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海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

数十人のデモに対し、数百人の治安部隊 2011年3月シリア

2017-02-27 10:45:31 | シリア内戦

 

3月25日、全国的なデモがあり、多数の死者が出た。死者の数が多かったダラアとサナメンについてはすでに書いた。ラタキアとホムスでもそれぞれ1名死亡したが、詳しいことは分からない。この日死者が出たことで、26日ラタキアで再びデモが起き、デモと治安部隊の双方に死者が出た。

ダマスカス在住の青年が2011年1月ー3月30日のシリアについてまとめている。その中で3月26日のラタキアの事件について「何種類もの目撃証言がある」と書いている。シリア国民も何が事実かわらず、混乱している。

また彼は3月25日ダマスカスのデモに参加しており、治安部隊の対応を自ら体験している。「数十人のデモを数百人の治安部隊が取り囲んだ」という話は漫画的であると同時に、シリアの異常性を象徴している。第三者から見ると滑稽だが、デモに参加する者にとっては恐怖だ。逮捕後は拷問を受け、死に至る場合もある。釈放されたものの、口がきけなくなった、というような後遺症が残る場合もある。

==========《シリアの安定神話》===========

        The Myth of Syrian Stability   : By  MUSTAFA NOUR

               ニューヨーク・タイムズ 3月31日 2011年

シリアを旅行した外国人はタクシーの運転手や商店主の言葉をしばしば引用する。「この国は治安がいい」。実際シリアは周辺国に比べ安定している。しかし私の周りの人間は自国を決してほめない。

治安の良さは自由がないことの裏返しだ。自由より治安のほうを選んでいるだけだ。シリアでは自由は厳しく制限されており、1963年以来戒厳令下にある。政治警察が常に国民を監視し、体制に批判的な者を容赦なく罰する。政治について意見を言うだけで逮捕され、投獄される。投獄を免れても、旅行が制限される。

実際私は2つの治安機関から制限を受けている。一つは旅行制限で、私はシリアを出られない。私が隣国で開かれた人権をテーマにする会議に出席したからだ。

自由がないことに国民は不満だったが、表面的にはシリアは平穏だった。1月北アフリカで革命が起きた時も、シリアの政権は自信を持っていた。アサド大統領は自分は真の改革を実行したと信じていた。ウォール・ストリート・ジャーナルのインタビューに対し、彼は述べた。「シリアの政府は国民と直接対話し、『開かれた社会』を実現した。それ故シリアでは革命が起きない」。

大統領は自信を持っていたが、治安関係者は革命の波及を恐れていた。2月初旬シリアでも、北アフリカの革命の犠牲者をしのぶために人々が集まり、ろうそくをともした。警察官が彼らを暴力的に取り締まった。その後デモや集会の規制を強め、改革要求はイスラエルや反対派の陰謀という主張を繰り替えした。

抗議はダマスカスの中央広場で始まり、南のダラアに移った。

3月22日の深夜治安部隊がダラアのモスクを襲撃し、その際有名な医師が死んだこともあり、モスクを守るため、市内中の市民が駆け付けた。モスク掃討ははかどらず、陸軍の精鋭師団が投入された。このモスク攻防戦で多くの市民が死亡した。

政府はようやく事態が危険な方向に進んでいると、気づいた。大統領の顧問兼報道官は政府の譲歩を示す発表をした。「大統領は平和なデモを認めており、彼らに対する武器の使用を禁じている」。

3月25日私は友人たちと、ダマスカスの旧市街にあるハミディア市場での小さな集会に参加した。我々はたった20ー30人であり、「自由!」と叫んだ。すると数百人の治安部隊が我々を取り囲み、大統領支持のスローガンを叫んだ。我々は市場から抜け出し、旧市街を出たところにあるマルジャ広場にに向かった。するとさらに多くの治安部隊が我々を待ち受けていた。彼らは真っ先に、携帯電話で撮影したり録音したりしている者を追いかけた。その後で、残りの者を棒でなぐった。数十人が逮捕された。彼らはまだ釈放されていない。どこに拘留されているのかもわからない。

その後若者たちが集まってきて、体制支持のデモ行進を始めた。このデモの撮影と録音は許可された。夜には大統領を支持するデモについて放送された。

この日(3月25日)ホムスとラタキアで大きなデモがあり、治安部隊はこれらを残酷に弾圧した。ダラアでは治安部隊の発砲により再び数十人の市民が死亡した。 

シリア政府は陰謀論にしがみつき、多くの国民がそれを受け入れた。その結果ラタキアなどでは暴力事件について相反する報告がなされた。26日ラタキアで起きた事件について何種類もの目撃証言がある。

①平和なデモをする市民に治安部隊が発砲した。

②屋上のスナイパーが市民と治安部隊の両方を狙撃した。

③宣伝車が走り回り、異なる宗派間の対立をあおるような情報をラウドスピーカーで伝えた。

人が死んでいるのに、死んだ状況についての説明がまちまちである。

一つだけ確かなのは、政府支持のデモの際にはスナイパーが登場せず、死者が出ない、ということである。自由と改革を求めたり、ダラアの死者のために集会をする者たちだけが、正体不明の武装グループによって攻撃される。政府は彼らを保護しようとしない。政府を弁護する評論家が言うには、治安部隊は発砲を禁じられているので、スナイパーに対し応戦できないという。

政府支持のデモに数百万人が参加したと報道されているが、発砲事件が起きることはない。これらのデモでは、「バシャール、心配するな! 死を恐れない者たちの支持がある」と書かれたプラカードが掲げられる。

たった2-3週間でシリアは急速に流血と混乱に向かっている。「安全で安定した社会」という以前の評判は何だったのだろう。政府は言う、「政権が倒れるなら、宗派対立と争乱が果てしなく続くだろう」。たぶんそうなるだろう。国家と社会を指導するバース党政権はこの48年間何をしてきたのだろう。宗派・民族問題の解決に努力しなかったことになる。

30日の大統領演説は全く期待はずれだった。私が期待したことは大統領の口から出なかった。

①市民に発砲した者たちの責任と処罰

②戒厳令の撤廃

③政治犯の名簿の棄却

④市民の自由を保障するための憲法改正

これらについて何も語らず、彼は権力を誇示するだけだった。議会は彼に忠誠を表明した。大統領は次のことを明言した。「個人の権利や国の将来について請願し、デモをする者たちは平和を乱すならず者である」。

この演説の結果、これまで改革を求めてぃた人たちは、これ以後政権の打倒を目的とするだろう。

================(ニューヨーク・タイムズ終了)

3月26日、大統領報道官が「戒厳令を撤廃する」と発表した時私はそれを信じてしまった。3月30日大統領が「廃止を検討している」と言った時も、もうすぐ廃止されるのだろうと思った。私は見抜けなかったが、シリアの反対派は「これは空約束だ」と見抜いていた。大統領はいったん決心したようだが、情報機関が反対したようである。戒厳令廃止は空約束に終わった。

     

APによれば3月25日ダマスカスのウマイア・モスクの外で、政府支持派と反対派の群衆が衝突し、皮のベルトで互いになぐり合った。

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2011年3月26日 ラタキア 治安部隊員死亡

2017-02-26 19:55:02 | シリア内戦

 

3月26日のラタキアのデモの際、屋上にいた正体不明な銃撃者が、デモと治安部隊の双方を銃撃した、と政府が発表した。ダラア以外で、治安部隊に対する銃撃事件の最初の例である。ダラアのデモは平和的な抗議デモ説いて始まったが、たった数日後には、デモを取り締まる治安部隊が銃撃され、死亡している。少なくとも政府はそう発表している。期間は短かったが、間違いなく平和的だったダラアの最初デモのデモについて確認しておきたい。後半で、ラタキアの銃撃事件について書くことにする。

 

ダラアでは3月16日と17日(2011年)にデモがおこなわれたようだが、くわしいことはわかっていない。当時国際メディアの関心はダマスカスに集中しており、16日と17日のダラアのデモについては報道されなかった。

 しかしそれよりも早い3月11日のデモについては知ることができる。約1か月後の416日に、逮捕された少年の親戚の回想がアルジャジーラに掲載されたからである。回想といっても時間がたっていないので、記憶もかなり信頼でき、ほとんど手掛かりのない時期について知ることができる。

また311に日のデモについての具体的な話により、16日と17日のデモについてもある程度の推測できる。

18日のダラアのデモはその頃のダマスカスのデモにくらべて人数が多く、メディアが初めてダラアに注目した。317日以前のアラアについてはほとんど知られていので、ダラアのデモは18日に始まったことにしてよいと思うが、この日以前について知ることは興味深い。 

416日のアルジャジーラの記事全文はすでに書いたので、3月11日のデモについての部分だけ、再び引用する。

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少年たちが行方不明になり、家族はあちこち訪ね回り、市役所にも相談したが、見つからなかった。金曜日(311日)の礼拝の後、両親と親族とは宗教指導者に伴われ、ダラアの知事であるファイサル・カルスームの家まで行進し、抗議した。

知事の護衛は彼らを追い払おうとしたが、両親たちと押し問答になったので、警察を呼んだ。到着した警察は放水と催涙ガスで抗議者たちを攻撃した。その後武装した政治警察が現れて、抗議する人々に発砲した。

「大勢の治安部隊がやってきて、人々に発砲し、数人が負傷した」と逮捕された少年の親戚であるイブラヒムが言う。

「血が流れるのを見て、人々は逆上した。我々は全員部族の一員であり、大家族に所属している。我々にとって、血の団結は何よりも大切だ」。

政治警察が発砲したというニュースがダラア市内に広まると、最初200人だった集会は、すぐに数百人に増えた。

「我々は平和な方法で、子供たちの釈放を要求していた。しかし彼らの返答は銃撃だった」とイブラヒムは語った。「現在我々は治安部隊といかなる妥協もできない」。

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3月11日のデモはたった200人であり、政治警察が彼らに発砲した。落書き少年の親戚の話は、「平和なデモに治安部隊が発砲した」という主張が正しいことを物語っている。

一方でアサド大統領の主張もほぼ正しい。「最初から治安部隊員が何人も死んでいるのに、平和なデモと言えるだろうか」。

何故なら、9日後の320日、平和なデモに紛れて不明な狙撃者が登場し、警察官7名が死亡する。詳しいことは何もわからない。狙撃者の発砲による、というのは私の推定にすぎない。「警察官7名が死亡」ということしかわからない。しかし政府の嘘とも断定できない。41日には陸軍兵士19名が死亡しているからである。これは襲撃状況がわかっており、陸軍の死亡者名簿によって確認されている。また4月の一か月間に、陸軍兵士88名が死亡している。これらのことはは前回書いた。

 

326日ラタキアで治安部隊に対する銃撃事件が起きた。治安部隊から死者が出た状況が報告されているが、死者数はわからない。BBCとアルジャジーラから引用する。

===Syria unrest: Twelve killed in Latakia protest》==== 

            BBC  327

     

 

326日シリア政府の発表によれば、ラタキアでデモが起き、12人の死者が出た。これは市民・治安部隊双方の死者の合計である。2人の正体不明な銃撃者もこの中に含まれる。負傷者は200名である。正体不明の者たちが屋根の上から銃撃した。軍隊が市内に入り、秩序を回復した。

大統領報道官が次のように述べた。「シリアに争乱を起こす計画がある。ドーハ在住のイスラム教導師シェイク・ユースフ・カラダウィがラタキアでの暴動をそそのかした。彼が25日発言する以前、ラタキアは平穏だった」。

=====================(BBC終了)

 

アルジャジーラは治安部隊の死を伝えていない。銃撃者の死についても書かず、建物に火をつけようとした市民が殺害されたとしている。

==《Deaths as Syria protests spread》======

Officials confirm 27 killed in clashes in cities of Homs, Sanamin, Daraa and Latakia since rallies began on March 15.

       アルジャジーラ 3月27

326日ラタキアで反政府デモが治安部隊と衝突し、3人以上の死者が出た。

シャーバン報道官が述べた。「武装グループがいくつかの建物の屋上を占拠し、無差別に市民に向けて発砲した」。

この日ラタキアでは葬式があり、参列者と治安部隊が衝突した。一部の市民がバース党の建物と警察署を焼き討ちした。

エジプトに亡命しているシリア人(Ammar Qarabi)がロイターに語ったところでは、放火しようとしている市民に治安部隊が発砲し、2名が死亡した。

タファスでは怒った住民が警察署とバース党支部の建物に火をつけた。この日タファスでは前日(25日)のデモで射殺された3人の市民の葬儀が行われていた。タファスはダマスカスの南方にある町である。(BBCの地図参照)

政府発表によれば、315日から26日までの全国の死者の合計は27名である。

=================(アルジャジーラ終了)

実際の市民の死者数は政府発表より多く、50名を超えている。

 

     〈ラタキア〉

ラタキアはダマスカスの北西350kmにあり、地中海沿岸の都市である。

 ラタキアはセレウコス朝やローマ時代に、ラオディケイアと呼ばれた。キリスト教を地中海東岸に布教したパウロはラオディケイアの人の信仰が生ぬるいことを嘆いている。パウロは繁栄する都市の富裕層への布教に失敗することもあった。

ラオディケイアの繁栄について、ローマ時代の地理学者ストラボンが書いている。

「ラオディケイアは良港を擁し、豊かな土地に囲まれている。特にブドウがよく実り、エジプトのアレクサンドリアで消費されるワインの第一の産地である。葡萄園はなだらるに広がり、頂上までのほとんどを占め、さらに山を越えて広がっている」。

   

2000年後の現在でもラタキアではブドウが栽培されており、ハマ県との県境に連なるジャバル・アンサリーヤ(アンサリーヤ山地)で作られるワインは品質が良く、ヨーロッパの高級レストランで飲まれている。

  

   

 

   

 

ラタキア県ではアラウィ派が多数を占め、アサド政権の最も強い支持層を形成している。大統領をはじめ、バース党幹部、情報機関と軍の将校はアラウィ派で固められているが、アラウィ派の居住地域は極めて偏っており、地中海沿岸のラタキア県とタルトゥス県に集中している。この2県はアラウィ派の牙城であり、彼らが中央の政権を失った場合、ここに分離国家を打ち立てるだろう。

 

   

ラタキア市の東に空港があり、ロシアはこの滑走路を整備し直し、最新鋭の戦闘機が発進できるようにした。管制塔、航空隊員の宿舎なども建設した。201594機のSu-30S戦闘機、12機のSu-25攻撃機、7機のMi-24攻撃ヘリコプターがここを基地としている。(シリアのラタキアをロシアが「ラバウル化」)

 

空港の東にカルダハ村があり、ここがアサド大統領の故郷である。(上記地図参照)

 

1922年フランスが統治したシリア・レバノンは5つの州から成っていた。アラウィ派とドゥルーズ派にそれぞれの州が与えられた。後にレバノンだけが分離独立し、残りの4州がシリアを形成した。

 

 

近代国家としてのシリアの歴史は浅く、第一次大戦後各地方の寄せ集めの状態でフランス支配下に入った。国境を決めたのもフランスである。ハタイ県は現在トルコ領であるが、フランス統治時代、アレッポ州の一部だった。地図にあるように当時はアレクサンドレッタ地方と呼ばれていた。第2次大戦の直前、トルコがドイツと同盟することを恐れたフランスは、アレクサンドレッタ地方をアレッポ州から切り離し、トルコにプレゼントした。大戦後シリアはフランスから独立し、トルコにアレクサンドレッタの返還を求めたが、無駄だった。

 

ハタイ県はシリアの反政府軍の成長に最大の貢献をしてきた。

20116月という早い時期に、最初の武装反乱が起きたのはジスル・アッシュグールである。ここはトルコ国境に近い。

ジスル・アッシュグールはトルコからイドリブ県へ入るときの玄関の役目を果たし、反政府軍にとって最重要な拠点となった。ここを出発点とし、反政府軍はイドリブ県とアレッポ県南西部にまたがる広い地域を征服し、反政府軍最強の支配地をつくりあげた。

 

 

ラタキア県は主要進撃路の反対側に位置するため、反政府軍にとって後回しの課題となった。時々ラタキア県東北部に侵入し、住民を虐殺したりしたが、征服するに至っていない。

タキア県全体から見ると、北東部は例外であり、ラタキア県の大部分は内戦と無関係で、平和な別天地であった。

 

冒頭で述べた、326日の事件は線香花火なようなもので、それだけで終わった。この時期ダマスカスもアレッポも平穏であり、ラタキアもそうであるはずなのに、326事件が起きた。「ラタキアで騒動が起きるはずがない。陰謀としか考えられない」と報道官が顔をしかめた。

 

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2011年4月シリア陸軍兵88名死亡(警察・情報機関の兵士の死亡を除く)

2017-02-11 23:04:25 | シリア内戦

 

リビアの武器が大量にシリアに流れたこと、リビアの革命家がシリア革命を支援したことはよく知られた事実である。しかし、20113月前半という早い時期にリビア人がシリアに入ったという記事は、前回訳したヘラルド・トリビューン以外ない。この時期シリア革命はまだ始まっていないし、起こりそうもなかった。逮捕された子供の釈放を求めて、親たちが政治警察に出向いたが、デモはしていない。

この時期ダラアのモスクに武器が運び込まれたことを書いているのは、この記事だけである。

ヘラルド・トリビューンの寄稿者はラタキア在住のシリア人であり、ダラアについて独自の情報を得たようだ。ダラアのモスクの聖職者は目が悪く、耳で相手を識別しており、聞きなれないリビアなまりを聞いたなら、ダラア人以外の者がモスクを訪れていることに気付いただろう、という話も、他所では聞かない。

リビア革命もシリア革命もCIAの計画であるという主張は時々なされるが、具体的な事実を挙げて説明されることはほとんどない。ヘラルド・トリビューンのような記事は他にない。

したがって彼の説を補強する情報はない。3月上旬リビアからダラアに武器が運び込まれたとしても、3月半ば以後のデモにおいてそれらが使用されたこという、一般市民の証言は皆無である。かなり暴れている連中がいることは確かであるが、発砲についての証言はなく、ダラアのデモは一般市民の平和なデモであったという報告や映像が圧倒的に多い。シリア革命の第一章第一節は「市民の平和なデモに対し、治安部隊が発砲した」という印象が強い。

しかしこれが結論というわけではない。わずかな疑問が残る。

320日ダラアで治安部隊兵士7名が死亡した、とシリア国営放送が発表した。具体的な状況はわからない。

323日、陸軍兵士2名がダラアで死亡した。途中から精鋭師団も加わり、大がかりなモスク掃討作戦が行われた日である。直後のニュースでは市民の死だけが報道された。ある評論家が、陸軍の死亡兵士の記録を調べてわかった。その記事は今回紹介する。

③ダラア市民が次のように語った。「デモをする市民が殺されると、葬儀に多くの市民が集まり、前回より大きなデモとなった。これは陰謀グループにとって都合が良かった」。この話も今回紹介するRT(ロシア・トゥデイ)の記事に書かれている。

RTの執筆者は陸軍の死亡兵士の記録を見て、4月の死亡者の数が多いことに驚いた。

 

=======《報道されない死》==========

   Syria: The hidden massacre

      執筆者 Sharmine Narwani 2014926

    

 

この事件はダラアのデモが始まって間もなく起きた。古いロシア製の軍用トラックの車列が、ダラア・マハッタとダラア・バラド間の急な坂路を走っていた。トラックには、シリアの治安部隊がすし詰めの状態で乗っていた。武装集団がこのトラックを待ち伏せており、あらかじめ道路に石油をまいていた。

坂道だったこともあり、どのトラックも滑り、すべてのトラックがブレーキをかけた。それと同時に武装集団が一斉に射撃を開始した。さまざまな反対派の話によると、治安部隊員60名以上が死亡した。

この事件については、政府とダラアの住民の両方が沈黙している。

ダラア出身者がこう語る。「この時期政府は部隊の弱さを認めたくなかったし、反対派は武装していることを知られたくなかった」。

昔から反対派であるNizar Nayoufのブログによれば、この事件は3月の最後の週に起きた。事件の時ダラアにいた人間は4月の最初の週としている。

シリア人権監視団のラミ・アブドル・ラフマンが私に言った。「その事件が起きたのは41日であり、18人または19人の治安部隊、即ちムハラバート(政治警察)の兵士が死んだ」。

政府内にこの事件を知る者はほとんどいない。外務大臣ファイサル・メクダドはこの事件について知る数少ない人間である。彼はダラアの東35kmのガソンという町で生まれ、ダラアの学校で学んだ。ダラアの危機の初期、メクダドは外務大臣としてたびたびダラアを訪問した。

メクダドは治安部隊襲撃事件について、ほぼ同一の話をした。24人のシリア軍兵士が銃撃により死亡したとしている。

私は彼に質問した。「なぜ政府はこの事件を隠すのか。これは政府の主張を裏付ける事件ではないか。『抗議運動の最初から武装グループがシリアに騒乱を起こそうとしている。抗議運動は平和的ではない』。」

メクダドの見解は次のようなものだった。「政府がこの事件を秘密にしたのは、対立を煽らないため、人々を激昂させないためだ。事態を鎮めようとしたのだ。対立感情が高まれば、反対運動がエスカレートしてしまう。政府は事態の鎮静化を考えていた」。

この時の死者19名は陸軍の記録では426日に死んだことになっている。ダラアで正体不明の武装集団によって殺害されたと書かれている。NGOが死者の名前を確認しており、1日の死者が26日死亡とされていることは、間違いない。

 

兵士の死亡について調べていたら、別の驚くべき事実を知った。4月シリア各地で死んだ陸軍兵士の合計は88人である。正体不明の者によって射殺されている。シリア内戦の初期、陸軍が出動することは少なかった。警察や情報機関(ムハーバラート)の部隊など、他の治安部隊が出動した。したがって陸軍兵士88人の死亡は多すぎる。陸軍で最初に死者が出たのは、323日のダラアだった。兵士の名前はSaer Yahya Merhej Habeel Anis Dayoubである。続いて2日後ラタキアで1名死んだ。(名前:Alaa Nafez Salman)次に49日ダマスカスの南方ドゥーマで1名が射殺された。(名前: Ayham MohammadGhazali

 

410日ホムス県のテルドでEissa Shaaban Fayyad が射殺された。同日バニアスとタルトゥスで、バスで移動中の兵士が待ち伏せされ、9名射殺された。これについてBBC、アルジャジーラ、ガーディアンが目撃者の話を書いた。「射殺されたのは脱走兵である」、「市民への発砲を拒否した兵士が射殺された」。これについてはヨシュア・ランディスが反論している。

にもかかわず、兵士が上官によって射殺されているという話は、真実として広まった。そのため武装反徒によって兵士が殺害されている事実に、メディアは関心を持たなかった。

シリア人権監視団のラミ・アブドル・ラフマンによれば、「上官が脱走兵を射殺したという話はプロパガンダであり、事実ではない」。

軍隊を分裂させ、離反兵を増やす目的で、反対派が流したデマである可能性が高い。軍の指揮官が部隊の兵士を殺害するような状況なら、政府軍はその後3年間持ちこたえることはできなかったろう。

 

410日のバニアスでの兵士射殺後、各地で兵士の死亡が続いた。ダマスカス南西のムアダミア、イドリブ、ダマスカス北東のハラスタ、スワイダの近くのマスミヤ、Talkalakh(ホムス県、レバノン国境)、そして再びダマスカス近郊においてである。

 

  

423日、ダラアの近くの町ナワで兵士7人が殺害されたが、メディアは報道しなかった。この時政府は反乱の鎮静化に努めており、重要な改革を実行したばかりだった。

①治安裁判の廃止

②戒厳令の撤廃

③政治犯に対する恩赦

④平和なデモの許可

2日後の425日、軍の部隊がアラア市内に入った。19名の兵士が射殺されたが、メディアは報道しなかった。市民の死だけが報道された。「独裁者が国民を殺害している」。この時から3年経過した現在になって、初めて知る事実が多い。これらの情報がもっと早く広まっていたなら、シリア内戦は別の展開をしていたかもしれない。メディアが正反対の証言をも、公平に報道していたなら、シリア内戦についての理解は違ったものになっていたろう。

     《作り話が事実としてまかり通った》

外国のメディアがシリアに入ることが困難な中で、シリア国内にネットワークをもつ人権監視団は、シリアで起きていること知る数少ない情報源となっているが、50人の活動家と離反兵士から情報を得ており、反政府的な傾向になりがちだ。ダラアの事件はこれらの人々の話によって形づくられた。

最近になって新しい事実が明らかになっている。シリアで活動したチュニジア人イスラム主義者がチュニジアのテレビで語った。彼は戦士名を Abu Qusayという。「自分の任務はスンニ派のモスクを破壊したり、権威をおとしめたりすることだった。たとえば、アブ・バクル・モスクやオスマン・モスクなどだ。スンニ派の象徴を攻撃することで、スンニ派とアラウィ派の対立を深め、軍を分裂させるためだった。兵士の多数はスンニ派であり、彼らが離反すれば、軍は崩壊する」。彼はスンニ派のモスクに「神とバシャールに栄光を!」と落書きした。アラウィ派の無信心者がモスクを汚した、とスンニ派は怒った。「これはスンニ派兵士を離反させるための戦術だ」と彼は語った。

チュニジアやエジプトの場合のようにアサド政権が短期間で倒れれていたら、こうした陰謀が明るみに出ることはなかったろう。シリア内戦について語られてきたことについて、つくり話と事実を区別しなければならない。

2011年の3月と4月ダラアに住んでいた人がが語っている。この人はダラアの大家族ハリリ家の一員である。「多くの人が混乱しており、2011年の3月から現在まで、数回忠誠心を変えた。最初はダラアの全員が政府を支持していた。それから突然政府に反対するようになった。でも現在では半数以上が政府を支持していると思う」。

混乱が始まるまでは、ダラア県の人たちは政府を支持していた。アラブ首長国の新聞「ナショナル」が書いている。「ダラアは長年ゆるぎない政府支持の地域として知られていた。この県の出身者の多くが政権に登用されていた」。

ハリリ家の一員が話を続ける。「当時ダラアには2つの意見があった。

①デモをやめさせるため、政府は多くの市民を殺した。殺人を警告として用いた。

②秘密の武装組織にとって市民が死ぬことは都合がよかった。市民の葬列に多くの市民が参加し、反政府運動が拡大したからである。葬式がないと、人が集まる理由がなくなる。

最初ダラアの住民の99.9%が『治安部隊が発砲している』と言っていた。しかし徐々にこの考えが変わった。隠れたグループがいて、彼らの仕業かもしれない。彼らの正体はわからないが」。彼は現在外国にいるが、両親は今でもダラアに住んでいる。

 

反対派が治安部隊を銃撃し、殺害していることを、人権監視団も認めている。「しかしこれはあくまで仲間の市民が殺されたことに対する対抗措置だ。政府の建物を破壊したのも、負傷して逮捕された仲間を救出するためだ。どちらの暴力行為も最初からやったわけではない」。

このような説明は事実に反する。410日バニアスで、バスで移動中の兵士9名が銃撃により死亡した。これは待ち伏せしたのであり、反撃ではない。他にいくつも例がある。417日ホムスで、アブド・ホドル・タラウィ将軍が2人の息子と一人のおいと共に殺害された。同日ホムスの親政府的なザフラ地区で、休暇中の政府軍司令官イアド・カメル・ハルーシュが銃撃音がしたので家から外に出てみると、銃撃され死亡した。

2日後ハマ出身で休暇中のムハンマド・アブド・ハドゥール大佐が車中で殺された。

これらはすべて反乱が始まって一か月以内に起きている。

 

2012年人権監視団のシリア研究者オレグ・ソルヴァグが私に言った。「すべての場合ではないが、デモの中に武装した者がおり、治安部隊に向けて発砲した。また群集の捕虜となった兵士は虐待された」。

反対派の武装と彼らの銃撃・殺人は疑いのない事実であるが、はたしてこれは、仲間が殺されたことに対する対抗措置だったのだろうか?それとも最初から挑発目的で行ったのだろうか。挑発を行ったのは、反対派だけではない、政権も同じことをした疑いがある。

 

シリア在住のオランダ人神父フランス・ファン・ルフトが2-3週間前殺害された。彼は死の直前まで和解と平和のために活動していた。そのため彼は両陣営から批判された。彼は内戦の最初の年の暴力について、驚くべき証言をしている。

「抗議運動は最初から必ずしも平和的ではなかった。デモの最初の日に、行進する人々の間に武器を持った連中がいた。彼らが最初に警官隊に向けて発砲した。ほとんどの場合、治安部隊の暴力は武装した反徒の暴力に対抗して行使された」。

20119月彼は書いた。

「反対派の中に武装グループがいることが最初から問題だった。この連中は残虐な暴力を行使しておきながら、治安部隊の暴力について騒ぎ立て、政府を悪者にした」。

確かに65日以後反対派は自分たちの抗議運動が平和的だと主張できなくなった。この日イドリブ県での過激分子と離反軍人が共謀し、治安部隊を襲撃した。このゲリラ攻撃はトルコとの国境に近いジスル・アッシュグールで起きた。治安部隊員149名が死亡した。戦闘終了後後、彼らはトルコ国境へ向かって逃げた。

 

=========================(RT終了)

本文にあるように、同種の事件はたびたび起きているが、ジスル・アッシュグールでの襲撃は規模が大きく、離脱兵士が参加したことで、2012年の武装反乱のさきがけとなった。しかし2011年の間は、軍隊に対する本格的なゲリラ攻撃はまれであり、この後9月と12月に単発的に起きるだけである。ある離脱将校は「武器がないので政府軍に対抗できない」と語っている。大隊全部が離脱すれば、大隊所属の重火器・装備・弾薬が手に入ったろうが、個別に離脱したので、離脱将兵は武器がなかった。だからと言って、2011年は平和なデモだけだったわけではない。

デモを取り締まる警察と情報機関の兵士は、たびたび銃撃を受けた。4月ー5月シリアを訪問したオーストラリア在住のシリア人が「毎日警官が死んでいた」と語っている。また本文にあるように、陸軍兵士も死んでいる。

 

戦争研究所(ISW)がジスル・アッシュグールの襲撃事件について詳しく書いている。

========《 Syria's armed oppositon 》===============

 

64日、ジスル・アッシュグールでデモがあり、一部の者が暴徒化した。治安部隊は彼らに発砲した。死者が出たので、暴徒は怒り、葬儀後警察署を襲い武器を奪い、治安部隊員を射殺した。その後暴徒は市を制圧した。

日秘密警察が軍隊を連れてきたが、一部の兵士が市内の掃討作戦を拒否し、脱走した。脱走兵以外の兵士は、市内で包囲されている治安部隊の救出に向かった。すると彼らを待ち伏せしていた者たちが一斉に射撃した。兵士20名が死んだ。さらに治安本部も襲撃された。正確な死者数は政府しか知らない。

 

政府が武装反乱に直面したことは確かだ。暴徒に脱走兵が加わり、正規軍に立ち向かった。

 

政府はこの反乱に決然と対応した。数百台の装甲車両が3方面からジスル・アッシュグールに進んだ。反徒たちは市を捨てて逃げ出した。彼らはトルコ国境の山地へ向かった。市民1万人が彼らと共に逃げた。治安部隊が彼らの捜索を続けたので、6月末には反徒と市民はシリアにとどまることをあきらめ、国境を越え、トルコのアンタキヤ県に入った。トルコ政府はすぐに難民キャンプを用意した。

 

======================(ISW終了)

 

 

 

 

 

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リビアの過激派が始めたシリア革命

2017-02-01 22:20:06 | シリア内戦

 

ダラアの反乱は他地域に大きな影響を与え、シリア革命の先陣の役目を果たした。最初は取るに足らない、少人数のデモだった。逮捕された子供たちの釈放を求め、親たちがデモをした。彼らを支持する親戚や近所の住民が加わる、数百人のデモに過ぎなかった。しかし治安部隊が彼らに発砲したため、これに反発した次回のデモは数千人になった。これがシリア内戦の発端である。ダラアの政治警察が柔軟な対応をせず、強硬な姿勢を崩さなかっため悪循環に陥り、デモの人数は数万人にふくれあがった。

2016年になって、ダラアの反乱に関し、CIAの関与があったとする説が発表された。落書き少年たちが逮捕され、親たちが騒ぎ出す前に、リビア人テロリストがダラアに来ており、モスクに武器を運び込んだ、というものである。

 

=======《ダラア反乱の前夜》============

  The day before Deraa: How the war broke out in Syria

      米ヘラルド・トリビューン 2016年8月10日

        執筆:Steven Sahiounie

20113月ダラアで騒乱が始まるまで、シリアは平穏に見えた。しかし実はそうではない。反乱の第一章が始まるのに先立ち、ダラアには外国人が入り込み、暗躍していた。オマリ・モスクでは準備がなされていた。衣装を変えてリビアのクーデターの再演をするつもりだった。リビアの体制転覆に成功したテロリストたちは、ダラアの反乱が始まるよりずっと前にダラアに入っていた。

オマリ・モスクの聖職者はシェイク・アフマド・サヤスネである。彼は老齢で視力が弱く、黒いメガネをかけている。彼は物がよく見えないため、家に閉じこもり、人を避けている。彼は聴覚に頼り、声やアクセントにより他人を見分けている。ダラア方言は独特であり、ダラア人を見分けるのは容易である。オマリ・モスクに集まるのはダラア人だけであり、彼らはダラアなまりで話す。しかしリビアから来た人間はリビア方言で話す。リビアなまりで導師サヤスネに話しかけたなら、導師は話している人間がダラア人でないことがわかるだろう。導師はよそ者がモスクにいることを悟るだろう。だからリビアから来たテロリストたちは決して導師と話をせず、代理人を立てて彼らの意向を導師に伝えた。彼らは信頼できるダラア人をパートナーに選び、事を進めた。リビア人に協力したダラア人はムスリム同胞団だった。ダラアのムスリム同胞団を手足として使うことを計画したのはCIAだった。CIAはヨルダンで計画を練り、作戦を指導した。

地元のイスラム原理主義者の協力を得ることにより、リビア人テロリストたちは表面に出ずに作戦を実行できた。

ヨルダンを拠点とするCIAは、反乱を起こすのに必要な武器と現金を彼らに渡していた。どの国にも不満分子や野心家はいるので、かれらに武器と現金を渡せば、反乱に火をつけることができる。

20113月のダラアの反乱は、少年たちの落書きが原因ではない。少年たちを釈放してくれと要求する親などいなかった。これはCIAが書いた筋書きであり、ハリウウッド映画の台本のようなものである。ヨルダンのCIAエージェントたちに与えられた任務は、アサド政権を転覆することだった。ダラアは第一幕第一場だった。

落書きを書いた少年たちの名前はわかっていないし、当然親たちの名前もわからない。子供の写真も親の写真もない。彼らの実在を示すものは何もない。

一般大衆の支持がなければ、反乱は成功しない。

 

ダラアの一般市民は、CIAのシナリオに乗せられているとは夢にも思わず、デモに参加した。彼らは無報酬で無自覚にエキストラ出演した。CIAの筋書きは知らなかったが、政府に対し不満があったのは事実であり、それだからデモに参加したのである。彼らの不満は数世代前から続いており、根が深かった。この不満はサウジ王家が信奉するワッハーブ主義イスラムの政治イデオロギーの浸透によって増幅された。

大統領を批判する落書きを書いた少年たちが逮捕された、という噂が広まるよりずっと前に、リビア人たちはオマリ・モスクに武器を運び込んだ。目が悪く、年老いた導師はモスク内で起きていることを把握できておらず、外国人が侵入していることに気付かなかった。

武器はヨルダンのCIA事務所からダラアのモスクに運ばれた。米政府とヨルダン国王は緊密な関係にある。ヨルダンの人口の98%がパレスチナ人であるにもかかわらず、ヨルダンとイスラエルとの平和条約は破られる気配がない。ヨルダン市民の親戚500万人がイスラエル占領下のパレスチナで人権を奪われているのに、ヨルダン国王はイスラエルとの良好な関係を大切にしている。両立しない国家の安全と国民感情との間で、国王は難しい綱渡りをしなければならない。また国王は米国の利益にも配慮しなければならない。アブドラ国王の妻(=王妃)はパレスチナ人であり、夫妻は国民と外国からの重圧に耐えなければならない。こうしたヨルダンの事情がシリアで起きることに多大な影響を与えている。40年間シリア・アラブ共和国はパレスチナ人の自由と正義の支柱の役目を果たしてきた。

 

米国がシリアの体制転覆を計画した理由は、いくつか考えられる。地政学的な位置、ガス・パイプライン、油田、金などである。しかし最も重要な目的はパレスチナ人の支援をやめさせることである。アサド大統領を葬ることによて、パレスチナ人の人権の強固な代弁者を取り除くことができる。

ダラアが反乱の最初の場所として選ばれたのは、ヨルダン国境に近かったからに他ならない。シリアの人々に、「ダラアに行ったことがあるか、行く予定があるか?」と尋ねるなら、ほぼ全員が「ない」と答えるだろう。ダラアは取るに足らない小さな田舎町である。全国的な革命を始めるのに、最もふさわしくない場所である。ダラアには重要な遺跡があり、考古学者や歴史学者が注目しているが、それ以外にダラアに関心を持つ者などいない。学者以外にダラアに関心を持ったのはCIAだけだ。

ダラアはヨルダンから武器を運び込むのが容易であり、CIAにとって完璧な場所だった。常識のある人間なら、シリア革命を始める場合ダマスカスかアレッポを選ぶだろう。ダラアに続きシリア各地で革命が始まって2年半が経過しても、アレッポ市民は反乱に参加しなかった。彼らは決して体制転換を叫ばなかった。シリアの巨大産業都市アレッポはCIAの目論見に興味がなかった。反乱に関わらずにいれば、アレッポでは大騒動に至らず、一部の騒乱も市民の支持がないので自然に消滅するだろう、とアレッポ市民は考えていた。しかし事態は思わぬ方向に向かった。

米国はイドリブとその周辺から来た自由シリア軍を支持した。さらに多数の外国人を呼び込み、トルコからアレッポに向かわせた。これらの外国人はアフガニスタン、ヨーロッパ、オーストラリア、北アフリカからトルコの航空便に乗り、イースタンブールに降り立った。それからトルコ政府が所有するバスに乗り、シリア国境に向かった。航空機の搭乗券、小切手、食糧その他の必需品、医薬品はサウジアラビアの役人が与えた。武器については、リビアのベンガジに保管されていたものを、米国が与えた。

米国とNATOによるカダフィ政権転覆が成功した後、リビア政府が所有する武器と財貨は米国の所有になった。中央銀行に保管されていた数トンの金塊もこれに含まれる。

 

リビア革命の勇者がシリアに移ったのは成功だった。リビアの反乱で活躍したテロリスト旅団の指導者メフディ・ハラチはリビアのCIAから資金を受け取り、命令を受けていた。彼はアイルランドのパスポートを持っていた。リビアの戦闘が下火になると、彼は北シリアのイドリブに向かった。そこは米国が支持する自由シリア軍の基地となった。マケイン上院議員はパスポートもなくシリアに入り、イドリブを訪問した。彼は自由シリア軍を支援すべきだと、議会で演説した。彼の友人である自由シリア軍はキリスト教徒とムスリムの首を切断し、少女たちを性奴隷としてトルコに売り、人間の肝臓を生で食べ、それをビデオで公開した。

 

内乱前シリアは平和な国であり、アルカイダ系テロリストはいなかった。シリアは戦乱に苦しむ隣国イラクの国民に寛大であり、難民200万人を受け入れた。ダラア反乱の直前、米国の俳優ブラド・ピットとアンジェリナ・ジョリー夫妻がダマスカスを訪問して、イラク難民を励ました。アサド大統領夫妻が車で市内を案内してくれたので、ブラド・ピットは感激した。セキュリティ検査もなく、大統領のボディ・ガードはいなかった。夫妻が米国にいる時はいつもボディ・ガードがついていた。ダマスカスは安全で住みやすい、と大統領が言った。フランスの旅行会社協会はダマスカスを地中海で最も安全な旅行地と評価した。フランスの地中海沿岸の有名なリゾート地より安全ということである。

しかしながら、米国の戦略は中東の再編だった。トルネイドー作戦(イラク戦争)に続き、変革の嵐(アラブの春)が吹き荒れ、シリアの平和も葬られた。

チュニジア、リビア、エジプトそしてシリアはアラブ再編の序幕にすぎなかった。その先が本番だった。しかしシリアが筋書通りに進まず、いつまでも終わらず、出費が膨らんでしまった。

シリア破壊において主要メディアが果たした役割は大きい。アルジャジーラは国営メディアであり、カタール国王の意向に従って運営されている。国王はシリアを攻撃したテログループの創設に関わった一人である。米国はテロリストたちに武器と補給物資を送り、衛星画像を供与した。志願兵募集の資金やトルコの部族に支払う資金はカタールとサウジが出した。その他の支払いに必要な現金もすべてカタールとサウジが出した。両国は米国の親密な同盟国として重要な役割を担った。中東再編はこの3国に加え、EUNATO、イスラエルが参加した総合作戦である。

CIAは海外での秘密作戦を好き勝手にやれた。大規模な軍事作戦さえやれた。しかし資金がなかった。合州国の国民はシリアでの人殺しに興味がなく、予算が承認されなかったからである。それで作戦のための資金を外国に頼らざるを得なかった。アラブ人が資金を出すなら、お好きにどうぞ、というのが無名の合州国国民の姿勢だった。彼らはシリアという国がどこにあるのかも、知らなかった。

=================(ヘラルド・トリビューン終了)

 

一点だけ反論したい。 

「大統領を批判する落書きした子供が逮捕された」という話は作り話だ、というのは受け入れらない。子供たちの釈放はダラア市民の要求の一つであり、シリア政府は「子供たちを釈放する」と約束し、実行している。 

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