京都で定年後生活

2013年3月60歳で定年退職。

美術館と庭園めぐり、京都の四季の行事と花を綴ります。

京都歴史散策 湯たく山茶くれん寺、釘抜き地蔵、千本ゑんま堂、紫式部と小野篁の墓

2019-01-16 05:41:06 | 京都歴史散策


千本通りの歴史散策です。
スタートは千本通り今出川西の『湯ゆたく山茶くれん寺』です。

一度聞いたら忘れられない寺名です。
京都市上京区千本今出川に位置する淨土宗の寺で、近くにある般舟院の隠居所として平安時代に創建されました。
豊臣秀吉公とのゆかりに因んだ「湯たく山茶くれん寺」を通称として知られています。
先代まで代々続く尼寺でした。











天正十五(一五八七)年十月一日、秀吉が九州征伐の勝利と聚楽第の完成を記念して北野天満宮境内の松原で「北野大茶湯」を催しました。
その折秀吉が北野に向う途中、この寺に立ち寄り、茶を所望しました。
住職は一杯目のお茶を出した後、秀吉が二杯目を所望しました。世に知られた茶人でもあるお方に自分の未熟なお茶を出し続けるのは失礼でもあり、恥ずかしいことであると考え、それならばお寺に湧き出る香しい銀水をそのまま味わっていただこうと、沸かしただけの白湯を出し続けたといいます。
秀吉公はお茶のおかわりを頼んでいるのに出てくるのは白湯ばかりで、「この寺では、お茶を頼んでいるのに白湯ばかり出して、お茶をくれん。湯たくさん茶くれん。」と言ったそうです。
このエピソード以降、「湯たく山茶くれん寺」と呼ばれるようになったと伝えられています。
なお、姫路にも『湯ゆたく山茶くれん寺』があるそうです。


石像寺(釘抜地蔵)
空海の開基、「釘抜地蔵」として知られています。
「苦抜き」の云われから病気平癒の祈願者が多く、墓地には藤原定家、家隆の供養塔があります。
私が行ったときもお参りする方が絶え間無かったです。


正面入口





説明板





参道に大きな釘と釘抜きがあります。






中門





本堂










絵馬ならぬ釘抜き奉納








































引接寺(千本ゑんま堂)
釘抜き地蔵さんを少し北に上がったとことにあります。

開基は小野篁、本尊は閻魔王像で「千本ゑんま堂」と呼ばれ、古来より精霊迎えの霊場として参詣者で賑います。
紫式部の供養塔・多重石塔(重要文化財)や普賢桜、京都三大念仏狂言の一つ、「ゑんま堂狂言(市登録無形民俗文化財)」などが有名です。

小野篁(802年〜852年)は嵯峨天皇につかえた平安初期の官僚で、武芸にも秀で、また学者・詩人・歌人としても知られています。
文章生より東宮学士などを経て閣僚級である参議という高位にまでなった文武両道に優れた人物であったが、不羈な性格で、「野狂」ともいわれ奇行が多く、遣唐副使にも任じられたが、大使の藤原常嗣と争い、嵯峨上皇の怒りにふれて隠岐に流罪されたこともあります。
小野妹子の子孫です。
また、閻魔王宮の役人ともいわれ、昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁につとめていたという奇怪な伝説は有名です。






















紫式部の供養塔、重要文化財の多層石塔です。
至徳三年(1388)8月22日に僧円阿の勧進によって建立された銘があります。





白梅が咲いていました。










鐘楼





面白い行事がありました。





千本ゑんま堂から鞍馬口通りを東に歩き、堀川通りに出ます。
その少し北に紫式部と小野篁の墓があります。
紫式部は平安時代中期に活躍した女流作家・歌人で、紫式部の代表作として有名なのが『源氏物語』です。











紫式部の墓
室町時代の古文献に載る紫式部の墓が小野篁の墓の隣にあります。墓石は新しいものです。
紫式部のお墓は「紫式部墓所」と呼ばれています。
この場所はかつては蓮台野と呼ばれ、紫式部が生きた時代にはすでに貴族のための墓地が設けられていました。
さらに、墓所の近くには、紫式部が晩年に住んでいたという大徳寺所属の建物である雲林院がありました。
紫式部の晩年の居住地に近かったこともこの墓地にお墓が建てられた理由の1つですが、小野篁の関係が挙げられています。
愛欲を描いた咎で地獄に落とされた紫式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものす。
紫式部が死後に地獄に落ちたという風聞を聞いた『源氏物語』の愛読者たちが、閻魔大王の補佐をしていたという小野篁の仲介で紫式部を地獄から解放してもらおうと祈るために紫式部のお墓を移転したことによります。
紫式部の墓所の中には、紫式部のお墓や石塔のほかにも、紫式部の功績をたたえる顕彰碑や、紫式部の生涯や功績について解説するための小屋があります。

現在は島津製作所の紫野工場の敷地内に位置していますが、同社の工場とは区切られた区画となっていることから普通にお参りすることは可能です。墓所の管理は地元の顕彰会が行っています。

所在地日本、京都府京都市北区紫野西御所田町
京都市バス「堀川北大路」停留所下車、徒歩1分






































小野篁のお墓
紫式部のお墓の隣には平安時代前期の貴族・歌人の小野篁のお墓が建てられています。













千本ゑんま堂縁起 同寺のホームページより

開基小野篁卿尊像
百人一首の歌人として知られる小野篁卿(802~853)は、この世とあの世を行き来する神通力を有したとされており、昼は宮中に赴き、夜は閻魔之廰に仕 えたとの伝説を残しています。篁卿は、閻魔法王より現世浄化のため、塔婆を用いて亡き先祖を再びこの世へ迎える供養法で、後に我が国の伝統習慣である「盂 蘭盆会(お盆行事)」へと融合発展する法儀「精霊迎えの法」を授かりました。その根本道場として、朱雀大路(現・千本通り)の北側に篁卿自ら閻魔法王の姿 を刻み建立した祠が当ゑんま堂の開基です。
また、この地は「化野」「鳥辺野」と並び、篁卿が定めたと伝わる平安京三大葬送地のひとつ「蓮台野」の入口にあたり、現在も周辺からは多くの石仏群が出土 します。ゑんま堂から蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、この辺りには何本も無数にあったことから「千本」の地名が残ったといわれていま す。篁卿の後、寛仁元年(1017)、藤原道長の後援を得た比叡山恵心僧都源信の門弟・定覚上人が、ここを「諸人化導引接仏道」の道場とすべく「光明山歓 喜院引接寺」と命名し、仏教寺院として開山しました。「引接」とは「引導」と同義語です。「引接寺」という正式名称より、「通称の千本ゑんま堂」としてよ り親しまれているのは、この地が開山以前から、人々にそう呼ばれ、神仏や宗旨宗派を越えた信仰を集めていたからにほかなりません。