リビアの武器が大量にシリアに流れたこと、リビアの革命家がシリア革命を支援したことはよく知られた事実である。しかし、2011年3月前半という早い時期にリビア人がシリアに入ったという記事は、前回訳したヘラルド・トリビューン以外ない。この時期シリア革命はまだ始まっていないし、起こりそうもなかった。逮捕された子供の釈放を求めて、親たちが政治警察に出向いたが、デモはしていない。
この時期ダラアのモスクに武器が運び込まれたことを書いているのは、この記事だけである。
ヘラルド・トリビューンの寄稿者はラタキア在住のシリア人であり、ダラアについて独自の情報を得たようだ。ダラアのモスクの聖職者は目が悪く、耳で相手を識別しており、聞きなれないリビアなまりを聞いたなら、ダラア人以外の者がモスクを訪れていることに気付いただろう、という話も、他所では聞かない。
リビア革命もシリア革命もCIAの計画であるという主張は時々なされるが、具体的な事実を挙げて説明されることはほとんどない。ヘラルド・トリビューンのような記事は他にない。
したがって彼の説を補強する情報はない。3月上旬リビアからダラアに武器が運び込まれたとしても、3月半ば以後のデモにおいてそれらが使用されたこという、一般市民の証言は皆無である。かなり暴れている連中がいることは確かであるが、発砲についての証言はなく、ダラアのデモは一般市民の平和なデモであったという報告や映像が圧倒的に多い。シリア革命の第一章第一節は「市民の平和なデモに対し、治安部隊が発砲した」という印象が強い。
しかしこれが結論というわけではない。わずかな疑問が残る。
①3月20日ダラアで治安部隊兵士7名が死亡した、とシリア国営放送が発表した。具体的な状況はわからない。
②3月23日、陸軍兵士2名がダラアで死亡した。途中から精鋭師団も加わり、大がかりなモスク掃討作戦が行われた日である。直後のニュースでは市民の死だけが報道された。ある評論家が、陸軍の死亡兵士の記録を調べてわかった。その記事は今回紹介する。
③ダラア市民が次のように語った。「デモをする市民が殺されると、葬儀に多くの市民が集まり、前回より大きなデモとなった。これは陰謀グループにとって都合が良かった」。この話も今回紹介するRT(ロシア・トゥデイ)の記事に書かれている。
RTの執筆者は陸軍の死亡兵士の記録を見て、4月の死亡者の数が多いことに驚いた。
=======《報道されない死》==========
Syria: The hidden massacre
執筆者 Sharmine Narwani 2014年9月26日
この事件はダラアのデモが始まって間もなく起きた。古いロシア製の軍用トラックの車列が、ダラア・マハッタとダラア・バラド間の急な坂路を走っていた。トラックには、シリアの治安部隊がすし詰めの状態で乗っていた。武装集団がこのトラックを待ち伏せており、あらかじめ道路に石油をまいていた。
坂道だったこともあり、どのトラックも滑り、すべてのトラックがブレーキをかけた。それと同時に武装集団が一斉に射撃を開始した。さまざまな反対派の話によると、治安部隊員60名以上が死亡した。
この事件については、政府とダラアの住民の両方が沈黙している。
ダラア出身者がこう語る。「この時期政府は部隊の弱さを認めたくなかったし、反対派は武装していることを知られたくなかった」。
昔から反対派であるNizar Nayoufのブログによれば、この事件は3月の最後の週に起きた。事件の時ダラアにいた人間は4月の最初の週としている。
シリア人権監視団のラミ・アブドル・ラフマンが私に言った。「その事件が起きたのは4月1日であり、18人または19人の治安部隊、即ちムハラバート(政治警察)の兵士が死んだ」。
政府内にこの事件を知る者はほとんどいない。外務大臣ファイサル・メクダドはこの事件について知る数少ない人間である。彼はダラアの東35kmのガソンという町で生まれ、ダラアの学校で学んだ。ダラアの危機の初期、メクダドは外務大臣としてたびたびダラアを訪問した。
メクダドは治安部隊襲撃事件について、ほぼ同一の話をした。24人のシリア軍兵士が銃撃により死亡したとしている。
私は彼に質問した。「なぜ政府はこの事件を隠すのか。これは政府の主張を裏付ける事件ではないか。『抗議運動の最初から武装グループがシリアに騒乱を起こそうとしている。抗議運動は平和的ではない』。」
メクダドの見解は次のようなものだった。「政府がこの事件を秘密にしたのは、対立を煽らないため、人々を激昂させないためだ。事態を鎮めようとしたのだ。対立感情が高まれば、反対運動がエスカレートしてしまう。政府は事態の鎮静化を考えていた」。
この時の死者19名は陸軍の記録では4月26日に死んだことになっている。ダラアで正体不明の武装集団によって殺害されたと書かれている。NGOが死者の名前を確認しており、1日の死者が26日死亡とされていることは、間違いない。
兵士の死亡について調べていたら、別の驚くべき事実を知った。4月シリア各地で死んだ陸軍兵士の合計は88人である。正体不明の者によって射殺されている。シリア内戦の初期、陸軍が出動することは少なかった。警察や情報機関(ムハーバラート)の部隊など、他の治安部隊が出動した。したがって陸軍兵士88人の死亡は多すぎる。陸軍で最初に死者が出たのは、3月23日のダラアだった。兵士の名前はSa’er Yahya Merhej と Habeel Anis Dayoubである。続いて2日後ラタキアで1名死んだ。(名前:Ala’a Nafez Salman)次に4月9日ダマスカスの南方ドゥーマで1名が射殺された。(名前: Ayham MohammadGhazali )
4月10日ホムス県のテルドでEissa Shaaban Fayyad が射殺された。同日バニアスとタルトゥスで、バスで移動中の兵士が待ち伏せされ、9名射殺された。これについてBBC、アルジャジーラ、ガーディアンが目撃者の話を書いた。「射殺されたのは脱走兵である」、「市民への発砲を拒否した兵士が射殺された」。これについてはヨシュア・ランディスが反論している。
にもかかわず、兵士が上官によって射殺されているという話は、真実として広まった。そのため武装反徒によって兵士が殺害されている事実に、メディアは関心を持たなかった。
シリア人権監視団のラミ・アブドル・ラフマンによれば、「上官が脱走兵を射殺したという話はプロパガンダであり、事実ではない」。
軍隊を分裂させ、離反兵を増やす目的で、反対派が流したデマである可能性が高い。軍の指揮官が部隊の兵士を殺害するような状況なら、政府軍はその後3年間持ちこたえることはできなかったろう。
4月10日のバニアスでの兵士射殺後、各地で兵士の死亡が続いた。ダマスカス南西のムアダミア、イドリブ、ダマスカス北東のハラスタ、スワイダの近くのマスミヤ、Talkalakh(ホムス県、レバノン国境)、そして再びダマスカス近郊においてである。
4月23日、ダラアの近くの町ナワで兵士7人が殺害されたが、メディアは報道しなかった。この時政府は反乱の鎮静化に努めており、重要な改革を実行したばかりだった。
①治安裁判の廃止
②戒厳令の撤廃
③政治犯に対する恩赦
④平和なデモの許可
2日後の4月25日、軍の部隊がアラア市内に入った。19名の兵士が射殺されたが、メディアは報道しなかった。市民の死だけが報道された。「独裁者が国民を殺害している」。この時から3年経過した現在になって、初めて知る事実が多い。これらの情報がもっと早く広まっていたなら、シリア内戦は別の展開をしていたかもしれない。メディアが正反対の証言をも、公平に報道していたなら、シリア内戦についての理解は違ったものになっていたろう。
《作り話が事実としてまかり通った》
外国のメディアがシリアに入ることが困難な中で、シリア国内にネットワークをもつ人権監視団は、シリアで起きていること知る数少ない情報源となっているが、50人の活動家と離反兵士から情報を得ており、反政府的な傾向になりがちだ。ダラアの事件はこれらの人々の話によって形づくられた。
最近になって新しい事実が明らかになっている。シリアで活動したチュニジア人イスラム主義者がチュニジアのテレビで語った。彼は戦士名を Abu Qusayという。「自分の任務はスンニ派のモスクを破壊したり、権威をおとしめたりすることだった。たとえば、アブ・バクル・モスクやオスマン・モスクなどだ。スンニ派の象徴を攻撃することで、スンニ派とアラウィ派の対立を深め、軍を分裂させるためだった。兵士の多数はスンニ派であり、彼らが離反すれば、軍は崩壊する」。彼はスンニ派のモスクに「神とバシャールに栄光を!」と落書きした。アラウィ派の無信心者がモスクを汚した、とスンニ派は怒った。「これはスンニ派兵士を離反させるための戦術だ」と彼は語った。
チュニジアやエジプトの場合のようにアサド政権が短期間で倒れれていたら、こうした陰謀が明るみに出ることはなかったろう。シリア内戦について語られてきたことについて、つくり話と事実を区別しなければならない。
2011年の3月と4月ダラアに住んでいた人がが語っている。この人はダラアの大家族ハリリ家の一員である。「多くの人が混乱しており、2011年の3月から現在まで、数回忠誠心を変えた。最初はダラアの全員が政府を支持していた。それから突然政府に反対するようになった。でも現在では半数以上が政府を支持していると思う」。
混乱が始まるまでは、ダラア県の人たちは政府を支持していた。アラブ首長国の新聞「ナショナル」が書いている。「ダラアは長年ゆるぎない政府支持の地域として知られていた。この県の出身者の多くが政権に登用されていた」。
ハリリ家の一員が話を続ける。「当時ダラアには2つの意見があった。
①デモをやめさせるため、政府は多くの市民を殺した。殺人を警告として用いた。
②秘密の武装組織にとって市民が死ぬことは都合がよかった。市民の葬列に多くの市民が参加し、反政府運動が拡大したからである。葬式がないと、人が集まる理由がなくなる。
最初ダラアの住民の99.9%が『治安部隊が発砲している』と言っていた。しかし徐々にこの考えが変わった。隠れたグループがいて、彼らの仕業かもしれない。彼らの正体はわからないが」。彼は現在外国にいるが、両親は今でもダラアに住んでいる。
反対派が治安部隊を銃撃し、殺害していることを、人権監視団も認めている。「しかしこれはあくまで仲間の市民が殺されたことに対する対抗措置だ。政府の建物を破壊したのも、負傷して逮捕された仲間を救出するためだ。どちらの暴力行為も最初からやったわけではない」。
このような説明は事実に反する。4月10日バニアスで、バスで移動中の兵士9名が銃撃により死亡した。これは待ち伏せしたのであり、反撃ではない。他にいくつも例がある。4月17日ホムスで、アブド・ホドル・タラウィ将軍が2人の息子と一人のおいと共に殺害された。同日ホムスの親政府的なザフラ地区で、休暇中の政府軍司令官イアド・カメル・ハルーシュが銃撃音がしたので家から外に出てみると、銃撃され死亡した。
2日後ハマ出身で休暇中のムハンマド・アブド・ハドゥール大佐が車中で殺された。
これらはすべて反乱が始まって一か月以内に起きている。
2012年人権監視団のシリア研究者オレグ・ソルヴァグが私に言った。「すべての場合ではないが、デモの中に武装した者がおり、治安部隊に向けて発砲した。また群集の捕虜となった兵士は虐待された」。
反対派の武装と彼らの銃撃・殺人は疑いのない事実であるが、はたしてこれは、仲間が殺されたことに対する対抗措置だったのだろうか?それとも最初から挑発目的で行ったのだろうか。挑発を行ったのは、反対派だけではない、政権も同じことをした疑いがある。
シリア在住のオランダ人神父フランス・ファン・ルフトが2-3週間前殺害された。彼は死の直前まで和解と平和のために活動していた。そのため彼は両陣営から批判された。彼は内戦の最初の年の暴力について、驚くべき証言をしている。
「抗議運動は最初から必ずしも平和的ではなかった。デモの最初の日に、行進する人々の間に武器を持った連中がいた。彼らが最初に警官隊に向けて発砲した。ほとんどの場合、治安部隊の暴力は武装した反徒の暴力に対抗して行使された」。
2011年9月彼は書いた。
「反対派の中に武装グループがいることが最初から問題だった。この連中は残虐な暴力を行使しておきながら、治安部隊の暴力について騒ぎ立て、政府を悪者にした」。
確かに6月5日以後反対派は自分たちの抗議運動が平和的だと主張できなくなった。この日イドリブ県での過激分子と離反軍人が共謀し、治安部隊を襲撃した。このゲリラ攻撃はトルコとの国境に近いジスル・アッシュグールで起きた。治安部隊員149名が死亡した。戦闘終了後後、彼らはトルコ国境へ向かって逃げた。
=========================(RT終了)
本文にあるように、同種の事件はたびたび起きているが、ジスル・アッシュグールでの襲撃は規模が大きく、離脱兵士が参加したことで、2012年の武装反乱のさきがけとなった。しかし2011年の間は、軍隊に対する本格的なゲリラ攻撃はまれであり、この後9月と12月に単発的に起きるだけである。ある離脱将校は「武器がないので政府軍に対抗できない」と語っている。大隊全部が離脱すれば、大隊所属の重火器・装備・弾薬が手に入ったろうが、個別に離脱したので、離脱将兵は武器がなかった。だからと言って、2011年は平和なデモだけだったわけではない。
デモを取り締まる警察と情報機関の兵士は、たびたび銃撃を受けた。4月ー5月シリアを訪問したオーストラリア在住のシリア人が「毎日警官が死んでいた」と語っている。また本文にあるように、陸軍兵士も死んでいる。
戦争研究所(ISW)がジスル・アッシュグールの襲撃事件について詳しく書いている。
========《 Syria's armed oppositon 》===============
6月4日、ジスル・アッシュグールでデモがあり、一部の者が暴徒化した。治安部隊は彼らに発砲した。死者が出たので、暴徒は怒り、葬儀後警察署を襲い武器を奪い、治安部隊員を射殺した。その後暴徒は市を制圧した。
翌日秘密警察が軍隊を連れてきたが、一部の兵士が市内の掃討作戦を拒否し、脱走した。脱走兵以外の兵士は、市内で包囲されている治安部隊の救出に向かった。すると彼らを待ち伏せしていた者たちが一斉に射撃した。兵士20名が死んだ。さらに治安本部も襲撃された。正確な死者数は政府しか知らない。
政府が武装反乱に直面したことは確かだ。暴徒に脱走兵が加わり、正規軍に立ち向かった。
政府はこの反乱に決然と対応した。数百台の装甲車両が3方面からジスル・アッシュグールに進んだ。反徒たちは市を捨てて逃げ出した。彼らはトルコ国境の山地へ向かった。市民1万人が彼らと共に逃げた。治安部隊が彼らの捜索を続けたので、6月末には反徒と市民はシリアにとどまることをあきらめ、国境を越え、トルコのアンタキヤ県に入った。トルコ政府はすぐに難民キャンプを用意した。
======================(ISW終了)