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ロムルス

2020-01-19 21:26:22 | 世界史

紀元前1176年以来アルバ・ロンガの王がラテン人全体の王となっていた。第14代アルバ王ヌミトルの娘が双子の男子を生んだ。この双子がロムルスとレムスであり、2人は新しい町を建設することにしたが、ロムルスはパラティーノの丘に建設することを主張し、レムスはアヴェンティーノの丘に建設することを主張した。新しい町をどちらの丘に建設すべきということだけでなく、2人の間には新しい町の支配権をめぐる争いがあった。レムスがロムルスを侮辱したため、ロムルスはレムスを殺し、単独の指導者となった。

国家の創設者が身分の卑しい生まれだったり、得体の知れない人物だったりすることは珍しくない。ある程度国家が発展した段階で、自国の起源を書く際、初代国王の出自を隠し、王家の血筋に生まれたと捏造することはよくある。

建国されたばかりのローマの様子を語る伝説が残っていたようであり、リヴィウスはそれを書き留めた。それを読むと、ロムルスは本当に第14代アルバ王の孫なのだろうか、と疑いたくなる。

新しい町を建設しようと集まったのは男性だけであり、しかも新しい集落をつくるには、人数が足りなかった。母市であるアルバ・ロンガからの家族の移住はなく、アルバ・ロンガはローマの建設を何ら支援していない。人口が不足していることについてアルバ・ロンガに助けを求めても無駄だ、とローマは考えていたようであり、自分でこの問題を解決しようとした。リヴィウスは次のように書いている。

「ロムルスはカピトリーヌの丘のふもとの開けた場所を流民のための避難所にした。近隣の部族の自由民、奴隷、変革を求める者、その他様々な種類の人間がそこに集まってきた」。

リヴィウスは書いていないが、ローマの建設に最初に参加した人々はかなり貧しかったようであ。新たに集まった人々の多くも貧しく、いかがわしい人物ももいたようである。こうした人々のほとんどが男子、少なくとも未婚の女性はいなかった。男子だけの村は50年後に消滅するので、ロムルスは焦った。この時も彼は母市であるアルバ・ロンガに助けを求めず、近隣の集落に縁組を求めたが、すべて断られた。近隣の集落はローマをいかがわしい連中の集まりとみなしていて、そのような相手に娘を嫁がせる考えはなかった。そこでローマは最後の手段、陰謀で近隣の村の娘を奪うことにした。

ローマ建国・王制時代、共和制初期について、同時代に書かれた文書は皆無に近く、伝説として伝えられて来たものを、紀元前1世紀後半リヴィウスが文章にしたのである。したがってこの時期のローマ史をそのまま事実として認定するのは、困難である。にもかかわらず、偉大なローマの発端について不名誉な話をわざわ書いているのは、作り話でなく、事実を伝えて居rのだ。実際にあったことが、数百年間語り継がれた可能性が高い。リヴィウスの建国神話には、ところどころ事実らしきところがあり、それをたどって、ローマの歩みを理解していきたい。

以上述べたことを、リヴィウスの文章によって確かめていただきたい。その前に、本文に登場する地名について解説する。ローマは4つの町の女性を誘拐した。ローマに最も近い小さな集落3つ(カぺーナ、アンテナ、クルストゥメリウム)と少し離れた大きな集落(クレス)である。

 

 

小さな3つの集落がラテン人、サビーネ人またはその他の部族に所属しているか、リヴィウスは書いておらず、少し離れた大きな集落についてだけ「クレス(Cures)はサビーネ人の古い町」と書いている。よく知られている「サビーネ女性の略奪」で、最も多く略奪されたのは、小さな3つの集落の女性たちである。この3つの集落のうち、アンテナとクルストゥメリウムの住民はサビーネ人であるが、カペーナの住民はラテン人である。カペーナは第2代アルバ国王シルヴィウスの植民によって誕生した。シルヴィウスはカペーナ以外にも、新しい村を多く建設した。ロムルスの時代より400年前の話である。

娘たちを奪われた小さな3つの集落はローマに対する復讐を考えたが、いざ戦争となると足並みがそろわず、それぞれ単独でローマに戦争を仕掛け、個別に撃破された。その後、最大の勢力であるクレス(Cures)を中心とするサビーネ人がローマを攻撃した。クレスのサビーネ人女性は略奪された人数が少なかったので、攻撃の理由はほかにある。アニオ川はサビーネ人とラテン人との国境地帯であるが、ロムルスの時代にはサビーネの勢力がアニオ川南岸にまで及んでいたようである。ローマはサビーネの勢力圏内にあった。クレスのサビーネ人は当初からローマを監視していた。ローマがクレスの勢力圏内で大胆な無法行為をしたので、クレスのサビーネ人はローマを懲罰するために戦争した。

最初にローマに挑んだ3つの集落と異なり、最後の敵はやっかいな相手だった。有名な「サビーネ人との戦争」はこの最後の戦争である。

 

====《リヴィウスのローマ史 第1813章》====

  Titus Livius (Livy), The History of Rome, Book 1

            Canon Roberts

ロムルスはアルバ・ロンガの神々をローマの神々とし、パラティーノの丘に関わりがあるヘラクレスをローマの神に加えた。これらのは神々は人々に受け入れられた。ロムルスは人々を集めて会議を開いた。共通の習慣と法律は住民をまとめるのに役立つと考え、ロムルスは他国の法律を与えた。粗野で原始的な住民にとって、外国の法律は権威あるものだった。さらに彼は王にふさわしい服装をした。彼のトーガ(長い衣)は純白であり、紫の縞模様で飾られた。専用の椅子も玉座にふさわしいものだった。そして12人の使用人を召し抱えた。ロムルスとレムスのどちらが王になるべきか占った時、12羽の鷲がロムルスの近くに現れた。それでロムルスは使用人の数を12人に決めたのだという説がある。しかし私は別の説を信じたい。そもそも、純白のトーガ、玉座、王の側近の制度はエトルリアをまねたものであり、側近の人数もそのまま取り入れたのである。エトルリアの12の都市は王を選び、各都市が王の側近として1名を提供した。

 

ロムルスの新しい町は徐々に成長し、城壁は四方に拡大した。城壁の拡大は人口が増えたからというより、将来に備えての都市計画だった。町の人口を増やすことはロムルスの重要な目標だった。人口が少ないことは、対外的に弱点だった。身分の低い者や正体のわからない者をたくさんかき集めて、彼らが 昔からその地に住んでいたかのように 言いふらすことは、新しい都市を建設する際よくあることだった。ロムルスも古代以来のやり方を採用し、かぴとりーぬのおかのふもとのあけたばしょをるみんののためひなんじょにした。近隣の部族の自由民、奴隷、変革を求める者、その他様々な種類の人間がそこに集まってきた。これは生まれて日が浅い町に最初の強さを与えた。ロムルスは町の人口が増えたことに満足し、次に賢明な統治方法を考え、100人で構成される元老院を創設した。適切な人物を選んだというよりも、この時期ローマには100の家族しかいなかったのである。元老院の100人は一族を代表していたので、家長と呼ばれた。彼らの子孫は貴族と呼ばれるようになった。

ローマは強くなり、近隣の都部族に対抗できるようになったが、将来に大きな不安を抱えていた。ローマには女性がいなかったので、次の世代を担う子供がいなかった。ローマは新しい集落であり、近隣の都市の女性と縁組する習慣や協定も、まだなかった。元老院は近隣の部族に使節を送り、外交関係の樹立と縁組の協定を結ぶことを提案した。ロムルスはこれに従った。いかななる都市も最初は小さなさな町であり、自らの勇気と天の助けにより成長するのである。

ローマが派遣した使節はどこへ行っても良好な返事を得られなかった。彼らの申し出は、見下すように扱われた。周辺の部族は怪しげな流民が流れ込んでいる新しい町を警戒していた。彼らはローマの申し出を断り、助言した。

「女性のための避難所を開設すれば、似たような境遇の男女の結婚が成立巣ではないか」。

ローマの若者はこのような侮辱に耐えられず、暴力に訴えることにした。ロムルスは計画の実行に適した場所と時期をあれこれ考えた結果、ネプチューン(海の神)の祭りの時がよいと思いつき、念入りに準備した。彼は祭りの日に面白い見世物があることを近隣の都市で宣伝させた。ローマ市民はロムルスのアイディアに賛同し、知恵を出し合い壮大な祭りを準備した。周囲の都市の住民は関心を持ち始め、祭りを期待するようにった。

新しい町ローマを見ようと、多くの人が集まってきた。ローマに最も近い3つの町(CaeninaAntemnaeCrustumerium)の人々、そしてサビーネ人全部が妻や家族と一緒にやってきた。彼らはそれぞれローマ市民の家に迎えられ、接待された。彼らは市内や城壁を見て回った。家屋の数が多いことを知り、彼らはローマの急速な成長に驚いた。

見世物がはじまり、彼らは目の前の光景にくぎ付けになった。その時合図があり、ローマの若者が一斉に観客の中に駆け込んで来て、若い女性を連れ去った。中でも特に美しい数人の娘は、ローマの貴族が最初から選別していたが、それ以外は手当たり次第に連れ去られた。多くの場合貴族は自分で連れ去ったのではなく、平民に命じが、タラッシウスという貴族は自ら仲間を連れてやって来て、最も美しく上品な娘を連れ去った。彼女を欲しているのは誰かと質問されると、この貴族は「タラッシウスだ」と答えた。このやり取りは、後にメロディーがつけられ歌となり、現在結婚式で歌われている。

観客は恐怖と驚愕のあまり呆然とした。見世物のことなど忘れてしまった。娘を奪われた両親は悲嘆にくれ、法律と接待の慣習に違反した者たちが厳しく罰せられるよう神に祈った。神をたたえる祭典にやって来て、このような恥知らずな犯罪の犠牲になったことを、娘の両親は恨んだ。

誘拐された娘たちは気が沈むと同時に怒っていた。ロムルスは娘一人一人に話しかけ、彼女たちの両親が燐の町の若者との野結婚を拒否したため、やむを得なかったと説明した。「ローマの若者たちは結婚の名誉を守り、財産を共有し、人権を尊重するでしょう。そして何より肝心なことは、あなたたちは自由人の母となるのです。乱暴なやり方だったので、恨む気持ちはわかりますが、運命で結ばれた夫を愛してて下さい。自分を侮辱した相手でも、仲直りすることもありす。あなたが両親を失った悲しみについては、あなたの夫の愛が慰めとなるでしょう」。

ロムルスの説得にも増して、夫は略奪した娘を愛したので、娘の心の傷は治っていった。

誘拐された娘たちの感情はなだめられたが、彼女たちの両親はそうならなかった。娘を奪われた父母は喪服を身につけて生活し、復讐の行動を起こすよう同郷人に涙ながら訴えた。さらに彼らは遠くまで出かけ、サビーニ人の王ティトゥス・タティウスに訴えた。ティトゥス・タティウスはこの地域で最も影響力のある人物だった。ローマに近い3つの町(CaeninaAntemnaeCrustumerium)の人々が最大の被害者だった。ティトゥス王とサビーネ人は彼らのために行動を起こすつもりがなさそうだったので、3つの町の人々は、自分たちだけでローマと戦争することにした。カエニナ人の怒りが最も大きく、彼らはすぐに戦争しようといきりたったが、アンテナ人とクルストゥメリウム人の戦意は低かった。結局カエニナ人だけがローマを攻撃した。

カエニナ人は分散して領内のいたるところをを破壊し、略奪した。 ロムルスは軍隊を率いてカエニナ人を蹴散らし、武力を持たない怒りは無力なことを悟らせた。ロムルスは逃げていくカエニナ人を追いかけ、彼らの王を殺し、カエニナ人の土地を占領した。ロムルスはカエニナ人の王から略奪した物をカピトリーヌの丘に運び、かしの木につるした。牧人たちの間でこの樫の木を神聖な物とされていた。ロムルスはこのかしの木のそばにユピテルの神殿を建てることにし、次のように祈った。

「ユピテル・フェレトゥリウス(戦利品を運ぶ者)!わたしは敵から奪ったものを献上します。これらの武器はカエニナの王のものです。神殿の構想はできています。神殿が建てられた後は、今回の例にならい、敵から奪った最上の戦利品が献上されるでしょう。」

娘を誘拐した3つの町との戦争はこれで終わらなかった。この問題が完全に解決した後で、ロムルスは誓い通りユピテル・フェレトゥリウスの神殿を建て、これがローマの最初の神殿となった。この時以来長い時間が経過し、ローマは何度も戦争をした。戦勝を重ねたがのこの間「最上の戦利品」がユピテル神に献上されたのは2回だけである。運命が人間に最高の栄誉を与えるのは非常にまれなことである。

ローマが最初の戦勝を祝っている間、ローマとの戦争に慎重だったアンテナ人がローマに侵入した。ロムルスは再び軍を率いて新しい敵に立ち向かった。アンテナ人はローマ軍の攻撃に驚き、最初の戦闘で逃げ去った。ローマ軍は追撃し、アンテナ人の町を占領した。

ロムルスが2度の勝利に喜んでいた時、彼の妻ヘルシリアは誘拐された娘たちの懇願に心を動かされ、娘たちの両親を許し、ローマ市民として迎えるよう、ロムルスに頼んだ。彼女は言った。

「そうすれば、近隣の住民との団結が生まれ、ローマは強くなるでしょう」。

ロムルスは妻の助言を受け入れた。

最も多くの娘を誘拐された3つの町の残りの町クルスリウトゥメリウムの人々がローマに戦争を仕掛けてきた。しかしすでにカエニナ人とアンテナ人が敗れていたので、クルストゥメリウム人の士気は低く、簡単に敗れた。アンテナ人とクルストゥメリウム人の土地にローマの植民地が建設された。クルストゥメリウム人の土地は豊かだった。クルストゥメリウムのローマ植民地の地名の大部分は旧来のままだった。3つの町との戦争が終わると、多くの人々がローマへ移住した。特に誘拐された娘たちの両親と親せきがそうした。

娘たちの略奪に起因する戦争は3つの都市との戦争で終わらず、最後にサビーネ人との戦争が始まった。この戦争はローマ人にとって困難なものとなった。サビーネ人は感情と短気によって戦争を始めたのではなく、彼らは戦争をするまで本心を隠した。彼らの戦略は巧妙であり、敵を欺くのがうまかった。

スプリウス・タルペイウスがローマの砦(とりで)を守っていた。彼の娘が宗教的な儀式に必要な水を汲みに、城壁の外に出た。サビーネ人の指揮官が彼女に話しかけ、彼らの部隊が場内に入るのを助けれくれ、と頼んだ。彼女はサビーネ人の部隊を城内に導いた。サビーネ人はに入るのに成功すると、その娘を盾でで押しつぶして、殺した。策略で砦(とりで)の中に入ったことを秘密にするためか、あるいは裏切り者に恩義を感じる必要はない、と考えたのかもしれない。サビーネ人は左手に金の腕輪をしており、娘はその腕輪が欲しかったと言われている。サビーネ人は左手の腕輪のかわりに、左手に持っていた盾を与えたのだという。

こうしてサビーネ人はローマの砦(とりで)のひとつを奪った。翌日ローマ軍はパラティーノの丘とカピトリーノの丘の間の平地に展開したが、サビーネ人は砦(とりで)から出てこなかった。砦を奪われたことに憤慨していたローマ兵は、砦を奪い返そうと攻撃した。砦(とりで)からサビーネ人の戦士メティウス・クルティウスが出てきた。ローマ軍からはホスティウス・ホスティリウスが歩み出て、一騎打ちとなった。ホスティウスは下方に立ち不利だったにもかかわず、恐れを知らず戦ったが、敗れた。ローマ軍の陣形は崩れ、パラティーノ丘の門に向かって逃げた。ロムルスは逃げる兵たちに巻き込まれ、両手を挙げて嘆いた。

「ユピテルよ! 私はあなたの啓示により、この丘に町を築いたのです。現在サビーネ人がその砦を支配しています。彼らは賄賂(わいろ)によってそれを手に入れたのです。今やサビーネ人は丘のふもとを支配し、こちらに向かっています。最高神であるユピテル様!ローマ人の恐怖心を払いのけ、恥ずべき退却から立ち直らせてください。ローマを守るユピテル様!あなたの助力により、ローマが救われたことを記念するため、ここに神殿を建てます」。ロムルスは願いが聞き届けられたことを確信し、逃げているローマ兵に向かって叫んだ。

「ローマ人よ、引き返せ! 最高神ユピテルの命令だ、サビーネ人と戦え!」

ローマ兵は逃げるのをやめた。ロムルスは先頭に立ち、サビーネ人たちに向かっていった。この時サビーネ人はパラティーノの門の近くまで迫っていた。サビーネ人の最強の戦士メティウス・クルティウスが言った。

「信義に欠け、臆病なローマ人に、我々は勝利した。ローマ人は娘を誘拐することはできても、戦争に勝つことはできない」

クルティウスがこのように自慢していた時、ロムルスは精鋭の兵士を率いてクルティウスに襲いかかった。クルティウスは馬に乗っていたので、すぐに逃げた。ロムルスたちは彼を追いかけた。これに続き、残りのローマ兵が反撃を開始した。、サビーネ軍は崩れ始めた。クルティウスの馬が制御できなくなり、クルティウス自身もローマ兵に追いかけられて平常心を失い、沼にはまってしまった。自分たちの将軍に危険が迫っているのを見て、サビーネ兵はクルティウスを声援した。味方の応援に励まされ、クルティウスは自力で危機を脱した。

サビーネ人とローマ人は2つの丘の間の谷の中央で戦闘を再開した。今回の戦闘はローマ軍が優勢だった。この時戦争の原因となった女性たち、すなわちローマ人に誘拐されたサビーネの女性たちが思いがけない行動をした。女性特有の恐怖心を払いのけ、彼女たちは髪を乱し、衣服が破れるままに、弓矢が飛び交う線上に躍り出た。彼女たちは2つの軍の間に割って入り、両軍の兵士の怒りをなだめ、戦争をやめさせようとした。一方でサビーネ人の父親に訴え、他方でローマ人の夫に訴えた。

「義父の殺人者となり、あるいは義理の息子の殺人者となることは忌まわしいことです。親族を殺害すれば後世まで汚名が残るでしょう」。最後に彼女たちは泣きながら言った。「もし私たちとの結婚に不満なら、怒りを私たちに向けてください。戦争の原因は私たちです。私たちのために夫と父が負傷したのです。父を失い、夫を失って生きるより、私たちが死んだほうがましです」。

両軍の兵士と将軍は女性たちの訴えに心を動かされた。戦場は静まりかえった。それから両軍の将軍が歩み出て、和平の条件について話し合った。その結果戦争の停止だけでなく、サビーネ人とローマ人が合体することが決まった。この合同は対等なものであり、王権は両方が共有することになった。首都はローマとなった。ローマが首都となったことへのみかえりとして、市民の呼称はサビーネ人の古い町の名前(Cures)を採用し、キリテス(Quirites)となった。キリテスはローマ人と同意の言葉として実際に使われた。例えばローマ・キリテスの人々(Populus Romanus Quirites)という成句が存在した。しかしその後キリテスは人々の集会を意味するようになった。

クルティウスと彼の馬が入りこんだ沼は現在「クルティウスの湖」と呼ばれている。サビーネ人とローマ人が戦った場所は現在フォルム(中央広場)になっている。

嘆かわしい戦争が簡単に終わり、サビーネの女性たちは夫と父からますます愛されるようになった。ロムルスがローマを30の地区(クリア:Curiae)に区分した時、それぞれの地区にサビーネの女性たちの名前を与えた。30の地区は主要な30の家族に割り当てられたものである。しかしサビーネの女性の数はもっと多く、その中から30人だけが選定されたに違いないが、選定方法については伝えられていない。

次にロムルスは100人からなる騎馬隊を3隊編成した。第1騎馬隊にはロムルスの名が与えられ、第2騎馬隊にはロムルスと共同王になったサビーネの将軍タティウスの名前が与えられた。以後2人の王が協調し、統治した。

 

サビーネ人がローマに合流してから数年後、タティウス王の親族のサビーネ人がラウレントゥム(ラテン人の古い町)から来た使者に無礼な対応をした。ラウレントゥムは外交慣例に基づき、タティウスに謝罪を求めた。タティウスは親族に対する配慮を優先し、ラウレントゥム人の抗議を無視した。間もなくタティウス王は天罰を受けた。彼がラヴィーニウム(ラテン人の古い町)のいけにえの行事に参加した時暴動がおこり、彼は殺された。ロムルスはタティウスの死を少しも悲しまなかった。君主が2人いる場合、両者が心を許しあうことはなく、互いに敵対心を持つものである。そうでなくても、タティウスは王として不適格であった。国王を殺した敵に対し戦争によって報復するのが当然であるのに、ロムルスははそうしなかった。彼の考えでは、使節に対する侮辱が報復されたのであり、この問題は決着した。ローマとラヴィニウムの間の友好条約は更新された。

===============(リヴィウス終了)

 

 

ラウレントゥムは初代ラテン王の居住地であり、ラヴィニウムは第2代国王の所在地となった。第3代以後はアルバ・ロンガがラテン王の居住地となった。ローマ王タティウスはラウレントゥムの使節を侮辱したことが原因で殺されたが、殺された場所はラヴィニウムである。侮辱されたのはラウレントゥムであるのに、ローマ王タティウスへの暴動が起きた場所がラヴィニウムであることについて、リヴィウスは説明ていない。おそらく、ラウレントゥムは重要性を失っており、ローマ王がラウレントゥムに行くことはなかった。ラヴィニウムは繁栄していたので、ロムルスは早い段階でこの町と友好な関係を築いており、ローマ王がラヴィニウムへ行く機会は多かった。そのためラヴィニウムがローマ王タティウスの殺害場所になった。おそらく、ラヴィニウム人が協力しただろう。ラウレントゥム人に頼まれ、ラヴィニウム人が実行した可能性もあるが、リヴィウスは何も書いていない。

 

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