蓮はそろそろ終盤でしょうか。 2019-07-31 17:22:43 | 2019 花 今年は蓮の開花が早く、初投稿は6月6日です。 明日から8月、2ヶ月ほど楽しませてくれた蓮はそろそろ終盤のようです。 それでもまだ多くの品種が咲いていました。 蓮に感謝を込めて投稿します。 行田蓮 カスピカム 大阪水走蓮 玉繍蓮 金輪蓮 小麗蓮 桜蓮 千重蓮 姫蓮 浄台蓮 不忍池蓮 桃蓮 誠蓮 姫万里 月の兎 紅孔雀 黄玉杯 花ずきん 舞姫蓮 ミセススローカム 巨椋請所の本紅 巨椋大紅 巨椋小倉西 巨椋相島大木ノ下 巨椋紅鶴 巨椋の白鳥
京町屋 上京(1)山中油店、井上邸、中村邸、生谷邸、木村邸、山本邸、三上邸 2019-07-31 06:25:22 | 京都の町 町屋・建造物 京都上京区の代表的な町屋を紹介します。 このブログで紹介するもののほとんどは国登録有形文化財、京都市景観重要建造物、京都市歴史的風致形成建造物、京都市歴史的意匠建造物、京都市指定有形文化財に登録・指定された京町屋・建造物です。これらは国、京都市のホームページで公開されたものです。 平安時代、平安京の北側を上辺と呼ぶようになり、中世以降に上京となります。 平安京の南は下辺で下京になります。上京と下京の境界はおおむね二条通りでした。 上京には京都御所があり、中世以降は武家屋敷と公家の屋敷が集まり、また西陣と呼ばれる代表的な伝統産業が栄えました。 また上京は京都の町の典型であり,日本文化の中心でもありました。 大社名刹、三千家の家元が茶の湯の伝統を伝え,鴨川のほとりには頼山陽が「山紫水明処」を構えていました。 また狩野元信や本阿弥光悦の生家もあり、文化・芸術の高い旧跡が各所に点在しています。 こういう土壌の上に京町屋の原型は江戸時代中頃には誕生していました。 山中油店 国登録有形文化財、景観重要建造物、歴史的風致形成建造物 上京区 下立売通智恵光院西入下丸屋町 江戸/1751-1829 木造平屋建、瓦葺、建築面積326㎡ 下立売通に南面する間口9間の平屋建町家。切妻造,桟瓦葺で表裏に庇が付き,北に落棟が続いています。 正面にはバッタリ床几と蔀,出格子,飾り窓を設け,厨子2階に虫籠窓があります。 西半が通り土間,東半が2列の居室で,北奥に10畳座敷を配置。京町家の典型として貴重です。 辰巳蔵 登録有形文化財 明治/1900/1971曳家 土蔵造平屋建、瓦葺、建築面積45㎡1棟 敷地の南東隅,主屋の東に建つ土蔵造平屋建。桁行4間半,梁間3間の南北棟で,切妻造,桟瓦葺です。 戸口は西面に設け,鉄板葺庇を付け、外壁は白漆喰塗で,腰を縦羽目板張としています。 小屋組は地棟に登梁を架ける。通りから庭越しに見せる妻壁が美しいです。 井上邸(旧森留) 景観重要建造物 上京区 今出川通七本松西入真盛町 上七軒の花街にあります。建物2階からの簾は花街独特のものです。 中村邸(旧中村万治郎邸) 国登録有形文化財、景観重要建造物、歴史的意匠建造物 上京区 室町通寺之内上る三丁目上柳原町 主屋 明治/1868-1911/1933改修 木造2階一部平屋建、瓦葺、建築面積151㎡1棟 街路に西面して間口3間半の表屋を建て,坪庭を介して間口6間の居住棟を並置する表屋造の町家です。 表屋の1階正面は右手に大戸,左手に出格子を設け,2階に虫籠窓があります。 居住棟は1・2階とも背面に8畳座敷と6畳次の間を設ける、京町家の好例です。 土蔵 明治/1868-1911 土蔵造2階建、瓦葺、建築面積23㎡1棟 主屋の表屋の北に並ぶ土蔵造2階建です。方2間の規模で切妻屋根の平側を街路に見せています。 入口は東の坪庭に面して設け、外壁は白漆喰塗で,腰の下見板張は弁柄塗とし,1階に瓦葺庇が付いています。 街路側の1・2階に開いた窓が外観のアクセントとなっています。 生谷邸(生谷敬之助) 国登録有形文化財、景観重要建造物、歴史的意匠建造物 上京区 室町通鞍馬口下る二丁目竹園町 明治/1868-1911 木造2階一部平屋建、瓦葺、建築面積151㎡1棟 街路に東面する2階建町家です。間口4間の切妻造平入で,北側に間口3間の平屋建が付いています。 1階正面は出格子で飾り,2階は土壁に虫籠窓を開いています。 内部は南側を通り土間とし,2階背面側に座敷10畳と次の間7畳半を設けています。 烏丸通から入る街路のアイストップになっています。 木村邸(木村不動産鑑定事務所) 景観重要建造物 上京区 中立売通黒門東入役人町 山本邸(仁風庵) 国登録有形文化財、景観重要建造物、歴史的風致形成建造物 上京区 中立売通西洞院西入三丁町 2011年国登録文化財指定。洋風応接を備えた近代和風建築です。 昭和前/1940頃 正門 木造、瓦葺、間口1.8m、塀 木造、瓦葺、延長19m1棟 敷地南側の正面に建ち,正門は間口一間の木造で切妻造,桟瓦葺とし,両引格子戸を入れ,袖壁を付け,正面東西に高塀を設けています。 高塀は腰板上部を中塗仕上げとし,目板瓦葺としています。高塀西端より主屋玄関まで庭塀を延ばしています。 敷地正面の落ち着きある景観を形成。 大塀造りで享保年間(1700年代)創業の山本仁商店の住宅兼ゲストハウスとして1940年頃に建てられた京町屋です。 現在「謡講・声で聞く能の世界」などを開催しています。 三上邸 景観重要建造物 上京区 油小路通上長者町下る亀屋町 各種建造物指定 国・登録有形文化財 緩やかな規制により建造物を活用しながら保存を図るため,平成8年度施行の文化財制度で登録された建物が登録有形文化財です。 登録文化財には,築後50年を経過している建造物で,国土の歴史的景観に寄与しているもの、造形の規範となっているもの、再現することが容易でないものといった基準を満たす建造物が対象となります。 京都市では,近代の建造物を中心に積極的に登録を進め,市内243件(平成31年1月末現在告示分)が登録されています。 景観重要建造物 平成16年に制定された景観法に基づき,地域の自然,歴史,文化等からみて,建造物の外観が景観上の特徴を有し,地域の景観形成に重要なものについて,京都市長が当該建造物の所有者の意見を聞いて指定を行う制度です。 指定を受けた建造物には,所有者等の適正な管理義務のほか,増築や改築,外観等の変更には市長の許可が必要となりますが,相続税に係る適正評価や,建造物の外観の修理・修景に係る補助制度が活用できます。 歴史的意匠建造物 歴史的な意匠を有し、地域の景観のシンボル的な役割を果たしている建築物等を京都市が指定するものです。 歴史的風致形成建造物 平成20年11月に施行された、歴史まちづくり法に記載された重点区域内の歴史的な建造物で,地域の歴史的風致を形成し,歴史的風致の維持及び向上のために保存を図る必要があると認められるもので,京都市長が建造物の所有者及び教育委員会の意見を聞いて指定した建造物。 指定を受けた建造物には,所有者等の適切な管理義務のほか,増築や改築,移転又は除却の届出が必要となりますが,建造物の外観の修理・修景に係る補助制度が活用できます。
京都の町屋シリーズ開始 2019-07-30 18:16:30 | 京都の町 町屋・建造物 ブログで以前から取り上げたいと思っていたテーマがあります。 それは「京都の町屋」です。 年々減少し続け、このままでは京都ならではの景観が完全に失われてしまいます。 東山魁夷が50年ほど前に描いた京都の景色です。 京町屋が軒を並べる風情ある町並みを形成しています。 今では失われた景色です。 年暮る 1968(昭和43)73.0x100.0 年暮る京の街に、しんしんと雪は降る。 [京都市中京区、京都ホテルオークラ屋上より望む京都の町] 現在残されている町屋も失われる前に記録しておきたいと思い、少しずつ町屋めぐりをしてきました。 このブログで少しずつ紹介していきます。 京町屋とは 京都の町屋とは「1950年以前に伝統的木造軸組構法で建てられた木造家屋」(京都市)です。 1950年というのは建築基準法改正が行われた年です。 京町屋は職住一体の住居で、江戸時代の中頃には今の形になったといわれています。 ですが、1864年の禁門の変(蛤御門の変)の火災でかなりの建物が消失してしまいました。 現在の中京区、下京区のほとんどが焼け、2万7000世帯、土蔵や寺社が罹災し、東本願寺、本能寺、六角堂も焼失しました。 ですから、現在の京都の町屋と言われるものの多くは、禁門の変後に建てられたものです。 京町屋の数 2010年8月京都市が市内全域を対象に京町家の実態調査を行った結果、4万7,735軒が残存、うち10.5%が空き家でした。 江戸時代の京町家は全体の2%、明治時代のものも14%ありました。 2017年の調査では4万146軒が残存、失われた京町家が5,602軒、調査できなかったのが1,987軒です。 うち空き家は5,834軒あり、全体の14.5%にもなります。 一年間の平均の減少率は1.7%で、ほぼ同じようなペースで京町家が失われています。 減少の理由は、上京区、中京区、下京区などの市内中心部での人口減少、老朽化や住人の高齢化があります。 京町家に住む所有者の多くは高齢者で、高齢者(65歳以上)だけの世帯は35%を超えています。 子供たちは別の場所に移り住み、相続が発生した際に引き継げない状況が生まれています。 「できる限り残したい」との思いを持つ一方で、相続税の負担や維持改修費用などの問題が大きいのです。 新たな需要も増えている。 京町屋が減少している一方で、「京町家に住んだり、店を開いたりしたい」という需要や、京町家への滞在を希望する外国人を含む観光客の需要は増えています。 さらに町屋を所有したいという外国人からも問い合わせも増えており、いわゆる富裕層も注目しています。 最近では台湾、シンガポール、アメリカからの引き合いが多いそうです。 京町屋の保全と継承 京都市は京町家の保存・活用を図り、空き家の利用希望者を募集するなど様々な施策を打ち出しています。 平成12年に「京町家再生プラン」を策定、町屋の改修時の相談や賃貸する時のアドバイスも行っています。 2017年11月には「京都市京町家の保全及び継承に関する条例」(京町家条例)を制定しました。 この条例で京都ならではの景観や文化を象徴する京町家の保全と継承を目的に、町家の所有者や管理者、事業者などは市長が定める京町家保全・継承推進計画に則して活動しなければならないとする責務を定義しました。 京町家の維持管理や修繕、改修の支援、京町家の活用促進、広報・啓発活動などを市の基本施策として提示しました。 一方で、該当する京町家を解体する場合、所有者または解体工事業者が市長に届出を行う義務を明記し、虚偽または無届出で解体をした場合には罰金5万円以下の過料に処することも決めました。 最近の傾向として、簡易宿泊所を行う京町屋が増えています。 町家の立地する敷地 間口が狭く奥行きが深いため「うなぎの寝床」と呼ばれています。勿論間口の広いのもあります。 京町屋の分類 一口に京町屋と言ってもさまざまな形態があり、現在7つに分類されます。 厨子二階 2階の天井が低く虫籠窓がある。近世後期に完成し、明治後期まで一般的に建築された様式で中二階ともいう。 総二階 2階の天井が1階並みにあり木枠にガラス窓が一般的。明治後期から昭和初期に流行った様式で本二階ともいう。 平屋 1階建てで表に店舗をもたない。中世の町家はほとんどが平屋。今日では「平家」と表記することも多い。 三階建 3階建ての町家。 仕舞屋 住居専用の町家。店を「仕舞った」つまり商いをやめた店からきている。 大塀造 直接建物が道に面しておらず、表通りに塀をめぐらして玄関先に庭、その奥に家屋を配した屋敷をいう。塀付き、高塀造ともいう。 看板建築 町家の表側を近代的に改装したもの。昭和中期の高度経済成長期に改修が施されたものが多い。 外観は京町家とは大きく異なるものの、戻すことは比較的容易。 2010年の調査では、総二階が全体の過半数を占め、看板建築も2割弱ありました。一方で、三階建はほとんどない結果でした。 京町屋の特徴的な構造 屋根 一階庇の最前列は一文字瓦葺いています。 横の一直線と格子の縦の線の調合が町屋の外観美の一つです。 格子 格子は戦国時代からで、内からは外がよく見え、外からはよく見えないようになっています。 家の商いや家主の好みでデザインが異なります。 上部が切り取られた「糸屋格子」、太い連子の「麩屋格子」、「炭屋格子」、重い酒樽や米俵を扱う「酒屋格子」、 「米屋格子」、繊細な「仕舞屋格子」などがあります。格子を紅殻で塗ったものが紅殻格子。 虫籠窓 明治期までの町家の2階部分に使われた標準的な窓。 表に面した二階が低くなっている「厨子二階つしにかい」に多く見られる意匠。 防火と道行く人を見下ろさない配慮と言われています。 犬矢来 道路に面した外壁に置かれるアーチ状の垣根。竹や木などでできたものが多いが、現在は金属製も多く用いられる。 直線的な町屋の表情を和らげてくれます。 駒寄 家と道との境界に巡らされた格子の垣。元は牛馬をつなぐためのものでした。 意匠もさまざま、栗や欅などの硬い木が使われることもあります。 ばったり床几 折りたたみ式のベンチ。ばったん床几ともいう。 元々は商いの品を並べるもので、後に腰掛け用に床几として近隣との語らいの場でした。 ばったりとは棚を上げ下げするときの音からきています。 鍾馗さん 疫病除けの瓦人形で入り口の小屋根の上に置かれます。京町屋の屋根の象徴です。 庭 町家の多くは裏庭がある。玄関(店庭)から裏庭までの土間の部分を「通り庭」と言い、玄関を含まない部分は「走り庭」と呼ばれる。 大規模な町家は途中に「坪庭」と呼ばれる小規模な中庭がある。 これらの庭は、いずれも採光、風の通り道としての機能を兼ね備えている。 走り庭 水屋、嫁隠し、井戸、流し、おくどさん(竃)、布袋さん(愛宕神社の「火迺要慎」のお札と竃の神の「布袋さん」が祀られる。 高い天井は火袋と呼ばれ、天窓からは光が入って明るい。 箱階段 町家の狭さをカバーするために、階段の下部が収納スペースになっているもの。 蔵 防火を施した丈夫な蔵が奥にある。家の中にあるので「内蔵」と呼ばれることもある。 京町屋の見学できるところ。 現在見学できる町屋は非常に少なく、しかも大きな商家ばかりです。 無名舎(吉田家住宅) 杉本家住宅 秦家住宅 富田屋くらしの美術館 京町屋は職住一体が基本で一般の町屋が公開されることはほとんどないのが実情です。 以前、四条通西洞院郭巨山町に『四条京町屋』があり、誰にでも公開されていました。 京都の伝統的な暮らしと、それらを支えてきた工芸品の良さが体感できる施設でした。 明治43年鋼材卸商の隠居所として建てられた「表屋造り」の建物で、「鰻の寝床」と称される間口が狭く、縦に長いのが特徴でした。 靴を脱がずに奥と表を行き来できる「通り庭」や井戸・水屋・おくどさんなどを見学できました。 それが2010年頃に閉館したのが惜しまれます。 また、昨年紫織庵(旧川崎家住宅)も閉館されました。 川崎家住宅は大正末期の室町の豪商、井上利助が建てたもので、洋間も備えた表塀付きの町家で、近代日本を代表する建築家の武田五一が設計に関わったとされています。戦後、市内で呉服製造卸を営む川崎家が購入、近年は和装などを紹介する施設「紫織庵」として活用していました。 昨年その「紫織庵」が閉館し、東京都内の業者が土地と建物を購入、本年1月29日市に解体する意向を伝えていました。 地元の明倫学区自治連合会や祇園祭の八幡山保存会など地元関係者が、文化財の建物がなくなり、跡地が宿泊施設などになることを懸念し、現地保存を求める要望書を市に提出していました。 京都市は直ちに2月1日、所有者に異例の警告文を送付しました。 「川崎家住宅を取得した時点で建物が京都市指定有形文化財であることは周知の事実であり、あなたはその保存・継承の義務を負うことについて認識されているはず。条例の定めに従わず、その価値を滅失することがあれば、法的にも道義的にも看過することができない深刻な事態となり、世界から注目されることが予想されます。万が一にも条例に反する行為がなされないよう、ここに強く警告する」としています。 京都市と地元関係者の危機感がここに表れています。 祇園祭で川崎家住宅に行ってきましたが、まだ現状のままでした。 町屋の建造物にはさまざまな指定を受けたものがあります。 国・登録有形文化財 緩やかな規制により建造物を活用しながら保存を図るため,平成8年度施行の文化財制度で,登録された建物が登録有形文化財です。 登録文化財には,築後50年を経過している建造物で,国土の歴史的景観に寄与しているもの、造形の規範となっているもの、再現することが容易でないものといった基準を満たす建造物が対象となります。 京都市では,近代の建造物を中心に積極的に登録を進め,市内243件(平成31年1月末現在告示分)が登録されています。 景観重要建造物 平成16年に制定された景観法に基づき,地域の自然,歴史,文化等からみて,建造物の外観が景観上の特徴を有し,地域の景観形成に重要なものについて,京都市長が当該建造物の所有者の意見を聞いて指定を行う制度です。 指定を受けた建造物には,所有者等の適正な管理義務のほか,増築や改築,外観等の変更には市長の許可が必要となりますが,相続税に係る適正評価や,建造物の外観の修理・修景に係る補助制度が活用できます。 歴史的意匠建造物 歴史的な意匠を有し、地域の景観のシンボル的な役割を果たしている建築物等を京都市が指定するものです。 歴史的風致形成建造物 平成20年11月に施行された、歴史まちづくり法に記載された重点区域内の歴史的な建造物で,地域の歴史的風致を形成し,歴史的風致の維持及び向上のために保存を図る必要があると認められるもので,京都市長が建造物の所有者及び教育委員会の意見を聞いて指定した建造物。 指定を受けた建造物には,所有者等の適切な管理義務のほか,増築や改築,移転又は除却の届出が必要となりますが,建造物の外観の修理・修景に係る補助制度が活用できます。 これ以外に川崎家住宅のように京都市指定有形文化財もあります。 京都市指定有形文化財の建造物は、意匠的に優秀なもの、技術的に優秀なもの、歴史的価値の高いもの、学術的価値の高いもの、流派的又は地域的特色が顕著なものが指定基準です。 次回より上京区の町屋を投稿します。
大覚寺大澤池の蓮とカイツブリ 2019-07-30 05:30:25 | 2019 花 大覚寺大澤池の蓮です。 ここの蓮は例年遅く、昨日行ってきました。 暑い一日で最高気温は36.5度でしたが、薄曇りで少し青空が見えるという天気です。 対岸付近に蓮が見えます。 いつものコースがスズメバチの巣で通れません。 羊草 久しぶりのカイツブリです。 大きさは約26cmくらい、一年を通して見られます。 色は茶色、夏は首にかけて赤くなる。 池や川・海にすみ、主に魚をとって生活、浮巣をつくる特長があります。 サギ
36.5度 ホトトギス、バオバブ、ヒマラヤの青いケシ 2019-07-29 17:24:11 | 2019 花 今日は全国的に気温が上昇しているようですが、京都市内も同様で最高気温は36.5度まで上がりました。ただただ暑いの一言です。 熱中症の防災情報が何度も出されています。 朝晩だけでも涼しければまだ良いのですが、熱帯夜なのには参ります。 ホトトギス バオバブ ヒマラヤの青いケシ
京都五花街『祇園東』 2019-07-29 05:38:57 | 京都の町 町屋・建造物 東大路通と花見小路の間で四条通北側の通り三本(東富永町・中末吉町・新橋)にまたがり、京都を代表する飲食繁華街にあります。 明治14(1881)年、祇園甲部から分離独立、膳所藩京屋敷跡から再出発し、「祇園新地」を経て祇園東となりました。 飲食店街のなかに、お茶屋の建物が当地の氏神である赤い鳥居の「観亀神社」と並んで建っています。 舞踊は藤間流、「祇園をどり」は京都花街で唯一秋に行われる舞台公演です。 祇園東は歌舞練場はなく、秋の公演は祇園会館で開催されています。 夏には長唄、清元、お囃子などの発表会「ゆかた会」も開かれます。 紋章は八個のつなぎ団子。 八坂神社西の東大路通りに祇園会館という劇場があります。 1958年建築の現在では古い劇場で、2012年までは映画館でした。 現在は「よしもと祇園花月」や「マハラジャ」が入館しています。 祇園東は祇園会館の西に入った付近です。 このあたりは夜の盛り場でスナックなどがとても多く、その一角に祇園東はあります。 私が若かった頃に何度か通ったスナックもありました。 茶屋 芸妓さんが歩いています。 歓亀神社 現代風建物の茶屋 神社の周囲をぶらぶら歩きます。 茶屋
京都の花街『宮川町』 2019-07-28 21:09:48 | 京都の町 町屋・建造物 梅雨明けの京都ですが、いきなりの猛暑には参っています。 祇園祭は31日までですが、私の山鉾町めぐりは終わりました。 現在次のテーマに向けて準備中です。 いままで京都五花街のうち『上七軒』『祇園甲部』を投稿しましたが、今回は『宮川町』です。 鴨川右岸、東山区宮川筋二丁目から六丁目のあたりに伝統の花街らしい風情の街並みがあります。 地名の由来は四条以南の鴨川が八坂神社の神輿洗い神事が行われるために宮川と呼ばれていたとされています。 江戸時代初期の慶長年間、四条河原発祥の出雲阿国の歌舞伎踊りの時代に始まり、以後歓楽街となり、歌舞伎などの芸能と深くかかわりながら茶屋街として発展してきました。 舞踊は若柳流。春の公演は「京おどり」、秋には「みずゑ會」が開かれます。 紋章は三つ輪です。 近年来日観光客が花見小路や先斗町に押し寄せ、花街の風情が失われつつあるなかで、宮川町は貴重な場所です。 南の宮川筋五丁目から北の二丁目まで歩きます。 露地に入ります。 元の通りに戻ります。 宮川町歌舞練場 宮川筋四丁目 人力車は似合います。 宮川筋三丁目 宮川筋二丁目 これで無電柱化すれば言うこと無しなのですが。 ここには観光客が押し寄せて来てほしくないです。
天龍寺暁天講座 2019-07-28 05:27:05 | 坐禅会 昨日早朝、天龍寺暁天講座(7/27-28)に行ってきました。 7月は建仁寺緑陰講座に続いて二回目です。 朝5時の嵐山渡月橋 台風6号の影響でどんよりした曇り空で、今にも雨が降りそうです。 5時15分、車を境内の駐車場に止めて庫裏に入ります。 平田精耕前管長の『達磨図』が迎えてくれます。 方丈の坐禅会場 6時の坐禅開始までに早朝の曹源池庭園の景色を皆さんと一緒に楽しみます。 ツバメが飛び回っているので軒下を見ると雛がいました。 6時坐禅がはじまります。 約25分間の坐禅を休憩をはさんで2回行います。 広い方丈内に驚策の音が響きわたります。 今回も参加者が多いようで方丈内には入りきらず、廊下でも坐っています。 坐禅終了後、般若心経を読経します。 佐々木容道管長による『夢中問答』46則「他人の是非説くよしもなし」の提唱です。 『夢中問答』は天龍寺開山の夢窓国師こと、夢窓疎石(1275~1351)が書いた仮名法語で、夢窓国師が足利尊氏の弟、足利直義の質問に答えるQ&A形式の禅問答集です。 提唱が終わると素麺の接待です。 300人分用意されているそうです。 普段は飲食禁止ですが、この日ばかりは世界遺産の中で素麺をいただきます。 達磨図 莫妄想 妄想するこちなかれという禅語です。 庫裏を出ます。 他の寺院でも暁天講座が一部始まっています。 知恩院暁天講座 7月27日(土曜)から31日(水曜) 午前6時~7時 法然上人御堂 永観堂緑蔭法話 8月1日(木曜)ー3日(土曜) 午前7時~8時 永観堂禅林寺境内 放生池畔 清水寺うら盆法話 8月1日(木曜)ー5日(月曜) 午前6時~大講堂圓通殿 智積院暁天講座 8月1日(木曜)ー2日(金曜) 午前6時30分~8時 金堂 東大谷暁天講座 8月1日(木曜)ー5日(月曜)午前6時は~7時半 大谷祖廟 相国寺暁天講座 8月2日(金曜)ー3日(土曜)先着120人、電話予約
女郎花、フシグロセンノウ、オニユリ、ナツズイセン、ヤマユリ、ウバユリ 2019-07-27 18:02:59 | 2019 花 女郎花 まだ7月ですが秋の七草の一つがまた開花しました。 フシグロセンノウ 日本特産の多年草で、本州の太平洋側の温暖な地帯に分布し、林床や樹陰に自生します。 オニユリ ナツズイセン咲きはじめです。 夏水仙はヒガンバナ科ヒガンバナ属の多年草、和名は葉がスイセンに似ていて、花が夏に咲くことから。 また、花期に葉がないことから、俗にハダカユリ(裸百合)とも呼ばれています。 コオニユリ ヤマユリ ウバユリ オトギリソウ ヒオウギ ハマボウ ミソハギ キンミズヒキ カリガネソウ 蜘蛛の糸
国指定史跡 岩倉具視幽棲旧宅 2019-07-27 05:47:44 | 京都の町 町屋・建造物 昨日国指定史跡 岩倉具視幽棲旧宅に行ってきました。私のブログ初登場です。 岩倉実相院近くにあることは知っていましたが、一般拝観しているとは知りませんでした。 たまたま乗車した市バスの吊り広告に「夏にめぐる明治のプライベート空間」の観光案内(京都市)があり、無鄰庵、旧三井家下鴨別邸、史跡・岩倉具視幽棲旧宅をめぐる企画が紹介されていました。 旧五百円札でもよく知られる岩倉具視は、明治維新における王政復古に力を注いだ幕末、明治期の代表的な政治家です。 文政8年(1825)に参議正三位堀河康親の次男として生まれたのち、天保9年(1838)に公卿岩倉具慶の養子になります。 安政元年(1854)孝明天皇の侍従となり、次第に朝廷内において台頭し、発言力を増してきました。 そのような中で公武合体をすすめるため、孝明天皇の妹、和宮の将軍家への降嫁を推進したことにより、尊皇攘夷派から佐幕派の巨頭と見られ、文久2年(1862)に攘夷運動の高まりの中で辞官落飾し、洛北の岩倉村に慶応3年(1867)までの間幽棲しました。 岩倉具視は元治元年(1864)に大工藤吉の居宅(現在の附属屋)を購入し、主屋と繋屋を増築して住居としたのが、この旧宅です。 周囲を塀で囲まれ、居宅は茅葺の主屋(約60㎡)と瓦葺の附属屋(約67㎡)、繋屋(約9㎡)から成っています。 他に敷地の南土塀に表門を構え、門を入って主屋南庭に通じる中門、池庭、離れの便所によって構成されています。 平成20年(2008)から4箇年をかけて京都市が国庫補助を得て、本格的な修理を行いました。 また、敷地の東側には、展示・収蔵施設である対岳文庫(国登録文化財)と管理事務所があります。 平成25年にこの史跡を長年にわたって守り続けてきた(財)岩倉旧蹟保存会から京都市が寄付を受け、保存していくことになりました。 国史跡指定年月日: 昭和7年(1932)3月25日 指定面積: 1,553㎡ 通用門 見学入口 鄰雲軒 建物の名前は昭和7年(1932)に東伏見宮周子(岩倉具視の孫) 玄関 主屋は2部屋です。各六畳 各部屋から見える庭園 大正ガラスを用いた障子戸 附属屋に繋がっています。 中庭 中門 表門 坂本龍馬ら幕末の志士もこの門から入ったのでしょう。 附属屋 こちらは日常の生活の場です。 部屋は四畳半が4部屋です。 こちらには上がれません。 水屋 消化用ポンプ(幕府支給) 外に井戸 遺髪碑 岩倉具視の遺髪を埋葬した塚です。 碑文には「命を狙われて岩倉村に隠れ住んだけれども、志を失わずに活動し、やがて王政復古の大号令に結実しました。明治維新後には具視は東京に移り住んだけれども、京都に来た際には村の人々と宴席をもって旧交を温めました。具視は、岩倉が創業の地であり、危機に瀕した際に助けてくれた村の人々にことを終生忘れませんでした。長男具綱と村の人々の計画で、遺髪を埋葬して後々まで具視の遺徳が偲ばれるようにと碑が建設されました。」といった内容が記されています。 手植え松 対学文庫 岩倉具視の遺品類などを収蔵するため、昭和3年(1928)に建設されました。 昭和初期を代表する建築家の武田吾一の設計です。武田吾一は京都市庁本館や京都府立図書館なども設計しています。 「対学」とは、具視の雅号で岳は比叡山を指し、その向いに住んでいるという意味合いです。 登録有形文化財に指定されています。 扉の上に「対学文庫」の額があります。 東伏見宮周子(岩倉具視の孫)の揮毫です。 中は撮影禁止です。 岩倉具視とその家族たちの資料などが展示されています。 表門と土塀 坂本龍馬や中岡慎太郎たちも訪れた門です。 岩倉具視は王政復古後、新政府の中心人物として、鹿児島の西郷隆盛、大久保利通、山口の木戸孝允らと活動します。 明治10年代には西郷、大久保、木戸らが相次いで亡くなる中、政府の中心となった伊藤博文とともに、明治16年(1883)に亡くなるまで政府の基盤を安定させることに尽力しました。 旧五百円札 探したらわが家にもありました。 見学料金 一般300円 休館日 水曜日
ウバユリ、紅筋ヤマユリ、レンゲショウマ、キレンゲショウマ、ハマボウ 2019-07-26 17:52:37 | 2019 花 ウバユリ 花が満開になる頃には葉が枯れることが多いため、歯(葉)のない「姥」にたとえて名づけられたそうです。 紅筋ヤマユリ もう最後です。 レンゲショウマ キレンゲショウマ ハマボウ コオニユリ オニユリ ナツノタムラソウ トビシマカンゾウ
猛暑 ムクゲいろいろ タイタンビスカス、モミジアオイ 2019-07-25 18:55:01 | 2019 花 昨日近畿は梅雨明けしましたが、昨日に続き今日も最高気温は35.5度の猛暑でした。 今年は梅雨の間気温が低く、30度を超えることが少なかっただけに、この猛暑は身体にこたえます。 暑い日は朝早いうちに散策にでかけるのですが、途中汗が吹き出してきます。 熱中症にならないように水分を多めに摂取しますが、焼け石に水のようです。 ムクゲの開花品種が増えました。 耳原花笠 日の丸 大仙祇園守 パール・ルージュ 鳥取花笠 紅孔雀 コエレステイス 角倉花笠 ザ・バナー ラージ・ホワイト モンストローサス ポンポンルージュ タイタンビスカスも品種がいろいろあります。 モミジアオイ
祇園祭後祭巡行当日 2019-07-25 06:32:28 | 2019 祇園祭 昨日祇園祭後祭巡行9時30分、「祇園会」旗先頭で烏丸御池を出発です。 橋弁慶山 くじ取らずで後祭の巡行の1番目です。 弁慶と牛若丸が五条大橋で戦う姿をあらわしています。 弁慶は鎧姿に大長刀を斜にかまえ、牛若丸は橋の欄干の擬宝珠の上に足駄で立ち片足を曲げ右手に太刀を持っています。 橋は黒漆塗で特に牛若丸の人形は足駄金具一本でこれを支えています。 弁慶と牛若丸の人形には永禄6年(1563)大仏師康運作の銘があり、また牛若丸の足の鉄串には天文丁酉(1537)右近信国の銘があります。 北観音山 「上り観音山」ともいわれています。 文和2年(1353)創建であることが町有古文書に記され、山舞台には楊柳観音像と韋駄天立像を安置する曳山で、飾屋根を付けたのは天保4年(1833)です。 胴懸類は17~18世紀の花文インド絨毯を用いていたが、近年前後懸は19世紀のペルシャ絨毯、胴懸東面はトルキスタン絨毯と、西面はインド絨毯「斜め格子草花文様」の復元品に変えています。 巡行時に柳の枝を差出しているのは観音懺法にちなみます。 鯉山 山の上に大きな鯉が跳躍しており、龍門の滝をのぼる鯉の奔放な勇姿をあらわしています。 前面に朱塗鳥居をたて山の奥には朱塗の小祠を安置し素盞鳴尊を祀っています。 山を飾る前懸、胴懸、水引、見送は16世紀にベルギー・ブラッセルで製作された1枚の毛綴を裁断して用いたもので、重要文化財に指定されています。 ベルギー王室美術歴史博物館の調査により、その図柄はホーマー作「イーリアス」物語の一場面で、トロイのプリアモス王とその后ヘカベーを描いたものといわれています。 八幡山 町内に祀られている八幡宮を山の上に勧請したもので、常には町会所の庭にお宮を祀っています。 山の上の小祠は総金箔の美麗なもので天明年間(1781~1788)の製作といわれています。 前懸は慶寿群仙図で元禄3年(1690)に寄進されたものを昭和62年に復元新調したものです。 見送は日輪双鳳人物文様の綴錦と藍地雲龍文様蝦夷錦があり、欄縁の彫金飛鶴は河原林秀興作と伝えられ、朱塗鳥居の上には左甚五郎作の木彫胡粉彩色の鳩が飾られています。 美術品として海北友雪(1598~1677)筆の祇園会還幸祭図屏風(京都市指定文化財)を所蔵しています。 黒主山 謡曲「志賀」にちなみ大伴黒主が桜の花をあおぎながめている姿をあらわしています。 山に飾る桜の造花は粽と同様に戸口に挿すと悪事が入ってこないといわれています。 前懸は萬暦帝即位の折の御服と伝えられる古錦を復元した五爪龍文様錦、胴懸は草花胡蝶文様の綴錦です。 見送は平成16年(2004)に牡丹鳳凰文様が復元新調されています。 平成12年に後懸の飛龍文様綿入刺繍が新調されました。 南観音山 「下り観音山」ともいわれています。 天水引は塩川文麟下絵の「四神の図」で近年復元新調されました。 下水引は加山又造の原画による飛天奏楽、見送は現在加山又造の「龍王渡海図」を使用しています。 平成22年には江戸時代より使用のインド絨毯後懸にかえて、イラン・ミリー工房製の「中東連花水辺に魚文様」の絨毯を購入。 そのほか17世紀製作の逸品で異无須織といわれる華麗なペルシャ金銀絹絨毯の旧前懸や年紀のあるもので日本最古(1684)のインド更紗旧打敷などを保存しています。 役行者山 山の御神体(人形)として役行者と一言主神と葛城神の三体を安置しています。 正面の洞に役行者が帽子・掛絡・経巻・錫杖を持って座し、葛城神は女体で手に台つきの輪宝を持ち、一言主神は鬼形で赤熊をかぶり手に斧を持っています。 水引は綴錦の名手とうたわれた西山勘七作の唐子遊図、前懸は牡丹胡蝶図と雲龍文様との三枚継ぎ、胴懸は雲龍波濤文様の綴錦、見送は金地唐美人図綴錦です。 山担ぎ手の法被は平成13年度に復元新調されています。 浄妙山 平家物語の宇治川の合戦から取材、治承4年(1180)宇治川の合戦に三井寺の僧兵筒井浄妙が橋桁を渡り一番乗りをしようとすると、一来法師がその頭上を飛び越え、「悪しゅう候、御免あれ」と前に進み出て先陣をとってしまったというものです。 御神体(人形)は一来法師が浄妙の頭上を飛び越える一瞬をとらえ木片の楔で一来法師の人形を支えています。 黒漆塗の橋桁にも数本の矢がささり戦さのすごさを示している。かつては「悪しゅう候山」とも呼ばれていました。 水引は波濤文様の彫刻、胴懸にはビロード織の琴棋書画図を用いていたが、昭和58・59年より、長谷川等伯原画の柳橋水車図にかえ、また、前懸・後懸は智積院所蔵の障壁画で、前懸は長谷川久蔵筆「桜図」、後懸は長谷川等伯筆「楓図」を原画として、平成18年・19年に新調。 見送はこの町に住んでいた本山善右衛門が苦心して織った雲龍文様の「かがり織」です。 浄妙坊が着用している黒韋威肩白胴丸は、室町時代の作で、重要文化財に指定されています。 鈴鹿山 伊勢国鈴鹿山で道ゆく人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現(瀬織津姫尊)を、金の烏帽子をかぶり手に大長刀を持つ女人の姿であらわしています。 後の山には赤熊で象徴した悪鬼の首が置かれています。 前懸は平成元年新調、黄砂の道と称する駱駝の図。胴懸の平成11年新調の桜図綴織と平成13年新調の紅葉図綴織は共に今井俊満氏原画です。 見送は現在は昭和57年新調の染彩ハワイの蘭花を用いています。欄縁金具は山鹿清華下絵の四季花鳥文様です。 鷹山 応仁の乱以前より「鷹つかい山」として巡行した山鉾のひとつです。 江戸時代に曳山となり、天明の大火で罹災、寛政年間に現在の「北観音山・南観音山」と同様の大屋根を持つ曳山として復活したが、文政年間1826年に大風雨により大破し、巡行を取りやめています。 その後幕末の蛤御門の変にて大半の部材が焼失。ただ、人形3体は焼失を免れ、後祭の宵山に居祭として、木彫の「鷹」「犬」と共にお町内にてお飾りしています。 2022年大屋根をつけた曳山として巡行参加を決定し、今年から「唐櫃巡行」として復帰しています。 見物の人から大きな拍手が起こりました。 大船鉾
祇園祭後祭巡行辻まわし 2019-07-24 16:57:43 | 2019 祇園祭 今日は祇園祭後祭のハイライト、山鉾巡行です。 山鉾は10基ですが、今年から文政9(1826)年の巡行以降休み山となっていた鷹山が唐櫃巡行で参加します。 巡行は烏丸御池から9時30分スタートです。 私が新町通りの山鉾町に着いたのは8時、各山鉾とも出発の準備は出来ていました。 南観音山 山鉾前で役員、曳き手、車方などが集まっています。 出発前の記念撮影をします。 北観音山 同じように準備万端のようです。 八幡山 ここも準備万端のようです。 私は辻まわしを行う新町御池に移動、撮影場所を確保します。 八幡山が来ました。 十数名の担ぎ手が山を持ち上げながら方向転換します。 小さな山鉾は簡単ですが、大きな山鉾はそういう訳にはいきません。 北観音山がやってきました。 これから方向転換します。 前の車輪の下に割竹を何枚も敷き、滑りやすくするためにその上に水をかけます。 音頭取りの掛け声で曳き手が車輪を滑らしながら山鉾全体を動かします。 この動作を3,4回繰り返します。 ほぼ辻まわし終えました。微調整は動かしながら車方がします。 南観音山もやってきました。 浄妙山が記念撮影しています。 黒主山も室町からやってきました。 烏丸御池付近には各山鉾が集まっています。 新町御池では南観音山が辻まわしです。 北観音山同様、割竹を車輪に敷き少しずつ動かします。 今度は大船鉾がきました。。 大船鉾も同じように辻まわしします。 鷹山も来たようです。 9時25分烏丸御池付近に全ての山鉾が集合しました。 前夜強い雨が降り、大雨洪水警報がでましたが、今日は朝から気温が上がり暑い巡行になりました。 京都市の最高気温は35.5度の猛暑。加えて近畿は梅雨明けしたそうです。 巡行本番の投稿は明日朝になります。