たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

聖山事件・ヴォルスキ戦

2021-02-27 00:46:41 | 世界史

 

==《リヴィウスのローマ史第2巻》==

Titus Livius   History of Rome

    Bennjamin Oliver Foster

【31章】

(英訳注;この章は紀元前494年の出来事)

 

ヴォルスキ族の国でこうしたことが起きていた時、独裁官はさらに危険な敵であるサビーニ人の軍隊を敗走させ、彼らの陣地を占領した。独裁官は騎兵にサビーニ軍の戦列の中央を攻撃させ、敵に大打撃を与えた。その結果サビーニ軍の戦列は両端に伸びてしまい、戦闘力を失った。混乱している敵を、ローマの歩兵が攻撃した。時を移さずローマ軍はサビーニ軍の陣地をたやすく占領した。レギッルス湖の戦い以来、これは最も有名な戦いとなった。勝利した独裁官はローマに帰還した。独裁官は栄誉を与えられ、さらに円形競技場に、特別席が設けられた。彼と子孫が競技を見物するためだった。その席は高官のための立派な椅子だった。

敗北したヴォルスキ族はヴェリトラエを失った。ローマから植民者がヴェリトラエに送られ、植民地ができた。

 

 

その後間もなくアエクイ族との戦闘が始まった。アエクイ軍は丘の頂上にいて、ローマ軍は下から攻め上らねばならず、不利だった。執政官は闘いたくなかったが、兵士は彼を非難した。執政官は戦いを引き伸ばし、独裁官が任務を終えてから、ローマに帰ろうとしている、と兵士は考えた。執政官ヴェトゥシウスより遅れて戦争を始めた独裁官が戦争を終えたなら、先に戦争は始めたヴェトゥシウスも戦争をやめてもよい、というわけだ。

兵士たちに突き上げられ、執政官ヴェトゥシウスは進撃を命じた。ヴェトゥシウスには作戦がなく、兵士はひたすら頂上をめざした。ローマ軍には作戦がなかったが、アエクイ軍には勇気がなかった。ローマ軍の槍が近づいて来ると、アエクイ兵はローマ兵の勇敢さに驚いてしまい、防衛に適した陣地を捨てて逃げ出した。アエクイ兵は反対側の谷に駆け下りた。ローマ軍は血を流さずに勝利し、多くの戦利品を得た。

ローマは同時に三つの戦争に勝利したが、元老院と平民は国内の出来事に不安を感じた。金を貸す者がとても巧妙な手段と影響力を行使し、市民だけでなく独裁官をも唖然とさせた。執政官ヴェトゥシウスが帰還すると、もう一人の執政官ヴァレリウスは帰還兵に報いる法案を元老院に提出した。この法案によれば、借金に縛られている兵士の処遇について、元老院が布告することになっていた。しかし元老院はこの法案を否決した。独裁官はこれに不満を述べた。

「諸君(元老たち)は私を嫌うかもしれないが、私は階級間の調和を大切にしている。警告するが、諸君はこの決定を後悔するだろう。元老院に平民の代弁者がいないことを反省するだろう。私としては、同僚である市民たちを落胆させたくない。そうなっては、私が独裁官に就任した意味がない。国内の紛争と外国との戦争が独裁官を必要とした。外国との関係は平和になったが、国内では平和が失われている。反乱が起きたら、私は独裁官としてではなく、一人の市民として行動するつもりだ」。

こう述べると、独裁官は元老院を去り、辞任した。独裁官の辞任の原因は困窮した人々に対する元老院の対応であることは明らかだった。それで人々は彼がまだ独裁官であるかのように(なぜなら辞任の原因は彼の過失ではなかったので)、家に帰る彼について行った。このように人々は独裁官を愛し、信頼した。

      【32章】

辞任した独裁官が人々から信頼されているのを見て、元老院は不安になった。もし軍隊が解散したら、市民は再び集会を開き、陰謀が計画されるだろう。これを防止すするために、元老院は軍隊を解散しないことにした。兵士の徴集を命令したのは独裁官だったが、兵士たちは執政官に忠誠を誓っていた。アエクイ族が再び戦争を始めようとしているという口実で、執政官は軍隊を市外に連れ出した。この時兵士たちの頭に反乱という考えが浮かんだ。「執政官(二人)を殺そう」という話が出た、と言われている。「そうすれば執政官の命令に従わなくてもよい」。

これに誰かが反論した。

「犯罪によって神聖な義務を消滅させることはできない」。

シキニウスの提案に従い、兵士たちは執政官の命令なしに「聖なる山」に移動した。聖なる山はローマの北東約5km、アニオ川の北側にあった。これには異説があり、ピソは「兵士たちはアヴェンティーヌの丘に集結した」と書いている。しかし聖山説が広く受け入れられている。

聖なる山で、兵士たちは防御柵を張り巡らし、塹壕を掘り、陣地を構築し

た。彼らに指導者はいなかった。彼らは食糧と水以外、何も要求せず、数日間静かに立てこもった。

ローマ市内は大騒ぎになった。市民はお互いに恐怖を拡大し、市民の日常生活が停止した。聖山の仲間と離れ離れになり、市内にとり残された平民は、元老院の命令による暴力を恐れた。元老たちは市内に残った平民の暴力を恐れた。市内の平民が聖山に行くか、市内で別動隊となるか、わからなかった。また聖山の大部隊がいつまで平和的であるか、予測がつかなかった。このような時に外国との戦争が起きたらどうなるだろう。結局国内の調和をもたらす以外に希望がなかった。公正な、あるいは邪悪なやり方であれ、これを実現しなければならない、と元老たちは確信した。そして彼らはアグリッパ・メネニウスを使節として、平民のもとへ派遣した。メネニウスは雄弁であり、平民の出身だったので、平民に信頼されていた。メネニウスは聖山の陣地に入ることを許可されると、年齢にふさわしく、古風で無骨な口調で次のように兵士たちに語った、と言われている。

「ローマの現在の状態を人間の身体に例えるなら、各部分の意見が一致せず、それぞれが自分の考えと意見を持っているようなものだ。手足は心配と困難を抱え、胃袋に食べ物を供給するために働いているのに、胃袋は何もせずに食べ物を受け取り、楽しんでいる。これは不公平だ、と手足は主張し、反乱を計画した。手は食べ物を口に入れず、口は食べ物を受け取らず、歯は噛むことをやめた。怒りに燃えた手、口、歯は、胃袋を飢えさせ、降伏させようとしたが、手、口、歯

自身も弱り、体全体が衰弱してしまった。つまり何もしていないように見える胃袋は重要な仕事をしているのであり、養われると同時に身体のすべての部分を養い、必要な物を与えているのである。食物は胃袋により消化され、栄養となり、血管を通ってすべての部分に運ばれる。このようにして身体は生きて、活動できるのである」。

長老たちに対する平民の怒りを、アグリッパ・メネニウスが身体の各部分の分裂に例えて説明すると、聴衆の心に響いた。

(英訳注)②国家の分裂を身体に例える話は、クセノフォンがすでに書いている。

                      【33章】

        (紀元前493年)

そして対立していた階級を和解させる手段がとられた。妥協の産物として、平民は自分たちを代表する高官を持つことになった。この高官の地位は不可侵であり、執政官に対抗して平民を助ける権限を有していた。元老院議員はこの役職に就任できなかった。この役職は護民官と呼ばれた。そしてガイウス・リキニウスとルキウス・アルビニスの二人が護民官に任命された。護民官となった二人は別の三人を同僚の護民官に任命した。三人は反乱の指導者だった。その一人はシキニウスであるが、他の二人の名前はわからない。

異説があり、護民官は五人ではなく二人であり、しかも二人は聖山で平民の兵士によって選ばれた。護民官の地位の不可侵性も聖山で決められた。

兵士が聖山に立てこもった時、スプリウス・カッシウスとポストゥムス・コミニウスが執政官になった。この年ラテン人と条約が結ばれた。条約締結の前のことになるが、執政官の一人がウォルスキ族との戦争に出陣し、もう一人の執政官はローマに留まった。ローマ軍はウォルスキ軍を撃破し、ウォルスキ兵は逃亡した。彼らはアンティウムの町(ティレニア海沿岸)のウォルスキ族だったが、少し手前のロングラの町に避難した。

(訳注:ロングラはアンティウムの少し北、地図にはない)

ローマ軍はウォルスキ兵を追いかけ、ロングラを占領した。

その後執政官は別のヴォルスキ族の町ポルスカを占領した。

(訳注)ポルスカはラテン地域にあるがヴォルスキ族の町だった。紀元前493年ローマの執政官ポストゥムス・コミニウスはポルスカを占領した。ポルスカはロングラの近くの町であるが、正確な場所は知られていない。続いて語られるコりオリの町もアンティウムの少し北に存在したが、正確な場所はわからない。(訳注終了)

 続いて執政官コミニウスはコリオリの町を強襲するよう命じた。この時ローマ軍に、若い貴族グナエウス・マルキウスがいた。彼は活動的で、好戦的な青年だった。彼は後にコリオラヌスと呼ばれることになった。

(訳注;戦争の英雄は戦場の名前が通称になる。)

ローマ軍はコリオリを包囲すると、城内に突入することばかり考えて、後方から攻撃される危険を予想しなかった。突然アンティウムのヴォルスキ軍がローマ軍を攻撃してきた。同時に場内からコリオリ軍が出撃してきて、ローマ軍は包囲されてしまった。この時マルキウスは城門の近くにいた。彼は城勇気ある若い兵士たちを率いて反撃した。彼らは門から出撃してきたコリオリ兵を追い返しながら突き進み、開かれていた門から城内に入った。城内で彼らは多くのコリオリ兵を殺した。マルキウスは勢いに駆られて、城壁の近くの建物にたいまつを投げた。すると場内の人々は叫んだ。それは恐怖に怯えた女性や子供の悲鳴に似ていた。これによってコリオリ軍は動揺し、ローマ軍は勇気を取り戻した。コリオリの防衛が崩れたので、アンティウムから来たヴォルスキ軍は戦意を失い、逃走した。ローマ軍は勝利し、コリオリを占領した。マルキウスの功績が輝き、執政官コミニウスは忘れられた。もう一人の執政官スプリウス・カッシウスは軍隊を仕着せせず、留守番をしていただけなので、青銅の円柱の記録に彼の名前が刻まれていなかったら、同様に忘れられていただろう。円柱の記録はラテン人との条約であり、カッシウスが単独でラテン人と締結した、その時ンコミニウスはヴォルスキ族と戦争をしていて、不在だった。

この年、アグリッパ・メネニウスが死んだ。彼は生涯貴族と平民の両方から愛され、独裁官を辞任した後は、平民がますます彼を尊敬した。メネニウスは階級間の争いの裁定者であり、階級調和の保証人であり、元老院から一般の市民に派遣された大使だった。平民をローマに取り戻したアグリッパ・メネニウスは自分の葬式の費用を残さずに死んだ。彼は平民によって埋葬された。平民が葬式の費用を負担し、それぞれセクトゥム支払った。(セクトゥムは銅1ポンド(454グラム)の六分の一)

(英語訳注)紀元前493年の護民官の数は2名と5名の2つの説があるが、前471年以後5名になり、前457年に10名になった。

                    【34章】

    (紀元前492-491年)

翌年執政官に選ばれたのは、ティトゥス・ゲガニウスとプブリウス・ミヌキウスだった。この年は戦争がなく、外国からの災難はなかった。また国内の混乱も収まったが、もっと深刻な不幸がローマを襲った。最初に、トウモロコシの値段が上がった。平民が聖山に退去していた間、農地が耕作されなかったからである。次に飢饉が起こった。まるで町が包囲され時のように深刻な飢饉だったので、奴隷は餓死しそうだった。執政官の迅速な対応がなかったら、平民も同じ運命になっていただろう。執政官の命令により、買い付け人が、遠くまで足を運び、トウモロコシを購入した。買い付け人はオスティア(テベレ川河口の町)を起点に北はエトルリアから南はヴォルスキの沿岸を通り、クマエ(ギリシャ人の都市、ナポリの北)やシチリアまで航海した。ローマの隣人は敵ばかりだったので、ローマは遠くに助けを求めなければならなかった。

買い付け人がクマエで穀物を購入したが、この都市の僭主が出航を阻んだ。クマエの僭主アリストデムスはタルクィヌスの相続人だったので、タルクィヌスの財産が没収されたことに仕返しをした。買い付け人はヴォルスキ族やポンプティン族からは何も買えなかった。(ポンプティン族はラテン人地域の南、沿岸部に住む小部族)。実際に買い付け人は彼らから危害を加えられそうになった。幸いなことに、買い付け人はエトルリア人からトウモロコシを買うことができたので、テべレ川を利用してローマに運んだ。平民は餓死を免れた。食糧危機に続き、破滅的な戦争が始まろうとした。ヴォルスキ族が戦争を準備していた。しかし疫病が彼らを襲った。犠牲の大きさにヴォルスキ族は打ちのめされた。最悪の状態が終了した後も、彼らは恐怖に怯えていた。ローマはヴェリトラエ(アルバ湖の南東)の植民者の数を増やし、高地にある町ノルバ(ヴェリトラエの南東)をポンプティン族(沿岸部の小部族)に対する防衛拠点とするために、植民者を送った。

 

 

翌年の執政官はマルクス・ミヌキウスとアウルス・センプロニウスだった。この年ローマは大量の穀物をシチリアから輸入した。これを平民に売る際の価格について、元老院は審議した。そろそろ平民を押さえつける時期だ、と多くの元老が考えた。元老院の権利が聖山の平民の脅迫によって奪われたのは由由しいことであり、それを取り返すべきだ、と彼らは考えた。彼らの中で、最も声高に護民官が有する権利を攻撃したのは、マルキウス・コリオラヌスだった。

「平民が依然の値段でトウモロコシを得たいなら、元老院の権利の復活を受け入れるべきだ。平民を代表する高官など不要だ。私はならず者のような男によって軛(くびき)につながれた。身のしろ金と引きに、私はやっと釈放された。恐ろしい経験をした人間として、私は護民官シキビウスの存在は容認できない。即刻彼を罷免すべきだ。彼は平民を呼び集めるだろう。勝手に聖山でも、そこらの山にでも行けばよい。彼らは自分たちの土地から穀物を採ればよい。2年前まで彼らはそうしていたのだ。それができないなら、自分たちの狂気が原因の値段で穀物を買えばよい。大胆な言い方をすれば、現在の食糧危機によって彼らは従順になり、昔のように土地を耕すようになるだろう。武器を持って立てこもり、他人に土地を耕作させないことをやめるだろう」。

このような主張が正しいか否か、判断するのは難しいが、私の考えでは、元老院がトウモロコシを安く売ると決めれば済むのに、護民官の制度を廃止しようとたくらみ、また、彼らが渋々同意した護民官の地位の保障条項を無効にしようというのである。

                                  【35章】

                               (紀元前491年)

元老院はマルキウス・コリオラヌスの提案を厳しすぎると考えた。平民は非常に怒り、武器を取ろうとした。平民は次のように話し合った。

「彼らは我々を飢え死にさせるつもりだ。我々がまるで社会の敵であるかのようにおもっているのだ。我々は食料と栄養を奪われるのだ。思いがけず天が与えてくれたトウモロコシ、我々の唯一の食糧が我々の口から遠ざけられた。護民官に鎖をつけてグナエウス・マルキウスに差し出さなければ、トウモロコシを我々に渡さない、というのだ。マルキウスの考え次第で平民の命が奪われるのだ。マルキウスは死刑執行人であり、奴隷が嫌なら死ねと我々に宣告している。護民官は即刻マルキウスを裁判にかけるべきだ。裁判の日を定めるべきだ。それが駄目なら、マルキウスが元老院を出てきた時、皆で襲撃しよう」。

ここまで話が進むと、平民の怒りは静まった。彼らは自分たちの手でマルキウスを裁くことに決め、生殺与奪の力を得て満足した。

元老院では、護民官がマルキウスに警告した。

「我々の役目は罰することでなく、救済することです。我々は元老の擁護者ではなく、平民の保護者です」。

マルキウスは、冷笑しながら話を聞いていた。しかし平民怒りが嵐のように荒れ狂い、反乱が始まろうとしていたので、元老たちは彼らをなだめるために、一人の人間を生け贄として差し出さなければならなかった。このような譲歩をする一方で、元老たちは数人の元老の人的資産と元老院の権力に依拠して、平民の怒りに完全に屈服するのを避けた。最初に彼らは用心棒をあちこちに配置して、平民を威嚇することにした。こうすれば彼らは集会を開けず、計画をあきらめるだろう、と考えたのである。

(訳注:貴族の配下の用心棒は特殊な人々であり、「被保護者」または「家来」とも訳さされる。英語の訳注によれば、彼らは貴族に従属する人々で、市民と区別される。)

元老は作戦が決まると、全員同時に議場を出た。平民は元老全員を裁くことはできなかった。そして元老たちは一人の市民、元老である市民を許すよう、平民に頼んだ。

「仮にマルキウスを無罪にできないなら、恩赦によって、彼を許してほしい」。

しかしマルキウスは尋問の日に姿を見せなかったので、平民の心は硬化した。マルキウスは欠席裁判で有罪になった。するとマルキウスは敵意をあらわにし、祖国ローマを脅迫してから、ヴォルスキ族のところに亡命した。ヴォルスキ族の間で、マルキウスは祖国への憎しみを話すようになり、日を追ってその地の人々と親交を深めた。そして彼はしばしばローマへの不平と脅迫の言葉を口にするようになった。彼の保護者は最も有名なヴォルスキ人であるアッピウス・トゥッリウスだった。トゥッリウスにとって、ローマは永遠の敵だった。長年ローマに恨みを持つ者と、つい最近ローマを恨むようになった者が互いにに刺激しあった結果、ローマと戦争する方法について相談するようになった。 ヴォルスキの人々に戦争を決意させるのは、容易ではなかった。ヴォルスキ族は何度もローマと戦ったが、一度も勝てなかった。繰り返された戦争とそれに続く疫病によって彼らは若者を失い、ヴォルスキ族の心は折れていた。

トゥッリウスとマルキウスは、人々をだまして戦争に引きずり込むしかなかった。しかしローマに対する憎しみは時がたつにつれ薄れていたので、新しい憎しみの原因を見つけて、彼らの心を奮い立たせる必要があった。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする