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リヴィウスのローマ史はどこまで史実か③

2024-12-25 16:02:50 | 世界史

ローマは紀元前753年に建国されたことになっているが、最初から753年とされていたわけではなく、諸説あり、紀元前1世紀に753年とされたと言われている。諸説あったのは確かで、しかもローマではようやく3世紀末に初めて歴史書が生まれ、その中で建国の年が登場する。これ以後、建国の年がいくつか提唱された。ローマ人に先んじて、シチリアのギリシャ人が3世紀前半にローマの建設は紀元前814年と書いている。以下に建国の年のばらつきを示す。最初の3人は歴史家であり、残りの2人は劇作家・詩人である。

⓵ ティマイオス       ( Timaeus of Tauromenium)      紀元前814又は813年
②クイントゥス・ファビウス・ピクトル( Quintus Fabius Pictor) 紀元前748年または747年          紀元前1100年
③ルキウス・キンキウス・アリメントゥス(Lucius Cincius Alimentus)前729又は728
④グナエウス・ナエヴィウス(Gnaeus Naevius)
⑤ クイントゥス・エンニウス ( Quintus Ennius )  紀元前1100年又は884年
次にこれらの著者の略歴と、どのようにしてローマ建設の年を知ったかを説明する。

⓵ ティマイオス(紀元前356又は350ー260年)         814年
  ティマイオスはシチリア生まれのギリシャ人であり、古代の著者たちから最も影響力のある歴史家とみなされていた。彼はシチリアのタオルメニウム(現タオルミナ、メッシナ海峡の南)に生まれた。彼の父アンドロマクスはシラクサのディオニシウスを退け、タオルメニウムの支配者となった(紀元前358年)。
ティマイオスは晩年アテネに15年住み、イソクラテスの弟子ミレトゥスのフィリスクスに学んだ。ティマイオスの主著「歴史」はアテネで書かれた。ティマイオスは265年シチリアの故郷に帰り、間もなく死んだ。
ティマイオスの「歴史」は38巻からなり、4つの部分にに分かれている。
⓵ギリシャ史(都市国家の成立からポエニ戦争まで)
②初期のイタリア・シチリア史 
③シチリア史
④シチリア・ギリシャ史
⑤シチリアの僭主アガトクレスについて

ティマイオスは年表の作成に取り組み、オリンピアの競技の年を基準とし、アテネの支配者の即位年を決定した。同様にスパルタの支配者とアルゴスの巫女の即位年を決定した。ティマイオスの年表はギリシャの歴史家の間で広く使用された。
ティマイオスはローマの勃興に注目した最初のギリシャ人だった。ローマとカルタゴの戦争の結果が西地中海の状況を一変させると、彼は予見していた。ローマに関心を持ったギリシャ人として、彼はポリュビオス(紀元前200ー118年)の先人だった。
ティマイオスはローマの建国を紀元前814年とした。彼はシチリアで生まれ育ったギリシャ人であり、イタリアの歴史に関心があった。彼の考えでは、ローマは古い都市であり、ローマが建設されたのは、ギリシャ人がイタリアに植民する少し前だった。ギリシャ人のイタリア植民は紀元前8世紀に始まった。彼はどのようにしてローマの建国の年を知ったのだろう。彼がローマに関する情報を得たのは紀元前4世紀末から紀元前3世紀前半である。この時期のローマ人またはイタリア南部のギリシャ人から情報を得たのだろう。または彼の先人であるシチリアの歴史家から学んだのかもしれない。シラクサのアンティオコスは南イタリアとシチリアへのギリシャ人の植民について書いた最初の歴史家である。彼の生まれた年も没年もわからないが、彼が執筆活動をしたのは紀元前420年ごろである。彼はヘロドトスより年下で、ツキジデスと同時代人である。アンティオコスは二つの著書「420年以前のシチリアの歴史」と「イタリアへの植民の歴史」は古典となった。ツキジデスは「420年以前のシチリアの歴史」を活用し、ハリカルナッソスのディオニシオス、ストラボン、シケリアのディオドロスは「イタリアへの植民の歴史」をしばしば引用した。
「イタリアへの植民の歴史」がローマの建国や王制の時代について触れていたかはわからないが、ティマイオスはローマの建国について、アンティオコスから学んでいたかもしれない。
ティマイオスは共和制初期の出来事の年代を記録しており、クルシウムとアリチアの戦争を紀元前504年と書いている。
ローマの最後の王タルクイニウスは王位を失い、亡命したが、再起を図り、エトルリアの都市クルシウムの王にローマ攻撃を持ち掛けた。クルシウムの王ポルセンナは話に乗り、ローマに向かった。クルシウム軍はローマを包囲したものの、決着がつかず、結局ローマと和解した。ポルセンナは無駄な出兵となるのを避け、息子に軍の半分を与え、ラテン都市アリチアを攻撃させた。アリチアはラテン連盟とギリシャ都市クマエに助けを求めた。援軍が到着すると、アリチア軍は守りから攻撃に転じたが、クルシウム軍に蹴散らされてしまった。隠れていたクマエ軍がクルシウム軍の背後を襲い、クルシウム軍は破れた。生き残ったクルシウム兵はローマに逃げ、かくまってくれと頼んだ。彼らはローマに住むことを許され、彼らの住む地区は「エトルリア人の地区」と呼ばれた。以上は、リヴィウスが書いていることである。アりチアはアルバ湖の南方のラテン人の都市である。クルシウムは現在のキウジで、トスカナ地方南東部、ウンブリア地方との境界に近い場所にある。アりチア戦に、ギリシャ都市クマエが参加していているので、ティマイオスの情報源ははクマエかもしれない。ティマイオスはこの戦争の年を紀元前504年としているが、ローマ側は紀元前508年としている。 
また、ティマイオスは、ガリア人のローマ占領を紀元前386年と書いている。おそらく、情報はクマエだろう。ギリシャ人の都市クマエはエトルリアと交流があり、エトルリアの出事に通じていたようである。紀元前1世紀のシチリアのギリシャ人ディオドゥルスは次のように書いている。「紀元前386年ガリア人はローマを占領した。次にガリア人は南イタリアへ遠征してから、故郷に帰る途中、エトルリア人の攻撃を受けた」。
ギリシャ人の間では、ガリア人の襲来は紀元前386年となっているが、ローマ側は紀元前390年としている。

②クイントゥス・ファビウス・ピクトル(紀元前270 ー 215から200年の間)
  ピクトルは紀元前230代のリグリア人やガリア人との戦争に下級将校として従軍した。帰国後彼はプラエトルになった。紀元前218年ハンニバルがイタリアに侵入し、第2次ポエニ戦争が始まった時、ピクトルは元老になっていた。ハンニバルに負け続けていたローマは、紀元前216年8月カンネーで大敗北を喫した。困り果てたローマの元老院はギリシャの聖地デルフィの神の予言を聞くことにした。使節の神官たちに随行し、ピクトルはギリシャに向かった。彼の第2次ポエニ戦争への関わりは、これだけである。紀元前215ー200年、ピクトルは「年代記(ローマ史)」を執筆した。
ティマイオスがローマの建国を紀元前814年としていることを、ピクトルは知っていたかもしれないが、採用しなかった。ピクトルはローマ側の記録に従って、建国の年を紀元前748年とした。彼がローマの歴史を書いた動機は、第2次ポエニ戦争におけるローマの正当性を対外的に主張するためだった。それで彼の年代記はギリシャ語で書かれた。ピクトルはギリシャの歴史書のスタイルをローマに導入した最初のローマ人である。当然ピクトルはギリシャの歴史家の著書を読んでいたに違いない。また彼は、シチリアの二人の歴史家、アンティオコスとティマイオスのイタリア史を読んでいた可能性が高い。しかしギリシャの歴史家はイタリアのギリシャ都市について多くのペ-ジを割いたのであり、ローマに関する記述は少なかったに違いない。それに対し、ローマ側には十分な記録があった。その結果彼はローマの歴史を書くにあたり、ローマ側の記録を参考にしたのである。

③ルキウス・キンキウス・アリメントゥス(生まれた年と没年は不明)
  アリメントゥスは紀元前210年にシチリアのプラエトルに任命され、翌年(209年)、前プラエトルとして引き続きシチリアにとどまり、2つの地方を支配した。その後彼は元老になり、裁判官が金品を受け取ることを禁止する法律(キンキウス法)を提案し、可決された。アリメントゥスは第2次ポエニ戦争(紀元前219ー201年)で捕虜になった。ハンニバルは捕虜のアリメントゥスにアルプス越えについて詳しく語った。紀元前202年ローマがザマ(カルタゴ本土)で勝利し、アリメントゥスは釈放された。帰国後彼はローマの歴史を書き、ファビウス・ピクトルに続く歴史家となった。主著「年代記(ローマ史)」はギリシャ語で書かれた。アリメントゥスは大神官の年代記、及びその他のローマ側の記録を、ギリシャ語に翻訳しながら、ローマ史をまとめ上げた。彼の客観的な著述はハリカルナッソスやポリュビオスによって称賛された。紀元後4世紀のローマの歴史家フェストゥス(Festus)は、しばしば彼の年代記を引用した。近代ドイツのローマ史家ニーブール(Barthold Georg Niebuhr)はアリメントゥスの批判的な手法を高く評価し、次のように述べた。「アリメントゥスは古代の記念碑を調査し、過去の歴史を探求することによってローマ史に新しい光を当てた。彼は他の歴史家と違って、初期ローマのラテン都市に対する勝利を抑制的に描いた」。
残存している断片によれば、アリメントゥスはローマが建設された年を第12回オリンピア競技の4年後(紀元前729又は728年)としている。これについてニーブールは注目すべき見解を述べている。「ローマの建設は第5代国王タルクイニウスの132年前という記録が存在し、ローマの歴史家はこの記録を採用した」。
第5代国王タルクイニウスがローマの暦を改革するまで、1年は10か月しかなかった。旧歴の132年前は、12か月から成る新暦では110年前である。アリメントゥスは5代国王の即位年を知っており、その110年前を建国の年とした。しかし、1年が10か月しかなかったというのはアリメントゥスの誤解であり、ロムルス歴においては、10か月の後に2か月分(約61日)の冬月が置かれており、1年は365日であった。2か月分の冬月はじゅうぶん機能を果たしたが、不細工なので、第2代国王のヌマが1年を12か月とした。ヌマ礫歴はカエサルの時代まで続いた。1年が10か月(300日)しかなかったら、2年目に少し変だと気づくし、6年目には夏と冬が逆転する。いかなる原始人もそのような暦を使わない。
既に述べたように、ピクトルは建国の年を紀元前748年をとしていた。アリメントゥスも、旧暦では1年が300日しかなかったという考えに振り回されなければ、ピクトルと同じく、紀元前748年としていたはずである。ローマの最初の2人の歴史家、ピクトルとアリメントゥスが、建国の年を紀元前748年としていたことは重要である。19世紀初頭のドイツの歴史学者の言葉を繰り返したい。「ローマの建設は第5代国王タルクイニウスの132年前という記録が存在した」。
紀元前1世紀になって、建国の年が5年早められ、753年とされた。なぜ5年早められたかを調べる作業は余人に譲りたい。私としては、ローマの建国の年や、7人の国王の即位年や統治期間について、古い記録が存在した可能性が高いことを知って満足している。「国王が部屋の壁に重要な出来事を記録していた」という説があるのを知って、私は半信半疑だったが、古い記録の存在を軽々しく否定はできないと考えるようになった。

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リヴィウスのローマ史はどこまでス史実か②

2024-12-18 06:08:09 | 世界史

最初のローマ人歴史家はクインクティウス・ファビウス・ピクトールであり、彼がローマの歴史を書いたのは紀元前3世紀末である。ピクトールはアエネイスのラティウム上陸から話を始めているが、どのようにして何百年も昔の出来事を知ることができただろう。トロイの王子アエネイスがイタリアに来たという話はギリシャの歴史家からの借用であり、彼はギリシャ人のイタリア植民の祖とされていたのである。ローマの歴史家はアエネイスがラティウムに上陸したことにした。その後アエネイスは土地の娘と再婚し、町を建設した。こうしのように、ローマの歴史家はアエネイスをラティウムと結びつけた。アエネイスの死後、アルバ・ロンガの時代を経て、ローマが建設され、歴代7人の王が統治した。ローマ側の伝説が書物となるのは紀元前3世紀末であり、それまで口伝えだとしたら、忘れたり、記憶違いをしてしまう。国王の時代ぐらいに書き留められていなければ、風化してしまう。ローマ人は王制時代にエトルリア文字を用いて記録していた可能性がある。エトルリア語はイタリック諸語とかなり違う言語だが、エトルリア文字はギリシャのアルファベットを借用したもので、簡明である。昔の日本人が漢字を学ぶより、はるかに容易だった。日本人は平安時代にひらがなを考案したが、中国人がカタカナのようなものを用いていたなら、日本人はもっと容易に文字を習得しただろう。要するに、エトルリア文字を用いるのはローマ人にとって容易だった。なんといってもエトルリアの都市ヴェイイとローマは近かった。
ロムルスがラテン人の古い都市アルバ・ロンガの国王の孫だったという話は神話かもしれないが、ローマには若い女性が少なく、サビーニ人の女性たちをだまして連れてきて妻としたという話は事実かもしれない。現在の学者たちがリヴィウスのローマ史を疑うのは当然であるが、非常に印象的な話が多く、すべてが神話とは思えない。7人の王のそれぞれの話にも、実際にあった話と思える箇所がいくつかある。
歴代の国王が、自分の住まいの壁に出来事を記録していたという話があるが、王宮は中央広場の一角にあり、前390年にパラティンの丘の建物の多くが焼かれたので、国王の宮殿も焼けてしまったかもしれない。ただし、ガリア人の焼き討ちは限定的だったという説もあり、記録が残った可能性もある。7人の国王の名前と彼らの時代の出来事は大部分事実だという意見もある。国王の就任の年と統治期間が疑わしいだけだという。
紀元前1世紀のローマの歴史家の間で、王の時代について意見が分かれていたが、国王の時代が244年続いた点では一致していたと言われている。ロムルスはトロイの王子アエネイスの孫であると考え、ローマの建設を紀元前1100年とする者もいたが、王制の期間244年と矛盾するので、退けられた。アエネイスのラティウム到来とローマ建国の間にアルバ・ロンガの歴史が置かれ、ロムルスはアルバ・ロンガの末期の王の孫とする考えが主流になった。共和制の最初の年が紀元前509年という点でもローマの歴史家の多くが一致し、王制の最後の年509年と王制の期間244年から逆算して、建国の年が紀元前753年と割り出された。考え方はよく理解でき、かなり現実的な結論となっている。ローマ人は数字の年代を使用しなかったので、正確な年代とずれることもあったが、論争の末、妥当な線に落ち着いたようだ。

紀元前509年以後の共和制の時代については、最初の100年は王制時代と同じで、記録が存在したようだとしか言えないが、紀元前400年以後、確かな一次資料が存在した。
     〈大神官の年代記(Annales maximi)〉
大神官の年代記には執政官の名前だけでなく、各年の主要な出来事が記録されていた。キケロによれば、大神官の年代記は紀元前400年以後の記録である。大神官は終身であり,就任後、年代記を書き始め、彼が死ぬと次の大神官が記録を続けた。大神官はカピトルの丘に住んだ。カピトルの丘のユピテル神殿が建設されたのは紀元前509年であり、紀元前400年以前の記録がないのはなぜだろう。カピトルの丘は紀元前390年の大火を免れており、焼き討ち以外の原因で失われたのどうか。そもそも紀元前400年に記録を始めたのだろうか。前400年以前、ローマ人は出来事を記録する習慣がなかったというこではない。正式な記録は突然生まれるのではなく、記録する習慣が先に生まれることが多い。日本書紀と古事記が書かれる以前に、北九州、出雲、岡山(吉備)などに記録が存在したのと同様である。古事記の冒頭に、「語り部の話を文字にした」と書いてあるのは、天皇の一族の伝承を文字にしたということであり、日本に文字による記録がなかったということではない。
大神官の年代記の簡略版がパラティンの丘の中央広場に公表され、ローマ市民は誰でも読むことができた。簡略版は歴代執政官のリストであり、重要な戦いに勝利した凱旋将軍の名前も書かれていた。簡略版は中央広場の旧王宮の前の白い石板に刻まれた。これにより、文字の読める市民にとって、歴代執政官の名前はなじみのあるものとなり、歴代執政官のリストは広く共有された。有力貴族は執政官のリストを年号代わりに用いて、家族の歴史を書いた。ローマ人の最初の歴史書は3世紀末に成立するが、それ以前に大神官の年代記と有力貴族の家族史が存在した。貴族の家族史は家族の構成員を美化する傾向があり、作り話が混じることがあるが、事実を書き残している場合も多い。
大神官の年代記は紀元前130年頃に終了し、全部で80巻になっていた。紀元前130年に大神官に就任したムキウス・スカヴォラ(Publius Mucius Scaevola)が年代記を出版した。これ以後のローマの歴史家にとって、大神官に年代記の閲覧を許可してもらう必要がなくなった。
なお、リヴィウスの建国史に書かれている執政官の名前が、大神官の年代記と異なる箇所があるという。大神官の年代記には、ずっと昔に断絶した家族の名前が書かれており、前1世紀の歴史家には馴染みがなく、古めかしすぎたと言われている。前1世紀に大神官の年代記と一部異なる執政官のリストが生まれた。西ローマ末期以後大神官の年代記は失われたため、リヴィウスの建国史がどの程度大神官の年代記と違っているか、調べることができない。リヴィウスが古い記録を修正したのは、単に古い時代に対する無理解なのか、平民に同情的な執政官が抹殺されていることに対する反発なのか、わからない。 

中世になって大神官の年代記の簡略版が発見された。大きな大理石の石板が地面に埋まっていた。オクタヴィアヌスがアントニウスに勝利した記念に建てた凱旋門が半分崩れており、聖ピエトロ大聖堂の建立に再利用することになったが、近くの地面から、文字が刻まれた大理石が出てきた。注意深く掘り出すと、大きな4つの石板であることがわかった。これは大神官の年代記の簡略版の現物らしかった。石板は教皇館に保管されていたが、現在教皇館は博物館の一部になっている。
石板に刻まれている執政官のリストは前483年から始まっているが、もとは前509年から始まっていて、最初の部分が壊れてしまったようだ。大神官の年代記は紀元前400年から始まっているはずなのに、発見された簡略版は509年から始まっているのは、なぜだろう。また大神官の年代記は前130年で終わっているのに、石板のリストはアウグストゥスの時代まで続いている。発見された大きな石板は、前400年以降に立てられた古い石板ではなく、アウグストゥスが新たに立て直し、一部書き直したようである。発見された石板には、10年ごとに数字の年号が刻まれている。数字の年号は古い石板にはなかったはずだ。数字の年号は建国の年を元年とするローマ歴である。また重要な戦いに勝利し、凱旋将軍の栄誉を与えられた執政官や独裁官の名前も記録されており、最初の凱旋将軍はロムルスとなっている。古い石板に凱旋将軍の名前が書かれていたかどうかはわからないが、書かれていたとしても、紀元前400年以後の旋将軍の名前のはずだ。アウグストゥスは紀元前509ー400年の執政官のリストを刻んでいるが、何を根拠にしたのだろう。

大神官の年代記に匹敵する重要な記録がもう一つ存在した。残念ながら、それが前509年に始まったかは不明であり、共和制の最初の100年の記録が存在したかは、やはりわからない。重要な記録とは、元老院の記録である。筆頭元老が、元老たちの主要な発言と元老院の決定を記録していた。筆頭元老の記録は元老しか見ることができなかったが、過去の出来事に関心のある元老はいつでも記録を参照できた。元老の間では過去の出来事が共有されていた。元老院の記録は元老でなければ見ることができず、出版もされなかったので、広く共有されなかったが、重要な一次資料が存在したことは間違いない。記録がいつ始まったかわからないのが残念である。ファビウス・ピクトルは紀元前218年に元老になっており、ローマ史を書くにあたって元老院の記録を参照したに違いない。また元老となったピクトールは大神官の年代記を閲覧できたに違いない。ピクトールは2種類の一次資料を参照したのである。またファビウス家は名家であり、代々子供たちに誇りある家族の歴史を語り伝えていたにちがいなく、ファビウス家は家族の歴史を記録していたので、ピクトールはローマ史に理解があった。
以上、主に共和制の最初の200年について、文字資料が存在したか否かを調べてみたがが、最初の100年については、正式な記録は存在しないが、文字の使用はそれ以前に始まっていたと思われ、何らかの記録が存在した可能性はある。紀元前400年以後は大神官の年代記が存在し、元老院の記録も始まっていた可能性が高い。また、この時期には有力貴族が家族の歴史を書き始めていたようである。クラウディウス・マルチェリ家、ファビウス家、アエミリウス家などの記録が知られている。リヴィウスとキケロはこれらの記録を批判しており、作り話がいくつかあったようであるが、事実を伝えている場合もあり、記録が全然ない場合より、ましである。ローマ人の間で記録する習慣が始まっていたことは重要である。
私としては、リヴィウスの建国史の3分の2、少なくともも半分が事実であれば十分であり、紀元前400年以前に何らかの記録が存在したか否かが、気になったのである。現在の学者の間では紀元前300年以前のローマ史が疑われている。確かな記録が存在した紀元前300年代が疑われるのは、紀元前1世紀の歴史家が古い記録を改ざんしたと考えられるからである。リヴィウスも改ざんを疑われている。建国史の執政官の名前が、ピクトルの年代記と違っていることッは、既に述べた。またセクスティウスとリキニウスの話は、ピクトルの年代記には、なかったと言われている。しかしリヴィウスはかなりの部分でピクトルの年代記を受け継いでいる。リヴィウスはローマの最初の歴史家ピクトルを信頼しており、手本としていた。またリヴィウスは前2世紀の歴史家も評価していたが、前1世紀の歴史家を信用していなかった。それにもかかわらず、リヴィウスは紀元前1世紀の歴史家の影響を受けたとみなされている。これについて、私は一つの観点を提起したい。
紀元前1世紀はローマの社会が激変し、旧来の秩序が崩れ、大きな内乱が繰り返し起きた時代である。歴史観も分裂したのである。第二次ポエニ戦争(紀元前219ー201年)後、貴族階級が傲慢になったことが、動乱の遠因のように思われる。ハンニバルとの戦争に負け続けたことを、ローマの貴族は反省せず、地中海西部の覇者となり、舞い上がったのである。平民の多くが没落し、貴族に対抗する勢力が消え、貴族の天下となった。しかし紀元前2世紀末に社会の矛盾が顕在化し、反動が起きた。貴族独裁に対す対抗軸が復活し、激烈な内戦となった。このような時代に、貴族中心の歴史観に批判が起こったのかもしれない。リヴィウスも新しい波と無縁ではなかったに違いない。しかしリヴィウスには混乱の原因を知りたいという強い欲求があり、新しい波にのまれただけではない。リヴィウスは昔のローマ人の古風な性格があり、虚飾を嫌い、非現実的な空想を嫌ったのでり、彼の歴史観は独自なもになっている。

 

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リヴィウスのローマ史はどこまで史実か⓵

2024-11-30 18:15:23 | 世界史

紀元前133年の護民官ティベリウス・グラックスが没落農民の救済のためめに奮闘したが、改革を実現できないまま、暗殺されてしまった。紀元前376年の護民官となったセクスティウスとリキニウスは10年間連続して護民官となり、苦闘の末平民の地位向上のための法律を実現した。二人が実現した4つの法案は平民を貴族と同等にするものであり、多くの貴族にとって、とんでもない法案だった。二人の法案は、近代フランスの革命やロシアの革命の匹敵する、過激な法案であり、グラックス兄弟の改革案に匹敵するものだった。しかも一滴の血も流れなかった。セクスティウスは前366年の執政官に就任し、リキニウスは前361年の執政官に就任した。権力者の譲歩は危険である。権力者が弱さを見せれば、大衆は怖い者無しの心境になり、秩序は崩壊し、万人が権力者になろうとするだろう。その結果、万人が万人と戦うことになり、無法者が幅を利かせることになる。この状態は結束力のある集団が残りのすべてを屈服させるまで続く。紀元前367年のローマにおいて、元老院は自分たちの命取りになるような譲歩をしたが、社会の秩序は崩れなかった。この時代社会の歩みは緩やかであり、元老院の権威はまだ失われていなかった。貴族と平民は対立していたが、貴族と平民の両方に、ローマ市民としての一体感がある程度残っていた。平民は奴隷ではなく、ローマ市民であると考える貴族がいて、彼らは一定の影響力を持っていた。政治的に先鋭化した護民官はともかく、平民の多くは貴族支配受け入れていた。共和制の成立から130年経っていたが、社会の分裂は限定的だった。このような時期には、権力側が致命的な譲歩をしても、政変には至らず、むしろ賢明な対処の仕方なのだろう。セクスティウスとリキニウスの挑戦はグラックス兄弟の改革に匹敵大胆なものだったが、まったく異なる結果となった。セクスティウスとリキニウスの挑戦は、ローマ史の中でも特に注目すべき出来事だった。
リヴィウスは建国史の序章で次のように書いている。「ローマの発展をもたらした指導者の言動を記録した。紀元前1世紀頃からの政情不安の原因である道徳的腐敗を描くことを心掛けた。ローマの国民がどのように生き、いかなる風習を持ち、いかに領土を拡大し、いかに風紀が乱れていったかを理解していただきたい」。
リヴィウスは紀元前1世紀頃からカエサルの死を経てオクタヴィアヌスが勝利するまでの動乱に関心があり、その原因を知りたいという強い動機があったのである。リヴィウスは、ローマが地中海帝国への基礎を築いた時期を称賛することより、その時代の国内の惨状に目を向けていたのである。

以下で述べるが、19世紀以後の歴史学者たちはリヴィウスのローマ史には史実と異なる部分があると考えている。昔から伝えられている伝説が史実ではないことが少なくない。ギリシャ人の間で「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスは中東各地に残る伝説を記録したが、ヘロドトスの少し後に執筆したツキジデスは伝えられている話が真実とは限らないことに気づいていた。ツキジデスは伝えられている話を検証し、虚偽と真実をより分ける作業をした。ツキジデスに続く歴史家は「どれほどくわしく語られていても、真実とは限らない」と述べている。19世紀以後の歴史学者たちにとって、客観的な史実を探ることが仕事となっている。話の出どころが一つしかない場合、どれだけ多くの人が語る話でも、真実かどうかはわからない。それとはまったく違う話が埋もれてしまったかもしれない。出所が違う話、特に対立する立場の人の話を掘り起こすことが必要になった。また互いに対立する話のどちらが正しいかを判別するために、第三者の証言やぶ的な証拠が必要になった。真実を探ることは途方もない作業であり、真実は闇の中であることも少なくない。以下で述べるが、リヴィウスの時代には多くの一次資料や歴史書が存在したが、これらはほとんど失われてしまった。比較すべき別の資料や歴史書しかないため、リヴィウスの建国史の検証が難しくなっている。明らかに事実に反する叙述が葬り去られるのは良いことであるが、リヴィウスのローマ史については、単に虚実を見極めようとするだけでなく、一つの時代を深く理解しようという姿勢が求められる。リヴィウスの建国史には「読ませる何か」がある。私は、グラックスの時代やカエサルの時代を理解するには共和制前半のローマについての理解が必要だと痛感した。ウイキペディアに建国史の英訳があったので、読み始めた。建国史の英訳を読むついでに、訳すことにした。建国史には古い訳があるのを知っていたが、新しい訳が出版されているのを知らなかったので、新しい訳も必要だろうと思った。建国史は退屈な面もあったが、時々強く引き付けられ、投げ出さずに、6巻まで読み終えた。共和制前半で知られているのはカミルスぐらいで、この時期のローマ史に対する関心は低いと思うが、カエサルの時代やポエニ戦争に興味のある人にとっては、共和制前半について知ることは意味があるし、けっこう面白い。特に、私はセクスティウスとリキニウスの話を読むことで、グラックス兄弟について一般的な説明とは違う角度から見る視点があるのを知った。リヴィウスはグラックス兄弟と同じように、ローマ社会の崩壊に心を痛めていた。グラックス兄弟は報われない改革者として葬られたが、兄弟の心情を間接的に説明するリヴィウスの著書は残った。

セクスティウスとリキニウスについての話は歴史的事実ではなく、作り話だという説がある。リヴィウスと同時代の歴史家リキニウス・マケルが、自分の祖先を英雄的に描いた作り話であり、リヴィウスはそれを取り入れたという。セクスティウスとリキニウスの物語は250年後のグラックス兄弟の話とよく似ており、リキニウス・マケルは250年後の事件を参考にして、自分の祖先を讃える話を作り上げたのだという。これは見過ごせない批判である。しかしセクスティウスとリキニウスの改革を主導したのはリキニウスではなく、セクスティウスである。収録されている護民官の発言のほとんどが、セクスティウスの言葉である。平民として最初に執政官に就任したのもセクスティウスである。「リキニウス・マケルが自分の祖先を英雄的に描いた作り話である」という説はそのまま受け入れられないとしても、セクスティウスとリキニウスが護民官だった10年について語られていることは異常であり、それ以前の時代のローマの政治体制からかけ離れており、この部分は事実ではなく、創作されたものだ、という批判がある。
紀元前3世紀末のローマ人歴史家ファビウス・ピクトールはセクスティウスやリキニウスの話を書いていない。リヴィウスが詳しく書いていることはファビウス・ピクトルの著書にはなかった。紀元前300年以前のローマ史については不確かなことが多く、紀元前1世紀に付け加えられた話も多い、とされている。ところが、前2世紀半ばに執筆活動をしたポリュビオスは375ー371年の5年間最高官が不在だったとしている。不在の理由はわからないが、5年間不在とする説は前2世紀に生まれていたのである。前300年以前のローマ史に不確かなことが多いとしても、この時期の大部分が作り話ということではなく、疑わしいのは一部と考える学者もいる。
現在、ローマ史が疑われているが、紀元前1世紀後半にローマに移住して修辞学の教師となったギリシャ人ディオニシオスは、紀元前300年以前のローマに関心があった。ハリカルナッソス出身のディオニシオスはローマの起源から話を始め、ポエニ戦争までの歴史を書いている。紀元前2-1世紀のローマでは多くの歴史家が誕生し、祖国の歴史に関心が高まった。ディオニシオスはローマの歴史ブームに影響されたのである。ギリシャより200年遅れ、ローマも歴史を書いて発表することが盛んになった。ただし、ローマ人の歴史書には弱点があった。ローマの歴史家は数字による年号を使わず、執政官の名前を年号代わりに使っていた。そのため、年代について混乱することが多かった。たとえば、ディオニシオスの執政官の順序が、リヴィウスと異なる箇所がある。4-3世紀のローマの出来事をギリシャ人が記録していることがあり、それには数字の年代が記録されていた。ようやく前1世紀半ばになって、ローマ人テレンティウス・ヴァロが国王の時代とと共和制の時代の年代に数字による年代を当てはめようと試みた。これ以後ローマ人はギリシャ側が記録する出来事の年代が、ローマの数字の年代と違うことに気づいた。この違いはローマ歴とギリシャ歴の違いでない。例えば、日本の昭和の年代と西暦の違いは単純である。昭和元年は1925年と覚えれば済むことである。日本の敗戦は昭和20年であり、1945年である。終戦が昭和17年となったら、わけが分からない。それがローマで起きたのである。年号を数字で表し、ギリシャ側の記述と照らし合わせてみると、4年ずれていた。建国の年を4年遅らせるか、執政官の名前を4年分増やすかのどちらかが必要になった。建国の年である前753年を740年にするのは嫌だったので、4年間執政官不在とすることにした。たまたま執政官が不在の年があったので、それを5年に延ばした。前375ー371年に執政官が不在とされたのは、このような事情だった。ローマ軍の捕虜となったポリュビオスはスキピオと親交があり、釈放されて、2世紀半ばにローマとカルタゴの戦争について書いた。ポリュビオスがギリシャ語で書いたとはいえ、ポリュビオスの歴史を読めば、ギリシャ年号の何年にカルタゴとの戦争が起きたかを知ることができたはずである。ローマの年号が数字で表記されていれば、この時点でローマ歴とギリシャ歴の対照ができたはずである。ギリシャ人は近くに、イタリア南部に住んでいたのに、ローマ人が数字の年号を採用するのは、遅れた。
人工的に4年増やしたためか、単に一つの出来事の年代の誤りかどうかわからないが、前4世紀の事件で疑われている年代がもうひとつある。
ローマがガリア人に敗れたアリア川の戦いは前390年とされてきたが、シチリアのギリシャ人歴史家ディオドゥルスは387年としており、21世紀の現在、387年が正しいと考えられている。リヴィウスは390年としている。さらにガリア人によるローマ占領の結末について、ディオドゥルスはリヴィウスと異なる話を書いている。リヴィウスによれば、亡命していたカミルスが、ローマ軍の司令官となり、ガリア人を全滅させたことになっているが、ディオドゥルスによれば、ガリア軍を壊滅させたたのはエトルリア人である。「ガリア人は南イタリアへの遠征から故郷に帰る途中、エトルリア人の攻撃を受けた」。

紀元前1世紀の地理学者のストラボンもディオドゥルスと同じ考えである。
「ガリア人はカエレのエトルリア人によって打ち負かされた。カエレの人々はローマの黄金をガリア人から奪い返し、ローマに渡した」。
プルタークは次のように書いている。
「神殿の巫女たちは同盟国のカエレに避難したとローマの歴史家は書いているが、カエレはもっと大きな役割をはたしたかもしれない」。
ガリア人に勝利したのカエレであるという説はリヴィウスの記述を疑わせるものであるが、カエレ説が正しいという決定的な根拠もない。ガリア人の間に、どこの国に負けた、という記録があればこの問題は決着するが、ガリア側に記録はない。

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6巻42章(6巻終了)

2024-11-13 17:03:09 | 世界史

【42章】
アッピウス・クラウディウスの演説は法案の採決を遅らせるだけの効果しかなかった。セクスティウスとリキニウスは10度目の護民官に選ばれた。二人は「シビルの予言書」を保管する神官を10人に増やし、5人を平民から選ぶことを法律とすることに成功した。この法案は平民の執政官を誕生させる道を切り開く、第一歩とみなされた。平民は勝利に満足し、執政官の問題については貴族に譲歩し、とりあえず要求を取り下げた。その結果翌年の最高官は執政副司令官となった。執政副司令官に選ばれたのは以下の6人である。A・コルネリウス(2回目の就任)、M・コルネリウス(2回目の就任)、M・ゲガニウス、P・マンリウス、L・ヴェトゥリウス、P・ヴァレリウス(6回目の就任)。
ローマ軍はヴェリトラエに対する包囲を続けていた。ローマ軍は勝利をあきらめていなかった。戦争はヴェリトラエ攻略戦だけで、対外関係は安定していた。ところが、突然ガリア人の襲来の噂が伝えられ、市民は驚いた。M・フリウス・カミルスが5回目の独裁官に任命された。彼はT・クインクティウス・ポエウスを騎兵長官に任命した。クラウディウスによれば、ローマ軍はガリア人とアニオ川で戦ったという。
     (日本訳注:アニオ川はアリア川と音が似ているので注意。アニオ川はラテン地域の北部を東西に流れ、ローマの少し北でテベレ川に合流。ガリア人との最初の戦いの場所はアリア川で、アニオ川の北でテベレ川に合流。アリア川非常に小さな川である。)
T・マンリウスはガリア人の挑戦を受け、橋の上で一騎打ちとなり、両軍注視する中でガリア人を倒し、黄金の首輪をはぎ取ったという。しかし私は大部分の著者の考えと同じで、クラウディウスが語る戦闘は10年後のものだと考えたい。実際には、この時の戦いはアルバ湖の近くが戦場となった。ローマ軍は M・フリウス・カミルスの指揮のもと、果敢に戦った。ローマ兵はガリア人に敗北した過去の記憶が残っていて、ガリア人への根深い恐怖があったが、アルバ湖の戦いでは敵に圧倒されることもなく、順調に勝利した。ローマ軍は数千人のガリア人を殺した。その後ローマ軍は敵の陣地を攻撃し、さらに多くのガリア人を殺した。生き残ったガリア人はアプリア地方の方角へ逃げたが、あまり遠くまで逃げて道に迷った。また恐怖のあまり散らばって逃げ、道に迷った。元老院と平民が一致して、カミルスに勝利の栄誉を与えることを決定した。しかし、帰国したカミルスを待っていたのはこれだけではなかった。鎮静化してた国内の対立が再び激しくなり、元老院と独裁官が敗北した。つまり、護民官の法案が市民会議で採決され、承認された。貴族の反対にもかかわらず、執政官の選挙となり、執政官の一人は平民から選ぶことになった。L・セクスティウスは平民として最初の執政官となった。これで紛争は終わらなかった。貴族はセクスティウスを執政官と認めなかった。事態は緊迫し、平民がローマから一斉に退去するかもしれなかった。あるいは、さらに恐ろしい内戦になるかもしれなかった。この時、独裁官が妥協案を提出し、両陣営を落ち着かせた。対立する両者はカミルスの妥協案を受け入れた。貴族は平民の執政官を承認し、一方平民は、プラエトルになれないことを受け入れた。プラエトルは市民の裁判を担当する高官である。こうして長年の相互不信が終わり、二つの身分は和解に至った。貴族と平民の和解は記念するに値する出来事だとと、元老院は考えた。「不滅の神々に感謝するのは今をおいてない」。
神々のために大競技会を開催することになり、これまで3日間だった日程が、4日間に延長された。ところが、平民のアエディリス(護民官の補佐官)が競技会の運営を拒否した。すると貴族の若者たちが一致して宣言した。「不滅の神々のために、我々は喜んでアエディリスに就任する用意がある」。
若い貴族の申し出により、競技会が中止されずに済んだので、ほとんどの市民が感謝した。貴族の中から二人のアエディリスを選ぶよう、独裁官が市民に頼んだ。元老院は新しく選ばれた政務官たちを承認した。「シビルの予言書」を保管する神官に5人の平民が選ばれ、執政官に平民が選ばれ、貴族がアエディリスに選ばれたことが正式に認められた。

ーーーー(日本訳注)ーーーーーー
⓵ 財政と裁判は本来執政官の権限であるが、下僚のクァエストルが代行してきた。42章で新たに裁判の権限も持つプラエトルが登場する。これ以後プラエトルが法務官となり、クァエストルは財務官となっていく。プラエトルはクァエストルより地位が上である。実は、クァエストルは臨時の政務官として以前から存在していたが、表舞台に登場すことがほとんどなかった。リヴィウスの建国史では一度しか登場していない。その時私は市政長官と訳した。プラエトルは臨時の政務官であるが、執政官代行であり、執政官と同格だった。二人の執政官がすでに出征しているいて、どうしても執政官がもう一人必要な時、プラエトルが任命されたのだった。プラエトルは三人目の執政官であり、裁判だけが任務ではなかった。時代が下って、プラエトルは法務官となるが、当初の地位の高さが維持された。クァエストルも最初から財務官だったのではなく、執政官の下僚として法務や財務などを担当した。クァエストルは後に財務官となるが、執政官より地位が低かったたため、プラエトルより地位が低い。ちなみに戦後の日本では、大蔵大臣は法務大臣より偉い。大蔵官僚の一人が「総理大臣は不要だ。日本で一番偉いのは大蔵省事務次官だ」と語っている。実際、日本の歴代総理大臣は大蔵省の事務次官と争うのを避けている。大蔵省が権力を持つのは、各省の予算を決めているからである。しかし外務省だけは大蔵省に頭を下げないので、大蔵省は苦々しく思っている。外務省は天皇の下て国家を代表する仕事をしているので、矜持がある。
② アエディリスは護民官の誕生と同時に新設された政務官であり、護民官を補佐した。アエディリスは造営、祝祭の管理なども担当した。後にアエディリスは造営官と呼ばれるようになる。共和制末期、造営官のアエディリスは財務官のクァエストルより上位だった。なぜ護民官の補佐官が執政官の下僚より上なのか。逆ではないか。実はアエディリスの職務の一つである祝祭の運営は高位な者の任務である。祝祭は神々に捧げる神聖な行事であり、本来神官の任務である。同時に、祝祭は全国民が参加するものなので、護民官の補佐官にすぎないアエディリスが神事を執り行う例外が生まれたのだろう。アエディリスは護民官と同様平民から選ばれていたが、紀元前367年、貴族から選ばれるアエディリスが誕生した。ーーーーーーーー(日本訳注終了)

 

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6巻40ー41章

2024-10-30 16:44:25 | 世界史

【40章】
護民官の決然とした発言に、貴族はぼう然とし、怒りのため言葉を失った。10人委員の孫のアッピウス・クラウデイウスはセクスティウスとリキニウスを抑え込む見込みもなく、怒りと憎しみに駆られ、次のように述べたと言われている。「市民のみなさん、かつて私の家族は革命好きな護民官にさんざん非難されたものです。現在の護民官が話すことは私にとって新しいものではなく、少しも驚きません。そもそも国家にとって、貴族の名誉と権威以上に重要なものはない、と私は考えています。我々貴族はいつも平民から敵と見られています。お互いの利益が対立しているからです。高利貸しの利子が暴利を得ていること、また一部の貴族が国有地を大々的に占有しているという批判を、私は受け入れます。我々貴族が元老院に迎えられて以来、指導的な貴族の権威が増強され、権威が傷つけられないよう努めてきたのは事実です。皆さんは私の家族もそのような家族であると見ているかもしれません。平民の要求というよりは、護民官の要求である、執政官の一人を平民とする法案について、私の考えを述べるなら、私自身も私の家族も、公職に就いていた時、意識的に平民の不利益になることをやったことはありません。国家のためにやったことがすべて平民にとって有害だとと考えるのは、現実を無視した妄想です。ローマのために為されたことが他国の市民にとって有害な場合は珍しくないが、ローマの市民全員にとって有益だったことははありません。貴族の最高官の行為や言葉が平民の要望に反する場合があるかもしれませんが、平民の利益を害する目的で為されたり、言われたりしたことは一度もありません。仮に私がクラウディウス家の人間ではなく、貴族でさえなく、普通の市民だったとしても、自分が自由市民の息子であり、自由な国家に生きていると自覚しているなら、現在の状況に黙っていられません。 L・セクスティウスと C・リキニウスは終生の護民官となり、9年間市民に自由な投票をさせないできた挙句、信じられないほど厚かましく振る舞うようになりました。セクスティウスとリキニウスは市民から自由な投票と法律制定の権利を奪っているのです」。
クラウデイウスは話を続けた。
「二人は次のように言います。『我々を10回めの護民官に任命したいなら、条件がある。条件とは、法案を一括して採決することだ」。
セクスティウスとリキニウスは市民の要望を鼻から軽蔑し、高額の割増金を払わなければ、彼らの要望の実現に骨を折るつもりがない、というのです。セクスティウス様とリキニウス様に護民官になってただくための割増金とは、複数の法案を一括して採決することです。複数の法案の中には市民にとって不要で、市民は賛成するつもりがない法案があるのに、それが実現できないなら、市民に必要な法案を実現するつもりがないというのです」。
ここでクラウデイウスはセクスティウスに問いかけた。「タルクイニウス王さながらの護民官にお願いするが、私がこれから言うことをよく聞いてほしい。私が集会の参加者の一人として、こう叫んだとします。『これらの法案の中から我々に有益なものを選ばせてください。有益でない法案を拒否させていただきます』。するとあなたはこう答えます。
『いや、駄目だ。それはできない。それを認めれば、諸君は高利貸しを禁止する法案と国有地を分配する法案だけに賛成し、 L・セクスティウスと C・リキニウスが執政官になるという偉大な事業を拒否するだろう。諸君はこの偉大な計画を敬遠し、嫌っているからだ。3つの法案をまとめて受け入れないなら、私はどの法案も提出しない』。君たちがやろうとしていることは、飢えで苦しむ人に毒の入った食べ物を与えるようなものだ。身体に必要な栄養が欲しいなら、一緒に毒を飲め、というわけだ。もしローマが自由な国であるなら、何百人もの市民が叫ぶだろう。『くたばれ護民官!護民官のための法案など無用だ!』。
そうだ、貴族だって護民官ほどひどいことを言わない。平民のための改革を妨害したい貴族だって、これほどひどいことは言わない。みんなに嫌われているこの私、クラウディウスだってこんなことは言わない」。
クラウディウスは再び市民に向って言った。「市民のみなさん、いつまで護民官の横暴を許すつもりですか。暴君のような二人に執着せずに、別の方法で自分たちが望む法律を実現すべきです。長年聞き慣れた護民官の言葉に盲従するのをやめ、我々貴族の言うことに耳を傾けてみてはどうですか。セクスティウスの言動は自由な国家の市民にふさわしくありません。皆さんがセクスティウスの野望のための法案を拒絶するので、彼は本当に怒っているのです。彼にとって大切な法案の目的は何でしょう。それは、執政官を自由に選べなくすることです。彼の法案が実現すれば、執政官の一人は必ず平民から選ばなければならなり、執政官が二人とも貴族のほうが良い場合、困るのです。かつてエトルリアの王ポルセンナがヤニクルムの丘に陣を敷いた時、ローマは大変な脅威を感じましたが、再びエトルリアが兵を動かしたら、どうなるでしょう。最近ではガリア人の大軍が押し寄せてきて、カピトルの丘と砦を除き、ローマの大部分が占領されました。再び同じような脅威がローマに迫った時、執政官の一人は F・フリウス・カミルスがなるとして、もう一人の執政官になるのが L・セクスティウスではまずいではありませんか。セクスティウスが確実に執政官になるような制度は実に危険です。またカミルスのように偉大な人物でさえ執政官に選ばれないかもしれません。名誉を平等に分け合うと、このような問題が発生するのです。執政官が二人とも平民がなることはあっても、二人の貴族が執政官になれないのなら、国家が揺らぎます。貴族が執政官になれないないなら、恐ろしい結果になるでしょう。身分の平等は国家を破壊します。ひょっとすると、セクスティウスはこれまで経験していない国家の重責に就任することで満足せず、執政官が二人とも平民になることを求めているかもしれません。彼はこう言っています。『執政官の選挙を自由投票ににするなら、市民は平民を選ばないだろう』。彼が言いたいことは『自由な投票では、市民は執政官にふさわしくない人物に投票しない。だから私は市民の遺志に反する選挙を強制する必要がある』。このように特殊な選挙で執政官に選ばれた平民は、市民に感謝する必要がなく、法律に感謝するだろう」。
【41章】
クラウディウスは話を続けた。
「セクスティウスとリキニウスは名誉を求めているというより、強要しているのである。彼らは最大の恩恵を受けても、少しも感謝しないだろう。ささやかな恩恵であっても、人は普通感謝するものである。彼らは自分たちの資質によって名誉ある地位を得ようとせず、偶然によって得ようとしている。自尊心が強すぎて、自分の能力と要求を検査されたり、調べたりするのを嫌う人は多い。そういう人は競争者たちの中で自分だけが名誉ある地位にふさわしいと考える。そして選ばれて当然と考えるのである。その結果、彼は評価を人々に委ねようとせず、自由な選挙を強制的で奴隷的な選挙に変えてしまうのである。リキニウスとセクスティウスは何年も連続して護民官に選ばれ、まるでカピトルの丘の国王のようになってしまった。強制的な手段のおかげで二人は好条件を与えられ、執政官になるのが容易になるだろう。った。しかし我々貴族にとっては条件が悪くなり、我々と我々の子孫にとって、執政官への道が狭くなるだろう。皆さんが貴族の誰かを執政官に選びたいと思っても、それは許されない。みなさんは、望むと望まないとに関係なく、セクスティウスやリキニウスのような人を選ばなければならない。平民も威厳を持てるようになりたい、とセクスティウスは繰り返し語った。しかし彼は地上の人間にしか関心がなく、神々には興味がない。彼は宗教的な勤めや前兆をなおざりにしている。神々に関することを軽蔑し、冒涜している。神々がローマの建設を望み、前兆が現れたので、我々の祖先はこの場所に町を建設したのだ。だから、戦時においては戦場で、平和な時には首都において、重要な決定は前兆に従わなければならない。建国以来、神々の意向を伺ってきたのは誰か。それは貴族である。平民には前兆は現れないので、神官に任命された平民はいない。神々の意向を知ることができるのは貴族だけである。人々が貴族を最高官に選ぶ時も、前兆に従わななければならない。またを最高官が死亡したり、突然辞任した場合、我々貴族は市民に相談することなく暫定最高官を選んでいるが、良い前兆が現れなければ、選びなおさなければならない。役職についていない貴族に対しても、神々は前兆を与えるが、平民は最高官になったとしも、前兆を得られない。もしセクスティウスとリキニウスの改革が実現し、平民が執政官に就任したら、神々はローマに前兆と庇護を与えないだろう。最近宗教心のない輩を見かけるようになった。神々を畏怖している貴族を見て、平気であざける人がいる。『神聖な若鶏が餌を食べないことが、それほど重大事か。鶏小屋から出てこないことが大問題か。鳴き声がいつもと違うことが、そんなに不吉か』。
確かにそれらは些細のことかもしれない。しかし我々の祖先はそうした小さな変化に注意を払うことにより偉大な国家を作り上げてきたのだ。ところが最近、神々と良好な関係を保つ必要がないかのように、宗教的な儀式をおろそかにしている。大神官、前兆を判断する神官、そして神々に捧げ物をする神官に誰がなってもよいだろうか。主神ユピテルに仕える神官の帽子を誰がかぶってもよいだろうか。神聖な盾や神殿を守り、神事を執り行う聖務を不信心な者に任せてよいだろうか。宗教に関する法律は制定されなうなるだろう。神官や最高官は前兆がないまま任命されるだろう。元老院は百人隊の集会や部族集会の開催を承認する権限を失い、セクスティウスとリキニウスは新しいロムルスやタティウスとしてローマの支配者になるだろう。
   (日本訳注;タティウスはロムルスの共同王。ローマとサビーニ人の戦争の最中に、ローマ人の妻となっていたサビーニの女性たちが割って入り、戦争は中止された。サビーニの指導者ティトゥス・タティウスがロムルスと共同の王となった。)
セクスティウスとリキニウスは貴族のお金と土地を市民に配ることで、人々から絶大な信頼を獲得した。しかし二人は貴族にとっては略奪者なのだ。国有地の占有者を追い出せば、広大な土地が荒廃することを、二人は予見できない。また貸金業を廃止するなら信用取引が消滅し、都市の経済が成り立たないことを二人は考えない。多くの理由でセクスティウスとリキニウスの法案は拒否されなければならない。神々が皆さんを正しい決断に導くよう祈ります」。

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6巻38-39章

2024-10-18 16:07:04 | 世界史

【38章】
この年が終わっても、ローマ軍はヴェリトラエから帰還しなかった。それで二つの改革は翌年の執政副司令官の時代に持ち越された。翌年の執政官に選ばれたのは以下の6人である。T・クインクティウス、Ser・コルネリウス、Ser・スルピキウス、Sp・セルヴィリウス、L・パピリウス、L・ヴェトゥリウス。
平民は迷わず、リキニウスとセクスティウスを再び護民官に選んだ。平民は二人の改革を熱心に支持していた。年の初めに、平民と貴族の戦いは最終局面を迎えた。部族会議が招集されると、リキニウスとセクスティウスは同僚の拒否権行使は無効であると主張した。事態が危険な法方向に向かっていると感じた貴族は最後の砦、つまり最高の権力を行使できる人物に頼ることにした。彼らは独裁官の任命を決定し、M・フリウス・カミルスを独裁官に任命した。カミルスは L・アエミリウスを騎兵長官に任命した。貴族の恐るべき対抗手段に対し、リキニウスとセクスティスは勇気と決意という武器で平民の権利を守ろうとした。二人は部族集会を招集し、投票を求めた。独裁官は怒り心頭になり、精鋭の貴族に守られながら集会にやって来ると、リキニウスとセクスティウスを威嚇する態度で席に着いた。改革案を提案する者と拒否権でそれをつぶそうとする者の間の激しいつばぜり合いが始まった。法的には独裁官の立場が強かったが、法案は平民に圧倒的に支持されており、セクステイウスとリキニウスはカミルスより人気があった。実際最初の部族は既に「賛成」と表明していた。これを批判してカミルスは述べた。
「市民の皆さん。護民官は権限外のことをしており、正当な権威を否定しようとしています。彼らを支持してはなりません。護民官の拒否権は平民の会議で承認された、正当な権利です。それなのに、この権利は現在、暴力的に無効にされようとしています。もっとも拒否権自体が冷静な話し合いによって承認されたのではありませんが。独裁官として私は、国家のためだけでなく、平民である皆さんのためにも護民官の拒否権を擁護するつもりです。現在皆さんが破壊しようとしている拒否権を、独裁官の私が守り抜きます。もし C・リキニウスと L・セクステイウスが同僚の反対を受け入れるなら、貴族である私は平民の会議に干渉しない。もし同僚の護民官の反対を無視して、二人がまるで戦争の勝者であるかのように、改革を国家に強制するなら、私は護民官の権限の悪用を許さない」。
セクステイウスとリキニウスは独裁官の主張を軽蔑し、揺るがぬ決意で改革を推し進めることにした。するとカミルスは怒り、異常な権幕で護衛兵に平民を追い払えと命令した。「もし彼らが集会を続けようとするなら、彼らを兵士とみなし、首都から連れ出せ」。
平民はおびえたが、彼らの指導者は独裁官の威嚇にしり込みするどころか、怒り狂った。独裁官と護民官の戦いはどこまで行くかわからなかったが、突然独裁官が辞任した。独裁官の任命に不正があったと主張する歴史家もいれば、護民官が独裁官を処罰する提案をし、平民がそれを承認したからだと考える歴史家もいる。「もしカミルスが独裁官として威嚇を続けるなら、彼に50万アスの罰金を課す」と平民が決議したので、カミルスは処罰を避けるために辞任したというのである。しかし平民が独裁官を処罰した前例はなく、この説明は受け入れ難い。私は前兆が間違っていたのだと思う。またカミルスの性格を考えると、罰金を課すという脅迫に屈するはずがない。カミルスの辞任後すぐにマンリウスが独裁官に任命されており、元老院は間違った前兆を信じてカミルスを独裁官にしてしまったのだろう。カミルスが敗北してしまったら、いかなる貴族が独裁官になっても、勝てる見込みはない。カミルスは翌年再び独裁官に任命されており、前年護民官に打ち負かされていたら、再び独裁官に就任するのを恥じただろう。彼に罰金を課す決議がなされたとしても、そもそも独裁官の権限を制限しようとする行為は無効である。独裁官は全権を有しており、すべての市民は彼の命令に従わなければならない。誰も彼の決定に反対できない。従ってカミルスは平民の決議を無効にできただろう。独裁官は何物にも制約されないからである。護民官がカミルスに巨額の罰金を課そうとしたのは、3つの改革案を独裁官につぶされたくなかったからである。しかし護民官が独裁官と争おうとしても無駄であり、独裁官は護民官の法案を無効にできる。護民官はこれまで執政副司令官と争ってきたが、独裁官の前では無力である。

  -----(日本訳解説)ーーーーーー
護民官が執政副司令官の選挙を止め、5年間執政副司令官が不在だった。共和制が始まって以来このようなことは起きたことがない。執政副司令官が不在の期間は1年だけだったという説もあるが、護民官が執政副司令官の選挙を止めたという古い記録がある。なお「歴代執政官のリスト」は5年という説を採用している。元老院が黙ってこれを受け入れたのは、驚きである。セクステイウスとリキニウスに指導された平民運動が異常な高まりを見せ、元老院はその圧力に押され、引いてしまったのだろう。しかし、その後セクステイウスがさらなる挑戦をしたため、元老院は我慢の限界に達し、反撃に転じた。M・フリウス・カミルスを独裁官に任命したのである。カミルスは並外れた精神力を持つ人物であり、最強の軍事指揮官である。彼の名声はギリシャにも伝わっていた。カミルスの登場により、平民と貴族の戦いは最大の山場を迎える。元老院が我慢の限界に達した原因は、セクステイウスが、同僚の護民官の拒否権を乗り越えようとしたからである。いかなる障害も乗り越えて進むセクステイウスが本領を発揮した。拒否権が無効にされれば、貴族は護民官の過激な法案を封じる手段を失ってしまう。拒否権を乗り越えようとしただけでなく、セクステイウスは執政官の一人を平民から選ぶことを再び主張し(37章の終わり)、「聖なる書物」を管理する神官の数を2人から10人に増やすことを新たに提案した。10人となった定数の5人を平民とすることを求めたのである。これらの要求は貴族にとって最後の一線を越えるものだった。執政官の地位の重要性は言うまでもないが、「聖なる書物」を管理する神官の地位も非常に高いのである。無宗教の現代人には理解しがたいが、一般に神官の地位は高く、貴族でなければ神官になれず、神官の職は貴族の牙城になっていた。特に、「聖なる書物」を管理する神官になれるのは、執政官経験者だけである。
恐れを知らない挑戦者であるセクスティウスによって、平民の戦いはこれまでにない高みに達した。これに対し、最終解決者として独裁官カミルスが登場し、貴族と平民の最後の決戦が始まる。リヴィウスが説明しているように、独裁官は元老院にとって切り札であり、本来いかなる者も独裁官の命令に従わなければならない。外国の軍隊ならいざ知らず、護民官が独裁官と争うことなどありえない。最初からセクステイウスに勝ち目はない。ところがである。貴族と平民の究極の戦いは中途半端に終わる。カミルスが突然独裁官を辞任してしまう。平民はあくまでローマ市民であり、外敵ではく、同胞であり、彼らと全面戦争をするわけにはいかない。平民との争いは微妙で、政治的に解決すべきである。元老院が国内の問題ででカミルスを起用したのは失敗だった。元老院はこれに気づいた。カミルスと護民官の争いが平民を巻き込んだ全面衝突に発展する前に、早々とカミルスを引っ込めた。平民との全面面戦争になれば、カミルスが勝ったとしても、貴族と平民の間にしこりが残り、両者の溝が深まる。カミルスは老人であるが、軍隊の指揮官として彼は健在であり、国内問題で彼に汚点がつくのは避けたい。翌年の戦争で彼は力を発揮する。国内問題でカミルスを起用した過ちを、リヴィウスは「前兆が誤っていた」と説明している。カミルスと護民官の戦いが恐ろしい結末になる前に、元老院は「前兆の誤り」という理由で独裁官を変えた。土壇場で元老院は作戦を変え、対決路線を捨て、柔軟な路線を採用したのである。この時代の元老院は250年後、グラックス兄弟の時代の元老院と違って、思慮深く、柔軟だった。-----ーーー(解説終了)

【39章】
カミルスが辞任し、マンリウスが独裁官に就任するまでの間、平民会を牛耳る護民官はまるで暫定最高官のようにふるまった。しかし平民と護民官の考えにずれがあることが判明した。平民は二つ法案を強く要望したが、残りの一つについては、護民官は熱心に要求したが、平民の関心は低かった。その結果、高額の利子を禁止する法案と国家の土地をすべての市民に平等に分配する法案は平民会で承認されるのは確実であるが、執政官の一人を平民から選ぶ法案は平民会で否決されるように思われた。
新しく独裁官となった P・マンリウスは平民に融和的であり、平民の C・リキニウスを騎兵長官に任命した。 C・リキニウスは、紀元前400年平民として最初に執政副司令官に就任した C・リキニウス・カルブスの孫だった。
  (日本訳注:騎兵長官になったリキニウスは護民官として活躍しているリキニウスと別人。どちらも C・リキニウスであるが、騎兵長官になったのは C・リキニウス・カルブスで、護民官のほうは C・リキニウス・ストロである。なお C はガイウスである。C はクと発音されるので変であるが、クとグは似ているので頭文字として採用されたのだろう。)
平民が騎兵長官に任命されたことに、貴族は反発した。しかし、独裁官といえども、平民全体が敵となっては、権力の行使が難しくなる。独裁官は述べた。「騎兵長官は執政副司令官のような高い役職ではない」。
護民官の選挙が公示されると、セクスティウスとリキニウスは再選を希望しないと表明した。しかしこれは二人がかけひきをしたのである。平民は自分たちの目的が達成されないと困るので、ぜひ二人に護民官になってほしかった。セクスティウスとリキニウスは言った。
「9年間我々は貴族と戦闘状態だった。我々の命が危険にさらされたにもかかわらず、民衆は何の成果も得られなかった。同じ護民官が長年同じ要求をしてきたので、我々二人は擦り切れ、要求は色あせた。我々が提出した法案は最初同僚の拒否権で妨害され、次に多くの平民がヴェリトラエの戦場に行ってしまい、採決が延期された。最後に、独裁官が登場し、我々に襲い掛かった。幸い現在は裏切者の護民官はいないし、戦争も終わり、カミルスは辞任してしまったので、これまでの障害はすべて消えた。現在の独裁官は平民が執政官になることに前向きで、平民を騎兵長官荷任命した。ところが、信じられないことに、平民が自分たちの真の利益に盲目であり、我々に反対している。平民が正しい選択をすれば、高利貸しから解放され、国有地を不法に占拠している貴族を追い払うことができるだろう。もし以上のことが実現したとしても、平民のために素晴らしい提案をした者二人が最高の栄誉を獲得するのを妨げられ、希望を失うなら、平民の諸君は恩知らずではないだろうか。高利貸しによる重荷を振り払い、国有地の分配を要求しながら、諸君の要求を実現するために働いた護民官が老後に栄誉と名声を期待できなかったたら、ローマ市民に自尊心がないと言われてもしかたがない。諸君は自分たちが真に求めるは何か、決めなければならない。それから選挙で自分たちの意志を表明しなければならない。もし複数の法案を一括して採決するつもりなら、我々は再び護民官になってもよい。もし諸君が自分たちが望む法案さえ実現すればよいと考えているなら、我々は再び護民官になって貴族に憎まれるのは嫌だ。我々が護民官にならなければ、諸君の要望は実現しないだろう」。

 

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6巻36ー37章

2024-10-09 15:59:33 | 世界史

【36章】(前の章は376年、この章は370年)
幸いなことに、外国との戦争は一度しかなかった。平和な時代に自由になりすぎたヴェリトラエの植民者が、ローマ軍の不在をいいことに、様々な機会にローマ領に侵入した。その後彼らはトゥスクルムを攻撃し始めた。トゥスクルムはローマの古い同盟国であり、現在はローマの市民権を得ており、当然彼らはローマに助けを求めた。トゥスクルムの窮状は元老院だけでなく平民の同情を誘い、トゥスクルムを助けないのはローマの恥だと人々は考えた。護民官はついに折れ、執政副司令官の選挙を承認した。暫定最高官が任命され、占拠を管理することになった。そして以下の6人が執政副司令官に選ばれた。l・フリウス、A・マンリウス、Ser・スルピキウス、Ser・コルネリウス、P・ヴァレリウス、C・ヴァレリウス。
執政副司令官たちは選挙の時は気づかなかったが、徴兵を始めると、平民が反抗的なのに気づいた。苦労の末、執政副司令官はなんとか軍隊を編成できた。ローマ軍はトゥスクルムに向かい、城壁の前の敵を引きはがすと、敵は城内に逃げ込んだ。その後ローマ軍は植民者の本拠地であるヴェリトラエを攻撃することにしたが、ヴェリトラエの攻略はさらに大変だった。ヴェリトラエを包囲したが、ローマ軍の司令官はこの町を攻め落とすことができなかった。そこで司令官を一新することになり、新しく6人の執政副司令官が選ばれた。Q・セルヴィリウス、C・ヴェトゥリウス、A・コルネリウス、M・コルネリウス、Q・クインクティウス、M・ファビウス。
司令官が代わっても、ヴェリトラエの状況は少しもよくならなかった。一方国内が危機的な状態になった。リキニウスとセクスティウスは8回連続して護民官に選ばれた。リキニウス・ソルトの義父であるファビウス・アンブストゥスが二人を支持していた。ファビウス・アンブストゥスは前面に出て、自分が始めた一連の処置の正当性を主張することにした。最初は、護民官団の中の8人が彼の提案に反対していたが、現在反対する者が5人に減った。反対を続ける5人は自分の階級を裏切った人間がそうであるように、追い詰められてどぎまぎし、貴族にひそかに教え込まれた理屈を並べて自分の立場を弁護するのだった。5人は次のように主張した。「多くの平民がヴェリトラエの戦場に行っているので、兵士たちが戻るまで、市民集会を延期すべきだ。平民の利益に関係する事柄は全員出席のもとで採決すべきだ」。
長年平民を扱ってきて、平民の扱いに熟練しているセクスティウスとリキニウスは味方の同僚たちと共に、執政副司令官であるファビウス・アンブストゥスの協力を得て、貴族の指導者たちを呼び出し、彼らの庶民に対するやり方について、一つ一つ質問した。「あなた方は、平民には2ユゲラの土地しか与えないないくせに、自分たちは500ユゲラ以上の土地を要求している。図々しいとは思わないのか。実際、一人の貴族が平民300人分の土地を所有できる。それに対して、平民の土地は雨をしのぐ屋根の広さほどしかない。墓の場所を確保するのも難しい。借金で平民が押しつぶされるのは、あなた方の喜びなのか。彼らが奴隷っとなって足かせをはめられ、罰を受けるのが、楽しいのか。平民が元金の2倍を完済して自由になるのは、面白くないのか。大勢の平民が債権者の所有物となり、広場から連れ出されるのが、面白いか。貴族の家が囚人であふれるのが、愉快か。どこの貴族の家にも私的な牢屋があるのがよいのか」。
   
【37章】
貴族の非道なやり方について、彼らは人々の面前で告発した。この問題は聴衆にとって切実な問題だったので、告発者の想像以上に聴衆は貴族に対して怒った。セクスティウスとリキニウスは告発を続けた。
「結局、貴族による国有地の接収と高利貸しによる平民の殺害には限度がない。これをやめさせ,平民の自由を守るには平民出身の執政官を選ぶしかない。貴族の使い走りをする護民官がいて、拒否権を行使するので、護民官の制度が破壊されてしまった。護民官は今や軽蔑の対象となった。行政権が貴族の手にある限り、公平で正しい統治は期待できない。なぜなら護民官は拒否権を行使することによって自らを否定してしまったからだ。行政権が平民に開放されない限り、平民にはは発言権がない。執政官の選挙に参加できるだけでは無力だ。少なくとも執政官の一人が平民から選ばれるようにしない限り、平民の執政官は誕生しない。そもそも執政官が最高官だったのに、最高官を執政副司令官に変えたのは何のためだろう。貴族は忘れているようだが、それは平民も最高官になれるようにするためだった。それなのに、44年間一人の平民も執政副司令官に選ばれなかった。貴族はどのように考えたのだろう。最高官の地位に慣れた貴族8人が執政副司令官に就任すれば、2人の平民をを執政副司令官にしてもよいと考えたようだ。しかし10人の最高官は多すぎるとわかり、貴族だけの6人にしたのだろう。こうして長い間平民を執政副司令官に就任させなかったので、今後は平民が執政官なるのを認めようと考えるようになったのだろうか。貴族がどう考えたかはともかく、平民は貴族の恩恵によっては得られない地位を法律によって手に入れなければならない。議論の余地なく、執政官の一人は平民がなるように決めなければならない。執政官の一人を平民と限定せず、自由競争にするなら、必ず強い階級の者が執政官に選ばれてしまうだろう。昔は貴族が平民の挑戦を受けて苛立ったものだが、今では最高官にふさわしい平民は絶滅したので、貴族はいらだつことがなくなった。P・リキニウス・カルブスが平民として初めて執政副司令官になって以後、貴族の政府は魂を失ったようようになり、貴族が執政官を独占していた時代の活力がなくなったのだろうか。いやそんなことはない。最高官の職を終えてから弾劾された貴族が数人いる。執政副司令官になった平民が少ないとしても、弾劾された平民は一人もいない。執政副司令官の地位と同じようにクァエストルも数年前から平民が選ばれるようになった。
    (日本訳注:⓵ 「 P・リキニウス・カルブスが平民として初めて執政副司令官になったのは、紀元前400年。② クァエストルは執政官の下僚で、財務と裁判とを担当した。)
執政副司令官やクァエストルになった平民に対して、市民が不満を述べたことは一度もない。平民に残された最後の課題は平民の執政官を誕生させることである。これは平民の自由を保障する最も確かな手段である。もし平民がこれを実現したら、君主制がローマから完全に消えたとわかるだろう。その時こそ平民の自由が揺ぎ無く確立されるのである。これまで貴族が独占してきた優越性、すなわち政治力、権威、軍事的栄光、貴族的な性格が、平民のものになるのである。平民は偉大さを享受し、その偉大さをを子孫に残すのである」。
自分たちの演説が承認されたのを見て、セクスティウスとリキニウスは新しい提案をした。これまで二人の神官が「聖なる書物」を管理してきたが、これに代わり、10人で構成される神官団の創設を提案をしたのである。10人の神官団の半分を貴族から選び、残りの半分を平民から選ぶのである。執政官の一人を平民から選ぶこと、そして「聖なる書物」を管理する神官を10人に増やし、5人を平民から選ぶことを決めるは、ヴェリトラエを包囲しているローマ軍が帰還してからになった。

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6巻34ー35章

2024-09-28 04:31:30 | 世界史

【34章】
ローマ軍が複数の戦争に勝利すると、ラティウム地方とその周辺に平和が訪れたが、国内の争いが悪化した。貴族の暴力が激化し、平民の苦しみが増した。平民が借金を返済しようにも、支払いを待ってくれなかった。どうすることもできないでいると、判決が下されてしまい、彼らの素晴らしい名前と身体の自由を引き渡さなければならなかった。借金を払えない者はこのように処罰されるのだった。平民の中の特に貧しい者だけでなく、指導的な人物さえもこのように恐ろしい運命に落ちるのだった。その結果、活力があり、野心的な平民はいなくなり、貴族と肩を並べて執政副司令官になろうとする平民がいなくなり、護民官になろうとする者さえいなかった。つい最近初めて平民出身の執政副司令官が誕生したというのに(379年 、6巻30章)、今や遠い昔のことのように思えた。ここ数年貴族の威信が失われ、平民の進出を許していたが、貴族は絶えず自分たちの威信を取り戻そうとしていて、ついに成功したようである。しかし限度を超えた貴族の横暴を抑止する役割を果たす事件が起きた。事件自体は些細な出来事だったが、しばしばそうであるように、重大な結果を招いた。貴族の一人、M・ファビウス・アンブストゥスは貴族の間で絶大な影響力を有していた。また彼は平民を見下さなかったので、平民の間でも信望があった。彼には二人の娘がいたが、姉娘は Ser・スルピキウスと結婚し、妹は C・リキニウス・ストロと結婚していた。C・リキニウスは平民であるが、傑出した人物だった。M・ファビウスはこの婚姻を下位の者との結びつきと考えていなかったので、M・ファビウスは大衆の間で人気が高かった。ある日、姉妹はスルピキウス家(=姉の家)にいて、会話をしていたが、中央広場から帰ってきた執政官が通りかかり、彼の付き人がいつものように形式的に杖でドアをノックして、去って行った。姉の家に来ていた妹は慣れない習慣に驚いた。するとスルピキウス婦人である姉は妹の無知を笑った。「そんなことも知らないの」。
姉の笑いは侮辱として妹の胸に突き刺さった。妹は些細なことで興奮する性格だった。ちょうど大勢の召使が女主人の命令を伺いに来ていた時だったので、彼女は姉より下位に見られるのは我慢がならなかった。この出来事をきっかけに、妹は自分の結婚は失敗だったと考えるようになった。「姉は幸運な決結婚をしたのに」。
妹がこの悔しい事件から立ち直れないでいる時、彼女の父 M・ファビウスが訪ねてきた。「元気でいるかね」と父は娘に言った。
娘は姉によそよそしく、自分の夫を尊敬していない様子だった。娘はその理由を隠そうとしたが、父は優しく、しかしはっきりと、娘の様子がおかしいと告げた。娘はついに悲しみの原因を告白した。「私は自分より低い身分の男性と結婚してしまった。名誉と無縁で政治的な影響力もない人と結婚したの」。
ファビウス・アンブストゥスは娘を慰め、「元気を出しなさい」と言った。「そのうちお前が嫁いだリキニウス家は姉の嫁ぎ先に劣らず名誉ある、立派な家だとわかるよ」。
この日以来、父ファビウス・アンブストゥスは娘の婿と共同で計画を立て、L・セクスティウスに相談した。セクスティウスは積極的な若者で、貴族でないにもかかわらず、際限のない野心を持っていた。
【35章】
多くの平民が借金の重圧に苦しんでおり、変革の気運が訪れた。平民は自分たちの階級の人間を国家の最高の地位に押し上げない限り、借金の重圧から逃れることは不可能だった。この目標に到達するためには、最大限の努力をしなければならないことを、平民は理解していた。実際平民はこれまでの努力のおかげで足掛かりを得ており、あと一押しで最高の地位を獲得し、貴族と同等の権威を持つようになれるだろう。勇気という点で、彼らは既に貴族と同等なのである。とりあえず、C・リキニウスと L・セクスティウスは護民官になることにした。護民官という立場で二人はもっと高い地位を得るための地ならしができるだろう。護民官に就任すると、二人の行動のすべてはは貴族の力と影響力との戦いに向けられ、二人は平民の利益を増進するよう最大限の努力をした。彼らはまず初めに借金という差し迫った問題に取り組み、利子として支払われた金額を元金から引いた。そして残りの借金は三分の一ずつ三年かけて払うことにした。護民官となった二人の次の仕事は、国有地の占有を500ユゲラに制限したことだった。さらに重大な三つ目の仕事は、執政副司令官の選挙をやめ、最高官を二人の執政官に戻し、貴族と平民から一人ずつ選ぶようにしたことである。以上の三つはどれも極めて重要な決定であり、激烈な闘争なしに実現することは困難だった。
この三つは土地、お金、名誉に関係しており、貴族の感情を刺激せず済むはずがなく、血を見る争いが起きるのは確実だった。実際貴族は護民官のあまりの大胆さに呆然とした。元老院と貴族の私邸で激しい口論が交わされたが、以前の闘争で採用した手段以外、良い考えが思いつかなかった。それは毒を毒で打ち消す方法、つまり二人以外の護民官に拒否権を行使させることだった。二人が出した三つの提案を否決するよう、貴族は残りの護民官たちに働きかけた。リキニウスとセクスティウスが部族会議を招集し、投票を求めようすると、貴族の手先となった護民官が貴族の警護団に取り巻かれながら現れ、法案の読み上げを中止し、平民が投票又は決議する際のその他の手続きを差し止めた。部族会議は数週間前から開かれていたが、まだ何も決まっていなかった。話し合われた議題はすべて死産となった。それでもセクスティウスはくじけなかった。彼は言った。
「よし、わかった。拒否権がこれほどの力を持つなら、今度は私がこの強力な武器を平民の保護のために使ってやろう。次の執政副司令官の選挙が良い機会だ。貴族の使い走りをする護民官が貴族の利益のために発した、あの言葉『私は禁止する』を、今度は私が連中にぶつけよう。貴族の諸君、恐ろしい一撃を覚悟してくれ」。
セクストゥスの言葉はから脅しではなかった。護民官とその補佐官の選挙が実施され、リキニウスとセクスティウスは再び護民官に選ばれた。すると二人は最高官の選挙をさせなかった。平民は繰り返し二人を護民官に選び、二人は繰り返し、執政副司令官の選挙を中止した。こうして、執政副司令官の不在な年が5年続いた。

      ーーーーーー(日本訳訳解説)ーーーーーーーーーー
紀元前146年ローマはカルタゴを滅ぼし、地中海帝国への道を歩み始める。しかし国家の急激な拡大はローマの社会を激変させ、閥族貴族は広大な領地の経営により、ぼう大な富を蓄える。その一方で、自営農民の多くが没落し、消滅した。このような社会の激変を背景に、ローマは「動乱の一世紀」に突入する。紀元前133年、護民官となったティベリウス・グラックスは農民救済と大土地所有の制限に乗り出す。しかし、この時代の大貴族は紀元前4世紀前半の貴族より狂暴になっていた。彼らは護民官の一部を抱き込んで、拒否権を行使させ、グラックスの法案をつぶした。それでもグラックスが引き下がろうとしなかったので、閥族貴族は 彼を暗殺してしまう。ティベリウスの死後、弟のガイウスが兄の遺志を受け継ぎ、土地改革を実現しようとするが、彼の試みも伝家の宝刀「同僚護民官の拒否権」の行使によりつぶされる。そして結局、ガイウスも暗殺されてしまう。ローマが世界帝国へと乗り出した直後に起きたグラックス兄弟の事件は非常に印象的である。それはローマ社会の矛盾を鋭く反映した事件だからではないだろうか。改革者のグラックス兄弟と大貴族の間に歩み寄りはなく、残酷な形で決裂したことも、この事件が鮮烈な印象を与える原因となっているのだろう。グラックス兄弟を暗殺したことで、この問題は片付いたように見えたが、実はそうではなかった。この問題は根深く、グラックス兄弟の事件は動乱の世紀の始まりに過ぎなかった。動乱の世紀はカエサルの死を経て、オクタビアヌス政権の誕生で終わる。
同時に共和制 が終わり、元老院は最高権力者の地位を皇帝に譲ることになる。カエサルを殺し、厄介払いした元老院だが、結局絶対的な地位を失う。
グラックス兄弟を挫折させせたのは、同僚護民官による拒否権の行使である。最高官の執政官が二人いるのは、万一片方が暴走した場合、もう一人がブレーキをかけるためであり、ローマの民主制を保障する巧妙な仕組みである。同じように護民官も複数いて、全員に拒否権が与えられている。それは護民官の誰かが暴走するのを防ぐためである。民主主義のすべての仕組みは根本的な変革を困難にしている。貴族と平民の利害が対立している場合、貴族は護民官の一部を抱き込み、拒否権を行使させればよいのであって、平民は貴族の利益に反することは何もできない。護民官に与えられている拒否権が、いかに護民官を無力にするか、グラックスの250年前のローマ人は知っていたのである。紀元前376年の護民官 C・リキニウスと L・セクスティウスはグラックスと同じ挫折を経験していた。リヴィウスは護民官に認められている拒否権がいかに護民官を無力にするか、よく描いている。貴族に抱き込まれるのをよしとする平民が護民官に選ばれるのを許すなら、平民の地位の向上を目指す、いかなる努力も否定されてしまう。つまり護民官の制度が無意味になってしまう。護民官に認められている「拒否権」は護民官という制度の根幹に関わる問題であることを、リヴィウスは紀元前376年の記述の中で指摘している。リキニウスとセクスティウスの大胆な3つの改革が同僚の拒否権によってつぶされ、二人は挫折を味わったと思うが、セクスティウスは並外れた胆力があり、新たな挑戦に取り掛かる。しかしこの新たな挑戦は不可解である。すべての護民官が有する拒否権は同僚の行動を阻止する権限である。執政副司令官の選挙は国家の規定であり、誰かがこれを中止することはできない。最高官を執政副司令官ではなく、執政官又は独裁官に変更する権限もっているのは元老院である。執政副司令官、執政官、独裁官のいずれも選ばないというようなことは誰にもできないが、唯一それをできる者があるとすれば、元老院である。護民官の拒否権は同僚の決定を撤回する権限であり、元老院の決定を否定する権限ではない。しかし不思議なことに、二人の護民官が最高官の選挙を止めたという古い記録が存在したようである。歴代執政官のリストは古い記録とリヴィウスの記述に依拠して、紀元前375ー371年の5年間は最高官が不在としている。この5年間について、執政官のリストには執政官の名前も執政副司令官の名前も書かれていない。
かなり異常であるが、5年間最高官が不在だったことは事実であるようである。ただし、それは護民官が拒否権を行使したからではなく、平民が熱狂的にリキニウスとセクスティウスを支持していたので、貴族が平民の反乱を恐れて日和見したのだと思う。また影響力のある有力貴族ファビウス・アンブストゥスが二人の護民官を応援していたので、貴族たちは一歩引いたのだろう。ファビウス・アンブストゥスはリキニウスとセクスティウスを単に応援していただけでなく、そもそも彼が重要な改革を二人に働きかけたのであり、首謀者だった。

     ーー---ーーーー(解説終了)

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6巻31ー33章

2024-09-15 06:30:32 | 世界史

【31章】
新しい執政副司令官は、Sp・フリウス、Q・セルヴィリウス(2回目の就任)、L・メネニウス(3回目の就任)、P・クロエリウス、M・ホラテイウス、L・ゲガニウスだった。彼らの就任後間もなく、激しい騒動が発生した。原因は借金による苦しみだった。Sp・セルヴィリウス・プリスクスと Q・クロエリウス・シクルスが査察官に任命され、仕事に取り掛かったが、戦争が始まり、査察は中断した。ヴォルスキの複数の軍団が広範囲に略奪を開始した。パニックに陥った報告者の知らせに続き、郊外の地区から大勢の人が逃げて来た。これまで国内の衝突を解消するため始められた外国との戦争に対し、護民官が断固たる決意で徴兵を妨害した。その結果護民官は二つの条件を貴族に飲ませることに成功した。条件の一つは戦争が終わるまで、市民に戦争税を払わせることであり、もう一つは借金の返済を理由に裁判に訴えないことである。平民が借金の支払いから解放されて以後、徴兵に対する妨害は起きなかった。兵士が召集され、二つの軍団が編成された。どちらの軍団もヴォルスキの領土に向かった。Sp・フリウスと M・ホラテイウスは右方向に進み、アンティウムと沿岸地方に向かった。Q・セルヴィリウスと L・ゲガニウスは左方向へ進み、エケトラと山岳地方に向かった。しかしローマの二つン軍団は敵に出会わなかった。それで両方の軍団はヴォルスキ軍とは違ったやり方で、それぞれの地方を略奪し始めた。ヴォルスキ軍はローマの国内が分裂しているので勢いづいたものの、ローマ軍の精強さを恐れており、まるでならず者のように正規軍の出現を恐れながら、こそこそと辺境地帯だけを略奪した。これに対してローマ軍は復讐心から怒りにまかせて徹底的に略奪したので壊滅的な被害をもたらした。またローマ軍はヴォルスキ軍を挑発し、戦闘に引きずり込むために敵の領内に長く留まった。点在する家々のすべてに火をつけ、いくつもの村を焼き尽くした。村には一本の果実の木も残らず、この年は何も収穫できなかった。ローマの二つの軍団は町の郊外に住む農民と家畜を戦利品として首都に連れ去った。

(日本翻訳注:エケトラはヴォルスキの町であるが、早い時期に消滅し、場所は不明。リヴィウスの記述からアンティウムの北東であることがわかるが、アンティウムからどの程度離れているかはわからない。紀元前495年エケトラはローマに敗れ、領土の一部をローマに割譲した。紀元前464年エケトラはアエクイと同盟し、ローマに反乱したが、再び敗れた。)
【32章】
負債を抱えるローマ市民は返済を一時的に猶予されていたが、戦争が終わり平和になると、大勢の市民を借金の抵当として債権者に引き渡す判決がなされた。古い借金が減額される希望は消えた。これに加え、査察官が新しい城壁の建設を契約し、新税が必要となり、市民は新たな借金をしなければならなかった。貴族が優勢なため、護民官は徴兵を妨害できなかったので、取引の材料がなく、平民は税金を支払うしかなかった。貴族が影響力を行使し、平民が執政副司令官に選ばれないようにした。執政副司令官に選ばれたのは、L・アエミリウス、P・ヴァレリウス(4回目の就任)、C・ヴェトゥリウス、Ser・スルピキウス、L・クインクティウス・キンキナトゥス、C・クインクティウス・キンキナトゥスだった。ラテン人との戦争に向けて、3個軍団の編制が必要になったが、よいことに貴族の力が優勢だったので、徴兵を実行できた。兵役の義務がある市民は全員、司令官に忠誠を誓った。徴兵を妨害する者はいなかった。軍団の一つは首都の防衛にあたり、もう一つの軍団は突然敵が出現した場合、直ちに出動できるよう待機した。三つ目の軍団は最強であり、P・ヴァレリウスと L・アエミリウスに率いられて、サトゥリクムに向かった。敵が有利な地形を背景にして現れたので、ローマ軍はすぐに攻撃した。ローマ軍は決定的な勝利に至らなかったが、優勢だった。この時突然嵐となり、風が強く、雨が降り、戦闘は中止された。翌日敵はローマ軍に劣らず勇敢に、互角に戦った。特にラテン人の軍団は長年ローマ軍と一緒に戦ってきたので、ローマ軍の戦術を熟知しており、強かった。ローマの騎兵の攻撃により、敵の戦列が崩れ、立ち直る間もなく、ローマの歩兵が襲い掛かり、敵は押し込まれ、後退し始めた。こうなると、敵はローマ軍に抵抗できなかった。敵は逃亡し始めた。彼らは、陣地に向かわず、3km 離れたサトゥリクムまで逃げようとしたが、ローマの騎兵に追いつかれ、多くがなぎ倒されて、死んだ。ローマ軍は敵の陣地を占領し、略奪した。翌日の夜、敵はサトゥリクムを抜け出し、アンティウムへ逃亡した。ローマ軍は彼らの後を追った。敵は恐怖に追い立てられて逃げたので、ローマ軍との距離が開いた。彼らの逃げ足が速かったので、ローマ軍は彼らを襲うことができず、逃げる速度を遅らせることができなかった。彼らはローマ軍を振り切り、アンティウムに逃げ込んだ。ローマ軍は城壁攻撃のための機械が不足していたので、数日間アンティウムの周辺を略奪した。敵は敢えてローマ軍を攻撃しなかった。
【33章】
アンテイアテスとラテン人の間で口論が始まった。アンテイアテスは敗北に打ちひしがれ、多くの兵士を失い、和平を考えていた。一方ラテン人は長い平和の後で、戦意が高く、やる気満々で戦闘を続けるつもりにりだった。お互いに相手を説得した結果、それぞれ、最善と考える決定をすることになり、論争は終わった。ラテン人は戦争に行った。彼らは和平を不名誉と考えており、和平に関するすべてを投げ捨てた。一方アンテイアテスにはは有益な助言者たちがいたが、たまたま彼らが留守にしている時に、不利な助言を受け入れてしまい、都市と領土をローマに明け渡した。ラテン人は怒りで歯ぎしりしていたが、戦争でローマには勝てないと知った。それで彼らはヴォルスキ人を戦いに立ち上がってもらおうと、サトゥリクムに放火した。サトゥリクムは彼らが敗北したら最初に逃げ込もうとしていた場所だった。彼らはたいまつを世俗の家々だけでなく、聖なる家にも投げ込んだ。聖母の神殿に住んでいた人々を除き、都市の住人はみな逃げた。ラテン人が放火をやめたのは、宗教的なためらいや神々を恐れたからではなく、神殿から恐ろしい声が聞えたからであると伝えられている。その声は言った。「もし神殿の近くで火を放ったら、恐ろしい罰を受けるだろう」。
狂気のラテン人は次にトゥスクルムを攻撃した。トゥスクルムはラテン人の会議から逃亡しした上、ローマの唯一の同盟国となり、市民権まで得たからだった。攻撃が不意打ちだったので、ラテン兵は自由に門から入ることができた。町は砦を除き、最初の一撃で占領された。市民は妻と子供を連れて砦に避難した。トゥスクルムは伝令をローマの元老院に派遣して、窮状を知らせた。ローマの市民は直ちに援軍の派遣を求め、L・クインクティウス・キンキナトゥスとSer・スルピキウスが司令官になった。ローマ軍がトゥスクルムに到着すると、すべての門が閉まっていた。ラテン兵は勝利後すぐにローマ軍が迫ってきたので、城壁の防衛に専念すると同時に砦を攻撃した。ローマ軍の到着はラテン兵と砦の市民の両方に変化をもたらした。暗鬱な現状に絶望していたトゥスクルムの市民は一転して元気になり、砦の素早い占領に自信を得ていたラテン兵は、町を所有しているものの、身の安全に危険を感じ絶望的になった。トゥスクルムの市民が砦の中から掛け声を上げると、城外のローマ軍がそれに答えて、さらに大きな掛け声を上げた。ラテン兵は両側から圧迫された。高い場所からトゥスクルム人が攻撃してくるし、ローマ兵は城壁を登り始め、門に張り付いていた。ラテン兵はローマ軍に対抗できなかった。ローマ兵は梯子を使い、まず城壁を越えた。続いて門を打ち破った。前と後ろからの二重攻撃に出会い、ラテン兵は戦意を失った。その上彼らは逃げ場がなかった。二つの軍の間で、彼らは最後の一兵まで殺された。

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6巻28ー30章

2024-08-27 04:34:13 | 世界史

【28章】
貴族と平民間の闘争が原因で、ローマ軍が編成されず、司令が決まらないという知らせがプラエネステに届いた。これを好機と見たプラエネステの将軍たちは直ちに軍隊を率いてローマに向った。プラエネステを出ると、放置された荒れ地が広がっていたが、彼らはそこを抜けて、ローマのコリナ門を目ざした。ローマの市民の間には恐怖が広がった。男たちは「武器を取れ」と叫びながら、城壁や市門に向かった。ローマ市民は反乱を中止し、敵に立ち向かった。T・クインクテイウス・キンキナトゥス が独裁官に任命された。独裁官は A・センプロニウスを騎兵長官に任命した。プラエネステの兵士たちはクインクテイウスが独裁官になったことを知ると、すぐに城壁から後退した。独裁官が徴兵を宣言すると、兵役に該当するローマ市民は迷わず集まった。ローマ軍の編制が進んでいる時、プラエネステ軍はアリア川の近くに陣地を定めた。ここを拠点として彼らは広範囲に略し、地域を荒廃させた。ローマにとって重要な輸入路であるアリア川の土手を占拠したことを、プラエネステの兵士たちは幸運と考えた。なぜならローマ市民がガリア人の襲来の時のようにパニックに陥るに違いないからである。ローマ人は敗北の日を「アリア川の日」と呼んで呪っており、最悪の戦場となったアリア川は彼らにとって恐ろしい場所に違いない。ローマ兵はアリア川と聞くだけで、ガリア人の幻影が目に浮かび、ガリア人のおぞましい叫び声が聞こえ、震えあがるだろう。こうしたあてもない想像にふけりながら、プラエネステ軍の兵士たちは彼らの幸運を場所に賭けた。一方でローマ軍はラテン人の兵士をよく知っており、彼らがどこにいようと恐れるに足りないと考えていた。ラテン人はレギッルス湖の戦いで敗れて以来、100年間ローマに臣従しきたのである。アリア川がローマの大敗北を想起させるとはいえ、ローマ兵はこの記憶を拭い去り、他の不吉な場所同様勝利の妨げにはならなかった。たとえガリア兵が再びアリア川に現れたとしても、かつて彼らから首都を奪回した時のように、再び戦うまでである。首都奪回の翌日、ローマ軍はガビーでガリア軍を壊滅させ、ガリア兵は一人も生き残ららず、自軍の全滅を祖国に知らせることもできなかった。
【29章】
プラエネステ軍はローマ兵が過去の敗北に引きずられていると期待し、他方ローマ軍は勝利だけを考え、両軍はアリア川の土手ので出合った。プラエネステ軍が戦陣を組んでで進んでくるのを見て、独裁官は騎兵長官  A・センプロニウスに言った。「敵はガリア兵と同じ場所にいるぞ。かつての戦いの再現を期待しているようだ。場所が縁起が良いことなど頼りにならないし、自分が弱ければ誰も助けてくれない、と彼らに教えてやろう。君と騎兵が頼っているは自分の武力と勇気だよな。諸君は全速力で敵の正面を突いてくれ。私と歩兵は崩れた敵に襲い掛かる。条約が守られているか見張っている神々よ!我々を応援してください。神々に違反した敵に罰を与えてください。連中は我々を裏切りました。彼らの訴えを無視してください」。
ローマの騎兵と歩兵の攻撃により、プラエネステ軍はあえなく崩れた。最初の一撃と叫び声で、彼らの戦列は乱れ、間もなくすべての隊列が崩れ、プラエネステ軍は大混乱となり、兵士は背中を見せて逃げだした。彼らは恐怖のあまりひたすら逃げ、陣地を通り過ぎ、プラエネステの町が見えるところまで来て、ようやく逃げるのをやめた。彼らは再結集し、適当な場所を見つけて陣地を構築し防御を固めた。市内に逃げこもうとしなかったのは、領内に火をつけられるのを恐れたからだった。領内には8つの町が存在した。これらの町が荒廃した後、結局プラエネステが包囲されるだろうと彼らは考えたのである。ローマ軍はアリア川で敵の陣地を略奪すると、プラエネステに向かった。ローマ軍が近づいてくると、プラエネステ軍はせっかく造った陣地を棄てて、市内に逃げ込んだ。プラエネステは周囲の8つの町を所有していた。ローマ軍はこれらの町を次々に攻撃し、ほとんど抵抗されずに攻略した。その後ローマ軍はっヴェリトラエへ向かい、勝利した。そして最後に戦争の発端であり、中心であるプラエネステに戻ってきた。プラエネステ軍は戦わず降伏した。ローマ軍はこの町を占領した。ローマ軍は戦争に勝利し、二つの陣地を奪取し、プラエネステの支配下にある8つの町を攻略し、主敵であるプラエネステの降伏を受け入れた。ティトゥス・クィンクティウスはローマに帰った。
   (プラエネステはローマの東35kmでラテン地域のはずれにある。現在のパレストリーナである。ヴェリトラエはアルバ湖の南東にあり、プラエネステから離れている。ヴェリトラエはヴォルスキの都市だったが、ローマの第4代国王アンクス・マルキウスによって征服された。)
勝利の行進で、クィンクティウスはプラエネステから持ち帰ったユピテルの像をカピトルの丘まで運んだ。ユピテル像はユピテル神殿とミネルバ神殿の間の奥まった場所に安置された。像の台座に独裁官の勝利を記した金属板がはめ込まれた。金属板には「ユピテルとすべての神々が独裁官ティトゥス・クィンクティウスに勝利をもたらした」と書かれていた。独裁官就任から20日後にクィンクティウスは辞任した。
【30章】
翌年の執政副司令官の半分が平民から選ばれた。貴族から選ばれた3人は C・マンリウス、P・マンリウス,L・ユリウスである。平民の3人は C・セクスティリウス、M・アルビニウス、L・アンスティティウスである。二人のマンリウスは貴族なので平民の3人より優位にあり、貴族であるユリウスより人気があった。二人のマンリウスはくじ引きをせず、他の執政副司令官と話し合いをせず、元老院と相談しただけでヴォルスキ戦の指揮官となった。後で二人と元老院は勝手に決めたことを後悔することになった。指揮官となった二人は偵察兵を出さずに、略奪を開しした。略奪に行った兵士たちが包囲されたという誤報を信じて、二人はすぐに援軍を送った。虚偽の報告したのはローマ兵のふりをしたラテン人であり、ローマの敵だった。二人のマンリウスは報告者の素性を調べるのを怠った。二人が派遣した援軍は突然待ち伏せ攻撃を受けた。不利な地形にもかかわらず、ローマ軍は勇気だけで必死に持ちこたえた。同じ頃、平原の反対側でローマ軍の陣地が攻撃された。二人の将軍の無知と性急さが原因で、ローマ軍は二方面で全滅しそうになった。幸運により、また指揮官の命令がないまま兵士たちは勇気だけで切り抜けるしかなかった。ローマ軍の危機が首都に伝えられると、いったん独裁官を任命することになった。しかし続いて第二報が届き、ヴォルスキ軍の動きが止まったこと知らされた。ヴォルスキ軍は勝利を目前にしながら、決着をつけられずにいた。間もなく彼らを呼び戻す命令が来て、ヴォルスキ兵は去っていった。
ヴォルスキ戦が終了すると、平和が続いたが、年末にプラエエステが再び反乱した。プラエエステはラテン人を誘ってローマに敵対した。
同じ頃セティアの植民者たちが、自分たちの人数が少ないと不満を言ってきたので、ローマは新たな植民団を送った。  
  (セティアはローマの南東65km、サトゥリクムの東。サトゥリクムはポンプティン地方の北部にあるが、セティアは同地方からはずれ、北方にあるが、高台にあるので、ティレニア海が見える。セティアはヴォルスキの町だったが、紀元前382年ローマは植民地を設定した。セティアは現在のセッツェである。)
プラエエステとの戦争が起きたが、国内は安定していた。安定をもたらした要因は、執政副司令官のうち半分が平民だったことである。彼らは平民に影響力を有し、平民の間で権威があった。

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