go to travel・go to eatという施策を巡って議論がかまびすしい。どこまで進めるかどこで退くか、ターニングポイントが見えにくい問題だから、テレビのワイド番組にとっては好材料だろう。専門外のコメンテーターが入り乱れて発言し視聴者を惑わせる。番組には、しばらく黙っていろ!と言いたい。そうもいかないから、新聞とスマホしか見ないことにした。
経済を回すことと、ウイルスを制することとは、専門領域即ち次元の異なる課題である。一方の専門家は他方に殆ど無知であろう。政治家の多くはその両方に無知で、政権担当者はそれぞれの専門家の意見を聴いて判断を下す。実は判断が難しい。総理と側近の官邸官僚にその力があるかどうか疑わしい。
このような事象に対しては、昔ながらの、試行錯誤を繰り返す方法しかないのではないか?それには、正確な情報が迅速に政権担当者に届かなければならない。来年9月にデジタル庁を創設するくらいだから、政権担当者が執務室で即断即応できるとは思えない。
明らかなことはコロナ感染者が全国で急増していることで、増加率が減る兆しがないことである。go toキャンペーンの経済効果即ち費用対効果が不明の今は、施策の成果は検証のしようがない。
感染者が増えた理由は明らかだ。go to travelとやらで、感染減少対策の医学的決め手を欠いたまま、個人の自主防御策に任せ、政府が人口の多い首都圏から地方への旅行を誘導したからである。
静岡・長野の2県で感染者が過去最大になったのは、明らかに東京・神奈川・埼玉の首都圏住民が近距離旅行に集中したからであろう。日本医師会会長は、談話でgo to travelが引き金になったという認識を示している。厚労省の専門家組織「アドバイザリーボード」(国語でなく外国語名にするときは腰が引けている証)は、「放置すればさらに急速な感染拡大の可能性がある」と発表した。この時点での「放置すれば」に、国民は聴く耳をもたない。キャンペーンに当たって、医学的手当ては必須で、放置はあってはならない。専門家なら政府に直言しなければならないことを言えないのは、手当ての決め手がないからであろう。
go to travel・go to eatは十分に練られ検討を経た政策でなく、個人の思いつきに発した応急の場当たり施策である。このような場当たり策は、当局者が状況に応じてアクセルを踏んだりブレーキを踏んだりと、微妙な神業的操作を要する筈だが、そのようなシステムが機能すべくもない。
コロナを医学的に制圧できない状況下で、経済のアクセルを踏み続ければ、感染者は増えるに決まっている。バランスを取ろうなどと、不可能なことを考えるのは間違いだと思う。感染減少に向けて、重点点にヒト・モノ・カネの資源を一挙に投入すべきだろう。
政府・自民党は、go to travel・go to eatという、政策とも呼べない単なる「思いつき」対策を反省すべきだ。そもそもキャンペーンに横文字を使う軽佻さが、語るに落ちている。成否不明で自信がなく、胸を張って政策らしく日本語でキャンペーンを打ち出せなかったのだ。前内閣のマスク配布同様の、誰かの個人的「思いつき」だったと見てよいだろう。
遡れば、3.11東北大震災以来、政治に長期的展望が失われ、前の安倍政権では、思いつき対策に終始する国政運営に傾いた。国民の人気を強く意識するポピュリズムが、マスコミを牛耳り国民を欺瞞し続けてきた。自治体もそれに倣って街おこし、村おこしの場当たり的イベントを競うように展開した。長期的展望を欠く政治は、一時は好いが結果として国民の不幸を招く。
2つの東京オリンピックのうちの、前のイベントは、投資の乗数効果が期待できる綿密・周到な歴とした政策だった。しかし今回のオリンピックは、老いた地方政治家の個人的思いつきである。その思いつきに、政府が乗り東京が乗った。「夢よもう一度」である。膨大な予算規模であっても、前回の高度経済成長前夜とは、投資の効果において問題にならない。経済を知らない老人の思いつきに発する短期イベントは、政策ではない。
政策というものは、智慧の優れた多数の人間が、周到綿密に検討して、精緻に練られた計画でなければならない。合理性に裏打ちされない思いつきは計画ではない。したがって政策たり得ない。
国民は、政策が自分たちの為に立案されたものか、それとも少数の政治家個人の自己承認欲求のために企てられたものであるか、鋭く嗅ぎ分けなければいけない。それには、健全なジャーナリズムの存在が欠かせないが、それはこの国では望むべくもない。戦前戦後を通して、日本のジャーナリズムは政権に対する批判精神を発揮したことはない。批判を誹謗と受け止める国民性は、健全なジャーナリズムを育て得ない。そのような風土では、権力者の思いつきが跋扈する。全体主義・独裁政権はポピュリズムを志向する。したがって政治が場当たりになるのは必至である。
姑息な思いつき政治は、官僚をはじめ専門家による政策の立案機能が不全に陥っている証左で、それは権力が知性によってコントロールされていないからである。反知性でなく、無知性が政治を壟断しているのが、思いつき政治である。
思いつき政治は国民の生活を守らない。政治も最終的には、個人の判断に拠っている。民主主義でも、判断力に缺ける者を国のリーダーに選ぶ危険があることを、歴史は大戦前のドイツと現代アメリカで実証した。民主主義に安住していれば、彼の国々の轍を踏む恐れは多分にある。
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