紀元前133年の護民官ティベリウス・グラックスが没落農民の救済のためめに奮闘したが、改革を実現できないまま、暗殺されてしまった。紀元前376年の護民官となったセクスティウスとリキニウスは10年間連続して護民官となり、苦闘の末平民の地位向上のための法律を実現した。二人が実現した4つの法案は平民を貴族と同等にするものであり、多くの貴族にとって、とんでもない法案だった。二人の法案は、近代フランスの革命やロシアの革命の匹敵する、過激な法案であり、グラックス兄弟の改革案に匹敵するものだった。しかも一滴の血も流れなかった。セクスティウスは前366年の執政官に就任し、リキニウスは前361年の執政官に就任した。権力者の譲歩は危険である。権力者が弱さを見せれば、大衆は怖い者無しの心境になり、秩序は崩壊し、万人が権力者になろうとするだろう。その結果、万人が万人と戦うことになり、無法者が幅を利かせることになる。この状態は結束力のある集団が残りのすべてを屈服させるまで続く。紀元前367年のローマにおいて、元老院は自分たちの命取りになるような譲歩をしたが、社会の秩序は崩れなかった。この時代社会の歩みは緩やかであり、元老院の権威はまだ失われていなかった。貴族と平民は対立していたが、貴族と平民の両方に、ローマ市民としての一体感がある程度残っていた。平民は奴隷ではなく、ローマ市民であると考える貴族がいて、彼らは一定の影響力を持っていた。政治的に先鋭化した護民官はともかく、平民の多くは貴族支配受け入れていた。共和制の成立から130年経っていたが、社会の分裂は限定的だった。このような時期には、権力側が致命的な譲歩をしても、政変には至らず、むしろ賢明な対処の仕方なのだろう。セクスティウスとリキニウスの挑戦はグラックス兄弟の改革に匹敵大胆なものだったが、まったく異なる結果となった。セクスティウスとリキニウスの挑戦は、ローマ史の中でも特に注目すべき出来事だった。
リヴィウスは建国史の序章で次のように書いている。「ローマの発展をもたらした指導者の言動を記録した。紀元前1世紀頃からの政情不安の原因である道徳的腐敗を描くことを心掛けた。ローマの国民がどのように生き、いかなる風習を持ち、いかに領土を拡大し、いかに風紀が乱れていったかを理解していただきたい」。
リヴィウスは紀元前1世紀頃からカエサルの死を経てオクタヴィアヌスが勝利するまでの動乱に関心があり、その原因を知りたいという強い動機があったのである。リヴィウスは、ローマが地中海帝国への基礎を築いた時期を称賛することより、その時代の国内の惨状に目を向けていたのである。
以下で述べるが、19世紀以後の歴史学者たちはリヴィウスのローマ史には史実と異なる部分があると考えている。昔から伝えられている伝説が史実ではないことが少なくない。ギリシャ人の間で「歴史の父」と呼ばれるヘロドトスは中東各地に残る伝説を記録したが、ヘロドトスの少し後に執筆したツキジデスは伝えられている話が真実とは限らないことに気づいていた。ツキジデスは伝えられている話を検証し、虚偽と真実をより分ける作業をした。ツキジデスに続く歴史家は「どれほどくわしく語られていても、真実とは限らない」と述べている。19世紀以後の歴史学者たちにとって、客観的な史実を探ることが仕事となっている。話の出どころが一つしかない場合、どれだけ多くの人が語る話でも、真実かどうかはわからない。それとはまったく違う話が埋もれてしまったかもしれない。出所が違う話、特に対立する立場の人の話を掘り起こすことが必要になった。また互いに対立する話のどちらが正しいかを判別するために、第三者の証言やぶ的な証拠が必要になった。真実を探ることは途方もない作業であり、真実は闇の中であることも少なくない。以下で述べるが、リヴィウスの時代には多くの一次資料や歴史書が存在したが、これらはほとんど失われてしまった。比較すべき別の資料や歴史書しかないため、リヴィウスの建国史の検証が難しくなっている。明らかに事実に反する叙述が葬り去られるのは良いことであるが、リヴィウスのローマ史については、単に虚実を見極めようとするだけでなく、一つの時代を深く理解しようという姿勢が求められる。リヴィウスの建国史には「読ませる何か」がある。私は、グラックスの時代やカエサルの時代を理解するには共和制前半のローマについての理解が必要だと痛感した。ウイキペディアに建国史の英訳があったので、読み始めた。建国史の英訳を読むついでに、訳すことにした。建国史には古い訳があるのを知っていたが、新しい訳が出版されているのを知らなかったので、新しい訳も必要だろうと思った。建国史は退屈な面もあったが、時々強く引き付けられ、投げ出さずに、6巻まで読み終えた。共和制前半で知られているのはカミルスぐらいで、この時期のローマ史に対する関心は低いと思うが、カエサルの時代やポエニ戦争に興味のある人にとっては、共和制前半について知ることは意味があるし、けっこう面白い。特に、私はセクスティウスとリキニウスの話を読むことで、グラックス兄弟について一般的な説明とは違う角度から見る視点があるのを知った。リヴィウスはグラックス兄弟と同じように、ローマ社会の崩壊に心を痛めていた。グラックス兄弟は報われない改革者として葬られたが、兄弟の心情を間接的に説明するリヴィウスの著書は残った。
セクスティウスとリキニウスについての話は歴史的事実ではなく、作り話だという説がある。リヴィウスと同時代の歴史家リキニウス・マケルが、自分の祖先を英雄的に描いた作り話であり、リヴィウスはそれを取り入れたという。セクスティウスとリキニウスの物語は250年後のグラックス兄弟の話とよく似ており、リキニウス・マケルは250年後の事件を参考にして、自分の祖先を讃える話を作り上げたのだという。これは見過ごせない批判である。しかしセクスティウスとリキニウスの改革を主導したのはリキニウスではなく、セクスティウスである。収録されている護民官の発言のほとんどが、セクスティウスの言葉である。平民として最初に執政官に就任したのもセクスティウスである。「リキニウス・マケルが自分の祖先を英雄的に描いた作り話である」という説はそのまま受け入れられないとしても、セクスティウスとリキニウスが護民官だった10年について語られていることは異常であり、それ以前の時代のローマの政治体制からかけ離れており、この部分は事実ではなく、創作されたものだ、という批判がある。
紀元前3世紀末のローマ人歴史家ファビウス・ピクトールはセクスティウスやリキニウスの話を書いていない。リヴィウスが詳しく書いていることはファビウス・ピクトルの著書にはなかった。紀元前300年以前のローマ史については不確かなことが多く、紀元前1世紀に付け加えられた話も多い、とされている。ところが、前2世紀半ばに執筆活動をしたポリュビオスは375ー371年の5年間最高官が不在だったとしている。不在の理由はわからないが、5年間不在とする説は前2世紀に生まれていたのである。前300年以前のローマ史に不確かなことが多いとしても、この時期の大部分が作り話ということではなく、疑わしいのは一部と考える学者もいる。
現在、ローマ史が疑われているが、紀元前1世紀後半にローマに移住して修辞学の教師となったギリシャ人ディオニシオスは、紀元前300年以前のローマに関心があった。ハリカルナッソス出身のディオニシオスはローマの起源から話を始め、ポエニ戦争までの歴史を書いている。紀元前2-1世紀のローマでは多くの歴史家が誕生し、祖国の歴史に関心が高まった。ディオニシオスはローマの歴史ブームに影響されたのである。ギリシャより200年遅れ、ローマも歴史を書いて発表することが盛んになった。ただし、ローマ人の歴史書には弱点があった。ローマの歴史家は数字による年号を使わず、執政官の名前を年号代わりに使っていた。そのため、年代について混乱することが多かった。たとえば、ディオニシオスの執政官の順序が、リヴィウスと異なる箇所がある。4-3世紀のローマの出来事をギリシャ人が記録していることがあり、それには数字の年代が記録されていた。ようやく前1世紀半ばになって、ローマ人テレンティウス・ヴァロが国王の時代とと共和制の時代の年代に数字による年代を当てはめようと試みた。これ以後ローマ人はギリシャ側が記録する出来事の年代が、ローマの数字の年代と違うことに気づいた。この違いはローマ歴とギリシャ歴の違いでない。例えば、日本の昭和の年代と西暦の違いは単純である。昭和元年は1925年と覚えれば済むことである。日本の敗戦は昭和20年であり、1945年である。終戦が昭和17年となったら、わけが分からない。それがローマで起きたのである。年号を数字で表し、ギリシャ側の記述と照らし合わせてみると、4年ずれていた。建国の年を4年遅らせるか、執政官の名前を4年分増やすかのどちらかが必要になった。建国の年である前753年を740年にするのは嫌だったので、4年間執政官不在とすることにした。たまたま執政官が不在の年があったので、それを5年に延ばした。前375ー371年に執政官が不在とされたのは、このような事情だった。ローマ軍の捕虜となったポリュビオスはスキピオと親交があり、釈放されて、2世紀半ばにローマとカルタゴの戦争について書いた。ポリュビオスがギリシャ語で書いたとはいえ、ポリュビオスの歴史を読めば、ギリシャ年号の何年にカルタゴとの戦争が起きたかを知ることができたはずである。ローマの年号が数字で表記されていれば、この時点でローマ歴とギリシャ歴の対照ができたはずである。ギリシャ人は近くに、イタリア南部に住んでいたのに、ローマ人が数字の年号を採用するのは、遅れた。
人工的に4年増やしたためか、単に一つの出来事の年代の誤りかどうかわからないが、前4世紀の事件で疑われている年代がもうひとつある。
ローマがガリア人に敗れたアリア川の戦いは前390年とされてきたが、シチリアのギリシャ人歴史家ディオドゥルスは387年としており、21世紀の現在、387年が正しいと考えられている。リヴィウスは390年としている。さらにガリア人によるローマ占領の結末について、ディオドゥルスはリヴィウスと異なる話を書いている。リヴィウスによれば、亡命していたカミルスが、ローマ軍の司令官となり、ガリア人を全滅させたことになっているが、ディオドゥルスによれば、ガリア軍を壊滅させたたのはエトルリア人である。「ガリア人は南イタリアへの遠征から故郷に帰る途中、エトルリア人の攻撃を受けた」。
紀元前1世紀の地理学者のストラボンもディオドゥルスと同じ考えである。
「ガリア人はカエレのエトルリア人によって打ち負かされた。カエレの人々はローマの黄金をガリア人から奪い返し、ローマに渡した」。
プルタークは次のように書いている。
「神殿の巫女たちは同盟国のカエレに避難したとローマの歴史家は書いているが、カエレはもっと大きな役割をはたしたかもしれない」。
ガリア人に勝利したのカエレであるという説はリヴィウスの記述を疑わせるものであるが、カエレ説が正しいという決定的な根拠もない。ガリア人の間に、どこの国に負けた、という記録があればこの問題は決着するが、ガリア側に記録はない。