7章】
フリウスとヴァレリウスは日常生活の停止を宣言し、徴兵を終え、サトゥリクムに向かった。
(サトゥリクムはラテン人の町で、ローマの南東60km。アルバ高地の南方の低地にあり、ポンプティン地方との境界に近い)。
アンティアテスのヴォルスキ人はサトゥリクムに新世代のヴォルスキ兵を集めた。それだけでなく彼らは大勢のラテン人とヘルニキ人を集めた。ラテン人とヘルニキ人は長年の平和の間に実力をつけていた。古い敵に新しい敵が加わり、連合軍は大軍となった。ローマ兵は圧倒された。カミルスが戦闘を開始しようとしていた時、百人隊長たちが彼に報告した。「兵士たちがおびえています。武器を取ろうとしません。繊維を喪失した彼らはやる気がなく、陣地を出たがりません。百倍の敵を相手にするのだと言って、おびえています。『これほどの人数が集まれば、武器を持たない相手でも厄介だ』」。
カミルスはすぐに馬に飛び乗り、前線に向かった。彼は兵士たちの間を走り回り、声をかけた。「なんでそんなに落ち込んでいるのだ。このようなやる気のなさは、どういうことだ。まるで実践経験のない新兵ではないか。諸君は私のことを忘れ、過去の自分を忘れたようだ。諸君は私の励ましに応え、勇敢に戦い勝利したではないか。ファレリーやヴェイイを占領し、ガリア人を全滅させたではないか。同時に3つの敵を相手にして勝ったではないか。ヴォルスキ、アエクイ、エトルリアに勝利したではないか。諸君は私を忘れ、過去の勝利を忘れたのか。現在私が独裁官でなく、執政副司令官なので、私を指揮官と認めないのか。私は指揮官として、最高の肩書を必要としない。私は私以上の者ではない。独裁官の地位が私の闘志と活力を高めたことはないし、追放処分がそれを低めたたこともない。我々はかつての我々と同じである。戦闘においてこれまでのように力を発揮すれば、同じ結果が得られるはずだ。これまでの訓練と戦術に従い敵に立ち向かえば、諸君は勝利し、敵は逃げるだろう」。
【8章】
攻撃命令を出すとと同時に、カミルスは馬から飛び降り、近くの旗手から旗を奪うと、兵下たちに向かって叫んだ。「戦旗に続け!」。言い終わると彼は敵に向かっていった。老いたカミルスが敵に向かって行くの見て、兵士たちは「将軍に続け」と叫びながら、後を追った。言い伝えによると、カミルスはもう一つローマ兵を奮起させる行動をした。彼は敵兵たちの間に旗を投げた。これを見て、最前列の兵士たちが旗を奪い返すために突進した。こうしてアンティアテスが撃破され、敵の前列の兵士はパニックに陥り、恐怖が予備兵にまで伝わった。カミルスの行動を見てローマ兵が電撃的な攻撃を開始する一方で、ヴォルスキ兵はカミルスの姿を見て恐れおののいた。ヴォルスキ兵はカミルスを死神のように恐れていたので、カミルスが向かって行くと、ヴォルスキ兵は戦意を失い、ローマ軍が勝利した。ローマ軍の左翼は崩されそうになっていたが、カミルスが歩兵の盾を持ち、馬で駆けつけると、ローマ軍は優勢に転じた。ローマ軍の勝利が確実になり。敵軍の兵士たちは逃げようとしたが、彼らは密集していたので、味方の兵が邪魔になり、思うように逃げられなかった。ローマ兵は異常なほど多い敵兵を殺し続け、うんざりした。この時突然嵐となり、雨が降り、戦闘が中止された。ローマ軍の一方的な勝利だった。ローマ兵は陣地に帰った。その日の夜、戦闘はなかった。ラテン人とヘルニキ人の兵士たちはヴォルスキ兵を見捨てて、故郷に帰ってしまったからである。彼らの浅はかな企ては失敗に終わった。頼りにしていた同盟軍に見捨てられ、ヴォルスキ兵は陣地を捨ててサトゥリクムに逃げ帰り、立てこもった。
(サトゥリクムはラテン人の古い町であるが、紀元前488年ヴォルスキに奪われた。この町は沿岸部にあり、ラテン地域の南東の端に位置し、ポンプティン地方に近い)。
カミルスはサトゥリクムを包囲し攻城機械を用意した。しかしヴォルスキ兵は一度も出撃してこなかったので、彼らは戦意を失っていると判断し、カミルスは時間がかかる包囲をやめ、ただちに城内に突入することにした。彼は兵士たちに言った。「ヴェイイ戦は包囲が長引いて、うんざりだった。今回は無理押しのほうがよさそうだ。梯子を城壁の周囲にかけ、急襲しよう。勝利は確実だ」。
ヴォルスキ兵は武器を捨て降伏した。
【9章】
カミルスにはもっと重要な目的があった。アンティウムの奪回である。アンティウムはヴォルスキの首都となっていて、今回の戦争でも、彼らはアンティウムから出発していた。アンティウムには多くの守備兵がおり、攻略するには相当な数の工場機械、火力、兵器が必要だった。カミルスは指揮官たちをここに残してローマに帰り、元老院にアンティウム攻略の必要性を訴えた。彼が話を終える前に、ネペテとストゥリムの使者が到着し、援軍の派遣を願った。ネペテとストゥリウムが優先され、アンティウムがしばらく持ちこたえるのは天の意思だったようだ。
(ネペテとストゥリムはエトルリアの町。ネペテは現在のネーピで、 ラツィオ州北部。ストゥリムは現在のストゥリでローマの北50km、ラツィオ州北部。)
ネペテとストゥリムの使者が言った。「エトルリア軍を撃退してください。援軍が遅れれば、我々はおしまいです」。
カミルスの関心はアンティウムからネペテとストゥリムに移った。二つの町はエトルリアとローマの境にあり、エトルリアに対する防壁の役割を果たしていた。エトルリアは彼らの裏切りに腹を立てており、ローマと戦争になれば真っ先に奪取するつもりだった。ローマ側は二つの町を手離す考えはなく、奪われたら、すぐ奪い返すつもりだった。元老院はカミルスと相談し、アンティウムを後回しにし、ただちにネペテとストゥリムを救援することにした。元老院はカミルスに、ローマ在留の軍の指揮権を与えた。この部隊の指揮官はクインクティウスだったが、彼はアンティウムにいる部隊を指揮することになった。カミルスにとって、これまでヴォルスキ戦を指揮してきた軍団のほうが、兵士たちは彼をよく理解していたので指揮しやすかったが、やむをえない状況だった。ただし彼はヴァレリウスを共同指揮官とすることを求めた。クインクティウスとホラティウスがヴァレリウスに代わってヴォルスキ戦を指揮することになった。
ローマ軍がストゥリムに到着した時、エトルリア軍が既に町の一部を確保していた。ストゥリムの守備兵は必死に残りの部分を守っていた。守備兵はは道路にバリケードを築き、敵の侵入をなんとか抑えていた。ローマ軍とカミルスの到着により、守備兵に対する圧力が弱まり、ローマ軍に介入の時間を与えた。ストゥリム兵とエトルリア兵の間でカミルスは有名で、一方に勇気を与え、他方をひるませた。カミルスはローマ軍を二つに分け、自分とヴァレリウスがそれぞれを指揮することにした。カミルスの指示に従い、ヴァレリウスの部隊は城壁を回って行き、場内を占領しているエトルリア兵を外側から攻撃した。これは主作戦ではなく、敵の注意を引き付けるのが目的だった。これにより、ストゥリムの守備兵たちは休むことができたし、カミルスの部隊は城内に入ることができた。エトルリア兵は城内の敵と城外の艇から同時に攻撃され、パニックに陥り、慌てて逃げ出し、近くの門に殺到した。しかしローマ兵が門を奪い返しており、エトルリア兵は逃げることができなかった。町内と城外で多くのエトルリア兵が殺された。フリウスがカミルスの副将となっており、彼の部隊は重装備だった。城外のヴァレリウスの部隊は軽装備であり、エルリア兵を追いかけるのに適していた。彼らは夜になるまで敵を殺し続け、暗くなってようやくやめた。ストゥリムの奪回に成功すると、ローマ軍はネペテに向かった。ネペテはエトルリア軍に降伏し、エトルリア軍がネペテの支配者になっていた。
ローマの最初の戦争は、近隣の村の女性を略奪したことが原因で起きた。ローマは3つの村に簡単に勝利した。カペーナはラテン人の集落でがあり、アンテナとクルストゥメリウムはサビーネ人の村である。 ローマに対する怒りと戦意の程度が異なっていたため、ラテン人のやはりカペーナが単独でローマに挑み、敗れた。
次にアンテナがやはり単独で戦争し、敗れた。カペーナとアンテナが敗れ、クルストゥメリウムは戦意を喪失していたが、敢えて戦争をし、開戦間もなく降伏した。3つの村との戦争といっても、ローマがカペーナに勝利した時点で、この戦争の勝敗は決定した.次にクレスとの戦争になった。サビーネ人の町クレスはサビーネ人地域西部で最大の集落であり、アニオ川流域にまで支配が及んでいた。ローマが略奪した女性の大部分は3つの村の女性であり、クレスの女性は少なかった。しかしクレスは威信を傷つけられたのであり、またローマはクレスの影響圏で大胆な無法行為(=女性の略奪)をし、戦争までした。クレスはローマを罰するために戦争を始めた。ローマにとってクレスとの戦いは困難になると予想されたが、開戦間もなく、略奪された女性が両軍の間に割って入り、戦争をやめるよう懇願した。略奪婚ではあったが、彼女たちは夫を愛するようになっていた。最初の戦争と異なり、今度の戦争は両軍から多数の戦死者が出ると予想され、夫や父を失うことを恐れた。こうして和戦争が中止され、ローマとクレスの間に友好関係が成立した。多くのサビーネ人がローマに移住し、ローマの人口が増えた。
====《リヴィウスのローマ史 第1巻14ー15章》====
Titus Livius (Livy), The History of Rome, Book 1
Canon Roberts
ローマとフィデナエとの間で戦争が始まった。フィデナエはアニオ川の少し北にあり、ローマに近かった。成立間もないローマが急に成長していることに、フィデナエの人々は不安になった。ローマが強力になる前にたたいてしまおう、と彼らは考えた。フィデナエの武装集団が、ローマとフィデナエの中間地帯に侵入し、略奪した。略彼らは徐々に南下し、ローマに近い地域を略奪するようになった。領地の略奪は戦争行為だった。またフィデナエの武装集団はローマに向かって進撃してくることもあった。実際に攻撃をすることはなかったが、明らかにローマを挑発していた。
ローマに対する挑戦が明白だったので、ロムルスはフィデナエとの戦争を決意した。彼は兵士を連れて出陣し、フィデナエから1マイル(1.6km)のところに陣地を設けた。そこに少数の守備隊を残し、全軍を率いてフィデナエに向かった。ロムルスは一部の兵を茂みの中で待ち伏せさせたうえで、歩兵の主力と騎兵率いて前進した。騎兵がフィデナエの城門の前まで進み、気勢を上げ、相手を威嚇したので、フィデナエ兵は挑発に乗って門から出てきた。騎兵は逃げ、歩兵も後退した。ローマ騎兵は再び敵を挑発し、フィデナエ兵が追いかけてくると、また逃げたく。これをくり返していると、フィデナエ兵は罠ではないかと疑い始めたようなので、ローマ兵は敵を欺き続けるため、一斉に全力で逃げた。すると場内に残っていたフィデナエ軍本隊が門から出てきて、ローマ軍を追撃した。ローマ兵はまとまりを失って逃げた。フィデナエ軍はローマ兵を追いかけているうちに茂みに達した。隠れていたローマ兵が茂みからとび出し、フィデナエ兵を側面から攻撃した。フィデナエ兵は驚き、一瞬ひるんだ。その時フィデナエから1マイル離れったローマ軍の陣地に残っていた兵が攻撃に加わった。四方から急襲されたフィデナエ兵は恐ろしくなり、フィデナエに向かって逃げた。ロムルスは兵を集めて戦陣を立て直しており、フィデナエ兵を追撃した。逃げるふりをしたローマ兵と違い、フィデナエ兵は本気で逃げたので足が速く、ローマ兵は城門の前でやっと追いついた。フィデナエ兵とローマ兵は入り乱れて城内に入った。ローマはフィデナエに勝利した。
ローマがフィデナエに勝利したことはウェイイを刺激した。フィデナエの住民はエトルリア人でありウェイイと同族である。両者は血によって結ばれており、どちらもローマに近く、ローマの侵略に対し協力して抵抗するつもりでいた。フィデナエの敗北後、ウェイイはローマので領地に侵入したが、略奪した物を持ち帰っただけであり、ローマとの戦争を期して陣地を設営することはなかった。ローマ軍は戦うつもりで出動したが、敵の姿がなかったので、テベレ川を越えて、ウェイイに向かった。ローマ軍が陣地を設営し、戦う準備を始めたので、ウェイイも戦争を決意した。ウェイイはろう城せず、撃って出ることにした。決戦の結果ローマが勝利した。ロムルスが特別な作戦をしたわけでなく、ローマ兵は戦闘経験があり、強かった。ウェイイ兵は退散し、ローマ軍は彼らをを壁まで追いかけた。ウェイイの城壁は堅固だったので、ロムルスは攻城をあきらめた。退却する際、彼はウェイイの農地を略奪した。農産物を獲得するためというより、復讐するためだった。
ウェイイは戦闘に敗れ、農地を荒らされ、意気消沈し、ローマに和平を求めた。ウェイイの領土をローマに譲るという条件で100年を期限とする友好条約が結ばれた。
以上がロムルスの実績である。祖父をアルバ・ロンガの王に復位させた時は、彼は勇気があり、ローマの建設において賢明だった。彼の統治時代にローマ時は強力になり、彼の死後もローマは安定していた。ロムルスは貴族より民衆に愛され、兵士からは尊敬された。戦時だけでなく平時においても、300人の護衛兵が彼を守った。彼はこの護衛兵をチェレレス(機敏な人々)と呼んだ。ロムルスの護衛兵チェレレス(Celeres)は、ロムルス以後の歴代の王(7人)に受け継がれ、共和制初期の紀元前509年に廃止された。しかしほどなく独裁官の制度が生まれると(紀元前501年)、独裁官直属の騎兵隊として復活した。皇帝時代になるとこれらの護衛兵は「近衛兵」として制度化され、元老院と並ぶキング・メイカーとして大きな権力を待った。
王政時代の護衛兵チェレレスは300人からなり、ローマの30の地区(クリア:Curiae)から10人ずつ集められた。彼らは貴族から選ばれ、忠誠心があり、勇敢だった。ローマの詩人オヴィディウス(紀元前43年-紀元後17年)によれば、チェレレスは最初一人だであり、城壁の守備隊の隊長だった。ロムルスの双子の兄弟を殺したのはロムルス自身ではなく、守備隊の隊長だった。リヴィウスはチェレレスの人数を300人としているが、最初は一人だったかもしれない。
ローマの王は馬に乗って移動し、戦時には馬乗で指揮するので、護衛兵は騎兵だった。300人の護衛兵の隊長は戦場において国王の副官であり、平時においては侍従長だった。国王が不在の時は彼が代理を務めた。護衛兵は騎兵に特化していたわけでなく、地形が乗馬に不適な場合、護衛兵はすぐに歩兵として戦った。
ロムルスの業績について最も注目すべきは次の点である。
ローマの建国に際し、すでに存在するラテン人の集落からの支援がなく、人が集まらなかった。普通ならあきらめるしかないような状況でロムルスは強行した。ロムルスと彼の回りに集まった少数の男性集団は現実無視の目的遂行型だった。彼らはなりふり構わず人を集めたが、近隣の集落の貧民や落ちこぼれが多く、男性だけであり、あいかわらずローマに女性はいなかった。社会の底辺の人々が集まったことは、戦争においてローマ軍を強くしたのかもしれない。ロムルスの時代、ローマは3つの村との戦争に勝利し、裕福な都市ウエィイに勝利した。戦争に強い村は高く評価されたので、当初存立が危ぶまれたローマはひとまず安定した。
ローマの建設に貢献したロムルスだが、暗殺されたようである。彼は兵士の行進を見学している時に死んだ。ロムルスのすぐ近くにいた元老たちは「王は竜巻に飛ばされて消えた」と説明した。このような説明に納得する者は少なく、元老が王を殺したと考えるものが多かった。
======《リヴィウスのローマ史第1巻16章》=====
ロムルスは困難を乗り越え、ローマに安定をもたらしたが、マルスの野原(パラェィーノの丘の北西)で閲兵中に死んだ。
閲兵中に突然雷雨となり、真っ暗になった。雷雨が去り、視界が割る明るくなった時、ロムルスの姿はなかった。このように激しい雷雨は経験したことがなかったので、兵士たちは不安だったが、雷雨が去り明るくなったのでほっとした。彼らはロムルスがいないことに気づき、ロムルスのすぐ近くにいた元老たちに、ロムルスが消えた理由、を尋ねた。すると元老たちは答えた。「ロムルスは竜巻によって空高く舞い上がった」。兵士たちは元老の説明に半信半疑だった。彼らはロムルスを失ったことを悲しんだ。
兵士と閲兵に出席していた人々は、ロムルスを建国の父として祭ることにした。そして神となったロムルスがローマに幸運を与え、市民を守るよう祈った。
以上がロムルスの死についての話であるが、元老院の説明に納得しない人々がいたという説が伝わっている。「ロムルスは元老たちによって八つ裂きにされた」とささやかれたという。多くの市民がロムルスの死を悲しみ、元老たちの犯行ではないか、と考えた。大衆の中で反元老院の感情が高まってっているを知り、プロクルス・ユリウスは元老院で発言した。
「今朝建国の父の霊が私の前に現れて、ローマの人々に告げよと言った。『ローマは世界に君臨すべきだ。戦争の技術を磨き、武力でローマに対抗できる国はないことを世界に知らしめよ』」。
元老院は彼の発言に賛同した。兵士も市民もロムルスの不滅を信じ、彼の死による悲しみが慰められた。
===============(リヴィウス終了)
ロムルスの項目の最後に、この時期の制度について繰り返しておく。
①ロムルスは100人で構成される元老院を創設した。適切な人物を選んだというよりも、この時期ローマには100の家族しかいなかったのである。
②ロムルスはローマを30の地区(クリア:Curiae)に区分した。30の地区は主要な30の家族に割り当てられたものである。
ロシア国防省は2015年12月2日,ISISの石油ビジネスについて報告した。
ロシア軍参謀本部は偵察衛星により得られた情報を公開した。これによって、ISISの密輸石油のルートの全体が明らかになった。
この報告は国会で行われ、正面にロシア軍のトップがずらりと並び、背後のスクリーンに衛星画像が映し出された。(冒頭の写真)
ロシア国防副大臣のアナトーリー・アントノフが説明を始めた。
「ISISは石油の売却により、1年に20億ドル得ている。この資金を用いて、世界中から志願兵を集め、彼らに武器と装備を与えている。
ISISの資金源に打撃を与えることに成功すれば、ISISに勝利することは容易だ。プーチン大統領はいつも言っている。『資金がないテロリストは牙を抜かれた野獣にすぎない』。
ISISの石油ビジネスは国家的な産業であり、トルコのエリートがこれに協力している。
ISIS支配地で採掘された石油の最大の消費者はトルコであり、エルドアン大統領と彼の家族がこの犯罪的な取引に関わっている。
2人目の報告者であるルツコイ参謀本部作戦部長はエルドアンの息子を名指しで批判した。「エネルギー大臣であるエルドアンの息子がISISの石油ビジネスに直接関わっている」。
3人目に、防衛管理センターのミゼンツェフ中将が報告した。「ISISが採掘している原油はシリアとイラクに所属する。ISISが主権国家な重要な資源を盗んでおり、それをトルコが買っている。
トルコがISISを助けているのは石油の買い取りだけではない。2000人の戦闘員、120トンの弾薬、250台の車両がISISとヌスラ戦線に引き渡された」。
国防省の発表は世界中で報道された。
ロシア国防省はトルコとエルドアン大統領を単に批判するだけでなく、その根拠を示した。その証明こそが注目すべきことだったが、それを取り上げたメディアはなかった。
トルコの犯罪的行為を証明したのは、2番目の報告者ルツコイ中将である。幸いロシア国防省は彼の説明を文書にした。英文訳もある。
私は、ISISの石油ビジネスについて既に3つの記事を訳している。ロシア参謀本部の報告はそれらの内容と全く違う局面を明らかにしている。バズニューズとアル・モニターの記者は国境の村の住民が行う密輸を取材した。それらと比べ、今回のロシアの報告する密輸は、けた違いに大規模である。報告者自ら「密輸の量に圧倒される」と語っている。
バズニューズの記事はベサスラン村の話が中心であるが、それ以外にも取材しており、「石油トラックが国境検問所を自由に通過している」と語っていた。それ以上の説明はなかった。その全貌をロシア参謀本部が明らかにした。
またバズニューズはブルッキング研究所のルアイ・ハティーブにインタビューした。ハティーブの話によれば「ISISは自分たちの地域の精油所で処理しきれない量の原油をくみ上げている。燃料と違い、生活用品ではない原油の量は日々105万ドル相当である」と話している。これは隣国の精油所に売るしかない。ロシア参謀本部はそれはトルコのバトマンの製油所であると特定した。もっと驚いたことに、トルコの海港から外国に密輸しているという。トルコの港で、タンカートラックからタンカー船に原油を移すのである。
バトマンと海港の位置を示す地図がロシア参謀本部の報告の中にある。
====《ロシア軍参謀本部作戦部長の報告》=====
国防副大臣がさきほど述べたように、ISISの資金源を絶たずに、ISISに勝利することはできない。
「ISISにとって、石油の密輸が第一の収入源である」。
ロシア空軍はISISの資金源に決定的な打撃を与えるため、原油採掘所、貯蔵・精製施設、輸送手段を爆撃した。
最近2カ月間の空爆の内容は以下の通りである。
①32の石油複合施設 ②11の精油所 ③23の原油採掘所
ISISは数千台のタンカー・トラックによって原油と石油製品を運んでいる。
米国と有志連合はこれらの石油トラックを空爆していない。
ロシア空軍は最近2カ月間に、1080台のトラックを破壊した。
9月30日に開始されたロシアの空爆により、密輸される石油の量は半分にまで減少した。空爆前、ISISの石油収入は日々3百万ドルだった。2か月後、この金額は150万ドルにまで減少した。
しかしながら、ISISは相変わらず資金と武器・装備を援助されている。トルコおよびその他の国々がISISの大規模な経済活動に協力している。これについて、ロシア参謀本部は反論の余地ない証拠を持っている。それらは航空偵察と宇宙衛星によって得られた。
大規模な密輸ルートは3つある。
《①西方ルート》
西方ルートはISISの支配地から西へ向かい、地中海に至る。
ラッカの近くのタブカ油田)くみ出された石油は自動車により、トルコ国境を超え、地中海の港デルティオルに至る。
2015年11月13日のアザズ付近の写真には、トルコに向かう幹線道路に、石油製品を運ぶ車両が写っている。
(A地域)
トルコ側の広場に240台のタンカー車とセミ・トレラーが並んでいる。
(Bの道路)
シリア側では、国境を超えようとして、46台のタンカー・トラックが待っている。この中の数台は普通のトラックのように偽装している。
ラッカの近くのタブカ油田を起点とするもううひとつの西方ルートは、トルコのレイハンリに向かい、イスケンデルンの港に至る。
レイハンリの付近も、アザズと同じ状況である。アレッポ県では激しい戦闘の最中であるるにもかかわらず、往復のいずれの車線も、絶えず多くの自動車が流れている。トルコ側も同様である。
ビデオには自由に国境を越えている移動車が写っている。国境のシリア側を管理しているのは、ヌスラ戦線である。彼らはタンカー・トラックと石油を運ぶ大型車を自由に通らせている。これらの石油輸送車はトルコ側の検問所でもチェックされない。
11月16日の映像によれば、360台のタンカー・トラックと大型車が国境のシリア側に並んでいる。その一部を次に示す。
Aのシリア側では、100台の大型車が列をなして国境に向かっている。
Bのトルコ側には、国境を越えたばかりの160台のタンカー・トラックが写っている。
偵察衛星の映像によれば、国境を越えたタンカートラックとセミ・トレーラーはデルティオル港とイスケンデルンの港に向かった。これらの港にはタンカー船専用の係留所がある。原油の一部は船に移され、外国の製油所に運ばれる。残りはトルコの市場で売られる。
デルティオル港とイスケンデルンの港では、平均して一日に1隻のタンカー船が原油を積んで出港する。
次の衛星写真は2015年11月25日のデルティオルとイスケンデルンである。石油タンカー車が蜜集しており、積荷を降ろすのを待っている。
デルティオルには395台のタンカー車が写っており、イスケンデルンには60台写っている。
【ラッカに近いタブカ油田を起点とし、地中海の港デルティオルを終点とする太い流れは、クルドのアフリン地区から国境を超えているように描かれているが、これは経路を示したものではなく、起点と終点だけを示したものらしい。経路は細い矢印で示されている。】
《②北方ルート》
北方ルートは、デリゾールの油田から北に向かい、カミシュリで国境を超え、トルコのバトマンに至る。
デリゾール県のユーフラテス右岸は油田地帯であり、多数の採掘施設と精油所がある。ISIS地域内で、ここは最大の石油センターがあり、石油を受け取るため、多くのタンカー車が順番待ちをしている。これらの輸送車は前後の間隔もなく、びっしりと並んでいる。2015年10月18日の衛星撮影によれば、駐車場として使われている空き地に、1722台の石油輸送車が並んでいる。
タンクに石油を入れ終わったトラックは列をなして北上し、カミシュリに向かう。8月の映像には、カミシュリから国境を越えてトルコに入る石油輸送車と、逆にトルコからカミシュリに入る輸送車が数百台写っている。
デリゾールの石油の大部分はトルコのバトマンにある精油所に運ばれる。国境からバトマンまでの距離は100kmである。
《③東方ルート》
東方ルートはトイラク北西部の油田からトルコのジズレに向かう。
イラクの油田を出発した輸送車はザホやタバンで国境を越え、トルコのジズレに向かう。ジズレと同じくシロピ(トルコ領)にも物流センターがあり、シロピに向かう場合もある。
ジズレとシロピの両都市には精油所がないので、精製前の原油は前述のバトマンに向かう。(バトマンは北方ルートの目的地である。)
11月14日の撮影によれば、ザフノとタバンの近くに1104台の輸送車が集結している。これにシロピ(トルコ領)に集まっているタンカー車を加えると、11月14日の合計は実に3220台である。
東方ルートはもうひとつあり、シリアのハサカ県の油田を出発し、カラチョクとチャム・ハニクを通り、ジズレに向かう。このルートは輸送量が少ない。
《結論》
西方・北方・東方の3ルート全体で、石油の輸送に使われている車両は8500台であり、日々20万トンの石油が運ばれている。
8500台の輸送車の大部分は、東方ルートを走っており、イラクからトルコに入っている。
============(ルツコイ中将の報告終了)
もともとコバニは小さなクルドの村にすぎず、クルドの主要な居住地から離れていた。1912年に、バグダード鉄道が通り、小さな駅ができて、町になった。コバニはカンパニー(会社)がなまったものだという説がある。コンバニ? 会社とは、バグダード鉄道を建設したドイツの会社のことである。
オスマン帝国の迫害を逃れたアルメニア人が、駅の近くに町をつくった。これが村から町へ発展する最初のきっかけとなった。町の建設者であるアルメニア人はコバニの主要な住民となり、3つのアルメニア教会があった。しかし1960年代、ほとんどのアルメニア人がソビエト連邦内のアルメニア共和国へと移住した。
ISISとの戦争前、コバニの人口は4万5千人である。住民のほとんどがクルド人であり、アルメニア人は1%にすぎない。他にアラブ人 (5%)とトルクメン人 (5%)が住んでいる。
コバニの戦いは大きな波紋を呼んだ。戦闘開始から最初の10日間で13万人が難民となった。シリア北部の難民がコバニに流入し、人口が増えていた。コバニに避難してきていたのに、再び難民となった人も多い。コバニは2014年9月から2015年1月まで、5か月間ISISによって包囲された。都市の大部分が廃墟となり、ほとんどの住民がトルコへ避難した。
この間クルド人民防衛隊(YPG)が、劣勢を耐え抜いて闘い、最後に勝利した。クルドの女性兵士について世界のメディアが報じた。
しかし、コバニを最初に攻撃した時、ISISはそのように重大な戦闘になると予想していなかった。8月までの作戦の延長にすぎなかった。8月半ばのタブカ空軍基地の時よりは楽だろうと考えていた。この空軍基地はラッカの政府軍にとって最後の拠点となっていた。これを落とそうとして、ISISは3度攻撃し、3度失敗した。ISISを撃退したと考え、政府軍は撤退した。ISISは政府軍の留守を狙って4度目の攻撃をした。基地には、少数の守備隊しか残っておらず、ISISは基地を占領した。
ISISはシリア内戦に遅れて参入したものであり、ラッカ県とデリゾール県に単独支配を確立したのは、2014年になってからである。ラッカ県の大部分を1月に、デリゾール県は7月に掌握した。ラッカ県に残っていた政府軍の3つの根拠地も、8月、苦戦の末奪い取った。
ラッカ県とデリゾール県にまたがる支配地を得たことにより、ISISはアレッポ県の前進基地の維持が容易になった。
ISISはすでにアレッポ県北東部にいくつかの町を獲得している。2014年1月のラッカ制圧の直後、1月14日アル=バーブを攻略した。続いて23日、マンビジを攻略した。どちらもアレッポの東にある町である。
アレッポに近いアルバーブは、アレッポ攻勢のための前進基地である。このアルバーブにとって、ジェラブルスは重要である。ジェラブルスは国境の町であり、トルコからの援軍と補給をアルバーブに送ることができる。アルバーブはラッカのISISによって支えられているが、ジェラブルスはなんといっても近い。ジェラブルスからの補給により、アルバーブはかなりの程度自立できる。
マンビジはジェラブルスとアルバーブの中間に位置し、補給の中継基地の役目を果たしている。また前進基地アルバーブから一歩退いた後方基地の役目を果たしている。実際ISISは、アレッポ付近で捕まえた子供たちを、マンビジに監禁した。
2014年5月29日、約250人のクルド人の生徒がアレッポで中学校の試験を受けた。コバニへ戻る途中で、生徒たちはイスラム国に誘拐された。100人ほどの少女たちは数時間後に解放されたが、少年153人がコバニの南西55キロに位置するマンビジの学校に拘束された。幸い、ISISに凶悪な意図はなかったようで、14歳〜16歳の少年は全員無事帰った。ただし、5か月間厳しい宗教教育を受け、苦痛を味わった。
コバニをISISの支配下に置けば、ジェラブルスは安定する。ラッカ県の拠点テルアビヤドとジェラブルスの間にコバニがある。コバニは邪魔な存在である。アレッポ県北東部の支配地はラッカ県北部と結合され、強化される。将来のアレッポ攻勢とイドリブ進出に備え、アレッポ県の北東部をまず固める。
アレッポの手ごわい政府軍を後回しにして、ISISはコバニを先にかたづけようとした。
2012年7月以来、クルド人民防衛隊(YPG)がコバニを支配している。YPGとクルド人政治家はコバニをクルド自治領とみなしている。彼らは、コバニ市とその周辺をコバニ州と呼ぶ。コバニ州はアレッポ県アイン・アラブ(=コバニ)地区の北半分である。
アイン・アラブ地区の2004年の人口は19万人である。、コバニ自治州はアイン・アラブ地区の北半分なので、人口は約12万人である。しかし、ISISの攻撃を受けるまで、コバニは平和であり、シリア北部から多くのクルド人がコバニに避難した。クルド人はコバニとアフリン以外にも住んでいる。
2014年の統計の時よりはるかに多くの人が、コバニ自治州に住んでいた。20万人が難民となった。
<ISIS、周辺の村々を攻撃>
2014年9月13日、ISISはコバニに大攻勢をかけ、市の東西の村々に侵入した。16日、戦略的に重要なユーフラテス川の橋を占領した。
9月17日、戦車・ロケット砲・重砲と共に進撃し、ISISは21の村を占領した。これによってコバニ市は完全に包囲された。コバニ州に隣接する地域の自由シリア軍も、市内に退却した。17日の進撃地点を地図で示す。
地図には、コバニ自治州の境界が示されていないが、境界線は「15日の前線」とほぼ一致する。17日に、ISISはコバニ自治州内に入った。コバニ自治州の境界の確認のため、別の地図を示す。
2日後の19日、ISISはさらに39の村を奪った。ISISは市まで20kmに迫った。
4万5千人が、国境を越えてトルコへ避難した。他にかなり多くの人が、トルコに入れず、追い返された。休みなく砲撃され、村人は逃げた。100の村が無人となった。数十人のYPGと住民が死亡した。
9月20日、ISISは市まで15kmに迫り、市から10kmの範囲内に砲撃した。
この日、YPGに援軍が到着した。トルコから300人以上のクルド人戦闘員が、市内に入った。
トルコのクルド労働党(PKK)の幹部が、シリアのクルド部隊に志願するよう、トルコのクルド人青年に訴えた。この日3発のロケット弾が市内に落ちた。避難民の数は合計6万人に達した。
20日と21日の2日間で39人のISISが死亡し、27人のクルド兵が死亡した。YPGは100個の村の住民をシリアの他の地域へ避難させた。
21日、ISISは市まで10kmに迫った。コバニ市の南と東の郊外が主な戦場だった。
22日、米軍がタラビヤド付近を空爆した。ISISの武器と戦闘員がトルコからタラビヤドに入り、コバニに向かっている。空爆は効果的だった。東の郊外のISISの前進は止まった、とYPGが発表した。前進を阻まれたISISは、市内に向けて砲撃した。市から6km西の村と7km東の村で戦闘が続いた。
この日トルコのクルトゥルムス副首相が、国境を越えてトルコに逃れたクルド避難民は、13万人であると発表した。
9月24日、トルコから飛来した数機の戦闘機が、ISISの補給ルートを空爆した。この時点では、米空軍はシリアの領空権を尊重し、トルコ側から侵入した。ISISへの補給はトルコから来る。ISISを攻撃する戦闘機もトルコから来る。変な話だ。
しかしISISの進撃は衰えず、市の南方8kmに迫っている。ISISに援軍が来ており、戦闘員は4000人になった。
9月25日の朝、ISISは市まで2kmに迫った。この日までに、ISISはコバニ自治州の75%を占領した。
3月1日の防衛線がコバニ自治州の境界である。
貿易港マリウポリ タラス・ シェフチェンコ(詩人)像 wikipedia
ウクライナ危機によって、アメリカとロシアの敵対関係は最悪のものになった。現在の緊張は冷戦終了後最悪と言われる。冷戦の時期よりさらに危険な状態にあると警告する識者もある。核戦争の危険に対する警戒心が、以前にくらべあいまいになっているからである。
11月22日、「西側はロシアの体制破壊をたくらんでいる」と、ラブロフ外相は非難した。「西側は、ウクライナ政策の変更をロシアに要求しても無駄だと考え、ロシアの政府を転覆する決心をした。そしてそのことをあからさまに示した。」
「西側の公的な役職にある人たちが、ロシアに対する追加制裁が必要だと言い立てている。新たな制裁はロシアの経済を破壊し、国民の抗議を引き起こすだろう。」
「公的な役職にある人たち」の筆頭が、バイデン副大統領である。11月21日、彼は訪問中のキエフで、「ロシアは、9月5日の停戦合意を破っている」と非難した。そしてロシアに対するさらなる経済制裁の必要性を語った。
ラブロフ外相が「ロシア政府打倒」の陰謀について発言するのは異例である。陰謀とと言っても、武力を用いるものではなく、ロシアに対する新たな経済制裁である。ラブロフ外相の発言は大げさなように思えるが、実はそうではない。経済制裁は、真綿で首を絞める、という表現にぴったりの武器なのである。
<経済の重要分野への制裁>
マレーシア機撃墜事件のあと、7月29日、EUとアメリカは、ロシアがウクライナの親ロシア派への支援を続けているとして、追加制裁に踏み切った。追加制裁は、ロシアの政府系金融機関との取引禁止やエネルギー関連の技術供与禁止など、大がかりなものとなっている。金融・石油・軍需などロシアの基幹産業への大きな打撃となっている。
ロシアの主要銀行のほとんどは、取引禁止の対象となった。欧米市場での金融取引が禁止されれば、資金調達ができなくなり、行き詰まる。あおりをうけて、中小の銀行はすでに破たんの不安におびえている。
最新の石油開発技術が提供されなければ、北極海大陸棚の開発は不可能になる。ロシアの天然ガスと石油は汲みつくされ、埋蔵量が減少しており、北極海開発は死活問題である。
ラブロフ外相が追加制裁を深刻に受け止めるのは、故なきことではない。
経済制裁が与える影響について、モスクワのセルゲイ・グリエフ新経済学院前学長は次のように指摘した。(8月17日付モスクワ・タイムズ紙)
ーー前例のない欧米の経済制裁は、既にロシアに強力な打撃を与えている。ロシア政府も投資家も追加制裁を恐れている。ロシアは自給自足経済になりつつあり、それは国民の生活水準を低下させ、プーチンの支持基盤を揺るがしかねない。ーー
<追い打ちとなる原油価格の下落>
今年の6月から10月にかけて、国際原油価格が25%以上暴落した。産油国のロシアにとって、大幅の収入減となり、経済制裁とあいまって、ダブルパンチとなっている。原油価格の下落がいかにロシアの経済を左右するか、名越健郎が理路整然と説明している。 彼がHufington Post(日本版)に投稿した9月20日の記事から一部紹介する。
ーー ロシアの国家歳入の約半分は石油・ガス収入といわれ、1バレル=104ドルを前提に国家予算を策定している。1バレル12ドル下落すれば、ロシアの国家歳入は400億ドル減少する。原油価格の下落はロシア経済を破壊する。過去の歴史がそのことを如実に物語っている。
<原油価格が低いことがゴルバチョフとエリツィンを苦しめた>
1980年代中盤から1990年代末まで、原油価格は1バレル=10-20ドル台で推移した。これがソ連経済を直撃し、ペレストロイカを破綻させた。プラウダは「原油価格の下落がソ連崩壊の真の理由だ」と書いた。
またソ連崩壊後、新生ロシアのエリツィン大統領が試みた改革も、原油安が足かせとなって失敗した。
1998年には原油価格は1バレル9.8ドルの最安値を記録し、ロシアは同年夏、デフォルト(債務不履行)に陥った。
<プーチンの時代に原油価格が高騰>
21世紀に入ると中国など新興国の需要が増加した。これに中東の混乱が重なり、原油価格は急騰した。2007年に1バレル=147ドルの史上最高値を付けた。
このように2000年代、ロシアは20年ぶりに繁栄を謳歌した。プーチン時代の繁栄はひとえに、原油価格の高騰による。
プーチン政権はエネルギー企業の国家統制を強め、膨大なオイルマネーを国庫に還流させた。そしてこの資金をもとに、給与・年金の引き上げなど、バラマキ政策を推進した。ロシアは毎年6-7%台の高成長を達成し、世界トップ10の経済大国となり、プーチン大統領は「救世主」として高い支持率を誇った。
しかし1008年のリーマンショックで原油価格が一時1バレル=40ドル前後に急落すると、ロシア経済は翌年、マイナス7.8%成長に転落した。その後、ロシア経済低成長時代に入った。
そして2014年9月の現在、国際原油価格はじわじわと下落しており、ロシアは戦々恐々としている。
ロシアは、輸出収入の7割を石油・ガスというエネルギーに依存しており、原油価格の下落はロシア経済に大打撃を与える。国民生活が困窮し、政府批判が高まりかねない。
原油価格が1バレル=91ドル台となった9月15日、ロシアの通貨ルーブルは1ドル=38.18ルーブルとなり、プーチン時代で最安値を更新した。
《たぬき注; その後もルーブル安は止まらず、11月6日には、1ドル=46ルーブル台となった。年初は1ドル=33ルーブル台だったから、ルーブルは3割近く価値を減じた。》
ウクライナ問題に端を発した「新冷戦」の推移は、原油価格がカギを握っている。ーーー
(本文)名越健郎;「原油価格」でロシアを追い詰める「新冷戦」の構造http://www.huffingtonpost.jp/foresight/russia-oil_b_5847700.html
<再び緊張が高まる東ウクライナ>
バイデン副大統領は11月21日、「ウクライに対するロシアのやり方は容認できない」と発言し、新たな経済制裁をほのめかした。これがラブロフ外相の過剰な反応を引き起こしたことは冒頭に書いた。バイデン副大統領の発言はウクライナ東部の一触即発の緊迫した状況を反映している。それについて、11月22日のリビア・トゥデイがAFPの報道を再録している。
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11月22日、ウクライナの国防相が「東ウクライナには、7500人のロシア兵がいる」と言って、ロシアを激しく非難した。
新国防相ステパン・ポルトラク (写真) Al Jaseera
EUの政府筋によれば、ロシア軍の戦車140両がウクライナ領内に進入しており、黒海沿岸の港湾都市マリウポリの防衛が危ぶまれているという。
マリウポリの奪取は親ロシア派の悲願である。それが実現すれば、ロシア本土とクリミアを結ぶ陸路を獲得することになる。
《たぬき注: マリウポリは鉄鋼・穀物など東部の産物の輸出港であり、経済的価値は州都ドネツク市に劣らない。経済的観点からすれば、マリウポリを獲得せずにドネツク州の残余の地域を獲得しても、意味がない。親露派の根拠地を維持するという点では意味があるが。》 (地図)BBC
(説明) 地図の最南端にアゾフ海がある。アゾフ海に面し、ロシアとの国境に近いところに、ノヴォアゾフスクがある。ノヴォアゾフスクから海岸沿いに西進するとマリウポリに至る。
<ロシア軍が向かっているのはマリウポリだけではない>
「重装備部隊20個からなるロシア軍が22日、国境を超え、親ロシア派の陣地に向かっている。」と、ウクライナ政府の東部軍事作戦の司令官が語った。
ウクライナの国防相と東部作戦司令官の発言の数日前、NATOは次のように警告していた。
「ウクライナ国内と国境のロシア側に、ロシア軍の兵士・重砲・対空ミサイルシステムが終結しており、その数量は恐るべきものだ。」
<NATO加盟を望むウクライナ>
11月21日、ウクライナの新内閣は、NATO加盟が最優先の課題であると明言した。そしてNATO加盟を正式に要請するための法律を今年末までに制定すると決めた。
《たぬき注; 現在の法律は軍事同盟を禁じている。それを改正するということである。ヤヌコビッチ大統領の時代には、国民の8割がNATO加盟に反対していた。東部の戦闘が始まってから、NATO加盟を望む国民が急激に増えたという。》
しかし専門家の多くが、ウクライナ政府の意に反し、NATO加盟は実現しないだろうと考えている。
《 たぬき注: 平和主義のEU諸国にとってロシアとの戦争は論外である。また実際問題として、NATOの戦力ではロシア軍に勝てないし、評判通りの弱さが暴露されてしまえば、東欧・バルト諸国だけでなくアフリカでも威信を失い、収拾がつかなくなる。》
「NATOが、ロシア軍と交戦中のウクライナと同盟を結ぶことはありえない。そんなことはサイエンス・フィクションの世界の話だ。」
と、ウクライナの元高級官僚ヴァシーリ・フィリプチュクが述べた。彼は現在、キエフにある政策研究国際センターの所長をしている。
<米国が迫撃砲探知レーダーを供与>
バイデン副大統領のキエフ訪問中の11月21日、米国は迫撃砲探知レーダー3台をウクライナに引き渡した。副大統領の飛行機を追うようにして、レーダーを積んだ輸送機が飛んだのである。
続く数週間の間に、さらに20台を引き渡す予定である。オバマ政権はこれまでウクライナに対して武器・弾薬の援助を断ってきた。攻撃的ではない、という理由により、レーダー・暗視眼鏡・防弾装備は許可してきた。
《 たぬき注: ポロシェンコ大統領は9月19日のオバマ大統領との会談の際に、最新鋭の武器の援助を米国に求めた。しかし、オバマ大統領は断ったようである。ポロシェンコは「毛布と暗視鏡をもらっても、勝てない」と嘆いている。
状況が緊迫している現在、9月の約束に含まれていなかった「迫撃砲探知レーダー」が、ウクライナに与えられることになった。
このレーダーは、敵側の迫撃砲の位置を正確に測定できるので、かなり強力な武器である。レーダーと砲・ミサイルが連携し、敵が発砲すると、弾道から発射地点を測定し、そこに向けて反撃できる。独ソ戦において、ナチス・ドイツ軍は敵の重砲・ロケット砲の位置を把握する能力に優れていたので、ロシア軍の連射砲は射撃が終わると、すぐに遮蔽物の陰に逃げ込んだ。》
イスラエルの対砲台レーダー shilem wikipedia
国連の報告によれば、7か月間の戦闘で約4300人が死亡した。撃墜されたマレーシア航空機の犠牲者298人がこの中に含まれる。9月5日の停戦以降、約千人が死亡している。
原文;Russia regime change West’s real aim in Ukraine row: Lavrov
<http://www.libya-today.com/russia-regime-change-wests-real-aim-in-ukraine-row-lavrov/
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<クリミアのロシア軍が著しく増強された>
11月26日、NATO欧州軍のブリードラブ最高司令官が、クリミアのロシア軍が増強されていることに懸念を示した。ロシアはクリミアを足場として黒海全域を制覇しようとしているのではないか、とブリードラブ最高司令官は疑っている。「クリミアに集結している軍事力は、黒海全体を支配できる能力がある。巡航ミサイルと地対空ミサイルが多数集まってきている。」と彼は語った。
別の情報は、空軍の中でも最精鋭の戦闘機が、クリミアに移って来ている、と伝えている。
ドニプロペトロフスク 大陸間弾道弾の工場がある
<ロシア最初の製鉄所をウクライナに建設> (写真)SEO
ロシアで産業革命が起きたのは、19世紀末アレクサンドル3世の時代である。蔵相ウイッテが中心になって推し進めた。英国の産業革命より100年遅れ、フランスの産業革命より50年遅れたが、ロシアの産業革命は急速に発展した。フランスの資本がもとになった。この時代、ウクライナに最初の製鉄所が建設された。それ以来、ウクライナ東部はロシア第一の重工業地帯となった。鉄道の蒸気機関車はハリコフでつくられた。
ハリコフの蒸気機関車工場は、ソ連時代になると戦車を製造するようになった。ナチス・ドイツの機甲師団と戦ったことで有名な戦車T-34はこの工場でつくられた。冷戦時代にはT-64とT-80、現在はT-84型の戦車が製造されている。
この工場は現在マールィシェウ記念工場と呼ばれ、戦車の他にもジーゼルエンジンや農業機械を製造している。
ロシアにとってウクライナは国家の第二の中核といえるほど重要な地域である。
2008年、プーチンはウクライナの分割をポーランドに打診した。2014年2月の政変後ロシアはクリミア併合した。ウクライナ東部について、ロシアは「ウクライナ東部を分割する意図はない」と語り、政治的交渉による解決を優先してきた。しかし相手の友好的姿勢が疑わしくなった場合、ロシアは2008年に意図した「ウクライナ分割」を実現するかもしれない。
ウクライナの現政権はロシアからの完全独立を悲願としているが、経済的に最も重要な東部と南部はロシアとの結びつきが強く、これらの地域の経済的価値は、帝政ロシアとソ連が築いてきたものである。「歴史的にロシアの土地」と言ってもよい地域を、ウクライナが「我が国の不可分の領土」とかたくなに主張すれば、事は簡単にすまない。現にロシアはクリミアを併合した。
4月、ロシア軍によるウクライナ侵攻の危機が高まり 、ウクライナが分割されるのではないかと恐れられた時 、ウクライナ東部の軍需工場とロシア軍との密接な関係について、いくつかの記事がネットにのった。それらの記事を以下に抜粋する。
最初に紹介するのは「戦争は退屈」というブログの5月6日の記事。
<ロシアの大陸間弾道弾はウクライナ製>
ロシアがウクライナを核攻撃すれば、ウクライナ国家は地上から消滅する。しかしロシアの核ミサイルはウクライナの部品がなければ目標に向かって飛べない。
ウクライナがロシアに供給する軍需品の30%はウクライナ以外の工場では生産できない。
ウクライナの軍産複合体がロシアへの輸出を停止した。これはロシアの戦略ロケット軍にとって致命的な打撃だ。 SS-18型のICBM(大陸間弾道弾)を設計・生産し、整備しているのは、ウクライナの国有企業ユズマシである。ユズマシはドニプロペトロフスクにある。
SS-19 型とSS-25型はロシアで設計・生産されているが、誘導システムはウクライナの企業が 製造している。ハリコフにあるハルトロン社である。
ロシアの戦略ロケット軍が保有するロケットの80%以上は上記の3種の型に属する。
(たぬき注: 最新のSS―27型について述べられていないが、ロシアは電気・ハイテク産業の遅れを改善できていないので、誘導システムはウクライナ製である可能性が高い。)
<ジェットエンジンはウクライナ製>
Motor-Sich社がロシアのすべての輸送機のジェットエンジンを製造している。そしてすべての戦闘・輸送ヘリコプターのエンジンを製造している。
また同社は新鋭戦闘機スホーイの27型・30型・35型の部品を製造している。それは舵面を操作する油圧系と減速用パラシュートである。
ロシアの平和・軍事目的の核施設で使用される天然ウラン鉱石の約20%はウクライナ産である。
本文 Russian Military Needs Ukrainian Spare Parts
<https://medium.com/@warisboring/russian-military-needs-ukrainian-spare-parts-dd4fda8cf09f>
次は「自由ヨーロッパ」の3月28日の記事。ロシアはウクライナを支配下に置きたいが、戦争をすれば、軍需工場が破壊されてしまう、というジレンマに苦しむという内容。
<ロシアがウクライナを攻撃することは自分の足を射るような行為>
皮肉なことに、クリミアやウクライナとの国境沿いのロシア軍の武器の多くはウクライナの工場で製造された。戦闘ヘリコプターのモーターはすべてウクライナ製であり、海軍の艦艇のエンジンのほとんどはウクライナ製である。ロシアの戦闘機に装備されている対空ミサイルも半分がウクライナ製である。
ロシアがウクライナを攻撃することは、自国の軍需工場を攻撃することであり、つじつまが合わない。自分の足を射るような行為である。だからといって、ロシアは戦わないという単純な話にはならない。
ロシアとしては、いかに大きな犠牲を払ってでも、これらの工場がある地域を支配下に置きたいのである。
自由ヨーロッパの軍事通信員ヴォロノフが次のように述べている。
「ウクライとの関係が断たれれば、ロシアの防衛計画に壊滅的な打撃を与える。西欧からの武器輸入を止められることよりはるかに大きな打撃となる」。
本文 Complex Ties: Russia's Armed Forces Depend On Ukraine's Military Industry
March 28, 2014 By Charles Recknagel
http://www.rferl.org/content/russia-ukraine-military-equipment/25312911.html
ハリコフとドニプロペトロフスクの位置
(説明) (地図)Aljazeera
東端にルハンスク州とドネツク州がある。地図の薄いオレンジ色の部分。ルハンスク州の西隣がハリコフ州である。ウクライナ語表記ではハルキウである。ドネツク州の西隣がドニプロペトロフスク州である。
次はブルームバーグ5月7日の記事から。
<東部と南部がロシア領となることは極めて有益である>
ウクライナ東部にはロシアの最重要な軍事産業の施設がある。50以上の工場群が輸送機やヘリコプターのエンジンなどをロシアに供給している。20年前にこの供給を保障する貿易協定が結ばれた。
「これらの軍需工場群があるウクライナの東部と南部がロシア領となることは、軍事的にも経済的にもロシアにとって極めて有益である。」と、モスクワの軍事専門誌のバラバノフ編集長が語った。
2013年12月、ロシアはウクライナへの150億ドルの援助をヤヌコビッチ大統領に約束した。その際、両国の軍事産業をさらに密接に結び付ける契約がなされた。
ウクライナの政変後、プーチン大統領は「ウクライナからの供給が途絶することは、ロシアの軍事力を大きく損なう」と事態の重大性を指摘している。先週彼は「ロシアへの供給を失うことは、ウクライナの軍事産業にとっても破局的なダメージとなる」と語った。
(たぬき注; ウクライナの軍需品は完成品が少なく、ほとんどはロシア向けに特化した部品であり、他に振り替えることが難しい。)
「ロシアの核兵器製造施設の半数以上はウクライナにある。これには核ミサイルの巡航システムも含まれる。」と、ウクライナの軍事コンサルタント誌のズグレツ編集長が述べている。
本文 Ukraine's Arms Industry Is Both Prize and Problem for Putin
By Kateryna Choursina and James M. Gomez May 7, 2014
http://www.rferl.org/content/russia-ukraine-military-equipment/25312911.html
次はモニターの4月10日の記事である。
<敵に武器を供給するのは、きちがいじみている>
追い詰められたウクライナの臨時政府は「ロシアへの武器輸出のすべてを停止することになる」と警告した。「われわれを攻撃するつもりでいる軍隊に武器を供給するのは狂人の行為に等しい」とウクライナ第一副首相は述べた。
そのような動きが現実のもとなれば、ロシアの軍事力に深刻なダメージを与えるだろう、と多くの専門家は指摘する。ロシア軍が現在すすめている抜本的な近代化は、ウクライナの工場を前提としており、それらを移転したり、代替工場を新設するとなれば、新たに膨大な費用が必要にる。
2008年のグルジアとの戦争の際に、ロシア軍の戦備に重大な欠陥があることが露見した。戦後、ロシア政府は軍に近代化を命じた。
タス通信の軍事専門家のリトフキンは次のように述べる。
ーー 今はロシアにとって非常に不愉快な時期だ。ウクライナとの軍事協力はロシアにとって不可欠だ。ソ連時代ほどではないが、現在でもウクライナの部品は、ロシアの近代兵器の重要部分に多数組み込まれている。その品目の多さはは驚くほどだ。
ロシアの輸送機を生産しているのは、キエフにある国営アントノフ設計局だ。同社は新型AN-70を含め数々の有名な輸送機を生み出している。
(たぬき注: 同社は現在世界最大の輸送機であるAn-225ムリーヤを製造したことで有名。同社の工場はキエフとハリコフにある。)
ロシア空軍はピカピカに新品の短距離滑走路で離着陸できる航空機60機を受け取る予定だった。しかしキャンセルされそうだ。ーー
以上がリトフキンが語ったことである。
キエフの軍事研究所のバドラク所長によれば、「イリューシン輸送機の最新型 Ⅱ―476は、製造はロシア中部のウリヤノフスク市でおこなわれているが、ウクライナの部品が不可欠である。
ウクライナの20数社が、ロシアの安全と防衛にとって重要なプロジェクトを共同で行っている。
本文 Can Russia's military fly without Ukraine's parts?
By Fred Weir, Correspondent April 10, 2014
貼り付け元 <http://www.csmonitor.com/World/Europe/2014/0410/Can-Russia-s-military-fly-without-Ukraine-s-parts>
世界最大の輸送機アントノフ (写真)ウイキペディア
ブランを搭載したAn-225 t通称ムリーヤ(夢という意味)
上記の記事に次の一節があったが、論旨が異なるので省略した。改めて紹介する。
ーーロシア政府はウクライナの武器輸出停止発言を真剣に受け止め、プーチンは閣議で緊急の対策を命じた。「前に進むのだ。ロシア国内で代替生産できる企業を調べて、計画を立てなければならない。資金は政府が準備する。」ーー
プーチンはウクライナ支配をあきらめ、軍事工場をロシアに移転・新設することを考えているのである。しかし、コストが大きいので、これが実際に進捗するかは、わからない。
プーチンが政治解決の方針を変えないかどうかは不明である。また彼が真の独裁者なのか、については疑問がある。彼は軍部を統制できるのか。またロシアの真の支配者はFSB(旧KGB)かもしれず、彼は代理人にすぎないかもしれない。
< ロシアにとって重要なのは、ドネツクとルハンスクだけではない>
予想分割ライン=ロシアが最低でも獲得したい地域
(説明) (地図) ABC
① 赤い境界線は、2010年の大統領選挙の結果を示す。東・南部でヤヌコヴィッチが勝利し、西・北部でティモシェンコが勝利した。歴史的にロシアとの結びつきが強い東・南部の住民はヤヌコヴィッチを支持した。
② オレンジ色と薄黄色の色分けは、ロシア語話者の割合を示す。オレンジ色の地域はロシア語話者が多く、薄黄色の地域はロシア語話者が人口の30%以下である。
8月末のロシア軍による反撃の後、ヤツェニュク首相が「ロシアがねらっているのは、東部だけではない。ウクライナ全部だ。」と語った。これは正しい。ロシアとしては、軍事的な面では、ウクライナの主権を認めたくない。ソビエト時代、東欧諸国の主権を制限したように、ウクライナの独立を形式的なものにして、実質的には保護国にしたい。それが不可能となった時、ロシアは地図に示された赤い線を分断ラインとして、ウクライナを分割するかもしれない。
<ニコラエーフの黒海造船所>
ロシア領となったクリミアにとって、対岸のケルソン州が重要なことは言うまでもないが、ケルソン州の西隣のニコラエーフ州には造船所がある。ソ連時代には、巡洋艦と空母を建造するトップクラスの造船所であったが、ソ連崩壊後、海軍造船所としては無用となった。黒海造船所は民間の船舶の造船所となった。プーチンの再軍備と軍の近代化時代になって、海軍造船所として再びよみがえろうとしている。
FC2ブログ 「ロシア海軍報道・情報管理部機動六課・ACS」から引用します。中国の空母「遼寧」が、空母「ワリャーグ」を改装して造られた経緯が語られています。
---空母「ワリャーグ」は1985年12月6日起工され1988年11月25日進水したが1992年工事中断しました。1998年3月、未完成のままマカオ企業へ売却、中国の大連へ回航され、2012年9月25日に「遼寧」として就役しました。黒海造船工場の「空母」建造にも終止符が打たれました。
黒海造船工場は、これらの「空母」建造と並行して民間船(漁船など)の建造も請け負っており、利益をもたらしたのは、「空母」よりも民間船の建造でした。
ソ連邦解体後はウクライナの造船所として存続しましたが、ロシア海軍の仕事は全く無くなり、ウクライナ海軍の仕事と民間船の建造や修理で会社を維持して来ました。
そこで、ウクライナ海軍だけに頼っていては充分な仕事を確保できないと見た黒海造船工場は、外国(ロシア)海軍の仕事を受ける用意があると公式に表明したという事です。
黒海造船工場の生産ポテンシャルは非常に高いとのですが、何しろ、かつては8万トン級の「原子力空母」の建造まで手掛けた造船所が、今や2500トン級コルベットしか建造していないのですから、「ポテンシャル」は有り余っています。
現在、ロシア連邦の「2011-2020年までの国家軍備プログラム」により、ロシア海軍の近代化が進められています。黒海造船工場も、このプログラムへの参入を狙っているのでしょう。ーー
<http://rybachii.blog84.fc2.com/blog-entry-695.html>
最後に、確認として、ワシントンポストの「ウクライナに依存するロシア軍」という記事の地図を転載します。
輸送機のジェットエンジンとヘリコプターのエンジンを製造するMotor-Sich社の工場はザポロージェにあります。ザポロージェ州はドニプロペトロフスク州の南隣に位置し、アゾフ海に面しています。ウクライナ語表記ではザポリージャといいます。
説明)① ロシアの戦艦の60%がニコラエーフで製造されるギアを必要とする。
② アゾフ海の石油とガスはロシアが独占している。
③ ロシア領となったクリミアは食量を空輸するか、または船で運ばなければならず非常に困難である。
④ ゾフティヴァディで産出される天然ウランはロシアの需要の20%を満たしている。
This map shows how Russia’s military relies on Ukraine
By Adam Taylor and Gene Thorp May 9
(写真) naver
<ミンスクで停戦議定書に調印>
8月末にウクライナ政府軍は話にならないような負け方をした。ポロシェンコはプーチンに停戦を申し入れ、ウクライナ政府と親ロシア派との間で停戦協定が結ばれた。
9月5日、ミンスクでウクライナ政府と親ロシア派の代表が停戦議定書に調印し、キエフ時間で18時から停戦が発効した。議定書には、当事者と並んで、親露派の保証人としてキエフ駐在ロシア大使が、そして中立の立場の仲介人としてOSCEの代表が署名した。OSCE(欧州安保協力機構)はブレジネフ(ソ連共産党書記長)が冷戦緩和の試みとして提唱し、創設された。ヨーロッパとロシアの対立を調停する組織として機能している。ミンスク停戦後は停戦が守られているかを監視する業務をおこなっている。
<停戦に同意したロシア>
ロシア軍は少数精鋭の部隊で圧倒的な勝利をしたが、ロシアは深入りを避けた。プーチンは神出鬼没のごとく、自軍をさっとひいてしまった。そしてポロシェンコの停戦申し入れを受け入れた。
<これ以上戦えなかった政府軍>
ウクライナ政府は、自軍が壊滅し、戦う力はすでになかったので、停戦する以外に道はなかった。8月末のウクライナ軍の敗北について、NATOの高官が評価を述べた。「もう東部での戦闘は行えないと感じさせる負け方だった」。彼はウクライナ軍の戦闘力の弱さに驚いた。これは、武器の優劣だけの問題ではなく、士気が低いことが根本原因だった。「もう戦えない」というのは、実感だったようである。
政府軍について、敵である親ロシア派の指揮官も語っている。「戦う前から逃げ出す兵士も少なくない。戦闘が始まってからも、すぐに戦場から姿をくらましてしまう。戦死者と思われている者の多くが、生きているはずだ。彼らは、単なる逃亡兵だ。捕虜になった者は、我々のところで全員生きている。我々は捕虜に対して適切な対応をしている。来てみれば、わかる」。
<停戦に反対だった親ロシア派>
親ロシア派は闘いを続けたかった。勝っていたので、停戦する理由がなかった。彼らは停戦に不満であった。
ルハンスク人民共和国のプロトニツキー首相は肩書なしで署名し、ささやかな抵抗を示した。また彼は「ウクライナから離脱する方針に変わりはない」とうそぶいた。
プロトニツキー首相 (写真)Ria Novosti
(説明)ミンスクで、プロトニツキーは長身で堂々とした体格で際立っていた。
<http://masteru.seesaa.net/article/404939374.html>
ドネツク人民共和国のザハルチェンコ首相もウクライナからの独立を明言した。
またドネツク人民共和国の部隊の指揮官は、停戦に署名したウクライナ政府の代表がクチマ元大統領であることを知ってあぜんとした。クチマは第二代大統領であるが、現在は政府のいかなる地位にもない。
「実際、なんでクチマのよう人間が停戦に署名したのか、さっぱりわからない。停戦の相手がクチマだなんて・・・!」
同指揮官は、こちらはザハルチェンコ首相が署名しているのであるから、政府側はヤツェニュク首相が署名するものと想定していたようである。
ウクライナ政府にとって親ロシア派は暴徒であり、鎮圧すべきテロリストであって、議定書を取り交わす相手ではなかった。ウクライナ側は元大統領という権威ある人を代理として送り、誠意を示した。しかし親ロシア派の指揮官はその辺の事情が理解できなかった。
以上2回引用した親ロシア派の指揮官とは、ドネツク人民共和国軍第二大隊長のミハイル・トルスティフである。別名ギヴィといい、イロヴァイスクの司令官として有名である。前回の当ブログに彼の写真をのせた。現在彼はドネツク空港での戦いを指揮しているようである。
ミンスクでの停戦協定は親ロシア派にとって納得がいかないものであり、しかも自分たちは政府と対等な立場で交渉する資格がない、と思い知らされた。
<事実上独立した親ロシア派>
しかし8月末の勝利によって親ロシア派が勝ち取った地域は、彼らの支配地となった。ウクライナ政府の主権はそこに及ばない。その地の主権者は彼ら親ロシア派である。ドネツク・ルハンスク両州のそれぞれ半分にすぎないが、ドネツク人民共和国・ルハンスク民共和国は存在している。戦いに勝利したものがその地の主権者となる、というのは戦争の掟だ。
<ドネツク市に人民共和国の旗が翻った>
ドネツク人民共和国の旗 itar-tas
(説明) これの十数倍の大きさの旗が広場に掲げられた
ドネツク人民共和国がドネツク市を奪回したこと、しかしマリウポリとスラビャンスクはまだ敵の支配下にあることをタス通信が伝えている。
ーー10月19日、ドネツク市の中央広場にドネツク人民共和国の国旗がかかげられた。横30m縦14mのかなり大きな旗である。共和国内のすべての町の人が参加して縫い上げた。最後の仕上げの数針は、北京オリンピックの銅メダリストのデニス・ユーシェンコ等がおこなった。国旗は共和国の各地域の代表によって運ばれ、レーニン広場に入場して来た。
<マリウポリとスラビャンスクにも共和国の旗が掲げられるだろう>
ザハルチェンコ首相が広場の人々に呼びかけた。「我々はこれまで必死で踏ん張ってきた。これからもずいぶん辛抱しなければならないだろう。しかし我々は団結している。いかなる困難をも乗り越えていくだろう。
占領されている3つの都市=マリウポリ・スラビャンスク・クラマトルスクにも、いずれ共和国の旗が掲げられるだろう。そしてドネツクのすべての町に共和国の旗が掲げられる日が来るだろう。」
この日広場に集まったのは約二千人である。ーーー<http://en.itartass.com/world/755218>
ドネツク人民共和国首相ザハルチェンコ
(説明) BBC
手に持っているのは、ミンスク停戦議定書
ウクライナの小麦畑 (写真)SEO Japan より
<多くの戦死者を出したイロヴァイスク戦>
8月25日には、イロヴァイスクを防衛している親ロシア派はわずか100人になっていた。部隊の司令官は語った。「われわれは北方の道からの補給に頼っている。この道は我々にとって生命線だ。」両軍は欠員を補充しながら、決着のつかない戦いを続けていた。この状況が一変し、一週間後にはイロヴァイスクの町と周辺のウクライナ軍は一掃された。まさに劇的であった。イロヴァイスクはドネツク市の南東45km(38マイル)に位置しており、ドネツク市防衛の要地となった。人口15000人の町である。ドネツク市内で戦う親ロシア派への武器・物資・兵員の補給はルハンスクからきており、イロヴァイスクは中継基地となっていた。
ルハンスクからドネツクへの供給線を切断すべく、政府軍は4800人の兵士を投入した。作戦が開始されたのは8月7日である。主力となったのはドンバス大隊であり、多くの死傷者を出し、司令官も負傷した。ドニプロ大隊・アゾフ大隊・ケルソン大隊がこれに続いた。東部での作戦開始以来の志願兵部隊の死者の四分の一はイロヴァイスクで死んだといわれる。
( 縮小していた親ロシア派の支配地域 8月末 ) BBC
(説明)
① 茶色の部分がドネツク州とルハンスク州
②黄色の部分が親ロシア派の支配地域。薄い黄色の部分を失って、濃い黄色の部分だけになっていた。
③ ドネツク空港とルハンスク空港が、黒地ではっきりと示されている。
④ドネツク市の南東にイロヴァイスク(Ilovaisuk)がある。この間の距離は、地図の目盛に従うと約20kmであるが、ヴァイスニュースは45㎞と伝えている。
⑤ ドネツク州とロシアとの国境は政府軍の支配地となっており、ドネツク市とイロヴァイスクはロシアからの補給をルハンスク市に頼っている。
⑥ 下半分の地図は、アゾフ海沿岸を拡大したものである。ロシア軍の助けにより、親ロシア派はノボアゾフスクを獲得し、マリウポリをめざした。親露派は「マリウポリは出発点であり、モルドバを目指す」と豪語したが、10月上旬を過ぎても、マリウポリを確保できていない。
<電線に死体がぶら下がっていた>
親ロシア派が必死で持ちこたえ、政府軍側が攻めあえぐという構図が、8月25日に一変した。政府軍はまともな抗戦すらできず、一方的に敗北した。あとには数多くの破壊された戦車と兵の死体が残された。破壊された戦車・装甲車の数は68台であり、内戦としてはショッキングな数である。ウクライナ政府は死者の数を87名と発表したが、ウクライナのメディアは、数百名と報じた。
軍用車両の焼けた残骸がイロヴァイスクから南方32㎞にわたってえんえんと続いていた。兵士の死体は野ざらしになっていた。 イロヴァイスクから32㎞南にある村(ノヴォカテルニフカ)の様子をヴァイスニュースが伝えている。記事の日付は9月5日、ヴァイス=viceは「悪、悪徳」という意味である。
ーーー 焼けた死体とエンジンの油のにおいがした。破壊された装甲車のそばに黒焦げの死体が横たわっていた。上方には、電線に死体がぶら下がっていた。死体の手足がだらりと垂れていた。爆破によって上空に吹き飛ばされたのである。装甲車に砲弾が命中し、その連鎖反応で車内の砲弾すべてが爆発したのである。
<http://burkonews.info/ato-update-operational-situation-east-ukraine-july-27-1200-utc/>ーーーー
<鷲(わし)が死体をついばんでいた>
CNNがドネツク市から南へ50㎞のところにある小さな村から伝えている。
ーーーコムソモリスク村では、政府軍は砲撃を受け、敗走した。ロシア軍の正確な砲撃により、装甲車・トラックあわせて15台が破壊された。戦闘後も戦死者は収容されず、死体は放置されたままで、オオカミと鷲(わし)が死体をついばんでいたという。国民防衛軍(=政府軍)が一週間前に、この小さな村に陣地を設けていた。住民は彼らを恐れ、ナチとか傭兵と呼んでいた。ーーーー
ウクライナの軍中央はロシア軍の出現を最初に知ったとき、援軍を送った。援軍として兵士だけを送っても、犬死となるだけだった。戦車がまともに戦えず、一方的に破壊される状況では。後にポロシェンコは「新たに兵を徴集するより、強力な武器を手に入れることの方がはるかに重要だ」と述べている。
ウクライナ政府は沈黙しているが、援軍を送ったことは間違いない。CNNが、援軍として送られた兵士について伝えている。逃げ帰ったか、あるいは釈放されたのか不明だが、彼らの表情は暗く、落ち込んでいる様子だった。
<われわれは決然と反撃した>
イロヴァイスクの司令官は「われわれは8月28日、決然と反撃を開始した」と語っている。「われわれは北と西と東の三方から敵を攻撃した」。「何度も降伏を勧告したが、彼らは降服を拒否した。それで多くの犠牲者が出た。金銭のために戦っている将校が降服を拒否し、兵士たちは強制された。戦闘に不慣れな兵士は目に涙をうかべて死んでいった」。
<明らかになった新事実>
「政府軍は28日、イロヴァイスクから脱出し南方に向かって逃走したが、ロシア軍の待ち伏せに会い、大敗北をこうむった」とこれまで報道されてきた。
しかし新たな証言によれば、3日前の25日に、イロヴァイスクの南方20㎞の地点で大きな戦闘があり、政府軍2個旅団が壊滅していた。戦闘から一か月後の9月29日、ロイターが、解放された捕虜の話を伝えている。
ーーー第92と第51機械化旅団が突然攻撃を受け、短時間で全滅した。多くの政府軍兵士が戦死し、または行方不明になった。第93機械化旅団は、突然然ロシア軍に包囲され、たった20分で壊滅した。
最初、多連装ロケット砲(Rad)による攻撃を受け、続いて戦車・装甲車・歩兵が四方向から迫ってきた。そしてあっという間に旅団は消滅した。後方にいた部隊は、近づいてくるロシア軍を自軍だと思ったという。ロシア軍の出現がいかに予想外だったかを思わせる。
以上が第93機械化旅団の兵士が語った内容である。彼は捕虜となったが釈放された。捕虜の期間に得た情報だと思われるが、ロシア軍は、コストロマの強襲空挺大隊だという。コストロマ市はモスクワの北東300kmに位置する。捕虜になったロシア軍兵士10名が母親にメッセージを述べる映像をウクライナ政府が公開した。かれらはコストロマの強襲空挺大隊に所属していた。
<http://www.trust.org/item/20140929153348-9y8fj>------
私はその映像を見た時、かれらがまじめで立派な若者なので感心したが、かれらはエリート部隊だったのである。この映像が公開されたのは8月26日であり、ウクライナ政府は25日の自軍の大敗北については一切語らず、捕虜になった10名のロシア兵のビデオだけを公表した。
<イロヴァイスクの司令官ギヴィ>
CNN(左の女性)のインタビューに答えるギヴィ(正面)
イロヴァイスクの親ロシア派が持ちこたえたのは、イロヴァイスクの司令官ギヴィに負うところが大きいようだ。彼はイロヴァイスクの出身であり、故郷を守るという気概がある。彼はドネツク市や故郷のイロヴァイスクが破壊されたこと、また人々が犠牲となったことに怒りをあらわにした。特に政府軍が燃焼性の強いリンを含んだ爆弾を使用したことことに対して激しく怒った。「反ナチ(=反政府)の信念を持つようになったのは、彼らの所業が原因だ」。
ウクライナ政府と親ロシア武装勢力は、6日午前0時から停戦することで合意した。実効性が疑われているが、戦闘地域では、砲声がやみ戦闘はすみやかに停止した。
ひとまずほっとしたところであるが、親ロシア派武装勢力とウクライナ政府両者の要求の隔たりは大きく、内戦は終了せず、戦闘が再開される可能性が高い。
<ロシア軍の侵攻はウクライナ分割が目的>
ロシア軍が決然として反攻に転じたのは、ポロシェンコ大統領から譲歩を引き出すためではない。領土を獲得するためである。プーチンが「東ウクライナを国家として認める」ことを要求するつもりだ、と語ったのは、本音だった。
直後に大統領府が、大統領のこの発言を否定した。少し変である。プーチンが、言った後で自ら「しまった」と後悔したのならまだいいが、ロシア政府は危機に直面して分裂しているのかもしれない。
プーチンはこれまでドイツのメルケル首相とポロシェンコ大統領との交渉を重視してきた。ロシアの安全と経済的利益について、確かな保証を両人から得ようと努力してきた。強いプーチンというイメージとは反対に、ひたすら低姿勢であった。プーチンは政治的解決しか考えていないと断言する専門家さえいた。しかし親露派が簡単に敗北を続ける過程で、交渉による解決が不可能であることが明らかになった。ぎりぎりのところでプーチンは態度を一変した。彼は手のひらを返した。ロシアの軍部が交渉の打ち切りを決意したのかもしれない。
そして8月末、ロシア軍が出動した。それは交渉を有利にするためではなく、最低限の範囲を占領し、分割を既成事実化するためだった。
占領地域は、北から順にルハンスク市・ドネツク市・マリウポリ市を結ぶ線の東側である。
(前回と同じ地図です)
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<3地点でロシア軍がウクライナ軍を撃破>
(説明) BBCより
①ロシア軍が攻勢に出たのは、北から順にあげると、まずルハンスク市の南方に位置する空港。地図の北東部。空港は地図に示されていないが、ルハンスク市に近いところにある。
②次にドネツク市の東方20kmのところに位置するイロヴァイスクという町。地図の中央にドネツク市がある。イロヴァイスクは地図に示されていないが、Makiyivkaの南東。
③3つめはアゾフ海に面するノボアゾフスク。地図の南端にアゾフ海がある。アゾフ海に面して大貿易港マリウポリがある。マリウポリの東方にノボアゾフスクがある。
④これら3地点は、地図を見てわかるように、ロシア領と連絡をとりやすく、ロシア軍にとって支えるのが容易な3拠点であリ、しかも南北に連なっている。
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ルハンスク・ドネツク・マリウポリの三都市はまだ占領していないので、分割を決定的なものにするには不徹底であるが、攻略寸前の状態ということで十分、と判断したのではないか。ロシア兵の損失と住民の犠牲を考慮したのかもしれない。ロシアでは、遺体を受け取る兵士の母親や、戻ってこない兵士の母親が抗議をしている。ロシア軍の戦死者・負傷者は400人を超えたという。
<ウクライナ軍と比較にならず強いロシア軍>
ウクライナ軍に比べロシア軍の装備は格段に優れており、停戦前にマリウポリが陥落するのではないか、と政府軍の兵士は恐れた。20台の戦車とロシア軍がマリウポリに迫っていた。
北のルハンスクでは、9月1日、ウクライナ軍はロシア軍の戦車に歯が立たず、退却した。ウクライナ軍はルハンスク空港から整然と退却した、とウクライナ安全保障会議のルイセンコ報道官は報じた。また同報道官は、ロシア軍の砲撃は非常に正確であり、熟練した砲手によるものである、と述べた。
親ロシア派にはウクライナからの独立を望まないメンバーも多い。しかし戦闘部隊の中核は、ロシアの支援がなければ、わずかな自治も獲得できないことを知っている。
<ロシアが主張する「自治州」は事実上の独立国>
そのロシアは「東部を国家として認める」という要求を取り下げたとしても、財政権と外交権は譲るつもりがない。財政権と外交権を有するならば、ほぼ独立国ではないか。まさにそうである。ロシアの言う特別自治州とは、二重国家のような変則国家である。外交権について正確に言うと、東部は拒否権を有するということである。ウクラナは、東部が拒否権を行使すれば、EUにもNATOにも加盟できない。
ポロシェンコはひょっとしたら、このようなロシアの要求を受け入れるかもしれない。彼は、戦争よりはましだと賢明な判断をするかもしれない。
戦死した政府軍兵士の母親が、軍関係者に食ってかかっていた。何と言っているのかはわからないが、顔の表情と口調の激しさは見て取れる。軍関係者が怒りだすのではないか、と動画を見ている私はハラハラした。軍関係者が怒りだす前に母親はわっと泣いてしまった。
日本の統治者はこういうことに決して動じないが、ポロシェンコは動揺するかもしれない。
しかしポロシェンコ以外の閣僚は戦争を考えているようである。
<戦争に向かうウクライナ>
停戦の数日前に、ヤツェニュク首相は、欧米に最新式の兵器の援助を求めた。アゾフ大隊とその支持者も最新の武器を要求した。極右勢力はすべて同様の要求をするだろう。欧米が本格的な武器援助をすれば、政府軍は停戦を破棄し、東部奪回作戦を開始するだろう。そしてそれは、これまでの戦闘をはるかに上まわるロシアとの本格的な戦争になるだろう。
次回は再びイロヴァイスクの戦闘について書き、ルハンスクとノボアゾフスクについては、その後書くつもりです。
ロシア正規軍が越境し、国境付近の町を攻撃し、占領した、と8月28日ウクライナの外交官が述べた。新しい展開なので、このことについてブログの下書きを書いていたら、本日9月1日新しいニュースを知ったので、書き加えなければならなくなった。
<3地点でロシア軍がウクライナ軍を撃破>
(説明) BBCより
①ロシア軍が攻勢に出たのは、北から順にあげると、まずルハンスク市の南方に位置する空港。地図の北東部。空港は地図に示されていないが、ルハンスク市に近いところにある。
②次にドネツク市の東方20kmのところに位置するイロヴァイスクという町。地図の中央にドネツク市がある。イロヴァイスクは地図に示されていないが、Makiyivkaの南東。
③3つめはアゾフ海に面するノボアゾフスク。地図の南端にアゾフ海がある。アゾフ海に面して大貿易港マリウポリがある。マリウポリの東方にノボアゾフスクがある。
④これら3地点は、地図を見てわかるように、ロシア領と連絡をとりやすく、ロシア軍が支援し易い。3拠点は南北に連なっており、防衛戦になっている。
これまで戦闘がなかった東部国境の最南端にロシア軍が侵入し、町と周辺の村々を占領した。新たな戦線が開かれたことに、ウクライナ政府はショックをうけた。これだけでも注目すべき展開だが、同時に北方のドネツク市周辺とルハンスクの空港でもロシア軍による反撃が行われ、政府軍は多くの死者を出し、敗走した。つまり北のルハンスクと中央のドネツク市付近そして同じくドネツク州の最南端の3か所で、ロシア軍による攻撃が行われたということである。イギリス政府関係者がCNNに語ったところによれば、政府軍を攻撃したロシア軍は4000~5000人という。
<プーチンの決意>
プーチンはこれまで、親露派武装勢力が敗退するがままに放置しているので、私は少し不審に思っていたが、これほど決然とした反攻に出たことに驚いた。同時に、やはりそうかと納得する思いもある。
4月の時と同じように、再び戦争前夜を思わせる緊迫した状況となった。プーチンは第二次大戦の時の「レニングラード包囲」について語り、国民に覚悟を呼びかけた。
EUにガスと石油を売ることでロシアの経済は成り立っている。したがってロシアにとって、EUとの友好は基本であるが、軍事的・戦略的観点からすれば、ウクライナ問題は、悪い方にかたむけば、ロシアという国家の存立を危うくする。
プーチンはBBCに語った。「第二次大戦後、今ほど戦争の瀬戸際に近づいたことはない。」
またウクラナの国防相は語った。「われわれはロシアと大戦争をしている。数万人が死ぬだろう。」
これまで優勢だったウクライナ政府軍は、3か所で突然敗北し、逃走した。いずれも重要な拠点なので、ロシア軍の反攻が本格的なものであることをうかがわせる。
軍事情勢に加え、プーチンは「ウクライナ東部を国家として認めるようにと、ポロシェンコ大統領に要求するつもりだ」と語っており、以前の「東部住民の自治の保障」という控え目な要求から、一変している。プーチンは「ウクライナ分割」に向かって突き進んでいるように見える。
大きな戦争の発端となるかもしれない、今回の3地点攻略について、まずイロヴァイスクについて書くことにする。
ドネツツク市内で抗戦する親露派は「陥落寸前」と、8月10日前後に報道されていた。しかし親露派は28日になっても抵抗を続けている。戦闘は激しく、市内は2週間連続して砲撃を受けた。28日だけで15人の市民が死亡した。「状況は切迫している」と市当局は報じた。水と電気は止まり、食糧も不足している。戦闘地域なので、ロシアの援助物資が届いていないかもしれない。
市民の多くは戦闘の終了を望んでいたが、敗北を目前にしている親露派は必死に持ちこたえようとていた。そして親露派が待ち望んでいた朗報がやっと届いた。20キロ東方に援軍が来たのである。
<イロヴァイスクの政府軍 が壊滅>
(説明)
中央に大きな紫色の矢印があり、ロシア軍の侵攻を示している。矢印の先端の少し先にイロヴァイスク(Ilovais'k)がある。Ilovais'kの左側にやや大きな文字でDonetzk(ドネツク)と書かれている。
ドネツク市の東方約20㎞に位置するイロヴァイスクという町は激戦地となっており、ドンバス大隊の司令官も負傷していた。政府軍は攻めあぐんでいた。守る側の親ロシア派は必死だった。
この日、急にに戦況が逆転した。突然政府軍は集中的な砲撃を受けた。これまでになかったことである。100人近くの兵士が死んだ、とキエフの新聞は伝えた。「われわれの部隊で生き残ったのは、20人だけだ。他の部隊も同様だろう。」と兵のひとりが語った。この兵の言葉が正しいとすれば、死者は数百人という噂は本当かもしれない。
シリアと同じで、政府軍は砲撃と空爆によって親露派を攻撃し、自軍の損失を極力少なくしてきた。しかし、この日は逆転してしまった。
CNNは政府軍の医療部隊にインタビューしたが、かれらは「昨日70人の遺体を運んだ」と語り、非常に落ち込んでいたという。またリポーターは、多くの政府軍兵士が捕虜となり、連れて行かれたと語った。親露派はイロヴァイスクから南へ向かって支配地を確保しようとしているようだという。
(戦死した約100名の所属)
ロシア軍から圧倒的な砲撃を受け、イロヴァイスクで戦死した兵士の所属は、第40, 第39、第 28大隊と第51志願兵旅団である。
<イロヴァイスクの攻防に参加した非正規軍>
この2週間、イロヴァイスクは激戦地のひとつであり、正規軍の他にいくつかの民兵部隊が政府軍と共に戦っていた。ドンバス大隊・アゾフ大隊・シャフタルスク大隊・ドニプル大隊である。これらの民兵部隊は2週間の戦闘で、多くの戦死者・負傷者を出していた。敵である親露派は、追い詰められながらも粘り強く戦っていたようである。
ドンバス大隊・アゾフ大隊等はそれぞれ、財閥の私兵であり、性格としては、ミニ軍閥である。現在は政府軍と共に戦っているが、明日は政府軍の敵になる可能性もある。
ロシア軍がルハンスクの空港を確保した経緯と、ノボアゾフスクの政府軍が敗走したことについては、次回書きます。