たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

クリントン国務長官がアサドを称賛「彼は改革派」 2011年3月27日

2016-10-28 16:36:17 | シリア内戦

327日クリントン国務長官は「米国はシリアに介入しない」と述べた。翌2012年彼女は「アサドは辞任すべき」と発言することになるが、2011年3月末には、「アサドは改革派大統領である」として、称賛していた。

ただし、米国の上院議員はブッシュ時代以来一貫してシリアを敵国とみており、「アサド政権を転覆すべし」と考えていた。レバノン内戦の構図は残っており、レバノンのヒズボラをシリアとイランが支援しており、イスラエルと米国はレバノンの欧米派を支援している。イラン陣営に新たにイラクのシーア派政権が加わり、4国同盟はスンニ派アラブ諸国にとって脅威となっている。イラクにシーア派政権が誕生したことは、陣営の対立を激化させた。対立する2つのグループのそれぞれの国は、自国の存立をかけて争っている。また世界一の産油地帯の覇権争いもこれに重なっている。

米国内の対シリア強硬論はこうした現実を反映している。またこのことは、シリア内戦が長引き、ますます深刻化した原因である。

 

  〈シリアの反対派は米国の援助を望まない〉

 

3月27日、ワシントン・タイムズは「シリアの反対派は米国の支援を求めず」と書いている。2012年以後、シリア国民連合や自由シリア軍が米国の援助を願ったことを知る人間にはわかりにくい話である。この時期の反対派は武装蜂起を考えていたわけではない。チュニジアやエジプトのような国民的な世論のを盛りを目標としていたのである。外国の陰謀の手先と見られれば、反対運動はしぼんでしまう。ダラアの市民も武器を取って戦っていたわけではない。シリアの反対派は全国的な与論の形成を目標としていた。外国の陰謀の手先と見られ、正統性を失えば、出だしでつまづいてしまう。

これまでダラアについて書いてきたが、今回は、国民的な反対運動を目指すシリア人について紹介する。

=====《Syrian rebels don’t want U.S. aid, at least for now》====

              ワシントン・タイムズ

327日米国在住のシリア人アンマール・アブドルハミドがワシントン・タイムズに語った。「シリアの反対派は米国の援助を望んでいない」。彼は国内の反対派のネットワークと連絡を取り合っており、西欧諸国にシリアの情勢を伝えている。アブドルハミドはいわば、シリアの反対派活動家たちの非公式な報道官である。

彼はクリントン長官の発言を批判した。327CBSに出演したクリントン長官は、アサド大統領は改革者であると語った。アブドルハミドは「アサドを改革者者と呼ぶのは馬鹿げている」と批判した。

番組の中で、クリントン国務長官とゲイツ国務長官が口をそろえて言った。「現時点では、アサド政権に抗議している人々を、米国は助けに行くことはない」。

この発言に対し、アブドルハミドが述べた。「米国に期待してるのはシリア以外の国だろう。シリア人は米国の介入を望んでいない。シリア政府はいつも言っている。『最近シリアで起きていることは米国の陰謀だ』。もし今米国が乗り出してきたら、政府の主張が正しいことになる。今シリアで起きていることは外国の陰謀によるものではない。シリア国民による革命だ」。

 

番組の司会者は30年前のハマの虐殺に触れた。1982年現在の大統領の父ハフェズ・アサド大統領が、ハマのムスリム同胞団を皆殺しにした。司会者は「あの弾圧は残虐過ぎたと思わないか」と質問した。

クリントン長官は返事の中で、「バシャールは父親とは違う」と語り、現在の大統領を称賛した。「最近シリアを訪問した両院議員の多くは、アサド大統領は改革者であると考えている」。

長官はリビアに話を移し、シリアとの違いを強調した。

「最近シリアで起きていることを深く憂慮するが、リビアとは違う。リビアの独裁者は軍用機で自国民を無差別に殺し、都市を爆撃した。警察官の行動は限度を超えて残虐で、見るに耐えなかった。米国は国連決議に基づき、リビアを攻撃した。シリアに対する同様な行動については、国際的な支持がない。もし次の4つの条件がそろう場合には、米国は介入について考えてもよい。

①国際的な同盟の成立

②国連安全保障理事会の承認

③アラブ連盟の要請

④世界がシリア政府を非難する時

現在これらの条件がそろう見込みがないが、シリアで次に何が起こるかわからないし、今後の展開は予測できない」。

このようなクリントン長官の発言に対し、アブドルハミドは反論した。「リビアとの違いを強調しすぎており、現在シリアで起きていることを過少評価している。長官はシリアに介入しないと言いながら、シリアで虐殺が増えた場合、米国はシリア国民を助けると述べており、米国の真意がわからない」。

 

数日前シャーバン報道官が戒厳令を撤廃すると発表したことについて、アブドルハミドが言う。「今になってそんなことを言っても、デモを鎮める効果はない。アサドの改革は時間がかかりすぎ、わずかすぎる。戒厳令を撤廃すると言われても、誰も喜ばない」。

 

  《インターネットを革命の手段とする若者たち》

アブドルハミドが、若き革命家たちについて語った。

「シリアの抗議運動はインターネットに詳しい活動家たちが組織している。彼らはエジプトやチュニジアの政権を倒したネット活動家から刺激を受け、彼らと連絡を取り合っている。

現在の反乱を指導しているのは、10代や20代の若者である。彼らは情報拡散を主な武器としている。常時フェイスブックに向き合い、シリア人の仲間同士で、さらにはアラブ世界の若者たちと連絡を取り合っている。成功した他国の若者からネットを通じて助言を得ている」。

当初アブドルハミドはシリアの抗議運動の開始時期は夏がよい、と考えていた。しかし予定より早い、315日に始まった。「若者たちは今始めたがった。私は同意した。そして実際に始まった。現在進行していることを見て、私は少なからず感激している」。

若いネット活動家の戦術の一つは、ビデオをネットに投稿することだ。先週末投稿されたビデオはマヘル・アサド(大統領の弟)に関するもので、大評判になった。

2008年に起きたサイドナヤ刑務所の反乱の時、兵士のひとりが密かに撮影したのである。鎮圧軍により殺害された政治犯の遺体を踏みつけながら、マヘルが歩いていた。このビデオはネットに拡散した。残虐なシーンがあるという理由でアカウントが凍結されたが、別のアカウントから再び投稿した。またフェイスブックにも埋め込んだ。

 

   《シリアを敵とみなす上院議員》

アブドルハミドが言う。

「クリントン長官はシリアの反乱を過小評価するが、違った評価をする人もいる。共和党の大物議員の補佐官は、こう言っている。『合衆国の敵を取り除く絶好のチャンスだ。現政権は2009年にイランを攻撃しなかったように、現在もチャンスを逃している』。

リーバーマン上院議員は27日フォックス・ニュースに出演し、シリアに警告した。『シリアの独裁者は、リビアで起きたことを教訓にすべきだ。自国民に武力を行使するなら、自らのくびをしめることになるだろう。リビアがよい例である。アサドが自国民を虐殺することを、我々は決して許さない』。

共和党のマケイン上院議員はシリアよりエジプトのことで頭が一杯なようだ。彼はCNNに出演して述べた。『シリアの反乱をリビア・チュニジア・エジプトの大衆行動と一緒にしてはならない。それぞれの国の政変は同一ではない。シリアで抗議している人々を精神的に応援しよう。エジプトは地域の要であり、これらの国の中で最も重要である。エジプトがどうなるのか、気がかりであり、目が離せない』。」

==========(ワシントン・タイムズ終了)

 

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 治安部隊2名死亡 狙撃者2名死亡 ラタキア 2011年3月26日

2016-10-25 18:03:22 | シリア内戦

     

326日ラタキアで12名死亡した。12名の死者のうち2名は正体不明の狙撃者であり、別の2名は治安部隊のメンバーである。治安部隊側の死者については、320日に続き2度目である。320日については、政府発表だけであるが、今回のラタキアの場合、政府支持派の住民の証言がある。さらに、この後2週間以内に2度、治安部隊から死者が出る。3度目と4度目については、治安部隊が攻撃されたのは事実であるとする論証がなされている。

「シリアのデモは最初から平和的ではなかった」という主張が正しいかもしれない。

 

 

326日のラタキアについてBBCが伝えている。

=====《Syria unrest: Twelve killed in Latakia protest》=======

326日ラタキアの抗議デモで12名死亡した。市民だけでなく、治安部隊の兵士も死亡した。少なくとも200人が負傷した。正体不明の人間が建物の屋上から射撃したことが原因である、と政府は発表した。 死亡者12名の中に、屋上の狙撃者2名も含まれる。バース党事務所に火がつけられた。

現在シリア軍の部隊が市を占領し、治安を取り戻した。

大統領報道官ブサニア・シャーバンが語った。「ラタキアは平穏だったが、ドーハのイスラム聖職者シェイク・カラダウィが煽動した。

政府は政党のあり方について反省しており、憲法改正の国民投票を予定している。戒厳令は、廃止が決定されている」。

ラタキアは人口45万の都市であり、キリスト教徒が多く、次にイスラム教徒スンニ派が多く、シーア派は少数派となっている。

=================(BBC終了)

 

シャーバン報道官はラタキアの騒動についてドーハのイスラム聖職者の扇動を責めたが、パレスチナ人難民も責任があるという。

デモクラシー・ナウによれば、AFPのインタビューに対し、シャーバン報道官は「パレスチナ人難民が宗派争いを起こそうとしている」と語った。ラタキア市の郊外にはパレスチナ人の難民キャンプがあり、シャーバン報道官は、そこのパレスチナ人がラタキア市に騒動を起こそうとしている、と非難した。(Twelve killed in Saturday’s Latakia protests, presidential adviser says

 

英国の人権監視団によれば、デモの中に銃を持った人間がおり、警官隊に向けて発砲した。

======《Syria: Security Forces Fire on Protesters》======

ラタキアのデモの参加者はテレビのインタビューの中で政府を非難した。「治安部隊が我々に発砲した」。

これに対し、市の役人と政府支持のデモ参加者は、反政府デモを批判した。「彼らは銃を持ち、警官隊に向かって発砲した。

英国の人権監視団がラタキアの一般住民2人にインタビューを試みたが、2人は事件について話すことを恐れており、何も聞き出せなかった。

====================(人権監視団終了)

 

    〈タファスで大きなデモ〉

BBCはラタキアについて述べた後、タファスでも数千人のデモがあったと述べている。(タファスの位置は冒頭の地図に示されている。)

=======《BBCの記事:続き》========

326日、ダラアの北18㎞に位置すタファスで大きなデモがあった。人々はアサド大統領の11年間の統治を批判した。

前日のデモで3名が治安部隊に殺害されており、彼らの埋葬に数千人の市民が集まった。バース党支部の建物と警察署が焼失した。

327日、シリア南部スワイダ市の法律家100人が、戒厳令の廃止を要求してデモ行進した。

  

同日クリントン国務長官はメディアに語った。「米国がシリアの問題に介入することを、国際社会は期待してはならない」。

=============(BBC終了)

 

この時期米国はシリア介入に対して慎重だった。サダム政権を倒したものの、その後米軍はイラクを収拾できなかった。アルカイダとスンニ派のテロは大幅に減少していたが、両者は一時撤退しただけで、テロ再開の時期をうかがっていた。

またイラクの新政権はイランに忠実であり、米国を遠ざける姿勢が明瞭だった。マリキ政権は米軍の撤退を求めた。イラク戦争の勝者はイラクのシーア派とイランだった。米国は両者のために、ただ働きしただけに終わった。

リビアでもカダフィ政権は倒れたが、市民派勢力は弱く、過激イスラム主義者による政権が誕生しかねなかった。

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シリア人イスラム過激派とアサド政権の微妙な関係

2016-10-13 07:50:52 | シリア内戦

 

シリア内戦で政府軍にダメージを与えたのは、自由シリア軍ではなく、ヌスラ、アフラール・シャム、ジャイシュ・イスラムなどのイスラム主義グループである。ジャイシュ・イスラムはダマスカス近郊の反政府軍の中で中心的なグループである。彼らは「首都を攻め落とすのは自分たちだ」と考えており、士気が高い。

自由シリア軍は、イスラム過激派の補助部隊としての役割を果たした。また一部の自由シリア軍は戦闘には参加せず、反政府軍支配地の経済活動と民生的な仕事に従事した。

 

シリアの人権派弁護士によれば、2011年3月25日に釈放された政治犯260人のほとんどは、イスラム原理主義である。つまり、内戦が始まろうとする時に、アサド政権は最も危険な連中を野に放ったことになる。

シリア政府は意図的にこれをやった、と反体制派は主張する。非人道的なテロリズム集団を国民的な革命のただ中に投げ込み、平和革命を破壊するためである。

 

シリア人イスラム過激派とシリア政府の関係を明らかにする事件が2008年に起きている。

2008年7月5日、サイドナヤ刑務所で受刑者が暴動を起こし、12月まで刑務所の一角を占拠した。この暴動によっ、多くの軍人が死亡し、100人近くの受刑者が死亡した。暴動の首謀グループは、5年前一度釈放され、イラクに赴き米軍に対しテロ活動を行った者たちである。政府は獄内の彼らに、対米テロをやらないか、と誘ったのである。イラクへ行くと、彼らはスンニ派やアルカイダと肩を並べて戦い、その活躍を米国が注目するまでになった。米国は「ダマスカスを空爆するぞ、アサド政権を倒すぞ」と脅した。するとシリア政府はテロリストをさっさとイラクから引き上げた。

シリアに帰国してみると、牢獄出身のテロリストたちは減刑されなかった。危険な任務に従事し、期待通りの働きをしたにもかかわらず、シリア政府は一切これを考慮しなかった。国家の最も重要な仕事をさせておきながら、シリア政府はそれを自覚していない。国家を支えるものが何かを理解しない政権は、一刻も早く滅んだほうがよい。

 

CIAの職員がこの事件について情報を収集し、本国に送った。その内容をウィキ・リークスがネットに掲載している。

===========================

WHEN CHICKENS COME HOME TO ROOST: SYRIA'S PROXY WAR IN IRAQ AT HEART OF 2008-09 SEIDNAYA PRISON RIOTS

サイドナヤ刑務所で起きた暴動について、シリアの人権活動家であるキャサリン・アリ弁護士が文書にした。

彼女は4人の軍人、1人の看守、1人の元受刑者にインタビューを行い、暴動について直接の情報を得た。

2003年米国がイラクに侵攻すると、シリア政府はサイドナヤ刑務所の受刑者たちに、イラクへ行かないかと勧誘した。ゲリラ兵士としての軍事訓練を受け、イラクへ行き米軍と戦うことを持ちかけたのである。これに応じた受刑者の数についてはわからない。またイラクへの派兵が何度行われたかも、わからない。

イラクでの任務が終了し、無事シリアに帰国したこれらの元受刑者は、帰国後の運命が同一ではなかった。

①釈放されて自由の身になった者。彼らは政府との連絡を絶たないことを義務づけられた。

②レバノンに送られた者

③再びサイドナヤ刑務所に送られた者

これらのグループのなかで、釈放されずに再び刑務所に逆戻りした者は、政府に裏切られたと感じた。政府のために危険な任務を果たしたことが、何ら評価されなかったからである。彼らは刑務所での処遇が改善されるだろう、もしかしたら釈放されるだろうと考えていた。しかし彼らはどちらも得られなかった。刑務所での処遇は最悪だった。

このことが原因となり、2008年7月5日の暴動が計画された。

囚人たちはベッドの鉄製の支柱から剣をこしらえた。十分な数の武器を手に入れると、彼らは刑務所の劣悪な環境について暴力的な抗議を開始した。

ただちに第4機甲旅団の兵士が刑務所を包囲した。とりあえず、棒を持っただけの新兵が刑務所内に入り、反乱を鎮めようとした。

ところが武装した囚人たちは簡単に新兵たちをとらえてしまった。それから軍服を脱げと新兵に命令し、囚人服に着替えさせた。囚人服の姿となった新兵たちは剣を突きつけられ、刑務所の屋上に連れて行かれた。新兵たちがが屋上に姿を現すと、第4機甲旅団は彼らに向かって一斉に射撃をした。誤りに気づき射撃を止めるまでに、相当数の新兵が死亡した。

第4旅団はからくりに気づき、刑務所内に入り、本物の囚人を50ー60人射殺した。しかし第4旅団は刑務所を完全に制圧することはできなかった。イスラム過激派が刑務所の一部を支配したままだった。彼らは多数の捕虜を確保しており、7月から10月までの間、捕虜と食料を交換した。この間に囚人たちは反乱軍を再建し、12月に2度目の反乱を起こした。

12月の反乱では、35ー50人の囚人が死亡した。囚人たちの組織力、そして抵抗を持続させる能力は驚嘆に値する。彼らはイラクへ赴く前の軍事訓練とイラクでの実戦で戦闘能力を身につけたものと思われる。

 

銃を持たず、鉄の棒を持つだけの囚人たちをを制圧するのに5か月も要したことは、軍隊と警察にとって汚点であり、また恥辱であり、秘密にしておきたいことがらである。

サイドナヤ刑務所の事件後、政府は囚人の環境改善に取り組み、家族との面会を許可するようになった。それでも一部の囚人は面会を禁じられている。

囚人をゲリラ戦士としてイラクに送る際、ダマスカスを拠点とするファタハ・イスラムが彼らに軍事訓練を施し、その後イラク国境まで連れて行った。ファタハ・イスラムは2008年11月27日、刑務所の反乱に呼応するかのように、軍事情報部の施設を爆破した。

=================(ウィキリークス終了)

ファタハ・イスラムはダマスカス市内のヤルムークを拠点としている。ヤルムークには、パレスチナ人の難民キャンプがある。

 

2011年3月25日に釈放されたイスラム原理主義者は、面会を許された者たちだけか、あるいは暴動後も面会を許されなかった最強者たちも含まれていたかは、わからない。

それでも上記のCIA報告はアサド政権の実態を明らかにしている。

アサド政権はひたすらおびえている弱虫であり、策をめぐらして助かることしか考えていないのかもしれない。それゆえ、彼らの考えの道筋を理解しようとしても、無意味なのかもしれない。

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シリア内戦の発端: 政治犯260名釈放 2011年3月25日

2016-10-05 18:47:14 | シリア内戦

ダラアでは、3月18日に6人の死者が出てから、政府は事態の鎮静化に努めた。しかし22日の夜、治安部隊は反対派の結集点となっているモスクを強襲し、22日の夜までに30名の死者が出た。25日に再び多くの死者が出て、22日夜から25日までの死者数は約45名となった。政府軍が死体を持ち去ることもあり、死者数はもっと多いかもしれない。

==《CNN : Dozens of Syrians reported killed in Daraa》=====

3日間に多くの市民が虐殺されたので、シリアの法律家グループが国際刑事裁判所に訴えた。( Haitham Maleh Foundation for the Defense of Syrian Human Rights Defenders)

しかし国際刑事裁判所はローマ規定を批准していない国の訴えを受け付けない。シリアはこれを批准していない。例外的な措置として、国連の安全保障理事会が国際刑事裁判所に訴えることができる。しかしロシアが拒否権を行使すれば、これは実現しない。残された唯一の道は自分たちで革命を成功させ、臨時政府を樹立することである。しかしこれは危険な道であることが後に判明した。

「ローマ規定」は人権を重んじる国々が結んだ条約である。改めてシリアが民主主義諸国の一員ではないことを痛感させられる。

人権無視の抑圧体制から解放されたいという国民の願いは強い。デモをしただけで多数の市民が銃殺され、国民の不満は怒りに変わった。

「現在のシリアは、火がつけば爆発する火薬庫のようだ」と、ダマスカスの人権派弁護士ヘイサム・マレーが語る。「もう我慢の限界だ。我々はこれまで治安当局の抑圧と弾圧に服従してきた。失業率は30%を超え、住民の60%が貧困基準以下の生活をしている」。

====================(CNN終了)

[政府はダラアのデモの原因である貧困問題の解決に取り組む」とブサニア大統領報道官が述べた。

この報道の後のデモで、ダラアの市民は「ブサニア! 我々が要求しているのはパンではない、人間としての尊厳だ!」と叫んだ。

ダラアの市民は圧制からの解放を第一の要求としているように見えるが、やはり貧困問題が背景にある。政府系企業の繁栄と裏腹に、少雨による干ばつの被害に苦しむ農民は、見捨てられた。

秘密警察の監視下の生活は牢獄に近く、これに貧困問題が重なり、、シリア内戦の原因となった。

 26日についてアルジャジーラが書いている。

=====《Anger in Syria over security crackdown》======

シリアでは、25日の弾圧にもかかわらず、26日ダラアの市民は再び結集した。死者が増加しているにもかかわらず、彼らは抗議を続けることを誓った。

3月後半シリア各地で起きた一連のデモの背後には、フェイスブックのグループがいる。彼らが運営する「シリア革命2011」というサイトには、86,000の読者いる。このサイトが26日のデモを呼びかけた。

そして26日、このサイトは「今日、シリアのすべての県で デモが行われた」と書いた。

実際各地で多くの人が死者の葬儀に集まった。

アルジャジーラのザイナ・フドルがダラアについて報告してきた。彼女はダマスカスを拠点にして、シリア各地の情報を収集している。

「多くの市民が殺され、ダラアの市民は怒っている。政府が彼らと和解するためには、非常に多くの努力が必要だろう」。

政府は前例のない窮地に立たされており、再び譲歩をせまられた。

25日サイドナヤ刑務所から260名の政治犯を釈放した。

人権派弁護士によれば、この時釈放されたのはイスラム主義者である。彼等は刑期の3分の2以上を終えているので、釈放の資格がある。しかし政府はこれまでこの資格を考慮したこと伯、満期以前に釈放された者はいない。

===================(アルジャジーラ終了)

釈放された260名が最近のデモで逮捕された人たちなら、政府の譲歩と受け止められたかもしれない。しかし最近の逮捕は特別なものではなく、同様な理由で収監されている者は数千人である。(この時期の政治的な収監者数はわからないが、2013年3月には3万7245人。)本来政治犯全員が釈放されるべきであるが,260名だけ釈放した。政府は法に従い、刑の満期終了に近い者たちを釈放した。

しかしシリア政府はこの時故意にアルカイダ系の人間を釈放したとする説がある。

実際に、釈放された260名のほとんどが、アルカイダ系やジハード思想の持ち主である。彼らは後に政権にとって最も手ごわい敵となり、多くの政府軍兵士の命を奪い、政府軍を弱体化させることになる。

この時釈放された者は、ヌスラ、アフラール・シャム、ジャイシュ・イスラミーヤの中核的なメンバーとなっている。

ヌスラの指導者アブ・ムハンマド・ジュラニもこの時釈放されたといわれている。

========【ファトフ・シャーム戦線(旧ヌスラ戦線)】=======

2011年の3月にシリアで反体制運動が起きると、アサド政権当局は、アルカイダとの関係やジハード主義思想が疑われて収監されていた容疑者全員を釈放する。その中に、アブ・ムハンマド・ジュラニ(ジャウラニ)こと、アフマド・シャラ氏もいた。

========================

政権はこの時故意にイスラム主義者を釈放したとすれば、それは信じられないような術策である。シリア政府の、このような陰謀は常人の理解を超えている。

   〈釈放された政治犯は70人?〉

ロイターは、325日釈放された政治犯の数を70人としている。

BBCによれば、10日前ダマスカス市内のデモの際に逮捕された17名が、327日追加釈放された。

 

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