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リヴィウスのローマ史はどこまでス史実か②

2024-12-18 06:08:09 | 世界史

最初のローマ人歴史家はクインクティウス・ファビウス・ピクトールであり、彼がローマの歴史を書いたのは紀元前3世紀末である。ピクトールはアエネイスのラティウム上陸から話を始めているが、どのようにして何百年も昔の出来事を知ることができただろう。トロイの王子アエネイスがイタリアに来たという話はギリシャの歴史家からの借用であり、彼はギリシャ人のイタリア植民の祖とされていたのである。ローマの歴史家はアエネイスがラティウムに上陸したことにした。その後アエネイスは土地の娘と再婚し、町を建設した。こうしのように、ローマの歴史家はアエネイスをラティウムと結びつけた。アエネイスの死後、アルバ・ロンガの時代を経て、ローマが建設され、歴代7人の王が統治した。ローマ側の伝説が書物となるのは紀元前3世紀末であり、それまで口伝えだとしたら、忘れたり、記憶違いをしてしまう。国王の時代ぐらいに書き留められていなければ、風化してしまう。ローマ人は王制時代にエトルリア文字を用いて記録していた可能性がある。エトルリア語はイタリック諸語とかなり違う言語だが、エトルリア文字はギリシャのアルファベットを借用したもので、簡明である。昔の日本人が漢字を学ぶより、はるかに容易だった。日本人は平安時代にひらがなを考案したが、中国人がカタカナのようなものを用いていたなら、日本人はもっと容易に文字を習得しただろう。要するに、エトルリア文字を用いるのはローマ人にとって容易だった。なんといってもエトルリアの都市ヴェイイとローマは近かった。
ロムルスがラテン人の古い都市アルバ・ロンガの国王の孫だったという話は神話かもしれないが、ローマには若い女性が少なく、サビーニ人の女性たちをだまして連れてきて妻としたという話は事実かもしれない。現在の学者たちがリヴィウスのローマ史を疑うのは当然であるが、非常に印象的な話が多く、すべてが神話とは思えない。7人の王のそれぞれの話にも、実際にあった話と思える箇所がいくつかある。
歴代の国王が、自分の住まいの壁に出来事を記録していたという話があるが、王宮は中央広場の一角にあり、前390年にパラティンの丘の建物の多くが焼かれたので、国王の宮殿も焼けてしまったかもしれない。ただし、ガリア人の焼き討ちは限定的だったという説もあり、記録が残った可能性もある。7人の国王の名前と彼らの時代の出来事は大部分事実だという意見もある。国王の就任の年と統治期間が疑わしいだけだという。
紀元前1世紀のローマの歴史家の間で、王の時代について意見が分かれていたが、国王の時代が244年続いた点では一致していたと言われている。ロムルスはトロイの王子アエネイスの孫であると考え、ローマの建設を紀元前1100年とする者もいたが、王制の期間244年と矛盾するので、退けられた。アエネイスのラティウム到来とローマ建国の間にアルバ・ロンガの歴史が置かれ、ロムルスはアルバ・ロンガの末期の王の孫とする考えが主流になった。共和制の最初の年が紀元前509年という点でもローマの歴史家の多くが一致し、王制の最後の年509年と王制の期間244年から逆算して、建国の年が紀元前753年と割り出された。考え方はよく理解でき、かなり現実的な結論となっている。ローマ人は数字の年代を使用しなかったので、正確な年代とずれることもあったが、論争の末、妥当な線に落ち着いたようだ。

紀元前509年以後の共和制の時代については、最初の100年は王制時代と同じで、記録が存在したようだとしか言えないが、紀元前400年以後、確かな一次資料が存在した。
     〈大神官の年代記(Annales maximi)〉
大神官の年代記には執政官の名前だけでなく、各年の主要な出来事が記録されていた。キケロによれば、大神官の年代記は紀元前400年以後の記録である。大神官は終身であり,就任後、年代記を書き始め、彼が死ぬと次の大神官が記録を続けた。大神官はカピトルの丘に住んだ。カピトルの丘のユピテル神殿が建設されたのは紀元前509年であり、紀元前400年以前の記録がないのはなぜだろう。カピトルの丘は紀元前390年の大火を免れており、焼き討ち以外の原因で失われたのどうか。そもそも紀元前400年に記録を始めたのだろうか。前400年以前、ローマ人は出来事を記録する習慣がなかったというこではない。正式な記録は突然生まれるのではなく、記録する習慣が先に生まれることが多い。日本書紀と古事記が書かれる以前に、北九州、出雲、岡山(吉備)などに記録が存在したのと同様である。古事記の冒頭に、「語り部の話を文字にした」と書いてあるのは、天皇の一族の伝承を文字にしたということであり、日本に文字による記録がなかったということではない。
大神官の年代記の簡略版がパラティンの丘の中央広場に公表され、ローマ市民は誰でも読むことができた。簡略版は歴代執政官のリストであり、重要な戦いに勝利した凱旋将軍の名前も書かれていた。簡略版は中央広場の旧王宮の前の白い石板に刻まれた。これにより、文字の読める市民にとって、歴代執政官の名前はなじみのあるものとなり、歴代執政官のリストは広く共有された。有力貴族は執政官のリストを年号代わりに用いて、家族の歴史を書いた。ローマ人の最初の歴史書は3世紀末に成立するが、それ以前に大神官の年代記と有力貴族の家族史が存在した。貴族の家族史は家族の構成員を美化する傾向があり、作り話が混じることがあるが、事実を書き残している場合も多い。
大神官の年代記は紀元前130年頃に終了し、全部で80巻になっていた。紀元前130年に大神官に就任したムキウス・スカヴォラ(Publius Mucius Scaevola)が年代記を出版した。これ以後のローマの歴史家にとって、大神官に年代記の閲覧を許可してもらう必要がなくなった。
なお、リヴィウスの建国史に書かれている執政官の名前が、大神官の年代記と異なる箇所があるという。大神官の年代記には、ずっと昔に断絶した家族の名前が書かれており、前1世紀の歴史家には馴染みがなく、古めかしすぎたと言われている。前1世紀に大神官の年代記と一部異なる執政官のリストが生まれた。西ローマ末期以後大神官の年代記は失われたため、リヴィウスの建国史がどの程度大神官の年代記と違っているか、調べることができない。リヴィウスが古い記録を修正したのは、単に古い時代に対する無理解なのか、平民に同情的な執政官が抹殺されていることに対する反発なのか、わからない。 

中世になって大神官の年代記の簡略版が発見された。大きな大理石の石板が地面に埋まっていた。オクタヴィアヌスがアントニウスに勝利した記念に建てた凱旋門が半分崩れており、聖ピエトロ大聖堂の建立に再利用することになったが、近くの地面から、文字が刻まれた大理石が出てきた。注意深く掘り出すと、大きな4つの石板であることがわかった。これは大神官の年代記の簡略版の現物らしかった。石板は教皇館に保管されていたが、現在教皇館は博物館の一部になっている。
石板に刻まれている執政官のリストは前483年から始まっているが、もとは前509年から始まっていて、最初の部分が壊れてしまったようだ。大神官の年代記は紀元前400年から始まっているはずなのに、発見された簡略版は509年から始まっているのは、なぜだろう。また大神官の年代記は前130年で終わっているのに、石板のリストはアウグストゥスの時代まで続いている。発見された大きな石板は、前400年以降に立てられた古い石板ではなく、アウグストゥスが新たに立て直し、一部書き直したようである。発見された石板には、10年ごとに数字の年号が刻まれている。数字の年号は古い石板にはなかったはずだ。数字の年号は建国の年を元年とするローマ歴である。また重要な戦いに勝利し、凱旋将軍の栄誉を与えられた執政官や独裁官の名前も記録されており、最初の凱旋将軍はロムルスとなっている。古い石板に凱旋将軍の名前が書かれていたかどうかはわからないが、書かれていたとしても、紀元前400年以後の旋将軍の名前のはずだ。アウグストゥスは紀元前509ー400年の執政官のリストを刻んでいるが、何を根拠にしたのだろう。

大神官の年代記に匹敵する重要な記録がもう一つ存在した。残念ながら、それが前509年に始まったかは不明であり、共和制の最初の100年の記録が存在したかは、やはりわからない。重要な記録とは、元老院の記録である。筆頭元老が、元老たちの主要な発言と元老院の決定を記録していた。筆頭元老の記録は元老しか見ることができなかったが、過去の出来事に関心のある元老はいつでも記録を参照できた。元老の間では過去の出来事が共有されていた。元老院の記録は元老でなければ見ることができず、出版もされなかったので、広く共有されなかったが、重要な一次資料が存在したことは間違いない。記録がいつ始まったかわからないのが残念である。ファビウス・ピクトルは紀元前218年に元老になっており、ローマ史を書くにあたって元老院の記録を参照したに違いない。また元老となったピクトールは大神官の年代記を閲覧できたに違いない。ピクトールは2種類の一次資料を参照したのである。またファビウス家は名家であり、代々子供たちに誇りある家族の歴史を語り伝えていたにちがいなく、ファビウス家は家族の歴史を記録していたので、ピクトールはローマ史に理解があった。
以上、主に共和制の最初の200年について、文字資料が存在したか否かを調べてみたがが、最初の100年については、正式な記録は存在しないが、文字の使用はそれ以前に始まっていたと思われ、何らかの記録が存在した可能性はある。紀元前400年以後は大神官の年代記が存在し、元老院の記録も始まっていた可能性が高い。また、この時期には有力貴族が家族の歴史を書き始めていたようである。クラウディウス・マルチェリ家、ファビウス家、アエミリウス家などの記録が知られている。リヴィウスとキケロはこれらの記録を批判しており、作り話がいくつかあったようであるが、事実を伝えている場合もあり、記録が全然ない場合より、ましである。ローマ人の間で記録する習慣が始まっていたことは重要である。
私としては、リヴィウスの建国史の3分の2、少なくともも半分が事実であれば十分であり、紀元前400年以前に何らかの記録が存在したか否かが、気になったのである。現在の学者の間では紀元前300年以前のローマ史が疑われている。確かな記録が存在した紀元前300年代が疑われるのは、紀元前1世紀の歴史家が古い記録を改ざんしたと考えられるからである。リヴィウスも改ざんを疑われている。建国史の執政官の名前が、ピクトルの年代記と違っていることッは、既に述べた。またセクスティウスとリキニウスの話は、ピクトルの年代記には、なかったと言われている。しかしリヴィウスはかなりの部分でピクトルの年代記を受け継いでいる。リヴィウスはローマの最初の歴史家ピクトルを信頼しており、手本としていた。またリヴィウスは前2世紀の歴史家も評価していたが、前1世紀の歴史家を信用していなかった。それにもかかわらず、リヴィウスは紀元前1世紀の歴史家の影響を受けたとみなされている。これについて、私は一つの観点を提起したい。
紀元前1世紀はローマの社会が激変し、旧来の秩序が崩れ、大きな内乱が繰り返し起きた時代である。歴史観も分裂したのである。第二次ポエニ戦争(紀元前219ー201年)後、貴族階級が傲慢になったことが、動乱の遠因のように思われる。ハンニバルとの戦争に負け続けたことを、ローマの貴族は反省せず、地中海西部の覇者となり、舞い上がったのである。平民の多くが没落し、貴族に対抗する勢力が消え、貴族の天下となった。しかし紀元前2世紀末に社会の矛盾が顕在化し、反動が起きた。貴族独裁に対す対抗軸が復活し、激烈な内戦となった。このような時代に、貴族中心の歴史観に批判が起こったのかもしれない。リヴィウスも新しい波と無縁ではなかったに違いない。しかしリヴィウスには混乱の原因を知りたいという強い欲求があり、新しい波にのまれただけではない。リヴィウスは昔のローマ人の古風な性格があり、虚飾を嫌い、非現実的な空想を嫌ったのでり、彼の歴史観は独自なもになっている。

 


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