==《リヴィウスのローマ史第2巻》==
Titus Livius History of Rome
Benjamin Oliver Foster
【36章】
(前章と同じく紀元前491年)
ローマで大祭典が開催されることになり、準備が始まった。祭典は次のように始まった。当日の早朝、演技が始まる前の円形競技場で、某家の男が奴隷に軛(くびき)をつけて、追い立てて行く。罪を犯した奴隷は鞭を当てられながら歩く。続いて演技が始まり、直前の陰気な場面は、祭典の神聖さに少しも影響を与えなかった。
祭典後間もなく、平民のティトゥス・ラティニウスが夢を見た。夢の中にユピテル神が現れ、こう言った。
「私は主役の踊り手が嫌いだ。もっと豪華な祭典でなければ、ローマは危機を迎えるだろう。執政官に伝えよ」。
ラティニウスは夢のお告げを伝えるべきだと思ったが、国家の最高官職である執政官のところに行くのは恐ろしく、また笑いものになるのも嫌だったので、執政官に夢の内容を伝えなかった。神のお告げを実行しなかったことへの代償は大きかった。数日後彼は息子を失った。哀れな男が突然の不幸の原因をきちんと理解するように、ユピテルは再び夢に出た。
「神の言葉を軽んずると、どういう結果になるか、わかっただろう。私が前回述べたことをすぐに執政官に伝えないなら、もっと恐ろしいことが起きるだろう」。
ラティニウスはユピテルのお告げに従うべきだと思ったが、ぐずぐずと実行を引き延ばした。すると彼は急に重病になり、床に伏せてしまった。今度こそ彼は神の怒りを理解した。息子を失った悲しみと自分の病に打ちもめされ、彼は親類一同を集めて、彼の夢について語った。ユピテルが夢に現れ、命令し、実行しないと再び夢に現れた、と彼は語った。そしてユピテルの怒りが現実になった、と、語った。話を聞いた全員は執政官に話すことに同意した。ラティニウスは担架に乗せられ、執政官がいる中央広場に運ばれた。驚いたことに、執政官(二人)はラティニウスに元老院に行くようにと命令した。元老院でラティニウスが夢の話をすると、元老全員が驚いた。彼が話を終えると、手足が動かず担架に乗せられて来たラティニウスが、驚いたことに立ち上がり、歩いて家に帰った。
【37章】
(引き続き紀元前491年)
元老院は最高に豪華な祭典の開催を布告した。そして大勢のヴォルスキ人が見物に来た。アッティウス・トゥッリウスが彼らを誘ったのだった。アッティウスと亡命ローマ人のマルキウスは何かを計画していた。
演技が始まる前、アッティウスは執政官に会いに行き、「折り入って話し合いたい政治的案件がある」と言った。執政官が人払いをすると、アッティウスは言った。
「自分の国の人々をけなすのは気が進まないのですが、それに彼らは何も悪いことをしていないのでなおさらですが、彼らが何かをするかもしれないので、衛兵を配置してください。彼らの性格は信じられないほど不安定です。我々は多くの厄災を経験したので、彼らの性格をよく知っています。我々の国家が存続しているのは我々自身の功績によるものではなく、あなた方の忍耐のおかげです。大勢のヴォルスキ人が今ローマに来ています。祭典を見るためです。彼らは熱心に演技を見るでしょう。昔、ローマの祭典でサビーニの若者たちが悪ふざけをしました。今回も無分別で軽率な行動をする者がいるかもしれません。この天を前もってお知らせすることが、我々とあなた方の両方のためになると思った次第です。私自身は演技が始まる前に帰ります。私がここにとどまるなら、よからぬ言動に関係させられ、事件に巻き込まれるかもしれません」。
こう述べて、アッティウス・トゥッリウスはローマを去った。信頼できる人物が述べた漠然とした警告を、執政官は元老院に伝えた。人はしばしば話の内容より、話し手の重要性によって説得される。元老院は騒動が起こるとは思っていなかったが、予防手段を取ることにした。ヴォルスキ人はローマから去るように、とという命令が出され、伝令が遣わされ、「ヴォルスキ人は全員日没以前にローマから退去せよ」と布告した。ヴォルスキ人は非常に驚き、預けていた荷物を取りにローマ人の知人の家に急いだ。しかしローマを出ようとした時、自分たちがならず者や有害人物として扱われていることに、怒りを覚えた。彼らは演技の途中で追い出され、人間と神々の祭典から排除されたのである。
【38章】
故郷に帰るヴォルスキ人の列が切れ目なく続いていた。先にローマを出たトゥッリウスはフェレンティナの泉で待っていた。ヴォルスキ族の有力な人たちがやって来ると、トゥッリウスは不満と怒りの言葉を投げつけた。指導者たちも怒っていたので、トゥッリウスの話を熱心に聞いた。指導者たちは影響力があったので、一般のヴォルスキ人を説得するのが容易になった。トゥッリウスはローマから追い出された人々を道路下の野原に集めると、あたかも将軍が兵に訓示するように、叫ぶように話した。
「かつてローマ人と疫病がヴォルスキ族にもたらした厄災の記憶は薄れているが、今日我々に向けられけられた侮辱には耐えられない。ローマはヴォルスキの屈辱を祭典の開会式の一部にしたのだ。少なくとも彼らは今日ヴォルスキに勝利した。諸君はローマ市民と外国人、近隣の町の市民など、全員の笑いものになったのだ。各地の伝令が今日の出来事を自国に知らせ、諸君の妻と子供たちは世界中から笑われるのだ。諸君がローマから去るのを見た人、諸君の長い列を見た人はどう思うだろう。彼らは諸君に何かの罪があると考えるに違いない。もし諸君が観客として採点に参加するなら、祭典が汚される、とみなされて、観客席から、集会から追放されたのだ。もっと言えば、すぐにローマを離れたから、死なずに済んだのだ、そう思わないか?諸君はローマを去ったのではなく、逃げたのだ。ローマは我々の敵だ。一日でもローマに滞在したら、君たちは死んでいたかもしれない。今回のことは我々に対する宣戦布告だ。彼らは後悔するだろう。戦争の責任は彼らにある」。
ヴォルスキ人の一時的な怒りは炎となって燃え上がった。彼らはそれぞれ自分の一族のもとへ行き、戦争へ駆り立て、全家庭から出兵志願者の名前を持ってきた。
【39章】
( 紀元前488年)
(英訳注:紀元前499-490年についてリヴィウスの記述がない。紀元前490年の執政官はスルピキウス・カメリウスとラルキウス・フラヴス、489年はユリウス・ユルスとピナリウス・ルフス。この2年について3巻33章と5巻で触れられている。)
ヴォルスキのすべての町が一致して、アッティウス・トゥッリウスとグナエウス・マルキウスを将軍に選んだ。ローマ人マルキウスのほうがトゥッリウスよりも期待された。そしてマルキウスは期待に応えた。ローマ軍の強さは兵士ではなく、指揮官の優秀さによることが明らかになった。ヴォルスキ軍はまずキルケイ(沿岸部の都市)に進み、ローマ人植民者をこの都市から追い出し、ヴォルスキ人の支配を取り戻し、自由市とした。次にヴォルスキ軍はサトゥリクム(キルケイの北西)、ロングラ(アンティウムの真北で近い。地図にない)、ポルスカ(ロングラの北、地図にない)、コリオリ(ポルスカの北。地図にある)を占領した。これらは最近ローマが獲得した町だった。
続いて彼らは荒野を渡り、ラテン街道に入り、ラヴィニウム(コリオリの西)を奪回すると、コルビオ(場所不明)、ヴェテリア(場所不明)、トゥレビウム(場所不明)、ラビクム(ローマの東)、ペドゥム(ラビクムの北東)を奪取した。
最後にマルキウスはヴォルスキ軍をローマへ進め、ローマから5km離れたクルイリアン(紀元前7世紀のアルバ王)の塹壕の近くに設営した。ここを基地としてヴォルスキ兵はローマの領土を略奪した。その際マルキウスは親衛隊を送り、貴族の土地には手をつけないよう指導した。マルキウスがこのように命令したのは、平民に怒っていたからか、元老と平民を仲たがいさせる種をまいたのか、わからない。実際この時ローマは分裂寸前の状況だった。護民官が国家の指導者たちを激しく非難し、頑固な平民の怒りををあおった。しかし外国による侵略への恐怖が強力な接着剤となり、相互の不信と憎悪にもかかわらず、対立する市民の心を結び付けた。ただし、元老と執政官は戦争だけを考えていたが、平民は戦争に反対だった。この時の執政官はスプリウス・ナウティウスとセクストゥス・フリウスだった。彼らは徴兵制を変更し、守備兵を城壁や警戒と見張りの必要な場所に配置した。一方大勢の市民は平和を優先すべきだと主張し、反抗して騒ぎ、執政官を脅した。そして民衆は執政官に求めた。
⓵元老院の招集。
②グナエウス・マルキウスに使者を送るよう、元老院に提案する。
元老院は平民が失望していることを知り、要望を受け入れた。平和交渉の使者がマルキウスのところへ派遣された。使節が持ち帰った返事は厳しいものだった。
「ヴォルスキの領土が返還されるなら、平和交渉に応じてもよい。もしローマ人が以前の戦争の戦争で得たものを手放そうとせず、何も変更する気がないなら、私(マルキウス)に対するローマ市民の不正を許さず、私を受け入れてくれたヴォルスキ人の親切に報いるために行動するだろう。亡命によって勇気が失われず、むしろ勇気が増したことを、私は示したい」。
ローマは2度目の使者を派遣したが、彼らはヴォルスキの陣衛に入れなかった。
最後に正式な帽子(フィレット:円筒形の帽子)をかぶった僧侶まで敵陣に派遣され、交渉を求めたが、前2回の使節動揺マルキウスの決心を変えることはできなかった。
【40章】
(紀元前488―487年)
大勢の既婚女性がコリオラヌスの年老いた母ヴェトゥリアとコリオラヌスの妻ヴォルミナの家の前に集まった。(コリオラヌスはマルキウスの通称)。これは政府の政策だったか、単に女性たちの不安の表れだったか、わからない。それはともかく、女性たちは二人に頼んだ。「コリオラヌスの二人の幼い息子を連れて、私たちと一緒にヴォルスキの陣地に行きましょう。男たちは町を守ることができないので、女たちの祈りと涙で町を守るのです」。
女性多たちが敵陣に到着し、しゅびへいがコリオラヌスに報告した。「女たちが大勢来ています」
国家の権威を代表する使節も、恐るべき神々の代理人である僧侶の姿と言葉もコリオラヌスの心を動かすことはなかった。彼は女性たちの涙に対しても頑固に抵抗した。しかし彼の友人が女性たちの中でも特に悲しみに暮れているヴェトゥリア(コリオラヌスの母)に目を止めた。彼女は息子の妻と幼児たちの間に立っていた。友人はコリオラヌスのところに行き、言った。
「私の見間違いでないなら、君の母と妻と子供たちが来ていますよ」。
コリオラヌスは驚き、気が狂ったように椅子から立ち上り、母に会おうと走り出した。彼は母を抱きしめようとしたが、彼女の願いを知ると、怒り出した。すると母は息子に言った。
「抱擁する前に、教えてちょうだい。あなたは私の敵なのか、それとも息子なのか。私はあなたの陣地で捕虜なのか、それとも母なのか。長く生きて、年老いて不幸な私が最後に見るのは、亡命し、敵となった息子なのか。あなたは生まれ育った祖国を破壊したいのですか。あなたがどれほど敵愾心に燃え、敵を滅ぼそうと考えていても、ローマの領土に足を踏み入れた時、怒りは消えなかったのですか。ローマが見えた時、心境の変化がなかったのですか。『あの城壁の中に私の家があり、私の神々がいて、母と妻と子供たちが暮らしているのだ』と考えなかったのですか。もしあなたの母がいなかったら、ローマは包囲されていたでしょ
う。もし私に息子がいなかったら、私は自由な人間として死ぬでしょう。でも今、私の息子にとってこれ以上不名誉なことはなく、私にとってこれ以上惨めなことはありません。私はどんなに惨めでも、この先長くは生きません。若くして死ぬことになる人たち、長年奴隷として生きることになる人たちのことを、あなたは考えなければなりません」。
母が息子の妻と子供を抱きしめると、女性たちは涙を流し、自分たちと祖国の運命を嘆いた。ついにコリオラヌスの堅い決心が崩れ、彼は家族を抱きしめた。コリオラヌスはヴォルスキ軍を撤退させた。ローマの国境を出る時、コリオラヌスは自分の行為に対する憎しみに打ちひしがれて、死んだ。これには異説があり、最も古い歴史書を残したファビウスによれば、コリオラヌスは老年まで生きた。ただし、年老いると、コリオラヌスの亡命生活は耐え難く惨めになり、彼はしばしばローマを攻撃しなかったことを後悔する言葉を口にした。戦争回避に成功したローマの女性たちは称賛され、男性はそれをうらやまなかった。この時代、他人の成功をけなす人はいなかった。コリオラヌスを説得した女性たちを記念し、フォルトゥーナ・ムリエブリスの神殿が建てられた。
その後ヴォルスキとアエクイの軍隊が再びローマに侵攻した。両軍を指揮していたアッティウス・トゥッリウスが突然罷免された。彼に代わる将軍をヴォルスキまたはアエクイのどちらから選ぶべきかで、喧嘩になり、戦闘に発展した。これはローマにとって幸運だった。すぐにローマ軍が出撃し、一回の戦闘で両軍を壊滅させた。長期戦より多くの犠牲者が出た。
年が変わっていて、執政官はティトゥス・シキニウスとガイウス・アキリウスになっていた。シキニウスはヴォルスキとの戦争を指揮した。ヘルニキとも戦争になり、アキリウスが戦争を指揮した。この年ローマはヘルニキ族を征服したが、ヴォルスキとの戦争は決着がつかなかった。