ローマは紀元前753年に建国されたことになっているが、最初から753年とされていたわけではなく、諸説あり、紀元前1世紀に753年とされたと言われている。諸説あったのは確かで、しかもローマではようやく3世紀末に初めて歴史書が生まれ、その中で建国の年が登場する。これ以後、建国の年がいくつか提唱された。ローマ人に先んじて、シチリアのギリシャ人が3世紀前半にローマの建設は紀元前814年と書いている。以下に建国の年のばらつきを示す。最初の3人は歴史家であり、残りの2人は劇作家・詩人である。
⓵ ティマイオス ( Timaeus of Tauromenium) 紀元前814又は813年
②クイントゥス・ファビウス・ピクトル( Quintus Fabius Pictor) 紀元前748年または747年 紀元前1100年
③ルキウス・キンキウス・アリメントゥス(Lucius Cincius Alimentus)前729又は728
④グナエウス・ナエヴィウス(Gnaeus Naevius)
⑤ クイントゥス・エンニウス ( Quintus Ennius ) 紀元前1100年又は884年
次にこれらの著者の略歴と、どのようにしてローマ建設の年を知ったかを説明する。
⓵ ティマイオス(紀元前356又は350ー260年) 814年
ティマイオスはシチリア生まれのギリシャ人であり、古代の著者たちから最も影響力のある歴史家とみなされていた。彼はシチリアのタオルメニウム(現タオルミナ、メッシナ海峡の南)に生まれた。彼の父アンドロマクスはシラクサのディオニシウスを退け、タオルメニウムの支配者となった(紀元前358年)。
ティマイオスは晩年アテネに15年住み、イソクラテスの弟子ミレトゥスのフィリスクスに学んだ。ティマイオスの主著「歴史」はアテネで書かれた。ティマイオスは265年シチリアの故郷に帰り、間もなく死んだ。
ティマイオスの「歴史」は38巻からなり、4つの部分にに分かれている。
⓵ギリシャ史(都市国家の成立からポエニ戦争まで)
②初期のイタリア・シチリア史
③シチリア史
④シチリア・ギリシャ史
⑤シチリアの僭主アガトクレスについて
ティマイオスは年表の作成に取り組み、オリンピアの競技の年を基準とし、アテネの支配者の即位年を決定した。同様にスパルタの支配者とアルゴスの巫女の即位年を決定した。ティマイオスの年表はギリシャの歴史家の間で広く使用された。
ティマイオスはローマの勃興に注目した最初のギリシャ人だった。ローマとカルタゴの戦争の結果が西地中海の状況を一変させると、彼は予見していた。ローマに関心を持ったギリシャ人として、彼はポリュビオス(紀元前200ー118年)の先人だった。
ティマイオスはローマの建国を紀元前814年とした。彼はシチリアで生まれ育ったギリシャ人であり、イタリアの歴史に関心があった。彼の考えでは、ローマは古い都市であり、ローマが建設されたのは、ギリシャ人がイタリアに植民する少し前だった。ギリシャ人のイタリア植民は紀元前8世紀に始まった。彼はどのようにしてローマの建国の年を知ったのだろう。彼がローマに関する情報を得たのは紀元前4世紀末から紀元前3世紀前半である。この時期のローマ人またはイタリア南部のギリシャ人から情報を得たのだろう。または彼の先人であるシチリアの歴史家から学んだのかもしれない。シラクサのアンティオコスは南イタリアとシチリアへのギリシャ人の植民について書いた最初の歴史家である。彼の生まれた年も没年もわからないが、彼が執筆活動をしたのは紀元前420年ごろである。彼はヘロドトスより年下で、ツキジデスと同時代人である。アンティオコスは二つの著書「420年以前のシチリアの歴史」と「イタリアへの植民の歴史」は古典となった。ツキジデスは「420年以前のシチリアの歴史」を活用し、ハリカルナッソスのディオニシオス、ストラボン、シケリアのディオドロスは「イタリアへの植民の歴史」をしばしば引用した。
「イタリアへの植民の歴史」がローマの建国や王制の時代について触れていたかはわからないが、ティマイオスはローマの建国について、アンティオコスから学んでいたかもしれない。
ティマイオスは共和制初期の出来事の年代を記録しており、クルシウムとアリチアの戦争を紀元前504年と書いている。
ローマの最後の王タルクイニウスは王位を失い、亡命したが、再起を図り、エトルリアの都市クルシウムの王にローマ攻撃を持ち掛けた。クルシウムの王ポルセンナは話に乗り、ローマに向かった。クルシウム軍はローマを包囲したものの、決着がつかず、結局ローマと和解した。ポルセンナは無駄な出兵となるのを避け、息子に軍の半分を与え、ラテン都市アリチアを攻撃させた。アリチアはラテン連盟とギリシャ都市クマエに助けを求めた。援軍が到着すると、アリチア軍は守りから攻撃に転じたが、クルシウム軍に蹴散らされてしまった。隠れていたクマエ軍がクルシウム軍の背後を襲い、クルシウム軍は破れた。生き残ったクルシウム兵はローマに逃げ、かくまってくれと頼んだ。彼らはローマに住むことを許され、彼らの住む地区は「エトルリア人の地区」と呼ばれた。以上は、リヴィウスが書いていることである。アりチアはアルバ湖の南方のラテン人の都市である。クルシウムは現在のキウジで、トスカナ地方南東部、ウンブリア地方との境界に近い場所にある。アりチア戦に、ギリシャ都市クマエが参加していているので、ティマイオスの情報源ははクマエかもしれない。ティマイオスはこの戦争の年を紀元前504年としているが、ローマ側は紀元前508年としている。
また、ティマイオスは、ガリア人のローマ占領を紀元前386年と書いている。おそらく、情報はクマエだろう。ギリシャ人の都市クマエはエトルリアと交流があり、エトルリアの出事に通じていたようである。紀元前1世紀のシチリアのギリシャ人ディオドゥルスは次のように書いている。「紀元前386年ガリア人はローマを占領した。次にガリア人は南イタリアへ遠征してから、故郷に帰る途中、エトルリア人の攻撃を受けた」。
ギリシャ人の間では、ガリア人の襲来は紀元前386年となっているが、ローマ側は紀元前390年としている。
②クイントゥス・ファビウス・ピクトル(紀元前270 ー 215から200年の間)
ピクトルは紀元前230代のリグリア人やガリア人との戦争に下級将校として従軍した。帰国後彼はプラエトルになった。紀元前218年ハンニバルがイタリアに侵入し、第2次ポエニ戦争が始まった時、ピクトルは元老になっていた。ハンニバルに負け続けていたローマは、紀元前216年8月カンネーで大敗北を喫した。困り果てたローマの元老院はギリシャの聖地デルフィの神の予言を聞くことにした。使節の神官たちに随行し、ピクトルはギリシャに向かった。彼の第2次ポエニ戦争への関わりは、これだけである。紀元前215ー200年、ピクトルは「年代記(ローマ史)」を執筆した。
ティマイオスがローマの建国を紀元前814年としていることを、ピクトルは知っていたかもしれないが、採用しなかった。ピクトルはローマ側の記録に従って、建国の年を紀元前748年とした。彼がローマの歴史を書いた動機は、第2次ポエニ戦争におけるローマの正当性を対外的に主張するためだった。それで彼の年代記はギリシャ語で書かれた。ピクトルはギリシャの歴史書のスタイルをローマに導入した最初のローマ人である。当然ピクトルはギリシャの歴史家の著書を読んでいたに違いない。また彼は、シチリアの二人の歴史家、アンティオコスとティマイオスのイタリア史を読んでいた可能性が高い。しかしギリシャの歴史家はイタリアのギリシャ都市について多くのペ-ジを割いたのであり、ローマに関する記述は少なかったに違いない。それに対し、ローマ側には十分な記録があった。その結果彼はローマの歴史を書くにあたり、ローマ側の記録を参考にしたのである。
③ルキウス・キンキウス・アリメントゥス(生まれた年と没年は不明)
アリメントゥスは紀元前210年にシチリアのプラエトルに任命され、翌年(209年)、前プラエトルとして引き続きシチリアにとどまり、2つの地方を支配した。その後彼は元老になり、裁判官が金品を受け取ることを禁止する法律(キンキウス法)を提案し、可決された。アリメントゥスは第2次ポエニ戦争(紀元前219ー201年)で捕虜になった。ハンニバルは捕虜のアリメントゥスにアルプス越えについて詳しく語った。紀元前202年ローマがザマ(カルタゴ本土)で勝利し、アリメントゥスは釈放された。帰国後彼はローマの歴史を書き、ファビウス・ピクトルに続く歴史家となった。主著「年代記(ローマ史)」はギリシャ語で書かれた。アリメントゥスは大神官の年代記、及びその他のローマ側の記録を、ギリシャ語に翻訳しながら、ローマ史をまとめ上げた。彼の客観的な著述はハリカルナッソスやポリュビオスによって称賛された。紀元後4世紀のローマの歴史家フェストゥス(Festus)は、しばしば彼の年代記を引用した。近代ドイツのローマ史家ニーブール(Barthold Georg Niebuhr)はアリメントゥスの批判的な手法を高く評価し、次のように述べた。「アリメントゥスは古代の記念碑を調査し、過去の歴史を探求することによってローマ史に新しい光を当てた。彼は他の歴史家と違って、初期ローマのラテン都市に対する勝利を抑制的に描いた」。
残存している断片によれば、アリメントゥスはローマが建設された年を第12回オリンピア競技の4年後(紀元前729又は728年)としている。これについてニーブールは注目すべき見解を述べている。「ローマの建設は第5代国王タルクイニウスの132年前という記録が存在し、ローマの歴史家はこの記録を採用した」。
第5代国王タルクイニウスがローマの暦を改革するまで、1年は10か月しかなかった。旧歴の132年前は、12か月から成る新暦では110年前である。アリメントゥスは5代国王の即位年を知っており、その110年前を建国の年とした。しかし、1年が10か月しかなかったというのはアリメントゥスの誤解であり、ロムルス歴においては、10か月の後に2か月分(約61日)の冬月が置かれており、1年は365日であった。2か月分の冬月はじゅうぶん機能を果たしたが、不細工なので、第2代国王のヌマが1年を12か月とした。ヌマ礫歴はカエサルの時代まで続いた。1年が10か月(300日)しかなかったら、2年目に少し変だと気づくし、6年目には夏と冬が逆転する。いかなる原始人もそのような暦を使わない。
既に述べたように、ピクトルは建国の年を紀元前748年をとしていた。アリメントゥスも、旧暦では1年が300日しかなかったという考えに振り回されなければ、ピクトルと同じく、紀元前748年としていたはずである。ローマの最初の2人の歴史家、ピクトルとアリメントゥスが、建国の年を紀元前748年としていたことは重要である。19世紀初頭のドイツの歴史学者の言葉を繰り返したい。「ローマの建設は第5代国王タルクイニウスの132年前という記録が存在した」。
紀元前1世紀になって、建国の年が5年早められ、753年とされた。なぜ5年早められたかを調べる作業は余人に譲りたい。私としては、ローマの建国の年や、7人の国王の即位年や統治期間について、古い記録が存在した可能性が高いことを知って満足している。「国王が部屋の壁に重要な出来事を記録していた」という説があるのを知って、私は半信半疑だったが、古い記録の存在を軽々しく否定はできないと考えるようになった。
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