たぬきニュース  国際情勢と世界の歴史

海外のメディアから得た情報を書こうと思います。

最初の武装反乱③  2011年6月4日

2018-02-24 22:35:19 | シリア内戦

ジスル・アッ・シュグールの北に山地があることは知っていたが、この町自体が山の傾斜面にあることを知った。

2011年6月4日ジスル・アッ・シュグールの警察署が占領され、治安本部が攻撃された。翌日軍隊が派遣されたが、暴徒の待ち伏せ攻撃にあい、治安本部への救援が遅れた。この間に、暴徒は治安本部を陥落させてしまった。軍隊は治安本部の救援に遅れただけでなく、その後暴徒に対し無力だった。暴徒によるジスル・アッ・シュグールの占領が続いた。事件の4日目(6月7日)になり、シリア軍最強の第4機甲師団がジスル・アッ・シュグールに到着した。200台の戦車などによって町は完全に包囲され、絶え間ない砲撃にさらされている、と住民の一人がアルジャジーラに語った。

4日目の夜に始まった攻撃ついて、ガーディアンが書いている。

貼り付けられている画像はYouTube動画(アルジャジーラ)から拝借した。

(Syrian from Jisr al-Shughur talks to Al Jazeera  https://www.youtube.com/watch?v=knXAGTFfgwk

 

========《小さな町を戦車がとり囲む》======

 Syrian town empties as government tanks mass outside

https://www.theguardian.com/world/2011/jun/07/government-tanks-mass-outside-syrian-town

                                          the Guardian  2011年6月7日

6月7日の夜、多数の戦車がジスル・アッ・シュグールの町を取り囲んだ。軍隊が集結し、町に対する全面的な攻撃が始まろうとしている。6月4日と5日、暴徒が警察署・治安本部を攻撃し、120名の警察官・治安部隊員が死亡した。大部分の町民はすでにトルコに避難した。3か月続いている反政府運動は武力衝突へ向かって劇的にエスカレートしようとしている。これまで政権は平和な抗議運動を武力を用いて弾圧してきた。政権は40年前の反乱の再来と考え、危機感を抱いている。

41000人の住民が住むジスル・アッ・シュグールから人の姿が消えた。危険が迫っているにもかかわらず、残留している町民もおり、そのひとりが町の様子を伝えてきた。

「病院には誰もおらず、暴徒によって攻撃された情報機関の本部は何もかも略奪され、建物の中には何も残っていない」。

ダマスカスの人権活動家によれば、4日と5日の衝突で58人の市民の死亡が確認されている。調査が進めば、市民の死者数は100人を超えるかもしれない。

ジスル・アッ・シュグールは29年前ハマで起きたことの繰り返しになるかもしれない。ハマの市民はハフェズ・アサド前大統領に挑戦したが、その結果数万人の市民が虐殺された。ハフェズ・アサドの息子であるバシャールは、現在もっと深刻な脅威に直面している。多くの都市や町で3か月近くデモが続いており、アサド王朝の鉄壁の支配を徐々に掘り崩し始めている。軍隊によるジスル・アッ・シュグールの包囲は、全国的な抗議デモの転換点になるだろう。チュニジアで始まった革命はエジプト・リビアに波及し、ついにシリアでも革命が始まった。シリアの場合、チュニジア・エジプトのような平和的な政権移行ではなく、リビアのような流血革命になるかもしれない。

ジスル・アッ・シュグールの反乱の2日目(6月5日)シリアの情報大臣ムハンマド・シャーは次のように述べた。

「住民が武器を取り、治安部隊を攻撃し始めた。何が起きたのか、正確にはわからないが、武力衝突があったことは確かだ」。

事件を目撃した一人が電話でガーディアンに次のように語った。

「治安部隊員の中に立場を変える者たちがいて、政権に忠実な隊員たちが彼らに向かって射撃した。それを見た人々が、離反した隊員の応援に来た。すると政権に忠実な隊員たちは彼らに対しても撃ち始めた。そして両者の間で戦闘が始まった」。

シリア政府は治安部隊から離反者が出たことを認めようとしないが、町内の部隊が主導権を失ったことを認めている。また政府関係者の話によれば、暴徒は治安部隊の武器を奪った。「5トンのダイナマイトが奪われた」と情報省の広報官レーム・ハッダドがBBCに語った。

情報大臣ムハンマド・シャーは次のように述べた。

「このようなことは断じて許されない。軍隊が任務を遂行し、夜が明ける前にジスル・アッ・シュグールの秩序が回復されるだろう」。

トルコ政府によれば、国境を越えて避難した数百人の住民が保護された。彼らの多くが負傷していた。さらに数千人の農民がアレッポ方面や東方の農村に向かって避難した。

 

 

 

ジスル・アッ・シュグールに残留した住民の数はわからない。これについてロンドン在住の亡命者が語った。

{残留者は軍隊を迎え撃つ覚悟だ。今日彼らと話をしたが、彼らは戦うつもりだ」。

まだ断定できないが、この事件は最初の武装反乱となりそうだ。多数の住民が武器を持って戦ったのは今回が初めてである。シリアの多くの都市で毎週デモが起きている。人権団体によれば、現在までの死者数は1000人を超えている。軍や警察からも死者が出ているが、大部分は民主化を求めて抗議する市民である。特に最近2週間死者の数が急増している。これは政権にとってプレッシャーとなっている。政権は抗議運動を次のように説明している。「外国に支援されたスパイと武装したならず者が政権を転覆しようとしている」。

=================-=(ガーディアン終了)

前回まで、4つの記事紹介したが、暴徒の死者について何も書いていなかった。治安部隊と警察から120人の死者が出た戦闘で、暴徒側に死者がいないはずはない。今回のガーディアンの記事により、ようやく暴徒側の死者数が判明した。最初の3日間の市民の死者数は58人以上ということである。確認が遅れており、最終的に100人を超えそうである。

ガーディアンの記事でも、治安本部の攻防については何も書かれていない。戦闘終了後の様子について書かれてるだけであり、戦闘場面については書かれていない。。

「情報機関の本部は何もかも略奪され、建物の中には何も残っていない」。

5つの記事を読んでも、治安本部の攻防の様子は何もわからない。例えば、今回のガーディアンは次のように書いている。「治安部隊員の中に立場を変える者たちがいて、政権に忠実な隊員たちが彼らに向かって射撃した。それを見た人々が、離反した隊員の応援に来た」。離反した隊員が撃ちかえしていたのか、逃げるだけだったのかわからない。応援に来た住民が素手だったはずがなく、武器を持っていたはずであるが、武器の種類について語っていない。暴徒に協力的だった住民は、暴徒が持っていた武器について巧妙に沈黙しているとしか思えない。その場にいた第三者なら戦闘の様子を話すはずだ。

政権が治安本部の占領について発表したくない理由は理解できる。治安部隊の弱さが知られれば、治安部隊に対する襲撃が多発する恐れがある。ただし政権は暴徒が所有した武器について発表している。機関銃とRPG(ロケット推進手りゅう弾)、それにガス・ボンベ爆弾である。ガス・ボンベ爆弾は自家製であり、容器に入ったガスに点火するのである。点火方法は銃で撃ったり、火薬を張り付け、導火線を引き、離れた所で点火する。容器の中にくぎなどの金属片を入れれば、手りゅう弾や砲弾に匹敵する威力があるかもしれない。容器が大きければガスだけでも手りゅう弾に匹敵する殺傷力があるかもしれない。

ガーディアンによれば、暴徒によって5トンのダイナマイトが奪われた、と政府が発表している。暴徒が治安本部占領後に奪取したもののようであるが、ガーディアンはダイナマイトが奪われた場所と時間について書いていない。

市民や反対派からの報告にも、治安本部の戦闘について何も語られていない。治安本部の攻撃に参加した者たちは重大犯罪人なので、事件直後は身を隠しており、戦闘について知る手段がないのかもしれない。治安部隊と警官から120名の死者が出た事件にもかかわらず、肝心な戦闘場面について何もわからない。

 上の記事の3日後(6月10日)のガーディアン・中東がジスル・アッ・シュグールについて触れているが、まとまった記事ではなく、中東各地の事件についてあれこれ並べて書いている。従って、ここでは取り上げないが、その中で、ひとつだけ重要なことが書かれている。ジスル・アッ・シュグールから避難民した住民の話によれば、治安部隊の半数が離反したという。

*Syria, Libya and Middle East unrest - Friday 10 June2011

<https://www.theguardian.com/world/middle-east-live/2011/jun/10/syria-libya-middle-east-unrest-live

この記事に最初に出会っていれば、このことを前提に話を進めることができたのに、と思う。治安部隊の半数が離反したとすれば、彼らは武器を持ったまま反逆した可能性が高く、これに少数の応援部隊が加われば、治安本部を攻め落とすことは可能である。これで謎がだいぶ解けた。治安部隊が2つに割れたのなら、両者は互角である。離反兵側を暴徒が応援したという構図なら、納得できる。離反兵グループは警察署で拳銃とライフルを手に入れている。

暴徒が最初から武器を持っていたか、という問題が決着したわけではないが、その可能性が出てきた。これまで私は暴徒は最初から武器を持っていたと考えてきたが、最後の最後で考えを買えざるを得ない。

新しいシナリオはこうである。

暴徒はガスボンベ爆弾を爆発させて、警察署を襲撃し、最初に2・3人の警官を襲い、彼らから武器を奪った。手に入れた拳銃とガスボンベ爆弾を用いて警察署の占領に成功した。警察署にはピストルのほかにライフルがあった可能性が高い。暴徒はこれらを手に入れた。

第2段階の治安本部の攻撃では暴徒はわき役であり、この事件は治安部隊内の反乱と見るべきである。

すでに述べたように、この事件は戦闘についての証言が皆無に近く、シナリオを推定するしかない、謎の事件である。

 

 

 

 

 

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最初の武装反乱②  2011年6月4日

2018-02-18 15:13:35 | シリア内戦

 

シリア最初の武装反乱について、ISWは次のように書いている。

「シリアで最初となる武装反乱が起きた。地元の武装グループが、おそらく離脱兵とともに、多数の治安部隊員を殺害した。2011年6月4日ジスル・アッ・シュグール(イドリブ県)でデモがあり、一部の参加者が暴徒化し、治安部隊が彼らに発砲した。死者が出たことに怒った市民が警察所を襲撃した。警察所の武器を手に入れた暴徒は治安部隊に発砲し、治安部隊から多くの死者が出た」。

治安部隊は劣勢で、治安本部に立てこもり、防戦を続ける。翌日軍隊が反乱の鎮圧に向かったが撃退されてしまう。この間に治安本部は暴徒によって占領されてしまう。

 

ISWは警察署襲撃について、詳しく書いていない。一般市民が警察署を占領するのは容易ではない。1970年頃日本の過激派が、ピストルを得ようと交番を襲ったが、警官に撃たれて死んでいる。ジスル・アッ・シュグールを襲撃したグループの人数は多く、政府発表によれば、数百人だったようだ。人数の多さが成功につながったのかもしれない。さらに襲撃したグループには離脱兵士が含まれていた。また彼らのジスル・アッ・シュグールは人口5万の小さな町なので、警察官の人数も少なく、デモが暴徒化していたのでそれの対応に出払っており、警察署には留守番しか残っていなかった。さらに暴徒は襲撃の前に警察署に火をつけており、警官たちは火事への対応に追われていた。もっとも火事を知れば、デモの対応に出ていた署員が戻ってきたかもしれない。またシリアの警官はピストルのほかにライフルも所有している。

警察署を襲撃した暴徒は武器を持っていなかったという説明は可能かもしれないが、かなり難しい。また襲撃したグループには離脱兵士が含まれていたとすれば、彼らは武器を持っていた可能性が高い。

警察署の武器手に入れた襲撃グループは翌日治安本部を占領することに成功した。治安本部は情報機関(政治警察)の部隊が同居している。情報機関は警官より優れたライフルを所有している。治安部隊は軍隊の兵士と同等、またはそれ以上の武器(  AK-103 または AK-104 assault rifles)を持っている。襲撃グループが警察署でマカロフ・ピストル武器とライフル( AKM assault rifle)手に入れていたとしても、治安部部隊に勝利すること容易ではない。なぜ、襲撃グループは治安本部を占領できたか、これが2つ目の疑問である。

もっと疑問なのは、暴徒の3つ目の勝利である。暴徒を鎮圧するため軍隊が送られたが、暴徒たちが軍隊を追い払ってしまう。これはちょっと信じられない事件である。軍隊から離脱者が出たとはいえ、ありえない話である。警察署を襲撃した市民が最後には軍隊を持追い払ってしまう。それで今度はシリア軍最強の第4機甲師団が彼らの鎮圧に向かう。さすがに彼らは鎮圧したとはいえ、数百人の暴徒の鎮圧に戦闘ヘリと戦車師団が向かうというのは滑稽である。翌年の武装反乱が成功した理由がわかる。シリア各地(1000か所以上)で数百人から数千人が武器を持って蜂起したなら、第4機甲師団だけでは対応できない。

この事件はシリア内戦を予告している。武器さえあれば勝てる、と反対派に教えたからである。事件の真相を知るため、私はもう一度調べてみた。暴徒が最初武器をもっていたかについては、結局結論が出なかったが、新たな事実がいくつかわかったので、書いておきたい。

 

=======《ジスル・アッ・シュグールで武力衝突》=====

      Syria unrest: 'Deadly clashes' in Jisr al-Shughour

       http://www.bbc.com/news/world-middle-east-13662296

                                   BBC  2011年6月5日

軍隊と戦車が治安の回復を試みる過程で、少なくとも35人が死亡した。シリア国営テレビはジスル・アッ・シュグールの反乱を伝えた。その中に、公共の建物や警察署が焼かれた映像があり、それについて政府関係者が説明した。「武装したならず者の集団が警察官と治安部隊を襲撃した」。

アナウンサーは現地の状況を説明した。「武装集団による襲撃は昨日(4日)始まった。彼らは道路に検問所を設け、住民に恐怖を与えている」。

ロンドンを拠点とするシリア人権監視団のラミ・アブドゥル・ラフマンによれば、35人の死者のうち6人は警察官であるという。外国のメディアはシリアでの取材を禁止されており、正確な死者数はわからない。

反対派の活動家は次のように述べている。

「政府軍は重機関銃とRPG(ロケット推進手りゅう弾)を用いて秩序を回復しようとしている」

====================(BBC終了)

 

6月4日警察署が襲撃され、5日に軍隊が戦車と共に到着した。警察官6名が死亡している。治安本部への攻撃が4日に始まっているが、5日になっても治安本部は陥落していない。暴徒たちは警察署で奪った武器は持っているが、治安本部の部隊にに比べ武器の点で劣っている。到着した軍隊は町内に入ったようだが、治安本部まで到達していない。この間暴徒たちは遂に治安本部を陥落させた。国営放送は「この時82人の隊員が死亡した」と伝えている。兵士に劣らない隊員82名を殺害できる集団は、単なる暴徒の域を超えている。彼らは紛れもなく、戦闘集団であり、この事件は最初の武装反乱と位置付けられている。

治安本部に立てこもっている部隊は高性能なライフルを持っているだけでなく、治安本部には各種の武器・弾薬があるはずだ。また短期決戦では籠城した方が有利である。暴徒たちが最初は武器を持っておらず、警察署で手に入れた武器しか持っていないとしたら、彼らはいくつかの点で不利である。やはり政府関係者が言うとおり、「ならず者たちは最初から機関銃とRPGを持っていた」と考えざるを得ない。政府発表では「機関銃」となっており、重機関銃か、それとも軽機関銃(AK-47など)のどちらかわからない。ただし、治安部隊から離反者が出たという情報があり、もし離反者の数が多く、しかも彼らが武器を持ったまま反乱したとするなら、暴徒が治安部隊に勝利したことは自然な流れだ。ただし離反者の人数は分からず、何とも言えない。

BBCは6月7日に再び、ジスル・アッ・シュグールの反乱について書いている。最初の記事は反乱の2日目に書かれたが、2回目の記事は3日目に書かれており、新たな事実が明らかになっている。

 

====《ジスル・アッ・シュグールに軍隊が迫る》===

    Syria town of Jisr al-Shughour braces for army assaul

                 <http://www.bbc.com/news/world-middle-east-13678105>

                           BBC   6月7日

治安部隊から120名の死者が出た、と政府は発表した。「このような所業は許されるものでなく、我々は武装集団に対し断固たる措置を取る」。最初に送られた軍隊が暴徒の鎮圧に失敗したので、今度はエリート師団である第4機甲師団がジスル・アッ・シュグールに向かった。それを知った住民は町から逃げ出した。精鋭師団が近づいているにもかかわらず、町に残留した者もおり、彼らは検問所を設立し、第4機甲師団の動きを偵察した。

今度は強力な部隊が送られることがわかった時、ジスル・アッ・シュグールの住民がネットのフェイスブックに次のように書いた。

「大量虐殺が起きるだろう。車輪のタイヤを燃やし、木やコンクリート・ブロックを積み上げて、道路を封鎖しよう」。

戦闘ヘリに伴われ、戦車と装甲車の車列が出発した、と伝えられた。ラタキアとアレッポの間を移動している人々がBBCに言った。「ジスル・アッ・シュグールの住民は軍の動きを偵察するため、検問所を設けた」。

BBCアラビア語放送は次のように伝えた。「目撃者の話によると、今日(反乱開始から4日目)、政府軍は4地点からジスル・アッ・シュグールへ向けて出発した。4地点とは、まず最も重要な軍事施設が集まっているホムス、残りの3地点はイドリブ県アリハにある3つの基地である。恐ろしい虐殺が起きるだろう、とジスル・アッ・シュグールの住民は恐れ、彼らの大部分はトルコ方面へ逃げている。トルコ国境までの距離は約20kmである。他県へ逃げている人々もいる」。

活動家は次のように言う。

「最初の2日間に死者が出た原因はわからない。抗議デモは平和的だったし、市民が暴力的になったのではなく、軍隊が分裂したのかもしれない」。

トルコの役人は次のように言っている。

「国境を越えてトルコに逃れた住民のうち、数十人が負傷しており、治療を受けている。彼らは治安部隊との衝突で負傷した」。

 

6日(反乱3日目)にはジスル・アッ・シュグールの電話は切断されており、軍事衝突の正確な状況を知ることはできない。シリア政府は外国のメディアが取材することを許可しない。

シリア国営テレビは次のように放送した。

「武装した数百人のギャングがジスル・アッ・シュグールを占領した。彼らは警官隊を待ち伏せし、20人の警察官を殺害した。その後治安本部が陥落した時、82人の隊員が死亡した。また郵便局が爆破され、8人死亡した。他に10人死亡し、合計120人が死亡した」。

 

   

シリア国営テレビは路上に横たわっている制服を着た死体を映し、彼らはギャングの襲撃による犠牲者だと説明した。

しかし現場にいた目撃者がBBCアラビア語放送に次のように語った。

「ジスル・アッ・シュグールに武装した人間はいなかった。死亡した治安部隊の隊員は離反したために殺害されたのだ」。もう一人の目撃者は次のように語った。

「反乱を鎮圧に来た軍隊の中に、町民の側に回った兵士もいる。すると軍隊は彼らを銃殺した。神に誓って言う。我々は普通の市民だ、テロリストではない」。

3人目のジスル・アッ・シュグール町民が言った。

「YouTubeに数人の死体の映像が投稿されていて、彼らは町民に発砲するのを拒否した兵士であり、そのために銃殺されたと説明されている。また市民の服装をした遺体や負傷者を映したビデオもある。頭を負傷した年老いた女性やシートに包まれた多数の遺体の映像もある」。

======================(BBC中断)

ジスル・アッ・シュグールの町民は「武器を持った暴徒が警察署と治安本部を制圧した」という説明を真っ向から否定している。

+「ジスル・アッ・シュグールに武装した人間はいなかった。死亡した治安部隊の隊員は離反したために殺害されたのだ」

+「神に誓って言う。我々は普通の市民だ、テロリストではない」。

「治安部隊の隊員は離反したために殺害されたのだ」という証言は重要である。治安部隊が敗北した理由の説明になるからである。しかしこの証言は舌足らずであり、忠実な治安部隊員が離反者何人を殺害したか、その後忠実な治安部隊員が何人死亡したかわからない。国営テレビは82人の治安部隊員が死亡したと伝えている。「治安部隊が2つに割れて、互いに撃ちあいとなり、多くが死亡した」いうなら、理解できる。よく考えてみると、「治安部隊の隊員は離反したために殺害されたのだ」という証言は、隊員の死を治安部隊の責任にしようという意図が先に立ち、事件を事実に基づいて説明していない。

反対派の話を基にしていると思われるISWの記事の冒頭に次のように書かれている。

「地元の武装グループが、おそらく離脱兵とともに、多数の治安部隊員を殺害した」。

「怒れる市民」と書いておらず、「武装グループ」・「民兵」・「ゲリラ」を意味するmilitiaという言葉を使っている。「治安部隊の隊員が離反しただけだ」とか、「武装した人間はいなかった」という説明は無理がある。「ガスボンベ爆弾で警察署を爆破した」という政府発表のほうがわかりやすい。

2011年3月半ばのデモ開始以来、シリアで起きたことには2種類の、正反対な説明がある。

私は警察署と治安本部を制圧した暴徒の武器について知りたかった。優秀な狙撃者が何人いたか、何人が自動小銃(AK-47)を持っていたか、RPGが約何発発射されたかを知りたかった。ところが「武装した人間はいなかった」という証言に出会ってしまった。しかしこの主張は多くの市民が平和なデモを行っていた事実だけを強調し、武装反乱の事実をごまかしているようである。

上記BBCの記事に書かれていることで、もう2点確認しておきたい。

①シリア国営テレビによれば、武装反乱を起こしたグループの人数は数百人である。これまでも軍隊が狙撃されたり、襲撃されとこはあるが、襲撃グループは少人数だった。

②政権は120人の死者の内訳を発表している。

「彼らは警官隊を待ち伏せし、20人の警察官を殺害した。その後治安本部が陥落した時、82人の隊員が死亡した。また郵便局が爆破され、8人死亡した。他に10人死亡し、合計120人が死亡した」。

2日めに送られた軍隊の兵士20人が死亡しているが、これをなかったことにしている。20人の死者は警察官となっている。兵士を警察官に置き換えたのか、警察官も20人死んだのか、わからない。

ISWは次のように書いている。

「軍隊は市内に入っていったが、待ち伏せされ、兵士20人が死亡した」。

政権は2日目に軍隊を送ったことを、なかったことにしている。この軍隊は離反者がでたり、待ち伏せ攻撃にであったりして、なす術がなかった。これは政権にとって極めて不都合な事実である。軍隊の弱さが証明されてしまった。軍隊が小さな反乱を鎮圧できなかったという事実は、反対派を勇気づける。アサドの軍隊は恐れるに足りことが分かった。反対派はこう考え始めたと思う。「武器さえあれば政権を倒せる。武装反乱はデモをやるより近道だ」と。

実際7か月後、反対派が本格的な軍事反乱を開始すると、予想どおりアサドの軍隊は弱かった。反乱ぐるーぷは、アサドの弟が率いる機甲師団といくつかの精強な部隊だけを恐れればよかった。

反対派の指導部はこの反乱を勝利と考えているに違いない。

 

以上BBCを中断し、私が最も関心ある部分について解説した。BBCの記事に戻る。

反アサド政権の町ジスル・アッ・シュグールの住民の大部分は政権に批判的であるが、政権を支持する住民もいる。BBCは政権を支持する住民について伝えている。彼らは精鋭師団を恐れて逃げたのではなく、町を制圧した暴徒を恐れて逃げた。彼らはラタキアに向かった。

「シリア国営放送はラタキアに避難する住民について伝えている。「住民は町に居座ったギャングを恐れており、軍隊がギャングを追い払うことを願っている」。

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最初の武装反乱 2011年6月4日

2018-02-11 00:23:57 | シリア内戦

イドリブ県のジスル・アッ・シュグール出身のイブラヒム・マジブール(Ibrahim Majbour)大尉は、故郷の町が破壊され、自分の家族が難民となるのを見て、軍を去り、反乱を決意した。

     

故郷の町が破壊されたというが、ジスル・アッ・シュグールは最初に武装反乱が起きた町であり、シリア軍がこれを鎮圧するする過程で町を破壊したものである。

シリアのデモはチュニジア、エジプト、リビアより少し遅れ、2011年3月半ばに始まった。それから3か月後の6月4日、イドリブ県の小都市で最初の武装反乱が起きた。しかしこれは単発的な事件であり、連鎖反応を起こすことなく終わった。これ以後2011年の末まで8カ所で武力反乱が起きるが、どれも鎮圧されて終わる。シリアの武装反乱は、線香花火で終わり、なかなか燃え上がらなかった。8か所のうち大都市はホムスだけであり、中規模都市のイドリブを除けば、すべて町程度の小都市だった。2011年に武装反乱が起きた唯一の大都市ホムスは、革命の聖地と呼ばれるようになった。

2011年6月4日、武装集団がジスル・アッ・シュグールの治安部隊の基地を襲撃し、町を占領した。軍と治安部隊の兵士120人が死亡した。治安部隊というのは警察と政治警察に付属する軍隊の総称である。市民の多くが北西に向かい、トルコとの国境に避難した。ISW(戦争研究所)がこの事件について書いている。

 =====《最初の武装反乱》==========

   Syria's Armed Oposition

http://www.understandingwar.org/sites/default/files/Syrias_Armed_Opposition.pdf

                                      2011年6月 ジスル・アッ・シュグール、イドリブ

シリアで最初となる武装反乱が起きた。地元の武装グループが、おそらく離脱兵とともに、多数の治安部隊員を殺害した。2011年6月4日ジスル・アッ・シュグールでデモがあり、一部の参加者が暴徒化し、治安部隊が彼らに発砲した。死者が出たことに怒った市民が警察所を襲撃した。警察所の武器を手に入れた暴徒は治安部隊に発砲し、治安部隊から多くの死者が出た。

翌日政治警察と情報将校が軍隊と共に到着した。兵士の一部は町を攻撃すること拒否し、脱走した。暴徒が支配する市内で孤立している治安部隊を救援すため、軍隊は市内に入っていったが、待ち伏せされ、兵士20人が死亡した。救援は間に合わず、治安本部は暴徒によって占領された。正確な死者数は分かっていない。しかし最初の武装反乱が起きたことは明らかである。

政権はジスル・アッ・シュグールの反乱に断固とした対応をした。数百台の装甲車が3方向から町に迫った。暴徒たちは恐れをなして町から逃亡した。彼らはトルコとの国境の山地に向かった。約1万人の住民も同じ方向に避難した。治安部隊は彼らを逮捕するため山地をくまなく捜索した。反乱グループと町民は国境を越え、トルコに避難した。トルコ政府は難民のための施設をつくった。

   

======================(ISW終了)

暴徒は警察署を武器を持たずに襲ったのだろうか。またその後、警察署で手に入れた武器だけで治安本部を占領できたのだろうか。治安本部には政治警察付属の兵士がいたはずである。警察署で手に入れた武器だけで、兵士たちに勝利したのだろうか。さらには暴徒を制圧に来た軍隊を追い払ってしまった。ISWは警察署を襲った暴徒が武器を所有していたか、について書いていない。しかしこの事件が起きる数週間前から反対派に武器が渡っており、警察署を襲った連中は機関銃やRPG(ロケット推進手りゅう弾)を所有していた、と政府は発表している。常識的にはこちらのほうが理解しやすい。

もう一点付け加えると、ジスル・アッ・シュグールはイドリブ県の中でも、最もトルコ国境に近い。この事件は自然発生的に起きたのではなく、武器を持った連中がトルコから侵入したのであり、計画された反乱だった可能性が高い。

 

ISWはジスル・アッ・シュグールの反乱について基本的な事実を書いているが、反対派の話に基づいているようだ。次に紹介するクリスチャン・サイエンス・モニターというサイトは政府側の説明を引用している。違う角度から事件を見ることができる。また同サイトは31年前のジスル・アッ・シュグールの反乱について書いており、シリアは反乱の火種を持った国であると改めて認識させられる。

 

========《武装反乱の開始?》=======

  Has Syria's peaceful uprising turned into an insurrection?

https://www.csmonitor.com/World/Middle-East/2011/0609/Has-Syria-s-peaceful-uprising-turned-into-an-insurrection/(page)/2

                          By Nicholas Blanford, Correspondent

                                                   Christian Science Monitor   2011年6月9日

イドリブ県の町で、兵士と治安部隊120名が殺害されたと政府が発表した。暴力事件が徐々に過激になり、背後に誰がいるのかという議論がますます活発になるだろう。

6月8日大統領の弟マヘル・アサドが率いる数千人のエリ-ト部隊がジスル・アッ・シュグールに集結した。近隣の村々が戦車の長い列が近づいていることを、ジスル・アッ・シュグールにつたえた。街から人の姿が消えた。

 

政権は市民の抗議デモの弾圧を強化し、実弾、戦車さらには戦闘ヘリを用いるようになった。こうなると市民の側が武力で反撃するようになるのは、避けられない。シリア軍に対する武装抵抗が増えている。ジスル・アッ・シュグールでのシリア軍の損失はこれまでで最大となった。

この事件により、シリア軍に銃を向けているのは誰か、という疑問が生まれる。市民が武器を持って抵抗を始めたのか、それとも軍隊の一部が反乱し始めたのか。いずれにしろ、1982年に起きたハマの反乱が再現しつつあるようだ。しかも今回は全国的な規模であり、40年続いたアサド政権最大の危機となっている。

政権によれば、シリアに混乱を起こしているのは犯罪集団とイスラム過激派である。この見解は部分的に正しく、ムスリム同胞団がシリアの他宗派・多民族社会の対立をあおっている点は見逃せない。30年前もムスリム同胞団は同じことをしている。最近数週間シリアへの武器の流入が増えている、という事実もムスリム同胞団の暗躍を思わせる。

一方、反対派は次のように主張している。「抗議運動は現在も平和的だ。現在起きている武力衝突は、政権に忠実な部隊と召集兵の間で起きている。召集兵は抗議する市民に同情して反乱している」。

地方連絡委員会( Local Coordination Committees)に所属する女性活動家は次のように言う。

「市民に発砲することを拒否した兵士たちは住民にかくまわれており、住民の家に住んでいる」。

女性活動家はベイルートを拠点としており、彼が所属する連絡委員会はシリア各地で起きていることの情報センターとなっている。彼女は匿名を条件に付け加えた。

「市民に対する発砲を拒否した兵士が治安部隊によって射殺されたという、多くの目撃証言がある。7日にも、カブル(Kabir)川を超えて逃げようとした兵士3人が撃たれ、負傷した。カブル(Kabir)川はレバノン北部の国境を流れている川です。これはレバノンの住民が話したことです。この時撃たれた4人目はレバノン人のディーゼル油密輸人で、彼は死亡しました。彼の死体は川底で発見されました」。

                  〈政権による報復〉

外国のメディアはシリアに入国できないため、非難合戦を繰り返すどちらが正しいのかを見極めるのは不可能に近い。しかしジスル・アッ・シュグールの事件はデモ開始以来の2カ月半で最大の出来事であること認めている点で、両者は一致している。

この事件についてシリア政府は次のように発表した。

「機関銃(複数)とロケット推進手りゅう弾(複数)を持った数百人のゲリラが治安部隊を待ち伏せし、政府の建物を攻撃した。ガスボンベ爆弾で警察署を爆破し、死体を町を流れるオロンテス川に投げ捨てた」。

モハンマド・シャー内務大臣は次のように述べた。

「政府は毅然とした対応をする。武装反乱に対しては、武器の使用を躊躇(ちゅうちょ)しない」。

装甲車の長い列がジスル・アッ・シュグールに向かっているといるということを知り、数千人の市民が一斉に町から逃げ出した。彼らは19km西方のトルコとの国境に向かった。

ワシントン・インスティチュートのアンドリュー・タブラーは言う。「シリアの状況がますます悪くなっている。政権が抗議運動の弾圧を強化しているので、反対派の暴力的な反撃が増えるのは避けられない」。

反対派は言う。「自分たちの抗議運動は現在も平和的だ。武力闘争は政権に忠実な部隊と離反兵士の間で起きている」。

               〈31年前の反乱〉

ジスル・アッ・シュグールはスンニ派の牙城ともいえる町で、シーアは政権に対する反乱の歴史を持っている。1980年3月の抗議運動際には、民衆の一部がバース党の建物と軍の兵舎を焼き討ちし、武器と弾薬を奪った。武装反乱を鎮圧すため、特殊部隊がジスル・アッ・シュグールに送られた。彼らはロケットや迫撃砲で暴徒たちの占領地区を攻撃した。反乱は鎮圧されたが、民家や商店が破壊され、数十人が死傷した。

翌日軍事裁判により反乱容疑者が裁かれ、100人以上が処刑された。鎮圧の過程で150-200人の住民が死亡した。

以上は政府発表による、31年前の反乱の経過であるが、今回の事件とよく似たことが過去にあったことがわかる。

 

離反兵士や怒れる民衆のほかにも、現在の状況は良い機会だと考えて武器を取る人々がいる。2003年のイラク戦争の際、シリアのイスラム主義者が米軍とのゲリラ闘争に参加している。米軍に憎まれたヨルダン人のザルカウィは有名であるが、シリア人ゲリラも米軍を攻撃している。シリアは自国民をイラクに送るだけでなく、外国のゲリラ兵が自国を通過することを許可した。対米ゲリラがシリア経由でイラクに流入していることについて、ブッシュ大統領は繰り返しシリアを批判した。

イラクでのゲリラ闘争は終了しており、イラクから帰ったシリア人ゲリラは新しいターゲットを探している。彼らはアサド政権に矛先を向けるのは間違いない。

イラクで米軍と戦ったシリア人ゲリラはスンニ派の熱心なイスラム教信者であり、世俗的なアラウィ派政権を倒すチャンスをうかかがっている。戦闘経験のある彼らは現在の混乱を利用して武装反乱を企てるだろう。イスラム主義者全員がイラクに行ったわけではない。シリアには多数のイスラム主義者がいる。彼らも武器を取るだろう。

シリアでは最近の数年間、イスラム過激派が犯人と思われるテロ事件がおきている。2008年には情報機関が入っているビルのそばで車に仕掛けれた爆弾が破裂し、17人が死亡した。

 

              〈闇市場での武器の取引が増加〉

シリアで武装反乱が始まりつつあるのは、隣国レバノンの闇市場で武器の売買が増えていることと関係があるようだ。内戦終了後もレバノンニシンを経験の平和は戻っておらず、内戦の構造は残っている。闇市場で武器の売買は日常化しているが、現在のような取引の多さは前例がない。南ベイルートで自宅のガレージを見せにしている武器商人アブ・リダが言う。

「武器の需要が急増していて、市場にはほとんど出回らない。私は武器を仕入れることができず商売にならない。特に良質なロシア製のカラシニコフは手に入らない」。

最上の品質のカラシニコフのAK-47は金属部分に円の中に11という数字が掘られているため、武器市場では「ーサークル11と呼ばれている。

「シリアでデモが始まる前、サークル11は1200ドルで売られていたが、現在は2000ドルに値上がりしている。中東の反乱兵の間で人気があるRPG(ロケット推進手りゅう弾)は900ドルから1000ドルに値上がりした。弾頭一発の値段は50%値上がりし、150ドルになった。

レバノン人の仲買人はアブ・リダのような武器商人から武器を買い、国境を越えてシリアに入り、シリア人に売る。

「武器はほとんどレバノン北部の国境を越えてシリアに行き、レバノンで売られるのはわずかである」。

レバノン北部の国境とは、アッカ(Akkar)地方である。この辺の国境は昔から武器に限らず様々な物資の密輸ルートになっている。最近3か月のシリアの反乱の中で、レバノンの北部国境に近いスンニ派の町や都市が多いのは偶然ではない。また北部レバノンに限らず、レバノンの他の国境そしてトルコやヨルダンとの国境に近い地域でも、同じ理由で反乱が起きている。

 ===========================(クリスチャン・サイエンス・モニター終了)

 

政権はデモの中には最初から武装した者が紛れ込んだと主張し、デモが始まる前に国境で大量の武器を押収したことを根拠として挙げていた。これはあくまで政権の言い分なので、客観的な裏付けが必要であるが、レバノンの闇市場で急に武器の取引量増えたという事実は、シリアに武器が流入したことを物語っている。平和なデモだった最初の3か月に多くの兵士・警官が死亡している原因は命令拒否兵士が射殺された場合が多いかもしれないが、武器を持たない民衆の中に、武器を持った暴徒が紛れ込んでいた場合もあったようである。

 

ジスル・アッ・シュグールの反乱についての政府の説明は反徒たちの武器を明らかにしており、反対派のストーリーにかけていたことを補っている。しかし2日目に反乱の鎮圧に派遣された軍隊が撃退された事実は消えている。同一事件についての記述は、どちらも不完全である。

ジスル・アッ・シュグールの反乱は全国的な武装反乱の起爆剤となることはなかった。鎮圧されて終わり、この後7カ月間平和な抗議運動が続く。外国からの本格的な武器援助は7カ月後に開始されるからである。ではこの7カ月間に単発的に7回起きた武装反乱の武器はどのようにして手に入れたか、私は気になっていた。この時期米政府はシリアに深くかかわるつもりはなく、大規模な軍事援助をするつもりがなかった。米国はイラクとアフガニスタンという未解決の問題を抱えており、米国の威信にダメージのない形で決着することに精力を奪われ、シリアに手を出す余裕がなかった。米国はリビア攻撃に参加したが、仏・英が主導であり、後始末は彼らが大部分するはずだった。

米政府はシリアへの軍事干渉に及び腰だったが、CIAは活発に動いており、本格的な武装反乱は無理なので、デモを拡大することに勤めていた。2011年に8回起きた武装反乱は失敗に終わったが、デモを拡大するのに役立った。武装反乱の鎮圧において、住民が巻き添えになり、犠牲者が出た。また多くの住民が難民となった。住民の怒りは地縁・血縁・反対派の情報ネットワークを通じて拡散した。一つの町をゴースト・タウンにすれば、政権に対する反感が他地域に生まれた。デモが下火にならず、徐々に広がっていたので、CIAにとって成功だった。

2011年の数少ない武装反乱にも武器は必要だったのであり、その入手方法についてクリスチャン・サイエンス・モニターは重要な指摘をしている。レバノンの闇市場で武器の取引量が増えたことである。わずかな資金援助があれば、2011年程度の反乱は可能だった。

 

 

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シリア軍から離脱した将兵

2018-02-04 18:09:47 | シリア内戦

 

2012年5月19日シリア軍・情報機関の最高位者6人を殺害する試みがあった。サハバ大隊が「高官6名を殺害した」と発表したが、6人全員が生きていることがわかった。サハバ大隊の作戦は失敗だった。

その2か月後の7月18日ダマスカスの保安本部で爆発が起き、シリア軍最高幹部4人が死亡した。今回は成功だった。イスラム大隊が犯行声明を出した。

7月18日のダマスカスの保安本部爆破事件は大統領暗殺に劣らぬ重大事件だった。2000年のハフェズ・アサド大統領の死後、シリアの政権を支えてきたのは彼らだった。バシャール・アサドはこの期間、見習い中の大統領だった。

高官暗殺未遂と成功のどちらの場合も、イスラム主義グループが関っており、これまで8回シリアのイスラム主義グループについて書いてきた。2012年夏のシリアの状況に戻りたい。

 

武装反乱は20116月以後見られたが、極めて散発的で、継続性がなかった。本格的な武装反乱が開始されたのは、2011年末である。その後反乱軍は着実に支配地を広げ、2012年の夏にはアサド政権の崩壊が現実問題となってきた。長いシリア内戦の中で、流れが大きく変わった時期が何度かあるが、2012年の夏は最初の山場だった。アサド政権が崖淵に追い詰められた状態は翌年の春まで続く。政権の粘り腰もあるが、国家の軍隊と反乱軍の間には武器の格差があり、また正規軍と素人のゲリラ軍という相違があり、反乱軍は最後の詰めをするだけの力量を欠いていた。この時期のチャンスを失って以後、反乱軍の勝利は遠のいた。

2012年の夏は反乱軍の勝利とアサド政権の崩壊が近いと思われた時期であるが、反乱軍の優勢に寄与した要因を2つあげたい。2011年の初夏に武装反乱の考えは生まれていた。しかし反対派には武器がなかった。2011年末以後、反対派は武器を手に入れた。反対派を支援する国が武器の供給を開始したのである。武器の供給がなければ、シリア内戦は始まらなかった。

2012年反乱が広がりを見せたもう一つの原因は、軍隊からの離脱者が増え、離脱者の多くが反乱軍に加わったからである。革命の際には、体制内からの離反者が必ず生まれる。これまで選択がなかったのに、社会が突然2つに割れる。各個人はどちらの陣営につくべきか、選択を迫られる。それぞれの心情とイデオロギーにより選ぶことになる。また敗者の側についてしまえば、多くを失い、生命の保証もない。勝つ側につきたいという判断も重要になる。自分が生きている社会に突然革命が起きるなら、それは非常に恐ろしいことである。

 

            《体制内からの離反者》

シリア軍、政府、国会からの離脱者は20122月から急増し、これが20136月まで続き、それ以後離脱者は出なくなる。離脱者が出た時期は、反乱軍の勝利が予想された時期と一致している。アルジャジーラがこれをグラフで示している。

 

 

 

 

 

政権からの離脱者数を示すグラフを見てわかることは、政治家と官僚からの離脱者は非常に少なく、軍と情報機関から離脱者が多いことである。

内戦時においては、政治家と官僚の役割は限りなく小さくなり、軍人の重要性は増す。勝敗のカギを握る軍部から半数近い離脱者が出たことは、政権にとって深刻な問題である。

しかしながら残留した半数以下軍の高級将校の忠誠は揺るがず、困難な時期にも戦闘を指揮し続けた。2015年以後兵の不足が深刻になるが、上級将校の士気は衰えず、シリア軍は縮小しながらも存在感を示し続けた。2015年春次のように言われた。「シリア軍はほぼ消滅し、わずかな残留部隊はイランの革命防衛隊の将校たちに指揮されている」。イラン人将校が指揮する部隊の重要性が増したことは事実であるが、シリア軍が消滅したわけではない。

シリア軍を指揮して最後まで戦い続けた司令官や指揮官は必ずしもアラウィ派というわけではなく、スンニ派やドゥルーズ派である場合も多く、シリア内戦をアラウィ派政権に対するスンニ派の反乱と単純化することはできない。

ロイター通信がシリア軍からの最初の離脱者について書いている。デモが始まって4か月経た20116月のことである。離脱の理由は軍隊がデモをする市民に発砲することに反発したからである。日本でも昭和恐慌の際米騒動が起き、これを取り締まる警官たちが打ちこわしをする主婦たちの側に回った例がある。当時の政府は警官が暴動の側に回ったことに恐怖を覚えた。

 

======《将兵の離反は軍の分裂の前兆か》========

   Military defections expose cracks in Syrian army

<https://www.reuters.com/article/us-syria-defections/military-defections-expose-cracks-in-syrian-army-idUSTRE75S5E620110629            

                  Reuters  630

 

ますます多くの兵士が離反している。アサド政権の打倒を叫び多くの市民がデモをしている。兵士たちは彼らを武力で弾圧する任務を嫌い、軍を去っている。

市民に発砲することを拒否し、兵士たちは軍を脱走し、トルコなどの外国に逃げている。彼らは脱走を公言せず、外国のメディアがシリアで取材することが制限されているため、脱走兵の数を知ることは難しい。

しかし最近数週間、軍の徽章(バッジ)をつけた人物がネットに登場し、名前を明かすことが増えている。彼らは次のように発言している。「自由を求めてデモをする市民を戦車と銃で抑圧する軍に留まることはできない」。

軍の司令官の多くはアラウィ派であり、政権は彼らに頼っている。弾圧される側の市民はスンニ派である。シリア国民の6割がスンニ派である。残り4割はいくつかの少数民族であり、その中ではアラウィ派とキリスト教徒が比較的人数が多い。デモを抑圧するのは正規の部隊だけではない。シャビーハと呼ばれる民兵組織が市民を狙撃している。黒い服装をしたシャビーハはデモ参加者を容赦なく殺傷している。こうした2種類の部隊の発砲により、これまで1300人が死亡した。

軍隊は瓦解の兆候を見せている。トルコのアナトリア・ニュースによれば、シリア北西部で大規模なデモが武力鎮圧され、12千人の住民がトルコに避難した。避難民の一部は兵士であり、軍と警察の高官も含まれている、という。

政権はデモを武力弾圧したことについて、デモ隊の側に責任があると説明している。「彼らは武器を持ったギャングであり、テロリストである。こうした連中の銃撃により、これまで500人の兵士と警官が死亡している。」。

 

         〈ダラアで起きたこと〉

ロイター通信はトルコに逃走した2人の兵士と電話で話をした。一人はシリア北部のハサカ県のクルド人で、21歳の召集兵である。彼は次のように述べた。

「将校たちは兵士たちにシリア国営放送に映っているダラアのデモの様子を見せた。テレビに映っている人々について、将校は『連中は破壊工作者だ』と説明した。『外国からシリアに潜入した外国人武装兵や外国に支援され、祖国を裏切るシリア人だ』。将校の説明を聞いた我々は、ダラアに行って潜入外国人や裏切り者のシリア人と戦うつもりになった。しかし実際にダラアに行ってみると、将校の話したことが嘘であるとわかった。我々はダラアで起きていることを見た。発砲する破壊工作者たちは政権の手先だった。将校がデモの人々を銃撃せよとシャビーハに命じていた。私は実際にそれを見た。デモに発砲していたのは破壊工作者ではなく、政府の手先だった」。

こう話すクルドの青年は去年12月召集され、第14旅団に配属され、今年(2011年)425日ダラアに送られた。一か月後彼は部隊を抜け出し、民間人の服に着替え、ダマスカス、ハサカを経てトルコに入った。家族に危害が及ぶので匿名という条件で、彼はロイターのインタビューに応じた。彼の話を続ける。

「デモ隊に向けて発砲せよ、と我々は命令された。発砲しないわけにはいかなかったので、私は空に向けて、または壁や地面に向けて撃った。戦場の兵士は敵に向けて発砲する。自国の人間や兄弟・家族に向かって撃つことはできない。軍から離脱したことを後悔していない。もう同胞に向かって射撃しなくて済むので、私は悩みから解放された」。

市民に発砲することを拒否した兵士についての証言や報告が数多くある。発砲を拒否したため、殺された兵士についても報告されている。

大統領の弟マヘル・アサドが指揮する第4機甲師団や共和国防衛隊の忠誠心は揺るがない。どちらも1万の兵力を持ち、戦車部隊を備えている。この2つのエリート部隊は残余の部隊より訓練されており、給料も高い。残余の部隊は合計で20万人を超える。20万人の中に召集兵も含まれる。地域によっては、これらの部隊に少人数の精鋭部隊やシャビーハ(民兵)が付属する。

今月(6月)の初め、ダマスカスの陸軍病院の医師がロイターに語った。

「銃撃により負傷した17名の兵士がダラアから運ばれてきた。

私は緊急治療室で彼らを治療した。デモ隊に発砲することを拒否したために、シャビーハによって撃たれた、と彼らは言っていた」。

アラブの衛星放送やネットに登場する脱走兵のほとんどがスンニ派である。地元の住民が殺害されていることに怒りを表明する脱走兵もいる。

流血の弾圧が続けば、将校たちも離脱するだろう、と専門家は見ている。

ロイター通信はトルコに逃走した2人の兵士と電話で話をした。ダラアのデモの鎮圧に送られたハサカ県出身のクルド人兵士の証言については、すでに書いた。もう一人はイドリブ県のジスル・アッ・シュグールの出身で、軍から脱走した大尉である。

彼は現在トルコからジスル・アッ・シュグールに戻っており、潜伏している。「私は部隊にデモを武力で弾圧させる任務を拒否した」と大尉は電話で言った。「5月私は勤務時間外にホムスへ行ってみた。軍の部隊やシャビーハ(政権に忠実な民兵)が住民の家を襲撃していた。私は弾圧の実態を知ったので、任務を拒否した。身の危険を感じたのでトルコに亡命した。彼はYouTubeで声明を発表した。

 

  

(www.youtube.com/watch?v=bMEsc5eGW9M&feature=youtu.be).

 

ビデオの中で、彼は自分の身分証をカメラに向けている。彼はイブラヒム・マジブール(Ibrahim Majbour)大尉であるとわかる。

彼の電話での話を続ける。「私はジスル・アッ・シュグールで育ち、軍に入り、現在将校である。私の故郷の町が破壊され、家族がホームレスにされた。亡命した将校たちはシリアに戻り、勝利するだろう。デモをする市民は守られるだろう」。

武装反乱について、彼は具体的なことは話さなかった。しかしその後間もなく、自由将校運動と名乗るグループがシリア軍の将兵に向けてメッセージを発表した。

「一週間以内に決心してほしい。政権の側に立つのか、それとも抗議する市民の側に立つのかを」。

シリア人ジャーナリストがトルコとの国境近くで自由将校運動の声明を読み上げた。グループの目標がいくつか明らかにされたが、注目すべき項目は、暫定議会の選挙だった。またグループの代表はフセイン・ハームーシュ(Hussein Harmoush)中佐だった。ハームーシュ中佐が軍を離脱した経緯はビデオになっている。

ジャーナリストの読み上げた内容によると、グループのメンバーはトルコの難民キャンプにいる16人の将校とシリア国内にいる約35人である。

離反将校団の実力は未知だが、3か月の抗議運動の末に武装闘争が生まれつつあることは確かであり、政権にとって重大な脅威となるだろう。

前出のハサカ出身の召集兵は次のように言う。

「力のバランスは武器を持つ側に有利だ。市民が武器を持たず、政権が武力を独占している状態では、政権は変わろうとしない」。

======================(ロイター終了)

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