たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

ホムスの戦いでシリア反政府軍敗北

2013-07-24 20:17:35 | シリア内戦

 ハリド・イブン・ワリド・モスク(ウィキペディアより)

ハリディーヤ地区にあるこのモスクの周辺が戦いの場となった

 

クサイル戦の時、反政府軍は、周囲との連絡をすべて絶たれ、完全に孤立し、アサド政府軍の総攻撃を受け、敗北しました。

 クサイル攻略はアサド側にとって、ダマスカスと海岸部の連絡を安全にすることと、同時にホムスの反政府軍とレバノンとの連絡を断つという2つの意味がありました。

ホムスは、アレッポに次ぐシリア第三の大都市であり、それ自体重要なだけでなく、ここが確保されればアサド側にとって中部と西部が安泰となります。そして、残る反政府側の主要拠点はアレッポのみとなります。

クサイルを失ったことで、ホムスの反政府軍の命運は尽きたかに思えましたが、新たな武器援助のもと、ホムス死守を念じて戦った場合、結果がどうなるかわかりません。アサド側にとって、万一ホムス攻略に失敗すれば、アレッポ攻略は論外ということになり、北部と中部の喪失は決定的となります。

アサド軍有利とは言え、ホムスでの勝敗は、今後の戦い、特に、決戦となるアレッポの戦いを左右するものなので、非常に気がかりでした。次にホムス戦の経過を書きます。              

 アサド政府軍は、ホムス市を占拠している反政府軍を排除するにあたって、前もって、クサイルとホムス県南部の町や村をいくつか攻撃しました。                                                ホムスに援軍を送ったり、武器・弾薬を補給する可能性のある根拠地を全てつぶしてから、ホムス市そのものの攻撃に取り掛かるという作戦です。

 こうしてホムス県南部を平定したアサド政府軍は、ホムス市の包囲にとりかかり、包囲が完成した6月29日、本格的な攻撃を開始しました。午前9時に始まった爆撃は3時間続きました。それは「あのように激しい攻撃は、今までなかった」と言われたクサイルでの攻撃と同じく、「前例のない」ものでした。

アレッポでは市の東半分を占領している反政府軍ですが、ホムスでの占領地域は20%にすぎません。反政府軍の二大根拠地は旧市街のいくつかの地区とそれの北側に隣接するハリディーヤ地区です。政府軍は主にこの二つの根拠地に対し、爆撃と砲撃を加えました。その様子を、ウィキペディアから引用します。 

[引用開始]   -----------------------

<攻撃初日>

シリア国営テレビは、政府軍は大きな成果をあげ、ハリディーヤ地区で数多くのテロリストを殺害した、と伝えた。また、同地区にあるハリド・モスク周辺の戦闘は熾烈をきわめ、戦いが始まる前から、モスクは燃えていた、と伝えた。

ニューヨークタイムズによれば、旧市街のハミディヤ地区に住む反政府活動家は、攻撃全般について次のように語った。「最初にいくつかの地域に空爆を加え、次に何時間もの間ロケット砲を発射し続けた。」

また彼は自分が住んでいる旧市街について、こう語った。「彼らは、威力ある迫撃砲の砲弾を我々にあびせた。そして四つの異なる方角から我々に迫ってきた。旧市街で、我々は、電気と水と電話を切断された。彼らは我々からすべてを取り上げた。我々に残っているのは空気だけだ。」

-----------------------------------------------------[引用終了]

一方、初日と2日目の戦闘について、アルジャジーラは、反政府側は果敢に反撃し、アサド軍を押し返した、と伝えています。そして、最初の24時間で、ヒズボラ兵を含む24名のアサド軍側兵士が戦死した、と付け加えています。ひき続き、アルジャジーラから引用します。

[引用開始]  ----------------------------------------

<攻撃2日目>

昨日一歩も前進することができなかったアサド軍は、ハリディーヤ地区と旧市街の連絡を切断しようとし、両者の中間にある市場(=天蓋のあるマーケット)に進入した。戦車を先頭に進撃してくるアサド軍兵士と、これを撃退しようとする反政府軍との間で戦闘が始まった。

----------------------------------------------------[引用終了]

最初の2日間はアサド軍が攻めあぐんでいる様子が感じられます。反政府活動家が述べています。「ホムスでは、反政府軍は長期間、戦うつもりであり、準備ができている。クサイルは、わずかな数のビルディングしかない小さな町だったが、ホムスは大都市だ。立ち並ぶビル群を防御に利用して、本格的な市街戦を戦うつもりだ。」

彼は「準備ができている」としか言っていませんが、要所に地雷を埋め込んだことや、命中率の高い対戦車ミサイルを用意していることなど、反政府軍の周到な準備について言っているのだと思います。

 

3日目と4日目については、イランの英字紙アララムから、5日目についてはウィキペディアから引用します。

[引用開始]  -------------------------------------

    <攻撃3日目>

  攻撃3日目で、政府軍の作戦は大幅に進み、ホムス市に対する包囲の輪をせばめた。政府軍は、3日間連続して、市内数か所にある反政府軍の陣地を攻撃した。 

   <攻撃4日目>

  政府軍は4日間連続して空爆と砲撃を行い、テロリスト(=反政府軍)に大きな損害を与えた。シリア国営テレビによれば、政府軍は、戦闘機と戦車そして迫撃砲部隊による攻撃により、大きな成果をあげた。そして多数のテロリストを殺害した。 

     <攻撃5日目>

7月3日、戦いは、一個一個のビルディングをめぐっての、激しい攻防となった、と反政府活動家は語った。アサド軍は、迫撃砲によってビルディングを砲撃し、反政府軍の立てこもる区域を一つずつ攻略しようとしている。

--------------------------------------[引用終了]

 以上、最初の5日間の引用文から、戦いの激しさがうかがえます。連日の空爆と砲撃にもかかわらず、市内では、一進一退の激闘が続けられました。反政府軍の予想外の健闘・アサド軍の苦戦の原因について、アサド政府は、反政府軍が重火器と高性能の武器を持っていたからだ、と言っています。そして同政府は、援助国がこうした武器を反政府軍に供与することに、不信の念を表明しました。アサド軍は自軍の兵士を多く失い、命中率の高い武器の威力を実感して,危機感を抱いたようです。

 この段階では、全然、先の見えない戦いでした。メディアでは、激戦の様子と、空爆による一般市民の犠牲が伝えられました。

 アサド軍は7日目にしてようやく、ハリディーヤ地区の防衛線を突き崩し、8日目にあたる7月6日には、「アサド軍有利」の報道がなされました。反政府側は、武器が底をついているいる、ということでした。そして、7月8日、アサド軍はハリディーヤ地区の制圧に成功しました。

                                                         10日(12日目)、今度は、旧市街のいくつかの地区を制圧し、12日(14日目)、ついに反政府軍はホムス市からの撤退の準備を始めました。撤退の理由には、反政府軍兵士の人数の減少と、アサド軍側の圧倒的な火力の優越があげられています。

やはり、アサド軍の封鎖は成功し、反政府軍は、補給路を遮断され、援軍も来ず、抵抗を続けることができなくなったのだと思います。

 ホムス戦についてのまとまった報告と、アサド軍勝利の速報を伝えたのは、ウィキペディア(英語版)です。

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ローマ帝国の滅亡

2013-07-07 15:05:29 | 古代

 映画「ローマ帝国の滅亡」を見た。映像が最高に美しい。ローマ軍団が行進する様子が当時そのままに再現されている。背景には、山中に、古代の城塞が、おもおもしくそびえている。

 

「人類の歴史で最も幸福な時代」と言われた五賢帝時代に、ローマ帝国は既に抜き差しならぬ問題を抱えていた。そういう場面から映画が始まる。

 

開始のナレーションが語る。「ローマ帝国の滅亡の原因について、多くの人が興味を持ち、研究もなされてきた。思うに、滅亡の原因は結局、一つではない。いくつかの原因によるものと結論できる。」

 

物語の時代は二世紀後半、西暦180年、マルクス・アウレリアス帝の時代である。

 

ローマ帝国の黄金時代に、皇帝アウレリアスが登場する舞台は、南国地中海に近いローマではなく、はるか北方、アルプスの山中である。映画では、たびたび雪が降る場面が映し出される。

 

ローマ全盛の時代に,皇帝が住んでいるのは、雪の降る北国の山中にある城塞である。映像は、遠い過去の時代の一つの側面を、しかも重要な側面を、一瞬にして理解させてくれる。

 

この時、アウレリアス帝は雪の降る南ドイツで、ゲルマン民族と戦争をしていたのである。この時相手にしていたのは、ゲルマン民族の支族のひとつ、ババリア族である。                    

 

ドイツの歴史を勉強していると、バイエルンのことをババリアともいうので、慣れるまで苦労しましたが、この映画を見て、バイエルン地方はババリアという名前で、歴史に登場していたのだと、納得しました。

 

塩野七生の「ローマ史」は少しずつ、ゆっくり読むとして、今回はウィキペディアで、この映画と関連する部分だけ、復習しました。以下に引用します。

 

ウィキペディアからの引用開始

ーーーーーー

ローマ帝国の滅亡』(ローマていこくのめつぼう、原題:The Fall of the Roman Empire)は、1964年アメリカ映画

あらすじ[編集]

領土を拡大するローマ帝国五賢帝時代には拡張の限界を迎えざるを得なくなった。蛮族ババリアと東ペルシャはいまだローマに屈してはいなかった。

病床のアウレリウス帝は後継者の選定に悩んでいた。息子のコンモドゥスはあまりに暗愚であり、有能な軍団指揮官リヴィウスに禅譲する以外ないと考えるようになった。しかしながら、後継者を指名する以前にアウレリウス帝は盲目の侍従クレアンデルによって暗殺され、慣習によってコンモドゥスが帝位を継承することになった。-----引用終了

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ベルギー印象派の画家クラウス

2013-07-07 08:55:56 | 文化

 エミール・クラウス

《レイエ河畔に座る少女》

 

gooブログのジャンル別「レビュー/感想・絵画」を開いたら、新着フォトの中に、気に入った絵があったので、クリックしました。

 

開かれたのは、「マスミンのピアノの小部屋」というブログで、ページの題は「エミール・クラウスとベルギー印象派展」へ、でした。

 

「エミール・クラウスとベルギー印象派展」のホームページへのリンクがあったので、開いたら、展示作品がいくつか紹介されていました。その一つを当ブログにコピーしました。(冒頭の絵です)

ブログ「マスミンのピアノの小部屋」でも、クラウスの作品をいくつか紹介しています。

 

エミール・クラウスという画家について、私は、見るのも聞くのも初めてですが、展覧会のホームページと「マスミン」のブログで紹介されている絵を見る限り、私の好きな部類の画家のようです。展覧会に行ってみたいのですが、会場の東京は遠いので、あきらめます。

 

エミール・クラウスはゴッホ・ゴーギャンと同年代の画家ですが、「後期」印象派の道に走らず、「前期」印象派の画風を守り続けたような気がします。機会があったら、作品を見たいのですが....

 

ところで、マスミンがブログで最初に紹介したのは、クラウスの絵ではなく、ピサロの絵でした。次のように書いています。「最初に、これはいい、と思ったのは、ピサロの[秋、朝、曇り]だった。」

新着フォトで紹介されていたのも、その絵でした。

 

つまり、私がこのブログを書くきっかけとなったのは、ピサロの絵でした。ピサロについては、稿を改めて書きます。 

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ゴッホ展―空白のパリ時代を追う

2013-07-05 09:31:13 | 文化

          

 

ゴッホ展ー空白のパリ時代を追う」を見てきた。一昨年の「フェルメール展」の時は迷わずに行ったのだけれど、今回は行くかどうか、迷った。ゴッホは見飽きたので、あまり気乗りがしなかった。オランダの風景画とかバルビゾン派の風景画の展覧会ならぜひ行きたいのだが。写実を基本とした風景画の素晴らしさを理解するようになって以来、私の絵画趣味はその分野に長くとどまった。

 

ゴッホも弟テオへの手紙の中で「オランダの昔の画家たちの素晴らしさ」について語っている。それなのに、彼は写実の伝統から少し離れ、彼独自の「個性的」な絵を描くようになった。そしてその「個性」こそが彼の絵を際立たせた。少し変わったその絵の中で、「並々ならぬ何か」が語られていることに、多くの人が気づいた。彼の死後、彼の絵は世界中の人に愛されるようになった。私にとっても、ゴッホは、最初に好きになった画家の一人である。

 

しかし、現在の私は、彼の絵の中でも、あまり個性的でなく、表現が控えめで、伝統的・写実的な作品を理想としている。たとえば、「跳ね橋」である。

 

今回の「ゴッホ展」に、私の分類によれば「跳ね橋」系の作品が、五-六枚ほど展示されていた。私は、その数枚の絵を見て非常に感動した。

 

ゴッホは「後期」印象派的な作品を多く描いたが、印象派以前のバルビゾン派的な絵も描いていた。それも、そうした系統の作品として最高のものを。

 

 

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シリア反政府軍はクサイルの戦いで完敗

2013-07-02 20:08:48 | シリア内戦

 反政府軍シリア北部でのの戦いがゆきづまり、打開策として、アメリカの支援のもとに、新たに南部ヨルダンの根拠地から攻勢を開始した。しかし結局さしたる成果をあげることができなかった。

この間アサド政権はシリア中心部の安定化につとめた。つまりホムス・ダマスカス間の危険を除去することである。ホムスから反政府軍を一掃することは、ダマスカスの安定に直結する。ホムスの西側はアサドの支持基盤であるアラウィ派住民が多く住む地帯であり、ホムスから西に走る道路は海港タルトゥスに通じている。タルトゥスにはロシア海軍の施設があり、ロシアからの補給物資の荷揚げ港として重要である。

      

 ホムスの南西に位置するクサイルという小さな町はレバノンに通じており、反政府軍の拠点となっている。外国からの支援がレバノンを通り国境を越えてこの町に入る。クサイルはホムスの反政府軍にとって補給の中継地点である。アサド政権としては、ホムス以前にまずこの小さな町の反政府軍を壊滅させなければならない。これがクサイルの戦いである。

   

クサイルでは5月初めから戦闘が続いていたが、519日、政府軍の総攻撃がおこなわれ、反政府軍は敗退した。

クサイルでの反政府軍の敗北が完敗に近いものであったことが、いくつかのメディアで報じられている。再起不能を思わせる負け方であり、少なくとも短期間での再反撃は絶望的である。                       思っていることをすぐに口に出してしまう米共和党のマケイン議員も述べている。「完全な負けだ。認めるしかない。新たに武器を与えても、事態は変わらないだろう。アメリカが直接乗り出すしかない。地上軍の投入は難しいとしても、パトリオットミサイルと戦闘機で、反政府軍の支配地を保護すべきだ。」

米軍の投入なしに、反政府軍だけでは勝利は不可能だ、というマケインの判断は注目に値する。

反政府軍の敗退で、再び米軍の直接介入が現実問題となり、緊迫した状況が続いている。

地図はBBCの「クサイルの重要性」という記事にあったものです。

   

 

 ①赤線は反政府軍が支配する道路。緑の線はアサド政府軍が支配する道路。

②オレンジ色の破線は、両者が支配をめぐって争っている道路。

③青色の小さな正方形は国境検問所。

 

地図の解説

①北部の道路がすべてオレンジ色、つまり反政府軍の支配するところとなっている。

②シリアの経済と政治の重心は西部にある。重要な都市を北から南に順にあげると、アレッポ・イドリブ・ハマ・ホムス・ダマスカス・ダラの5つである。

③ホムスに注目すると、ホムスから出る4本の道路のうち三本(東・西・北)は係争中であり、南に延びる一本のみアサド政権が確保できている。

 ④したがって、政府側はダマスカスから北に向かってホムスまでは行けるものの、そこで行きどまり。東に行けないのは我慢するとしても、北にはハマ・イドリブ・アレッポと重要な都市が並んでいる。また西の海岸部にには海港タルトゥスがあります。

⑤ホムスの反政府軍は孤立しており、レバノンからの補給に頼っている。ホムスはレバノンの北端の国境に比較的近い。

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