たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ルーム・セルジューク朝と東ローマ帝国

2018-11-27 22:14:28 | 世界史

 

 

東ローマ帝国は十字軍によって与えられた打撃から回復することはなかった。中東全域を支配していたセルジュークークトルコも1200年代に衰退していた。そうした中で、アナトリア北西部に存在した部族集団の指導者オスマンは小さな国家を形成した。トルコ人は幼少から乗馬に慣れ親しんでおり、馬を走らせながら弓を射る戦法が得意だった。

 

 

 

オスマントルコは機動力を生かした戦法により、徐々に支配地を拡大していった。1335年の時点では、オスマントルコはまだバルカンには進出していない。地図にあるように、バルカンには南スラブ人、ルーマニア人、ブルガリア人、マジャール人の国家が存在していた。地図上では、オスマントルコとこれらの国々の間に優劣は感じられない。セルビアの領土はオスマントルコの領土より大きい。しかしオスマントルコは時間をかけて他の国を一つ一つ飲み込んでいく。

 

 

 オスマントルコはセルジューク・トルコの衰退期に、セルジューク・トルコの中心部から遠い地域に誕生した。

セルジュークトルコはカスピ海東岸から南下し、イラン・イラク・シリア・アナトリアにまたがる広大な帝国を短期間に築き上げた。しかし短期間に瓦解(がかい)した。オスマントルコはアナトリア西部を拠点とした国家としての性格を失わず、時間をかけ、徐々に領土を拡大していった。そして大国としての地位を400年維持した。19世紀に領土を少し減らし、第一次大戦後多くの領土を失ったが、新生トルコがアナトリアの国家として現在も存在している。

オスマントルコが小さな侯国として誕生した時、それまでアナトリアを支配していたルーム・セルジューク朝は弱体化しており、アナトリアは分裂し、小国が乱立していた。そのため小さな武装集団を率いていただけのオスマン1世にチャンスが生まれた。

 

 

 

オスマントルコの西隣の大国東ローマも衰退していたが、2度の大きな危機から立ち直り、ヨーロッパのいかなる国より権威があった。1300年の地図にあるように、東ローマはもはや大帝国ではなく、小国に縮小してしているが、アナトリア側にも領土を有しており、国家の中核的な部分を維持している。首都コンスタンチノープルはトラキア側にあるとはいえ、東ローマにとってアナトリア西部は重要である。特にエーゲ海沿岸部はギリシャ時代の繁栄が少なからず残っている。古代末期のギリシャ時代、エーゲ海沿岸部はアテナイがあるアッティカ地方と並び、ギリシャ文化の中心地だった。トロイはこの地方にあり、ホメロスが実在の人物であるか確定していないが、この地方の人間であったと言われている。哲学者ターレス、女流詩人サッフォーもこの地方の人間である。

コンスタンチノープルは中東とヨーロッパの結節点としての位置が重要であるが、アナトリア西部はそれ自身が重要である。キリスト教が国家宗教に昇格する準備段階で、最初の公会議がニカイアで開かれた(325年)。ニカイアはアナトリア西部の中心都市であり、経済・文化・軍事の面で重要である。

1000年代末セルジュークトルコの領土拡大により、東ローマ帝国はアナトリアの領土を徐々に失い、最後にニカイアを失った。これは東ローマが小国へと転落する第一歩となった。

 

 

 

 

 

アナトリアに進出したセルジュークトルコ軍を率いたのは、スルタンの親族であるスライマーン・クタルミシュである。彼は1077年にセルジューク朝からアナトリアの支配権を認められ、ルーム・セルジューク朝が成立した。ルーム・セルジューク朝はアナトリアの征服で満足せず、東ローマへの攻撃を続けた。東ローマ皇帝アレクシオスは動転し、西ヨーロッパに援軍を要請した。救援要請の書簡を受け取った教皇ウルバヌス2世は十字軍を呼びかけた。彼の呼びかけは熱狂的な反響を呼び、十字軍が結成された。

 1096年ヨーロッパを出発した第1回十字軍は民衆十字軍が先に出発した。かれらはハンガリーを経てコンスタンチノープルに至り、アナトリアを縦断し、エルサレムに向かおうとしていたが、アナトリアに入ると、トルコ軍に出会い全滅した。

 

 

 

民衆十字軍に続き諸侯十字軍が出発した。彼らの約半数はイタリアから船でバルカンに渡り、コンスタンチノープルに向かった。彼らもアナトリアに入るとトルコ軍との戦闘になったが、犠牲を出しながらもこれを切り抜けシリアへ向かた。

 

 

 

アナトリアに進入してきた十字軍とルーム・セルジューク朝との戦闘について、ウイキペディア(日本語)の「クルチ・アルスラーン1世」は次のように書いている。

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ルーム・セルジューク朝の第2代スルタンであるクルチ・アルスラーン1世(在位:1092年 - 1107年)の時代に、第1回十字軍がアナトリアに進入してきた。民衆十字軍はボスポラス海峡を越えてアナトリアに入ってきたが、クルチ・アルスラーンはこれをたやすく破り、多数を殺し残りは奴隷とした。

その後アルスラーンが東方のダニシュメンド朝と戦っていた時、西欧諸侯に率いられた十字軍本隊がアナトリアに到着し、ルーム・セルジューク朝の首都ニカイアを包囲した。

 

 

(地図の説明)ダニシュメンド朝はセルジュークトルコの地方政権である。キリキア王国はアルメニア人の国家である。

 

アルスラーンは慌てて首都へ戻ったが、首都は既に大軍に取り囲まれていた。1097年5月21日に十字軍とルーム・セルジューク朝軍はニカイア近郊で衝突し、十字軍が勝利した。

十字軍の強大さの前にルーム・セルジューク朝とダニシュメンド朝は敵対関係から一転して同盟へと至り、十字軍に対し共同での攻撃を行うこととした。合同トルコ軍はドリュラエウムで十字軍を待ち伏せし、攻撃を仕掛けたが、トルコ騎兵の放つ弓矢や槍(やり)は甲冑で重武装した十字軍の騎士らに対して効果がなく、トルコ軍は敗走した。

 

十字軍はアナトリア西部をルーム・セルジューク朝から奪い、その地は東ローマ帝国の手に渡った。東ローマ皇帝アレクシウスはアナトリアに十字軍の領土が生まれることを恐れており、トルコから奪った領土を東ローマに返還するよう諸侯に誓約させていた。

 

==================(ウイキペディア終了)

 

第一回十字軍の功績により、東ローマはアナトリア西部、黒海沿岸部、地中海沿岸部の領土を回復した。東ローマがアナトリア西部の中心都市ニカイアを奪回した経緯は興味深い。ルーム・セルジューク軍がニカイア近郊で敗北したので、ニカイアの包囲は解かれず、ニカイアの守備隊と市民は飢え死にするか、降伏するかしかなかった。包囲していたのは十字軍であったが、ニカイアは海に面しており、海上封鎖をしなければ、包囲は完成しなかった。十字軍は徒歩と馬で来ていたので、船を持っていない。海上封鎖をしていたのは東ローマの艦船である。ニカイアの守備隊は東ローマに降伏し、陸地の城門を閉じたまま、十字軍に対しては抗戦の構えを崩さなかった。ルーム・セルジューク朝は十字軍を最も危険な敵と考えており、ニカイアを十字軍に明け渡さない策を講じたのである。東ローマも十字軍を脅威と考えており、ルーム・セルジューク朝のほうがましだと考えていた。実際100年後の第4回十字軍によって東ローマは滅亡する。1300年の地図では東ローマが存在しているが、これは復活したからである。

うま

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オスマン・トルコとヨ-ロッパ

2018-11-16 18:13:12 | 世界史

 

オスマン・トルコは1453年に東ローマ帝国を滅ぼし、新たに大帝国を築いた。西ヨーロッパがギリシャ・ローマ文化の継承者であることは知られているが、オスマントルコ帝国がギリシャ・ローマ文化の継承者であることは知られていない。東ローマ滅亡後も経済と文化はある程度温存された。オスマントルコ政府を上級の権力として認めれば、帝国内の臣民は従来の生活を続けることを許されたからである。今回は東ローマがオスマン・トルコに置き換わったことを確認したい。

 

     〈1100年頃のヨーロッパ〉

 

 

 

フランクの王カールは西暦800年にローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠した。476年西ローマが滅亡して以来、300年以上経過しており、継続性はないが、ローマ皇帝の記憶は消えていない。ゲルマンの王よりローマ皇帝のほうが権威があった。西ローマ滅亡後も東ローマは存続しており、この間東ローマ皇帝が単独の皇帝となっていた。したがって東方のローマ皇帝はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。

カールの死後フランク王国は東・中央・西の3つに分裂し、その後中央の国が消滅し、西フランクと東フランクが残った。西フランクの王は皇帝という権威に必要を感じず、皇帝位は忘れ去られた。東フランク場合、皇帝という権威が必要だった。東フランクは分裂しており、東フランクの王は互いに争っている諸侯の一人に過ぎなかった。西フランク王も諸侯と争っていたが、国王には優位性があった。東フランクの場合、各地の有力諸侯が王位を争っており、それぞれの地方は対等であり、国家の中心となる領域が存在しなかった。オットー一世は分裂状態に終止符を打つ努力をし、自分の兄弟と近親者を各地の諸侯に任命した。国家の唯一の主権者であることを宣言する目的からオットーはローマ皇帝として戴冠した。東フランク各地の司教はローマ教皇を中心にまとまった組織であり、オットーはかれらの協力を得て国家の統一を実現しようとした。オットーの教会重視の政策により、東フランクは神聖ローマ帝国と呼ばれるようになった。また東フランクの王はローマ王と呼ばれるようになった。現代人はドイツの王をイタリア王を呼ぶことに違和感を感じるが、この時代ドイツという呼称はない。この時代の文書はラテン語である。聖書もラテン語である。ドイツ語が文章語として定着すると、東フランクはドイツと呼ばれるようになった。イタリアの王はイタリア王である。

神聖ローマ皇帝はローマ王とイタリア王を兼ねることが多かった。イタリア王を兼ねた神聖ローマ皇帝はイタリア全部を支配していたわけではなく、その一部を支配していただけである。19世紀にイタリアが統一されるまで、イタリア全体を支配した者はいなかった。神聖ローマ帝国はナポレオンの時代まで続く。

上の地図にあるように、11世紀初頭ポーランド、ハンガリー、ブルガリアは独立国である。ハンガリーの東の小国(Ardil)はハンガリー人とルーマニア人が混在しており、支配者がどちらだったか、わからない。ハンガリーの南の小国(Ahtum)は主にハンガリー人の居住地であるが、アヴァール人とブルガリア人も住んでいる。支配者についてわかっていない。両国は後にハンガリー領となる。

 

      〈1300年ごろのヨーロッパ〉

 

地図によると、ポーランドが分裂し、中心部はボヘミアに併合されている。ハンガリーはクロアチアを併合し、ハンブルガリアの領土も奪っている。(12世紀の地図参照)

14世紀のハンガリーは野心的だった。

セルビア王国が新たに誕生している。

ハンガリーの東の小国モルダビアはルーマニア人の国である。

東ローマは十字軍による打撃が大きく、滅亡は免れたものの、領土は大幅に縮小した。

 

               〈ヨーロッパと中東〉

カエサルの時代からトラヤヌス帝の時代まで、ローマ帝国の東半分は文明地帯だった。中東で人類最初の文明が誕生し、紀元前2500以来、中東は文明の中心だった。古代文明の末期、紀元前500年頃にギリシャが興隆し、新しい文明がが生まれた。これ以後世界史は新たな時代に入るが、中東が衰退したわけではない。アレクサンダー大王の後継者たちが中東を支配した時代、ギリシャと中東の間の交流が盛んになり、中東はギリシャ化された。新しい都市も建設され、エジプト・シリアは繁栄した。その後ローマが中東にまで進出するが、ローマは後進民族であり、エジプト・シリアは文明地帯だった。

15世紀のイタリアのルネサンス以来西ヨーロッパが先進的な文明地帯となったようにように考えられているが、これは誤解である。確かに15世紀のイタリア文化は西洋文明の出発点になったが、15世紀のイスラム世界は西ヨーロッパより繁栄していた。ルネッサンス期のイタリアの繁栄は西ヨーロッパの繁栄の予兆に過ぎなかった。文化・経済の両面で、中東と西ヨーロッパの地位が逆転するのは1800年代である。この時期に間違いなく劇的な逆転がおきた。その原因は精神的なものでも、文化的なものでもなく、西ヨーロッパにおいて生産技術が飛躍的に発展したからである。西洋で産業革命が起きたのは1700年代であるが、それが急激な経済成長をもたらすようになるのは1800年代である。

この間オスマン帝国は1700年頃を境に興隆から衰退に転じるが、1700代の衰退ははっきり感じられるものではなく、非常に緩やかに衰退に向かったのである。オスマン帝国はバルカンから東欧に進出し、西欧と国境を接していた。このことはオーストリアとポーランドにとって深刻な脅威となっていた。ハンガリーの状況は複雑だった。最初はオスマン帝国が脅威だったが、後にオーストリアに併合されそうになると、オスマン・トルコに頼って独立を維持しようとした。

 

 

 1453年コンスタンチノープルが陥落し、1000年続いた東ローマは滅亡した。16世紀初め、ハンガリーに代わりポーランドが繁栄する。ポーランドとリトアニアとの連合は合意によるもので、両国はともに栄えた。ルーマニア人の国モルダビアはポーランドの支配下に入り、地図から消えている。同じくルーマニア人の国ワラキアが誕生している。ハンガリーの支配から脱したのである。モルダビアの領土は黒海沿岸部から北西に延びており、ワラキアのは領土は黒海沿岸部から真西に延びている。

 

ブルガリアはオスマン帝国に飲み込まれてしまった。

 

 オーストリアの中心都市ウイーンは1529年と1683年にオスマン軍によって包囲された。ウイーンは2度の包囲において危機的な状況に陥ったが、長期間の包囲戦の末、オスマン軍を撃退けた。第2回包囲後オスマンの脅威は消滅し、オスマン帝国の存在は忘れ去られた。西欧は内部での覇権争いに終始した。

 

  〈オスマントルコの衰退とバルカン問題〉

1800年代になると、大国の地位を確立したイギリスとフランスは東欧と地中海に関心を持つようになった。これらの地域を支配していたオスマン・トルコは衰退しており、英・仏の圧力をはねのけることができなかった。また黒海の向こうのロシアも強国に成長しており、バルカンから南下しようとしていた。トルコ帝国はひん死の病人と呼ばれ、朽ちた大木と見られていた。広大なトルコの領土は英・仏・露の争奪の対象となった。

 

こうした中で、スラブ民族の土地であるバルカンを影響下に置こうとするロシアと自国内のスラブ人の独立傾向を抑え込もうとするオーストリアが衝突し、第一次大戦を引き起こした。独立後のセルビアは民族主義に燃えて戦意が高揚しており、オーストリア領内のクロアチア人とセルビア人に影響を与えていた。オーストリアはスラブ人地域を失う危険が迫っていた。オーストリアは疫病神のセルビアを滅ぼすことを決意した。これに対しロシアはセルビアを守るつもりだった。ロシアがセルビアを見捨てるなら、スラブ人の信頼を裏切ることになり、ロシアのバルカン政策は破滅する。オーストリアは単独でロシアを相手にするだけの軍事力はなかったが、ドイツが支援を約束していたので、ロシアとの戦争になることを承知の上でセルビアに最後通牒を出した。日露戦争で敗北したロシアは弱体化したが、徐々に回復しており、ロシア軍の再建・強化は時間の問題だった。ロシア軍は大きな戦闘で敗北をしても粘り強く戦い続け、徐々に逆転するという戦い方をする。日露戦争で早々と講和したしたのは、講和の条件に賠償金は含まれず、三国干渉で得た領土を引き渡すだけだったからである。ただし南満州鉄道を建設したのはロシアであり、これを日本に引き渡すのは痛手だったが、極東における損失は許容範囲内だった。

 

極東と違い、ロシアにとって東欧は重要な緩衝地帯であり、言わば前庭である。ロシアは東欧において致命的な譲歩をするぐらいなら、最後まで戦う。ポーランド国境からモスクワまで進軍するのは容易である。ロシアは東欧支配を重視しており、一方でドイツは東欧へ進出しようとしている。ドイツとロシアは互いに潜在敵な敵である。ロシア軍が再建されるなら、ドイツにとって脅威となる。ドイツ参謀本部はロシア軍が弱いうちに、これをたたくことに決めていた。好戦的な発言で有名だったドイツ国王ウイルヘルム2世は瀬戸際作戦をしていただけであり、いざ戦争となると慎重だった。ロシア皇帝とウィルヘルム2世は従兄弟どうしであり、ウィルヘルム2世はロシアと戦争をするつもりがなかった。彼はその考えを参謀長モルトケに伝えた。するとモルトケは「戦争は決定されており、すでに動いています」と述べ、国王の意向を無視した。

 

第一次大戦の原因となったことで、バルカン問題は世界から注目された。東欧に興味がない日本人もこのことは知っている。19世紀末バルカン半島は火薬庫と呼ばれた。バルカンの支配者であったオスマン帝国が弱体化したため、諸民族の独立運動が盛んになり、これを利用して自国の勢力圏を設定しようとする列強の争いが激化したのである。

 

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フランス・トルコ戦争 1918年12月ー1921年10月

2018-11-05 19:53:30 | シリア内戦

第一次大戦においてオスマン・トルコ帝国はドイツ・オーストリア側に立って戦ったが、敗北した。1918年10月30日、連合国とオスマン帝国との間で休戦協定が締結された。

停戦の半年後(1919年5月15日)、ギリシャは小アジア西岸の都市イズミルに軍隊を上陸させた。休戦協定においてトルコが占領を認めたのは2か所だけである。

①コンスタンチノープル

②ダーダネルス海峡とボスポラス海峡を守る要塞。

従ってギリシャ軍のイズミル上陸は休戦協定の違反である。

ギリシャ軍のイズミル上陸後、今度はフランス軍が黒海沿岸部と地中海沿岸部に上陸した。ギリシャもフランスもトルコ内に領土を獲得する目的で侵攻したものであり、明らかに休戦協定の悪用だった。

トルコでは旧オスマン軍に代わる新たな軍隊が生まれており、この愛国的な新トルコ軍がギリシャ軍とフランス軍に立ち向かった。新トルコ軍は1918年5月19日、オスマン・トルコ軍司令官の一人であったケマル・パシャの呼び掛けにより成立したものである。

休戦成立後ギリシャが侵略してきたことにトルコ国民は怒っており、ケマルの新軍は国民の支持を集めた。「ギリシャ・トルコ戦争」についてはすでに書いたので、今回は英語版ウイキペディアの「フランス・トルコ戦争」を訳す。

 

=======《  The Franco-Turkish War》=====                                                                wikipedia                                        〈フランス軍、黒海沿岸へ上陸〉

トルコの降伏後、フランス軍が最初にしたことはトルコ領内の炭鉱の占領だった。当時燃料は石炭に頼っており、石油は使用が始まったばかりで、石炭ほど普及していなかった。石炭は重要な戦略資源だった。フランス軍は燃料としての石炭を必要としていた。石炭がトルコ軍の反乱に使用される恐れもあったので、フランス軍は炭鉱を占領したのである。

1919年3月18日フランスの2隻の戦艦が黒海沿岸の2つの港(ゾングルダクとカラデニズ・エレーリ)に兵士を上陸させた。上記地図参照。この2港は炭鉱地帯に近かった。フランス軍は絶えずゲリラ攻撃を受け、翌年(1920年)6月8日、カラデニズ・エレーリから撤退した。しかしフランス軍はゾングルダクには留まり、1920年6月18日都市全体を占領した。

       〈コンスタンチノープル占領〉

1918年11月12日フランス軍の旅団がコンスタンチノープルに入った。翌年2月8日占領軍軍令官フランシュ・ドゥ・エスペレー将軍が到着し、占領行政を調整した。

フランス軍はコンスタンチノープルの占領で満足せず、アジア側に進出し、アナトリア半島の北西部の中心都市であるブルサを占領した。1920年夏ギリシャ・トルコ戦争が始まると、フランス軍はブルサをギリシャ軍に引き渡す形で撤退した。上記地図参照。

       〈アナトリア南部の戦闘〉

1918年11月17日フランス軍15000人がメルスィンに上陸した。将校150人はフランス人だったが、兵士の大部分はアルメニア人志願兵だった。

 

フランス軍は内陸部に進み、アダナに本部を置いた。この地域はキリキアと呼ばれ、山地が多いアナトリアにあって平地であり住みやすい。港もあり、トルコ東部への玄関の役目を果たしており、戦略的な要地となっている。

中世においてアルメニア人の国家、キリキア王国(1198年-1375年)が存在した。フランスはアルメニア人を支援しながら、トルコ東部にフランスの領土を得ようとしていた。

メルスィンに上陸したフランス軍の直接の目的はオスマン・トルコ政府を解体することだったが、サイクス・ピコ条約を現実のものとするための布石でもあった。

 

キリキアを占領したフランス軍は1919年末、ガジアンテプ、マラシ、ウルファの3地域を占領した。これらの地域はエジプトから北上した英軍が占領していたのであるが、両国間の約束に従い、交代したのである。

フランス人総督がこれらの占領地を支配することになったが、トルコ人の抵抗運動に直面した。フランスがアルメニア人の野望を支持していたため、トルコ人はフランス軍を危険な存在と見ていた。フランス人将兵はこの地域について何も知らず、情勢を知るためアルメニア人民兵を活用していた。トルコ人は地元のアラブ部族と協力し、アフランス軍に反抗した。

トルコの新しいリーダーとなったケマル・パシャにとって、フランスはギリシャほど危険な敵ではなかった。

ケマル・パシャは周囲の者に語った。

「ギリシャの脅威がなくなれば、フランスはアナトリア南部に固執しないだろう。フランスの真の関心はシリアにある」。

フランスの総督は自分の占領地でトルコ人が反乱を起こしたことに驚いた。英軍が占領地を無力化していなかったことが原因だ、と彼は英軍の怠慢を責めた。トルコ西部におけるギリシャ・トルコ戦争でギリシャが敗北したため、フランスの計画に狂いが生じた。トルコは反撃する力がないだろうという前提でフランス軍は作戦を開始した。キリキアからウルファに至る地域の占領はアルメニア人志願兵部隊でじゅうぶんだとフランスは考えていた。しかしケマル率いる新トルコ軍は強く、新トルコ軍の存在に励まされ、戦線から離れた南部にはゲリラ組織が誕生した。。

1920年1月20日ー2月11日マラシのフランス軍とトルコ人反乱軍との間で戦闘がおこなわれ、その後フランス軍は撤退した。フランス軍には地元のアルメニア人も加わっていた。フランス軍ガマラシ市から去ると、数千人のアルメニア人住民が虐殺された。

フランス軍のアルメニア人兵士(Sarkis Torossian)は日記の中でフランス軍の裏切りを疑っている。

「フランス軍はケマル・パシャ派のトルコ人反乱軍に武器・弾薬を与える代償として、安全にキリキアから脱出することができた」。

マラシのトルコ人反乱軍は南部の他の都市もフランス軍から奪還し、トルコ領土の保全に貢献した。フランス軍は撤退を繰り返した末に、キリキアから去った。

================(wikipedia終了)

フランス軍はトルコを分割する目的でキリキアに上陸したが、トルコ人に撃退されてしまったのである。この例はいったん降伏した後でも、戦勝国に好き勝手をさせる必要はなく、軍事的抵抗が有効であることを示している。

キリキア作戦の失敗により、サイクス・ピコ条約に示されたフランス要望は不完全な形でしか実現しなかった。1923年のローザンヌ条約で決定されたトルコ国境とサイクス・ピコ協定を見比べれば、違いがわかる。

ローザンヌ条約の16年後(1939年)、フランス領シリア内の地中海沿岸部ハタイ県がトルコ領となり、現在に至っている。

ギリシャ・トルコ戦争におけるギリシャの敗北とフランスのキリキア作戦の失敗により、アルメニア人の野望も消えた。1920年のセーブル条約において、アルメニアはトルコ東端に領土を獲得した。これはフランスの後押しがあったからである。アルメニアはキリスト教国であり、戦時中からフランスはアルメニアを支援していた。

 アルメニアは1923年のローザンヌ条約でトルコ東端の領土を失った。

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