4万のロシア軍が今にもウクライナに侵攻するのではないか、と軍事的緊張が極度に高まったのは、4月半ばである。
クリミア併合後、東ウクラナもロシアに奪われるのではないか、と考えられた。ロシア軍はウクライナに攻め入るのではないか、と世界のメディアが緊張して見守った。ウクライナのヤツェニュク首相は「ロシアは戦争をしかけようとしている。」と語った。
そもそも、プーチンが4万を超える部隊を臨戦態勢に置いたのは、相当な決意があったからである。そのことは、この緊迫した時期にラブロフ外相が見せた表情からも、うかがえる。
ロシアのラブロフ外相は、ある記者会見で、国境付近に集結しているロシア軍について弁明した。「部隊に国境を越えさせ、ウクライナに軍を進める考えはない」。
しかし、その言葉とは裏腹に、彼の表情は暗く、深淵(しんえん)を見つめているような眼差し(まなざし)だった。
シリア内戦について語る彼を、私は何度も見ているが、この時のように、思いつめた表情を見たことは一度もない。
この緊迫した状況の中で、プーチン大統領はオバマ大統領に直接電話した。その結果、両者は政治的解決を優先さることで一致し、ウイーンでロシアとウクライナ政府が直接話し合うことが決まった。ロシアはヤツェニュク政権を認めておらず、これまで交渉を拒否してきたが、オバマの提案を受け入れたのである。こうして、とりあえず戦争は回避された。この一回目の危機を振り返ってみたい。
<回避された戦争>
3月半ばにロシアがクリミアを併合してからも、ウクライナ情勢はエスカレートの一途をたどった。4月半ばにかけて、今度は本土ウクライナ東部に黒覆面(ふくめん)の武装集団が現れた。
4月12日、ドネツク州スラビャンスク市で、正体不明の武装勢力が、警察署などを占拠した。
この武装勢力について、ラスムセンNATO事務総長は 「クリミアの時と同じ特殊なロシア製の武器を持ち、記章のない軍服の男が再び現れたことはゆゆしき展開だ」と述べた。
この武装勢力は、スラビャンスク市だけでなく、ドネツク州各地で、政府庁舎と警察署を占拠した。
クリミアを奪われたキエフの暫定政府は、東ウクライナも同じやり方で奪われつつあるのを見て、国家が分断される危険を感じた。しかし、ロシア軍はチェチエンとグルジアで実戦を経験しており、戦争を予定して装備・訓練を充実させてきた。ロシア軍は米国に次ぐ強力な軍隊と考えられている。ウクライナ政府はおびえていた。
一方ウクライナの陸軍は、旧ソ連軍のキエフ軍管区、オデッサ軍管区等の部隊を継承したもので、45歳以上の高級将校は、ソ連の軍事アカデミー出身である。ロシア軍と戦うことを潔しとしない将校も少なくない。東部に関しては、クリミア同様戦わずしてロシアに編入される可能性もある。
ロシアとの戦争に対しては大きな不安があったが、ウクライナ政府としては東部を失うわけにはいかない。経済の重心は東部にあり、東部を失えば、ウクライナはさらに貧しい農業国に転落してしまう。現在、ウクライナの経済は目に見えて悪化している。年金は半分になり、石油とガスの値段は2倍になった。政権の支持基盤である西ウクライナで、怒った住民が州知事のもとに押し寄せ、抗議した。押し問答の挙句、知事はこづきまわされ、ほうほうのていで逃げ出した。暴力はさほどではなかったが、逃げていく知事の背広の背中は裂けていた。
キエフの暫定政府は、東部の武装勢力を排除し、東部の支配を確かなものにする以外に選択の余地はなかった。
また東部にはシェールガスが埋蔵されており、ウクライナはすでに米石油大手シェブロンと開発契約を結んでいる。ロシアの脅威にたいしては、米国がなんらかの支援を約束していたのかもしれない。
ウクライナ政府は、東部の武装勢力の排除を決意し、大規模な作戦を準備した。
4月13日、トゥルチノフ大統領代行は、政府庁舎・警察署を不法占拠している者たちに対し、「即刻退去せよ」と最後通牒を発した。
武装勢力が退去命令に応じず、キエフ政府軍との間で戦闘が始まった時、これを機にロシア軍が出動するのではないか、と危惧された。4万を超えるロシア軍が国境で待機しているのである。
この極度に緊張した場面で、4月14日、プーチン大統領はオバマ大統領に電話した。プーチンは軍隊を出動させることに慎重であり、できれば避けたかった。そこで彼は、「占拠グループに対する武力行使を中止するよう、キエフの政府に圧力をかけてもらいたい」と電話でオバマに頼んだのである。
オバマ大統領はウクライナ暫定政府との話し合いを提案し、プーチンはこれに同意した。プーチンはこれまで、暫定政府を否認しており、話し合いを拒否してきたが、妥協して了承したのである。
暫定政府は、ワシントンの意向を受けて、始めたばかりの掃討作戦をいったん中止し、ウイーンでの交渉を優先させることに同意した。こうして戦争は回避された。
<ウィーンで4者が合意>
4月17日、ウクライナ・ロシア・米国・EUはジュネーブで外相級の4者協議を開き、武装勢力の武装解除と不法に占拠している公的機関の建物からの退去などについて、合意が成立した。
この合意は、武装勢力に対し、「政府機関の占拠をやめ、明け渡す」こと要求している。しかも、それは、東部の武装勢力に対してだけでなく、キエフの武装勢力に対しても向けられている。キエフの武装勢力は治安部隊と戦い、多くの死傷者を出した。彼らの犠牲によって、革命は成就した。
彼らにたいしても、「政府機関の建物から立ち去るべし」という命令は、非常に公正な立場に立っており、プーチンが受け入れることができる内容である。「戦争を避ける」という立場から、オバマ大統領が、公正な立場をとったのである。
しかしこの要求を、キエフの暫定政府は到底受け入れられない。革命の立役者である極右勢力を切り捨てることは、暫定政府にはできない。それを試みれば、現在の暫定政権は大衆の支持を失い、苦境に立たされる。ただし、これは現政権が解決をせまられている難しい問題である。革命の英雄であり、新政権の生みの親である極右勢力は政権にとって両刃の刃ある。
<右派セクターなくして広場での勝利はなかった>
キエフの独立広場で警官隊・特殊部隊と戦った極右勢力は、1000人以下のいくつかの小グループからなり、その中の最大のグループが「右派セクター」である。極右諸グループの中でも、右派セクターの戦闘性は群を抜いており、「右派セクターなくして独立広場での戦いの勝利はなかった」とさえ言われている。
その右派セクターと現政権との対立を鮮明にする事件が起きた。
<警察がムジチコを殺害>
3月24日、西部の都市リウネの警察は、極右の荒くれ者ムジチコを逮捕時に殺害した。ムジチコは、ウクライナ義勇兵を率いてチェチェンに向かい、ロシア軍と戦った勇者である。また彼はロシア兵を殺したことを自慢する悪漢でもある。敵の殺し方は極めて残虐であり、彼はロシア兵の鼻と耳をそぎ、また首を切り落としたと言われている。ロシア兵捕虜20名を殺害した容疑で、彼はロシアから指名手配を受けている。
革命広場で、右派セクターは闘いの先頭に立った。その右派セクターを指揮したのがムジチコだ。治安部隊の装甲車の中に火炎ビンが投げ込まれ、装甲車は炎に包まれた。これはムジチコの作戦である。ムジチコは、ロシアの戦車60台を破壊した経験を持つ元兵士だ。キエフの広場では、手りゅう弾弾を火炎瓶に変えた。
キエフのデモで、右派セクターを指揮していたのが、戦争経験が豊かな元軍人なのだから、文明国のデモとは、かなり様子が違う。「平和革命ではない」というロシアの言い分も、もっともである。
革命の英雄ムジチコは、自分が誕生させた政権によって殺されてしまった。ムジチコはマイダン革命の最大の英雄である。
もし、ムジチコたちがあれほどの戦いをせず、2月20日に60~70名が死ななかったら、ヤヌコビッチは、大幅な譲歩と引き換えに、12月まで大統領の地位にとどまったろう。そして12月に大統領の選挙が行われ、平和な革命で終わったろう。
60~70名の死者の多くは、スナイパーによって急所を撃ち抜かれて死んだ。治安部隊の狙撃チームが登場したのは、右派セクターの並はずれた戦闘力によって警官隊が敗北したからである。またおそらく、右派セクターが最初に警官隊に向けて発砲したからである。
暫定政権によるムジチコの殺害は、革命にとって重要な出来事である。両者の対立が劇的な形で現れたわけであるが、今後、政権と右派セクターの対立は深まると思う。
一説に、ヤツェニュク政権がEUの核廃棄物の受け入れを承認したのだという。そのことを知って、愛国者ムジチコが猛反対したのだという。政権は、国民の前でみずからの評判を落とし、ムジチコの人気が高まることを恐れ、彼を闇に葬ったのだという。
このような個々の政策の対立だけでなく、右派セクターが戦闘力のある集団であるという事実と、革命の主役であるという自負を持っていることが、政権と対立する根本要因である。また精神的なエネルギーもずば抜けており、軍の中核になる素質を持っている。彼らに匹敵できる精神力の持ち主は、恐ろしい雌虎テイモシェンコぐらいしかいない。
<右派セクターが国会を包囲>
ムジチコは指導者ヤロシュに次ぐ右派セクターの幹部である。幹部の一人を殺害されて、右派セクターが黙っているはずがない。同グループは、報復を誓った。
右派セクターは内相アバコフの解任を要求し、3月27日、活動家数百人が国会を取り囲んだ。その数は1000人近いとも言われている。彼らは、武器を手にしており、1か月前治安部隊相手に銃撃戦をおこなった集団である。この事態は、ロシア革命の時、ボリシェビキが国会を取り囲み、国会を強制的に閉会させた時のことを思い出させる。
アシュトンEU外務・安全保障政策上級代表は次のような声明を出した。
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「右派セクターの活動家集団が、ウクライナ最高議会の建物を取り囲み、圧力をかけていることは、あってはならないことです。議会に対する威嚇行為は、民主主義の原則と法の支配に反するものです。」
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アシュトンEU外務代表(女性)は、同声明の中で、「右派セクターを含む極右諸派は、武装解除すべきである」とも言っている。国会包囲という事態にどうてんしたからかもしれないが、彼女は「右派セクターの武装は違法である」と明言している。ロシアとオバマだけでなく、EUの外交代表も、「右派セクターと極右諸集団の武装は無法である」と断じている。
右派セクターと政権との対立には根深いものがあるが、両者にとって共通の敵である東部の武装集団が存在するので、両者は当分妥協せざるを得ない。
<ロシアの主張を認めたオバマ>
ウイーンでの4者合意の話に戻ると、「東部の武装勢力だけでなく、キエフ側の武装勢力も政府諸機関の建物を明け渡すべし」という条項は、重要な意味を持つ。これはロシアの主張を認めることである。今回のマイダン革命をロシアは次のように解釈している。
① デモ側の武装勢勢力による警官隊の攻撃は、限度を超えており、狙撃チームが前面に出ざるをえなかった。その結果、多くの死者が出た。
18・19・20日の3日間でデモの側は、77~88名が死亡した。
警察官は13名が死亡した。また342人の警察官が銃撃を受けて、負傷した。警官300名が捕虜となり、拳銃を奪われた。
② 与党・「地域党」の議員は銃撃を受け、本人だけでなく家族にも生命の危険があったので、議会に出席できなかった。出席した議員も、暴力による威嚇を感じていた。また、なんら圧力を感じていなかった議員も、2月20日の特殊部隊狙撃チームの行動が行き過ぎであったかどうか、判断の根拠となる正確な情報を得ていなかった。
③ ②で述べたように、議会は正常に機能していない状態だったので、トゥルチノフ大統領代行の選任とヤツェニュク首相の選任は無効である。また議会には大統領を解任する権限がないという違法性もある。
以上の理由により、キエフ暫定政府は非合法であり、フンタ政権に等しい。「フンタ政権」とは、軍部によるクーデター政権を軽蔑していう時に用いられる。
④ したがって、キエフを中心とする西部の武装勢力を消滅させることが先決である。そうすれば、東部の武装勢力はひとりでに消滅する。
以上のロシアの見解は、欧米のメディアではほとんど語られないが、4月14日のプーチンとの電話会談で、オバマ大統領はロシアの解釈を受け容れた。
しかし当然ながら、ウクライナ暫定政府は、「キエフ側の武装勢力も等しく排除」という条項を受け容れるわけにはいかない。合意を守るつもりは、最初からなかった。米国とロシアが勝手に決めたことに、無理やり同意させられた、とウクライナ暫定政府は考えていた。
そこでキエフの暫定政府は、四か国合意を葬るために、屁理屈を考え出した。「キエフ側の武装勢力は建物を使用する許可を得ている。東部の武装勢力は許可なしに、不法に占拠している。」という論理である。
議会政治に基づく社会秩序を最初に乱したのは、彼らキエフの極右グループである。銃撃戦になる前の段階でも、極右の暴力は、文明国には例がない激しさである。また先に発砲したのは、デモ側の過激分子である可能性がある。CNNの記者が現地から次のように報告している。
「ひきあげていく警官隊を追いかけて、デモの先頭にいた者が発砲した。その後、警官隊に代わって狙撃チームが登場した。」
細かい点まで話していないだろうが、極右グループの暴力性ををプーチンが主張し、オバマが認めたのである。それがウイーン合意の主旨である。
<葬られたウイーン合意>
しかし、暫定政府は「西部の武装集団については、政府が追認したので、もはや非合法ではない」という詭弁を持ち出し、米国とロシア両大統領の合意をあっさりと否定した。
またウクライナ政府のこの詭弁を、米国のヌーランド国務次官補は承認し、暫定政府の考えを支持した。大統領は、国務省の主務者と正反対の考え方をしたようである。
そもそもオバマは、「グルジアとウクライナがNATOに加盟する」ことに反対しており、この方針が堅持されれる限り、ロシアとの間に戦争は起きない。
オバマは語っている。「プーチン大統領は、『米国はロシアを包囲しようとしている』と考えているようだが、米国にはそのような意図はまったく無い。」
国務省とCIAは大統領とは全く別の考えで動いている、とロシアは見ている。それゆえ戦争の危機が生まれた、とロシアは考えている。米国は、特別の底意を持って、ウクライナに政変をしかけてきた、とロシアは受けとめている。
<公認されたライトセクター>
ウクライナ政府は、獅子身中の毒虫と知りながら、非業合法集団のライト(=右派)セクターを公認した。
政府は、当初、ライトセクターを新しく編成した国内治安軍に編入するつもりであったが、ライトセクターがこれを拒否した。
新編成の治安軍はスヴォボダとその下部組織「C-14」が実権を握っているという。革命によって議会が全権を掌握し、その議会を支配したのが、祖国党・「ウダル」党・「スヴォボダ」党の3党である。
「C-14」は広場で活躍した極右グループの一つであり、200人の活動家からなる小グループである。人数においても、戦闘力においても、ライトセクターには遠く及ばない。ライトセクターはNHKがインタビューしたこともあり、広く知られているが、C-14を知る人は少ない。実力相応である。
しかし、C-14は、スヴォボダの下部組織であるという強みがあり、新編成治安軍に志願し、スヴォボダによる新軍支配の一翼を担っているようである。
一説に、ライトセクターはスヴォボダ・C-14の支配下に入ることを嫌い、新編成の治安軍に参加しなかったのだという。
ライトセクターは、独立した部隊であることを望み、政府はこれを認めた。
「国家安全保障・国防会議と常に連絡をとっている」と同グループの幹部が語っている。
つまり、安全保障会議直属ということであるが、異例である。部隊を持つのは、陸・海・空軍と内務省(警察と治安部隊)であり、安全保障会議は大統領の作戦会議である。戦争の決定などについて話し合う重要な会議ではあるが、自らは部隊を持たない。
ライトセクターが参加を拒否した国内治安軍とは、3月に新しく編成されたもので、「国民防衛軍」と呼ばれ、東部の武装勢力を排除することを第一の目的とし、国境のロシア軍が攻め入ってきた場合、国防軍の援軍として戦うことが第二の目的である。
「国民防衛軍」は政治的性格が強く、ナチの親衛隊になぞらえる論者もいる。
ライトセクターは独立の部隊として認められただけではなく、同グループの交渉役は米国に行き、ヌーランド国務次官補に会っている。米国はライトセクターに対し、有力政党並みの対応をしているようである。
こうして、ウクライナ政府は「ウイーンでの四者合意」を自分は守らず、東部の武装集団に対して「武器を捨てよ」と要求した。ウイーンでの合意は、東部の集団が武器を捨て、政府機関の建物を立ち去ることだ、と一方的に解釈した。
4月の危機は回避されたが、東部での戦闘が始まり、ウクライナは本格的な内戦へ向かっていく。
<リウネ州議会を脅したムジチコ>
西部の都市リウネ
ムジチコはリウネ市内のカフェで警察と特殊部隊によって射殺されたが、生前彼はリウネ市を活動拠点にしており、流血のデモの5日後、2月25日、リウネ州議会に銃を片手に乗り込んだ。
議員たちにカラシニコフを見せつけながら、俺の言う法案を通せ,と迫った。彼が要求した法案とは、「広場で死んだ活動家の家族に、アパートを提供する」というものだった。戦死者の遺族に対し恩給を支給するという考えを、広場の死者に適用する法案である。
敵に対しては残虐きわまりないムジチコだったが、同志に対しては、人情が厚く、誠実だった。文明国を統治しているずる賢い人々とは対照的に、単純明快な生き方をしたムジチコは、マイダンで死んだ後輩たちの後を追うように、1か月後に死んでしまった。
<西部の3州ーリウネ・リヴィウ・ヴォルィニ>
リウネ州はリヴィウ州とヴォルイニ州とともに、ウクライナ民族主義の温床となっている。この3州は第二次大戦以前は、ポーランド領であり、戦後ソ連領となった。3州では圧倒的に多くの人が反ロシア・親ユーロ的な考えを持っている。
この3州に関して、ロシアの民族主義者は、「そんなにユーロが好きなら、ポーランドに復帰して、戦前の状態に戻ればよい。ポーランドはユーロの一部なのだから、夢がかなうだろうに。」
これは、ロシアで優勢なウクライナ分割論である。
できれば、ウクライナ中部も欲しいが、東部と南部が獲得できれば、残りはいらない、という考え方である。
これに対し、ウクライナの民族主義者は、中部はもちろん東部も南部もクリミアも欲しい、要するに全部欲しい、800万人のロシア人は要らないという考え方である。
(説明)
① リヴィウ州はオーストリア時代にガリツィア地方と呼ばれ、その中心都市がリュボフであった。リュボフは現在リヴィウと表記されている。
② リヴィウ州の北にヴォルィニ州がある。
③ ヴォルィニ州の東がリウネ州である。
④ ガリツィアはハーリチとも表記される。 原初国家キエフ公国の分裂後、各地の地方政権のなかで、ハーリチ・ヴォルィニ公国は最も有力であった。
⑤ ハーリチ・ヴォルィニ公国がキエフ国家を再統一できなかったことにより、ウクライナは国家を持たない民となった。