得した時期は、わからない。エンニウスがローマ人に知られるようになったのはローマ軍に参加してからである。彼は中年になっていたが、百人隊長として、第二次ポエニ戦争に従軍した。サルディニア島で戦っていた時(紀元前204年)、大カトーが彼に興味を持ち、ローマに連れて行った。彼はギリシャ語の教師をしながら、ギリシャの演劇をラテン語の劇に作り替えて生計した。エンニウスはローマの要人たちの業績を讃える詩を書き、スキピオ・アフリカヌスを始め、有力者たちと親交を得た。ギリシャのアイトリア戦(紀元前189年)で、執政官フルヴィウス・ノビリオルに認められた。エンニウスはアンブラキア(Ambracia:ギリシャ北西部エピルス地方の都市)攻略に参加し、この戦いをテーマとする劇を書いた。主著の叙事詩においてもアンブラキア戦について書いた。アンブラキア攻略はローマとアイトリア同盟との戦争の主要な戦いである。
アイトリア戦のローマの司令官フルヴィウス・ノビリオルの息子のおかげで、エンニウスはローマの市民権を得た。ローマ市民となったエンニウスはアヴェンティーヌの丘に住み、質素な暮らしをしながら詩作をした。彼は劇作品も書いたが、彼の主著はローマ史を題材とする叙事詩である。「年代記」と題する叙事詩は18巻からなり、紀元前1184年のトロイ陥落から始まり、カトーが監察官に就任した紀元前184年で終わっている。彼はギリシャの叙事詩のスタイルを取り入れた最初のローマ人であり、彼の叙事詩はラテン語の叙事詩の標準となった。また彼の叙事詩は学校の教科書にも採用されたが、600行しか残っていない。叙事詩の最後の代18巻はエンニウス自身の人生が、テーマとなっており、例えば、次のよウに書かれている。
「私はオリンピック競技に出場した競争馬と同じだ。優勝した馬は疲れ切って休息を求める。年老いた私も同じように休息が必要だ」。
エンニウスが叙事詩を書いたのは67歳の時であり、3年後に自らの墓碑銘を残して死んだ。
「私が死んでも嘆かないでほしい。人が私について語るとき、私は生きている」。
エンニウスはローマ建国を1100年としたり、884年としたりしている。1100年としたのは、先輩の劇作家ナエヴィウスの説を受け入れ、歴史家ピクトルの説を拒否したようである。エンニウスは叙事詩のタイトルを「年代記」としており、ピクトルの年代記を読んでいる可能性がある。エンニウスは若い時に愛読したホメロスの詩で語られている時代とローマの建国を結び付けたかったのだろう。エンニウスは考え直して紀元前884年としたようである。紀元前884年という説はティマイオスの紀元前814年に近いが、70年ずれている。単に、少しでもローマの建国を古くしたかっただけか、ギリシャ人の歴史書にそう書かれていたのかわからない。彼はギリシャ語が第2の母語である。