16章-20章で最も大きな出来事は表題の2つの戦争である。アウルンキ族はオスク人に所属し、ローマは初めて南イタリアのイタリック系民族と衝突した。またローマとラテン人の関係が悪化し、最後に大きな戦争になった。こうした戦争に対応するため、ローマの最高官職の制度が変化した。執政官が4人になった。追加された2人は戦争経験のある元執政官である。その後4人の執政官体制をやめ、2人の執政官の上位の官職として、独裁官を設けた。独裁官の設置は、は制度の大きな変更だった。
16章はサビーニ人との戦争再燃についての話で始まる。
==《リヴィウスのローマ史第2巻》==
Titus Livius History of Rome
translated by Canon Roberts
【16章】
年が変わり、新しい執政官に選ばれたのは、ヴァレリウスとポストゥミウスである。この年ローマはサビーニ人と戦い、勝利した。執政官(二人)は勝利を祝った。サビーニ人はさらに大きな戦争を準備した。ローマは彼らに対抗するだけでなく、ラテン人の町トゥスクルムに対しても用心しなければならなかった。
トゥスクルム(アルバ湖の北にある町)は戦争を宣言していなかったが、彼らとの戦いにも備えなければならなかった。この危機に際し、執政官は4人となった。増加された2人はどちらも執政官経験者だった。ヴァレリウスが4度目の執政官となり、ルクレチウスは2度目の執政官となった。
サビーニ人は平和を求める人々と戦争派に分裂した。これはローマにとって有利な状況った。アッティウス・クラッススはローマとの平和を主張したが、戦争派に押し切られた。アッティウスは多くの従属者をつれてローマに逃げた。彼は後にローマ人からアッピウス・クラウディウスと呼ばれた。ローマは彼らを受け入れ、市民権を与えた。彼らはアニオ川の向こうに土地を与えられた。彼らは後に古クラウディウス族と呼ばれた。この地域の人々はクラウディウス族の一員となり、部族の人数が増えた。アッピウスは元老院議員に選出され、後に有力な元老となった。
執政官たちはサビーニ人の領土に進んで行った。ローマ軍はサビーニ人の土地で略奪し、サビーニ軍を打ち負かした。サビーニ人は完全に打ちのめされ、長期間戦争はできなくなった。ローマ軍は勝利して、帰還した。
翌年の執政官はアグリッパ・メニウスとポストゥミウスだった。この年、ヴァレリウスが死んだ。彼はクルシウム軍をテベレ川の対岸で防ぎ、4度執政官を務めた。彼は戦争において第一人者であり、平時の施策も優れていた。このことは誰もが認めていた。彼は人々から高く評価されていたにもかかわらず、貧しかったので、自分の葬式の費用を賄う遺産を残さなかった。それで国家が葬式の費用を出した。ローマの女性たちは彼の死を嘆いた。このようなことはブルートゥスが死んだ時以来だった。
同じ年、ラテン人の2つの植民地、ポメチアとコラがアウルンキに反乱した。
―------(訳注)-----―――
ポメチアとコラはヴォルスキ族の町であり、ラテン人の植民地となっていたか、よくわかっていない。ヴォルスキ族の居住地はラテン人と隣接しており、ローマ建国以前の古い時代にラテン人がポメチアとコラに進出していたのかもしれない。ローマの王政期、2つの町はヴォルスキ族の町となっていたようである。ローマの第7代国王タルクィヌスはヴォルスキ族の土地に進出を試みた最初の国王である。彼はポメチアを攻撃し、勝利した。(第1巻13章)
コラはヴォルスキ族地域の南西部に位置し、ポメチアはコラの南にある。ポメチアの正確な位置は分からない。
その後ポメチアとコラは東の隣人であるアウルンキ族に支配されたか、または圧迫を受けていたがが、反乱した。ローマは反乱を応援し、アウルンキ族と戦った。アウルンキ族はオスク人である。ヴォルスキ族はウンブリア人かオスク人かわからない。ロムルス時代以来ローマと戦争と和平を繰り返してきたサビーニ族はウンブリア人である。
---------―――(訳注終了)
ローマはポメチアとコラの側に立って参戦した。ローマ軍がアウルンキ族の領土に侵入すると、アウルンキ族の大軍が押し寄せた。ローマ軍が勝利すると、次にポメチアの周辺が戦場になった。(訳注;アウルンキ軍はポメチアを占領していた。)
戦闘が休みなく続き、両軍の兵士は降伏よりも死を選んだので、多くの犠牲が出た。捕虜となった兵士が至る所で殺された。怒り狂った敵によって、300人のローマ人捕虜が殺害された。
【17章】
新しく執政官になったヴェルジニウスとカッシウスはポメチアを急襲し、占領しようとしたが成功せず、町を包囲することにした。アウルンキ族は勝敗を考えず、憎しみに駆られ、門を出て、ローマ軍を攻撃した。アウルンキ兵の多くがたいまつを持っていて、手当たり次第に火をつけた。ローマ軍の攻城用丸太は車輪の付いた台車に乗せて運ばれていた。この台車は当時木製(ぶどうの木)だったので、燃えてしまった。多くのローマ兵が死傷した。執政官の一人が落馬し、重症を負い、かろうじて命をと取り留めた。ローマの政府は彼の名前を秘密にした。
こうした悲惨な戦闘の後、ローマ軍は帰還した。負傷者が多く、落馬した執政官は危険な状態だった。ローマは戦争を中止し、兵士の傷が治るのを待った。また戦死した兵士の代わりに新兵を補充した。増強されたローマ軍は怒りに燃えて、ポメチアを再び攻撃した。攻城用の丸太を運ぶ台車は修理され、その他の攻城用の武器も用意された。ローマ軍の準備が終了した時、ポメチアを守備していたアウルンキ軍が降伏した。ローマ軍は敵が町を明け渡したにもかかわらず、戦闘により町を攻略したかのように、情け容赦なく敵兵を処断した。アウルンキ軍の主要な人物は斬首された。町の住民は奴隷として売られた。家屋はすべて破壊され、土地は売り出された。執政官は勝利を祝った。 重要な戦争が終了したことより、敵に復讐できたことを祝ったのである。
【18章】
翌年の執政官はポストゥミウス・コミニウスとラルティウスだった。この年ラテン人との戦争が迫っていた。小さな事件が起き、それが恐ろしい戦争に発展した。ローマの競技祭典の時、サビーニ人が悪ふざけで数人の遊女を連れ去った。一斉に群衆が集まり、喧嘩となった。喧嘩はまるで戦闘のようになった。オクタヴィウス・マミリウス(追放された王の義理の息子)の提案により、30の町の同盟を結成したという報告があり、ローマの人々はさらに驚いた。30の町の同盟はローマにとって脅威であり、これに対処するため、ローマの指導者たちは独裁官の選出を提案した。これは全く新しい制度だった。もっとも独裁官の制度がいつ誕生したのかについては、わかっていない。また最初の独裁官の名前もわかっていない。独裁官の新設について、平民の同意を得るのは難しかった。平民はタルクィヌス家の人々を支持してたからである。最初の独裁官を任命するにあたり、平民の同意を得ることができた執政官の名前もわかっていない。以上のような反論もあるが、この年独裁官が任命されたとする伝説がある。最も古い歴史書には、次のように書かれている。
「ラルティウスが最初の独裁官となり、カッシウスが騎兵長官になった」。
執政官または執政官経験者だけが独裁官になれる、と法律に定められている。ラルティウスはこの年の執政官であり、未曽有の危機に際し、彼がもう一人の執政官コミニウスより上位の権限を与えられ、コミニウスを抑制し、あるいは命令したのである。マルクス・ヴァレリウスの息子のマンリウスが最初の独裁官であるとする説もあるが、私は賛成できない。仮にヴァレリウス家の者が独裁官に選ばれるとしたら、息子のマンリウスではなく、父親のマルクスだろう。マルクスの能力は証明されており、彼は執政官を経験している。
それはともかく、ラルティウスが最初の独裁官になったという話に戻る。最初の独裁官が任命されると、人々に恐怖を与えた。独裁官の前に斧が置かれると、人々は従順に命令に従った。(英訳の注;権力の象徴である斧は人々に恐怖を与えたので、ヴァレリウスが執政官になってから、斧は撤去されていたが、再び出現したので、人々に恐怖を与えた。)
2人の政官は対等であり、互いに相手をけん制できたが、独裁官は誰からも抑制されなかった。独裁官の決定は絶対であり、これに不服があっても、上告できなかった。安全な場所はなく、忠実に命令に従うしかなかった。ローマで独裁官が任命されると、サビーニ人はローマの人々よりも恐れた。「ローマは自分たちと戦争する津つもりだ」とサビーニ人は考えた。彼らはローマに使節を送り、平和を提案した。使節は冒険的な戦争と祝祭競技の際の乱暴を独裁官と元老院に謝罪した。これに対し、ローマは返答した。
「若者の悪ふざけは許されるが、指導的な人々が絶えず戦争を仕掛けることについて、そうはいかない」。
ローマは厳しい返事をしたが、交渉には応じ、「サビーニ人が戦費を負担するなら、和平に応じる」と述べた。ローマはサビーニ人に戦争を宣言したが、非公式の和平が成立していたので、年内に戦闘は起きなかった。
【19章】
翌年の執政官はスプリキウスとマンリウス・トゥッリウスだった。この年は書くに値することは起きなかった。
翌年の執政官はアエブティウスとヴェトゥシウスだった。この年ローマはフィデナエを包囲し、クルストゥメリアを占領した。プラエネステがラテン人に反逆し、ローマに従った。
――――――――(訳注)-――――――
フィデナエはローマの北8kmにあるエトルリア人の町。この町は建国間もないローマと戦争をし、敗れた。クルストゥメリアはクルストゥメリウムと同意。クルストゥメリウムはサビーニ人の町で、サビーニ人の町としてはローマに最も近い。ロムルスの時代にローマはサビーニ人女性を略奪した。クルストゥメリウムの女性も略奪され、戦争になり、ローマはクルストゥメリウムに勝利した。プラエネステはラテン地域東部の町で、現在のパレストリーナの地に存在した。遺跡から、エトルリアと交流があったことが知られている。住民がどの民族に所属していたか、わからない。「プラエネステがラテン人に反逆した」とあるが、ラテン人とはラテン地域中部で優勢だったトゥスクルムのようである。トゥスクルムはアルバ湖の北。続いて語られる「ラテン人との戦争」もトゥスクルムを中心としたラテン人との戦争である。トゥスクルムと同盟した町の数、それらの町の名前はわからないが、昔ローマに敗れて下位の同盟者となっていた町々のようである。
数年前からラテン人との関係が悪化していたが、ついに戦争となった。ポストゥミウスが独裁官となり、アエブティウスが騎兵長官になった。ローマの歩兵と騎兵の大軍がトゥスクルルム郊外にあるレギッルス湖に向かい、ラテン軍と激突した。(訳注;レギッルス湖は小さな湖であり、その後干上がり、現在は存在しない。地図上の3つの湖はどれもレギッルス湖ではない。)
タルクィヌス家の人々がラテン軍の中にいることがわかり、ローマ兵は憎しみの気持ちが燃え上がり、まっしぐらに敵に向かって行った。両軍は死に物狂いで戦い、戦闘は長く続いた。ローマはこのような戦闘を経験したことがなかった。両軍の指揮官たちは作戦を命令するだけでなく、直接剣を交えた。彼らのほとんどが負傷して戦場を去った。ローマの独裁官だけは例外で、戦場にとどまった。
タルクィヌス・スペルブスは老いて体力が落ちていたが、馬に拍車を当て、独裁官ポストゥミウスに向かって行った。ポストゥミウスは最前線でローマ軍の陣形を指示していた。タルクィヌスは独裁官の脇腹に一撃を加えた。そばにいたローマ兵たちが独裁官を安全な場所に運んだ。
騎兵長官アエブティウスも最前列にいて、オクタヴィウス・マミリウス(タルクィヌスの女婿)が率いるトゥスクルムの部隊への攻撃を指揮していた。マミリウスは騎兵長官アエブティウスを見つけると、彼に向かって馬を全速力で走らせた。両者は激突し、マミリウスの槍がアエブティウスの腕を貫いた。アエブティウスの槍はマミリウスの胸を貫いた。マミリウスはラテン軍の後方へ運び去られた。腕を負傷した騎兵長官アエブティウスは武器を持つことができず、戦列を離れた。
一方マミリウスは胸を負傷したが、ラテン軍の指揮官だったので、自軍を励まし、命令した。ラテン軍は動揺していたので、彼は亡命ローマ人の部隊を最前線に投じた。亡命ローマ人の部隊を指揮していたのは ルキウス・タルクィヌスだった。故郷と財産を失った亡命人部隊は死を恐れず戦った、彼らの奮戦により、ラテン軍の勢いが回復した。間もなく今度はローマ軍が劣勢になった。
【20章】
ラテン軍の最前列では、若いタルクィヌスが雄々しく戦っており、彼は際立っていた。これを見て、プブリコラ・ヴァレリウスの弟Ⅿ...・ヴァレリウスは、槍を水平に持ち、馬に強く拍車を当てると、若いタルクィヌスに向かって突進した。ヴァレリウスはタルクィヌス追放に貢献した家族の一員であり、家族の名誉に恥じないよう、タルクィヌス家の人間を殺そうとした。若いタルクィヌスは全速力で後方に逃げ、味方の兵士の間にまぎれこんだ。 Ⅿ..・ヴァ.レリウスは後を追い、亡命人部隊の中に進んで行ったが、後ろから槍で刺された。ヴァレリウスは馬から落ち、馬だけが走り続けた。ヴァ.レリウスが持っていた武器が彼の腕に落ちた。ローマ軍の有力な将校が倒れると、亡命人部隊が密集陣形で勢いよく前進してきた。ローマ軍は動揺し、逃げ腰になった。この時、独裁官ポストゥミウスは選リ抜きの部隊である親衛隊に命令した。「逃げようとするローマ兵は敵とみなせ」。
ローマ兵の前には恐ろしい敵がいて、後ろには懲罰隊が控えていた。彼らは前後から圧迫され、密集した。遅れて戦闘に参加したた親衛隊は、やる気満々で敵に向かって行った。これに対し、亡命人部隊は疲労が出始めていた。親衛隊は亡命人部隊をなぎ倒していった。亡命人部隊が全滅しそうになった時、ラテン軍の指揮官は温存していた部隊を率いて最前線に出た。ヘルミニウスは新しく現れた敵の中に、マミリウスの姿を見つけた。マミリウスはラテン軍の指揮官だったので、身に着けている物と武器から見分けがついた。ヘルミニウスは敵将マミリウスの横腹に槍を突き刺したので、ラテン軍の指揮官マミリウスは即死した。敵将の首を持ち帰ろうとしていた時、ヘルミニウスは槍で刺された。彼は自軍の陣営に運ばれ、傷を手当されていた時、死んだ。
ローマの歩兵は疲れていた。独裁官は騎兵隊に馬を降りて歩兵を応援するよう命じた。騎兵はただちに馬を飛び降り、敵中に殴り込んだ。貴族の花である騎兵が歩兵として戦い、危険に身をさらしているのを見て、歩兵部隊は勇気を取り戻した。ついにラテン軍は押し戻され、間もなく退散した。騎兵は再び馬に乗り、敵を追撃した。独裁官は危機の中で、頼れるものは人間の勇気と神の加護だと痛感し、カストル神に神殿を奉納することを誓い、敵陣に乗り込んだ最初の兵と2番目の兵に恩賞を約束した。
(訳注:レギッルス湖の戦いは紀元前499年である。)