ラテン人は最初サビーネ人の村レアーテ(Reate)の近くに住んでいたという。しかし彼らはサビーネ人に追われ、南に移動しアニオ川沿いに住むようになった。ラテン人の最初の居住地がティレニア海沿岸部だった可能性もあり、レアーテの近くからアニオ川沿岸に移動した」かどうかわからない。リヴィウスはティレニア海沿岸部のラテン人居住地しか書いておらず、アニオ川沿いの居住地については沈黙している。
リヴィウスによれば、ラテン人の最古の集落はラウレントゥムであり、ラヴィニアとアルバロンガが新しく建設された。これに伴い、ラテン王の所在地はラウレントゥムからラヴィニアへ、続いてアルバロンガに移った。ラテン王を兼ねるアルバ王の末裔がローマを建設する。初代アルバ王アスカニウスの治世は紀元前1176-1138 年であり、ロムルスがローマを建国するのは紀元前753年である。
前回第4代アルバ王ラティヌス・シルヴィウスまで書いたので、今回は残りのアルバ王について書く。名前だけで説明がないことが多いので、比較的短い。
リヴィウスは「アルバ王の家名は代々シルヴィウスである」と前置きし、5代目から7代目の家名を省略し、名前だけを書いている。
⑤アルバ ⑥アテス ⑦カピス ⑧カペートゥス
9代目ティベリヌス・シルヴィウスについては、短い説明をしている。
「ティベリヌスはアルブラ(Albula)川を渡っている時おぼれて死んだので、以後アルブラ川はティベレ川と呼ばれるようになった」。
これまで日本ではティベレ川はテベレ川と訳されてきたので、私はテベレ川という言い方になじんでしまった。テベレは英訳(Tevere) の影響かもしれない。イタリア語ではタイバと発音するようだ。
10代目アグリッパについては説明なし。
11代目ロムルス・シルヴィウスは「雷に打たれて死んだ」。
12代目アヴェンティヌスについては、「ローマ市内の丘の上に、彼の名前の神社がある」。
13代目プロカについては次のように説明してる。
「プロカには2人の息子があり、ヌミトルとアムーリウスという名前だった。 プロカは長男のヌミトルにシルヴィウス家の王位を譲った。しかし暴力が、父の意思と兄を敬う気持ちに打ち勝った。アムーリウスは兄ヌミトルから王座を奪い、自分が王となった。アムーリウスの罪はこれで終わらなかった。兄の息子たちを殺し、兄の娘レア・シルヴィアをウェスタ神に仕える巫女にした。お表向きはレア・シルヴィアに名誉な地位を与えるとしたが、本当の目的は出産を禁じ、兄の子孫を絶やすことだった。
アムーリウスは正面から反乱したわけではなく、兄ヌミトルの評判を落とすなどして、平和的に王位に就いたのであり、兄ヌミトルは国王ではなくなったが王族の地位を保ち、領地を所有していた。アムーリウスは兄の息子たちを殺したが、主犯であることを隠し通した。兄ヌミトルは一連の出来事の裏に陰謀があると疑っていたが、証拠がなく、黙っていた。
===《リヴィウスのローマ史 第1巻4章》====
Titus Livius (Livy), The History of Rome, Book 1
Canon Roberts
しかし偉大な都市が建設され、強大な帝国に発展することは、天命によって定められていた。ウェスタ神に仕える巫女は強制されて禁制を破り、双子を生んだ。双子の父は軍神マルスだ、と巫女は言った。彼女はそう信じていたのか、自分の犯した過ちをごまかすためだったか、わからない。アルバ王アムーリウスが双子の命を奪おうとしていたが、軍神マルスも人間も彼女を助けなかった。巫女は投獄され、双子は川へ投げ入れるよう命令された。たまたまテベレ川は氾濫しており、本流はもちろん支流にさえ近づけなかった。男子の双子を運んでいた者たちは「増水している場所でも双子は死ぬだろう」と考え、水が引けば陸地となる場所に双子を捨てた。その場所には現在野生の無果花(いちじく)の木(Ficus Ruminalis)がたっている。当時この場所は人が近づかない原野だった。
伝説によれば、双子が入った籠(かご)はしばらく水に浮いていたが、水が引いて地面に着いた。腹をすかした雌の狼が近くの丘に住んでいたが、赤子の泣き声を聞き、近づいて行った。雌の狼は赤子たちに乳を与えた。狼が赤子をを優しくなめているのを、王の羊飼いは見た。羊飼いは赤子たちを抱いて、小屋に帰り、妻に渡した。
作家たちによれば、羊飼いの妻はみだらな女であり、羊飼いたちは彼女を「めす狼」と呼んでいた。最初から彼女が赤子たちに乳を与えた。
双子の男子は成長し、たくましく勇敢な青年になった。兄弟は森に住む猛獣を恐れず、略奪をして暮らしているごろつきを懲らしめた。2人はごろつきから奪い返した物を羊飼いたちに分配した。羊飼いをはじめとして、多くの若者が兄弟の周り集まってきた。今やひとつの集団となった彼らは遺書に仕事をし、運動し、気晴らしをした。
===================(4章終り)
古代メソポタミアの王サルゴン(紀元前2300年後半ー―2200年前半)の出生伝説があり、シュメールの女神(イナンナ(Inanna)に仕える巫女が不義の子を産み、葦で編んだかごに入れて、ユーフラテス川に流したという。サルゴンのアッカド王国が滅び、古バビロにア王国時時代にになっても、この伝説は残り、古バビロにア時代のテキストが発見されている。メソポタミアの文化はシリアに伝わり、ユダヤ人の祖先モーセの出生伝説として旧約聖書に取り入れられた。当時イスラエル人はエジプトに住んでいたが、ファラオはイスラエル人の人口が増えることを望まず、生まれたばかりの子供をすべて殺害するよう命令した。モーセの母は我が子を何とか救おうと、かごに入れてナイル川に流した。ファラオの娘が拾い上げた。モーセは王族として育てられたが、両親は平民のイスラエル人だった。
ロムルスの出生についての話には、サルゴンとモーセの出生伝説が反映されている。しかしながらロムルスの出生伝説には、ユニークな点がある。それは川に流された赤子が双子であるということである。この点は事実を反映しているかもしれない。もう1点は赤子がオオカミに育てられたということである。リヴィウスが「赤子を育てたお女性が「雌狼と呼ばれていた」という説を併記しているにもかかわらず、ロムルス兄弟がオオカミに育てられたという逸話は、ローマ建国を象徴するとようになった。
パラティーノの丘でロムルスとレムスはならず者に襲われ、レムスは連れていかれる。この事件をきっかけに、双子の兄弟はアルバ王アムーリウスを打倒し、兄弟の祖父ヌミトルがアルバ王に復権する。ロムルスとレムスは新しい町を建設することになるが、2人の間に争いが生まれる。
ローマには7つの丘があるが、町最初に町が設されたのはパラティーノの丘である。ロムルスの時代この丘は野原になっていたが、昔ギリシャ人が住んでいたことがある、とリヴィウスは説明する。パラティーノの丘は南の3つの丘のひとつである。
===《リヴィウスのローマ史 第1巻5ー7章》==
Titus Livius (Livy), The History of Rome
現在行われているぺルカリア(Lupercalia)祭は、昔からパラティーノの丘で催されてきた。ギリシャのアルカディアにパラティウムという町があり、それがこの丘の名前の由来である。何世代も昔、アルカディア人のエウアンドロスがパラティーノの丘を支配していた。彼は毎年この丘で故郷アルカディアの祭りをおこなった。青年男子が裸で走り回り、競技をし、ふざけあった。これはアルカディアの神パン(Pan)を讃える祭りだった。この祭りはラティムで広く知られていた。
双子の兄弟がこの祭りに参加していた時、略奪品を奪われたならず者たちが、恨みを晴らそうとたくらみ、兄弟を待ち伏せた。ロムルスは難を逃れたが、レムスはとらえられ、アルバ王アムーリウスの前に連れていかれた。
ならず者たちは王に訴えた。
「ロムルス兄弟は若者たちを集めて、ヌミトル(前王、アムーリウスの兄)土地を侵略している。まるで戦争の時のように、略奪している」。
ヌミトルの領地に関する問題だったので、アルバ王アムーリウスはレムスをヌミトルに引き渡した。
双子を発見し育てた羊飼い(名前はFaustulus)は最初から王族の赤子ではないかと推測していたアルバ王が赤子を捨てろと命じた日からほどなく、彼は双子を発見したからである。しかし彼はこれをすぐに公表するのは得策でないと考え、好機が来るのを待つか、公表せざるを得なくなるまで、待つことにしていた。ついにその時期が来た。レムスが逮捕されたことを知ると、羊飼い(Faustulus)はロムルスに、誕生の秘密を明かした。一方レムスを拘束していたヌミトルはロムルスとレムスが双子の兄弟であることを知り、また兄弟の年齢を考え、さらにレムスの態度に品があったので、捨てられた孫のことを思いだした。レムスにいくつかの点を問いただし、ヌミトルは羊飼いと同じ結論に至った。ロムルスをアルバ王アムーリウスを殺そうと思った。しかしロムルスはならず者に襲われた時、逃げるのがやっとだった。アルバ王に直接立ち向かうことなど、無理だった。ロムルスに見方する者が次のように勧めた。
「一人では無理だ。仲間を誘え。いくつかの入り口から、決められた時刻に全員が王宮に入るのだ」。
一方前王ヌミトルの家にいたレムスは、人を集め、ロムルスのグループに参加した。襲撃は成功し、アムーリウス王は死んだ。
ロムルスたちが別々の門からアルバ市内に入り、宮殿に近づいていた時、前王ヌミトルは、敵がアルバに向かっていると警告した。アルバ兵は城壁に集まり、市外の敵の姿を探した。そのため宮殿の中にも周囲にも兵はいなくなり、ロムルスたちは兵士に妨げらえずに目的を果たすことができた。ロムルスはヌミトルのはからいに感謝した。
ヌミトルは市民を集め会議をひらき、弟アムーリウスの悪事を説明した。「ロムルスとレムスはずっと昔に死んだと思うわれていた自分の孫である」とヌミトルは説明し、アムーリウスが死んだことを報告し、「その責任は私にある」と語った。会議の出席者は納得し、全員一致でヌミトルを王と認めた。また同様に会議の出席者はロムルスと彼の仲間の行動を認めた。
ヌミトルがアルバの統治者となり、ロムルスとレムスはならず者が彼らを襲った場所に町を建設したくなった。アルバとラティウムの町々は人口が増えすぎており、新らしい大きな町が生まれれば、人口問題は解決されるだろう。しかしこの計画は祖先の呪い。つまり野望によって邪魔された。計画の第一段階に起きたつまらない問題が大きな対立に発展した。ロムルスとレムスは双子だったので、どちらが兄で、土地多賀弟化、区別できなかった。そのため長子優先という慣例が当てはまらなかった。新しい町の名前をロムルスとするか、レムスすとるか、またどちらが町の支配者になるかで、兄弟は争った。守護神の占いによって決めることになった。ロムルスはパラティーノの丘を選び、レムスはアヴェンティーノの丘を選び、神意がどちらにあるかを占うことになった。
レムスが先に吉兆を得た。6羽の鷲がレムスの近くに現れた。一方ロムルスには12羽の鷲が現れた。レムスの支持者はレムスを王とし、ロムルスの支持者はロムルスを王とした。レムス派は「先に吉兆が現れた方に神意がある」と主張し、ロムルス派は「鷲の数が多い方に神意がある」と主張した。ロムルス派の論理が優勢なったので、レムス派は「実は鷲の数は15羽だった」と言い出した。これに対抗してロムルス派も数を増やした。こうして口論が激しくなり、流血の抗争に発展した。
ロムルスはレムスはロムルスをあざけって、パラティーノの壁を越えて見せた。ロムルスは怒り、レムスを殺し、次のように言った。
「私の壁を超える者は、同じ運命になになるだろう」。
こうしてロムルスは単独の支配者となり、新しい町は名前を取り、ローマとされた。
ロムルスの最初の仕事は自分が育ったパラティーノの丘の守りを固めることだった。アアルバの女神たちを新しい町でも信これまで通り信仰することにしたうえで、ずっと昔アルカディア人のエウアンドロスがこの地にもたらした神ヘラクレスも同時に信仰の対象とした。
伝説によれば、この地に怪物ゲリオン(Geryon)が住み、牡牛を飼っていた。ヘラクレスはゲリオンの羊を奪うことを命じられ、この地にやってきた。
ヘラクレスはゲリオンを殺し、最高に美しい牡牛を追いかけまわした。牛がティベレ川を越えて逃げるのを追いかけているうちに、ヘラクレスは疲れてしまい、自分が休み、牡牛たちを休ませるため草の上で眠った。ヘラクレスが眠っている間、牡牛たちは生い茂っている草を食べて楽しんだ。カクス(Cacus)という名前の牧人がやってきて、寝ているヘラクレスのたくましいからだを見て、ずいぶん強そうな男だと思った。この男を相手に問題を起こすのはよくないと思いながらも、牧人カクスは近くで草を食べている牡牛が欲しくなった。牡牛があまりにも素晴らしかったからである。彼は牡牛を盗み、洞穴に隠そうと思ったが、牡牛を追いやれば、蹄(ひづめ)の跡から、牡牛が洞穴に向かったことがわかってしまう。それで牧人カクスは群れの中で最も美しい数頭の牡牛の尾をつかみ、後ずさりさせながら、洞穴まで引っ張っていった。
眠りから覚めたヘラクレスは数頭の牡牛が欠けていることに気づき、近くの洞穴に行ったのだろうと推測した。洞穴に近づくと牛の足跡が見つかったが、それらは洞穴から出てくる足跡で、中に向かうものではなかった。ヘラクレスは変だと思い、また気味悪さを感じ、消えた数頭についてはあきらめ、残りの群れを連れてすぐに危険な場所を去ることにした。すると群れの牡牛が、いなくなった仲間を恋しく思い、モーと鳴いた。これに答えて、洞穴の牡牛もモーと鳴いた。ヘラクレスは急いで洞穴に向かった。牧人カクスはヘラクレスを洞穴に入れまいとしたが。ヘラクレスはカクスを棒で殴って殺した。
================(5章ー7章終り)
「何世代も昔、アルカディア人のエウアンドロスがパラティーノの丘を支配していた」と書いているが、古代ローマの詩人ウェルギリウスによれば、それはトロイ戦争の前だったという。エウアンドロスはイタリアにギリシャの文化を持ち込んだという伝説もあり、例えばパンテオン神殿、法律、アルファベットであるという。
ただし、リヴィウスはその時期をあいまいにしている。
「ロムルスの時代より何世代も昔、エウアンドロスがパラティーノの丘でアルカディアの神パン(Pan)を讃える祭りを始めた」。
その時期をあいまいにしているリヴィウスが無難なのか、詩人ウェルギリウスの言う「トロイ戦争の前」が正しいかはわからない。トロイ戦争の時期につては結論が出ていないが、1250年以前に起きたと推定されている。この時代のギリシャはミケーネを中心に高度な文明が栄えていた。ミケーネはエーゲ海全域を支配し、エジプトにまで出かけていた。ミケーネの王とエジプトのアメンホテプ3世(在位;紀元前1386ー1349年)との間で交流があったことを示す記録が残っている。ミケーネ時代のギリシャ人がイタリアに来ていたことが知られている。現在のベネト地方(この地方の沿岸部の浅瀬にベネチアが建設された)に、ミケーネの城壁と同じような石の積み方をした城壁が残っている。またナポリ北西のクマエ(Cumae)にもミケーネ時代のギリシャ人が来たという伝説がある。
ミケーネ時代のギリシャの全盛期は紀元前1400-1200年であり、その後急速に衰退した。紀元前1150年ミケーネは破壊され、消滅した。北方から南下した蛮人がミケーネを破壊したのか、秩序崩壊の混乱の中で、周辺のギリシャ人が破壊したのか、わかっていない。
ミケーネを頂点とし、ギリシャ本土にはいくつかの小国が存在した。なお、遠い昔ローマのパルティ―ノの丘に住んでいたエウアンドロスの故郷アルカディアはペロポネソス半島の中心部にあり、ミケーネはその北東にある。