たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

コバニ日記 10月12日 ヘイサム・ムスリム

2016-01-31 15:57:23 | シリア内戦

 

コバニの北側はトルコとの国境である。ISISはコバニを東西と南から攻めた。トルコがクルド軍に対して友好的ならば、ISISの包囲は北側が開いた形になる。しかしトルコはクルド軍に対して敵対的だった。そのためISISの包囲が完成し、コバニ陥落は時間の問題となった。コバニには数千人の市民が残留しており、彼らは最後の日を予感しながら、恐怖の日々を過ごした。ISISの支配下にあるコバニの郊外の村では、農民が殺害された。ISISの砲弾の爆発音がだんだん近づいてくると、市民は同じ運命になるのではないかと、恐怖にとらわれた。

コバニが最も危機的だった109日ー12日の4日間のコバニについて、コバニ出身のジャーナリスト、ヘイサム・ムスリムが報告した。今回は13日の日記を訳した。

 

  ====[ コバニ日記 ]=====

        ヘイサム・ムスリム(Heysam Mislim)

≪12日≫

米国と有志連合がインジリルリク基地を使用することを、トルコが許可した、と12米国防省が発表した。コバニの外務副大臣は、西側諸国が最後の瞬間にコバニを救う行動を起こすと確信している。

 

今日は静かだ。朝は射撃音、スナイパーの発射音、たまに爆発音が聞こえたが、連続したものではなく、攻撃が弱まったようだ。時おり爆弾が落ちる音がしたが、スナイパー戦だけになった。

東西の地区で、両者のスナイパーが建物から建物へと移動し、相手をねらった。

コバニの中心部では、午後になると、数百人の市民が家々や防空壕か出てきた。爆弾の音は遠くなった。ある男性が私に言った。「コバニの北部地区に住む私の親族は、トルコへ避難しなかった。数百の家族がまだコバニにとどまっている」。

つまり数千人がコバニに住んでいるということだ。正確な人数はわからないが、クルド軍が敗北すれば、彼らは虐殺される危険がある。

たくさんの子供に出会った。私は自分の目を疑った。子供たちは突然姿を現したのだ。

    

クルドの役人は前線から離れた、市内の各地に防空壕を設営し、彼らを守っていたのだ。子供たちが遊ぶのを見、声を聞くのはすばらしい。彼らに危険が迫っており、できるだけ早くコバニを去るよう、役人たちは家族を説得している。

子供たちがいることは、コバニが生きていることの何よりのあかしなので、彼らがいなくなると火が消えたようで、暗い気持ちになってしまうが、役人の説得は正しい。この戦いは獰猛で、醜い。市の運命は予測できない。

 

今日、人々は一緒に集まり、コーヒーを飲みながら話し合ったり、必要なもを提供した。

およそ40人の女性が集まり、サツマイモと米をみんなのために料理した。食事が最初に配られたのは子供たちであり、続いて負傷者と女性だった。

老人の数人が冗談を言った。「我々が樹立し、防衛している自治政府の平等な民主主義では、男たちは格下げになった。男に対する配給はいつも後回しだ」。

かんづめの食糧はトルコ(北クルド)から密輸され、住民にも配られている。今日、コバニの役人も市の中心部に来た。彼らは全員武装していた。これらのクルドの政治家は前線で戦闘に参加しており、今日は住民と子供を守るために市の中心部に来たようだ。やがて彼らは子供たちを国境検問所近くの安全な地域へ連れて帰る。

肩に銃をかけたコバニ州の外務副大臣の

ファハト・ハク・イッサが人々と話し合いながら食事をしていた。コバニ州社会大臣のマフムード・バシャールも銃を手に持っており、副首相のハリド・バルカルも武装して人々の中にいた。

この日市民は防空壕から出て、外の空気を吸うことができた。近くに砲弾が落ちることもなく、人々は生き返ったようだった。戦闘員は最前線から離れることができ、 一時普通の生活に戻ったように感じた。

     

YPJ(女性防衛隊)の隊長がメガホンを口に、戦う決意を表明し、現在の戦況について人々に報告した。「私たちは最後まで戦い抜くと誓った。みなさんを守るために、多くを犠牲にします。仲間を励まし、戦っています。クルドには文化と音楽と詩があります。ですからクルドを滅ぼすことは不可能です。YPGYPJが約100名のISISを捕虜にしたことが確認されています。我々は彼らを殺しません。捕虜を殺害することは誤りです。我々は無法者のISISとは違います」。

数百人の戦闘員が、ここ中心地区集まっていた。一緒に運ばれてきた数名の負傷者は仮設病院に向かった。負傷者が出たが、スナイパーによるもで、全体的には敵は攻撃を中止している。

病院の前庭の床に横たわっている女性戦闘員が母をテーマとする歌を歌っていた。彼女は私に水をくれと言ったが、看護婦は医者が診察してからでないとだめだ、と言った。タバコを渡そうとしたら、それもだめだという。

本格的な医療処置が必要な重傷者は、トルコへ違法入国し、トルコの病院に運ばれる。軽傷者は治っていなくても、戦線に復帰する。ここには赤十字しも赤新月もない。石も看護婦も地元の人間である。彼らには限られた薬と医療機器しかなく、朝から晩まで負傷者を助けている。

ISISに対するコバニの抵抗を、全ての国が見捨て、人道的な国際組織も我々を見捨てたのは、悲しいことだ。

 

2人のISISがコバニの中心地区に侵入しようとしたが、YPGのスナイパーによって殺害された。この2人はISISは、市の中心地区を撮影し、ISISの支配を宣伝するつもりだった。それによってクルドの士気を打ち砕こうとしたのだ。一人はISISの黒旗を持った自分を撮影しようとしていた。

 

今日は市の西方でも爆発音がした。米国と有志連合の空爆だと、多くの人が言っている。ISISの多数の車両を破壊したようだ。私はタカ・ボタン(Taqa Botan)に行った。両者のスナイパーがあちこちに潜み、撃ちあっているので、注意しながら移動した。スナイパーの発射音は独特で、不気味だ。狙われたら、命中する確率が高いので、ぞっとする。

私はタカ・タネル(Taqa Tanel)にも行った。壊れた建物の中に、クルドの戦闘員のグループがいた。激しい戦闘があったようで、男性と女性の戦闘員たちの顔の表情は疲れ切っており、服はほこりまみれだった。死体の臭いがした。異様な、吐き気がするようなにおいだった。YPGの隊長が言った。「ISISは仲間が死んでもなんとも思わず、死体を捨て去る」。

クルドは仲間を大切にしており、戦死者の死体を放置しないように努めている。だから、死体を回収するためだけに、戦闘をおこなう。戦死者をしかるべく弔い、埋葬するためだ。

しかしYPJ(女性防衛隊)は戦死者を回収できないこともあった。ISISの連中が女性戦闘員の死体を持ち去ってしまった。連中は死体を切り刻み、首を切断した。

ISISは切り刻んだ死体や首を切断する写真をネットに公開している、とトルコに住む友人が教えてくれた。コバニを守る戦士たちに恐怖を与え、クルドの戦意を喪失させるためだ。そんなことををしても無駄だ。

それにしてもISISの死体のにおいはたまらない。

     

夕暮れに、私は中心部に戻った。親切な女性がツナの缶詰めをくれたが、ISISの死体のにおいが記憶にあるので、食べる気になれなかった。病気になったような気分だ。

将来のことは誰にもわからない。

ISISは、さらに多くの重火器と戦車をコバニに持ってくるかもしれない。YPGYPJが反撃に成功し、ISISを押し返すかもしれない。

将来について予測できない戦争だ。この戦争の将来は謎だ。この戦争自体が謎だ。

Newsweek     Heysam Mislim ;

Kobane Diary: 4 Days Inside the City Fighting an Unprecedented Resistance Against ISIS

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1012日、日本のアジア・プレスがコバニの住民から市内の状況を電話で聞いた。ヘイサン・ムスリムと同様、コバニの内部からの生の声である。

==[イスラム国包囲下のクルド人の町コバニ]====

  

 

〔シリア緊迫〕住民が苦境伝える

いまも町に残る住民が12日、砲撃にさらされる町の様子を電話で伝えてきた。イスメット・ハサン氏(48)は、地元暫定行政局で町の防衛責任者を務め、や住民支援などをおこなっている。【聞き手:玉本英子・】

 

◆市内はどういう状況ですか?

イスメット氏:戦闘は一段と激しさを増しています。イスラム国は戦車と大砲でひっきりなしに砲撃を加えています。すでに町の30パーセントが制圧されました。防衛組織だけでなく住民も銃をとって戦っています。ここはすでに1か月近く攻撃にさらされています。持ちこたえられるかどうかはわかりません。

 

◆米軍はイスラム国拠点に空爆をしているのですか?

イスメット氏:数機の戦闘機が上空に見えます。4、5回、やってくることもあれば、1日に10回以上目にしたこともあります。1度に10~12回、爆撃があります。1度に20回爆撃していくこともあります。イスラム国の施設や塹壕を破壊しているようですが、彼らの勢力は衰えていません。

 

◆現在、市内にはどのぐらい住人が残っているのですか?

イスメット氏:多くの住人は、できるだけトルコ国境ぎりぎりの場所へと移動しています。でも多くが国境を越えさせてもらえません。人民防衛隊の戦闘員のほかにも一部住民が市内にとどまっています。みんな最悪の事態を覚悟しています。

 

◆食糧は十分ありますか?

イスメット氏:最低限の食糧はなんとかあります。確保は容易ではありませんが、トルコの平和民主党(BDP)から支援食糧が届けられます。(※注:BDP=トルコのクルド系政党) 町の北のトルコ側以外のルートは遮断されているので、物資も入ってきません。

 

◆人民防衛隊は持ちこたえることができるのでしょうか?

イスメット氏:トルコからクルド人の義勇戦闘員が来るとも聞きましたが、トルコ軍がすべての国境ゲートを封鎖して以降は外からの応援はありません。このままでは武器も弾薬も尽きるでしょう。米軍の連日の空爆でもイスラム国の攻撃は止みません。先日も防衛隊の女性戦闘員がイスラム国拠点に対し、自爆攻撃をかけて戦死しました。町が陥落すれば、大量虐殺が間違いなく起きます。人民防衛隊の戦士たちの決意は固いですが、一般の住民は恐怖に脅えています。イスラム国は、人を殺すことをなんとも思わない集団です。制圧されれば、女性も子どもも死に直面します。

 

(全文)〔シリア緊迫〕イスラム国包囲下のクルド人の町コバニ・住民が苦境伝える(全2回)

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コバニ日記 ヘイサム・ムスリム著 10月11日

2016-01-20 22:47:36 | シリア内戦

 

 前回のコバニ日記は、1010日の途中で終わった。今回はその続きと11日の日記の訳である。10日、著者はムスタシュファ病院付近の戦場を見てきた。南部でも、主戦場の東部のに劣らぬ激しい戦闘が行われていると言われていたが、著者は実際に行ってみて、予想を超えた現実に衝撃を受けた。

これから紹介する11日の日記では、東部の戦場について語られている。東部へ行こうとするYPGに、著者は一緒に連れて行ってくれと頼んだが、危険だからと断られた。別のYPGに頼むと、今度は許可され、念願がかなった。市場へ行き、帰りにモスクに寄った。

  

  

   ====[ コバニ日記 ]====

        ヘイサム・ムスリム(Heysam Mislim)

10日の後半≫

市の中心部を歩いていると、21歳の戦闘員ディロバン・サレフに出会った。彼はクルドの警察組織「アサイシ」に所属していたが、今はYPGとともに戦っている。サレフはPYD(民主統一党)の本部の前に座って、銃を片手にタバコを吸っていた。悲しそうな顔をして、見るからに落ち込んでいた。彼の71歳の祖父がISISに首を切断されて死んだ。祖父は郊外のピナー(Pinar)村に住む農夫であり、立ち退きを拒否したため、処刑された。ISISはそれをネットで公開した。トルコにいる叔父がその写真を見て、確認のためサレフに電話してきた。

コバニの郊外で起きた、このように残酷な行為は、市内に残っている数千の人にとって、他人事ではない。ISISの攻撃が激化しており、砲撃が四方から迫ってきている今、このような話を聞くと恐ろしくなる。

 

クルドの役人と司令官たちは、残っている市民全員に、トルコかイラクのクルディスタンに行くようにと、せきたてている。約1400人が、今日コバニを出た。しかしまだ多くの市民が残っている。難民になるくらいならコバニで死ぬ、と彼らは言っている。

ひとりの老人が私に言った。「国境でトルコ兵に殺されるか、逮捕される危険がある。見捨てられた難民としてトルコの路上で暮すよりは、コバニの我が家で殺されたほうがましだ」。

砲撃の音が近づくとともに、大量虐殺の危険が迫っている。コバニの抗戦は続いている。

 

11日≫

夜明け前にISISの攻撃があったが、クルド軍が撃退した。越境地点はクルド軍の支配下にある。

市の中央部分での砲声が少なくなり、ISISの攻撃は東部と北部の地区に移っが、攻撃がときおり中断されるようになった。ISISが大打撃を受けたからだ。それと、破壊された建物の粉塵の嵐が原因のようだ。午前中、強風がほこりをまきあげ、建物は黒っぽい影のように見えた。視界が悪く、射撃ができない状態となり、ISISの進撃が停止した。

    

東部地区のISISは、数か所で、昨日の位置から後退したようだ。たくさんの女性兵士が乗ったYPJのトラックが東部地区へ行くというので、一緒に連れて行ってくれと頼んだが、隊長は「東部は戦闘が激しいから駄目だ」と言った。

私は、市の中央部の仮設病院の隣の家にとどまった。我々は全員朝食ぬきだ。11回の食事を、午後か晩に食べる。ただし、向かいの家で朝、コーヒーか茶を飲める。

私は今朝、そこに行った。市内に残っている人々が、みんなのために、飲み物を用意してくれる。戦闘員、医師看護婦など、いつも8人ほどいる。

  

この日、市民はコバニから避難した家族のことやコバニの運命について語りあった。ISISがこのまま攻撃を続けたらどうなるだろうと、人々は不安になった。ラジオが1台あり、ニュースの時間になるとみんな集まった。アラビア語の地方放送だけでなく、国際放送もコバニについて報道していた。「コバニが陥落した」と放送されると、人々は怒って「嘘の報道をするな」とののしった。コバニの抵抗について放送されると、「決死の若者たち、男子と女子、万歳!」と声援した。もう一人がつけ加えた。「この戦争は我々が勝利する。コバニはスターリングラードだ。ISISの鼠どもの墓場になるだろう。」

また戦争後の生活について、冗談を言った。「女性から鍋を洗えと言われるだろうな。『さっさと洗って。男性は、もう昔のような資格はないの。私たちの町を守るために、女性が率先して戦ったのよ』」。

飲み物を出してくれる家は6人家族家族で、父親以外は戦闘員になり家にいなかったが、その父親も今は戦闘員である。

仮説病院は道の反対側であるが、救急隊員があわてている時、誤ってここに負傷者が運び込まれる。その時は、誰かが看護婦を呼んでくる。

 

いつもは冗談いう年老いた農夫が黙りこくっているので、何かあったと感じた。彼は悲しい事実を知ったのである。コバニから16km南にあるタル・ハザール村に住むアラブ人が、彼に電話してきた。

ーー55歳の農夫アッマル・ギラールが妻と子供たちの目の前で、ISISに首を切断された。その後、妻は連れ去られた。ーー

コバニでは、毎日死傷者が出ている。しかし市民がこのように非道な殺され方をすると、人々は悲しくなる。

この2年間コバニの人々は、クルド人難民だけでなく、スンニ派、キリスト教徒、アラウィ派の難民を快く迎え入れた。コバニは、数万の非クルド難民を助けてきた。コバニが絶望的な今、だれも助けてくれない。

 

昼ごろ、戦闘の激しい東部地区へ行くことができた。YPGの補給車の運転手が、同行を許可してくれた。我々が着くと、銃撃戦の真っ最中だった。狙撃手も互いに撃ちあっていた。緊迫した状況だったが、YPGは喜びで有頂天だった。こちらに近づいてくるISISの戦車を破壊したからあった。

 

野戦部隊の隊長の話によれば、戦車破壊とは別に、午前中YPGISIS兵を30名近く殺害した。ISISが市中深く侵入しようとしているのに気付き、YPGは兵を集め、待ち伏せした。ISISが幹線道路に入ろうとした時に、四方から一斉射撃を浴びせ、全員を殺害した。隊長はそのうちの19人の死体を確認した。

幹線道路が走っているタカ・テネル(TaqaTenel)地区は、繁華街である。婦人服を売る店が集まっており、戦争前は、夕方になると市場は人でにぎわっていた。結婚したばかりの女性や婚約中の女性、母や娘が通りや店にあふれていた。今は建物が破壊され、服や口紅などが瓦礫の中に散らばっている。

突然狙撃銃の発射音がして、続いて機関銃の連射が聞こえた。物思いに沈んでいた私は、はっとした。YPGの隊長が補給トラックの運転手に、私を連れてすぐに帰れるように言った。出発すると運転手が言った。「近くのラシード・モスクに寄って、食料と弾薬を兵士たちに渡さなければならない。」

モスクの状況を見れることになったので、私は幸運だった。

運転手はモスクの近くで車を止め、私たちは半壊の建物の中に入っていった。中に、YPGYPJ(女性防衛隊)の戦闘員がいた。周囲の建物にも戦闘員が配置されていた。ちょうど銃撃戦が終わり、小休止になっていた。双方のスナイパーだけは、相手をねらっている。戦闘員の半数はすっかりほこりだらけになっている。午前中激しい戦闘があり、数人がでISISの陣地に侵入し、小型トラック2台を爆破した。この強行作戦で、YPG3名が犠牲となった。

運転手は水と缶詰の食料、弾薬を戦闘員に渡した。弾薬はカラシニコフの弾2箱、狙撃中の弾2箱である。他に手りゅう弾1箱である。

 

我々が市の中心部に帰ると、40人の戦闘員が、市の北東地区の越境地点に行こうとしていた。越境地点の戦況はよかった。

ーー越境地点を守備しているYPGYPJが、ISISが繰り返し試みる攻撃を撃退した。するとISISは爆弾をぎっしり積んだ3台の車で自爆攻撃をしかけてきた。しかしその3台の車はクルドの陣地に近づく前に、爆破された。ISISは戦意を失い、撤退した。

今日のところは、越境地点は守られた。同時にコバニの人々も守られた。

YPGの一人がクルドの楽器(Saz)を弾きながら歌い、他の戦闘員がそれに合わせて踊った。彼らは士気が高かった。越境地点に出発だった。歌を歌った戦闘員が私の肩を抱き、「北の検問所から帰らなかったら、思い出してくれ」と言った。

 

祖父を殺されたアブ・ナシフに再び会った。一本の煙草を2人で吸った。今日ISISが一歩も前進できなかったことを知って、彼は喜んだ。しかし彼の口からいつもの冗談は出なかった。

 

(原文) Neesweek /    Heysam Mislim ;

 

Kobane Diary: 4 Days Inside the City Fighting an Unprecedented Resistance Against ISIS

 

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コバニ日記 10月9日・10日 2014年

2016-01-15 00:13:55 | シリア内戦

 

10月19日、米軍の輸送機が武器・弾薬をコバニに投下した。10日後の31日、重火器を装備したペシュメルガがにコバニに入った。これによって、陥落寸前のコバニは救われた。

軍事評価によれば、ペシュメルガが運び入れた重火器の数が少ないないので、クルドの逆転勝利は期待できないとされた。しかし、クルドの抵抗をもちこたえせたという点では、決定的な意味があった。クルド軍は弾薬が尽きかけており、敗戦は時間の問題だった。敗北寸前の状態から、抵抗継続可能になったことにより、翌年の勝利につながった。

補給の面で、文字通り孤立無援だったクルド軍は、米軍とイラクのクルド軍から補給を得られ、以後も当てにできた。クルド軍の士気はもともと高かったが、勇気を与えられた。武器においてISISの方が依然として有利だったが、心理的には、この時逆転した。それが戦闘に反映された。11月11日、英国の人権団体が報告している。「猛烈なクルドの反撃に、ISISはショックを受け、ぼう然自失となった。少し前までは、ISISは数日後の勝利を確信していた」。

コバニが最も危機的だった10月9日ー12日について、コバニ出身のクルド人ジャーナリストがコバニ内部から報告している。直接体験者の報告を読むと、戦況が手に取るように伝わってくる。

コバニ戦が始まっても、米国は小さな町にすぎないコバニを軽視していた。最初に関心を持ったのは国際メディアであるが、そのメディアと米国を動かしたのは、トルコのクルド人かもしれない。コバニ内部からの報告を読んでそう思った。私がこの「コバニ日記」を読んでひしひしと感じたことが、ムルシトピナルやスルチのクルド人には、友人・親族を通して伝わっていたのだ。トルコ側のムルシトピナルでは爆発音が聞こえ、炎や煙が見える。コバニの状況を知って、トルコのクルド人が突き動かされ、それが米国を動かしたのだ。

    

「コバニ日記」と題するヘイサム・ムスリム(Heysam Mislim)の報告は、10月15日のニューズ・ウィークに掲載された。著者はもともとクルドの新聞のために書いた。地図は原文にはない。

====[ コバニ日記  ] ======

10月9日    

コバニはまだ生きており、元気であることをクルドの人々に知ってもらうために、この報告を書く。ISISの絶え間ない攻撃に対し、コバニは前例のない、信じられないような抵抗をしている。敵はあらゆる手段を用いてコバニの人間を殺戮しようとしている。

いくつかの国際メディアは、コバニはすでに陥落したと報道している。これはコバニの抵抗を打ち砕こうとする嘘の宣伝である。コバニがすでに陥落したなら、私のこの報告も存在しない。

このような虚偽のニュースに対抗するために、私はコバニに残留している。私はコバニの人々と共に、ここで死にたい。なぜなら、コバニを捨てても、解決にならないからだ。クルド人は至る所で殺されている。ここで、あるいはシリアのどこか、またはトルコのどこかで殺されている。私はむしろここにとどまりたい。ジャーナリズムを通じてコバニの抵抗に役立つなら、私は喜んで犠牲を払いたい。

包囲され、食料と燃料と武器が不足していながら、コバニの人々は孤立無援で戦っている。

6月、ISISはモスルの5個師団を1日で打ち負かした。しかしコバニはISISに対し、1か月抵抗を続けている。戦闘が始まったのは1か月前であるが、コバニは1年近く、シリアの他の都市や町から切断されている。1年間の封鎖に対する抵抗は歴史に記されるに値する。コバニの悲劇的な、そして英雄的な歴史を語ることに、私も貢献したい。

         

市外と市内の両方で、激しい戦闘が続いた。敵に包囲され、市民の結束は強まった。抵抗を維持するため、誰もが志願兵になった。

医師と看護婦は仮説病院で無給で働いている。店主は食糧と飲みもの、その他を無料で戦闘員と市民に配り、店の中は空になった。

前線で戦っている息子や娘を持つ母親が集まり、みんなのために料理をしている。全員が自分のものを分け与えているので、お金は不要になった。困難な時期に互いに助け合い、励ましあって、抵抗を支えようとしている。全員が一つの家族の一員のようだ。老人も若者も武器をとった。

           

今日私は、PYDの共同議長アスヤ・アブドッラー(女性)とコバニ州閣僚エンベル・ムスリムがカラシニコフを手にして、東部地区に向かうのを見た。ISISはいくつかの重要な建物に侵入し、東部地区は全面的な都市ゲリラ戦になっている。特にシナーアの工場敷地では激しい戦闘が休みなく続いている。

     

郊外でも、ムシタヌール(Mushta Nur)丘付近やミシャの近隣で戦闘がつづいている。

タクサ・アラバン地区での市街戦の際、空爆がISISの兵たちに命中し、建物もろとも吹き飛んだ。

西部地区でも戦闘があったが、ISISは進むことができなかった。

コバニ市の西の郊外にあるグルミト村のISISの拠点が、空爆された。YPGとYPJ(女性防衛隊)が、この村を数日間、守っている。

ISISは休みなく市内を無差別に砲撃している。重砲と迫撃砲の砲弾が、10分おきに市の中心部に落ちる。破壊された建物から灰色の噴煙があがり、空を覆う。

これは通常の戦争ではない。ISISはコバニの人間を皆殺しにするつもりだ。

我々は、落ち着いて眠るこができない。平常な生活は何一つない。どんな場所でも、どんな時間でも、人間は眠れるものだ。しかし、1時間だけでも熟睡したい。

銃声と砲弾の音、市内のあらゆる場所が破壊された光景が精神をおかしくする。

人々は武装し、家の外で敵を見張り、常に身構えている。兵士たちは、警備の任務が交代制でなく、休みなしだ。歩く時も、寝る時も、ライフル、手りゅう弾、ピストルを手から離さない。

全員が眠らずに警戒しているのだから、自分一人ぐらい眠ってもかまわないが、眠るふりをして、しばらく休んでいるだけだ。家の中でちゃんと眠りたいと思うのだが、眠っている間にコバニの人が皆殺しになるかもしれないという恐怖に襲われる。眠っている間に、私の枕元に砲弾が落ちるかもしれないという考えが、頭をよぎる。こうして私は一睡もできない。他の人もそうだろう。

電気と水と薬がない。武器が不足している。何もかも欠乏しており、すべてが制限された量しかない。食べ物、コーヒー、茶のひとり分は、わずかである。

ISISが水道管を全部爆破してしまったので、井戸を掘った。人々は発電機のところへ行って携帯電話を充電している。発電機の電力は不充分だ。

東部の激戦地区から戻ってきたYPGの兵士が言っていた。「ISISの砲手には、砲弾が無制限にある。だから、面白半分に撃つこともある。これとは逆に、YPGとYPJ(女性防衛隊)は一発の弾も無駄にしないように、正確にねらって撃つ」。食料と同じように弾の量も制限されている。

情けないほど武器が不足している。今日2人の老人に出会ったが、一人は散弾銃を、もう一人は猟銃を持っていた。兵士の銃は、通常カラシニコフ(自動小銃)だ。

        

コバニでは薬が不足している。トルコのクルド人がバック・パックの中に入れて、スルチから密輸している。時には、食料と燃料をスルチから密輸する。

今日、スルチから薬を運んで来た5人のバックパッカーに、人民議会会で出会った。トルコの国境警備隊が発砲してきたが、彼らは無事逃げ切ったという。

トルコ政府は国境を閉鎖しており、国境を越えようとする者が民間人であっても、警備隊は容赦なく銃撃する。密輸は命がけである。

国境警備隊は今日、トルコへ行こうとした158人のコバニ市民(クルド人)を逮捕した。彼らは、国境近くの村に収監されている。その中の一人の少女が携帯電話を隠し持ていたので、私は彼女と話した。少女は次のように語った。

ーーー国境警備員は、158人に対し、コバニのISIS地域に送り返すぞ、と脅した。「コバニ市民はすでに避難しているはずだ。トルコ政府は難民の受け入れを終了している。今コバニにいる者は、密輸目的で再びコバニに入った者だ」。ーーーー

これは我々が包囲されていることを示す一例だ。あらゆる圧力と禁輸に締め上げられ、四方からISISのテロ攻撃をうけながら、コバニは戦う意志を失っていない。

将来のことはだれにもわからない。明日は明日の風が吹く。

≪10月10日≫

米軍の空爆が続き、クルドの役人が「ISISは市の境界まで押し返された」と発表した。米軍は「クルドは持ちこたえている」と述べた。

しかし今日、市の中心部での市街戦と砲撃はさらに激化した。住宅地に落ちた砲弾が爆発するのを見た。爆発音がいたるところから聞こえた。

ISISはこれまでにないスケールの攻撃をしかけてきた。今日のすさまじい砲撃は、ISISが市の内部に向かって大攻勢をかけるための地ならしだ。ISISの砲手は新たに多くの重砲と重装備を供給されたようだ。ジェラブルスとタルアビヤドから多数の援軍が来ているようだ。市の西の公園の近くで戦闘が行われている。

ムブタル(Mubtal)のISISの陣地と、ムシタヌール(Mushta Nur)丘のISISが空爆された。しかし市内の東部と南部で、激しい市街戦が起きている。

私は今日、南のボタン(Botan)地区に行った。シリア内戦でこれほど恐ろしい市街戦を、私は今まで見たことがない。戦場は混乱しており、敵味方が入り乱れている。周囲のすべての建物に立て続けに爆弾が落ち、あちこちで戦闘が起きている。YPGの戦闘員が、危険だからここを離れろと私に言った。そこは、信じられないほど、ほこりが舞い上がっていた。ISISの戦車が破壊した建物の破片が、あたり一面に積み重なっていた。

私はISIS兵の死体を数えた。YPG兵士が、「今朝、破壊された建物の中に隠れ、待ち伏せして殺した」と説明した。2人のYPGの死体があり、5人のYPGが重傷を負っていた。重傷者は救急車に乗せられ、仮設病院に向かった。救急車は古びていて、窓が破れ、ドアに弾丸の穴があった。平服のクルド女性が運転し、女性看護婦が付き添い、この場所はほこりがひどく、私は呼吸が苦しかった。しかしほこりと瓦礫の中で、YPGの兵士は戦い続けていた。彼らはこの空気に耐えられるのだろうか。私が見ているものは、現実だろうか。

         

中央市場に向かおうと思ったが、ムスタシュファ病院周辺の市街戦のために、足止めされた。(病院の位置は地図参照)

私は病院から200mのところにいたが、迫撃砲弾が空から降ってきた。病院は無人だったので、幸いだった。そうでなけれれば、大勢の死者が出ただろう。

市の東部と南部では、10分おきに、銃声と砲声がした。ISISは数種類の重砲で町を破壊している。

クルド軍の武器は中古のカラシニコフ、RPG、自家製の爆弾である。これは不平等な戦いである。ISISの武器が優越していることを、世界が知っている。しかしコバニを守る戦闘員と市民の士気は信じられないほど高い。

YPGとYPJ(女性防衛隊)は何のために戦い、何と戦っているのか、知っている。

    

女性兵士が負傷した足をひきずりながら、ムスタシファ病院の近くの建物の角に行き、反対側の敵の陣地をねらって、撃ち始めた。彼女のような兵士たちの勇敢さは、言葉で表現できない。

肩に包帯をした兵士もいた。彼らは「同志!」と声をかけて、励ましあっていた。

 

私はなんとか無事に市の中心部に戻った。

[原文)  Heysam Mislim ;

Kobane Diary: 4 Days Inside the City Fighting an Unprecedented Resistance Against ISIS

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コバニの自由シリア軍 10月9日 2014年

2016-01-09 21:29:15 | シリア内戦

 

ペシュメルガは10月31日にコバニに入った。その2日前に自由シリア軍がコバニに入っている。自由シリア軍がコバニに入るのは、これが最初ではない。9月13日のコバニ戦の開始とほぼ同時に、別の自由シリア軍がコバニに入っている。最初の自由シリア軍について、「NOW」というメディアが取材している。NOWの記者が「ラッカ革命旅団」の指導者にインタビューした。インタビューを紹介する前に、ラッカの自由シリア軍について、ふり返ってみたい。

自由シリア軍がYPGの援軍となることは、変な話である。これまでクルドの敵だった自由シリア軍が、コバニに入ると聞けば、誰しも「それどういうこと?」と思う。ラッカ革命旅団の「戦歴」をたどってみる。

2012年と2013年、ハサカ県とラッカ県北部のクルド地域で、自由シリア軍はYPGと戦ってきた。特にセレカニエでは2か月間の激戦となった。

テルアビヤドで、ラッカ革命旅団は反政府軍の一翼としてYPGと闘ったと思われる。ラッカ革命旅団にとって、本拠地ラッカの北方は勢力範囲であり、クルドと衝突する地域である。

      

この地図において、セレカニエがクルドの支配地となっているのは、2013年の2月にYPGが自由シリア軍に勝利したからである。しかし、クルド支配地の中にありながら、テルアビヤドだけは反政府軍の支配地となっている。

2013年3月5日、反政府軍はラッカのアサド政府軍に勝利し、ラッカの支配者となった。反乱軍は次の諸グループである。

①自由シリア軍 ②ヌスラ戦線 ③アフラール・シャム ④フサヤ・ビン・ヤマン旅団

①の自由シリア軍とは、今話題にしているラッカ革命旅団のことである。

この時点でISISはシリアに登場していない。ISISはこの直後の4月に、シリアでの活動を宣言する。ヌスラの友軍という立場で、反政府軍に参加する。しかしISISが反政府軍に協力した期間は短く、反政府軍の支配地を徐々に横取りしてゆく。

翌年の2014年1月9日、ISISはラッカの反政府軍を攻撃した。ラッカ革命旅団はラッカから撤退した。1月13日、ISISはヌスラとアフラール・シャムをラッカから追い出し、ラッカに単独支配を確立した。この時、ISISに対し最後まで抗戦したのはヌスラだった。

5か月後の2014年6月、ISISはモスルで勝利し、その勢いに乗って、デリゾール県とラッカ県の支配を固めた。

     

ラッカを追われた「ラッカ革命旅団」は行き場がなくなる。ラッカの北方に撤退したが、ISISに囲まれており、危険である。北端のコバニには別の敵であるクルドがいる。生き残るためには、2つの敵のうちの、ましな方と和解するしかない。ましなのはクルドである。しかしYPGに直接話を持ちかけることは、いまさらできない。両者の仲介をしたのは、アフラール・シャム(シリアの自由人)である。

1200人の部隊が窮地に陥っても、自由シリア軍の指導部は頼りにならず、ラッカ革命旅団は独自の判断で、YPGと和平した。

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NOW: コバニに来たラッカ革命旅団は何人でしたか。

アブ・サイフ:我々は、1250人だったが、今は300人だ。

NOW:どうして減ってしまったのですか。

アブ・サイフ:ラッカを撤退したときは1250人だっったが、こちらに来てから全員に食料を配れなくなり、去らせた。弾も尽きていた。彼らは、職を求めてトルコに行った。

NOW:あなた達のグループがコバニで戦っていることを、誰も知りもせんよ。

アブ・サイフ: ラッカ革命旅団の宣伝活動が不足しているからだ。重要なのは宣伝ではなく、戦うことだ。我々はコバニで、クルドを助けるためにだけ戦っているのではない。ここコバニに住んでいるのが誰であれ、コバニはシリアの土地だ。その土地をISISが攻撃しているのだから、防衛するのが義務だ。

ISISと比べ、我々は時代遅れの作戦をしてきたかもしれない。メディアの重要性に気づかなかった。今ではISIS以外のグループも、広報をビジネスにしている。戦闘をする際には必ず撮影し、ユーチューブに投稿する。それによって援助を得る。我々もそうしたことを少しはしたが、彼らの専門的なやり方には及ばない。

 

NOW: 以前には、自由シリア軍はYPGと戦っていました。その頃自由シリア軍はしばしばISISを同盟者としていました。現在コバニでYPGを助けているのは、一時的な方便ですか。それとも長期的な目標として、YPGに協力するつもりですか。

アブ・サイフ: ISISがラッカに来るまで、われわれははYPGと戦っていた。しかし、ISISがラッカに来た時、YPGとの戦闘をやめ、ISISと戦うようになった。結局我々は、ISISによってラッカから追い出された。我々はラッカ市内から撤退して、北方の郊外に移った。コバニに近いところだ。

この段階で、我々はYPGと停戦した。我々は行くところがなかった。ISISに囲まれ、少し北にはYPGがいた。アラブのことわざに、「敵の敵は味方だ」とある。

アフラール・シャム(シリアの自由人)が停戦を仲介した。それで我々は停戦を決意した。停戦期間は6か月だ。我々はクルドに近づき、友人になった。それで、さらに北に移動し、コバニに入った。YPGとISISの戦いが始まっていたので、我々はYPGの同盟者として戦うことになった。     (後半に続く)

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ラッカ革命旅団の1250人の半数がトルコに去り、600人が残ったが、現在は300人になってしまった。戦死者の数を述べていないのが、残念である。

YPGは敗北に近づいており、食料と弾薬が不足し、援軍を活用することさえできない。情けない状態である。YPG(人民防衛隊)は戦い続けようとしているが、政治部門のPYD(民主統一党)はもはやあきらめているようである。インタビューの後半では、クルドとラッカ革命旅団が共に追いつめられた状況が語られる。

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NOW: 米国とトルコが望んでいることですが、YPGは自由シリア軍の一員になるでしょうか。

アブ・サイフ: PYD(民主統一党)が自らのアイデンティティーを捨て、自由シリア軍の仲間になることはないと思う。しかし、コバニに来てから、PYDが自由シリア軍に参加すると申し入れてきた。自由シリア軍の旗の下で戦うというのだ。そうなれば、トルコ軍がコバニの救援にくる条件が整う。この話はまだ交渉の段階で、決定されたわけではない。

NOW: コバニ市内の現在の状況を教えてください。ISISはどの地区を占領していますか。

アブ・サイフ:現在の状況はみじめだ。残念ながら、我々の戦闘員の半分が撤退せざるをえなかった。数か月前ラエの郊外でISISと戦っていた時から、状況は非常に悪い。対戦車用の武器を我々に与えてくれる者はいない。我々は、RPGを持っているが、ISISの装甲車には通用しない。ISISは、モスルで手に入れた頑丈な装甲車で攻めてくる。

ISISがコバニの攻撃を開始すると、状況はさらに悪くなった。我々は援助を求めたが、誰も何一つ提供してくれなかった。

戦車を攻撃する武器がなかった。ISISが防衛線を突破し、コバニの市内に侵入してから、道路を隔てて争う市街戦になった。戦闘員の命を救うため、半数を撤退させた。

一作日、ISISは市の半分を制圧していた。しかし我々(YPGと我々の旅団)は、撤退する前に、自動車爆弾と爆弾を仕掛けた。爆弾は家の中にも仕掛けた。それで、ISISが支配する地区でいくつもの爆発が起きた。ISISはうろたえ、我々は市のはずれまで彼らを押し戻した。彼らは今市の境界付近にいる。

NOW:トルコがPYDに武器を与えないのは当然だが、なぜ君たちに与えないのでしょう?

アブ・サイフ:我々が武器を手にすれば、結局PYDを利するからだろう。トルコはそれが嫌なんだ。

ラッカにいた時、我々は、トルコの援助を得ていた。今はトルコの援助が受けられなくなったが、我々は信義のために戦っている。クルド人はシリア人だ。突きつめて考えるなら、彼らは自分たちの土地と女性・子供のために戦っている。

我々は正当な理由で戦っている。国際社会は我々を援助してほしい。

(原文)  FSA fighting alongside Kobane Kurds

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